W・E・バトラーの『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』について



先日、『魔法修行 -カバラの秘法伝授-』(平河出版社 W・E・バトラー著 大沼忠弘訳)を読んでみた。


昔、買っておいて本棚にしまったまま手つかずで埋もれていた本である。


といっても本棚のかなりの部分がまだ読めていない本だらけであり、新しい本を買うならば、これらのまだ手つかずの本を少しでも読んだ方がいいと思ったからである。


知識欲旺盛で、本好きの人間は、本を読む前に次々と面白そうだと思った本を購入して、家の中に積み上げてしまう。


それで家のスペースが、それらに埋め尽くされて狭くなっているが、実はそれらの読んでいない本を置いておくスペースの場所代というのはしっかりとかかっている。


それで、最近はミニマリストなどを実践する人もおり、家にある本を全て処分するなどして、家の中を何もない空間にすることが流行っているが、その方が経済的にも有利であり、今流行の掃除、片付け(断捨離)によって、精神的にも変容することが可能だと言われている。


但し、これは本好きな人にとっては非常に難しいのである。


本を本棚に並べておくだけで、読んだ気になるというか、幸福感を感じるからである。


アマゾンでKindleで、電子書籍を購入すれば、物が溜まらないということもあるが、実際の紙の本の方が、満足度が高く、なるべく紙の本を購入して読みたいという気持ちもある。

ミニマリストや片付けを実践する人は、本は全て片付けの対象らしいが、本好きの人には、それは、中々受け入れられない。


思い出した時にいつでも手に取れるように本を身近においておきたいのである。


但し、紙の本はずっと家に存在しつづけることで、スペース代がかかり続けることで、購入した後、それにお金がかかり続けることを意味しており、非常に贅沢なものとなっている。


新しい本を買う前に今まで、購入済みの本を少しでも読んで行かないといけないということから、この埋もれていた本を読んでみた。


おそらく2000年前後の20年前に買った本である。



本の冒頭で、魔術の最初の訓練として、夜寝る前にその日に起こった出来事を逆向きに想起しながら辿っていくという逆向き瞑想という実践を勧めており、過去-現在-未来という時間継起に従って考える知性の通常的習慣を変えるのに役立つと書いてある。



実際、瞑想の効果として、何年も前の出来事と昨日の出来事が同じように感じられたり、現象世界(物質世界)の時間軸というものが、それ程、現実的に強固なものだと感じられなくなっていくことがある。



時間軸というのは、物質的世界のルールである為、形而上の世界への感受性を増していく場合、時間軸というのは、あまり重要ではないということになる。



また本の中で、視覚化、イメージ形成、イメージ想起といったことが語られている。



魔術とは、視覚化のことである。




われわれは普通、視覚化を文字通りに受け取り、視覚から生じた像を形成することだと思っているが、オカルト的な視覚化とは、五感すべてにわたって感じ取ったさまざまな印象から成る複合的心象を形成することを意味する。一例をあげよう。たとえば、ナイアガラの滝の心像をつくれと要求されたとしよう。このとき君は、この滝のありさまを視覚的に思い浮かべるだけでなく、その音、その水の味、その臭い、体にかかる水しぶきの感じを、ありありと思い浮かべなければならない。

(『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』P.42より引用抜粋)


例えば、自己啓発セミナーなどでは、一般的に自分が得たいと思う目標やゴールを鮮明に具体的にありありとイメージすることが重要視されるが、これらも一つの魔術の訓練の一種だと思われる。



この本を読んでいて非常に興味深かったのは、越えられざる輪(リング・パス・ノット)と霊的枢密院について記述された以下の部分である。




(略)

この重要な点を考慮に入れた上で、瞑想訓練にもどろう。心の中にイメージを建て、利用したかったら、ぜひとも観察の習慣をつけなければならない。先にいったごとく、これは最上の方法なのである。しかし、気をつけなければならないことは、この観察訓練を、他人の私語を「盗み聴き」する手段として利用してはいけないということである。こうしたことが起こった例を知っている。この弟子は盗み聴きをとがめられて、実は音を聴きとる訓練をしていたのだと慇懃無礼に答えたという。これは些細なことだと思うかもしれない。しかし、いかなる状況下であれ、心霊的手段や物理的手段を用いて、他人の私生活を覗きこんではならない。このことは、きわめて大切な点だ。

この禁令は聖書の中にある原理に基づいている。そこには「隣人の境界石を動かすものは罰せられるべし」とある。原始的な生活の純粋に物質的、農業的状況の中では、このことは全く危険な所業であるが、もっと精神的な意味で、今でもこの危険は存在する。別の大きな「結社」の中で、この禁令は「表面地上権を破るものは罰せられるべし」といいかえられている。

「この境界とは何か、境界石とは何のことか」とたずねるかもしれない。それに答えるためには人間の構造について、ある程度詳しく考察しなければならない。われわれは、どうしても心を頭蓋骨という箱の中に納まっているものと考えがちである。しかし、それについては何も確かなことを知っているわけではない。実をいえば、心は体のあらゆる部分にいきわたって存在しているのである。もっと正確に言えば、体の中に心があるのではなく、むしろ心の中に体があるのである。心の領域は体のまわりに拡がっている。ちょうど、磁界が目に見える鋼鉄の磁石のまわりに拡がっているのと同じである。

われわれ一人一人のまわりに拡がっている力の領域を「オーラ」と呼ぶ。この自分自身のまわりにある特殊な力、つまりオーラの中で、仕事をしなければならないのだ。その境界線が「通過禁止の輪」と名づけられている。この言葉は秘教の伝統の中で通用しているものだが、宇宙の境界をも意味している。というのは、われわれ自身の小宇宙が、真の「自己」である、かの「霊」の意識の中で保持されているように、全宇宙は「永遠なる神」の意識の中で保持されていると教えているからである。

 それゆえ、「通過禁止の輪」に注意を払わなければならない。決して他人の作業場を侵してはならないのである。考えてみると分るだろうが、この根本原則はきわめて広い範囲に該当する。君はこの法則を君の哲学全体にわたって確立する必要がある。君の中に眠っている隠れた能力を活用し始めるにつれて、それを「人々に影響を与える」ために利用したり、君の利益のために働かせようとする強い誘惑に駆られるようになるだろう。

  現在、私益のために他人を動かす方法を教えようとする本が、おびただしく発行されている。それを実行することは、洋の東西を問わず、秘密結社の中では固く禁じられている。もし、この境界石の規則を犯したら、私の弟子たることをやめなければならないときがくることを覚悟してもらいたい。君の作業の動機は、要するに「私は奉仕するために知りたいのです」ということだとつねに想い起してほしい。君が他人の幸福のために君の能力を使う必要が起こったら、その機会が与えられるだろうが、そのような力を当人の同意を得ないで使おうとすれば、必ず危険にさらされるにちがいない。訓練のもっと後の段階で君はもう一度この法則に直面するときがこよう。これは根本法則であって、決してゆるがせにできない原則だからだ。

(『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』平河出版社 W・E・バトラー著 大沼忠弘訳 P.67~69より引用抜粋)



越えられざる輪(リング・パス・ノット)とは、他人との境界石、個人の周りに拡がっている力の領域「オーラ」を侵してはいけないという原則で、魔術のマスターとか、オカルト的な実践者においては、他人の作業場を侵してはならないという倫理的な決まり事があるようである。


もっと一般的に言えば、他人の自由意志を侵害してはならないということであり、人を操作してはいけないということである。



但し、マーケティングの本などではどのようにすれば人に物を買わせることが出来るかといった購買心理学的なことが研究され、実践されていたり、また新興宗教が、信者を獲得するのに利用されたりする。


はっきりと意識的にではなくても無意識的に使われていたりする。



もっと酷くなれば、洗脳の技術などとして応用されている。



そうしたことを全て禁じているのが、越えられざる輪(リング・パス・ノット)という規定である。



こうした話は他の本に記されていたのを見て、知ってはいたが、こうした魔術の本の中で、真面目に語られているのを見て驚いた。




そして、この本の終わりの部分で、霊的枢密院についても語られている。




(略)

これから、入会を決心すれば道場の中で君が行なうことになる作業について、多少の示唆を与えておきたい。そのためには、秘密結社の仕事について概略的な知識を与えておく必要がある。何よりもまず、君に警告しておかなければならないことは、道場が、オカルト小説の作家たちがこぞってその著書に書いているような恐ろしい奇怪な仕ぐさにふけっていると考えてはならないということだ。もちろん、秘教作業の比較的見世物になりやすいところだけに集中して作業を行なっている小さな団体もたくさんある。

 しかし、一般的にいって、道場の仕事というものは表面の見かけの下に潜りこみ、そこで行なわれている本当の仕事を理解し、同時に、道場で扱っている見えない諸力の強い力を多少とも実感するようになるまでは、むしろ単調なものなのである。

ここで、私はできるだけ簡単に結社の仕事について一瞥を与えておきたい。これから私が語ることは、今のところ君は理解できないと思う。何かが分るようになるまで、おそらく道場で数年間は仕事をしなければならないだろう。だから、今は少なくとも私がいおうとしているところを信じていただきたいと思う。

ある強力な「霊的枢密院」というべきものが存在する。これは地上的な時空のヴェールの彼方にあるが、この地球の真の政府なのである。そのメンバーは世界中の経典に登場してくるような「霊的完成者たち」であり、ある巨大なヒエラルキーのもとに組みこまれている。それは強力な火と燃える叡智、つまり「玉座の前の霊」「監督者にして聖なる一者」からさまざまな霊的存在の段階を経て、それらに仕える普通の男女にまで及んでいる。実は、この連鎖はさらに下に拡がって、四大の精が奮闘している物質的現象にまで及んでいるのだ。
 正しく構成された「密儀」の道場では、これらすべての段階が再現されている。「絶対的な一者」ですら祈りの対象になり、その祈りに答えるものとして、内なる次元に「現前の形」をまとって出現するとされている。

 道場の入門儀礼を受けると、君はこの生ける光の連鎖の中に導かれる。そうすれば君は、これほどの特権を受けたわれわれが、この光への奉仕のために募集しようとした人々の価値を、なぜこれほど力説するかが分るだろう。

 君が「密儀」の門前で目隠しをして立たされたとき、君は何を要求されるだろうか。君を指導する係の者にささやかれながら、君はその扉を三度ノックする。すると、中から「ノックしているのはだれだ」。という声がする。君は道場に入って、「師から教えを受けたいと願っている者です」と答える。すると、その声は厳しい問いを発する。

「なぜお前はわが道場に入り、わが師から教えを受けたいと願っているのか」。

 この問いに対して答えは一つしかない。君の係がそっとささやいてこう教えてくれるはずだ。

「私は奉仕するために知りたいのです」。

これを君の口から出すと同時に、心にもしっかり銘記しなければならない。二度繰り返すことは許されない。さもなければ入門儀礼は失敗してしまうだろう。たとえ道場に入ることができても、同志たちから目をかけてもらえず、当然のことながら、その結社から締め出されてしまうだろう。生きた有機体から異質なものを取り除くことは「自然」の働きであるが、それと同じである。このことをよくよく考えていただきたい。口で偽りながら入るよりは、神殿の扉から引き返した方がよいのだ。

君が道場に入ろうと決心すれば、その規律を受け入れる準備をしなければならない。君はすでにかなりの教えを受け、基本的な魔法の作業に習熟しているのだから、道場における基本的訓練はとばしてもよいと感じるかもしれない。そう考えたとしたら失敗するだろう。道場における基本訓練の目的は、同志にある実際の教えを与えるためばかりではなく、同時に、最も重要なことだが、新入会員を結社の集合精神の中に組み入れることなのである。


(『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』平河出版社 W・E・バトラー著 大沼忠弘訳 P.67~69より引用抜粋)


この霊的枢密院とは、霊ヒエラルキーのことである。



初期の人類の上に僧王として君臨し、アトランティス時代などに人類に科学技術などの恩恵を与えて統治していた人々である。



こうした概念にこの『魔法修行』といったタイトルの本の中で出会えるとは思わなかった。




W・E・バトラーは、ダイアン・フォーチュンと共に西洋魔術の実践者で、『黄金の夜明け団』に参加したり、ダイアン・フォーチュンは『内光友愛会』といったものを創始したようである。



西洋魔術というと、おどろおどろしい印象で、性魔術とか、悪魔教的な不道徳な香りがぷんぷん漂ってくる分野である。



『黄金の夜明け団』には、アレイスター・クロウリーという悪魔の代名詞的な人物も加入して、色々問題を起こしたという経緯もある。




何故、そうなのだろうかという一つの疑問への回答が以下の記述に見られる。




(略)

ご存知のようにわれわれの流派はヘブライの秘教の伝統を受けつぐ「カバラ」哲学に基づいている。その根本教義の一つは、われわれが「神」と呼ぶ永遠なる存在者はこの宇宙を「創造した」ばかりではなく、今もあらゆる現象を通して顕現しており、あらゆる段階の物質は、実は、「神」の本性の具象的表現であるということである。だから、物理的次元も、普通「高い次元」と呼び習わしているもっと精巧な世界と全く同じように、「霊的」な世界なのである。われわれの伝統では、この高い次元を「内なる次元」と呼んでいる。これによって、霊と肉とか永遠にあい反するものだという誤った観念を一掃しているのである。

この誤った観念がいろいろな秘教に害毒を流してきた。この疫病は、その歴史全体を通してはびこっており、「マニ教的異端」という形をとって、初期のキリスト教会に入りこみ、その後のキリスト教史を通じて時々、表に現われている。カトリック教会はこれを糾弾した。しかし、その残傷は長く尾を引いて、宗教改革後、プロテスタント教会がローマと決別するに及び、新しい宗教結社の形で再び世に現われた。
しかし、われわれは、どのような段階のものであれ、物質とは「永遠なる神の輝ける衣」であるとみなす。それは生ける衣、「神」の一部、もっと適切にいえば、無限なる生命の直接的表現なのである。とすれば、われわれの物理的肉体や、われわれを取り巻く物体は、みな等しく「聖なるもの」であり、決して軽蔑されるいわれはない。特にこのことを取り上げたのは、君の出発に当たって「高い」と「低い」の二元論に心が惑わされないようにするためである。「永遠なる神」が、あらゆる事物の中に現れていることを、常に実感するように努めるのだ。事実、天上と地上、水中と地下、あらゆる事物が「神」の現れであり、聖パウロがギリシア詩人を引用して語ったように、「神の中にわれわれは生き、動き、存在する」。これは疑うべからざる真理なのである。


(『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』平河出版社 W・E・バトラー著 大沼忠弘訳 P.65~67より引用抜粋)


物質を神の衣として、神聖視し、マニ教、すなわり、グノーシス主義を「マニ教的異端」として排斥しているのである。



グノーシス主義とは、物質と霊の二元論であり、霊の方に高い価値を置いている。



この世界を「悪の世界、悪の宇宙」として、どこかに「真の神」が存在し、「真の世界」が存在するはずだと考える。



悪の世界は、物質で構成されているので、物質も悪であり、物質で造られた肉体も悪であり、一方で、「霊」あるいは「イデアー」が「真の存在」であり、「真の世界」であると考える。



物質の世界を悪とする為、極端な禁欲主義的な生き方を説くような考え方になったようである。



4世紀の『神の国』を著した神学者アウグスティヌスは、マニ教の禁欲主義に惹かれていたようである。



このグノーシス主義は、新プラトン主義のプロティノスが唱えた流出説の影響を受けており、この世界が影絵のようなもので、イデアが真実在であると考えたプラトンのイデア論の影響を強く受けている。



流出説とは、以下のような思想である。



完全なる一者(ト・ヘン)から段階を経て世界が流出して生み出されたとする思想。高次で純粋な世界より、低次で物質的な混濁に満ちた世界へと流出は進み、最終的にこの世界が形成されたとする。この流出過程を逆に辿ることができれば、純粋で精神的な高次世界へと帰還して行けるとプロティノスは考えた。またプロティノスは生涯に幾度かのエクスタシー体験をしており、それは、まさにこの精神における「帰還」であったとされる。

(wikipedia 流出説より引用抜粋)


この流出説は、物質から霊への上昇の弧と、霊から物質への下降の弧があると考える神智学の教えに近いものがあると思われる。



ナグハマディー写本には、グノーシス主義の教えやヘルメスの思想や、プラトンの『国家』抄訳が含まれていたと言われている。



この写本に含まれていた新約聖書外典『トマスによる福音書』は有名である。



原始キリスト教は、こうしたグノーシス主義の教えの影響を受けていたようである。



イエスが属していたユダヤ教のエッセネ派は、俗世間から離れて禁欲主義的な生活を送り、宗教的清浄さを徹底しようとした人々で、そうした事実とも合致している。



ヘルメス・トリスメギストスが著したと言われるヘルメス文書というものがあるが、新プラトン主義やグノーシス主義の教えが含まれているようである。




このように考えると、神智学の教えというのは、プラトン哲学、新プラトン主義、グノーシス主義、マニ教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教の影響を受けており、それらを重視している。



一方で、『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』の中で示しているW・E・バトラーの考えは、物質とは「永遠なる神の輝ける衣」であり、「われわれの物理的肉体や、われわれを取り巻く物体は、みな等しく「聖なるもの」であり、決して軽蔑されるいわれはない」となっており、物質を礼賛している物質主義の思想なのである。



物質よりも霊の方が優れているといったことも言っておらず、物質と霊とは等しく神の衣として対等なのである。



マニ教やグノーシス主義を否定し、この世の物質を謳歌しても構わない、むしろ、積極的に聖なるものである物質を謳歌すべきだとする考え方である。



おそらくこれがカバラーの思想であり、西洋魔術の基本的な考え方なのだと思われる。



従って、悪魔教に堕落しやすいと言える。



例えば、イルミナティーの創始者であるアダム・ヴァイスハウプトは、『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』(アダム・ヴァイスハウプト著、副島 隆彦(解説) 、芳賀 和敏 (翻訳))の中で、マニ教や新プラトン主義、グノーシス主義などの流出説を完全否定している。


物質から霊への上昇の弧と、霊から物質への下降の弧といった形而上学を一切、否定している。



人権や民主主義といった価値は、尊重しているが、神秘主義的、秘教的な価値を一切否定しており、主に政治的な革命を起こす為の政治結社の性質が強い。



非常に物質主義的であり、革命のためならどんな手段をとってもかまわないという思想で、非常に悪魔的である。



ロシア革命などはフリーメーソンが暗躍したと言われているが、主にこの政治的権力を勝ち取るためなら手段を選ばないという政治に特化したイルミナティーの影響である。




つまり、西洋魔術=悪魔教は、カバラーやイルミナティーのアダム・ヴァイスハウプトの思想などの影響で生まれているように思われる。



物質主義的で、権力闘争的であり、現世を肯定し、物質の価値を重要視している。



物質への執着や誘惑を断ち切れない妥協から生まれた思想のように見える。




そして、カバラーの物質を謳歌する思想と、イルミナティーの思想のブレンドした思想に近いのが、共産主義の思想である。




W・E・バトラーなどは、それでも越えられざる輪(リング・パス・ノット)や、霊的枢密院について記すような真面目な探究者であるが、インドにいる間にインドの神秘主義者に師事し、後に神智学協会の第二代会長に就任するアニー・ベサント(英国フリーメイソンの国際組織レ・ドロワ・ユメー創設者、インド国民会議派議長)にも接触して、一緒に勉強したいと申し出たが、アニー・ベサントは、丁寧に断ったそうである。



おそらく、西洋のカバラーの思想と、神智学の思想とは、物質の考え方について、根本的に相入れないと考えたのかもしれない。



直観的に自分たちとは、カラーが違うと感じ取ったのである。




然し、W・E・バトラーは、それでも秘密結社に参加するのは、「奉仕」のためでなければならないと考えるような非常に真摯な所も持っていたようである。



西洋魔術を実践する人の中にも神智学を並行して学習したり、実践する人もいたようである。




必ずしも西洋魔術=悪魔教ではないが、カバラーの影響で、西洋魔術の方が、悪魔教に堕落しやすい要素があるのだと分かる。





アリス・ベイリーの著作を読んでいて、どこに書いてあったか忘れたが、ユダヤのカバラの教えは、古い教えであり、ヒンドゥー教のバガヴァッドギータ―の教えの方が、新しい教えであると記されていた。



バガヴァッドギータ―の教えは、ヒンドゥー教の最高峰の教えで、物質界への執着を一切断ち、それらをマーヤーとして退けて、結果に執着せずに行為を為せとする教えである。




カバラに代表されるようなユダヤ教の古い教えが、現世を肯定し、物質を礼賛した結果、資本主義を強力に推進する原動力となっていると考えられる。




ユダヤ教の古い教え、物質礼賛の教えが、資本で利益を生み出し、利益を資本に組み込んで更に利益を拡大する資本主義を生み出したのである。




仏教やヒンドゥー教からは資本主義が生まれようがないのである。




そして、キリスト教も利子を否定する為、キリスト教から資本主義が生まれようがないことが分かる。




ニーチェによれば、キリスト教とは、世俗化されたプラトン主義であり、イデアという概念が、神に置き換わっただけの違いである。




キリスト教も神や天国といった形而上の価値を至上のものとするのであり、元々は流出説で、現世というものは仮の身の置き場所に他ならなかった。




従って、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教は、資本主義を生み出すことはなく、ユダヤ教、カバラーの思想こそが、資本主義を生み出したと考えられる。




西洋から入ってくる自己啓発セミナーなどで、物質的な豊かさと精神的な豊かさの両方を手に入れるように説くのは、ユダヤ教のカバラーの教え、西洋魔術の教え=悪魔教の教えではないかと思われる。




『物質とは「永遠なる神の輝ける衣」であるとみなす。それは生ける衣、「神」の一部、もっと適切にいえば、無限なる生命の直接的表現なのである。とすれば、われわれの物理的肉体や、われわれを取り巻く物体は、みな等しく「聖なるもの」であり、決して軽蔑されるいわれはない。』


(『魔法修行 ―カバラの秘法伝授―』平河出版社 W・E・バトラー著 大沼忠弘訳 P.65~67より引用抜粋)



本来、宗教というものは、物質よりも霊の価値の方を至上のものとするため、蓄財して物質的な繁栄をやみくもに追求することはなく、蓄財が後ろめたかったり、どこかで制限がかかるはずである。




資本主義的な隆盛というものは、どこかで、ユダヤ教、カバラ的な思想信条の精神的な基盤、信念、気風、習慣がなければ不可能ではないかと思われる。




副島隆彦氏によれば、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、マックス・ヴェーバーが書いているプロテスタントの清貧と勤労、禁欲主義が資本主義をもたらしたというのは、間違いであるという。



小室直樹も何故、プロテスタンティズムの禁欲主義が、資本主義的な隆盛をもたらしたかを全く説明出来なかったというのである。



本当は、ヴェルナー・ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』の中で指摘しているように資本主義的な隆盛は、ユダヤ教の慣習、ユダヤ人の恋愛と贅沢が元になっているという。



それを更に根本的な宗教思想にまで、辿っていくと、流出説を否定したカバラ思想、イルミナティーの思想にまで辿り着く。




以前、私は題名は忘れたが、ある自己啓発の教師の著作を読んでいたら、そこに経済的に豊かになりたければ、神智学をやってはいけないと書いていた。



ブラヴァツキーが、エリファスレヴィーやエジプトのヘルメスの思想や、世界中のあらゆる神秘主義を探究した後、最終的にインドに神智学協会の本部を設立したのは、西洋魔術やカバラ思想よりも東洋のヒンドゥーイズムや仏教により高い価値を置いたということである。



神智学は、グノーシス教、新プラトン主義など、流出説の影響を受けており、物質よりも霊の価値を重視する為、蓄財には向いていないのである。



それで、自己啓発の教師は、神智学だけはやってはダメだと解説したのだと思われる。




今回、この本を読んでみて、西洋魔術の流れと、神智学の違いというものが、よく分かった。



ダイアン・フォーチュン、W・E・バトラーは、ユダヤ教の古い教え、カバラーの伝統に沿って、『黄金の夜明け団』とか、様々な秘教結社を生み出し、またフリーメーソンやイルミナティーもその西洋の伝統に近い。



ルドルフ・シュタイナーは、西洋魔術とは関係ないが、神智学協会で活動し、後に神智学協会から距離を置き、人智学を創始した。




ブラヴァツキーは、西洋魔術やカバラ、ヘルメス文書など様々、遍歴した後、ヒンドゥー教、仏教を重視したと考えられる。



カバラーなどユダヤの古い教えの影響を受けていて、物質を肯定し、霊と対等なものとして重視するか、グノーシス主義、新プラトン主義などの流出説のように宇宙を物質から霊への上昇の弧と、霊から物質への下降の弧と考え、物質よりも霊を上位に置くかどうかである。




共産主義は、無神論で、物質こそが大事であり、また暴力革命論など、目的のためには手段を選ばない。



その辺りは、カバラー+イルミナティーといった印象である。



アリスベイリーの著作の中で、ロシア革命やユダヤのシオニズム運動などは、物質性の表現だと記されている。



イスラエルのシオニストがアメリカの軍事力を利用して、パレスチナ、中東に混乱を引き起こしたのが、物質性の表現だとすれば、今は、中国共産党の中で、物質性が顕現しているのではないかと思われる。



ルドルフ・シュタイナーによれば、確か紀元前3千年頃に中国で、サタン(アーリマン)が受肉したと記されている。
ルドルフ・シュタイナーによれば、紀元前三千年紀の初めに中国で、ルシファーが受肉したと記されている。



中国のウイグル人の強制収容や臓器売買、南沙諸島の軍事拠点化、尖閣諸島への挑戦、軍事力の大幅増強、アフリカへの影響力拡大などを見ると、中国で、物質性が顕現しているのではないかと思える。



またシリコンバレーのGAFAや中国の深センのテクノロジー企業が、人類の未来をもたらしてくれるのか、非常に微妙である。



ユダヤ教の古い教えやカバラ―思想に基づいた資本主義システムの中で、強力に推進されているデータ至上主義の企業群が、人類の希望の光なのか、それはまだ分からない。




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コメント

コメント一覧 (2件)

  • いつも拝見させていただいております。
    興味深い記事をありがとうございました。

    「ルドルフ・シュタイナーによれば、確か紀元前3千年頃に中国で、サタン(アーリマン)が受肉したと記されている。」シュタイナーがそのように言っていたのですか?詳しく教えてください。

    ハリー王子の皇室離脱やアメリカのTVでのスキャンダラスな発言等、メーガンメルケルによる(悪?)影響で英皇室が揺さぶられています。一方日本では小室氏と真子さんの結婚問題があり、何か不穏な感じがします。メーガン、小室氏の鑑定をHP上でお願いします!
    • 『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』ルドルフ・シュタイナー著 松浦賢訳 イザラ書房の「第3章 ルシファーとアーリマンの受肉について」(P.95~)の中に書かれていますが、確認した所、ルドルフ・シュタイナーが紀元前三千年紀の初めに中国に顕現したと主張しているのは、ルシファーでした。

      一方で、シュタイナーは、アーリマンは、西暦三千年紀に西洋に受肉すると書いてあります。

      西暦三千年紀とは、2001年~3000年の間です。

      情報が間違っており申し訳ないです。本文の方も訂正します。

      アーリマンの受肉が、西洋社会で2001年以降起こるという話は、最近のデータ至上主義の科学や、生物学などが動物や人間を電気的刺激と反応による機械のように見なす傾向などと関係しているかもしれません。


      小室圭氏と眞子様は以前、結婚すると予想しています。特にその予想は変更していません。現在、進行中のことだと思いますが、2020年に結婚すると予想していた為、その時期を過ぎてしまいました。おそらく山羊座への木星と土星のトランジットで結婚するのであれば、4月6日から水瓶座に移動した木星が再び、山羊座に逆行する2021年9月14日以降(その2ヶ月前を含む)に結婚する可能性はあります。

      木星が逆行する場合、やり残していた仕事をやり遂げるかのようにそのタイミングで、物事が成就することがあるからです。

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