努力をしなければならないのでしょうか

ジョーティッシュでは運命がほとんど決まっており、僅かしか変えることが出来ないと考えています。

そうすると「運命が決まっていて変えられないのであれば人は努力しなくてもよいのか」といった質問をする方が時々います。今までも何人かの方からそうした質問を受けたことがあります。

こうした質問を発する人は、どうせ運命が決まっているのであれば努力をしなくてもいいのではないかと考える一方で、やはり努力をしなければいけないのではないかと、どこかで不安に思っている訳です。

つまり、努力をしたくないと思う一方で、努力をしなければならないのではないかと一方で思う心理は、二つの衝動がせめぎ合って、葛藤している状態なのです。

これを人間の二重性と呼びます。

この場合、運命が決まっているのであれば出来れば努力をしたくないと、考えているのが肉体人間(パーソナリティー)です。

そして、努力をしなければならないと、努力することへの衝動を喚起しているのが魂なのです。

魂は常に真・善・美を志向し、それを追求する衝動を持っています。より善くなることを志向しています。

肉体人間は惰性を喚起し、快楽を追及することを求めます。

この二つの方向性の衝突が「努力をしなければならないのか」という問いとして出てくるのです。

これは道徳に関しても同様です。

不道徳な行為に浸る時に一抹の不安を感じるのは、その魂の衝動と惰性との葛藤が生じるからです。

人間が理性の萌芽を備えて動物から分離していく過程で、この葛藤が始まりました。

アダムとイブの原罪の物語です。知恵の木の実をかじって善悪を知るものとなったというのはそういうことです。

運命学的には、運命を変えることは、ほとんど出来ないと考えられているにも関わらず、魂と肉体人間のどちらの欲求に従うかということは、常に人間の選択にさらされています。

従って、毎回、魂の衝動に従う人と、毎回、肉体人間の衝動に従う人がいた場合、長い間にはそれが積み重なって大きな違いとなってきます。

そして、努力をする場合、それが正しい価値に対して努力しているかといった方向性も重要です。

努力というのは、単に「力、エネルギーを投入して頑張る」といった意味です。

方向性は意味していません。

正しくない方向への努力であれば、それは盲目的な努力であり、それは無駄になります。

無駄というよりもマイナスになるかもしれません。

但し、不活動や怠惰よりはそれでもましなのです。

正しい方向への努力、つまり、真善美へ向けての努力が最もよいものですが、それはサットヴァ(純性)と呼びます。

正しくない方向への努力も伴う、盲目的な努力は、ラジャス(激性)と呼びます。

不活動、怠惰をタマス(鈍性)と呼びます。

タマス(鈍性)が最もよくないものであり、ラジャス(激性)はタマス(鈍性)よりも良く、サットヴァ(純性)が最も良いものです。

ですから、「人は努力しなければならない」というのは、最も基本的な正しい教えです。

これはバガヴァッドギータの中で、御者に扮したクリシュナがアルジュナに諭した教えです。

仮に正しくない方向へ努力していたとしても、正しい方向に気が付いた後は、瞬く間にそれを軌道修正する力も持っています。

そうした点で、タマス(鈍性)よりも、ラジャス(激性)の方が優れています。

何もしないこと(不活動)は、間違えることもなく、それ故、間違いから学ぶこともありません。

失敗は成功の元という昔からの諺も、成功哲学などで見られる「この世の中には失敗などない」という考えも、このラジャスの価値について語ったものだと思います。

とにかく行動する人は、失敗から学ぶので、この世の中には失敗などないということです。

そういう意味で、とにかく「努力しなければならない」というのは、正しいのです。そこには間違いはありません。

但し、「努力しなくてもよい」という教えもあります。

「人は自然体のままでいいんだ」という考え方とセットで教えられる場合もあります。

これは何を意味しているのでしょうか。

この教えは、努力をするのはよいが正しい方向への努力でなければ意味がなく、害になるという教えなのです。

これはラジャス(激性)の段階にいる人への教えです。

例えば、夜眠れない不眠症の人がいるとします。

その人は寝ようとして頑張ると、ますます眠れなくなります。

そういう時、眠らなくてもいいんだと、眠ることを諦めた時に眠りがやってきます。
悟りを開こうとしている人がいるとします。

悟りを開こうとして力んでいるうちは、悟りを開けません。

悟りを開くことなどどうでも良くなった時、つまりは自分の自我に意識が集中しなくなった時に悟りがやってきます。

そんなことが言われたりします。

このように努力しても仕方がない領域、正しい努力でなければ意味がない、害になるというステージがあります。
それは、ラジャスの段階にいる人に教えられなければなりません。

例えば、富や名声を得れば幸せになれると思い込んでいる人がいるとします。

その人はがむしゃらに頑張って富や名声を掴みとりましたが、何か満たされない不幸を感じているとします。

そうした人は、努力の方向が間違っているという認識になります。

ラジャスの段階にいて、もう少し質の高い教えを必要としている訳です。

そういう段階にいる人は「富や名声があっても幸せになれる訳ではない」「本当の幸せとは何か」という教え、あるいは気づきが必要になります。

然し、富や名声を得たこともないし、それに向けて努力もしたことがない人が、

「富や名声があっても幸せになれる訳ではない」「本当の幸せとは何か」という教えや認識に辿りつくことは出来ません。

ですから、タマス(鈍性)の段階の人への教えが、「努力しなければならない」という教えです。

これが最も基本的な教えです。

その次のラジャスの段階の人に対しては、努力の方向性を問題にします。

従って、「努力しなくてもいい」とか「自然体で生きなさい」といった教えになります。

親鸞和尚が、 「善人なほもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」と言いました。

善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから悪人は言うまでもなく極楽へ行ける、といった意味です。

この逆説的な教えは何を意味しているのでしょうか。

私の考えでは、これは明らかにラジャスの段階にいる人への教えではないかと思います。

タマス(鈍性)の人への教えは、「善人でなければ極楽へ行けないので極楽に行くために善人になるよう努力しなさい」という教えでなければならない訳です。

そういう形式でなければなりません。

然し、逆説の体裁を取っているのは、これは善人になるように努力している人への教えなのです。

善人になるように努力している人というのは、自分の徳を強く意識している人のことであり、自我に集中しています。

従って、そのことがむしろ善人になることを妨げている訳です。

善人になろうとしている人は絶えず、自分のことが気になっており、忘我の状態になることが出来ません。

自分の徳を意識している徳は徳ではないのです。

インドの哲人・クリシュナムルティが「自分の徳を意識しているのは徳だろうか」と言っています。

従って、ここでも自分の徳を全く意識していない悪人の方が、むしろ、逆に往生する(悟りを得る)可能性を秘めているということです。

私はそのように解釈しました。

従って、教えというものは、その人のいる段階によって変わらなければなりません。

タマスの段階の人へは、努力を喚起し、不活動や惰性から、活動へと駆り立てなければなりません。

ラジャスの段階の人へは、努力の方向性が正しいのかを再検討するように促さなければなりません。

それで、最初に戻りますが、「努力をしなければならないのでしょうか」という質問は、それを発している人が、出来れば努力をしたくないと考えていることが分かります。

従って、それに対する答えは、「努力しなければなりません」というものでなければならないのです。

自分の運命を改善するために常に努力を怠ってはなりませんと伝えます。

然し、既に努力していて自分の自由意志や努力によって運命が切り開けると信じている人に対しては、

逆に「努力をしなくてもよい」とか「自然体でいけばいい」といったことをむしろ伝えたり、また努力の方向性が正しいのかどうかを再検討することを促すような場合も出てきます。

運命を受け入れた方が、楽になるといったことを伝える場合もあるし、また本人にもそうした考え方が必要な場合があります。

このように人によって、必要としている教えが変わってきます。

このことは真理とは、その人にとっての真理であって、他人の真理ではないことを意味します。

人が真理だとして主張して来ることを自分の真理として受け入れる必要はないのです。

然し、「努力をしなければならないのでしょうか」と質問している人が、どのようなタイプの人で何を考えているのか分からない場合もあります。

そのような場合はどのように伝えたらよいのか迷うことがあります。

努力をすることが害になる人もいて、安易に努力したした方がいいとも言うことが出来ません。

また頑張ってくださいとも言うことが出来ません。

人によっては努力しなくてもいいし、自然体でいればいいと言うことを伝えることが必要な場合が出てきます。

そして、ジョーティッシュにおいては、むしろ運命を受け入れて自然体でいることによる恩恵の方が大きいと思います。

それは、現代の人は皆、十分に努力しており、怠惰な人は少ないからです。

特にジョーティッシュを受けるような人は、洗練された文明人であり、大抵は、間違った方向に努力しているという問題を抱えがちです。

本能を自我で抑え込んで、克服しようとしています。

従って、私も努力をすすめることはそれ程、多くはありません。

淡々と何が起こるのかを伝えていきます。

そして、何をしても無駄であると言った話の方がその人にとっては新鮮な場合があります。

受け入れる以外にはないといった話もします。

然し、時々、まれに努力した方がいいということを伝える場合がありますが、やはり、それは相手を見て話をしているということです。

不活動から活動に喚起した方がいいような場合は、努力して頑張って下さいということになる訳です。

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コメント

コメント一覧 (3件)

  • いつも楽しく読ませてもらっています。秀吉さんの深い哲学的考察のような記事に、気づきをもらっています

    自分では何となく思っていること、そのことをうまく言語化できないときに(わたしのラーシでは、水星が12室水瓶座在住+木星土星からアスペクト)

    何気なく秀吉さんのブログを訪れて、気になる記事を読むと、自分の中のモヤモヤしていた考えが綺麗にまとまっています

    そういうことが何度もあります。本当に感謝です

    ラーフ期は、射手座の上昇志向に飲まれていましたが

    木星期に入る数ヶ月前、インド占星術にのめり込み、抵抗できない運命を受け入れていこうとする姿勢に今では慣れ親しんでいます

    インド占星術に興味を持てなかった知人にそういう話しをすると「ほとんどが運命で決まっているなんて、虚しくないか?」と言われたりもして、混乱することもあります

    たしかに虚しさを感じて、退廃的になる傾向もあるかもしれません。けれど人間は生きているだけで価値があるというか、存在給というものがあると感じます

    (存在給は心屋さんの本で知りました)

    生きているというか、生かされているというか

    呼吸をしている、それこそが存在を許されている証だと感じます

    そういう瞬間、努力というものはいらないと感じます

    本来の自分を感じ取り、受け入れたときに、見えてくる道があって、その道を進むことが他人からみたら努力にみえるかもしれないけれど

    本人は努力とは思わないような感覚になるのかと思います

    (ひとりの人間が成し遂げるには客観的にみて、大変だったと思えるようなことでも、当の本人は「大変なことなど何もなかった」とよく聞く発言はそこなのかなとも)

    長くなりました。先の話しは秀吉さんの「つまり、世の中にはどうしても変えることができず、受け入れざるを得ないことがあり、そうした物事を受け入れる、つまり諦めることこそが、人間の成熟度を表すようなそうした理解が存在するのである」を読んで感じたことです
    • コメントありがとうございます。


      私がそれを書いたのは、やはり10代、20代の時にそのような問題を抱えていたからです。


      何か本来の自分ではないものに努力してなろうとしていたということがあったのです。


      それが異常な努力であることを理解したのは、心理学の本を読んだ時でした。


      好きなことをしている時は、この世の中に努力というものはなく全てが楽しいことです。


      例えば、不眠不休で、24時間ぶっ続けで、何かの絵画や作品を創っていたとしてもそれを努力とは思わないと思います。


      好きなことをしている人にとって、努力という言葉自体が存在しないのです。


      努力という言葉を使うのは、自分が好きではないことをしている人たちの言葉ではないかと思います。


      そして、その人にとって、好きではないことを人に強制する時の言葉ではないかと思います。



      つまり、努力とは労働者(奴隷)の言葉ではないかと思います。


      因みに動労者は何故、労働者かと言えば、タマス(鈍性)に支配されているからです。


      だから人に指示されなければ自分でやりたいことがないのです。


      自分でやりたいことが出てきて、そのやりたいという気持ちが強くなってくると、


      指示されたことをしているだけの労働者ではいられなくなります。



      やがては自分でやりたいことだけをしていきたいので、それで稼ぐようになっていきます。


      努力という言葉は少なくとも人から言われるようなものでは全くないと思います。


      努力をしなさいなどと人から言われることはあり得ないことだと思います。


      それこそ好きではないことを強制される場合の言葉です。



      これは労働者として働いているか、それとも独立して好きなことを仕事にして働いているかの違いにもよく現れてくることですので重要なことです。


      好きなことをしている人は自分が働いているとさえも思っておらず、努力しているとも思っていません。



      努力しなければならないのでしょうかと聞いてしまうのは、やはり、それを人から散々言われてきたからではないかと思います。


      親とか先生とか、上司とかに言われ続けて来たのではないかと思います。



      そういう意味で、人によって真理とは違うということです。


      これは、キリスト教の聖書とか、聖典の知識を読む時もそうだと思います。


      聖者にとっての真理は、自分にとっての真理ではないかもしれないので、注意が必要です。



      真理とは自分で自分にとっての真理を発見するものなのだと言われています。


      それはそうだなと思います。
    • ですから、もしその方がタマス(鈍性)に支配されている方であるなら、やはり努力というものが必要だったりします。


      人から努力するように言われざるを得ない状態であったりします。


      ですからその場合、その方は労働者であり、指示されて活動しなければならないのです。


      もし猛烈に努力したら、徐々に才能が芽生えて、そこから徐々に抜け出せるかもしれません。


      やがてはその人は内発的な好きなことを表現しているだけで生きられるようになるのかもしれません。


      その段階は様々で、混在していると思います。


      人によって、様々で一言では言えません。


      だから人は自分にとっての真理は自分で発見しなければならないのだと思います。

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