2024年2月22日付のBSフジプライムニュースで、思想家、哲学者の浅田彰と、思想史家の先﨑彰容をコメンテーターとして迎えて話を聞く番組が放送されていた。
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最近は、ウクライナ戦争について専門家から意見を聞くというスタンスで、防衛省の関係者や軍事研究者(例えば、東京大学 先端科学技術研究センターの小泉悠氏とか、国際政治学を専門とする廣瀬陽子氏などは、引っ張りだこである)を番組に招聘し、意見を聞く機会が多いが、フランス現代思想の専門家とか、思想史家など、「現代思想」とか「現代評論」といった思想関係の専門誌に寄稿するようなマニアックなオタク的な専門家を呼んでいる所に番組に斬新さが感じられた。
それで、浅田彰本人の姿を実際に映像で見れたことは非常に興味深かった。
私が知らなかっただけで、最近、メディアに露出する機会も増えていて、公の場に姿を表わし始めたようである。
おそらくダシャーが変わって、活動的なステージに移行したのだと思われる。
それまでは、浅田彰は、全く何の業績もなく、世間一般からは何をしているのか全く分からない状態だった。
2~3年前に落合陽一が、民主主義を否定する発言をして、それについて浅田彰が日本の思想状況が悲劇的状況にあることを嘆いた発言を行っていたのを覚えている。、
それで、あの『構造と力』の浅田彰が久々にメディアに登場して発言していることに新鮮に驚いた。
この人、まだ生きていたんだといった驚きである。
浅田彰は、1983年に『構造と力』を発表し、翌年の1984年に『逃走論』を書いて、華々しく、デビューし、『構造と力』は、いきなり、思想書としては異例の15万部を超すベストセラーとなったという。
学生運動がピークと達したのは、1969年1月18日の東大安田講堂事件の辺りだが、その10年後ぐらいである。
当時、学生は、マルクス主義の思想書を競って読むような時代であり、それが、かっこいいこととされていた。
それからわずか10年であるので、その名残りが残っていたのか、『構造と力』は、難解であるにも関わらず、15万部も売れたのである。
当時の女子学生たちが、吉本隆明の『共同幻想論』や浅田彰の『構造と力』を読みもしないのにバッグの中に入れて持ち歩くのがファッションだったという。
私も昔、『構造と力』は読んでみたが、何が書いてあるか理解出来ないので、途中で辞めたのを覚えている。
しかし、その『構造と力』が、 2023年12月25日に40年を経て、再び、文庫化され、先日、書店に平積みされているのを発見した。
その隣には、中沢新一の新作『精神の考古学』が並べられている。
浅田彰と中沢新一は、1980年代初頭に時代の潮流に乗って、ニューアカデミズムの旗手としてもてはやされた。
それが、長い年月を経て、再び、この2人が、注目されるようなサイクルに入ったようである。
浅田彰は、『構造と力』の中で、フランス現代思想の論客たち、ロラン・バルトやミシェール・フーコー、クロード・レヴィ=ストロースなどの著作が個別に翻訳されて紹介されていた状況の中で、フランス現代思想の構造主義→ポスト構造主義といった思想的流れを俯瞰し、思想史全体の中に位置づけ、再構成してみせるといったことを行なった。
構造主義とは、クロード・レヴィ=ストロースの文化人類学や、ジャック・ラカンのラカン派精神分析、ソシュールの言語学、記号論などの業績に主に基づいた思想であり、人間社会の文化や慣習は、言語や記号を通じて、人間の無意識の中に構造化されており、厳密にルール化されているといった世界観をもたらした。
そこでは自由はなく、主体というものは無力であり、何も為し得ないのである。
社会は厳密に一定のルールの下で、安定的に継続し、過去から未来に向かって、変化をせずに存続していく為、過去から未来に向かって進歩していくという歴史観は成立しない。
当時の社会状況は、マルクス主義による革命に失敗し、資本主義と妥協し、大衆消費社会の中で、ある程度、欲望が満たされて、利便性も増し、革命への志も忘れ、社会が一定のルールの中で、安定的に継続している状況の中で、敷かれたレールの上で、主体は何も為し得ないという閉塞感があった。
マルクス主義によって、社会を大変動させるといった大きな志の為に生きるということはなくなってしまい、社会のレールに乗って、消費しながら日々を過ごすのみである。
確かそのことをちょうど遊園地の中で、人が遊んでいるイメージと表現した人もいたと思われる。
会社に行き、給料をもらい、消費やレジャーを楽しむといった繰り返しの決まりきった日常から逃れられないといったイメージである。
そこで出て来るのが、ジル・ドゥルーズと、フェリックス・ガタリによって、『アンチ・オイディプス』 (1972)、『千のプラトー』(1980)といった作品に現れた力の思想であり、それが、ポスト構造主義である。
『アンチ・オイディプス』では、フロイトが発見したエディプス・コンプレックス(無意識の中の父親からの禁止)は、フロイトの弟子ラカンが言うように人間が原初的に備えているものではなく、社会的な発明によるものであるとした。
そして、「誘引力、反発力、均衡化力、強度」といった力の概念を用いて、システムが外部の力の影響を受けて、変化することについて考察した。
エディプス・コンプレックスのような人間の超自我に埋め込まれた無意識も社会的な関係の中で生成されるものなら、主体が環境や関係性を変えることで、閉じ込められたシステム(構造)を変えたり、そこから抜け出すことが可能であるということである。
つまり、構造主義では、言語や記号が、無意識に埋め込まれ、それがシステム(文化や規範)を生み出し、人間はそのシステムから逃れることは出来ないのであるが、システムの外部との接触や相互作用で、システムから逃れることも可能だとしたのである。
このポスト構造主義の思想から、浅田彰は、『逃走論』というものを著した。
この場合、人は、システムの牢獄から抜け出す為には、環境を変えたり、システムの外部の存在と交流して、外部の力の影響を受ければよいのである。
例えば、進学校に通って受験勉強に明け暮れ、将来、官僚となるエリートの規定路線を歩んでいた人が、そのシステムから抜け出すには、時には、不良たちと付き合い、酒場に出入りして、悪さをしてみるといったことを意味している。
「構造と力」の構造とは、無意識内の言語や記号によって成立した文化や規範の硬直したシステムのことであり、力とは、システムを変化させたり、壊すことのできる、「誘引力、反発力、均衡化力、強度」といった概念によって示される力のことである。
私の簡単な理解によれば、そうしたことになるが、「構造と力」は、フランス現代思想の特徴として、難解な概念をこねくり回して、高度に抽象化されており、非常に分かりにくいのである。
以前も書いたが、私が西洋哲学史についての理解が深まったのは、ハイデッガーの研究者だった木田元が書いた『反哲学入門』を読んだことを通してだった。
元グーグル米国本社副社長・日本法人社長の村上憲郎氏が、『村上式シンプル仕事術―厳しい時代を生き抜く14の原理原則』ダイヤモンド社の中で、紹介していた。
2012年1月18日付の『西洋哲学、実存主義、認知科学について』や、2012年2月18日付の『カントの「純粋理性批判」について』といった記事の中でも取り上げたテーマである。
それによれば、プラトンは、この自然界を作っているのは、何かその設計図たるイデアというものが先んじて存在しており、そのイデアに基づいて創られたと考えたのである。
プラトンは、これを「イデア」と表現し、アリストテレスは、「純粋形相」と呼び、デカルトは「理性」と呼び、カントは、「物自体」と呼び、そして、ヘーゲルは「精神」と呼んだが、全て同じものを指しているというのである。
そして、キリスト教徒は、「イデア」を「神」と呼んでいるということである。
西洋哲学は、プラトンから始まって、ヘーゲルで完成するが、その世界観は、プラトン的には、人間や人間社会は、真・善・美が完成した究極の「イデア」を実現する過程にあるのであって、ヘーゲルの言葉では、「精神」は、歴史の弁証法的運動によって、「絶対精神」へと向けて、進化していくという説明になる。
最終的なゴール、理想郷(ユートピア)、完成された人間というものがあって、そこに向けて、歴史が運動していくという考え方である。
つまり、西洋合理主義、西洋近代とは、こうした進歩史観を背景にしている。
※弁証法とは、正(テーゼ)と、それに矛盾する反(アンチテーゼ)が対立し、そこで葛藤が生じるが、この葛藤から合(ジンテーゼ)が生まれるとする法則のことである。例えば、歴史弁証法によれば、ウクライナ戦争も、西洋の市場原理やリベラリズム、民主主義の考え方(正:テーゼ)と、ロシアの新ユーラシア主義(ロシア正教(つまりはキリスト教)に基づいた優しい全体主義)という反(アンチテーゼ)の対立、葛藤であると考えることができる。この戦いは、極めて重要であり、どちらが勝利するかによって、そこからどのような合(ジンテーゼ)が生まれて来るかが決定される。
木田元によれば、こうしたプラトンからヘーゲルに至る思想を哲学と呼び、ヘーゲルより後のハイデッガーやニーチェなど、その後に出てきた思想は、全て反哲学と分類できるようである。
因みにマルクス主義とは、ヘーゲルの歴史弁証法を元にして、資本主義が発展していくと最終的に共産主義(ユートピア)になるという歴史法則のことである。
従って、基本的に進歩史観に立つものであり、究極的なゴールを目指している意味では、ヘーゲル哲学と変わらない。
そして、もう一つの伏線として、実存主義について検討しなければならない。
これも哲学の傍流に位置づけられるが、主にジャン・ポール・サルトルによって提唱された立場である。
それによれば、西洋哲学が、プラトンの「イデア」、アリストテレスの「純粋形相」、デカルトの「理性」、カントの「物自体」、ヘーゲルの「精神」などによって表してきた「本質」という概念は、こと人間存在にとっては当てはまらないとした。
「実存は本質に先立つ」とする言葉に要約されるが、人間存在の本質は最初から与えられている訳ではなく、まず人間の実存が先に与えられ、後から本質が現れるのだとした。
つまり、人間は、何かを考え、どう行動するかによって、その本質を明らかにしていく存在であり、自分の本質について主体的に決定していく存在だとしたのである。
このことは非常に人間の主体性を重視し、例えば、ジャン・ポール・サルトルが、社会の矛盾を解決するマルクス主義に共感する理由ともなった。
サルトルは、1943年に主著である『存在と無』を出版し、実存主義は世界中を席巻したが、1960年代に構造主義が台頭し始めると、サルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判されるようになったという。
そして、クロード・レヴィ=ストロースが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてサルトルを批判を行なう。
つまり、構造主義にとっては、主体の役割は小さいのであって、主体とは、無意識の言語や記号によって規定された文化、規範に対して、無力な存在であるとした為、サルトルの実存主義を否定することになる。
例えば、ジョーティッシュを実践し、魂の存在や輪廻転生を事実であると受け入れている者にとっては、実存主義とは、極めて、奇妙な思想である。
人間にはそれ程の自由はなく、生育の過程で、魂が顕現して、その人の進化段階やカルマに応じたその人の本質を表わすのであって、それはある程度、自動的なのである。
自由意志や主体が関わる余地は極めて少ないという考え方になる。
実存主義は、無神論にもつながる思想だが、フランスの思想家から出てきたことは非常に注目に値する。
つまり、サルトルの実存主義、そして、それを否定する構造主義が出て来て、そこから脱出するポスト構造主義が出て来るのであるが、これらをフランス現代思想と呼ぶのである。
まだフランス現代思想の全体像が掴めないうちにこのフランス現代思想の流れを一望のもとに俯瞰してみせた浅田彰は世間から注目されることになった。
しかし、フランス現代思想とは、西洋哲学の本流ではないのである。
西洋哲学の本流とは、ギリシャのプラトンのイデア論から始まって、ヘーゲルに至るドイツ観念論哲学を指すのである。
構造主義によって、実存主義が挫折したとなれば、マルクス主義によって積極的に革命運動を後押しする影響力も弱まってしまう。
そして、マルクス主義による学生運動が、ピークを迎えた1969年1月18日の東大安田講堂事件後から、徐々に人々は資本主義と妥協し、大きな理想(ユートピア)を夢見ることなく、大衆消費社会に迎合し、社会のシステムの上に敷かれたレールの上で、日々を暮らすことを強いられた。
そうした状況の中で、浅田彰が、「構造と力」、そして、それに続く、「逃走論」を発表し、構造主義が示すシステムの束縛から抜け出す方法を提示したことは、社会的意義が大きかった。
マルクス主義という大きな理想を失った後において、小さな希望と言えるかもしれないが、人々にシステムに従属せずに自己実現する術や生存戦略を与えたのである。
但し、人類を桃源郷や約束の地(ユートピア)に導く、西洋合理主義、西洋近代の進歩史観からすると、フランス現代思想が扱っているものは、主体の問題や、構造の問題と、そこからの脱出の問題である。
フランス現代思想が扱っているのは、そうした西洋哲学の本流からすると、かなりマニアックな狭い領域であり、フロイトが発見した無意識といった臨床的成果を難しい概念をこねくり回して、難しく説明している印象である。
それともう一つ、フランス現代思想には、ジャック・デリダが提唱した「脱構築」(デコンストラクション)という概念がある。
「脱構築」は、プラトンからヘーゲルあるいは、マルクスに至る伝統的な西洋哲学(形而上学)の過去から未来に向けての進歩史観、統一的な全体像や、(精神と物質の)二元論による説明を批判して、その枠組みを揺るがせ、新たな構築を試みる哲学的思考の方法とされている。
この「脱構築」(デコンストラクション)は、マルティン・ハイデッガーが『存在と時間』の中で使用した「解体 Destruction」という言葉のフランス語訳であるそうである。
マルティン・ハイデッガーの哲学は、木田元の分類に従えば、反哲学に分類される為、そういう意味では、フランス現代思想というものは、全体として反哲学に位置づけられると考えられる。
プラトンからヘーゲルに至る西洋哲学(形而上学)の本流を大きな物語だとすれば、フランス現代思想は、傍流の思想であり、小さなマニアックな領域を扱っている。
日本を代表する知性の出生図
それでは、ようやく、浅田彰の出生図を検討するが、「構造と力」が出版された1983年当時、そして、その後も、日本を代表する知性と呼ばれている浅田彰は、どのような惑星配置を持っているか気になる所である。
出生時間が分からない為、ウィキペディア 浅田彰のページから得られる「1957年3月23日 時間不明 兵庫県神戸市」というデータを使って、12:00で作成してみると、以下のようなチャートになった。
直ぐに目につくのは、魚座に惑星集中しており、減衰する水星と高揚する金星によるニーチャバンガラージャヨーガが存在し、そして、水星と木星が魚座と乙女座で星座交換しているという配置である。
この魚座-乙女座軸が、知性の5室に関係していると容易に推測できるが、浅田彰のように高い評価を受けた人間は、11室が強いはずである。
結婚や子供の誕生など分かりやすい個人の情報が見当たらないが、一つ見つけたのは、浅田彰は、三人兄弟の三男で、上に兄が2人いるようである。
通常、2人もの兄に恵まれたのであれば、11室が強く、11室(兄姉)に11室の支配星が在住したり、アスペクトバックしたりしているはずである。
あるいは、11室に兄姉の表示体である木星がアスペクトしているはずである。
そうしたことから、おそらく浅田彰は、牡牛座ラグナで、5室と11室が星座交換しているか、あるいは蠍座ラグナで、5室と11室が星座交換しているかのいずれかだと思われた。
そして、牡牛座ラグナだと、木星が8、11室支配の機能的凶星となり、それが5室に在住する場合、知性にとってはダメージになってしまうのに対して、蠍座ラグナだと、8、11室支配の水星が5室で減衰することで、減衰をキャンセルするニーチャバンガラージャヨーガの他に8室の支配星が減衰することで、パラシャラの例外則によるラージャヨーガ的な効果が期待できる。
また浅田彰は、美術館巡りが好きで、美術評論にも明るいことを考えると、5室で金星が高揚しているのではないかと考えた。
但し、牡牛座ラグナであっても、5室支配の水星に金星がコンジャクトする為、同じ象意となる為、これだけで、決定的とはならないが、5室の支配星に金星が絡んでいることから、牡牛座ラグナか、蠍座ラグナのいずれかであることを後押しする材料である。
そして、浅田彰が大学の教授であることを考えると、やはり、蠍座ラグナではないかと思われた。
蠍座ラグナであれば、10室支配の太陽が5室に在住し、2、5室支配の木星と相互アスペクトして、10室の支配星と木星が絡んでいることが確認できる。
これは典型的に教師、教育者の配置である。
牡牛座ラグナだと、10室支配の土星が、7、12室支配の火星と相互アスペクトする配置となり、教師や教育者の配置ではなくなる。
従って、蠍座ラグナで正しいと思われる。
10室の支配星が、5室に在住し、3つの吉星と絡む配置は、思想研究や美術評論など、好きなことだけを仕事にして生きている印象である。
ニーチェとの共通点
そして、哲学者ニーチェのチャートを思い浮かべる時、浅田彰が、思想家、哲学者、評論家として優れている理由が浮かび上がってくる。
ニーチェの場合は、蠍座ラグナで、2、5室支配の木星が5室で定座に在住し、8、11室支配の水星が、11室で高揚し、知性や知識を表わす2つの強力な惑星が、5-11軸で相互アスペクトしている。
これが鋭い知性をもたらした理由であり、乙女座で高揚する強い水星は、ギリシャ、ローマの古典文献学が専門であったことを意味し、5室で強い木星は、典型的な作家の配置であり、哲学、宗教を専門にする配置である。
『ジャイミニ・スートラ』には、カラカムシャから見た5室の水星は、ミーマンサー(聖典解釈学)における専門家にすると記されている。
またカラカムシャから5室の木星は、人を文法学者、ヴェーダ学者、ヴェーダンタ哲学の学者にすると記されている。
魚座5室で強い木星は、魚座がキリスト教を表わす星座である為、ニーチェはキリスト教についても非常に詳しかった。
キリスト教批判をしたのは、イエスキリストやキリスト教に対して、強い拘り(こだわり)があったからである。
そして、『この人を見よ』や『ツァラトゥストラはかく語りき』、『アンチクリスト』などを通して、超人の思想を展開し、超人をイエス・キリストに代わる存在として、提示した。
浅田彰の場合、この水星と木星の配置が入れ替わっており、2、5室支配の木星が、11室に在住し、8、11室支配の水星が5室に在住することで、5-11の星座交換が生じている。
その為、それぞれの惑星が、あたかも定座に在住しているかのように強くなり、また水星は上述したように減衰しているが、高揚する金星とコンジャンクトして、ニーチャバンガラージャヨーガを形成しており、またディスポジターと星座交換することによっても、ニーチャバンガラージャヨーガの条件を満たしている。
そして、水星は8、11室の支配星だが、8室の支配星が減衰する場合、パラシャラの例外則によるラージャヨーガ的な効果を発揮する配置である。
従って、この水星は、減衰はしているが、その減衰をキャンセルして、抜群の知性を発揮する配置である。
おそらく、同じように減衰する水星と高揚する金星が、魚座でコンジャンクトしているアインシュタインと同じように直感やイメージ力に優れており、理論的な細部の詳細にこだわるのではなく、真理を直観的に捉えることが得意なのである。
数学が苦手で、相対性理論のアイデアもイメージとして浮かんだと言われているアインシュタインと同じである。
『構造と力』の中でも構造主義と、ポスト構造主義の概要が、図やイメージを多用して解説されており、フランス現代思想の全体像を直感的に把握したのだと推測される。
しかし、その一方で、浅田彰は、京都大学経済学部を卒業し、同大学院経済研究科博士課程まで進んだにも関わらず、自分の専門の経済学では、40年間の間、何の専門的業績を挙げていない。
そのことについて、吉本隆明が、「(浅田彰は)経済学に関する体系的業績や著作は一つも残していない」と批判している。
経済学に関する体系的業績や著作は一つも残しておらず、このことを吉本隆明が厳しく批判している。吉本は、浅田が「学生の学力がここ10年くらいで劇的に落ちている。文部省は権威主義的な詰め込み教育を維持したほうがよかった」と言っていることについて、「最近の学生の学力のレベルが低いというより、むしろ、浅田彰のレベルが低い、というべきじゃないでしょうか。浅田彰は、専門だという理論経済学の分野でも、学者としてちっとも優秀じゃないですよ。」「つまらない専門外のことはいう浅田彰」と評している。 (wikipedia 浅田彰より引用抜粋) |
経済学で業績を挙げられなかったのは、やはりアインシュタインと同じで、数学的な才能を与える水星が、魚座で減衰している為である。
しかし、その一方で、数学者の森毅から、浅田彰の本領は、一見無関係なものを関連づけ、全体の中に位置づけ直して新たな光を当てる広義の「編集」行為にあると指摘しており、そうした能力は、物事を図的にイメージ的に直感的に捉える才能を表わしているように思われ、減衰をキャンセルする水星の持ち味が発揮された可能性を示唆している。
浅田の師の一人である数学者の森毅は、浅田の本領は、一見無関係なものを関連づけ、全体の中に位置づけ直して新たな光を当てる広義の「編集」行為にあると指摘している。 (wikipedia 浅田彰より引用抜粋) |
いずれにしても減衰する水星は、やはり、減衰の悪影響を発揮したものの、それを補うかのように物事を図的にイメージ的に一望する能力として、発揮された可能性が高い。
おそらく、減衰する水星の凶意を最大限キャンセルし、逆に長所に転換する配置は、これ以外にはあり得ないだろうと思われる。
水星は、8室(研究)の支配星で、5室(知性、識別力)に絡むことにより、フランス現代思想に対する研究に没頭できたのである。
1983年『構造と力』、1984年『逃走論』を発表
1983年のトランジットを確認すると、木星はラグナから5室と11室支配の水星にアスペクトし、土星は、天秤座で逆行して、11室に絡み、5室支配の木星にも絡み、創作の5室と受賞、高い評価、成功の11室にダブルトランジットを形成している。
『構造と力』は、特に何かの賞を受賞した訳ではなかったが、15万部を超える異例のベストセラーとなり、同時に『チベットのモーツァルト』を発表した中沢新一とともに、「ニュー・アカデミズム」の旗手として一般メディアを舞台に幅広い批評活動を展開する道が開けたのは、この成功が始まりだった。
これは明らかに11室の象意である。
この時のダシャーは、月/月期、あるいは、月/火星期辺りであり、マハダシャーロードの月は9室の支配星で2室に在住し、2-9のダナヨーガを形成すると共に2、5室支配の木星とケンドラの位置関係にあることで、ガージャ・ケーサリヨーガを形成し、このヨーガの結果を与えたと考えられる。
アンタルダシャーロードの火星は、ラグナロードで7室に在住し、3、4室支配の土星と相互アスペクトして、1-3の絡みを生じ、また1-4のラージャヨーガを形成しているが、2、5室支配の木星からのアスペクトを受けて保護されている。
因みに9室は、11室から見た11室であり、11室の本質のハウスである。
9室支配の月期には、こうした11室の本質のハウスとしての意味合いも発揮されたと考えられる。
月から見た4室には、太陽、水星、金星が在住し、10室には木星が在住しており、月から見たケンドラに吉星が集中し、太陽も9室支配の機能的吉星である。
ケンドラ関係(ケンドラサンバンダ)により、月は非常に強化されている。
その為、マハダシャー月期にブレイクすることが出来たのである。
特に月が、5-11の星座交換を形成する木星との間で、ガージャ・ケーサリヨーガを形成していることがポイントではないかと思われる。
ガージャ・ケーサリヨーガは、永続する名声と記憶力を与える配置である。
そして、月は、プールヴァアシャダー(金星)に在住し、その金星は、ラグナから見た5室、月から見た4室で、ラージャヨーガやダナヨーガを形成し、ニーチャバンガラージャヨーガを形成している。
そして、こうした5-11軸のラージャヨーガやダナヨーガは、全く凶星から傷つけられていない。
また月は木星の星座に在住することで、2、5室支配で、5-11の星座交換をする木星の結果を与えたはずである。
在住するハウスの支配星である木星の結果も与え、また在住するナクシャトラの支配星である金星の結果も与えることによって、この時期は、大成功につながったのである。
長期間の低迷
1980年代は、浅田彰は、思想、言論界に現れたスターであったが、その後、すっかり影を潜め、長期間の間、全く何の業績も上げないまま過去の人となってしまった。
つまり、『構造と力』と『逃走論』だけを出した一発屋だとの評価が為されていた。
それはおそらく、続く火星期やラーフ期があまり良くない為である。
火星は、ラグナロードで7室に在住して、1-7のラージャヨーガを形成しているが、3、4室支配の機能的凶星の土星と相互アスペクトして、1-4のラージャヨーガを形成しているが、火星は、土星によって傷つけられているといった評価にもなる。
1-3の絡みがある為、メディアに寄稿したりしたかもしれないが、火星は6室の支配星でもあり、それが7室に在住して、土星のアスペクトを受ける為、対人関係、パートナー関係においてトラブルをもたらしたかもしれない。
思想研究や執筆活動に打ち込めるような配置になっていない。
また火星をラグナとした場合、8、11室支配の木星が5室に在住し、1、6室支配の金星と相互アスペクトして、5室に6-8の絡みが生じる為、思想研究、思索や執筆活動に何らかの支障をきたしたかもしれない。
続く、18年間のラーフ期もラーフが12室に在住している為、全く良くない印象である。
12室のラーフは社会的な自己表現の機会が得られず、悶々と葛藤する時期である。
ラーフから見ると、6-12室に惑星が集中しており、目下の存在へのサービス、意見の不一致や奮闘、消耗をもたらす配置である。
この場合、6-12の星座交換が生じ、ヴィーパリータラージャヨーガが生じる為、障害が最終的には消えてなくなるという解釈になるが、しかし、最初は障害(6室)や損失(12室)に苦しむ時期である。
ラーフは金星の星座に在住し、また木星のナクシャトラ(ヴィシャーカー)に在住している為、研究者として創造的な活動も行なうが、しかし、12室のラーフの象意、そして、ダシャーラグナから見た6室や12室の象意はどうしても出てくる。
従って、これらの配置がある為、7年間の火星期と18年間のラーフ期を合わせて、実に25年間の間、低迷が続いたのである。
そうして、浅田彰は、『構造と力』という輝かしい作品を残した過去の人になり、一般的には、生きているか死んでいるか、何をしているか分からない存在となっていたのである。
マハダシャー木星期の復活
しかし、浅田彰は、最近、2017年10月前後から、マハダシャー木星期に移行したようである。
木星は上述したように2、5室支配で、5-11軸で、星座交換し、9室支配の月との間で、ガージャ・ケーサリヨーガを形成する強い惑星である。
それで最近、様々なメディアに登場するようになったのである。
おそらく、2~3年前に落合陽一が、民主主義を否定する発言をして、それについて浅田彰が日本の思想状況が悲劇的状況にあることについてコメントしたのは既に木星期に入っていた頃である。
私としては、これまで生きて来て、一切、そうした浅田彰の言論を見る機会はなく、全く初めての経験だった。
それよりも少し前にドナルド・トランプが台頭してきた2017年前後に世界に右翼民族主義、反知性主義が目立ち始め、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』という概念、つまりは、民主主義が、政治形態の最終形態であり、すなわち、歴史の終わりを意味しているとする理論に対する疑わしさが出てきた時にフランシス・フクヤマとの関係で、浅田彰が何かを発言したという記憶がうっすらとある。
もしそれが本当なら、その時はちょうどマハダシャー木星期に移行したタイミングである。
それ以来、最近は、浅田彰が、様々な対談などの場面に登場する機会が多くなり、冒頭で紹介した2024年2月22日付のBSフジプライムニュースでへの出演などもそうであるが、公の場所に出て来て、発言する機会が増えて来ている。
そして、昨年2023年12月25日に40年ぶりに『構造と力』が、文庫化され、書店の流通に登場したのである。
トランジットを見ると、昨年2023年11月29日からトランジットのラーフが、5室魚座に移動している為、これがトリガーになったと考えられる。
そして、昨年2023年9月5日~11月5日まで、木星が牡羊座で逆行し、土星が水瓶座で逆行していたことで、創作、執筆の5室(魚座)にダブルトランジットが生じていた。
つまり、少なくとも昨年2023年の9月の時点では、『構造と力』の文庫化、再版プロジェクトが動いていたと推測できるのである。
今現在、浅田彰は、木星/水星期で、まさに5-11軸で星座交換する木星と水星のダシャーを経過している。
従って、調子がいいはずである。
BSフジプライムニュースなどに出演して、自説を軽快に展開している様子が、それを物語っていた。
パラノイア(偏執狂)型とスキゾフレニア(統合失調症)型
浅田彰が『逃走論』の中で、展開した概念の中に特定の価値観や立場・見方に固執するパラノイア(偏執狂)型と物事に固執しないスキゾフレニア(統合失調症)型という二分図式がある。
構造の束縛から逃れるには、パラノイア(偏執狂)型よりも、スキゾフレニア(統合失調症)型の方が有利であり、物事に固執せず、立場を固定化しないこと、システムの外部の力との接触により、自分の既存の価値観や常識に変化をもたらすことを推奨した。
それは「パラノからスキゾへ」というキャッチフレーズとして、当時の流行語となり、第一回新語・流行語大賞において新語部門の銅賞に選ばれた(ウィキペディアより)という。
このパラノイア(偏執狂)型と、スキゾフレニア(統合失調症)型という二項概念は、ニーチェが提唱したアポロンとディオニュソスという神々の二項図式と似通っている。
アポロンは、光明・医術・音楽・予言をつかさどる若く美しい神で、 理知的で明るいギリシャ精神を代表する神とされている。
一方で、ディオニュソスは、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神である。
アポロンは、プラトンに始まる西洋合理主義、西洋近代を象徴しており、西洋哲学(形而上学)の王道、整然と秩序だった物事のあり方、統一性、進歩史観などを表わしている。
一方のディオニュソスは、こうした西洋合理主義、西洋近代を否定し、理性よりも本能や感情、真理や進歩に価値があるとする価値観の否定などを意味している。
従って、ディオニュソスは、反哲学を意味している。
スキゾフレニア(統合失調症)型の生存戦略というのは、実は、ディオニュソス的でもあり、ニーチェの言う、超人思想にも通じる所がある。
シラケつつノリ、ノリつつシラケる
浅田彰が、『構造と力』、『逃走論』などを発表した1980年代は、まだ日本も経済的に右肩上がりで、バブル崩壊前だった。
そうした平穏で、満たされており、変化しない社会においては、既存のシステムの束縛から脱出することを提唱する『逃走論』のようなものが流行るのかもしれない。
しかし、今の若者あるいは日本人は、少子高齢化や失われた30年といった状況の中で、貧しくて、経済的に満たされない状況である。
そうした状況の中では、『逃走』といった贅沢な貴族のようなポーズは許されず、不足や欠乏を満たす為に頑張らなければならない。
だから、浅田彰の『構造と力』は、バブル崩壊後、日本が貧しくなっていく経済的状況下においては全く見向きもされなかったのである。
『構造と力』の中で言及される「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」といったふざけたファッションのようないい加減な態度は許されない。
バブル経済の中で物質的に満たされた状況の中ではありかもしれないが、経済が右肩下がりの中で、欠乏に悩むような状況の中では、そうした退廃的な遊び感覚の態度は許されない。
生き残る為に必死で仕事をしなければならないような人間に「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」といったふざけた態度は通用しないのである。
常に「ノリつづけ」真剣でなければならないのである。
しかし、人工知能が出て来て、仕事がどんどんなくなり、原子核融合などで、エネルギー需要も満たされ、人間は物質的に満たされたとしても、人間の主体の問題、自由の問題に不安が出て来ている。
例えば、人工知能を使いすぎると、人間の能力は退化してしまうのではないかといった不安もそうである。
これから何か人間を飲み込んでいく巨大なシステムが立ち上がろうとしているのである。
そうした状況の中で、予定調和的に浅田彰が、思想界に再登場し、復活したのは興味深いことである。
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