成田悠輔の『21世紀の民主主義』を読んで -無意識民主主義という名の全体主義的管理社会-




最近、イエール大学助教授の成田悠輔がクローズアップされていて、テレビにもyoutubeの対談動画などにも度々登場する。


世間の常識を覆すような斬新な見解を披露したり、厭世哲学的な見解も際立っている。


例えば、社会を変えたければ選挙に行くのが常識であるが、「若者が選挙に行っても何も変わらない」といったことを言い放つ。


その理由として、日本人の平均年齢は48歳ぐらいで30歳未満の人口は全体の26%、全有権者に占める30歳未満の有権者の割合は、13.1%、21年の衆議院選挙における全投票者の割合は、8.6%しかなく、若者はマイノリティーであり、また若者の投票先は、60~70代とほとんど同じで、自民党支持率はむしろ、60~70代よりも高いという。


だから若者が積極的に投票に行っても選挙結果は変わらないとデータを使って、結論を示してくる。


データというのは一つのファクト(事実)である為、それを使って導き出された結論には説得力があり、反論の余地を与えない。


例えば、成田悠輔が行っている研究の一例として、学歴が成功と関係するかの研究がある。


それは、名門大学にぎりぎり合格できた人と、名門大学にぎりぎり合格できなかった人を比較し、その後の人生を調査した結果、学歴と人生の成功は関係ないといった結果が出て来たという。


直感的に私たちは学歴がなくても人生で成功した人をたくさん見て知っているが、そうは言っても、やはり学歴が高い方が人生を有利に歩むことが出来るのは当たり前だと思っている。そのような形で、その結論は曖昧である。


科学の方法論、特に社会科学や社会心理学などでは、こうした曖昧な認識をデータによって、きちんとした結論を出すことができる。


社会心理学の方法論として、例えば、実験群と統制群を準備して、独立変数が従属変数によって変化するかどうかを調査する手法があるが、この場合は、以下のような形に分けられるかもしれない。



実験群=名門大学にぎりぎり合格できなかった人

統制群=名門大学にぎりぎり合格できた人

独立変数=学歴のあるなし

従属変数=成功したかどうか



学生のデータを仕分けして、実験したに等しい条件を作り出すのである。


名門大学にぎりぎり合格できた人とぎりぎり合格できなかった人は、学力としてはほぼ同じである。


学歴があるかないかという違い(独立変数)があるだけである。


実験群と統制群で、成功したかどうか(従属変数)に違いが出てくれば、学歴が大いに作用していたことになる。


然し、従属変数に変化はなかったようである。


つまり、学歴という独立変数は、成功したかどうかといった従属変数とは因果関係がなかったという結論である。


こうした方法論で、社会の真実を明らかに出来るのかどうか疑問も出て来る。


まだ気づかれていない変数があるのではないかとか、その時々で、サンプルにした個体には偏りがあり、普遍的に結論できないのではないかといった疑問である。


然し、最終的に数字で出てくるので非常に説得力があるし、今の科学界で認められた方法である。



こうしたデータを用いて、統計学の手法を使って、社会の変革、合理化に役立つ提案をしていく仕事が、今の成田悠輔氏の仕事であるようだ。


データサイエンティストと言ってもいいが、データを使った社会啓蒙家、あるいは、コンサルと言ってもいいかもしれない。



最近、メディアで注目されてきて、停滞感漂う日本社会に有用な提案をしてくれるコンサルとして急速に注目を集めて来ている。



成田悠輔をユニークにしているのが、厭世哲学的な見解と書いたが、諦観、現世に対する無執着といったものかもしれない。



例えば、成田悠輔氏は、自分はいつ死んでもいいと思っているといったことを普通に口にする。



メディアに登場するたびに今まで聞いたことのないような斬新な意見を口にする為、一躍、時代の寵児になった印象がある。



最近、書店に行くと、この成田悠輔が出した新刊本『21世紀の民主主義-選挙はアルゴリズムになり政治家はネコになる-』が目に付いたので早速、買って読んでみたが、非常に面白かった。









その内容を以下に要約するが、まず、冒頭で、民主主義の欠陥について指摘している。



現在の私たちは、民主主義は最善、最良の政治システムだというのが常識になっているが、その常識を覆す指摘を行っている。



特にコロナ下において、民主主義国は、コロナに上手く対応出来ず、むしろ、中国のような独裁国家の方が、初期段階で、コロナの封じ込めに成功したと述べている。



それをデータを使って統計学の手法によって明らかにしている。



民主主義が歴史的に見て、どのように誕生したかといったことにも触れている。



成田氏によれば、人類は世の初めから人の能力や運や資源が恐ろしく不平等であり、一人の優秀な技術者の創造性は凡人1000人分を遥かに飛び越えるとし、資本主義社会は、そうした能力の違いによって格差をもたらすが、そうした格差は人類にとって辛いことである為、そこで引っ張り出してきた制度が、民主主義なのだという。


プラトンは、『国家』の中で、貧富の差が拡がりすぎると貧乏人が金持ちに対する反乱を企て、反乱に勝利した貧乏な大衆が支配権を握ったとき立ち上がる政治制度が民主国家であり、民主化は優秀者に支配された理想国家の堕落だと考えたとしている。


プラトンが理想とした政治制度は、哲人によって統治される社会であり、民主主義は簡単に衆愚政治に陥る堕落した制度であると考えていた。



そして、『歴史の終わり』を書いたフランシス・フクヤマについても触れている。


フランシス・フクヤマは、この本の中で、民主主義が歴史における最終的な政治形態だと述べたが、その後の書籍『政治の起源』においては、民主主義をいかに維持するか、政治秩序を作り出す問題について議論しているという。


その後、民主主義が劣化したと思われるような混乱した状況が出て来ているからである。




成田悠輔は、こうした民主主義が素晴らしいという幻想を否定する問題提起を最初に行っている。



そして、民主主義が劣化した原因として、SNSの普及を挙げている。



facebookやtwitterなどのSNSが普及した結果、誰もが簡単に主張が出来るようになり、感情的で右翼的な暴言やフェイクが飛び交って、ポピュリズムが台頭し、民主主義が劣化したと述べている。



これは、twitterなどで気まぐれな主張を繰り返す、ドナルド・トランプの発言等をイメージしていると思われる。



そして、トランプの扇動によって、人々は、連邦議会に突入していったが、こうした動きを民主主義の劣化と考えている。



こうした民主主義の劣化の中で、資本主義が暴走し、社会の格差がますます増大している。




そして、こうした民主主義の劣化を克服するための試みを紹介している。



それは、闘争、逃走、構想という3つの方法である。




最初の「闘争」は、民主主義を政治家への長期成果報酬年金を設けたり、政治家や有権者に定年や年齢制限を設けるなどして改善したらどうかといった提案である。



然し、これは現在、議席を握っている多数派である与党が、こうした改革に賛成しないと思うので、こうしたアイデアを実施するのは困難であると結んでいる。





そして、もう一つは「逃走」だが、これはタックスヘイブンに資産を逃避させたり、また最近、公海の特性を利用して、海上に独立国家を創ろうとするピーター・ティールの試みなどを紹介している。



そして、驚くべきことに成田氏も福岡県で似たようなことを行っているようである。



ピーター・ティールは、リバータリアンで、民主主義に従うなんてまっぴらごめんだと公言する人物である。





そして、最後が、「構想」であるが、これは民主主義をアップデートさせるという試みである。



これが、成田氏の最終的な提言であり、また民主主義の未来への予言になっている。



まず、現代のように情報通信が発達した現代においてもいまだにネット投票が出来ず、紙と鉛筆で投票し、選挙の設計と運用がほとんど出来ていないことをそもそも問題としている。



今後、AIや監視技術が進歩していくにつれて、人々の政治的趣向、要望などがデータとして、全国民から簡単に吸い上げられるようになり、それに最適化された政治、行政が行えるようになっていくという、そういう思想であり、予言である。



そこでは、LGBTなどのようなマイノリティーの要望も吸い上げられ、政治に反映されるという。



その過程で、政治家が必要なくなってしまうということである。



選挙とは、データの解析であり、データの変換という作業になるということである。



そこでは、政治家は必要なくなり、ただのネコのようなマスコット的な存在となり、国民の不満のはけ口になるといった役割しか担わなくなるということである。



この場合、データの中身とデータをどのように変換しているのかといったアルゴリズムは、全ての人にとってガラス張りでなければならないという。



その辺りが、民主主義を保証する部分であるが、実際の様々な政治的課題の全てに目を通し、判断し、意思決定することなど普通の人にはできないので、あらゆる人々の要望などを全て吸い上げて、AIで処理し、その要望などを政治や行政に反映させるプロセスを全て、データ解析、データ変換の作業として自動化してしまうという考え方である。



通常の代議制民主主義では、人々は、全ての政治課題を把握し、判断し、その為に必要な代議士を選んで投票するといったことを行なうが、そうした人々の作業は、そもそも難しく、仮に代議士を選んだとして、政治や行政に反映されるのは、ほとんど不可能なほど、間接的にしか関与できていない。



確かにそのように全ての人から、あらゆる政治的趣向、要望などを吸い上げて、政治、行政に反映させるプロセスが自動化したら、選挙は必要なくなってしまう。



そして、AIやデータ変換のアルゴリズムは公開されてはいるが、人々もそれ程、政治的課題を意識しなくなり、それらの管理は、優秀なエリートや哲人に任せて、国民は、リバタリアン的に各々自分の幸福を追求して好きなように生きていくようになる。



つまり、選挙を通して、国民が政治に参加し、政治家が法律を作って、行政がそれを実施するといったプロセスがなくなって、国民から吸い上げたデータ(国民の政治的趣向や要望などのデータの集積)を使って、直接、行政を行なうようなイメージである。



そうすると選挙も政治家も必要なくなってしまう。



実際、今の時点でも政治家は法律などをほとんど作れない為、官僚が自ら法律を作って、行政を実施しているというのが実情である。



あり得なくもない未来である。



例えば、Amazonでリコメンド機能というのがあるが、AIがその人の購買履歴などから、その人が好みそうな商品を提案していくという仕組みがある。



そうした機能がもっと複雑で高度化した仕組みと考えればいいかもしれない。




つまり、そうした社会は民衆の要望に応えるような社会ではあるが、民衆の政治参加への意識は希薄化し、無意識化していくのである。



それを成田悠輔は、無意識民主主義と呼んでいるが、つまりは、与えられた民主主義といった形になる。




つまり、今現在のスマートシティー構想といったものもトヨタの会長が、「民主主義ではない」と発言したのは興味深いことであるが、どのような都市にするかといったことを何一つ、そこに住む市民が決めることは出来ないのである。



そこでは民衆のあらゆる利便性というものを考慮して、巧みに設計されはするが、その設計を行うのは、あくまでもエリートであり、テクノロジーを理解したテクノクラートである。



私は以前、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモデウス』という本で、全く似たようなアイデアを目にした。



この 成田悠輔の『21世紀の民主主義』も『ホモデウス』と合わせて読むと、より深く理解できると思う。



そこでも論じられているが、未来社会では、AIや監視技術、IOT(インターネットオブシングス)といった技術によって、あらゆる情報が吸い上げられるようになり、自動化されていき、人々の生活は安楽で、快適なものになるが、主体性というものは必要なくなるのである。



それが人々にどう影響していくかといったことについてユヴァル・ノア・ハラリは悲観的な予想を提示している。




成田悠輔は、イエール大学出のエリートで、気鋭のデータサイエンティストで、まさにそのような未来社会の中で、統治する側に回る人材である。



彼の発想は、明らかにテクノクラートの発想であり、民衆は判断力がなく、簡単に衆愚政治に陥るので、民衆に民主主義を与えておく価値がないと思っている。



民衆の要望に応え、民衆が幸福になる為にエリートが民衆を統治してあげる必要があるという考え方である。



従って、彼もプラトンの哲人政治を良しとする人間なのだということが分かる。




然し、プラトンの哲人政治は、その哲人がもし悪人だったら、どうするのかという問題がある。



そのような人間が全ての民衆から吸い上げたデータを管理する立場になったら、それこそ、ビッグブラザーが管理する全体主義のディストピアになってしまう。



成田悠輔からは、そうした悲観的な未来像が出て来ず、人々が全てのデータを明け渡すということにも問題を感じていない。



例えば、私などからすると、全てのデータを吸い上げられて、それをAIで処理されていると思うと、監視されていたり、管理されている気がして、少し気持ちが悪い気がするが、そういう感覚はあまり成田悠輔からは感じられない。



そうしたことなどから考えて、私は成田悠輔は、おそらく水瓶座ラグナか、双子座ラグナではないかと考えている。



彼は、1986年生まれであるが、その年に生まれた場合、木星は水瓶座に在住し、土星は蠍座に在住している。



水瓶座に在住する木星が、彼を水瓶座の時代の明るい理想主義で満たしているのである。



成田悠輔の無意識民主主義の思想には、水瓶座のディストピアのイメージは全くない。




因みに成田悠輔は、自民党の保守政治を改革したいと思っている政治的スタンスとしては、リベラル派である。



然し、その成田悠輔の思想は、突き詰めれば、テクノクラートの発想であり、エリート政治である。



ここ最近、リベラル派の思想は、メリトクラシー(能力主義)の影響を受け、テクノクラートが民衆を統治して、民衆に幸福を授けるという思想に変化してきている。




彼の発想は水瓶座の木星から来ているが、水瓶座は、共産主義の発想であり、平等を目指すが、然し、その時に対向の獅子座の影響が明らかに入って来るのが感じられる。



獅子座は、王室の星座であり、絶対王政の時代の「王権神授説」の中に見られるような確たる根拠はないが、私は王様であり、統治する権利があるとする思想である。



獅子座の特徴は、根拠のない自信であり、根拠なく自分が一番偉く、支配する人間だという信念である。




水瓶座の平等主義の中には、こうした生まれついてのエリートの持つ、統治の思想が混入しているように思える。



従って、民衆の要望を汲み取り、あらゆる利便性を与えて、ある種、民主主義の実現したような民衆に奉仕する社会を実現するが、民衆を統治するのは、テクノクラートである自分たちなのである。



水瓶座(共産主義)の表現として、ソビエト連邦や中国などで、エリート官僚による一党独裁や、全体主義の問題が生じているのはその為である。



従って、水瓶座-獅子座軸ということで、水瓶座には、常に獅子座の影響が付いて回るということは忘れてはならないのである。



現代の魔術師と言われる若手の思想家、落合陽一も『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』といったテーマで同じような理論を展開しているように思える。



つまり、現代の魔術を駆使して、民衆にとって快適な社会を実現するが、それは非常に才能があり、創造性に満ちた自分たち天才の仕事によって行なわれるという訳である。



私は、落合陽一の本はあまり読んでいないが、民主主義を否定する発言をして、浅田彰から『非劇的発言』と評価されていたのを覚えている。




然し、メリトクラシー(能力主義)と並んで、こうした思想は今の時世を反映しており、リベラリズムというのは、エリート主義に変化したのである。



それは民主主義で、労働者に選挙権を与えて、投票によって、政権を取り、労働者の意見を政治に反映させるといった考え方ではない。



最近のリベラリズムは、労働者が、投票に行って、正しい政治的判断をするといったことを諦めているのである。



その代わりにAIや監視技術、IOTを駆使したテクノロジーによって、スマートシティーといった形で、民衆に幸福を約束するといった考え方に変わって来ている。



それは、従来の保守思想とも違ったものであり、従来の保守思想は、既得権益を守るという発想である。



新しいリベラル派は、既得権益を破壊し、民衆の要望に応えられる社会をエリートの力で作り上げるという発想である。



その中では、民衆による政治参加などには全く期待していない。




秘教の中には、水瓶座の時代には、霊ヒエラルキーが社会に出現するが、民主主義とは矛盾せず、それらは、共存が可能であるという考え方がある。



まず、霊ヒエラルキーとはプラトンが言った哲人政治のことであり、単純に言えば、人間が能力に応じて、金、銀、銅に分けられて、能力に応じた仕事を行なうという考え方である。



例えば、インドのカースト制度などは、遥か昔には、人間が能力や霊性に応じて、身分が自然に分けられていくという思想であった。



然し、その後、制度として硬直化し、今では、不道徳な差別制度になっている。



霊ヒエラルキーと民主主義は両立すると言うが、然し、同じ階級内でしか民主主義は成立しない。



例えば、同じ金同士、銀同士、銅同士であれば、会話や意見交換、議論が成立するが、例えば、金と銅が話し合っても無駄である。



ただ金の叡智や知恵を銅が受け入れるというだけになってしまう。



そこには対等な関係がなく民主主義的な議論の余地がない。




従って、霊ヒエラルキーというのはやはり階級社会なのである。



水瓶座というのは、その本来の性質において、階級社会を作り出す特性がある。



例えば、会員制ビジネスなどを作る際にプラチナ会員、ゴールド会員といった形で、会員に階級を設けるのは、水瓶座の発想である。





水瓶座というのは、水瓶座―獅子座軸という構造において、対向の獅子座の影響を受けるため、エリート主義、エリートによる統治の思想が混在している。



水瓶座の時代というのは、平等を作り出すが、階級も作り出し、民主主義は、同じ階級間でのみ可能である。




水瓶座の時代というのは、そうした社会であることは肝に銘じる必要がある。






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コメント

コメント一覧 (7件)

  • 秀吉先生、

    >水瓶座というのは、水瓶座―獅子座軸という構造において、対向の獅子座の影響を受けるため、エリート主義、エリートによる統治の思想が混在している。

    水瓶座の太陽というのは、どういう解釈なんですかね?

    土星支配という敵対星座にあるので太陽(自我)の表現が抑制される…のか、

    それとも、対向の獅子座にアスペクトバックしているので、本来宮在住と同じで太陽(本人、自我)が、水瓶座-獅子座軸という固定星座で、ますます揺るぎなくなるのか…

    それとも、敵対星座の水瓶座にあるので、本人には制限がかかるが、対向の7室本来宮に在住しているのと同様なので、パートナーと一心同体的な性質が加わるのか…

    先生はどう解釈されますか?
    • 水瓶座に太陽が入れば、水瓶座の性格になります。
      太陽の配置が性格に占める部分において、いくらか水瓶座的な性格がもたらされると思います。

      その場合、敵対星座に在住しており、自室にアスペクトバックしているといったことも全て働きます。
      つまり、太陽はそれ程、星位は強くないが、自室にアスペクトバックすることで強くなっています。
      敵対星座にいる太陽としては弱いですが、アスペクトバックで挽回しています。
      太陽は凶星である為、水瓶座の性格を否定的に表わすと思います。

      つまり、水瓶座のシステムの管理者としてのエゴが出てくると思います。
      但し、弱い為、あまり上手くスマートに水瓶座的な管理者になれないということかもしれません。
      ぎこちなく火の性質が噴き出して、水瓶座の本来の長所である知的にスマートに管理出来ない所が出てくるかもしれません。
      エゴが噴き出して属人的な対応をするかもしれません。

      基本的に水瓶座に在住した惑星は、システマティックに物事を組織化したりする才能を示しますが、
      惑星が弱い場合は、それが上手く出来ないという所が出て来ると思います。
      それが火の惑星であれば、どこか土星を支配星とする水瓶座に調和しない、ぎこちなさが出て来るかと思います。

      水瓶座の凶星ということでイメージするのは、非常に規則やルールで秩序づけられ組織化されている官僚制的な全体主義国家といったイメージです。

      もし土星などが強い星位で入っていたら、法律や条例、都市計画、規則正しい行政などで、スマートに人を管理するかもしれません。

      但し、太陽とか火星が入っていたら、そこに場違いな権力者や軍人がいるイメージであり、属人的な対応になったり、組織化の水瓶座に適さない何らかの摩擦が生じるかもしれません。

      水瓶座の太陽ということで、抽象的なことを話していてもあまり役には立ちませんので、
      太陽が水瓶座に在住している人の具体的な事例を探してみて下さい。

      例えば、オノヨーコは太陽が水瓶座に在住しています。

      太陽期には海外で牧場の経営などビジネスに乗り出した時期です。

      そのマネジメントがどのようなものであったか調べると分かるかもしれません。
  • 秀吉先生、

    よく分かりました…

    実は私自身、水瓶座の太陽なのですが、私が同じマンションの古くから住んてて噂話ばかりする婆さんたちを墓穴を掘らせることでことごとく懲らしめたので…
    雰囲気が北朝鮮みたいになってる…(笑)
    と揶揄されたのですが…

    正に仰る通りそんな感じだと思います。
  • ちなみに、私の場合、土星もムーラトリコーナで同座してますので、それで、私が越してきたせいでマンションの雰囲気が全体主義国家みたいになってしまったんだと思います…
  • それは具体的で分かりやすいです。マンションの住民たちを水瓶座の組織化、ルール化の力によって管理統制した訳ですね。
    それは笑える話ですが、占星術的に真面目に機能していると思います。
  • まぁ、私は権力者でもないわけですが、
    別に物理的な力を使ったわけでもないんです。

    ただ、それぞれの人の性質を逆手に取って墓穴を掘らせただけなのです。

    虚言癖の理事長がいて、私と敵対してデマを流したので、最終的に窮地に陥るように、人々がその人の虚言を信じるように演技をしました。
    規模が拡大したら、真実が自ずと知れると思ったからですね。

    そして、余計なお喋りをする婆さんにも、頼んだわけではないですが、デマを信じるような微妙なニュアンスで話をしました。

    そして、この二人、それから、この二人の味方をしたり、信じたりして付いてた人たちは最終的に皆恥をかいたり、自らが広めた流言のせいで窮地に陥り、責められる立場になったのです。

    私は、ほんとに、ほとんど何もしてなかったんです。
    ちょっとした演技と、微妙な物言いをして、これらの軽率な自分の頭で考えず、噂話を鵜呑みにする人たちを思うように動かした…

    それだけなのです。
    • それはまさに水瓶座の管理、支配の仕方かもしれません。命令したり、分かりやすい支配者という形で、支配したのではなく、状況を操作して、虚言癖がある人が破滅するような形態を作り、その形態に追い込んだということです。
      5室双子座のマインドも入っているかもしれません。
      力づくで操作したというよりも生まれつつあった状況に上手く合わせたといってもいいかもしれません。銀行家(水瓶座)などがそのようなやり方で大衆を支配していると思います。小さなレベルで現れているという意味で、興味深いです。

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