
西暦 | 年月 | 出来事 | ヴィムショッタリ | チャラ | ヨーギニ | トランジット |
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1931年 | 10月12日 | 次男として生まれる。 父親:K.ラーマ.ラオ氏:インド独立前から活躍したジャーナリスト。ナショナルヘラルド創設に編集者として参加。長年に渡って30誌以上の新聞・雑誌で編集者として敏腕を振う。 母親:偉大な占星術家。プナシュナ(ホラリー)や女性のホロスコープといった特定分野においては、間違いなく右に出る者はいない。独創的で、心が柔軟であらゆるものを現代的視点で見ようとする反面、南インド地方の純粋で伝統的なブラフミン。 | 火星/金星 | |||
1942年 | 11歳の時に腸チフスにかかる。当時、インドのような国で子供がこの病気にかかると、まず助からないにも関わらず、周囲がほとんど諦めていたなか、奇跡的に生き延びる。6ヵ月間は固形物が食べられず、流動食だけで過ごす。母親がラオ氏の前にサラスヴァティー女神の絵を置いて、毎日、数秘術と手相術と占星術を教える。 | ラーフ/水星 | ||||
1943年 | 今は亡き母親、K・サラスヴァニー・デーヴィーから占星術を教わる。 | ラーフ/水星 | ||||
1945年 | ラオ氏が広場でサッカーを楽しんでいた10代前半の頃、近所の3階建ての黄色い建物からは、名声不朽の偉大な歌手ベグム・アクタル(女性)のメロディアスな声が聞こえていた。彼女の人気は大変なものであった。当時のラオ氏には彼女がなぜそんなに人気があるのか理解できなかった。(ラオ氏回想) | ラーフ/金星 | ||||
1955年 | 英文学を学んで大学で教師をする。 | 木星/土星? | ||||
1957年 | 1月 | 上級職公務員試験を通って役人として採用される。 | 木星/水星 | |||
在職中、彼は会計監査に関する3つの国際コースで、プランナーとオーガナイザーそして講師を勤める。その間、局長を2回、副局長を1回務める。仕事と占星術の両方において、20年以上外国人と交流を維持していた。 | 木星期、土星期半分 | |||||
1971年 | 5月~ | 『1970年頃、ラジコットで勤務していたわたしは、メフィルに招待されました。・・・その日はベグム・アクタルがガザルズを歌うというので、わたしは彼女の歌声を聞きに行きました。彼女の声は以前にも増して甘く、官能的な要素は少なく、より成熟していました。評論家の言うとおり、彼女の歌うガザルズのセミ・クラシックの気品は本物でした。感覚を刺激するガザルズにわたしはあまり興味を持っていなかったので、これは、わたしにとっては、まさに願望成就でした。神はいつも最後には微笑みかけるものなのでしょう。この当時のプラティアンタルダシャーは金星でした。』 | 土星/水星/金星 | |||
1981年 | 12月 | デリーで3日間の占星術セミナーが開かれたとき、その問題を克服する契機が訪れた。ラオ氏がスピーチをしてから、占星術に関する記事を依頼されるようになる。それ以来、それまでのオリジナルの研究を発表する機会に恵まれ、やがて世界に認められるようになる。 | 土星/ラーフ | |||
1982年 | スワミ・ムールカナンダ師が、ラオ氏が偉大なる占星術ルネッサンスの開拓者になるだろうと予言する。 | 土星/ラーフ | ||||
1985年 | 12月 | 『それから15年経った1985年、ババのアシュラムにいるとき、献身的なオディッシ音楽の曲を聴きました。それは、これまで聞いたことのないほど魅力的な、献身をテーマにした音楽によるシンプルで情緒的な描写でした。そこで、わたしは、ヒンディー語のバジャン(神に捧げる歌)と、オディッシ・スタイルによるトゥルシーダスのラムチャリット・マナスを歌ってくれるように頼みました。ババ(長老)の弟子である一人の青年と、2人の若い女性は、このリクエストに見事に応えてくれました。』 | 土星/木星/金星 | |||
1986年 | 1月 | 『・・・わたしのホロスコープにおける金星のプラティヤンタルダシャーが1985年12月に終わると同時にわたしの音楽とのかかわりは突然なくなるだろう、とわたしは彼らに言いました。1986年1月になってわたしに転勤の辞令が届きました。』 | 土星/木星/太陽 | |||
1986年 | 4月12日 | 『わたしのプラティアンタルダシャーが10室を支配している月だったとき、S.R.さん(ババの2人の女性の弟子の1人)のプラティアンタルダシャーは10室に在住する金星でした。1986年4月12日、10室の支配星がわたしのプラティアンタルダシャーだった時にわたしが聴衆に彼女を紹介したことは、少しも不思議ではありませんでした。これは、多くの聴衆をひきつけるスターとしてアヌープ・ジャロタが招待されていたカンプールの同じステージでのことです。1986年4月12日、月と金星が彼女のホロスコープにおける10室を通過中でした。その後、彼女のラグナの支配星(月)は最高星位に入りました。S.R.さんは3曲のバジャンを歌って、聴衆を魅了しました。それを聴いた多くの人は、彼女が今後有名なバジャン歌手となっていくだろうと感じました。』 | 土星/木星/月 | |||
『・・・10室の支配星とコンジャンクトしているわたしの弱い金星は、時折、音楽への興味を蘇らせてくれますが、それは道徳的に清らかな生き方をしている人たちが歌っている宗教音楽に対してのみです。甘美な賛美歌の長い歴史を持っているオリッサの音楽は、わたしの素人判断では、他の地域の賛美歌よりもはるかに魅力的です。 | ||||||
1990年 | 1月 | インド政府の会計監査院の最高職を退職する | 水星/ケートゥ | |||
『独身で政府高官という職にあったためにインドでは格好の結婚相手でした。伝統を重んじる人たちがわたしのところにやってきて、婿養子の話を持ちかけてきます。それをようやく断ると、今度は役所で女性たちがつけまわす。これには心底、困らされました。』 | ||||||
1993年 | 3月14日朝 | ビハール州のブッダガヤの大学で哲学学科の長である、K.N.ラオ氏の友人、L.P.シンハ博士が、外国人の女性と一緒にラオ氏の家を訪ねる。 | ||||
1993年 | ラオ氏は1993年~1995年の間、5回渡米し、占星術に関する全米レクチャー・ツアーを行う。1993年の全米インド占星術協会が主催する第2回会議では、ラオ氏は主賓として招かれる。 | 水星/太陽、水星/月 | ||||
1993年 | あるインド人がワシントンにある家にラオ氏を招き、ラオ氏は彼のホロスコープを見て、彼が管理職にある技師であり、とても大きな国際条約を結んでいると言う。彼は驚き、彼の奥さんはおいしい料理を振る舞い、彼はラオ氏に1000ドル渡す。 | 水星/太陽、水星/月 | ||||
1993年に初めてアメリカに招待されて以来、ラオ氏はインド占星術に関する英書を少なくとも20冊以上書いている。 | マハダシャー水星期 | |||||
1994年 | ラオ氏が参加すると多くの人を集めることができるので、1994年の第3回会議ではラオ氏は会議の初日から参加するように頼まれる。 1994年9月カリフォルニア州サン・ラファエルで行われた、第3回インド占星術シンポジウムの際にインタービューを受ける。 | 水星/月 | ||||
1995年 | 7月 | ワシントンDC近郊のウエスト・ヴァージニア州で、プロジェクト・ハインドサイト関連の、トップクラスの西洋占星術家の会合が開かれ、そこへラオ氏が招待され、インド占星術のダシャーシステムについて2時間の講演を行う。 | 水星/火星 | |||
1995年 | 11月 | 1995年11月の第4回会議までラオ氏の名前は全米で宣伝され続けましたが、その会議で彼は、それ以後アメリカの会議には参加しないことを表明する。 | 水星/火星 | |||
『ラオ先生のインド占星術―運命と時輪―上巻』(インド占星塾 発行 大森一訳) を引用抜粋し、時系列順に並べ替え、大幅に編集。 |