
西暦 | 年月 | 出来事 | ヴィムショッタリ | チャラ | ヨーギニ | トランジット |
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1935年 | 岡山県阿哲郡菅生村(現在の新見市)に5人兄弟の長男として誕生。 | |||||
1951年 | 東京正生院に入塾。 | |||||
1957年 | 鳥取県立米子東高等学校に入学(のち中退)。山梨県東山梨郡勝沼町(現在の甲州市)の大善寺の井上秀祐の許で修行。 | |||||
1960年 | 高尾山薬王院貫首山本秀順の許で出家、鹿児島の日蓮宗教王寺住職富田日雄(のち本法寺 (京都市)貫首)の許で修行。 | |||||
1962年 | 大正大学の聴講生となり、雑誌『実践仏教』を発行。その傍ら浪曲師(東家楽水 (2代))、易者となる。 | |||||
1965年 | 高尾山留学僧としてタイに留学。(高尾山薬王院の仏舎利塔がタイ国王室より寄贈された縁による。) | |||||
1966年 | インドのカルカッタ、後にラージギルの日本山妙法寺へ移動し、八木天摂に師事。法名「天日」を授く。 | |||||
1967年 | 夢告により、ナーグプールに移動。 | |||||
1969年 | インド山妙法寺をナーグプールに建立。 | |||||
1970年 | ボンベイのシッダールタ・カレッジに留学。 | |||||
1984年 | 佐々井は全インド比丘サンガ協会より、仏教の根本道場並びに仏教徒の国際交流の場としての総本山をブッダガヤに建設する委員に推薦された。この協会は、当時としては数少ない仏教僧組織のひとつであったが、上座部仏教僧の集まりであり、佐々井とは思想を異にしていたため、それまで互いの接触はなく、突然の人事であった。 当時の協会事務局長ダンマ・パーラや法首アーナンダ・ミトラは日本とも交流があり、佐々井を熱烈に支持。佐々井はこの計画の委員長となった。 しかし、事業は難航を極める。 | |||||
1985年 | 11月半 | ボンベイの州政府内務省より佐々井の強制退去命令が発令される。この頃佐々井は日本国籍であった。この2年前には国籍取得の嘆願書をマハーラーシュトラ州政府及び中央政府内務省に提出していたにも関わらず、事務処理は遅々として進まず、入国ビザはとうに切れていた。形の上では不法滞在となっており、それが俄かに取り沙汰され、急遽身を隠すことになった。 | ||||
1986年 | ナーグプール仏教徒委員会より菩薩号を贈与される。 | |||||
5月 | 大量の建築資材と金庫の中の資金及び帳簿の一部が内部の者に持ち去られる事件が発生。 これらの問題をきっかけに協会内の佐々井反対派が勢いを増し、計画は頓挫した。 なおこの計画のために、真言宗智山派関東三山(高尾山薬王院、成田山新勝寺、川崎大師)や臨済宗南禅寺派明泉寺住職冨士玄峰らが中心のナグプール同友会、神戸市仏教連合会、神戸青年仏教徒会などから義援金が集められていた。この問題を振り返り、冨士玄峰は「失敗の原因は十分な計画性に欠けていたことです。ヒンドゥー組織の妨害もあり、だまされてしまったんですね。」と述べている。 協会は1994年に佐々井他2名の追放を宣言している。 | |||||
1988年 | インド国籍を取得。インド名をアーリア・ナーガルジュナとする。(龍樹に由来。) | |||||
1992年 | 佐々井は自らを代表とする「全インド比丘大サンガ」を組織(正式な公表は1996年)し、前述の大菩提寺管理権返還運動へと繋がっていく。 | |||||
1992年 | ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺)の管理権奪還運動を開始。 | |||||
5月16日 | 大菩提寺大塔にて300人規模の参拝。ヒンドゥー化された現状に抗議し、揉み合いとなる。 | |||||
7月20日 | 「ブッダガヤ大菩提寺全インド解放実行委員会」結成。委員長就任。 | |||||
9月27日 - 10月22日 | ボンベイからニューデリーへ、トラック十数台を引き連れ行進。最終的に数万人規模の集会となる。大統領、中央政府首相に請願書を手渡す。その後ブッダガヤを経由し、ナーグプールへ帰還。全行程約7,000km。 | |||||
11月23日 - 12月6日 | アンベードカル入滅日、仏陀成道日を記念し、デリーにて座り込み。その最中の12月6日、インド北部アヨーディヤにて、ヒンドゥー教至上主義者達によりイスラム教モスクが破壊されるバーブリー・マスジド事件が起こる。この宗教対立により状況が緊迫化し、デモの中断を余儀なくされる。 | |||||
1993年 | 5月5日 - 5月7日 | ブッダガヤ大菩提寺にて座り込みの後、ビハール州都パトナにて市中行進。ビハール州首相ラルー・プラサド・ヤダヴとの会見。大菩提寺内のヒンドゥー的装飾と正面大門の紋章の撤去を要請。 | ||||
10月14日 - 10月21日 | デリーにて大統領官邸及び首相官邸を取り囲みデモ。市内広場にて7日間の座り込み。 | |||||
1994年 | アンベードカル国際賞を受賞 | |||||
5月24日 - 5月26日 | ブッダガヤ大菩提寺にて釈迦生誕を祝う参拝を行う。行進は大規模となるも、寺院参拝を許可されたのは内300人に留まる。後の6月に州首相と会見し、93年5月に行った要請の再確認に加え、「仏陀はヴィシュヌ9番目の化身である」というヒンドゥー教の解釈を否定する最高裁の判断を支持する認定書を取り付けた。 | |||||
12月8日 | 00人に留まる。後の6月に州首相と会見し、93年5月に行った要請の再確認に加え、「仏陀はヴィシュヌ9番目の化身である」というヒンドゥー教の解釈を否定する最高裁の判断を支持する認定書を取り付けた。 12月8日 | |||||
1995年 | 4月13日 | 3日間に亘るパトナ市内及びブッダガヤでの行進の後、大菩提寺大塔付近とパトナ市議会堂付近にて座り込み。改宗させたばかりの2,000人を動員し、彼らを中心に一般信徒含め数万人が交代で3ヶ月間行う。 | ||||
5月 | 5月には、ナグプールから高さ3mのアンベードカル像をブッダガヤに運び込み、一夜にして建立する。 | |||||
7月11日 | 現地にて抗議の断食に入る。翌日、中央政府に承認された新管理委員会名簿を州首相より手渡され、断食および3ヶ月間の座り込みはここで終了となる。 | |||||
11月1日 | 未だ法改正がなされず完全な管理権返還に至らない大菩提寺の解放を要求して、ブッダガヤにて抗議の断食を行う。僧侶、一般信徒数千人規模となり、一部は境内にも入り込む。9日目に州首相より、中央政府首相、閣僚、各政党との大菩提寺早期返還を目的とする会合を持ちかけられ、断食を中止。 | |||||
1996年 | 11月1日 | デリーにて集会、デモ。全インドから仏教徒数万人が集結。市中行進し、市街地で座り込み。その夜、中央政府首相デーヴェー・ガウダと会見。 | ||||
1997年 | 2月末 | 2月末、デリーのヤンタル・マンタル広場にて抗議の無期限座り込みに入る。 | ||||
1992年より集中して行われてきた一連の大菩提寺解放運動は、1998年10月13日をもって一旦終結する。現在、大菩提寺の管理は仏教徒が実質的に行っている。しかし寺院管理の法改正の要求は通っておらず、その後も形を変えてしばしば運動は行われている。2002年、大菩提寺が世界遺産に登録されたことをきっかけに、国連本部より招待を受け、この年のジュネーブでの国連特別総会およびパリのユネスコ本部にて国際社会に向けてアピールを行う。また44年ぶりに日本への一時帰国を果たした際、日本各地での講演において大菩提寺管理権返還の重要性を訴えている。 | ||||||
1998年 | マンセル遺跡、シルプル遺跡の発掘を開始。 | |||||
2003年 | 仏教徒代表としてインド政府少数者委員会 (National Commission for Minorities) の委員の1人となる(在任期間:2003年11月2日 - 2006年10月2日)。 | |||||
2004年 | マハラシュトラのナーガブーシャン賞を受賞 | |||||
2009年 | 44年ぶりに日本帰国、各地を訪問、講演会を開く。 | |||||
2010年 | 龍樹菩薩大寺をナーグプール郊外に建立。 | |||||
2011年6月 | 東日本大震災被災地20箇所をまわり、慰霊行脚を行う。 | |||||
2015年6月 | 高野山大学におけるアンベードカル銅像建立式典に招待され、講演会を行う | |||||
wikipediaより引用抜粋 |