11室の支配星-何故、最悪の機能的凶意を持っているのか-

11室の支配星は貪欲な人の表示体である。

それは他人を利用しようとする貪りの人である。

あるいは、激しい嫉妬心や競争心を燃やしてくる安らぎを得られない相手である。
11室は基本的に6室からみた6室目のハウスであり、6室の本質のハウスである。

そこには暴力性があり、常に安らぎのない競争や闘争がある。
11室の支配星に影響される時、急激に人脈や交友が広がるが、様々な人たちが自分のことを利用しようとして接して来ると同時に自分自身もそうした人々との人脈を活用したいとか、何かそうした人脈から利益を得たい、そうした人々から評価され、認知を得たいという下心が出てくる。
それが自分自身の心に芽生えた途端に心に苦しみが生じ、また貪欲な貪りの人によって利用され、貪られてしまうので注意が必要である。

そのような時、貪りの人の誘いに乗らずに全てを捨ててしまえば、苦しみは無くなり、心の平穏がやってくる。

それには高い心的スキルが要求される。

大抵は貪りの人が接近してくると同時に自分も認知や地位や評価や利益を求めて貪りの人に変貌する。

その過程は同時的である。
例えば、国連難民高等弁務官の緒方貞子さんは、何故、小泉純一郎からの外務大臣への就任要請を断ることが出来たのか考えてみたい。

時の首相から直々に外務大臣就任への要請を受けたのである。

そのポストは貪りの人であれば、喉から手が出るほど欲しい肩書き、ステータスである。

然し、緒方貞子さんがその要請を断れたのは、心的スキルが高いことを示している。

真の価値というものについて理解していることを示している。
小泉内閣は、元々緒方貞子さんの国連での立派な業績や知名度、人気を利用したかっただけである。

それは緒方さんを利用し尽くし、貪るという行為であった。
もし緒方さんが外務大臣になったら、くだらない国会での答弁の為にそして、不本意な政権を維持するためにその身を何度もメディアや公衆に晒さなければならなか
った。

緒方さんは、肩書きやポストを貪る気持ちがなかったために晩節を汚がさずに済んだのである。

政治の世界では人を利用する人間ばかりである。利用価値のある人間に近づいていくのが政治である。

そんな中で、緒方さんは真の価値を理解していて、つまらない人間の欲望の渦に巻き込まれないで済んだ。これは稀な現象である。

例えば、何故、英国のブレア首相(元)は、ジョージブッシュの呼びかけに応えて、イラク戦争を始めたのか考えてみたい。

ブレアは当時、米政権の中枢にあったネオコン幹部と米国民の愛国的熱狂の中で、自分がジョージ・ブッシュと共にヒーローとなり、世界のプリンスになることを望
んだ。

そこには権威のあるエスタブリッシュメントな者からの評価、認知、利益を求める欲求があったに違いない。

それは地位や名声を求める貪りの心である。
ジョージブッシュは、英国のブレア人気や英国の同盟国としての価値を利用したかったのであり、それは貪り以外の何ものでもなかった。

それはブレアからその生のエキスを搾り取り、徹底的に貪る行為に等しかった。
然し、ブレア自身も評価や名声を求める欲求が強かったためにエスタブリッシュメントで権威ある者からの認知や評価といったものを捨てることが出来ず、それらの
貪りの渦に巻き込まれた。

結果として、ブレアはその経歴を傷つけ、歴史に不名誉を刻み、英国人から最も嫌われている男となった。

彼の残りの人生はひどく惨めなものになった。
彼は今頃、何故、自分がその時、そうした選択をしたかを悩んでいるかもしれない。

真の価値が分からず、捨てることが出来なかったために彼は貪り、そして、貪られた。

最後に映画監督のウッディ・アレンが何故、アカデミー賞の授賞式に顔を出さないのかを考えてみたい。

(※以前、アカデミー賞の授賞式に出席しないことで有名であった。最近は分からない。)

彼はアカデミー賞の授賞式に出席せず、代わりに自身のクラリネットの演奏会に出演していた。

そんなエピソードが伝えられている。

彼にとってはアカデミー賞よりもクラリネットの演奏会の方が大事だったのである。

権威ある筋から認められ、評価を受けたり、人々から賞賛されることに全く興味がなかった。
それは彼が真の創造的な芸術家であったからである。

彼にとっては作品を創ること自体が喜びであり、報酬であった。

アカデミー賞で、その権威筋から評価され、称号やトロフィーを与えられることなど、彼にとってはどうでもいいことだった。

彼の芸術家としての大きさの方が、アカデミー賞の権威筋よりも大きかったため、それらの人々を足蹴に出来たという面もある。
一方で、アカデミー賞の方は、ウッディ・アレンに出席してもらえずに大きな権威の失墜と損失を味わったのである。

ウッディ・アレンを授賞式に参加させることは権威筋にとって利益であり、またウッディ・アレンという名声の利用であり、貪りであるといえる。

然し、ウッディ・アレンは真の価値を知っていたがためにアカデミー賞から利用されることは無かった。

受賞スピーチに気をもんだり、称号と引き換えに忍耐を強いられることもなかった。

彼はクラリネットの演奏会で真に幸福な楽しいひと時を過ごしたのである。
その貴重な時間を貪欲な人間たちに奪い取られる(貪られる)ことはなかった。

何が真の価値であるか、日頃からの心がけが重要である。
自分が人からの認知を求めている時、そこから災いがスタートする。
人からの認知を捨ててしまう時、苦悩から解放される。
但し、これらは容易ではない。

ミイラ取りがミイラにならないようにしなければならない。
貪欲である人は、貪欲な人に利用されるのである。
貪り、貪られることに気を付けなければならない。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。    ――― ニーチェ『善悪の彼岸』146節より

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