脱原発と国益について

アリストテレスは「人間は政治的動物である」として、人間を定義したようである。

社会に参加する人間である以上、政治と無関係であることは出来ないのだという。

そのアリストテレスの哲学を参考にして、目的論の立場から、コミュニタリアニズムを論じるマイケル・サンデル教授が最近、注目された。

私たちはある政治問題についてあいまいな立場を取ることは出来ず、自らの政治的立場を明らかにする必要がある。

そういう観点からすると最近の原発問題に関しても、政治的立場を主張しなければならないと思われる。

もちろん、私は脱原発派である。

これからデモにも機会があれば参加したいし、原発推進派には投票しない。

脱原発は左翼の陰謀だと言って、反発する右翼の人もいるらしい。

日本が原子力を放棄したら、原子力技術が失われて、日本の国家としての威信とか外交力がなくなるとか、また日本だけが脱原発しても他の国は脱原発しないで日本だけが損してしまうとか、脱原発したら、核技術が失われ、いざという時に日本の領海とか領空をが諸外国が侵犯して、そうした諸外国への抑止力がなくなるとか。

例えば中国とか、ロシアが尖閣諸島や北方領土に挑発的に進出してくる。

そういう時に他の国が原発をまだ手放さないのに自分たちだけ先に手放すのか。

これが国益という立場からの反脱原発派の思想である。

あるいは、こういう思想的な純粋さもなく、全く私利私欲の利権の観点から、原発で利権が失われるのは容認できない。

環境が破壊されても、自分達が原発によってお金を得たいというそういうもっと低レベルな主張もある。

この利権というのは全くの自分勝手で環境が汚染されて多くの人が被害を被っても自分達が利益を得たいというのであり、これは問題外である。

これは目先の利益を追って、もっと豊かな長期的な幸せを失うのであり、単なる理解力が足らないことを意味する。

国益という立場からの反脱原発派の思想はもう少し複雑である。

右翼は国家に自分を同一視して、同一化している。

つまり、自我の延長としての国家、あるいは、天皇が、諸外国との競争の中で負けたくない、軽んじられたくないということである。

だから結局、国益という観点は、より自分より大きなものに同一化はしているが、自我がその大きなものの中で存続し、そこから栄養を得ている。

民族主義、国家主義、国益というように国家、民族に自分を同一化して、諸外国との駆け引きを始める。

日本の製造業には原発が供給する安定した電力が必要である・・・その製造業が日本の国民生活を支えており、日本の国民は原発によって日々の生活において安定した電力が得られる。

そういう主張を始める。原発の電力を利用してその恩恵を被っているのに原発に反対するとは何事かというのである。

然し、原発が危険であり、長期的に環境に害を及ぼし、人間の健康に悪影響を及ぼし、遺伝子レベルの致命的な被害を与え、そして、地球がこのまま原発を稼働させたら、地球が住めない国になってしまう。

そうしたことを理性的に考えた時に、国家に産み落とされて、一定の国に対する愛や国益に対する配慮も常識的に持っている私たちであっても、理性が脱原発と告げるのである。

悪いことは悪いと。良いものは良いが、悪いものは悪いと。

国益だの何だのとかしこぶって理屈を言っている場合ではない。

社会主義を未熟に夢想する若者でもないが、国益を盲目的に追求する程、知性が委縮している訳ではない。

より大きなフレームで考えるとき、原発がこのまま100とか1000とか稼働していく地球に住み続けることから、原発を止めて自然エネルギーにシフトして、人間の文化や生活スタイルをそのエネルギーの変化に対応させて、変えていく方がより理性的である。

国益というモデルはもう機能しない。

国益を追求しても結局、それは国益にならない。


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