ハウスには以下のような分類がある。
【自分】
12室、1室、2室
【私的活動(プライベート)】
3室、4室、5室
【他人】
6室、7室、8室
【公的活動(パブリック)】
9室、10室、11室
私は最近、自分のラグナから見て、6室、8室、12室にダブルトランジットしているせいか、この6室と8室という2つのドゥシュタナハウスを抱える【他人】というハウスの経験領域こそが、最も自我にとって激しい苦痛を与え、それだからこそ、自我への直面と覚醒をもたらすのではないかと思ったのである。
ハウスを順番に並べてみると、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12
となるが、
【3、4、5室】などは、比較的、穏やかで平安である。
また、【9、10、11室】などは、人生の中で最も脂がのって収穫の時期であり、栄光の期間であることを表わしている。
また、【12、1、2室】は、12室は損失を表わしているが、新たな出発のための終焉の時期であり、そこには次に備える静けさと瞑想的落ち着きがあるのである。ある種、病院に入院して安静に過ごす平和な時期である。損失感はあるが、そこでもたらされる静けさには喜びもまた存在するのである。
然し、【6、7、8室】の期間というものは、非常に苦しい期間である。
私がかつて通っていた神道系の宗教で、教祖の生前の言葉の中に、
・・・人間にとって最も苦しい経験は「病気、貧困、争い」である・・・
という指摘があったが、これは本当であると思う。
これらはまさに6室の象意である。
そして、「突然の災難や倒産、事故、死、支配者(天敵)」といった8室の象意も非常に苦しい経験領域である。
人は、これらの6室と8室の象意に感情的に振り回されて、自らをコントロール出来ない時、ドゥシュタナハウスとトリシャダハウスのコンビネーションによる欲望の苦しさから、更なるカルマを積んでしまうという、カルマの悪循環を経験するのである。
怒りからくる家庭内暴力や詐欺で人を騙してお金を巻き上げたり、資本家経営者が労働者から過酷に搾取労働をさせる-泥棒行為-や、人身売買、保険金殺人など、違法で誰の目にも犯罪であると明らかなものや、合法的で見た目には分からないものまで、様々な犯罪行為が存在する。
それらは全て他人との関係から来る苦しみである。
【6、7、8室】とは、他人を表わす領域であるが、7室は全く対等な相手である。
鏡で映した自分をそこに見ているかのようであり、自分と異なる固有の意見を持ち、権利を主張する存在である。
このステージにおいて、人は初めて、他者の存在に気づくのである。
それまでは精神分析の対象関係理論で言う所の、自己愛的な延長物として、他者や他人と関わっているのである。
どこかで自分の期待や考えを汲み取って満たしてくれていた早期母子関係の太古的自己愛的幻想の中に生きて来たのである。
然し、7室において自我同士が激しくぶつかり合って、対等な他者の存在を意識し、それが鏡となって映し出された自分の姿に直面するのである。
これは自我にとっては非常に苦しい体験である。
真の1-7室の関係性の中には、いつ戦争になってもおかしくない緊張状態が存在するのである。
国家の外交関係でもそうであるが、自分が領土を主張すれば、相手もまた領土を主張するのである。
自我というものは、パートナーを鏡として、自分に跳ね返ってくるのであり、それは正確に、約束のように跳ね返ってくる。
そして、そのやり取りから来るストレスに耐えられず、どちらかが一方を支配しようとする行為によって、その関係性は容易に6-8の関係へと転落するのである。
人にとって最も恐ろしいものは、人なのであり、他人の存在なのである。
人間は一人洞窟の中で、瞑想していても、決して進歩はしないのであり、濃密な人間関係の中で、他人との関わりの中で、もまれながら他人を鏡として自らの真実の[醜い]姿に直面する中でしか、自己への気づきや自己変革はもたらされないのである。
その気づきには他者(7室)の存在が必要なのである。
然し、7室とは自己が成長するチャンスであると同時にさらなるカルマを積んでしまう誘惑や危険がひそんでいるハウスでもあり、それがもたらすカルマが6室や8室である。
他人を表わす【6、7、8室】というのは、非常に可能性を秘めていて、不可欠なハウスであると同時に最も恐ろしいハウスである。
そのような罪と成長の両方の機会が存在する7室において、男女が結婚し、性行為を通じて、新たな生命が誕生する。
このような仕組みとなっているのは、人間が濃密な7室を経験して、自分の自我と直面するためである。
そして、そのステージに立った時に、自我の滅却という逆方向への過程が始まるのである。
7室はカーマハウス(欲望、消費)であるから、まさに物質的誘因によって強制的にこの体験をさせられるのである。
そして、最も誘惑が多く落とし穴が待ち受けているこのハウスにおいて、罪と成長のどちらかを選び取るのである。
それらは、その人間の反応の質、浄化の度合いで決まるのであろうと思われる。
聖者や聖賢が、妻帯しないのは、既に過去世において、7室の誘惑を何度も繰り返し経験済みで、それらの様々な側面を学習し終えて、そこから学ぶものがないからであろうと思われる。
他者の存在を通して自分に直面するということを濃密に経験するこの7室の学習から卒業したのである。
然し、聖職者や修行者が結婚しないのは、まだ学びの途上であるのに、聖者や聖賢の真似をしているからであり、あるいは、7室がもたらす経験と誘惑があまりにも危険だからである。
それによって成長、学習するよりも罪を積んでしまう危険性が大きいからである。
然し、この7室の経験を得ずして、真に自分に気づくことは不可能であるし、豊かな経験を得ることも出来ないのである。
だから、普通の一般人には7室の経験である結婚は必要な体験である。
その結婚による自我と自我の激しい衝突と摩擦、磨耗によって徐々に自我の角が取れて形が丸く整ってくるという体験が自動的にもたらされるのである。
ハウスの構造の中で、【6、7、8室】の体験領域というものが、最も恐ろしく、厄介な体験であり、特に男女の愛憎問題の中で、それが最も極度に表現されるということである。
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