最近、私はハリウッドの映画作品を見ていて、
視聴後に満足を得た作品の共通点というのに気づいた。
いくつか挙げてみると以下のような作品である。
『ベンジャミンバトン』
『オルランド』
『コッポラの胡蝶の夢』
これらの作品に共通しているのは、男女の性別とか、年齢とか、
現象界の制約を超えて、人間というものが普遍的に持つ、
絆とか、愛とか信頼関係を実験している所が面白いのである。
そして作品のストーリーが現象界の制約を超えているが為に、
輪廻転生について意識させ、『永遠』と、
それに対比する『有限の移ろい変化していく現象界の悲哀』を表現している。
これらの作品を構成するストーリーは実際には、
あり得ない出来事であるが、実際にはあり得ないことを
想定することで、現実に起こる出来事よりも、
よく人間のリアリティを表現している。
例えば『ベンジャミンバトン』では、ブラッドピット扮する
主人公のベンジャミンが生まれた時に老人として生まれて、
段々若返っていくというストーリである。
然し、その非現実的な物語を用いながら、その作品の
登場人物たちの人間模様は非常にリアルなのである。
これはおそらく映画制作の基本なのだろうと思われる。
作品を構成するストーリーは全く非現実的な奇怪な話であっても
構わないのであるし、返ってその方が面白いのであるが、
登場人物たちの心理描写や感情表現、親子愛、友情、
恋愛感情などは全て、現象界で私たちが日々体験している
ことを非常にリアルに表現しなければならない。
『ベンジャミンバトン』の場合には、
老いて生まれたベンジャミンは、老人介護施設の前に置き去りにして、
そこで育てられる。
そして、段々若返って、老人介護施設で幼馴染で知り合っていた少女デイジーとやがて同じ年齢になっていくのである。
そして、同じ年齢になって恋愛をするのである。
然し、最終的にはベンジャミンは若返って、幼い子供に返ってしまい、
ケイトブランシェット扮するデイジーの方は年齢を重ねて、やがて、
ベンジャミンが育った老人介護施設に入所し、幼いベンジャミンを養育
するのである。
その関係の中で流れる絆は親子愛である。
であるから、デイジーのベンジャミンに対する絆は、
幼い頃は、初恋的な感覚や友情、
そして、少女デイジーが大人になって、ベンジャミンが若返って、
同じ年齢になって、男女の恋愛としての絆に変化していき、
最終的にデイジーが老けて、ベンジャミンが子供に返ると、
その間の関係性は親子愛となっていくのである。
現象界の形式にあわせて、人間の絆が様々に変化するのである。
こうしたストーリー展開を視ると、輪廻転生の過程で、家族が、
時には親子として生まれたり、兄弟として生まれたり、夫婦として生まれたり、お互いが役割を変えて、様々に生まれ変わりを繰り返すことを思い出すのである。
親子関係であっても過去世で恋愛関係であったり、
あるいは、恋愛関係であっても過去世で親子関係や兄弟姉妹の関係であったかもしれない。そういう意味で、現象界で一時的にとりうる人間の絆の形式は、本質的ではないのであり、変化していくものである。
親子愛、友情、兄弟愛、恋愛など、男性、女性といった性別や年齢差によって、様々に変化する現象界の人間同士の絆は、もっと普遍的な愛とか、絆の中に包含されるのであり、存在が生成の過程で生み出した一表現である。
これらは移ろい変化してゆく、儚いものであり、悲哀を伴うのであり、
これらの中にある時、人は『永遠』というものがなく常に人生の出来事や出会いは一期一会であることを悟るのである。
ブッダは人間の人生を観察して、現象界で、人の人生が移ろい、老いて、やがて老いの苦しみを抱えていくことを観察している。
然し、何もこうした奇怪なストーリーを考え出さずとも、
こうした現象界で取りうる一時的な人間の絆が変化していくことは日常的に起こっている。
例えば、年上の女性が年下の男性と交際するような場合である。
女性が年下の男性と付き合うのは今は流行っているようである。
それは母性社会であるからであると思われ、特に母子関係が密な日本においての強い特徴である。
そうすると、最初は女性の方が色々社会経験があって、物事をよく知っているので、姉さん女房的に振舞うのであり、年下の交際相手の男性に対して、母性的に振舞うのである。そのため、初期の関係性は母親と子供のような関係に近いのかもしれない。
やがて、男性の方が成熟していき、女性の精神年齢に近づいていくと、関係性が、徐々に姉と弟のようになり、やがて、男性が成熟して、精神的な年齢差が、ほぼ同じになったところで、成熟した男女の恋愛関係になるのである。
その精神年齢まで、年上の女性は、年下の男性を育てるのである。
そして、男女の成熟した恋愛関係の絆に変化した後、
今度は、年上の女性の方が、先に老いに向かい出すのである。
すると、今度は年下の男性の方が、子供に返っていくかのような
年上の女性をいたわり、関係性はそこで、また親子関係のように変化していくのである。
このように関係性が、精神年齢や成熟度に応じて、様々に柔軟に変化していくということが、日常的に起こっている。
現象界の年齢を重ねることによる変化を経験していくうちに、
人は相手が同じであっても、あたかも全く別人を相手にしているかのごとく、また新しい関係性を築くのである。
輪廻転生しなくても、同じ人生の中だけでも、現象界が変化していく、
仮の一時的な世界であることを感じる瞬間である。
特に女性においては幼い子供を成熟した大人に育てていく過程で、
このような絆の変化を経験しやすいと思われる。
ある時は、母親のように、ある時は、姉のように、ある時は、恋愛相手のようにと、子供の成熟に合わせて、自分自身も変化していくようである。
因みに『ベンジャミンバトン』で、ベンジャミンが生まれ育った老人介護施設で、赤ん坊に返って死んでいくシーンがあったが、4室は母親、故郷という他に死ぬ場所、墓場という意味もあるのである。
従って、人は母親と暮らした故郷や家(4室)で死んでいくのである。
私はこうした生まれてから、死ぬところまで、人生全てを見せる映画に自分が弱いということが分かった。
終わった後に余韻に浸ったりなどして感動してしまう。
全てが儚く移り変わっていく様を見せてくる、こうした人の一生を描く作品に引き込まれてしまう。
老いの哀愁とか、晩年に若き日の栄光を思い出したりとかそういった
話の展開に引き込まれてしまう。
『ベンジャミンバトン』
『オルランド』
『コッポラの胡蝶の夢』
これらの作品は皆、そうした作品なのである。
何か時代が移り変わって変化していく寂しさ、永遠を求める人間が、
永遠を得られないで変化の中で、全てを失っていく孤独感というものを
擬似体験するのである。
そしてそういう現象界の移ろいゆく変化を達観して、何の執着なく、
受け入れていく成熟地点が、解脱の心境だろうと思われる。
人はおそらく死ぬ一歩前になってそのような解脱の心境になるものだと思われる。一生というのは生涯を通して、解脱までの勉強ができるようになっているのである。
このような人生に起こった一生涯の変化を見せて、感動を呼ぶ作品に、
『フォレスト・ガンプ/一期一会』もあるが、これについては輪廻転生を想像させるような奇怪な物語ではないため、以下の映画には加えなかったが、
『ベンジャミンバトン』
『オルランド』
『コッポラの胡蝶の夢』
移りゆく人生の喜びや悲哀を描いている点では似たような雰囲気を出している。
調べてみると、『ベンジャミンバトン』の脚本は、
『フォレスト・ガンプ/一期一会』のエリック・ロスが書いているようであり、納得したのである。
また『ベンジャミンバトン』には、『オルランド』を主演したティルダ・スウィントンも出演している。
コメント