ボリウッドの話題作『RRR』に見るヒンドゥー・ナショナリズム



インド映画の話題作『RRR』を見に行った。


昨年2022年、世界中で、大ヒットしたようだが、インド国民にとっては、大英帝国の帝国主義、植民地主義が、ヒンドゥー神話の2大叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』をモチーフとした2大キャラクター、ラーマやビーマといった英雄たちによって、こてんぱんに粉砕され、撃退されるのだから、感情的に痛快で、たまらない映画である。

日本で公開されてから3回見たり、7回見たという人もいるというが、大衆受けしやすい分かりやすい内容であるから、感じやすい人は何度も見て、感情的に高揚しているのだと思われる。


然し、この映画は、ヒンドゥー・ナショナリズムを鼓舞する現在の政治状況を反映した作品であることが分かった。





私は、2020年3月9日にも『最近の映画からアメリカの現状を知る』と題する記事の中で、この当時、土星と木星が山羊座から蟹座にアスペクトして、蟹座にダブルトランジットが生じていることによって、世界的に右傾化傾向が生じ、民族主義、ナショナリズムが台頭し、それがアメリカやインドの映画作品に反映されていることについて述べた。


『RRR』は2018年11月から撮影が始まっていたようだが、コロナで一時中断し、そして2022年3月25日に公開されている。


昨年2022年は、木星が魚座、土星が山羊座から蟹座にアスペクトして、魚座と蟹座にダブルトランジットしていた。


水の星座にダブルトランジットし、特に蟹座にダブルトランジットしていたことにより、民族主義、国家主義が台頭し、この映画が熱狂的に右翼、保守的傾向のある人々に受け入れられたと思われる。


特に大部分を占めるインドの国民(ヒンドゥー教徒)にとっての誇りであるヒンドゥー神話の2大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』をモチーフにして、1920年代に大英帝国の植民地主義から独立を勝ち取ろうと模索していた国民の物語が重ねられている。


映画の後半では、神話に登場する英雄たちが、暴虐な大英帝国の悪人たちをバッタバッタと倒していくのだから、その痛快感たるやたまらないものがある。







分かりやすい正義、分かりやすい悪、そして、正義の側の英雄が悪人をなぶり殺していく、それだけで大衆は熱狂して満足する。



例えば、映画の中で、主人公のラーマは、『ラーマーヤナ』で描かれるラーマ王子と、『マハーバーラタ』に登場するアルジュナを足して2で割ったような存在である。


ビーマと協力して、映画の最後で、総督府のイギリス軍を弓矢で、倒して、スコット総督を打ち倒すが、あたかも『マハーバーラタ』に登場する弓の名手・アルジュナそのものだが、『ラーマーヤナ』で描かれるラーマ王子も弓の名手であり、その英雄たちの象徴である。


『マハーバーラタ』は、パーンドゥ王の息子たち五王子(パーンダヴァ)と、その従兄弟であるクル国の百王子(カウラヴァ)の間に生じた確執と、クル国の継承を懸けたクルクシュトラの戦いを描いた作品である。


映画の中で、ラーマは、「結果に執着することなく、行為を為せ」というクルクシュトラの戦いで、御者に扮したクリシュナが、アルジュナに教え諭したカルマヨーガの教えを口にする。



カウラヴァは、パーンダヴァを罠にはめて謀殺しようとし、正式に継承された王国を詐欺を使った賭博で奪い取り、カウラヴァを森に追放した悪人であるが、このカウラヴァは、『RRR』の中では、イギリス領インド帝国のスコット総督として描かれている。



神話と映画のストーリーとの対応関係

(正義の側)
パーンドゥ王の息子たち五王子(パーンダヴァ)⇒ ラーマ、ビーマ、イギリスに植民地にされているインド国民

(悪の側)
従兄弟であるクル国の百王子(カウラヴァ)⇒ イギリス領インド帝国のスコット総督一行


『RRR』にて、ラーマの父ヴェンカタは、スコットの圧政に耐えかねて、独立運動家として村人たちに戦闘訓練を施していたが、村の一人一人に武器である銃をもたせて、武力闘争によって大英帝国を撃退することが信念であった。


しかし、ある日、それを察知したイギリス軍が村を襲撃し、英国軍に殺されてしまう。


父の死に直面したラーマは、父の志を受け継いで、総督府の警察の中に潜り込んで、村人たちに武器を持ち帰るという目的を達成する為、恋人シータを残して、村を旅立つ。



『ラーマーヤナ』は、王子ラーマが、魔王ラーヴァナに奪われた妻シーターを取り戻すという、冒険物語だが、『RRR』では、そのモチーフは、インドで圧政を敷く、インド総督スコット・バクストンの一行によって連れ去られた少女を部族の守護者ビーマが取り戻しに行くという設定の中で、体現されている。


ビーマは、『マハーバーラタ』に登場し、アルジュナ同様に活躍する英雄だが、超人的な怪力の持ち主で、棍棒、拳闘に優れた才能を発揮し、大食漢とされている。



『RRR』に登場するラーマとビーマは、『マハーバーラタ』の中に登場する英雄アルジュナとビーマそのものである。







映画の中では、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』の登場人物や舞台設定が、ミックスされて使われている。



私が興味深く思ったのは、映画の最後で、ラーマがイギリス総督府のスコット一行を倒して、大量の武器を村に持ち帰るシーンである。





ヒンドゥー至上主義、ヒンドゥーナショナリズムの影響


そもそも現在のインドのモディー首相は、若い頃からヒンズー至上主義組織「民族義勇団(RSS)」の活動に参加し、ヒンドゥー至上主義、反イスラム主義的言動で知られていた。



ヒンドゥー史上主義では、インドの独立を達成したマハトマ・ガンジーの非暴力・不服従運動や、イスラム教徒との融和を目指したリベラル寄りの政治スタンスが、あまり評価されていない。


モディ首相は、地元のグジャラート州にインド独立の英雄サルダール・バラブバーイー・パテルの182メートルの巨大な像を建立している。







サルダール・バラブバーイー・パテルは、インド・パキスタン分離独立に際し、多くの藩王国を巧みな手腕でインドに帰属させた功績で、インドのビスマルクと呼ばれているという。



つまり、軍事力も駆使し、鉄の意思で、インドの国益を守った人物として崇められている。



『RRR』の中で、ラーマが、イギリス総督府のスコット一行を倒して、大量の武器を村に持ち帰るシーンは、現在のモディー政権の軍事力も駆使するリアリズム外交によって、決して、国益を損なわないという強い意志の現れのように見える。




『RRR』の終わりのエンドロールの中でもインドの国民の英雄たちの肖像が何人も背景に映し出されるが、マハトマガンジーの肖像画は全く出てこない。



またマハトマガンジーの他にも政教分離・世俗主義でムスリムとの融和を方針とする国民会議派のジャワハルラール・ネルー、インディラ・ガンディーなどの肖像が全く出てこなかった。



その一方で、私の間違いでなければ、インド国民軍を率いて、日本軍と共に英国と独立闘争を戦ったスバス・チャンドラ・ボースの肖像画が、エンドロールに映し出されていた。



スバス・チャンドラ・ボースは、マハトマ・ガンジーの非暴力・不服従主義に批判的で、インドの国民国家の理念やアイデンティティーの源泉をヴィヴェーカーナンダに求めている。



ヴィヴェカーナンダは、西洋の物質主義に対して、普遍宗教を説いて、ヒンドゥー教の価値を高めたからである。



その為、映画『RRR』は、ヒンドゥー至上主義が、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』といった神話を持ち出して、国民の民族意識を発揚しようとしているのはないかと思われる。




しかし、細かい点になるが、『RRR』ではイギリス総督府の中にジェニー(スコットの姪)という協力者がいたことも描き出している。







総督府の中で、行なわれたパーティーの「ナ―トゥ」というダンスの場面で、英国の夫人たちが、ラーマやビーマに協力的な様子をコミカルに描いている。



大英帝国は、アムリットサル虐殺事件など、インド国民に対して、残虐な事件も起こしたが、インドのバラモン階級など、上層部に対しては、武力にはよらず、家父長制的温情主義といった緩やかな統治を行ない、またイギリス国民の中にもインドの独立を支持する協力者たちがいた。



またインドはイギリスの植民地となる過程を経て、文明化されたとも言える。



そのため、全く完全にイギリスの統治というものを全否定して、英国を憎んでいるということでもないのである。



その辺りのインドのイギリスに対する両価的な(アンビバレントな)考えなどが、映画にはよく現れていると思われた。





近代国家、ナショナリズム成立の条件


このように主権国家の国民には、国民を精神的に束ねる民族の物語が必要である。



その点で、インドには、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』といったヒンドゥー教の2大叙事詩や、ヴェーダ哲学といった聖典があり、羨ましく思った。



また大英帝国から独立闘争によって、独立を勝ち取ったという歴史的事実も民族の物語となる。




ロシアもプーチン政権になって、これまでのロシア革命による共産主義よりも皇帝が統治していたツァーリの時代と、ロシア正教に民族としての拠り所を求めている。



ソビエト連邦の崩壊に直面し、ロシア革命は、ユダヤ人、フリーメーソン、イルミナティーによって引き起こされたとする考えから、共産主義よりもそれ以前の土着のロシアの民族宗教に回帰する動きが見られる。



プーチンは、ロシアには、西側諸国が推進するような民主主義や自由主義よりも優しい全体主義の方が合っていると公言している。



プーチンが、イワン・イリインの思想や、アレクサンドル・ドゥーギンのネオ・ユーラシア主義などを持ち出してくるのは、新しい民族の物語を求めているのである。



いくら権力があり、軍事力があっても民族を束ねる思想的精神的物語が必要なのである。



インドでも、マハトマ・ガンジーを評価せず、当時は全くインド人からも評価されておらず、危険視されていたスバス・チャンドラ・ボースを再評価する動きなどの中にヒンドゥー至上主義者が、新しい物語を生み出そうとしていることが分かる。



この傾向は、過度に神話を拠り所としたり、歴史修正主義などを生み出すことにもなる。



それでは、日本には、何か民族を高揚させる物語があるかと考えると、例えば、古事記や日本書紀のような古典があり、また源氏物語のような古典文学があり、多くの近代文学があり、また明治維新を速やかに成し遂げた後、日露戦争で勝利した記録などがある。


また江戸幕府が統治した江戸の町は、非常に優れた循環型社会だったといった話も日本人の自尊心をくすぐる物語である。


また日本(日本軍)はアジアを解放したといった物語、今でも台湾や東南アジアの国々で日本に感謝している国は多いとか、日本は、インドの独立を助けたといった物語がある。



しかし、日本は、第二次世界大戦で米軍に敗北し、大日本帝国憲法を日本国憲法に書き換えられて以来、民族としての物語は貧困である。




戦後、躍進して経済大国化して、一時的だが、GDPが世界No.1になったことは日本の民族としての誇りにつながる物語だが、毎年、年次改革要望書を押し付けられて、日米地位協定や日米安保条約、天皇よりも上に位置する日米合同委員会の存在などによって、民族の物語は著しく貧困化している。



日本では、戦艦大和で、勇敢に最後まで戦った日本軍の物語とか、ゼロ戦の勇者の物語、硫黄島で、米軍よりも少ない人数ながら途中まで全く互角の戦いをし、米軍に甚大な被害を与えたといった物語、また天皇は日本人を救うために降伏を決断したといった物語などが存在するが、どれもパッとしない。



結局、日本は、戦後も米軍が駐留し続けており、日米地位協定があり、日米安保条約があり、奴隷のような身分だからである。



このような状況では、民族としての物語は、成立し得ない。



また戦後、経済大国化してもその後、自由化の導入によって、富を全部、米国に持っていかれたり、経済的躍進を阻止されたといった後の事実によって打ち消される。



youtubeで、よく見る映像として、日本の自衛隊はいかに優秀であるかとか、日本人が東北大震災の時であっても暴動や略奪も起こさずに規則正しく列を作って配給をもらう態度とか、海外の日本人を誉める言葉などを拾って来て、それを報じるような動画があったりするが、全く自画自賛的で、幻滅するものが多い。



日本人がユダヤ人との交流もあった古い民族であるというのは分かるが、民族の物語というものがあまりパッとしないのである。



仏教や「七福神」といった土着の神様もインドから来たものであり、日本人の民族意識を発揚し、日本に唯一、オリジナルな精神的拠り所は「神道」や「天皇」ぐらいである。



しかし、その天皇も血縁が途絶える寸前まで来ており、また日米合同委員会の方が、天皇よりも上に位置しているといった事実も幻滅させる要素である。




それでは今後、日本が、民族としての誇り、物語を挽回して、新しい物語を生み出せるかと言えば、そういう気もしないのである。



もうこれからは、「民族」とか「国家」という幻想自体が終わっていく時代、地球文明が一つになっていく時代に入っていくだろうからだ。




現在、各国が、民族主義、ナショナリズムを発揚する動きが高まっているが、これが最後の発揚かもしれないと最近、思うのである。



プーチンによるウクライナ戦争が最後の戦争になるかもしれない。あるいは、もしあるとすれば中国の習近平による台湾侵攻である。




今後、人工知能による合理化や情報通信革命の世界的普及によって、国家や民族、ナショナリズムといった発揚を戦争によって行なうことはもはや不可能ではないかと思われる。



環境破壊も進んでおり、最近、大量の魚が死んでいたりといったニュースが相次いで目につく。



世界には、これ以上、戦争をしている余裕はないかもしれない。



AIによるロボット兵器による戦争などを行っている余裕はない。



今後は、もし戦争があったとしても、世界政府に対するテロリズムという扱いになるかもしれない。




インドは、ヴェーダ哲学という世界最古の哲学、精神文化があり、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった神話があり、大英帝国を国から追い出したという歴史を持っている。



これだけで、民族を高揚させるには十分であり、また最近、IT大国として経済的に台頭してきたという自信もある。



民族として素晴らしい物語に恵まれている。



『RRR』とは、そんなインドの現状を垣間見る映画だった。




今後は、国家や民族といった物語に同一化したり、同一視して、そこに救いを求めたりせずに個人としての物語を紡ぎだすしかないかもしれない。



ある程度の愛国心は大切だが、「国家」、「民族」といった幻想から、自立していくのが、好ましい。




『RRR』が、日本で公開されてから3回とか、7回見たといった人々は、おそらく感受性豊かで、感じやすく、魚座、蠍座、蟹座などの水の星座が強い、大衆的な人たちだったのだろうと思われる。



主人公たちに共感し、同一化して、映画館から出て来た時には、ラーマやビーマになり切っていたかもしれない。




そうした難しいことを考えずに娯楽作品として楽しめばいいのではないかとも思うが、映画の最後のエンドロールにインドの民族としての英雄たちの肖像が次々に映し出されるのを見た時にこれは、愛国民族主義を高めるプロパガンダ作品なのだと強く思った。




単純に悪人を善人が倒すという物語は、見ていて痛快で、例えば、映画『ランボー』で、シルヴェスター・スタローンが、敵方の悪人どもをマシンガンで撃ちまくるといったストーリーは痛快である。



頭を空っぽにして、2時間、楽しむことができる。



『RRR』は、そうした意味では、完璧なアクション娯楽大作だった。










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