『インド残酷物語-世界一たくましい民』で描かれる蟹座の世界


最近、『インド残酷物語 世界一たくましい民 』池亀彩著 集英社新書 を読んでいた。


著者の池亀彩さんが、2009年から2017年までの8年間に渡って、行なったフィールド調査に基づいた現代のインド社会の実態のレポートである。


インドと言えば、カースト制度だが、そのカースト制度の現状を詳しく知ることが出来た。


例えば、バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族、武士階級)、ヴァイシャ(商人階級)、シュードラ(農民、サービス階級)という階級があり、不可触民(ダリト)、山岳地域の部族民(アーディーヴァーシー)などの階級外の人々を区別するのが、ヴァルナという概念になる。


然し、実際のインド社会では、ジャーティーという集団概念があり、世襲的な職業(生業)に結びつけられ、その内部でのみ婚姻関係が結ばれるそうで、大工、石工、洗濯屋、金貸し、床屋、羊飼いなど、さまざまなジャーティー集団があり、インド人がカーストという場合、このジャーティーを指すそうである。


ジャーティーとしてのカーストの数は、2000とか3000あるそうで、1つのカーストは副次的なサブ・カーストに分かれていて、またサブ・サブ・カーストにも分かれているように入れ子構造になっているそうである。ジャーティーやその内部で更に複雑に分れているサブ集団には序列があるようである。


こうしたことは専門家に聞かないと全く分からないと思った。


少し旅行に行って、インド人と交流したとしても、こんな内部の複雑な事情など教えてくれず、また自分が所属するカーストというものを明かすことはないようである。


またこちらからも聞きにくい事柄でもある。


インドのこの過酷なカースト制度の現状を知ると、つくづく日本人で良かったと思うのである。


日本では、見えないカーストは存在するのかもしれないが、インドのような過酷なカースト差別というものは存在せず、日本人であれば、どの階級に所属しているかといったことは全く意識しない。


然し、親の職業とか経済力といったもので、なんとなくうっすらとした階級のようなものが存在しているのかもしれないが、然し、それには名前は付けられておらず、それはあまり意識されることはない。


そうした階級の壁に直面した人がうすうす感じ取るものである。


例えば、普通の家庭の子供が、芸能人の子息が通うような有名私学に入学したら、そこに通う人たちが、皆、高価なものを持っていたり、高額な小遣いを貰っていたり、経済的文化的レベルが異なっており、友達の家に遊びに行ったら、生活レベルの差をどうしても意識せざるを得なくなるかもしれない。


然し、それでも階級などを区別する名称はないのである。


但し、日本でも政治家が、その地位を世襲したり、大手広告代理店に有名人や政治家の子供がコネで入社していたりする。


そうしたコネが効く世界というのは階級社会を感じさせる要素である。



近年、新自由主義による経済格差が広がることで、日本社会でも、この階級というものが、うっすらと浮かび上がって来たように感じられる。


それで、最近、マイケルサンデル教授が、能力主義(メリトクラシー)についての本を出し、能力主義が、階級を固定化するのに役割を果たしていることを警鐘しているのである。


ただ日本は伝統的に比較的平等な社会で、士農工商という階級があったというのは嘘であるという。


武士階級が支配階級として存在したが、農工商はその下に並列的にぶら下がっているだけで、特にそれに上下関係などは無かったようである。


明治維新後に日本の江戸時代の社会を歴史家が評価する際に西洋人の視点で、そうした階級があったということにされたらしいのである。


然し、日本社会は、イギリスやインドのような過酷な階級社会とは根本的に異なるのである。



この『インド残酷物語-世界一たくましい民』は、著者の池亀彩さんが、南インドのカルナータカ州で、フィールドワークして経験したケースを取り上げている。



その中で、私にとって印象的だったものをいくつか挙げてみたい。




異なるカースト間の結婚


その中で、異なるカースト間で結婚した場合の悲劇の話が紹介されていた。


不可触民(ダリト)の男性が、高カーストの女性と結婚した後、女性の親族が差し向けた者によって男性が撲殺されるといった名誉殺人の事例である。


インドでは、女性が名誉殺人で殺されるケースが多いが、高カーストの女性と結婚した不可触民(ダリト)が殺される事例も多いようである。




ダリト解放運動 -数千年間続いてきた水牛供犠の儀式-


またダリト解放運動を行なっているリーダーの話も出て来る。


マーランマの神話というものがあり、毎年2月から3月にかけてマーランマの祭りが行なわれ、その地域の大地主が水牛を用意して、祭りの当日、不可触民(ダリト)は、酒を振る舞われて、水牛の喉を掻き切り、その後、牛の血を米に混ぜて、田畑にまき散らし、その年の豊穣を祈願するそうである。


この祭りは、水牛供犠の儀式と言われるが、ダリトと水牛が同一視されており、水牛をダリト自身に殺させるという残酷さがこの祭りの核にあるそうである。



(略)マーランマの神話から、ダリトと水牛が同一視されていることは明白である。
その水牛をダリト自身に殺させるという残酷さがこの祭りの核にある。一連の水牛供犠の最後、地主たちは、カースト・ヒンドゥーが住む村と、村の外のダリトたちが住む路地(ケレ)の間に、ダリトたちの路地側に顔が向くよう切り取られた水牛の頭を置く。カースト規範の厳密さをダリトたちに思い知らせるかのように

(『インド残酷物語-世界一たくましい民』P.175より引用抜粋)

インドの不可触民(ダリト)は、この水牛供犠の儀式を数千年も繰り返されて、高カーストの大地主には逆らえない低い身分であることを自覚させられ、深く内面化させられて来たのである。


まさに宗教儀式による大衆洗脳であり、黒魔術的である。


ヒンドゥー教のバラモン階級が、サーティー(寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をする)という悪しき慣行を正当化していることと同じくらいグロテスクである。


自分たちしかサンスクリット語を読めないことをいいことに聖典に記されていることを根拠に悪しき慣行を広め、大衆を恐怖で支配して来たのである。



インドの支配者階級の意志は強固で、その支配は何千年も続いてきた為、それをはね返すには大衆の側の強固な意志が必要である。



ダリト解放運動の目標の一つに水牛供犠の儀式の廃止が盛り込まれているという。





インド社会におけるグルの役割


また南インドで民衆同士の争いごとを裁判所の代わりに調停するグルの活動なども紹介している。



グルがゴッドファーザーのようにその土地の民衆の悩み事を聞いて、人脈を使って問題解決を図る。



そうしたグルを中心にして、社会生活上の様々な問題が解決されていく様子が紹介されている。



ジャーティーという職業集団(カースト)ごとに自分たちのグルを持つ動きがあるようである。



インド社会というのは、政府や州政府の機能が行き届いておらず、公共の概念が乏しく、一般民衆の問題解決には、こうしたグルたちの役割が非常に大きいのだという。




インドの建国図を見ると、蟹座に惑星集中しており、インドは典型的な蟹座の社会である。








蟹座は公共の概念に乏しく、個人主義的で、家族を守ることしかしない。



個人的に親しくしている身近な人にサービスする星座である。



従って、インド社会では、人脈がものをいい、「誰かを知っていること」、あるいは、「誰かを知っている誰かを知っていること」が重要であるそうである。



そして、自分が知っている相手に便宜を図るのである。



公共の概念がないため、行政サービスなどをきちんと誰に対しても公平に提供するという正義感などもなく、賄賂をくれた相手に便宜を図るようなことを露骨に行なう。



従って、インド社会で、上手く生きていくには、適切なタイミングで、適切な金額の賄賂を渡すことが重要であるという。



こうしたインド社会の性質は、蟹座の性質そのものである。




腐敗・汚職行為の必要性


池亀彩さんによれば、国際的に著名な科学技術社会論の研究者・シヴ・ヴィシュワナーサン教授が書いた「腐敗・汚職行為の必要性」というコラムが有名であるという。



ヴィシュワナーサン教授は、インドの腐敗・汚職行為とは、これは不正行為であれは違うとか、個々に判断し識別できるものではなく、グレーな世界を渡り歩く為の知恵のようなものだと主張しているという。


またインドの腐敗・汚職行為を理解するために以下のようにその性格を列挙しているという。




・すべては交渉可能である(交渉なしには何も始まらない)

・障害は誰かが乗り越えるために<わざわざ>作られる

・全ての規則は<腐敗・汚職行為を生み出す>好機となる。規則が多ければ多いほど、好機もまた大きくなる

・すべての改革はルール・ゲーム<駆け引き>をするための試み<に過ぎない>

・決してイエスと言わないこと。決してノートも言わないこと。思いがけない好機はその間にある

・透明性(トランスペアレンシー)は幻想である。トランスペアレンシー・インターナショナル(世界各国の腐敗を指数化して発表している著名な国際NGO)は、さらに大きな幻想である。

・自由主義の西洋社会が決して認めないものが二つある。<個人の>財産への攻撃と腐敗の擁護だ。

・腐敗とは開かれた社会(an open society<しばしば西洋の民主化理論で理想とする社会>)のことではない。腐敗とは社会における複数の扉(openings)のことである。
・腐敗とは是認されていない専門知識である。したがって、支払いは二度なされなければならない。一度目はその専門知識に、二度目はそれが正当に評価されていないことに

・腐敗は、延期こそが金を生むと知っている。しかし延期しすぎてはインフレを引き起こしてしまうことも知っている。

・腐敗は、あなたに権力があることを必要としない。ただあなたが権力を持つ誰かを知っていることを必要とするだけである。

・大臣ができることは、彼の個人秘書でもできる。おそらく個人秘書の方がよりうまくやるだろう。

・腐敗した社会にとって、迷宮は天国である。

・私はワイロを支払わない。私は誰かを知っている誰かを知っているだけである。

・腐敗は、ルールは二度作られることを教える。一度目はルールを作った人によって、二度目はそのルールを応用した人によって。

・腐敗とは財産に関するルールのことではない。腐敗とは財産としてのルールのことである。


(『インド残酷物語-世界一たくましい民』P.230~P.233より引用抜粋)


私は、これを読んで衝撃を受けた。



これはまさに蟹座や水の星座が世渡りするための習慣だからである。



インド社会というのは、正義や平等といった概念を生み出し、透明性を重視する西洋社会とは、全く違う原理で動いている社会である。



これが蟹座の世界の性質なのである。



西洋社会のあり方だけが絶対的な真実ではなく、蟹座の世界やその中での振る舞い方、生き方もそれ自体、真実なのだと思えた。




このヴィシュワナーサン教授の主張を読んでいて、田中角栄のことを思い浮かべた。



田中角栄は、官僚たちを呼び出して、賄賂を渡すことが習慣であった。



足代などとして、自分の部下の議員や官僚たちに50~100万円の金を渡すのである。



そのようにして、官僚たちを動かして、日本列島改造論などで主張したように日本全国のインフラを整備したり、国民の為になる政策を行なったのである。



ワイロを渡すような所はあったが、それが絶対悪とは言えず、大局的な観点からすると、それは必要悪で、大義のためには必要であった。



そのように考えると、必ずしも賄賂が悪だとは言えなくなる。



昔は、日本でもこのようなワイロを贈って、便宜を図ってもらう風習が普通にあったはずである。




例えば、小池百合子は、エジプト・カイロ大学を首席で卒業したというのが、学歴詐称であったことを『女帝 小池百合子』(文藝春秋)で暴露された。



一時期、騒がれたが、然し、その騒動はいつの間にか収まってしまった。



結局の所、父親がコネを使って、小池百合子をカイロ大学に裏口入学させ、卒業もしていないのに卒業したことにしてしまったが、その後、小池百合子が政治家として頭角を現したので、カイロ大学も口裏を合わせるようにして、小池百合子が卒業していると主張している。


その後も小池百合子はせっせと、エジプト・カイロ大学に通って、献金を繰り返しているが、これは口封じのためのワイロのようなものである。


このように卒業していないにも関わらず、カイロ大学に卒業を認めさせたのも、小池百合子のコネの力と強運によるものである。



著者や文藝春秋は、鬼の首を取ったように小池百合子は不正を行なったと声高に主張したが、一般市民は、そのようにワイロを使って、上手く世渡りする能力も実力の一つだと認識したのではないかと思われる。


だから、小池百合子は、その後も、都知事を続けているし、またその騒動があった後も都知事に再選している。


その不祥事は、全く都知事選に影響がなかったのである。



国民は、小池百合子は裏口入学を行なったと認識したが、それをそれほど非難していないことは注目に値する。



これは、インド社会と同じように日本でも裏口入学や、コネ入社など、お金を支払ったり、人脈を使ったりして、通常、正当な方法と認められている通路以外の通路を使う慣行を許容しているということである。


日本は、正義、平等といった価値観を西洋から受け入れたが、これはプラトン哲学、そして、キリスト教のような絶対的な基準から判断された善悪評価である。



然し、インドや日本社会では、善悪は相対的なものである。



日本は、賄賂や汚職などの行為を善とも悪とも認識しないインドに似た社会なのである。




私は、水瓶座(双子座、天秤座)が西洋合理主義社会を示し、インドや日本などの伝統社会は、蟹座(蠍座、魚座)とする図式で考えている。



インドは、水瓶座のように合理的なルールで平等が分配される国ではなく、蟹座の論理で運営されている社会である。




蟹座の世界を知るには、この本を読むべきであり、また現在のインドを知りたければこの本を読むべきである。




インドについての教養を身に付けるには最高の本であり、私にとっては、今年、最も印象に残った本である。






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