長崎ノマド5日間研修旅行

2021日10月14日(木)11:35発の成田発、長崎行きのジェットスターに乗り込み私は、長崎へと向かった。日本の辺境の地で、数日間ノマド生活を送る為である。あたかも予め計画していたかのように言ってみれば聞こえはいいが、実際は、車を5日間レンタルして車の中で寝泊まりすれば移動しながら寝泊まりもでき、宿泊費を節約でき、移動の自由も増すと考えて、そのように決めた。宿泊と車を両方使うとかなり経費がかかるので、それを一気に圧縮することが出来る。

長崎の海岸線を北上し、平戸のスズキが釣れるという、釣り場を見て回ることなどしてみたいと思った。

『ノマドランド』で描かれていたが、本来、ノマドとは日本のようにかっこいいファッションや新しいライフスタイルの提案などでは決してない。家賃が高すぎるので、家賃という最大の経費を削減し、移動と宿泊を兼ねることが可能な車上生活のことなのだ。それは生き残るために生活の切実な必要から生まれたアイデアである。日本のノマド生活は、あちこち旅しながらスタバのようなおしゃれなカフェで、Macを広げて仕事をして生きてゆく、カッコいいと憧れられるような生き方のように思われているかもしれないが、そうではないのだ。

私も経費を節約して移動の自由も確保したいと思ったら、自然とこのやり方になった。

私の直近の願望はノマド生活で経費を浮かして日本全国を旅して回るである。

この長崎旅行は、一泊も宿泊をしないで、レンタルした車の中だけで、過ごす5日間の旅であり、ノマド生活を試す旅であった。



長崎空港に着いたら空港でレンタカーを借りて、まずは長崎駅経由で、伊王島という長崎の南の下に位置している島に向かった。そこに長崎温泉アークランドスパという日帰り温泉の施設があったため、そこに行った。その島の岸壁から釣りも出来るのではと期待して行った。1000円で、東京や神奈川などとは比べ物にならない快適な施設と空間を提供していた。また施設はコロナだからか非常に空いており、2、3人組しか入場していないようだった。





長崎は縦長で、真ん中に湾があり、周囲は水に面している場所が多い。つまり、水の星座で表される水の地域である。しかもこの地域はキリスト教の教会が多く、キリスト教(魚座)の信者が拷問された島などがある。これは長崎は、魚座で表されるということである。

この魚座で表される地域が日本が明治維新で躍進していく際に西の玄関口として栄えたのは、水の国である日本がまだ強かった時代の出来事である。例えば、五島列島なども日本列島と似ているのだが、五島列島を含み、縦長で水の象意が豊富な長崎は、日本の縮図である。



*五島列島は日本列島に似ている

サービスが得意な日本の縮図である長崎は、そのため、ホテルや温泉施設などが格安でサービスが充実していた。私はラグナロードが魚座12室に在住しているため、この地とは縁があるのである。それで以前、五島で車で走り回ったという話をしたが、今回も長崎で車で走り回ることになったのである。

伊王島のスパを離れると今度は、佐世保を経由して平戸の先端まで走って行った。途中、ファミレスで休憩などしたが、ノンストップで深夜に一般道を走って、平戸の先端の宮之浦という漁港に夜中の3時頃に着いた。そこには瀬渡しの民宿などもあり、その時間になると瀬渡しの人たちが出発する時間で、漁港に停泊する船の前に集まっていた。

深夜に走ると道路が空いていていいが、一つだけよくないのは全く景色が見えない点である。

流石に疲れてきたため、朝の4時頃、平戸の先端の港の近くの山道の路肩のような所に車を停めて、運転席のリクライニングシートをそのまま倒して眠りについた。(1泊目)灯りは全くなく車のエンジンを止めると周囲は真っ暗になった。真っ暗になった途端に数えきれない程の星が空に散らばっていた。空から星が降って来そうな様子とはこのことだ。田舎や地方に行くとこのように沢山の星が見えて感動がある。この星々のそれぞれがかつて人間だった存在が進化して到達した神々の地位にいる。オリオン座がはっきり見えるが、オリオン座の近くにも沢山の星が見える。

エンジンを切ると即座に寝たらしく、目が覚めると朝の8時だった。4時間ぐらい寝たようである。しかし体力は十分に回復しており、何とか走れそうだ。朝方、まだ暗いうちに到着した宮之浦の港に再び行ってみた。明るくなってから行くと全く景色が違っていた。



水が透き通るように綺麗でメジナの稚魚のような魚が沢山泳いでいる。
因みにメジナというのは関東の呼び方で、現地の人は、クロと呼ぶそうだ。五島と同じように非常に水が透き通っている。平戸からは五島は目と鼻の先であるため、環境的に似ていた。朝散歩に来たらしい車椅子の高齢の元漁師のような老人がいたため、少し言葉を交わした。
この堤防には、釣り人が車でやって来たり、キャンプ目的の人たちが来ていたが、今は、コロナで立ち入り禁止になっていた。以前はこの堤防でブリやイカなど沢山釣れていたそうだ。
地元の漁民からすると都会の得体の知れない所からウィルスを持ち込んでくるこれらの人たちは恐怖の対象だったらしい。コロナのため、暫く立ち入り禁止を宣言する立て看板からは、そうした漁民たちの恐怖が伝わってきた。
こうした漁師は魚座が表示体である。
私がこの辺境の地で接触する漁師たちは、私のラグナロードで8室支配の火星が12室に在住し、土星からアスペクトされる象意である。
平戸には他にもこうした港があるが、漁民たちは、好奇な目で見ると同時に多少嫌がっている感じも受けた。釣り目的の人たちが訪れることには複雑な想いがあるらしい。

釣り禁止になっていたため、仕方なくそこから立ち去り、平戸の市場に向かい、そこで、昼食を摂った。刺身お代わり自由、食べ放題というユニークなメニューを用意している店だった。何度もお代わりをしようと思ったが、とても食べられない。2回でダウンした。

それから15時以降に車で走行中に見つけた湯快リゾートグループのホテルがあった為、そこの日帰り温泉に行った。そこもゴージャスな温泉でしかも500円だった。入浴後、ホテル内の施設、屋外のラウンジのような場所で存分にくつろいだが、誰も咎め立てるような人はいない。優雅な空間がそこにはあった。また携帯の充電などもして、自由に使えるマッサージチェアーなどで暫くくつろいでいた。





長崎でノマド車上生活での旅行であったにも関わらず、楽しめたのは、居ても何も文句を言われない贅沢な空間があちこちにあったからである。

その夜、平戸の街に向かって、夜間にライトアップがされた平戸城を見学した。こちらも1度だけすれ違ったカップルの男女以外にはほとんど誰もいない平戸城を楽しんだ。



平戸城を見たらこれ以上平戸に用事がない為、直ぐに長崎の南部、雲仙、島原の方面に向かった。




長崎には、中央部に大村湾があり、この湾がある為、長崎の土地のかなりの部分が水に面しているのではないかと思われる。つまり、水の象意の土地なのである。そして、キリスト教徒が迫害されたというキーワードから傷ついた魚座の象意であることが分かる。その魚座の地、長崎を深夜に端から端まで、車を走らせるというカルマは、明らかにラグナロードの火星(ドライブ、運転)が12室(深夜、辺境の水の地域)に在住している私のカルマである。
長崎で感じたことは、懐かしい昭和の雰囲気があちこちに漂っていることである。

車を走らせている途中で、疲労が出て来て、運転しながら意識が度々飛んでしまうので、このままでは事故ってしまうと思い、誰の所有か分からない空き地に車を止めて仮眠した。(2泊目)
然し、寝ているとごそごそ外の方で音がして、人の気配を感じたので、落ち着いて眠れなかった。その為、また車を走らせて別の場所に移動した。その別の場所は、ホテルに隣接の駐車場で、こちらも広いスペースが有り余っている状態であったので、駐車場の隅に停車して4時間ほど寝ようとしたが、長崎は、昼間は暖かいが夜は物凄く寒くなり、冷えてとてもではないが、眠れなかった。ちょうど旅行に出かけたのが残暑が残っていた時から秋に切り替わるタイミングであり、旅行中に寒い秋に本格的に切り替わったようだった。その為、服なども防寒着なども全く持っておらず、薄いダウンジャケットを持っていただけだった。それを来て、眠ろうとしたが、中々眠れず、結局、じっとして目をつぶっていただけのような4時間を過ごした。



*軽ワゴンで、運転席のソファを後ろに倒して寝るだけである


明るくなってきたので、再び、雲仙、島原に向けて、車を走らせると、小浜温泉に辿り着いた。
斎藤茂吉が病気湯治のため訪れたとされる温泉街である。
江戸時代、1614年頃には、湯治宿泊者用の長屋を設けて利用されていたようである。長崎オランダ商館に赴任したドイツ人医師シーボルトが後に著作の中で、小浜温泉を紹介している。
ここでいくつかの日帰り湯に入ってみたが、『湧出量×湯温』で求められる放熱量が日本一といわれているだけあり、割と熱めの温泉が多かった。
小浜温泉は、昔は海岸が干潮の時に塩水に混じった状態で入っていたようだ。海岸の埋め立てをして、今の温泉街になったようである。
日中は、小浜の温泉街を歩き、小浜温泉の資料館にも行ってみた。



ぶらぶら歩いていると、昭和初期に建てられたような古い味わい深い建物が目に付いた。中では、剣道の稽古が行なわれていた。



夕方になって、次の目的地、雲仙・普賢岳に向けて、車を走らせた。
着いた頃には暗くなっており、そこでも湯快グループの日帰り湯を利用させてもらった。24時まで日帰り湯がやっているので、24時までいて、それから、車に戻って車上で寝る場所を探した。実は小浜温泉で資料館を尋ねた時に案内係に宿を借りずに車で移動して車上泊をしているという話をした所、それなら、雲仙の白雲の池という所にキャンプ場があるから、そこで車上泊したらどうかと提案してくれたのだった。
白雲の池に着くと雨が降っていて、キャンプ場には鎖がしてあって入れず、その前の駐車場が空いているだけだった。駐車場の周囲は、木が生い茂っており、まさに山の中の一角であったが、非常に薄気味悪い場所だった。
雲仙・普賢岳は、 昔、キリシタンが処刑されたり、拷問を受けた場所で、そうした意味でも不気味な場所である。地縛霊のようなものが漂っていても不思議ではない土地柄である。
車の外は、雨と風が激しく、取りあえず、その駐車場で寝ることにした。
然し、車の中は、やはり寒くて全く眠れず、目をつぶって寝たのか寝てないのか分からない、まどろんだ状態で数時間過ごした。キャンプ場の詰所から出てきたと思われる人間が、朝方、懐中電灯を持って、車の周辺を見回りに来ていた様子を感じ取ったが、無視を決め込んで、車の中で、そのまま寝続けた。(3泊目)




明るくなってきたので、車を走らせて、雲仙温泉のメインスポットである地獄めぐりをした。大分県別府にも地獄巡りというのがあるが、団体の観光客でいっぱいの別府よりも剥き出しで、自然の中にあり、朝方、私を含めて数人の人しか観光客がいないという点で、気持ちが良かった。

9時ぐらいまで、ぶらぶら見学し、それから地元の人も入る共同浴場に行ってみた。入ると、地元の人たちも開店と同時に一番乗りで来ており、地元の常連の客らしき人たちが、泉源から熱い湯が出てくる一角に陣取って歓談していた。




共同浴場は二カ所あるが、両方とも行ってみた。
もう一軒は比較的空いており、私が入っている間に他の客が皆、帰ったので、写真を撮ることが出来た。

そして、温泉に入って温まると、島原城を目指して、車を走らせた。
小浜温泉から上ってきた山道を反対側に下っていくと、そこは島原である。



島原城の中では、島原の乱や、キリシタンの弾圧や殉教についての資料が展示してあり、非常に参考になった。島原の乱とは、当時、重い年貢などによって苦しめられた農民たちが起こした一揆で、幕府の統治を揺るがす大事件であった。キリスト教の精神に基づき、農民が団結してお上に抵抗した革命運動といってもいいかもしれない。例えば、オランダなどではキリスト教は、福祉制度という形で、発展していくのであり、実は、キリスト教と社会主義とは関係がある。この島原の乱をきっかけに幕府は、キリスト教が危険であることを理解し、鎖国に入っていくことになる。



島原城の外では、コスプレをしたアイドルユニットが島原の良さを伝える為の歌や演舞を披露していた。この辺りに私は魚座の象意を感じ取った。
決して古臭いだけでなく、長崎には金星が魚座で高揚するようなおしゃれで素朴で手づくりの芸術性があるのである。島原城のちょっとした見せ方とか、夜はライトアップして、懐中電灯で、城の中を探索するようなイベントもやっているようであり、その辺りの趣向も魚座的な芸術性を感じ取った。



島原城を一通り見ると、島原城の城下町を形成していた当時のまま残っている武家屋敷を見に行った。




この島原城の武家屋敷は、江戸の城下町が保存されている貴重な歴史遺物である。残っているのは、下級武士の家屋であるが、立派な家で、間取り的に言っても今の私たちよりも良い家に住んでいたようである。

この武家屋敷を見に行った時、あちこちで、コスプレをした人たちが、写真撮影をしており、コスプレのイベントをやっているらしかった。この原色を多用してアニメの登場人物たちのコスチュームに身を包んだ人たちは、おそらく夢の世界の中に同一化して生きている人たちであり、魚座の象意で表される。スピリチャル系の人と同じく、コスプレイヤーというのは、半分、夢の世界で生きている人々である。

後で調べてみると、島原は、街を挙げてコスプレイヤーを支援しているようである。



当時の武家屋敷の塀は、普通の民家の塀として今でも使われており、長崎は、昭和、もしくは、大正、明治、江戸時代さえも保存されている場所であると思った。




びっくりしたのは、武家屋敷の奥の部屋が、普通の民家になっていることだった。つまり、当時の武家屋敷が今も普通の民家として使われていて、その一部を観光用に提供しているということではないかと思った。

長崎とは昔と今が共存している街なのである。




近くの小学校を見ても非常に昭和の初期に建てられたかのような古めかしい建物に外壁は、これもまた武家屋敷と同年代の外壁のようなもので作られている。


その後、今度は、天草四郎他、三万人の農民が立てこもったとされる原城跡を見に行った。原城に行くには、島原城から車で40分ほど南に下る必要がある。原城に着くと、案内所で、電動自転車を貸してくれたので、車を駐車場に停めて、原城跡まで自転車を走らせた。




島原藩は、幕府領であったが、松倉重政が入り、悪政を行ない、嫡男の松倉勝家が、松倉重政以上の苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まり、年貢を払えない者の子女を捕えて処刑したりして、地獄そのものになっていたという。そうした中で、農民の怒りが爆発し、天草四郎を総大将として島原の乱を起こした。松倉勝家単独では、この農民一揆を鎮圧できず、幕府が最終的に老中・松平信綱を総大将として、兵糧攻めを行ない、天草四郎と反乱軍は、皆殺しにあった。農民一揆が起こる原因となった板倉勝家は、責任を問われて、斬首刑に処されたという。そういう場所である。

農民側の総大将だった天草四郎には、カリスマ性があり、神秘性があり、後に天草四郎をテーマとする『魔界転生』といった作品も書かれているが、完全に魚座のスピリチャルの象意である。

それで、この島原にコスプレイヤーたちが、非常にマッチングしているのである。魚座の神秘的な魔術師、救世主的なイメージそのものである。

原城の隣には、“原城温泉”という温泉施設が隣接していた為、そこに入ってから次の目的地に向かった。

次はもう一度、小浜を経由して、長崎の南の先端に位置する野母崎、樺島に向けて車を走らせた。小浜に立ち寄ったのが21時頃で、この時間になると日帰り温泉はどこも閉まっていた。食事をしてから樺島に向けて出発すると、途中で睡魔に襲われた為、再び、道路途中に見つけた空き地に車を停車し、朝方まで寝ることにした。(4泊目)
その空き地は、全く人の気配がなかったが、やはり朝方になると、外でごそごそ人の気配がして、気になって眠れなくなった。その空地に建っていた建物は何かの詰所のようなもので稼働している場所のようだった。それで、朝方そこに人がやって来たようで、ごそごそ人が出入りしているような音がした。私はドアを開けて、疲れたのでここで仮眠させてもらっている旨などを説明して、再び、横になったが、外に人がいると思ったらもう眠れなくなった。そこで、4時間前後しか寝ていなかったが、出発することにした。

樺島に着く前にまず、高浜の漁港に着いた。高浜の漁港からは端島(軍艦島)が沖に見える。高浜からなら直ぐ船で行けそうであるが、一人で船をチャーターするのは高額になる為、軍艦島への観光は、主に長崎港から出ているツアーを利用するのが普通のようだった。生で軍艦島を見たのは初めてだったため、ここで軍艦島を意識した。最終日に長崎港から行くのがいいと思った。

高浜の漁港から更に樺島に向けて車を走らせることにした。
着いてみて分かったのは、樺島は、第一級の釣り場であり、魚影が濃いということだった。



堤防のテトラポッドの上で、先に来ていた釣り人の真似をして、ルアーを投げていた所、正体不明の魚がルアーに食いついて、海の中にルアーを引き込んで、糸(リーダー)が切られる所まで全てはっきりと見えた。茶色い魚体が水面下に見えた。先に来ていた釣り人と話すとカンパチではないかということが分かった。ブリなどは沖に走っていくがカンパチは根に潜るから糸を直ぐに切られるということだった。魚体も茶色っぽい色をしている。

五島の瀬渡しで、青物がかかった時以来の興奮の瞬間だった。



その後、樺島の先端にある灯台などを見て、翌日は午前中から長崎に移動する為、より近い伊王島で一泊するのがよいと思い、夕方、再び、伊王島に向かった。そして、夜、伊王島の温泉施設の隣接にある広い空地に車を停車して、そこで最後の車中泊(5泊目)をした。そこは温泉施設が閉店した後で、全く人の気配がなく、寝やすかったと言えるが、然し、夜は冷え込むため、寒くて安眠という訳にはいかなかった。

そして、朝方、明るくなると、長崎港へ出発した。
長崎にそんなに頻繁に来る訳ではない為、最後に軍艦島に行こうと決めた。
実際、行ってみてよかったのだが、高度成長期に軍艦島で良質の石炭が採掘され、国策で、島で採掘の仕事をする人間には高い給料が支払われ、また島は最新のマンション、病院、学校などが備えられた一つの街になっていたという。高度成長期の面影がそこにはあった。




然し、高浜から遠くの沖に最初に見つけた軍艦島が一番、良かったかもしれない。



そして、最後に長崎原爆資料館に行った。
原爆資料館は当時のほぼ爆心地に建っている。

長崎のクリスチャンたちは、迫害を受けて苦しんだが、その後、多くの人が被爆者として苦しんでいる。広島と並んで世界で原爆の被害を受けた地として、彫刻家、北村西望氏による平和祈念像を建立し、原水爆禁止世界大会も毎年、開かれている。

この受難の象意も傷ついた水の星座(魚座)の象意である。
魚座は、ナチュラルゾーディアックでは12室に該当し、辺境の地を意味している。日本の辺境の水に囲まれた地をよく示している。
そして、癒しの温泉の泉源にも恵まれている。

長崎は、幕府が出島で貿易を行なった直轄地である。
また島原藩は、親藩大名の松平家(島原松平)が入り、九州地方の幕府の目付役であったことから、明治維新後は、逆に近代化が遅れ、古い江戸時代の建物を残しているのである。非常に古い日本が保存されている街である。

長崎には、丸山遊廓という東京の吉原にも似た場所があるが、そこで働いていた遊女が、外に奉公した後、病気になって奉公先を追い出され、出戻ったような場合でも、暖かく迎え入れたようである。そうした出戻った遊女を迎え入れることは珍しく、通常は、親元に無情に送りかえすのが普通であったそうだ。その辺りは、長崎は、魚座の地で、献身と慈愛に溢れた場所であるからであると納得できる。因みに遊女が着飾る花魁の衣装は、原色が多用されており、コスプレイヤーの衣装と全く雰囲気が同じである。

その辺りで、何故、長崎で、コスプレイヤーたちと頻繁に出会うのかが理解できた。島原城観光記念館では、ハイカラさんの「袴」をレンタルして、市内散策できるというサービスを提供していた。




「はいからさんが通る」という少女漫画があり、宝塚歌劇団でも演劇になっている。




つまり、私は理解したが、少女漫画のメルヘン的な雰囲気は、魚座の世界である。魚座-乙女座軸の世界と言ってもいいかもしれない。

つまり、そこから類推できることは、昔の遊廓の花魁の世界は、いきなり行為に及ぶのではなく、そこに至るまでの雰囲気が大事であり、華麗な恋愛的な演出が行なわれる一種の演舞であるということである。歌や踊り、音楽などで疑似恋愛的な演出で盛り上げてから行為に及ぶという世界なのであり、それらの一連の流れがセットになっている。それは魚座の世界であるということである。宝塚歌劇団が何故、女性だけで演じられるのかと言えば、魚座-乙女座軸が、女性星座の軸であり、そこに木星の星座も絡んでいる為、夢のように理想化された世界である。

長崎を旅して感じたことは、長崎は非常に懐かしい地だということである。
中心部では未だに路面電車が街を走り、飲食店に入っても昭和の時代の面影を今も残している。時間が止まっているかのようである。魚座である為、昔の古き良き伝統を残しているのである。

今回、長崎で車で移動しながら長崎の端から端まで全域を車上で5泊して旅行した。

以下のようなルートで、長崎の端から端まで車を走らせた。




ノマド生活で最も厳しいのは寝る場所を探すことであると分かった。
全く人の気配がない所で、ぐっすりと睡眠出来たのは、1日目に泊まった平戸の奥地の道路端の路肩だった。そこは山道だが、その時間帯は、車も走っておらず、歩いている人もいなかった為、ゆっくりと安眠できた。

然し、駐車場は、いつ人が来るか分からず、また人がいないような場所でも意外に人は訪れるものである。人が来ると安心して寝ることが出来ない。
窓から覗かれる不安が常にある為、ゆっくりと安眠できないのだ。

アカデミー賞を受賞した「ノマドランド」の原作である『ノマド:漂流する高齢労働者たち』ジェシカ・ブルーダー (著), 鈴木 素子 (翻訳)に登場するノマドの人々も砂漠のキャンプ地などで宿泊する場合は特に問題ないが、都市部で宿泊する場合は、郊外のショッピングモールの駐車場などで宿泊していたりする。そうすると、常にガードマンや警察が扉を叩いたり、妨害して来て、安心して眠れないようである。そうした問題に常に悩まされている。
ノマドの人が車を停めて宿泊できる場所が段々限られてきているということを本の中で訴えていた。

ノマドというのは土地を所有している訳ではなく、公共の場所に車を停めて、そこに宿泊している訳だが、基本的にインディアンが、土地は皆のものと考えていたように土地所有権の考え方に馴染まない、資本主義に反した生き方である。誰でも使用してよい場所、コモンズとしての土地を必要とする。

然し、資本主義社会では、そうした生き方を許さないで制限する方向に行くようである。

長崎はどこにでも温泉があり、日帰り温泉が比較的遅い時間帯まで、やっている。通常は、午後3時ぐらいまでが日帰り入浴の時間で、それ以降は宿泊客専用にしてしまうホテルなどが多いが、長崎はそうした制限をしないおおらかさがあった。また格安で入れる感じもよかった。

ただ昼間のうちは暖かかったが夜になると非常に寒くなった。日没後の寒暖の差が激しいのである。これは秋に入っていたからだと思うが、夏のうちだったら、寒くて寝られないといったこともなかったと思う。

ノマド生活というものは車を停めて寝る場所を探すのに苦労するということがよく分かった。然し、それでも長崎は、人口密度もそれ程、高くなく、広々とした空き地が多く、ノマド車上生活が行いやすい場所である。

宿に宿泊しないというのは何を意味するかと言えば、快適な寝場所がない代わりに寝場所に縛られないということである。従って、深夜に次の目的地に移動することなどが出来た。その為、5日間の旅行で、長崎の端から端まで行き、長崎のアトラクションをほとんど全て経験できた。日中移動していたのでは、移動だけで終わってしまう所である。

例えば、4室に吉星が在住していると住まいの快適さが得られるが、逆に家が快適過ぎて、家の外に出て行かないというデメリットも出て来るのである。

4室に凶星が在住していると家に執着しない為、あらゆる所に出掛けてゆき、住まいも特定の場所に執着することがない。むしろ、定期的に引っ越さなければ気が済まないということになり、色々行動範囲が広がるのである。

4室が傷ついていれば、思い切って海外生活をしてみたり、あちこち引っ越して、機動力が増すはずである。

そうした意味で、4室の強さというのは、恩恵である一方で、束縛でもあるのである。

これは『ノマド:漂流する高齢労働者たち』でも語られていたが、ノマド生活というのは土地に縛られない為、自由であった。自由自在にどこでも行けた。

今回の長崎の旅ではそのようなプチ・ノマド車上生活を味わった。

ノマドとは、英語で、遊牧民、流浪者という意味だが、魚座は組織が嫌いで、放浪癖があり、寺社仏閣巡りなどを好む人である。

私のラグナロードの火星は魚座12室に在住している為、水に囲まれた辺境の地で、ノマドの車上生活を追体験する旅となった。

定住者が牡牛座、獅子座、蠍座、水瓶座などの固定星座だとすれば、運動星座や変通星座は、変化を好み、特に運動星座は旅行好きである。

その中でも私のラグナである牡羊座というのは移動を好み、魚座は放浪癖があることから、本来、私はノマド生活というのが好きであり、向いていると思った。

この旅行スタイルは是非、今後も続けたいと思った。

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