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高倉健の養女・小田貴のミステリー

2017 10/27
戦後の日本映画界を牽引してきた映画俳優・高倉健が2014年11月に83歳で亡くなったが、最後を看取ったと言われる養女が40億円と言われる遺産を受け継いだ後、その死を実の妹にも知らせず、いまだに遺族には会おうともしないのだという。

高倉健の死後2日で火葬してしまい、実の妹が遺骨を分けてほしいというと、遺言で散骨してくれといわれたからと断わり、高倉健が生前に建立した鎌倉霊園の墓地も更地にし、20台ぐらい所有していたといわれる高級車も売り払い、所有していたクルーザーも解体し、世田谷区の瀬田の家を壊して新築したりなど、その養女の奇行が週刊誌によって伝えられている。



怪談話のように恐ろしいミステリーである。


以下がその記事の引用である。


40億円の遺産と雲隠れ「高倉健」養女の謎
有名になるほど人は孤独になる
2017.10.2 PRESIDENT Online 政治・社会
ジャーナリスト 元木 昌彦

2014年11月、俳優・高倉健が83歳で亡くなった。しばらくして週刊誌などが小田貴という養女の存在を報じた。養女は、40億円といわれる遺産を受けついだが、その死を実妹にも知らせず、いまだに遺族には会おうともしないのだという。名優の謎に迫った『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』(講談社)の筆者・森功氏に、元「週刊現代」編集長の元木昌彦氏が聞いた――。

20代の若造に「よろしくお願いします」と頭を下げる
長嶋茂雄、吉永小百合、高倉健。

1970年、私が編集者になった頃、死んでも会いたいと思ったのが、この3人だった。

長嶋とは引退後に何度か食事をした。雑誌の対談に出てもらったことがある。サユリにはグラビアの撮影などでも会ったが、強く印象に残っているのが、川端康成の葬儀の日のことだ。

新米社員だった私は、裏木戸を見ていてくれといわれた。葬儀が始まってしばらくすると、木戸口から入ってくる女性が目に入った。遠目からでも吉永小百合だとわかった。

初心な私は、彼女を案内する間、口もきけず倒れそうなぐらい緊張した。喪服のサユリはため息が出るほどきれいだった。

高倉健には2度インタビューで会っている。最初は新作映画の記者会見場だったと記憶している。立ち話だったが、「よろしくお願いします」と20代の若造に丁寧に頭を下げた。『昭和残侠伝』の花田秀次郎がそこにいた。

2度目は、たしか青山にあった彼の行きつけの喫茶店だったと思う。緊張していたので何を話したかは忘れたが、コーヒーの話題を覚えている。

コーヒー好きで知られる高倉健だが、日に何十杯も飲むからインスタントでも何でもいいんです、そういって照れたように頭をかいた。

高倉の最後を見届けた唯一の人間

男が惚れる男というのは彼のようなことをいうのだろう。もともとファンだった私は、彼の行きつけの店をいくつか回った。京都のイノダコーヒーはもちろん、田中邦衛に教えられた嵐山・渡月橋近くの「霧そば」、喫茶店「花の木」。ハワイのベトナム料理店「マイラン・ベトナミーズ・レストラン」ではサムに高倉健専用ルームに案内してもらって、彼とツーショットを撮ってきた。

健康フリークで、ヒマがあれば運動をしていた彼も、『単騎、千里を走る』(2005年)あたりから年を感じさせ、遺作になった『あなたへ』(2012年)では老いが目立った。

2014年11月10日悪性リンパ腫で死去、享年83。

死後、しばらくしてから、彼に養女がいたことが報じられた。小田貴という女性だ。高倉の最後を見届けた唯一の人間。40億円ともいわれる遺産を受け継いだ。

だが不可解なことに、彼女は高倉の死を福岡にいる高倉の実妹にも知らせず、死後2日で火葬してしまったのである。実妹が、遺骨を分けてほしいというと、遺言で散骨してくれといわれたからと断っている。

彼女の「奇行」が週刊誌で報じられるようになる。生前、死んだらここへ入ると高倉がいっていた鎌倉霊園の墓地を更地にしてしまった。ここには結婚していた江利チエミがはらんだが、事情があって産めなかった水子墓もあった。

なぜ「高倉健」の痕跡を消し去ってしまうのか

クルマ好きで、多いときは20台ぐらい所有していたといわれる高級車も売り払い、手を入れれば立派に使えるクルーザーも解体してしまった。高倉との思い出が詰まっていたであろう世田谷区瀬田の家も壊して、新築した。

なぜ、そうまでして高倉健という俳優が生きた痕跡を消し去ってしまうのだろうか。ファンならずとも疑問を感じてしまうのは無理のないことであろう。

その謎に挑戦したノンフィクションが講談社から出版された。『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』、書いたのはノンフィクション・ライターの森功である。

彼は高倉健が出た福岡県立東筑高校の後輩。高倉は高校でボクシング部と英会話のESSクラブも創設し、ESSは今も残っているという。

明治大学に入り相撲部に入部した。学生時代はけんかと酒に明け暮れ、「明治の小田(高倉の本名は小田剛一<おだたけいち>)」と恐れられた。酒癖が悪く、物を壊す癖があったと、自らインタビューに答えている。それもあって、俳優になったら酒は飲まないと決めたようだが、その克己心には頭が下がる。

大歌手・江利チエミとついに結婚するが……

この時期、戦後「銀座警察」と異名をとった、後の指定暴力団「住吉会」の幹部たちとの交友もあった。中でも明治の1年後輩で後に住吉の理事長にまでなる直井二郎とは親しかったそうだ。

大学を出ても就職口がなく1年就職浪人をしていたが、知人に美空ひばりの事務所を紹介された。東映本社の喫茶店にいる時、東映の重役にスカウトされたという話は有名だが、森によると、東映専務だったマキノ光雄(兄は映画監督のマキノ雅弘)だったという。

若いときからファンだった憧れの江利チエミと共演する機会を得て、結婚することになるのだが、美空ひばりや十朱幸代などからも愛を告白されたそうである。

大歌手・チエミを追いかけまわし、ついに1959年2月16日に結婚する。この日は高倉の誕生日でもあった。

徐々に売れ出した高倉にとって、一番幸せな時期であったのだろう。残念ながら子供はチエミの体の問題があり産めなかったが、彼女も精一杯高倉のことを愛した。だが、チエミが縁戚の女の詐欺にあい何億という借金を背負ってしまう。そこから結婚生活は暗転していく。

12年半の結婚生活に終止符を打ち、その後、チエミは一人寂しく亡くなってしまう。高倉は生涯チエミのことを好きだったといわれる。それが証拠に、新婚旅行で行ったハワイには別荘も買い、撮影が終わるとちょくちょく出かけていた。

「おだたけいち」ではなく「おだごういち」に

映画『鉄道員(ぽっぽや)』の中で、チエミの代表曲「テネシーワルツ」を使っている。2人は瀬田の自宅からすぐの法徳寺に墓を買っていた。高倉はチエミの月命日には闇に紛れて墓に手を合わせてきたという。

だが、離婚後もチエミのことを好きだったと彼の口から語ったことは、私が知る限りない。チエミはステージでもよく『唐獅子牡丹』を歌っていたのだが。

話を急ごう。この本の白眉は、高倉と養女との馴れ初めや、彼女の不可解な行動の謎に迫った章である。

森は、養子縁組の際の入籍申請書類を見ている。養女になった貴の母親と、高倉の従弟(高倉プロの専務・当時)のサインがある。

だが不思議なことに、高倉の本名である小田剛一のふりがなが「おだたけいち」ではなく「おだごういち」になっているのだ。それも従弟のところには、何も書かれていない申請書を持ってきて、サインしてくれといわれたというのである。

高倉の実妹や親族たちは森に対して、高倉の死を知らされなかった悔しさを隠さない。いまだに養女とは会えず、弁護士を通してくれといわれているそうだ。なぜこうまでかたくなに実妹や親族を拒むのだろう。

「バレた、どうしよう」

そのくせ、高倉が死ぬ直前までCMに出ていた九州の会社には飛んで行って、高倉の死後もCMを放映してくれと、彼の死をマスコミ発表より早く知らせに行っている。週刊誌のインタビューにも答えているのに、生前高倉ときわめて親しかった人間たちとは会おうともしない。

貴の経歴も、高倉の出会いもよくわかっていない。仕事をしていた「チーム高倉」のメンバーも、彼女の存在をほとんど知らなかったという。森によると、貴は貴倉良子という名で女優やテレビリポーターをしていたそうだ。大部屋女優から、ホテルジャーナリストに転身しているという。

知り合ったのは1990年代後半。どうやら香港のホテルで知り合い、その後意気投合したらしい。彼女に会った数少ない人間も、彼女は家政婦だと思っていたと語っている。

親族たちが、高倉に何か異変があったのではないかと気づき、電話をあちこちにかけた。それを知った貴は、「バレた、どうしよう」と慌てふためいたそうだ。そして、高倉の匂いを消すかのように家を壊し、墓を更地にし、愛車やクルーザーも処分してしまったのだ。

こんな話がある。棺桶をどうしようかという話になった時、貴は、「一番質素なものでいい」といったそうだ。さすがにそれはないだろうということで、従弟が桐の上等なものにさせた。

昨年末からステーションギャラリーで「高倉展」が始まったが、それを皮切りに全国でイベントを行っているが、人前に出ないわりにはそうしたことには熱心なのだ。

遺産だけでなく、映画の権利なども手に入る

さらに不思議なことに、生前高倉と親しかった人間たちが、口裏を合わせたように、かたくなと思えるほど、高倉との思い出を語らないのだと、森はいった。

森にいわせると、結婚ではなく養女になったのは、高倉健の遺産だけでなく、これからも入ってくる映画の権利など、もろもろの収入も手に入れられるからだそうである。

私にはよくわからないが、もしそうだとしたら、法律に詳しい人間が彼女の後ろにいるのだろうか。疑念は膨らむばかりである。森は、彼女がそうした行動に走った理由について、こう推測している。

「心の底で燃やし続ける瞋恚(しんい)の炎が、彼女を駆り立てるのではないか」

「人の世の栄華とは何を指すのだろうか」

それは、高倉本人への憎悪なのか、彼が残像を追い続けた江利チエミという女性への嫉妬の炎なのだろうか。森は結びでこう書いている。

「人の世の栄華とは何を指すのだろうか。生涯をまっとうするとは、いったいどういうことなのか。高倉の人生に接していると、そんな疑問が湧く。生きる伝説とまで称されながら、その生きざまはわれわれと同じように、いやそれ以上に泥臭く、奥深い悩みを抱えてきた。きらびやかなスポットライトの裏で必然的に生まれる陰影に支配されてきたともいえる」

高倉健という名を汚さず、理想の俳優像を作り上げようと必死に”演技”してきたのであろう。ハワイのベトナム料理屋で、物置のような質素な部屋で高倉健が一人食事している姿を思い浮かべた。

200本以上の映画に出演し、日本一の俳優になった男が得たものは何だったのだろう。

有名になればなるほど孤独になる。その孤独に耐えられない人間は、その道を選ぶものではない。高倉健なら、そう答えるのではないか。(文中敬称略)

この記事を読んだ時、高倉健の出生図からこの謎を解明したいと思ったが、2チャンネルに高倉健の出生データが載っていた。


高倉健 1931年2月16日 8:00 福岡県中間市


このデータでチャートを作成した所、おそらくこの出生時間は正しいものと思われる。






この記事の中で、『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』の筆者・森功氏によれば、養女・小田貴が高倉健と結婚するのではなく養女になったのは、高倉健の遺産だけでなく、これからも入ってくる映画の権利など、もろもろの収入も手に入れるからだということである。



そうした養女の執念のようなものがチャートから読みとれるかどうかがポイントである。





まず、このチャートを見て高倉健の経歴、性格、過去のエピソードなどから考えて、出生図のラグナは水瓶座で正しいということで納得できる。





水瓶座の博愛精神


例えば、高倉健は、任侠映画に出演して、スターになったため、本人もヤクザのような気質の人物かと言えば、全くそうではない。



非常に博愛的で周りの人間に気を使う性格で、周囲から慕われているのは、その生真面目な性格においてなのである。




例えば、wikipediaによれば、『礼儀正しい人物であり、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う』といった人物像が伝えられている。


どんな人間でも対等に扱い接するという博愛性が見られるが、これは水瓶座の特徴である。



高倉健と監督の前だけ、皆とは違った豪華な料理が並んでいたのを見て、「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と遠慮したという。




酒は飲まず、ストイックで、演技には真剣で、非常な努力をし、美味しそうにご飯を食べるシーンを撮影するために2日間食事をしなかったといったエピソードも伝えられている。





高倉健が何故、任侠映画に出演したかと言えば、まず、10室が蠍座に位置しているということがある。



蠍座はヤクザ、暴力団の星座である。




また3、10室支配の火星が蟹座に在住していることもそうである。


蟹座は右翼、民族主義者の星座であるが、3、10室支配の火星がこの6室蟹座で減衰しており、パラシャラの例外則でラージャヨーガ的に働く配置である。


また火星は減衰しているが、ディスポジターの月からアスペクトされてニーチャバンガラージャヨーガを形成している。


3室は演技のハウスであり、10室は仕事のハウスである。



この3、10室支配の火星が6室の蟹座で減衰しているために義理人情といった感情情緒の世界(水の星座)を描いた任侠映画に出演したのである。



6室に在住する火星は、敵を粉砕する配置であるが、特に火星が減衰している場合は、敵が徹底的に叩きのめされる配置である。



つまり、蟹座的な人物に対して、非常に対人的な強さを発揮する配置である。



中学時代にボクシングなどで、6戦1敗の成績を収めたというのもそれが関係しているかもしれない。



高倉健は、山口組の田岡組長など暴力団とも親しくしていたようであるが、蟹座で火星が減衰しているのであれば、ヤクザの組長とさえも気楽に余裕で交際できるような優位性を保ったと言えるかもしれない。



つまり、火星が6室で減衰する配置は、無敵の配置である。



従って、かなり敵を粉砕する強さを得るが、火星が減衰しているため、それ程、凶暴には見えない。むしろ、大人しい印象となる。



この火星の配置は非凡であり、ナヴァムシャでも火星が6室に在住して、対人関係、パートナー関係における優位性を示している。





女性関係


高倉健は、映画界きっての「惚れられ男」だったという。



映画『日本侠客伝 刃』(71年)で共演した十朱幸代が高倉健と『できれば結婚したい』とまで言っていたが、自宅へ行っても高倉健は何ら手を出すそぶりを見せず、『タバコを吸う女は嫌いだ』の一言で遠ざけられたという。



倍賞千恵子との交際が取りざたされたり、児島美ゆき(女優)との交際など、いろいろ噂は絶えなかったと言われている。



そして1956年の映画「恐怖の空中殺人」で共演した江利チエミと1959年に結婚したが71年に離婚している。





後年、「健さんってすごい気難しくて。私は好きで一緒になったんだけど、夫婦生活はとても薄っぺらい、実態のないものでした」と江利チエミは語っている。



結婚中も「夫婦らしいことは何もしてくれない」とボヤいていたという。





こうしたエピソードから分かることは、高倉健は、女性から惚れられて結婚を求められはしても、決して、相手の女性に満足のいく結婚生活を与えなかったという状況である。




高倉健のチャートを見ると、7室支配の太陽がラグナに在住しているが、これはパートナー(相手)が積極的に働きかけて来て、求めてくる配置である。



そして、2-8室の軸にラーフとケートゥが在住しているが、これが高倉健の結婚生活に問題をもたらす配置であり、高倉健が生涯、家庭というものに恵まれなかったことを示す配置である。



8室に在住するケートゥは高倉健が、全くパートナーとの結婚生活に全く期待をせずにむしろそれを避ける傾向があったことを示している。



そして、2室のラーフはパートナーの7室から見た8室であり、パートナーとの結婚生活から多くを得ようという執着を表わす配置である。



2室は家族、人脈、財産など、パートナーが所有するあらゆるものを表わしている。



2室にラーフが在住すると、パートナーは飽くなき欲望で、それらのパートナーの所有物や財産から最大限の恩恵を受けようとするのである。



飽くなき欲望であり、その欲望は決して満たされることのない凄まじいものである。




しかし、そのようにパートナーに求めるのだが、7室から見た8室に在住するラーフは凶星でもあり、8室を傷つけているのである。



従って、パートナーは、高倉健に対して、愛情や経済的保護や親族間のつながり、交流からあらゆるものを求めようとするが、それらは決して得られず満たされないのである。



これが高倉健の女性関係のパターンである。



高倉健は、相手の女性を自分の親族の中に導きいれたり、家族ぐるみで、大事にするというようなこともなく、親族間の交流が始まるような関係性は一切なしで、結婚生活の実態というようなものは全く与えなかったのである。



従って、女性との関係というものは、プライベートで少し甘美な関係性を築くというだけであり、高倉健が常に優位となるような一対一の関係で、親族関係などが一切発生しない関係であった。



あるいは、親族関係によって、苦労をする配置であったといえる。



高倉健が結婚した江利チエミと離婚するに至ったのは、江利チエミの異父姉が横領事件を起こしたり、2人を攻撃するデッチ上げ話を流したりするなど、夫婦関係をこじらせる行為を繰り返したことが原因であるという。



従って、高倉健の方も、パートナーの親族(8室:7室から見た2室)から全く幸福な関係を持てなかったということである。



それ8室にケートゥが在住して、土星からアスペクトされ、更に逆行する火星からアスペクトされる意味でないかと思われる。



パートナーの親族関係からは全く失望(ケートゥ)と言えるものしかもたらされなかったのである。



結局、そうした家族の問題というものがあって、高倉健と江利チエミは離婚することになった。



結婚生活、家庭の安定、親族間の相互サポートなどを提供する余地が、お互いに全くなかったのである。




これが、ラーフ/ケートゥ軸が2-8軸に入る場合の関係性である。



ラーフ/ケートゥ軸が2-8軸に入ることは女性にとっては厳しい配置であると言われているようだが、これは男性にとっても同じである。



但し、高倉健の場合は、仕事に打ち込むことが出来た為、この問題は、それ程、問題とはならなかったのである。



高倉健は、安定した家庭生活を築かなかった代わりに仕事に全エネルギーを費やしたのである。




このパートナー関係のパターンは、この江利チエミに限らず、交際した全ての女性との関係においても繰り返されたに違いないのである。




高倉健のチャートを見ると、5室に2、11室支配の木星が在住し、11室に4、9室支配の金星と、ラグナロードで、12室支配の土星が在住して、1-2、1-4、1-9、1-11、2-5、5-11、9-11のラージャヨーガ、ダナヨーガを形成している。


5-11室が非常に強い配置である。




これは高倉健に数々の受賞や称号をもたらし、また経済的な富ももたらした配置である。また映画界や多方面の有力者との人脈を表している。



第1回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(1978年) – 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
第4回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(1981年) – 『動乱』、『遥かなる山の呼び声』
第5回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(1982年) – 『駅 STATION』
第23回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(2000年)- 『鉄道員(ぽっぽや)』
第37回日本アカデミー賞 協会栄誉賞(2013年)

紫綬褒章 1998年
文化功労者 2006年
第60回 菊池寛賞 2012年
文化勲章 2013年

(wikipedia 高倉健より一部抜粋)



そして、高倉健にはもう一つ知られざる一面があるが、映画の撮影が終わってオフになると、どこか外国にいって、暫くマスコミから姿を消すのである。



その間、高倉健がどこで過ごしているかは、誰にも分からないのである。


国内では、京都のイノダコーヒー、嵐山・渡月橋近くの「霧そば」、喫茶店「花の木」、海外では、ハワイのベトナム料理店「マイラン・ベトナミーズ・レストラン」の高倉健専用ルームなど、プライベートを過ごすいくつかの行きつけの場所はあったようである。


これはチャートの12室に在住する6室支配の月と5、8室支配の水星が表している。



12室は海外を表わしており、本人のプライベートな領域である。



芸能人がオフの時に海外に行くのは誰にも見つからずにプライベートを楽しめるからである。



そして、その月と水星と3、10室支配の火星が相互アスペクトしている。



従って、ある種、映画の撮影で、ロケ地などで過ごすことは、高倉健にとっては、プライベートを楽しむことに関係している。



2005年12月22日公開の中国で撮影された『単騎、千里を走る。』といった作品などは、映画の撮影と海外でのプライベートな生活の両方を満たす側面があったと思われる。



この『単騎、千里を走る。』で関わった中国のスタッフとの別れを惜しむ様子がwikipediaに記されている。

(略)東映を離れ、フリーに転じてから、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れ、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としている。それは、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、“深い喪失感”に関係しているという。特に『あなたへ』に主演する前には、自身最長となる6年間の空白期間が生じた。前回主演した日中合作の映画『単騎、千里を走る。』の後、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと『あなたへ』の出演を決めたことについて、「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ。」と、その心情を初めて漏らしている。

(wikipedia 高倉健より引用抜粋)



以上のように高倉健には仕事上の人脈や高い評価(受賞、称号)、成功と、国内の隠遁地や外国でのプライベートがあり、後は、惚れられる男としての側面と、憂鬱な満たされないパートナー関係(家庭生活)が示されている。



①仕事上の人脈や高い評価(受賞、称号)、成功・・・・5-11室
②国内の隠遁地や外国でのプライベート・・・・・・・・6-12室
③惚れられる男としての側面・・・・・・・・・・・・・1-7室
④憂鬱な満たされないパートナー関係(家庭生活)・・・2-8室



これが高倉健のチャートが示す運命の4つの大きな特徴である。




上記のようにラーフ/ケートゥ軸によって傷ついた2-8室の軸による満たされない家庭生活というものがあり、そして、それは養女になった小田貴との関係においても同じである。




おそらく小田貴は、高倉健の晩年の恋人として、パートナーとして高倉健のスターとしての評判に傷をつけないよう目立たずに陰の存在として尽くしてきたと考えられる。



その間、ずっと長年に渡って、高倉健との生活に満たされない気持ちを抱き続けてきたに違いないのである。



それは7室から見た8室にラーフが在住しているからである。



高倉健の親族から良くしてもらった記憶もなく、また高倉健自身からもそれ程、結婚生活らしきものは与えられなかったとすれば、その与えて欲しい激しい欲求は募るものの、それらは決して満たされずに来たのである。



実際、8室にラーフが在住している場合、パートナーの所有物を何もかも欲しがる配置である。しかし、それは決して満たされなかったのである。



その為、高倉健が亡くなった後の遺産全てを自分のものにすることでせめて、その満たされなかった感情を満たそうとしたのである。



そのために小田貴は、養女になる道を選んだと言える。(高倉健の意志で養女にしたようである)



そして、高倉健が亡くなった今、小田貴は高倉健の財産を全て手にすることになったが、高倉健の家族や両親からは何も良くしてもらっていない、存在さえも認められてもいないという積年の恨みが、彼女に高倉健の財産を全て我が物にして、誰にも渡さない頑なさとして現れたと言える。


高倉健が生前に建立した鎌倉霊園の墓地も更地にし、20台ぐらい所有していたといわれる高級車も売り払い、所有していたクルーザーも解体し、世田谷区の瀬田の家を壊して新築したりなどした奇行は、全てこの飽くなき欲望のラーフが、7室から見た8室に在住して、パートナーの財産を全て掴み取ろうとするからである。


それらは一文たりとも妹や親族には渡さずに遺骨の一部さえも渡さない、高倉健の持ち物全てを握りしめて離さない、そのような頑なな姿勢として現れている。



その怨念が凄まじいだけにこの養女の奇行の話は、あたかも四谷怪談のような恐ろしさを持っている。





高倉健は、2014年11月10日に亡くなっているが、この時のダシャーはケートゥ/金星期である。



マハダシャーケートゥ期に入った後のセカンドアンタルダシャーの時期である。



ケートゥは2-8軸に座住し、ケートゥのディスポジターである水星は12室に在住して、3、10室支配のマラカの火星からアスペクトされている。




高倉健は没後、養女の小田貴によって、生前の建立した墓にも入れてもらえず、全ての財産をむしり取られる状況にあり、これは8室のケートゥやそのディスポジターが12室に在住する状況ではないかと思われる。




高倉健の今生の名残や痕跡を全て消すような方向で処理を進められているようである。





そして、ナヴァムシャを見ると、ケートゥのディスポジターである月は牡牛座で高揚している。



7室をパートナーのラグナとすると、10室支配の月が8室(遺産相続)で高揚し、9室支配の水星とコンジャンクションし、4、5室支配のヨーガカラカの土星と11室支配の太陽とで相互アスペクトしている。



これはパートナーの財産から経済的恩恵を受ける配置である。





高倉健のナヴァムシャを見ると、6室にラグナロードの火星が在住し、7室支配の金星が6室で減衰している。




これは対人関係において相手を徹底的に破壊する配置であり、相手よりも優位になって、相手からは求められる配置である。



6室で減衰する金星は、相手がいじめであることを表している。





従って、この6室の配置を見ると、高倉健が、常に対等でない目下の女性と関わっていることを示唆する配置である。



そして、高倉健のナヴァムシャの8室には土星と太陽が在住して傷つけているが、これはパートナーからは何ももらえないし、期待できないことを表している。




実際、一度だけ結婚した江利チエミとの関係においてもそうであった。




また小田貴との関係でもそうであることを物語っている。






2-8の軸は、パートナー間、家族観の深い因縁を表わす軸であり、その軸にラーフ/ケートゥ軸がまず在住している。




そして、ナヴァムシャでも6室と8室が強調されており、パートナー関係が対等で幸福な関係性ではなく、従属的で、支配と非支配の関係性を象徴している。





小田貴は、高倉健の親族や高倉健自身から良くされた記憶がなく、耐え忍んて来て、ようやくその遺産を勝ち取ったのである。




その際に実際に遺産を掴み取る段階で、積年の恨みが無意識の中から顕在化したか、あるいは初めから明確に意識されていたかもしれない。




因みに高倉健の2室に在住するラーフは、やはり家族のハウスを傷つけており、親族とは問題があって絶縁していたようである。




2室のラーフは高倉健の親族も貪欲であることを示しており、養女の小田貴とたいして変わらないかもしれない。





高倉健が亡くなった後、実の妹や親族に知らせずに死後2日間で火葬にしてしまったのは、彼らに葬儀に関与して欲しくなかったからである。




そして、高倉健と高倉健の財産の整理を家族の関与なしで行い、それらを独り占めするためである。






このように2-8の軸に在住するラーフ/ケートゥ軸は、家族や姻戚関係の深い因縁を表している。





『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』の筆者・森功氏は以下のように結んでいる。


「人の世の栄華とは何を指すのだろうか。生涯をまっとうするとは、いったいどういうことなのか。高倉の人生に接していると、そんな疑問が湧く。生きる伝説とまで称されながら、その生きざまはわれわれと同じように、いやそれ以上に泥臭く、奥深い悩みを抱えてきた。きらびやかなスポットライトの裏で必然的に生まれる陰影に支配されてきたともいえる」




確かに高倉健のチャートは、パートナー関係の苦悩を抱えているチャートである。



仕事や社会的評価においては最高位にまで上り詰めたスターが、私生活上には深い悩みを抱えていたというのは本当である。




チャートから見て、それは明らかである。




小田貴(貴倉良子)のチャート

最後に養女・小田貴のチャートを見てみるが、出生時間を00:00:00~23:59:59のどこを取っても高倉健が亡くなり、遺産を相続したのは、マハダシャーラーフ期に入ってからである。


ダシャーラグナのラーフから見ると、8室に8、9室支配の土星が自室に在住し、6、11室支配で高揚する火星と8室でコンジャンクションしている。


火星は高揚して強く、9室支配の土星と11室支配の火星が8室でコンジャンクトして、9-11のダナヨーガを形成している。


この配置が巨額の遺産を相続した配置を一部、説明している。


6室支配の火星が8室支配の土星と8室でコンジャンクトしており、6-8の絡みが生じていることから、訴訟や争いが関わる不審な遺産相続であることを示している。






高倉健の実妹

(参考資料)

高倉健さん 芸能人過去最高!存在していた総額40億円の巨額遺産
2015年03月10日 00:00 JST 女性自身

「高倉さんの遺産は、世田谷区の邸宅や港区のマンション、それに別荘などを合わせた約8億円だと報じられていました。しかし、それは氷山の一角だったのです」(金融機関関係者)

昨年11月10日に亡くなった映画俳優・高倉健さん(享年83 本名・小田剛一)。都内の病院で最後の時を迎えるとき、健さんの傍らについていたのが養女の小田貴さん。彼女は、元女優で現在50歳。健さんの生前は、決して彼女の存在が公にされることはなかった。

そんななか本誌は「健さんは8億円の不動産のほかにも多額の資産を遺している」という情報をキャッチした。相続の手続きのために、養女の貴さんが金融機関の窓口を訪れたのは、2月初旬のころだという。

「高倉さんの本名(小田剛一)名義の証券口座には、現金のほか、投資信託などがあり、外資系の証券会社など4社を通じて運用していました。その金融資産を合わせると30億円もあったのです」(前出・金融機関関係者)

   健さんが、貴さんを正式に養女にしたのが’14年5月のこと。弁護士には、「長年世話になった人に財産を残したい」と相談したという。

「高倉さん自筆の遺言書には、全ての財産を養女に相続させるという旨が綴られていました。遺言の通り、証券会社にあった高倉さんの口座に残っていた資産の名義を変更し、養女が全額を相続しました。投資信託の一部を解約し、相続税の支払いのために現金化もしていましたね」(前出・金融機関関係者)

8億円の不動産と証券会社口座に遺された30億円。本誌が掴んだ額だけでも、少なくとも40億円以上の遺産。銀行預金などを含めるとさらに資産は膨れ上がることが予想される。これは、石原裕次郎さんの17億円を超える芸能界の過去最高額だ。

健さんの弁護士に養女への相続について聞くと、「生前、高倉さんは『長年世話になった人に財産を残したいという自分の意志を明確にするため』と自筆の遺言書をしたためておられました」。相続者は、亡くなった後に明らかになった養女・貴さんかと訊ねると「そうです」と明言。相続した金額については「お答えできません」と話した。

参照元:高倉健さん 芸能人過去最高!存在していた総額40億円の巨額遺産
2015年03月10日 00:00 JST 女性自身
追悼・高倉健 不器用すぎた女性関係(1)唯一結婚した江利チエミとの生活
Posted on 2014年12月2日 09:58 Asagei + plus

 不器用で寡黙な気質さながらに、私生活の大半は謎。だがその実態は、映画界きっての「惚れられ男」だった。封印された華麗な「女性遍歴」を追悼発掘する。

 高倉は一度だけ結婚していたことがある。56年の映画「恐怖の空中殺人」での共演を機に、歌手の江利チエミと急接近したのだ。ゴールインはその3年後、高倉が28歳、江利22歳の時だった。当時を知る映画関係者が回想する。

「江利の芸能界の母と言うべき存在だったのが清川虹子。江利が高倉にたいそう惚れ込んでしまい、清川に相談した。清川は健さんに『チエミちゃんのこと、何とかしてあげなさいよ』と言い、交際が始まりました。結局、押し切られる形で結婚へと至りました」

 だが2人の結婚生活はやがて、トラブルに見舞われる。付き人をしていた江利の異父姉が横領事件を起こしたり、2人を攻撃するデッチ上げ話を流したりするなど、夫婦関係をこじらせる行為を繰り返したのだ。

 その一方で、高倉の「不器用すぎる」夫ぶりも浮き彫りに。江利は酒を飲んで酔うと、美空ひばりとともに「3人娘」と呼ばれた雪村いづみに、「夫婦らしいことは何もしてくれない」とボヤいていたという。

 江利の異父姉の件もあり、2人は71年に離婚。12年の結婚生活だった。当時、取材に当たった芸能レポーターの石川敏男氏は言う。

「東映の撮影所まで行って健さんを直撃したところ、『ちょっと待ってて』と言って、わざわざセットの裏まで出てきてくれました。『離婚するんですか』と聞いたらボソボソと『そんなことには答えられません』と。答えられないならわざわざ出てくることもないだろうに、本当に誠意のある方でしたね」

 江利は後年、とある雑誌の企画で婦人問題の評論家・俵萌子氏と対談した際、結婚生活を「今だから話すけど」と言って、次のように告白したという。

「健さんってすごい気難しくて。私は好きで一緒になったんだけど、夫婦生活はとても薄っぺらい、実態のないものでした」

 この対談に立ち会ったノンフィクションライター・風見隼人氏が明かす。

「要するに、高倉がほとんど家に帰ってこない、薄幸な生活だったと。『寂しいからお酒に逃げたんです。寂しさをまぎらわすためにブランデー、ウイスキーを飲んで』とも言っていました。結局、彼女はアルコール依存症のようになり、酔って嘔吐したものを喉に詰まらせて、45歳で亡くなっている。彼女のヒット曲『酒場にて』に『好きでお酒を飲んじゃいないわ 家にひとり帰る時がこわい私よ』というフレーズがありますが、これは彼女の人生を歌ったんだなと思いました」

 江利との離婚以降、独身を通した高倉。だが実際は、何度か再婚話が浮上したことがあった。

 離婚後、最初の相手となったのは、印相学の大家のバツイチ令嬢。彼女は高倉を紹介してくれた俳優に「健さんと結婚するつもりなので、その節はよろしくお願いします」と挨拶までしていたという。

 印相学大家令嬢との破局から程なくして、十朱幸代との親密交際が噂されるようになる。高倉、40代半ばの頃だった。高倉が十朱にエルメスのバッグをプレゼント、あるいはそば店でひそかに食事をするシーンが目撃されたこともあった。
参照元:追悼・高倉健 不器用すぎた女性関係(1)唯一結婚した江利チエミとの生活
Posted on 2014年12月2日 09:58 Asagei + plus
追悼・高倉健 不器用すぎた女性関係(2)噂は出ても結婚まではいかなかった
Posted on 2014年12月3日 09:58 Asagei+plus

 映画関係者が語る。

「共演映画『日本侠客伝 刃』(71年)がきっかけで、十朱が完全に惚れまくり、『できれば結婚したい』とまで言っていました。ところが自宅へ行っても、健さんは何ら手を出すそぶりを見せない。しびれを切らした十朱が積極的に迫ったそうですが、やはり何もしようとしなかった。それでもアプローチを続ける十朱に、健さんは『タバコを吸う女は嫌いだ』。これが最後の言葉だったと‥‥。以降、彼女はショックで1本も吸っていません。『いつか健さんと会った時、タバコを吸わない自分を見てほしい』と言っていましたが、結局はプラトニックで終わった」

 倍賞千恵子との交際が取りざたされたのは、倍賞の自宅で高倉の姿を見たという目撃談があったことが理由だった。

「2人が共演した映画『駅 STATION』(81年)を撮影している時、健さんはロケに毎回、夫婦役の倍賞さんと一緒に来るとスタッフから聞かされて、倍賞さんのマンションをカメラマンと一緒に張り込みました。よそのビルから自宅をうかがうと料理を作っている倍賞さんの姿が見えて、壁に健さんがCM出演していた三菱自動車の大きなポスターが貼ってあるんです」

 石川氏はそう言って、取材時のエピソードを明かすのだ。

「これは(健さんが)来るなと思っていたら、1時間もたたないうち、管理人が1階のエレベーターのボタンをずっと押して待つようになった。すると本当に三菱の車がやって来て、停車しました。これは話ができると思って、僕らは慌てて飛び出した。マンション入り口で遭遇できたのですが、健さんは車に戻って去ってしまったんです。カメラマンもビビッて撮影できず、しばらく車で追いかけましたが、逃げられてしまった。記事にはしましたが、本人からは(交際を)否定され、証拠がないということで、それっきりになってしまいましたね」

 その直後、不器用すぎるモテ男は、女優・児島美ゆきと熱烈交際、半同棲にまで至っている。83年から84年にかけてのことだった。ドラマ「北の国から」(フジテレビ系)にスナックのホステス役で出演した児島を見た高倉が気に入り、ドラマ共演者を介して電話がかかってきたのだという。

 交際から20年後の03年、児島はインタビューに答え、当時のことを赤裸々に明かしている。

 最初の電話から数日後、意外な「電話魔」だったという高倉が、ロケ先から自宅に戻る途中でまた電話をかけてきたという。

〈彼は「会えるか? うちはどこなの?」と尋ねてきました。「○×町のこのあたり」と説明すると、「もしかして僕、マンションの前に着いたかもしれない」。ベランダから見たら、彼がいるんですよ!〉

 この時ばかりは不器用ではなかったようだ。

〈外で会うことはほとんどできませんから、室内でのデートが多かったですね。部屋の中で彼が出ている映画を見たり、当時は私、料理はあまりできなかったけど作ったりして。(中略)私の前で彼は自分のことを(本名・小田剛一の)「剛ちゃん」って言ってました。2人で映画を見る時は、私がペタッて座って、彼をひざ枕する。(中略)ある日、ひざ枕をしていると「剛ちゃん、こんなに幸せでいいのかな」って言いながら、彼が泣いたんです〉

 映画ライターが言う。

「高倉は児島と2人きりになると饒舌で、ペラペラしゃべっていたそうです。ある時、テレビ番組に出演した児島が高倉とのことを暴露しようとした際、共演者の小柳ルミ子が『そんなこと、こんな場所で言っちゃダメよ』と諭していました」

 そんな濃密な関係も、マスコミ報道されると同時に疎遠に。その後、高倉に女性関係の噂が流れることはなかった。
参照元:追悼・高倉健 不器用すぎた女性関係(2)噂は出ても結婚まではいかなかった
Posted on 2014年12月3日 09:58 Asagei+plus
緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(13)女性に対して真摯すぎる
Posted on 2015年1月13日 09:55 Asagei+plus

高倉健の俳優人生は、大きく3つの時期に分けられる。ヒット作に恵まれなかった若手時代、大スターに躍り出て撮影に明け暮れた時代、そしてフリーとなって作品を吟味するようになった時代──。いずれにおいても映画への取り組みに手を抜いたことはないが、火の粉は、思いがけず降りかかった‥‥。

「私、大きな声を出さなかった?」

「いや、出さなかったよ」

 居酒屋で知り合った男と女が一夜で深い仲となる。名作「駅 STATION」(81年、東宝)の1コマだ。

 その直後に「樺太まで聞こえるかと思ったぜ」と胸のうちでつぶやく。高倉健(享年83)には珍しく笑いを誘うモノローグだったが、倍賞千恵子を相手にした幻想的なラブシーンもまた、珍しい‥‥。

 生涯で205本もの映画に出演しながら、およそ濡れ場とは縁がなかった。東映専属として最後の作品になった「神戸国際ギャング」(75年)では、絵沢萠子の顔に雑誌をかぶせたカラミが物議を醸したが、これが唯一の“例外”だ。

 高倉のデビュー間もない頃から東映の企画担当として見続けた吉田達は、ある映画を引き合いに出す。出世作となった「昭和残侠伝」(65年)である。

「健さん演じる清次と恋仲の綾役が三田佳子で、綾の兄役が池部良さん。三田ちゃんがそれぞれにしがみつく場面があるんだけど、俊藤浩滋プロデューサーが怒るわけです」

 恋仲の高倉にしがみつくよりも、実の兄の池部にしがみつくほうが何倍も色気が出ていると──。これに対し若手女優だった三田も、敢然と言い放つ。

「俊藤さん、違うんです。高倉さんの顔を見ると色気が消えちゃうんですよ」

 これには任侠映画の立役者である俊藤も苦笑いするしかなかった。吉田は何かにつけ、高倉に「女あしらい」について助言をした。

「健ちゃん、もし刑事みたいな顔してベッドシーンをされたら、女優が困っちゃうよ」

 吉田は俊藤や音楽担当の菊池俊輔とともに、一計を案じた。当時、「昭和残侠伝」の撮影に栃木・宇都宮の石切り場を使っていたが、街ですれ違った女を見て俊藤が高倉に言う。

「健坊、あの女は抱かれても週刊誌に言わないぞ」

「何でわかるんですか?」

 驚く高倉を尻目に、俊藤はなおも言う。

「健坊はもっと女を知ったほうがいい。腰から下に人格はないんだから。そうとわかったらタツ、交渉して来い」

 吉田は俊藤の命を受け、高倉健が話をしたいと言っていると告げる。女は俊藤がにらんだように、緊張のそぶりも見せず答えた。

「いいですよ、でも6時からキャバレーに入るので、店に来てくれるなら」

 4人はキャバレーで過ごし、女の部屋に招かれる。手製のラーメンを平らげ、俊藤は高倉を1人残す。

「健坊、頑張れよ」

 ところが高倉は、ほどなくして部屋から出てくる。

「僕は愛情がない女とはできません!」

 それが高倉健である。後年、フリーとなって初めて東映に舞い戻った「冬の華」(78年)でヒロインを演じた池上季実子は、初対面の印象をこう語った。

「言葉数は少ないけれども、やさしい慈しみを感じました。私には『無類のやさしさを秘めた賢人』というイメージです」

 三田佳子がそう思ったように、一瞬で男と女に陥るタイプではなかった。

参照元:緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(13)女性に対して真摯すぎる
Posted on 2015年1月13日 09:55 Asagei+plus
高倉健さん 40億円相続の養女に実妹激怒「形見分けもない!」
2015年11月4日 6時0分 女性自身

昨年11月10日に悪性リンパ腫のため稀代の名優・高倉健さん(享年83)が亡くなってから、もうすぐ1年。東京都内に残された自宅には、養女・小田貴さんが1人で住んでいる。彼女が名優から受け継いだ遺産はなんと40億円にものぼる。不動産資産が10億円近くに投資信託など、複数の証券会社の口座に残されていた金融資産は30億円以上……。

「ただ1人の相続人である養女が支払った相続税は21億円と推定されます」(公認会計士)

この1年、彼の信頼にこたえるために、静かに遺言を執行してきた貴さんだったが、実は軋轢がなかったわけではない。健さんは4人きょうだい。兄や姉はすでに亡くなっているが、故郷・福岡で妹・Tさんは存命だ。そのTさんが、“義理のめい”にあたる貴さんに対して激怒しているというのだ。Tさんの知人は言う。

「Tさんも、健さんの身の回りの世話をしている女性がいることは知っていたそうです。ただ、その女性が養女になっていたことを知ったのは、健さんが亡くなった後のことで、驚いていました。また、兄の訃報を知ったTさんは『最後にひと目、顔が見たい』と、すぐに上京しようとしたんです。しかし事務所の人から『東京に来ていただくのは困ります』と、きっぱり断られ、その願いも叶いませんでした」

そんないきさつもあって東京の貴さんや事務所スタッフに、強烈な不信感を抱いたTさんだったが、さらにそれを強める出来事が……。

「Tさんは『せめて形見として兄の遺品をわけて欲しい』と東京の事務所を通じて養女に申し込んだのですが、返答もなかったそうです。Tさんからしてみれば、顔も見たことがない養女が“勝手に”遺品も処分してしまっているわけで、ものすごく怒っていました」

本誌が養女・貴さんを目撃したのは10月下旬。一周忌法要は開催するのか、また、なぜTさんの形見分けの願いに応じなかったのか……、それらのことを聞くために、本誌は貴さんに直撃取材した。記者の問いかけに対し、彼女は記者の目をまっすぐ見つめると、自分の唇に人指し指をあてた。

「私がお話しできることはありません」

貴さんは、そう言いたかったのだろうか。彼女は記者に背を向けると、自宅に戻っていった――。

参照元:高倉健さん 40億円相続の養女に実妹激怒「形見分けもない!」
2015年11月4日 6時0分 女性自身
緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(15)突拍子もない噂が立ったことも…
Posted on 2015年1月13日 09:57 Asagei+plus

「パリの病院で目撃談がありますが?」

「同性愛についてはどう考えますか?」

 およそ映画の製作発表と思えない辛らつな質問が飛び交った。その1カ月ほど前、突如として高倉に「パリでエイズ死」の噂が飛び交っていたのだ。

 岡田によれば、根も葉もない噂を打ち消すために東宝社長も同席する会見を開いたが、想像以上にマスコミが過熱する。最初は冷静に答えていた高倉も、やがて、本来の眼光の鋭さで反論──、

「女の噂であれば笑ってすまされるが、殺されるようになれば‥‥。故郷には肉親もいるんです。同性愛だとか、病院に行っていたとか、僕にとってはまったくばかげた話」

 なぜ、突拍子もない噂がまことしやかに伝わったのか? 1つには高倉の「オフは事務所にも知らせずに海外放浪」という長年の習性がある。大スターゆえ、旅先での目撃談に何かと尾ひれがつく。

 もう1つは、兜町筋の「エイズ薬関連株」に絡めた意図的な情報操作という説。今となっても真相は闇のままだが、こうした霧を晴らすためにも高倉は映画に打ち込んだ。

「最初に頼んだフランス人が書いた原案は、ギャング映画のようでラリーの話が希薄。結局、タイトルも変え、その原案は使わないということを、健さんみずから断りを入れました」

 岡田や高倉、そして「南極物語」(83年、フジテレビ)と同じく監督を引き受けた蔵原惟繕は、パリからマルセイユとシナリオハンティングを重ねる。そして撮影が始まったのだが、これが南極や北極とは別の過酷さとなった。

「実際のラリー開催時期に撮っているので、終わるのを待って夜中から早朝にかけての撮影。しかも砂嵐がひどくて、鼻も口も耳の中も砂だらけの状態。それが2週間も続いて、いつしか『早く終わろう』の一心になっていきました」

 岡田は、蔵原流のドキュメントタッチな撮影が、高倉とかみ合っていないことを感じる。補佐役につとめたが、蔵原の映画にかける思い込みも過剰であり、意見に耳を貸さなくなった。

 それでも、完成したフィルムを高倉と蔵原の2人が試写室で観て、肩を抱き合って泣いていたことを知る。

 それが大団円とはならず、公開直前までトラブルが続いた。

「1日の上映回数を考えたら配給元はフィルムを切りたがるが、監督は譲らない。結局、3時間もの長尺になってしまい、紛糾したおかげで宣伝用の試写会も開けなかった。公開も土曜が初日のはずが、間に合わなかったので火曜日という異例の形になりました」

 独立以降、新作のたびに大ヒットを記録する高倉にとって、およそ例がないほど不入りとなった。会見での後味の悪さを、結局は引きずったままの幕引きとなった‥‥。

参照元:緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(15)突拍子もない噂が立ったことも…
Posted on 2015年1月13日 09:57 Asagei+plus
高倉健の死をどの芸能人よりも悼んでいた草なぎ剛と香取慎吾
Posted on 2014年12月10日 09:59 Asagei+plus

1960年代に任侠映画で支持を集め、「幸福の黄色いハンカチ」「鉄道員」などの主演で知られる俳優の高倉健が11月10日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。享年83。実は、この高倉の死をどの芸能人よりも悼んでいるのがSMAPの香取慎吾と草なぎ剛だという。

「実は、香取と草なぎにテレビの生放送で唯一、ダメ出しをしたのが健さんだった。2年前に『SmaSTATION!!』(テレビ朝日)に健さんが映画『あなたへ』の宣言のため珍しく出演したんです。番組の中で映画に出演していた草なぎは、健さんに自分の演技に対する感想を求めた。当然、和気あいあいと番組が進行するかと思いきや、健さんがいきなりのダメだしを連発。ドラマ『任侠ヘルパー』では健さんを意識したという草なぎに対し『役が合わない』と一蹴。映画『あなたへ』の演技については、『う~ん。ちょっと役が足らない』とバッサリ斬り捨てられた」(放送作家)

 健さんのダメだしは、番組司会の香取にも向けられた。

「香取が、台本は撮影現場で全て暗記すると自慢げに答えると、健さんは驚いた顔で『役者に向いてないんじゃないのか? 俺が企画担当だったら絶対に使わない』と香取以上の辛辣なコメントを発したんです」(芸能記者)

 この異常事態に青ざめたのがテレ朝のスタッフたち。生放送のため編集が出来ないからだ。

「真っ青になっていた草なぎと香取以上に、番組プロデューサーのほうが慌てていました。ジャニーズの関係者もその場に居合わせていましたが、相手が健さんですからね。何も言えなかったそうです」(テレビ関係者)

 実はこの一件で、俳優としての自信をすっかり喪失した香取と草なぎは、役者留学まで考えていたというから驚きだ。

「ジャニーズ事務所の幹部に相談しながらイギリスのシェークスピア学院やアメリカのハリウッド演劇学校への短期留学を真剣に考えるようになった。二人は大マジだったそうです」(芸能プロ関係者)

 もっとも、この話には後日談が…。

「健さんは若い人にはわざと厳しく、きつく当たるんです。番組終了後から数日たってから、二人は焼き肉を御馳走になった。しかも、ちょっとどころじゃないレベルの超高級焼き肉。事前に二人が好物だと聞いたうえでのセッティングだった。しかも、高級時計までプレゼントされたうえに手書きの俳優覚書までもらったそうです」(前出・芸能プロ関係者)

 以来、香取と草なぎは健さんファンを公言してきた。高倉健という俳優はアイドルからも尊敬され好かれていたのだ。

参照元:高倉健の死をどの芸能人よりも悼んでいた草なぎ剛と香取慎吾
Posted on 2014年12月10日 09:59 Asagei+plus
緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(16)元・組長が語る“高倉健”という人物
Posted on 2015年1月19日 09:55 Asagei+plus

 戦後の暴力史に名を刻んだ元安藤組・安藤昇組長は、組を解散後に俳優の道を選ぶ。重厚な斬れ味と端正な顔立ちは映画界にとっても貴重な存在であり、やがて「不良性感度」を重視する東映へ迎えられる。東映に移籍した年、時代は「任侠映画」「高倉健」を中心に回っていた。そして、事件が起こった──。

「健さんを初めて見かけたのは、俺が東映に移籍する前後だから、彼が任侠モノで当てた頃になるのかな。車で走っていたら、背の高い男が銀座の三笠会館の前に立っていて、それが健さんだった。脚が長い男だなというのが第一印象でね。オーラを発していたのを今もよく覚えている。彼とは面識がなかったから、そのまま通り過ぎたけど」

 大正生まれで米寿を迎えた安藤昇だが、その記憶力にいささかの衰えもない。戦後の渋谷を中心に、安藤組のカリスマ的な組長として名を馳せた安藤は、収監と出所を機に64年に組を解散。

 翌年、俳優として三顧の礼で松竹に迎えられ「契約金2000万円、出演料1本500万円」と、当時では天文学的とも言える破格の扱いを受ける。

 その2年後に東映に移籍し、初めて高倉健(享年83)とも言葉を交わした。大ヒットシリーズの10作目となる「網走番外地 吹雪の斗争」(67年、東映)で、安藤は「ナイフ使いの轟」役でゲスト出演。奇しくもこの作品が高倉と菅原文太(享年81)の初共演でもあった。

 安藤は5つ下の高倉を、それとなく観察した。

「大雪山のロケでは、健さんは自分専用のポットに北海道のおいしいコーヒーを準備していて『安藤さん、どうぞ。暖まりますよ』とマグカップに注いで差し出してくれた。俺もコーヒーが好きだからこれは助かった。気配り、気遣いのできる男だった」

 古風なイメージではあったが、安藤と同じく進取の気風もあった。

「その頃、芸能界でスポーツタイプのベンツSLに乗っていたのは3人。若尾文子と俺、そして健さん。クルマが好きなんだなと思ったことを覚えている」

 安藤は高倉の気遣いには感謝したものの、監督の石井輝男とはソリが合わなかった。シリーズが連続で大ヒットしていたため、端役に対しての傲慢な態度や、果ては弱い者いじめまでする──そんな風評が安藤の耳に入っていたからだ。

「ロケ地は真冬、極寒の北海道大雪山。この日は、健さんと俺が馬を並べて吹雪の中を去っていくラストシーンで、撮影開始は早朝7時だったが、なかなか始まらない。寒くてさ。焚き火にあたりながら撮影開始を待っているのに、石井監督は何も言わない」

 いよいよ焦れた安藤は「何で撮らねえんだ」と石井に詰め寄る。

 これに対して石井は「天気がいいから」と言う。安藤も「吹雪くのを待っているんだな」と理解しつつ、こころよく思っていない。

「じゃ、スモッグ焚けよ」

 安藤は吐き捨てるように言ったが、何だかんだと理屈をつけて、それもやらない。そして、延々と待たされたあげく、とうとう昼になってしまった。

 安藤は「こうなれば堪忍袋の緒もプッツンだ」と思った。

「帰るぞ!」

 安藤はホテルへ帰り、そのまま千歳空港に向かおうとした‥‥。

参照元:緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(16)元・組長が語る“高倉健”という人物
Posted on 2015年1月19日 09:55 Asagei+plus
緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(17)あえて“言わない”を貫く
Posted on 2015年1月19日 09:56 Asagei+plus

「考え直してください!」

 急を聞きつけ、東映の重役が北海道まで飛んできた。安藤が旭川から札幌に向かうのに時間がかかったため、東京からの便が先に着いたのだ。それでも安藤の答えは変わらない。

「男がいったんケツをまくったんだ。はい、そうですかとはいかない。そのまま東京へ帰ったよ」

 前代未聞の逃走劇に、石井監督は頭を抱えた。ラストシーンは高倉と安藤が馬を並走させ、吹雪の中を大平原の彼方へ去っていくというものだった。

 撮影できなかった部分がどうなったのか、安藤は完成作を劇場で観て驚いた。

「そのシーンがない代わりに、俺の吹き替えを使って、東北の街で撃たれて死ぬシーンになっていたよ」

 監督による“意趣返し”とも取れなくもないが、では、主演の高倉はどうだったか? 安藤は身を乗り出して強調した。

「このことについて、健さんは何も言わなかった。俺に面と向かって言うことはないにしても『こんなことがあったんだ』と、誰かに恨みがましいことを口にしても不思議じゃない。いや、むしろそれが人情というものだろう」

 東映だけでなく、日本の映画界を代表するドル箱スターである。前年には「網走番外地 大雪原の対決」が年度別興行成績の1位に輝いている。それでも高倉は、共演者の非常事態を責めなかった。

「誰かに話していれば『健さんがこんなことを言っていた』と俺の耳に入るが、そんなことは一度もなかった。言いたいこともあっただろうに、男らしいね」

 この件で安藤と高倉の仲がこじれることはなく、以降も多くの任侠作品で共演している。また石井監督にも含むところはなく、再び「現代任侠史」(73年、東映)で組んだ。

 安藤はまた、菅原文太を東映に移籍させた立役者でもある。2大スターとの邂逅は、同時に映画界における「盟主争い」も見つめたことになる。

「10年以上にわたって東映を引っ張ってきた健さんの任侠路線が次第に下火になっていって、それに取って替わるように『仁義なき戦い』(73年、東映)という実録路線が大ヒットして菅原文太が出てくる。これが時代の〈潮目〉というやつで、これに抗うことはできない」

 実録ブームの渦中にある76年に高倉は東映を退社し、フリーとして生きる決意をする。映画産業も下降線をたどっており、決して洋々たる未来ではなかったはずだ。

 それでも、と安藤は言う。

「潮目が変わり“引き潮”になって東映を退社するわけだけど、フリーになって辛抱し、やがて『八甲田山』(77年、東宝)や『幸福の黄色いハンカチ』(77年、松竹)でみごと、再び“上げ潮”に乗ってみせた」

 再浮上はいかにしてなしえたのか──、

「健さんは、役者であることに命懸けで生きてきたんだろう。四十余年前、クルマの中から通りすがりに見ただけだけど、あのとき健さんが発していたオーラは、たぶん、その覚悟と決意が発散していたのではなかったかと今は思うんだ」

参照元:緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(17)あえて“言わない”を貫く
Posted on 2015年1月19日 09:56 Asagei+plus

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