前回、記事『リチャード・ヴェルナーの『円の支配者』を振り返る』で、銀行の信用創造の問題点について検討した。
何故、信用創造の特権を銀行家だけが持っているのか?
銀行は、中央銀行の当座預金に一定の金額を準備預金として預け入れるだけで、その預け入れた金額の何倍も人にローンとしてお金を貸し付けることが出来る。
このことを銀行家の詐欺だと言うのだが、実際、経済が拡大し、文明が発展していくにあたっての必要悪であったとも考えられるのである。
産業革命が起こり、生産革命が起こって、世界経済は大変な量のお金を必要としたのである。
そのお金の量を稀少価値のある貝殻や石などでは到底賄えず、また金(gold)でも賄うには量が足りなかったのである。
もし全てのお金の裏付けが例えば、採掘された金の量に一致しているとすると、金の埋蔵量は少ないため、世界経済を支えるだけのマネーの量が賄えないのである。
そのお金の量を賄うには、銀行の信用創造の仕組みが必要であった。当時の必要悪として必然的に生み出されたのが信用創造であったと考えるべきかもしれない。
流通している現金は3%で、残り97%は銀行の預金通帳の中に書き込まれた数字にすぎないと言うのにはそれなりの実用上の理由があったと思われる。
流通する全てのお金を現金で用意するとしたら、大変な作業になり、大変な管理能力が必要である。
97%のお金が銀行の口座間でやり取りされるお金であれば、その管理はより容易である。
銀行家はとにかく世界経済が必要とする量のお金を供給する信用創造(加えて、その仕組みを維持する全てのネットワークや業務)という方法を発明したのである。
それで銀行家が信用創造を行なう特権を得て、世界の支配者になったのではないかと思われる。
堀江貴文が以前から「お金の正体は信用である」と述べている。
これに追随しているのか最近、同じようなことを語る人が増えている。
この概念は別に銀行からお金を借りる場合のみを指すのではなく、例えば、困った時にお金を知人から貸してもらったり、給料を前払いしてもらうといったことも該当するのである。
お金というものは人からの「信用」を数値化したもので、信用がある人は、常にお金には困らないということである。
この堀江貴文の「お金の正体は信用である」という概念を銀行システムに当てはめると、確かに銀行は返済する見込みがある人にお金を貸すのである。
お金を返済することが出来ると信用された人だけが、銀行からお金を借りることが出来る。
そして銀行がお金を貸すと、世の中に新しいお金が生み出されてマネーサプライが生じる。
そのお金が色々な人を巡って、経済活動の役に立つのであるが、その際にやはり最も価値のある商品やサービスを生み出すことが出来る信用ある人にお金は集まっていくのである。
つまり、創造的で、生産的で、世の中に新しい価値を作り出せるような人にお金は集まっていく。
逆に食欲、性欲、睡眠欲などに振り回されて消費だけに没頭するような非生産的な信用のない人にはお金は集まらない。
但し、そうした非生産的な人でも例えば、生きるためにはお金が必要である。
従って、どこかで雇用されて労働をして、お金を稼ぐことになる。
この場合の労働によって賃金として得られるお金は、「信用」という意味で言えば、最も最低限の信用である。
つまり、どんなに食欲、性欲、睡眠欲などに振り回されて消費だけに没頭するような非生産的な人であっても、生き残る為にちゃんと毎日、出勤して労働をしてお金を稼ぐだろうという見込み、そうした性悪説的な最低限度の信用を雇用主から得られるということである。
銀行は企業を信用して、資本を貸し付けて、企業は労働者に信用という意味では、最低の信用をして、労働の対価として給与(お金)を支払う。
信用がある時、お金を得ることが出来るという、堀江貴文の説は、正しいように思われる。
色々な人を巡って、経済活動の役に立ったお金は、最後に借りた人が銀行にローンを返済することによって消滅し、マネーサプライの総額から差し引かれる。
経済活動には一定の量のマネーサプライが必要である為、銀行は常に誰かに新しく銀行から借金をしてもらわなければならないのである。
その場合、銀行が信用するのは、技術やアイデアがあり、資本や労働力、土地などを所有する生産力の高い大企業である。
だから銀行の信用創造は、主に大企業に資本を貸し付けて、その大企業が労働者を雇用して、給与として支払うことでお金を世の中の末端まで行き渡らせる仕組みである。
然し、十分に教育を受けておらず、文化や教養の面で、洗練されていない労働者が多かった時代には、そういうモデルでも良かったのである。
現代は、教育を受けており、文化や教養の面で洗練されており、民主主義や人権の概念を持ち、企業から独立して仕事をしたり、企業に雇用されないで創造的、生産的な仕事をして生きていく生活スタイルが拡大している。
つまり、雇用されないで生きる資本家=個人の時代である。
例えば、『【無料お試し版】 サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい 人生100年時代の個人M&A入門+現代ビジネス記事付』といった本が最近出ているが、同じような思想が出てきている。
一億総資本家という思想が世の中に出てきている。
そうすると、信用創造によって大企業にだけお金を貸し出して、企業が雇用した従業員に給与を支払う形で、全体としての国民にマネーサプライを行なうという形式は、時代遅れになって来ている。
そして、量的緩和政策などによって、日本銀行の買いオペなどによって、市中銀行の日銀当座預金に準備預金を供給しても、銀行は貸し出す企業がないのである。
銀行は返済能力のない中小企業に資金を貸し出して、それらが暴力団のダミー会社だったりして、不良債権問題で苦しんだ経験などもあり、資本をあまり中小企業に貸したくなく、大企業に貸したいのである。
然し、大企業は内部留保もあり、従業員に給与を支払える新しい成長分野が見つからない為、雇用も資本も必要としておらず、銀行は貸出先を見つけることが出来ない。
それで、銀行の日銀当座預金には、準備預金が積み上がるばかりで、それらのマネーは市場に流通せず、末端の人々にマネーが供給されないのである。
このような状況で、銀行の信用創造を行ない十分なマネーサプライを提供する仕組みが機能不全になっており、皮肉なことに信用創造の特権を保持するだけの「信用」がなくなったのである。
従って、銀行は売り上げを上げることが出来ず、従業員を削減するばかりで、事業規模は縮小するばかりである。
また振込みの処理が遅いとか、海外送金の手数料が高いとか、様々なサービス自体の品質の悪さなど「信用」がないことによって、銀行にはお金が集まらなくなっている。
銀行はお金を創造できる機関であったにも関わらず、銀行に「信用」がないため、実際のお金自体が、銀行からどんどん逃げてしまっている。
このことは、非常に興味深い。
つまり、お金の本質が、堀江貴文の言うように「信用」だとすると、銀行自体もまさにその「信用」に左右されるのである。
そこで、最近、時代の必要に応じて、仮想通貨や、クラウドファンディングなどの資金調達の方法が出て来たのである。
銀行がもはや信用創造によってマネーサプライを提供する「信用」が得られないので、個人が投資を募ったり、新規に仮想通貨を発行して、それで資金調達する方法が出て来たのである。
これは、信用創造の機能をもはや銀行に依存しないで、自分たち自身で、信用創造する仕組みを起ち上げたということである。
また仮想通貨の場合、マイニングすることによって新しいマネーサプライを提供する(お金の総量を増やす)ことが出来る。
つまり、銀行の信用創造機能に依存しなくても世界が必要とするマネーの総量を賄うことが出来る。
しかも今まではほとんど大規模な企業しか銀行の信用創造の恩恵に与かることが出来なかったのだが、比較的小規模のスタートアップ企業なども資金調達できるようになった。
例えば、イーサリアムプラットフォーム上で、使用できるERC20トークンという形式の仮想通貨を簡単に発行できるようになったため、仮想通貨のICOを多くの企業が行うようになっている。
また全くの個人でトークンを発行できるようなサービスも現れている。
欧米では、小切手に裏書して相手に支払うような文化があったが、よほど社会的に信用のある人だけである。
その小切手が流通するのであれば、それも個人が発行した通貨と言えるかもしれないが、それは銀行に持ち込んで現金化する為だけの銀行システムの補助的な意味しかなかった。
然し、今後、個人が発行する仮想通貨は「信用」が得られれば、流通したり、他の仮想通貨との交換も可能である。
それは、個人が自分の現在価値ではなく、将来の価値、現在価値以上の価値を仮想通貨という形で、振り出すことが出来るのである。
但し、発行した仮想通貨(トークン)に価値が付くのは、その人に信用がある時のみである。
これまでは、政府が国民の未来の労働(未来に税金として徴収できるお金)を国債という形で振り出して、それを市中銀行を1回かますなどして、最終的には中央銀行がそれを買い取って、市中銀行の当座預金にお金を振り出した。
つまり、中央銀行が国債と引き換えに市中銀行の当座預金に金額を書き込む時、お金が誕生する。
お金とは、政府が中央銀行に国民の未来の労働を支払うことで作ってもらうのである。
そして、市中銀行が企業にお金を貸し付けて、信用創造を行なう。
この時に「国民の未来の労働」を準備預金として、それを信用創造によって何倍にも膨らませて、お金を市場に流通させるのである。
それが成り立つのは全ての国民が一度に預金を引き出さないからである。
つまり、お金とは、その国の国民の未来の労働である。
だからその国の価値とは、国債の値段であり、また国債の値段とは、その国の国民の未来の労働の価値である。
政府と中央銀行と市中銀行の連携プレイで、国民の未来の労働がお金に変えられるのである。
国家が人口が増えて(労働力が増える)、国民の教育水準が高く、国民の未来の労働に「信用」がある時、その国の国債価格(通貨価格)や株価は高くなり、
国家が少子化で、高齢化が進み、国民の教育水準が低かったり、犯罪率が高く、国民の未来の労働に「信用」がない時、その国の国債価格(通貨価格)や株価は低くなる。
つまり、通貨の価値(国債価格)が低くなり、ひどい時にはハイパーインフレなどになり、国民は貧しくて自国通貨では何も買うことが出来なくなる。
このように国民の未来の労働をお金に変換する仕組みは、政府と中央銀行と市中銀行が独占してきたのであるが、
個人が自分の現在価値ではなく、将来の価値、現在価値以上の価値を仮想通貨という形で振り出せるということは、個人が自分の未来の労働や価値をお金に変えることが出来るということである。
政府や中央銀行、市中銀行によって独占支配されてきた「国民の未来の労働」をお金に変換する機能を個々人が自分の手に取り戻すことを意味する。
また信用創造とは、効率的にマネーサプライの必要量を流通させる仕組みであり、それこそが銀行家の専売特許、秘伝であり、他の人に真似のできない技術であった。
管理労力を大幅に単純化して、世界に必要な量のマネーを供給することが出来るこの力が、銀行家の「信用」を生み出す源であった。
然し、この世界に必要な量のマネーサプライを生み出す技術は、今後は銀行家の専売特許ではなくなり、インターネットとブロックチェーンなどの技術革新により、様々な仮想通貨が市場に溢れかえって、必要量のマネーサプライは供給できるようになる日が近い。
銀行家は、お金が滞りなく流通する仕組みを提供するビジネスを行なって、それで社会的に「信用」を得ていたということである。
それは主に「国民の未来の労働」をお金に変換するビジネスであり、それを政府と共謀して行ってきた。
それが独占的ビジネスで、その「信用」が絶大だったために銀行家はお金持ちになった。
今後は、インターネット、ブロックチェーン、マイニングによってマネーシステムの維持運営に参加する一般市民、企業が、十分な量のマネーサプライを提供し、「信用」を得ることになる。
個人や企業など民間部門が仮想通貨を発行するとは、自分たちの未来の労働を売って、先に現金を取得するようなものであり、国債と似たようなものとして個人債を発行するようなものである。
その個人や企業が信用に応えて、何か新しい価値を生み出せば、その仮想通貨は値上がりするし、怠惰で、非生産的であれば、その仮想通貨は値下がりする。
その辺りは国債の市場価格と同じである。
銀行の信用創造を詐欺として批判する論客として、安部芳裕氏や天野統康氏がおり、これらの方々が担ぎ上げている経済学博士に山口薫教授がいる。
山口薫教授の『公共貨幣』東洋経済新報社 では、政府の負債によるお金ではなく、政府自身が発行する政府紙幣が問題を解決すると主張している。
私も安部芳裕氏の著作に一時期はまり、お金の仕組みについて多くを学習させてもらったが、信用創造の仕組みは、拡大する世界経済の必要に応えて、必要悪として誕生したのではないかという歴史的事実としての視点が欠けているのではないかと思われる。
確かに銀行はこの信用創造の秘密を一般市民に秘匿して、自分たちの支配力の源にしたが、然し、当時、この信用創造の仕組みを提供出来たのは銀行家だけであり、そういう意味で、「信用」があったのである。
銀行家を詐欺師であると非難することも出来るが、銀行が行う信用創造というものが、世界に必要な量のマネーサプライを提供する効率的で優れた方法であると評価することも可能なのである。
そのように見た時に陰謀論的な見方から脱出することが出来る。
銀行が出てくる前は、皇帝や国王が通貨を発行していたが、その通貨は、金の含有率を操作したり、ある日、突然、紙切れになったり、銀行家のネットワークよりも「信用」が乏しかったかもしれない。
お金とは、政府がそれを法律的に定めるだけで、通用力が得られる訳ではなく、国家の整備されたインフラ、勤勉な国民(しかも人口も多い)、国家が保持する鉱物資源、外貨預金など、政府の支払い能力、生産能力などの「信用」に依存している。
また政府が民主主義国で、法治国家としてきちんと約束を守るかどうかなどの「信用」も関係する。
独裁政権や共産主義の国家や世情不安な国家だとそこの国の通貨は信用されないのである。
そういう意味で、歴史的に国家や政府は常に世情不安で戦争を繰り返して来たため、世界的に協力関係にある銀行ネットワークよりも「信用」が乏しかったと思われる。
そうしたことで、政府が、政府紙幣を発行する場合、やはり、その価値については「信用」があるかどうかで決定されると考えられる。
政府の権力が単独で紙幣などに信用力を与えることは出来ず、様々な要素の複合で「信用」が評価される。
例えば、日本国の場合、民主主義国家で、官僚機構、憲法、法律が整備され、国民は勤勉で、真面目であり、識字率も高く、義務教育も行き届いている。
従って、日本は巨額の財政赤字があるにも関わらず、日本株や日本国債は安心の投資先と見られて来ていた。これは日本に「信用」があるということかもしれない。
然し、米国の格付け会社スタンダード&プアーズ(S&P)が2017年1月27日に日本の10年物長期国債の格付けをAAからAAマイナスに引き下げたりしているが、こうした具体的に「信用」を評価する方法もある。
今、銀行業界が衰退しつつあるのは、例えば、国際送金を担うSWIFTという銀行間ネットワークがあり、国際送金する場合、一度、ドルに換金され、現地に送金された後、現地通貨にドルから換金されるが、このネットワークよりもインターネットの方が「信用」が出て来たからではないかと思われる。
そして、実質的に個人の銀行家が所有するSWIFTとは違って、インターネットには特定の個人の所有者はおらず、皆で作り上げている仕組みである。
それこそが、銀行家が提供して来た信用創造とマネーサプライの提供手段からの自立を意味している。
つまり、今後、銀行家にマネーシステムを提供してもらう必要はなくなっていくのである。
皆で作り上げているインターネットが、ブロックチェーンの発明などによって、お金の送受信をする方法まで提供するほど「信用」の厚いものになったのである。
相対的に銀行は、マネーサプライを提供したり、送金したりする機能として、より「信用」が低下した。
お金の実態が「信用」だとすれば、銀行もこの「信用」によって評価されるということが非常に興味深い点である。
そして、今後、政府の発行する政府紙幣というものが、仮想通貨として発行されるとすると、個人が発行する通貨と、政府が発行する通貨は、全く対等な立場で、その通貨の「信用」が評価される。
例えば、世情不安で革命が起こりそうな国の政府の発行する通貨よりも、一個人の発行する通貨の方が「信用」されてしまうようなケースも出てくるかもしれない。
お金の正体は信用である – 堀江貴文が主張するお金の理論から銀行の信用創造について再評価する –
2019.05.31
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