沖縄の友人から、バフェットの子供の誕生日でダブルトランジットの説明が出来るため、蠍座ラグナの可能性を捨てないで欲しいとの連絡があった。
バフェットの子供は正確には長女スーザンが、1953年7月30日、長男ハワードが1954年12月16日、次男ピーターが1958年5月4日生まれであるとのこと。
(バフェットの妻suzanのwikipediaにはそのように掲載されていた)
その情報を元に再度、ダシャーとトランジットを検証した所、どうやら、蠍座ラグナの方が機能しているようである。
また射手座ラグナだと、逆に子供の誕生が説明できなくなってしまうケースが出てきた。
蠍座ラグナだと、第一子の場合、水星/土星期に子供が誕生したのは、水星が5室にアスペクトし、土星が5室支配の木星からアスペクトされているということで納得できる。
トランジットでも第一子の場合、木星が9室の支配星にアスペクトし、土星が乙女座から5室と5室の支配星、9室の支配星にアスペクトして、
9室にダブルトランジットが生じているということで納得できる。
第二子、第三子で、マハダシャーケートゥ期に子供が誕生したのは、ケートゥが5室支配の木星からアスペクトされているからである。
また第三子については、ケートゥ/木星期に子供が誕生したのは、アンタルダシャーの木星が5室の支配星だからである。
またトランジットの位置を考えてみても、第二子の場合のように木星が射手座ラグナで8室をトランジットしていると考えるよりも、
蠍座ラグナで木星が9室をトランジットしていると考えた方がより納得が行く。
考えてみると射手座ラグナだと、ケートゥ期に子供が誕生したことが、ケートゥが5-11室の軸にあるからという根拠が薄いものになる。
蠍座ラグナで5室支配の木星にアスペクトされているからという理由の方が根拠が強固である。
チャラダシャーに至っては、蠍座ラグナだと、月日まで出した子供の誕生データで検証すると、もっとクリアに説明が可能である。
長女が誕生したのは乙女座/水瓶座だが、乙女座から見るとPKが5室にアスペクトしており、水瓶座から見ると5室にDK、Amk、AKがアスペクトしてジャイミニラージャヨーガを形成している。
また長男が誕生したのは、乙女座/牡羊座だが、サブダシャーの牡羊座にはPKがアスペクトしている。
また次男が誕生したのは、乙女座/蟹座であるが、サブダシャーの蟹座からみて5室にPKが在住している。
非常に精密、精緻に子供の誕生のタイミングが説明できることが分かる。
これらは生物学的事実(biological fact)であり、検証として信頼性が高く、1978年、2006年のアストリッド・メンクスとの同居や再婚というのは、biological factでなく、様々な文化圏で様々な解釈が取りうる事象であり、状況が正確に掴みにくいから、無視することができる。
従って、結論としては、沖縄の友人が言うようにバフェットのラグナは、蠍座ラグナである。
上述したように蠍座ラグナの方がむしろ、チャラダシャーで子供の誕生が説明できるように思い、パラシャラ方式での分析と矛盾することを指摘したが、このように正しい子供の誕生時間を通して、再度、検証した所、蠍座ラグナということで納得した。
このように結論を間違えたのは、バフェットを射手座ラグナということで文章にまとめたいという逸る気持ちがあったからである。
またこのような場合、バフェットの性格的特徴から射手座ラグナに違いないという、あまり当てにならない印象を重視し過ぎている。
射手座の印象があったとしても、蠍座ラグナと射手座の境界線付近にラグナがある場合は、蠍座ラグナであっても射手座の特徴を示す場合があるので要注意である。
また子供の誕生データは年単位ではなく、月日までの情報を使わなければならない。
実際、1年の間にも木星や土星は隣の星座に移動したり、逆行したり、様々に配置が変化する。
年単位のデータでは大雑把過ぎて、正確に把握することは困難である。不正確な情報を用いたというのも間違えた原因の一つである。
然し、私は射手座ラグナに設定しながらも、どこか腑に落ちない感じがしていた。
それは上述したようにチャラダシャーが機能していなかったことと、射手座ラグナのヴィムショッタリダシャーでさえ、腑に落ちない点があったからである。
然し、正しくないラグナを設定した場合、このようにどこかに腑に落ちない点が出てきて、それで論理が破綻して、最初からやり直し、正しいラグナを見つけ出すという場合もある。
沖縄の友人のおかげでチャラダシャーが精密に機能することを再確認した。
昨年、来日したK.N.ラオ先生が言うようにチャラダシャーを用いると、日単位の出来事でさえも検証できるのである。
そこまで精密なものであるならば、チャラダシャーがメジャーダシャーレベル、サブダシャーレベルで全く機能していないということには、おかしいと気づかなければならない。
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