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多神教と一神教について

古代ギリシアで、プラトンがイデア論を唱えたことで、それまでは目の前にある自然を畏敬し、その存在をそのまま受け入れていたのが、プラトンがイデア論を唱えてからは、目の前にある自然をそのまま受け入れるのではなく、それらは仮象であって、それらを生み出したイデアたる本体があるという考えとなり、存在が、ただの存在として受け入れられるのではなくて、存在は、仮象としての存在であり、その本質が存在するのだと考えられるようになったのだという。

つまり、もし自然をそのままに受け入れるだけであれば、真、善、美や正義を追求して、理想を実現しようという考えも生じないし、現実をただ受け入れるだけの姿勢となる。

然し、今の目の前の現実が仮象ということになれば、本体である真実在を求めることになる。

このプラトンの「イデア」は、哲学史の中で、アリストテレスの「純粋形相」、デカルトの「理性」、キリスト教の「神」、カントの「物自体」、ヘーゲル哲学の「精神」など、様々に名前を変えながらも、西洋社会の思考様式として存在し続けたという。

この思考様式が、西洋社会を推進し、近代科学、近代法思想などを生み出した原動力である。

古代ギリシアで、初めてイデアという何か全ての存在の源となる絶対的な超越的な原理が考案されたのである。

キリスト教の信者が、非常に強固な信念を持つのは、唯一神としてのこの絶対的な尺度を自らのうちに得たからである。

絶対的な尺度を得た人間は強いのである。

だから西洋人は、自分たちの考えを普遍とみなして、社会全体に行き渡らせることに絶対の正義を確信してきたようである。

それに比べると、無宗教で、一神教ではない、日本人は、部族社会の中で、その場その場で、一番、力の強い者に従い、その者が言ったことが従うべきことになる。これが絶対的尺度を持たない人間の弱さである。

日本人の恥の文化というものはそういうものだと思われる。一神教がなく、イデアというような超越論的な価値もないために、その場、その場で、場当たり的に過ごしていくしかないのである。

何か不正が行われた時に、普遍的な価値判断に照らして、それは正しくないことだから、いけないと言うことが出来ない。

普遍的な権利や正義を法制度化したものによって、自分の正義を誰に対しても主張できるというのは、西洋近代社会からプレゼントされたに過ぎない。それまではお殿様の言うことに従って、お殿様が法律だったのである。お殿様の気に入らなければ有罪で、気に入れば無罪である。常にその部族社会の一番、権力を持つ人に振り回されるしかない。

絶対的な原理を持たずに全てが相対的な力関係の中で決まるのである。真理も正義も何もかも全てがである。

従って、西洋近代社会の出発点となったプラトンのイデア論というものは非常に重要だと思われるし、近代社会が、ユダヤ・キリスト教的な一神教の世界で生まれたというのも納得できることである。

一神教というのは、絶対的な尺度ということである。

そして、このプラトンの『イデア』やアリストテレスの『純粋形相』に神学者が『神』を代入して作ったのが、キリスト教の教義体系だという。

この思考様式に共通するのは、仮象よりも、本質の方が、価値が高いという価値観である。

だから、進歩とか、道徳とか、発展とか、そうしたものは、西洋社会の産物である。

仮象から本質への運動というものが、西洋社会がもたらしたものである。

だから、現実を理想(本質)に近づける運動が、進歩であり、歴史というものは、
その時間軸の中で、進歩という価値観によって考えられるようになる。

そして、道徳的葛藤は、動物から神へというこの運動の中で、低次の欲求は、より価値の高い高次の欲求のために押さえ込まれ、抑圧されなければならないということから生じてくる。

西洋近代が入ってくる前の日本にはこうした進歩とか、道徳とか、発展といった概念がないのである。

日本の村落で行われていた性風俗とイギリスのビクトリア朝時代の性風俗を比べてみると、それがよく分かる。ビクトリア時代に流行ったヒステリー症状というのは、性を連想した時に女性が激しく痙攣するという症状だが、前近代社会での日本のおおらかな動物に近い性風俗を比較してみると、その違いがよく分かる。

つまり、理想と現実の間で分裂しているのが、西洋近代社会である。

それに対して、現実とその現実の受け入れのみが存在しており、理想と現実の葛藤がないのが、前近代の日本である。

(だから、プラトンが古代ギリシアで生み出した思考は、低次のものと高次のものの二重性を生み出したと思われる)

この一神教や、イデア論に見られる超越論的な原理に対して、多神教というものはどのような位置づけになるのか。

多神教というのは、例えば、ギリシア神話に出てくる神々がそうである。

そして、ギリシア神話には惑星に対応する神々が登場する。

マーキュリーとか、ヴィーナスとか、それぞれ人格神であり、人間の延長上にある、分かりやすい神である。

実は、多神教というのは、この太陽系内の惑星のロゴスに対する信奉である。

限りなく人間に近い神々である。時には人間が神になってしまう場合もある。

例えば、中国で言えば、三国志の時代の英雄・関羽を祭った関帝廟というのがある。

あるいは、西洋と東洋を融合させ、オリエント文明を築いたアレキサンダーなども、もはや神話となりそうな人物である。

多神教の場合、人間と神の間に連続性があり、神というのは、超人であり、人間が持つ、潜在的な美徳を最高度に輝かせた存在である。

実際、神智学などによれば、太陽系の惑星群は、惑星ロゴスであり、かつての人間が進化した結果としての超人である。

惑星を象徴する神々というのは、人間との間に連続性があるのである。

それに比べて、一神教というのは、唯一神がこの世界の全てを創造したという考えであり、ほとんど思弁的に求められたものである。

抽象化されたそのような神は本来、全く何の意味も持たない。

数学でいう「無限」(∞)という概念と同じように意味がない。

それを表す言葉は存在するが、その内容については全く人間は想像することも出来ない。
全く思弁によって演繹的に求められた概念である。

だから仏教では、神とか創造主といった形而上の事柄についての議論を避けたそうである。

多神教の方が、人間に優しい神々であり、人間に理解することの可能な具体的な存在である。

然し、多神教の神々だと、それらはあまりにも人間くさく、絶対的な原理ではない為、人間の一切の価値を図る尺度、絶対的な超越的原理にはならない。相対主義であり、部族社会と同じようにその都度、様々な神々のご機嫌を伺うことになってしまう。

プラトンが登場する前のギリシアは、自然を崇拝し、神々を畏敬する多神教の世界であったそうだ。

「反哲学入門」の木田元氏によれば、プラトンは各地を遍歴する中で、ユダヤ人の一神教に触れた可能性も考えられると述べていた。

それがイデアという世界の全ての存在の背後にある超越的な原理を考案したきっかけではないかというのである。

ギリシアでも、古代インドのヒンドゥー教でも、惑星を象徴する神々が存在するのであり、それらは人間の延長上にあり、人間に近い神々である。

超越的で絶対的な全てを創造したとする唯一神を考案して、それを万物の尺度とした所が、西洋世界の力である。

一神教だと真理が一つに定まるので、それを基準にして、全ての正当性が確かめられるのである。

科学的知識とか、法律とか憲法とか、西洋社会が生み出した様々なものは、神⇒理性という流れでの、そういう絶対的な基準から導き出されている。

●つまり、多神教というのは前近代的な封建社会、部族社会での人間ライクな神であり、人間の延長上に存在し、多くの神々の力関係で価値判断が相対的に決まる。

●それに対して、一神教というのは、世界の全ての存在を基礎付ける超越的な原理であり、それを基準として、全ての判断が可能となる存在である。然し、そのような神は人間には想像することが出来ない。

従って、キリスト教は、唯一神を信奉しているに関わらず、神の子としての人間的な”イエス”を用いなければ、神の存在を伝えることは出来ない。

然し、イエスは唯一神などではない。ただの進化した人間である。

インドの聖者とかヨギと同じである。

またユダヤ教の旧約聖書にしても、神がアダムやイサクに話しかけたとか色々物語が出てくるが、話しかけたという表現を用いる時点で、やはり人間の形式を取るしかない。

つまり、一神教でも、神を表現するのに人間を用いざるを得ないのである。

純粋に抽象的な概念としての神は、誰も見たことがないし、誰もそれがどんな存在なのか分からない。数学の無限(∞)という概念と同じようにマインドが生み出した抽象的な概念である。

プラトンのイデアという考え方も、何か物がある場合、その物をそのように存在させたアイデアがあったはずだという推論から、導き出した概念であって、マインドが考案したものである。

このように哲学とか一神教の出現は、人間のマインドの能力を基礎にしている。

人間の理性というのは神から分かち与えられた自然を超越した原理であるため、西洋において人間は神になったと言える。

ギリシア時代に何か人間において、プラトンの登場という、人間の知性の飛躍的な増大を示す事件が起こり、ただ自然を受け入れるのではなく、自然を生み出した背後のイデアという超越的な原理を考案したり、神という概念を発明したりすることが出来るようになって初めて、絶対的な価値基準を人間は持つことが可能になった。

マインドによってそうした抽象的な超越的な原理を考案することで、人間は個別具体的な事物、現前する事実や物、そして、場当たり的な状況や相対的な状況から開放された。

そしてそうした原理を生み出すことによって普遍が可能になり、いつ、どこで、誰でも、そこから判断できるような基準が生まれたのである。

それを西洋人は真、善、美、正義、神などと呼ぶ。

それまでは全ては相対的であり、場当たり的で、普遍性や確実性がなかった。

その後、19世紀にニーチェとかハイデッカーとか、ニーチェ以降の知識人が理性とか神とかそうした形而上の価値に疑問を投げかけたようだが、それでも、それはあくまでも、プラトンから始まる西洋哲学の王道があって初めて成立する否定であって、プラトンから始まる西洋の哲学がなければ、ニーチェやハイデッカーの思想も生じ得なかった。

だからそれらはプラトン主義を覆すものではなく、修正するものに過ぎない。

また神智学という運動は、プラトン主義である。

そして、いつ、どこで、誰にでも通用する普遍が可能になることによって、世界は一つになることが出来る。

そういう意味で、プラトンのイデアから始まる西洋社会の思考様式は、歴史を推進させる力である。

私はまだ読んでないが、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』にはこのようなことが書いてあるのではないかと思うのである。

西洋近代というものが、このような強力な力を持っているため、TPPへの参加の議論などを見ても、日本人には何か西洋人にはかなわないという何か一つの白けムードが漂っているのではないかと思うのである。

どうせ西洋人にはかなわない。結局、彼らの価値を受け入れざるを得ないという、無意識的な無力感が支配しているのかもしれない。

然し、彼らが推進する普遍が本当に普遍なのか、真理が本当に真理なのか、それを慎重に識別することが私たちに出来ることである。

・西洋人のマインドは普遍を生み出した⇒その為、西洋人は強い⇒だから西洋人はアフリカやアジアを植民地にした⇒これは歴史の必然である

表面上、西洋近代を批判しながらも、無意識の中で、このような思考過程を受け入れている人が多いのではないかと思われる。

だから西洋人のマインドが生み出したこの文化や思考様式を乗り越えて、凌駕するには、マインドを訓練した上で、更にマインドを超越した直観を身につけるしかないようである。

一神教と多神教というテーマからかなり逸脱してしまったが、

これらは以下のように対比できる。

・個別的-具体的-人間的-多神教

・普遍的-抽象的-非人間的-一神教

上記で分かるように多神教というのは、具体的で、人間のような神である。

一神教の万物の創造主たる神というものは、抽象的で、人間の頭では想像することが出来ない。その存在が理論的には推測できるが、無限という概念を想像する時と同じように漠然としてあいまいにしか想像できない。また実際に体験することが出来ない。
但し、マインドがそのようなものを想定したのはすごい事である。

上記は、木田元氏の『反哲学入門』、『反哲学史』などを読んで思いついたことである。
また以前、『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人著 PHP文庫 という書籍を読んだが、そこで、苫米地氏は、具体的な考えよりも、抽象度の高い考えの方がより優れていると述べている。

抽象度の高い方が、より普遍性があり、適用範囲が広いのである。

そう考えると、多神教よりも、一神教の方が、神の概念としてはより抽象度が高いのである。というよりも、最も抽象度が高いのが一神教である。

知性の高いユダヤ人が一神教を信奉しているというのもこの抽象度の議論からすると非常に納得がいく。

結局の所、一神教の神とは、一つしかないのであるから、イスラム教の神でもあり、キリスト教の神でもあり、ユダヤ教の神でもある。

然し、多神教の方は、太陽系の惑星ロゴスをなぞらえた神々であり、人間により近い相対的な神々である。

この神々は唯一神によって造られた存在であり、人間とほとんど同じ立場である。

例えば、日本も多神教の国であるが、狐まで神にしてしまう所はほとんど、見たものをそのまま神にして祭ったということではないかと思うのである。ここには抽象度がほとんど見られない。

日本人は伝統的にマインドを使っていないのであり、考えるのではなく感じる民族なのであり、だからこそ、TPPの議論などは苦手である。雰囲気とかフィーリングで決めてしまう。

 















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人生時間について

2012年になった。
以前から言われてきた特別な年である。

私は元旦を特別な日にしたいという思いから2012年1月1日の早朝から、近所の裏山から出発して、4時間かけて山道のハイキングコースを歩き、鎌倉に辿り着き、それから鎌倉宮や鶴岡八幡宮などを参拝などして半日を費やした。

途中、山林の中で野生のりすに遭遇するなど貴重な体験をした。やはり家でだらだらと過ごさずに外に出て活動すると様々な収穫がある。

山道では元旦から多くの人がジョギングをしたり、散策しており、途中で何度もすれ違った。

こんな元旦から山道を歩いているのは自分だけだと思ったら、同じようなことを考える人が何人もいたようである。

ここ最近、トランジットの水星が私の出生図の8室を通過していた。11月半ばから12月半ばまでは太陽も8室をトランジットしており、この時期、コラムを何度も書こうとしたものの、全く何も書けなくなってしまった。

実際、何度もいろいろトライして書いてみたが、書いた内容が気に入らずに没にしたり、あるいは検証をすすめた有名人のチャートが途中でラグナが間違っている可能性に気づき、その後、正しいラグナを検討しても、いくら考えても結論を出すことが出来ない。

従って、途中まで長い時間を費やして書いてほとんどアップしかけた記事が没になり、いろいろ文筆が中断に追い込まれた。

途中で気づいたのは文筆の表示体である水星が8室をトランジットしている間は、記事を書こうとしても書けないのではないかということである。

それでようやく2012年1月3日、水星が射手座に入室した為、それで思いつくことを書いてみた所、割と苦労しないで、アイデアが沸いて来て書けることが分かった。

やはりトランジットの影響が大きく働いていたのではないかと思われる。

水星が8室をトランジットしている間は、文章を書いては消し、書いては消し、アイデアが浮かんでも途中であまりよくないアイデアだと自分で判断して、書き直したりを繰り返し、結局は最後まで書けない。そんな状態が続いた。

2011年12月31日から金星/月/土星/水星期に移行して、スークシュマダシャーの水星期がやって来た。

そして、元旦は金星/月/土星/水星/水星期だった。

土星から見ると水星は、1、4室支配で、1室に在住し、9室支配の土星、そしてケートゥと絡んでいる。

また水星は月、太陽からみて12室支配で、12室に在住し、土星、ケートゥと絡んでいる。

元旦のひと気の少ない山道を歩いて神社に参拝する体験は、言わば、小さな巡礼の旅であり、また山道は秘境の雰囲気を味わえる空間だった。これらはケートゥの象意であると理解できた。

この日、月は12室をトランジットしていた。

12室+ケートゥ、あるいは、4室+9室+ケートゥで表されるような体験であった。

 

最近、感じることは1日の時間が経つのがあっという間で短いという体感である。

幼年期や少年期よりも明らかに1日の体感時間が短いのである。

大人になると、日々の時間や1年もあっという間に過ぎるとよく言われるが、その話は最近、非常に納得できる。

1日はあっという間に過ぎてしまう。

おそらくそれは私たちは成人する頃までには世の中の全体像がある程度、分かるようになり、自分の計画や目標に今後、どのくらいの時間がかかるのかも分かってくる。私たちの世界は時間的、空間的に広がりを持ち、拡大するのである。活動範囲も、将来の可能性も全てが拡大する。

私たちは幼年期や青年期に比べると、かなり巨大になっているのである。その巨大になった自分に対する1日の時間というものは、相対的にどんどん短くなっているのである。

大人になると結果的に1日が以前よりも、ものすごく短く感じるというのはそういうことである。

然し、これには個人差があり、平均的な人と、世界を股にかけて飛び回るような活動範囲が広く、巨大な目標を持っているような非凡な人とでは、体験世界の範囲や広がりに大きな違いがあるため、更にまた体感時間に大きな違いが出てくると思われる。

一国の大統領とか、活動範囲が地球規模にまで拡大している人にとっては1日の時間は非常に短くなるかもしれない。

例えば、苫米地英斗氏が著作の中で言っていたが、デヴィッド・ロックフェラーのような人物は、自分の一族の200年とか300年先の将来の繁栄を心配するようなそういったスケールで物を見ているのだそうだ。

おそらく200年とか300年とかそうしたスケールで物事を見ている人物にとって見れば、1日というのは非常に短くあっという間に過ぎるのではないかと思うのだ。

そうした時間の相対性というのは、今述べてきたことと全く同じことである。

時間が短くなったのではなく、私たちが昔に比べて、巨大化したために相対的にかつてと同じ時間の長さが短く感じているのである。

その人自身が持つ世界の広がりが大きければ大きいほど、一日の体感時間は相対的に短くなる。

これは何も物質的な広がりばかりではなく、思考的な広がりであってもよいのである。

例えば、1850万年前からの人類の歴史的な歩みというような歴史観を持っている人にとっては、その尺度に現在の生活時間が相対するため、1日は非常に短い取るに足りないくらい短い時間になってしまう。

私たちは成人となって活動範囲が広がり、更にマインドは知識によって無限に広がりを持ったために幼少時にただ自分が触れたり、見えたりする周囲の体験できる範囲の世界に限定されていた子供の頃とは時間の体感速度が違うのである。

大人になると1日が経つのが早いというのはそういうメカニズムである。

私たちの想像も及ばない程の大きなスケールの存在者にとっては、私たちの1日の時間はほんの一瞬で過ぎ去る時間として体験されるかもしれない。

例えば、銀河系を周期的に運行させている存在者があったとしたら、私たちの地球の一回の自転である1日は、ほとんど見逃してしまうような一瞬の時間である。

逆に1日が長く感じ、毎日、暇を持て余して困っているような人は、とても小さな世界の中で生きているということを表している。

時間の体験の仕方や、時間についての考え方で、その人の存在のスケールが計られてしまうのである。

自己啓発書などで、時間の管理法やスケジュールの管理ついてのノウハウが教えられているが、自己啓発書を書くような人は、かなり大きな目標を持ち、世界観は巨大で広がりがある。そのような人は、日々の生活の中で常に時間が短く感じ、自分が物事を達成する為の時間が足りないと体感している人々である。

そのような人々にとっては、時間は一秒たりとも無駄には出来ない貴重なものである。

これらは当たり前のことかもしれないが、何が言いたいかと言うと、最近、時間を意識するようになったのである。

トランジットの木星が一昨年に12室を通過して、昨年の5月に1室に入室した途端、一つの周期が終わったかのような一区切りの心境になった。一区切りついたと同時に新たに船出をする心境になっている。

ちょうど木星が牡羊座にあった12年前は、占星術の学習をスタートした頃ではなかったかと思われる。

そして12年経って、全てのハウスを運行し終えて再び1室に戻ってきたのである。1室とは物事の始まりのハウスである。

従って、占星術をこれから学習していくにしても、単なる繰り返しではなく、更に一段階、上昇の弧で、行う必要が出てくる。

自分のダシャーを分析してみて、最もパフォーマンスを発揮できるのがあと20年しか残っていないということが最近、意識に浮上してきた。

ポジティブ思考ならあと20年も残っていると考えるのかもしれないが、あと20年でやりたい事、あるいは可能性のあることを成し遂げなければならないのである。

一日、一日、そして、一日、一日で出会う機会は、二度と繰り返すことのない一期一会の機会である。

今度、もう一度、同じような状況になった時にやってみようというのはあり得ないのであり、同じような状況がやってくることは二度とない。だから、目の前に現れた機会をもうそれを逃したら二度と体験することが出来ないと考えて掴み取らなければ、それはやはり永久に失われる。その日のその状況、その機会と二度と出会うことは出来ないのだ。

 















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2012年~2014年ヒンドゥーニューイヤーチャートについて

2012年の日本のヒンドゥーニューイヤーチャート(Chaitra Shukla Pratipada)を作成したが、ラグナで、ラーフが減衰し、逆行の土星と火星がアスペクトしている。

1室は一般的な国家の幸福や全体としての国家の状態を示すハウスで、ラグナの状況を見れば、その1年の国家の状況が分かるそうだ。

2012年のチャートからは日本のよい状況は予測できない。

1-7室の軸にラーフ/ケートゥ軸が重なって、7室でケートゥが減衰しており、7室の支配星は6室に在住して、土星からアスペクトされている。

諸外国との外交関係も良くなさそうである。

竹島問題、尖閣諸島への中国船の無許可渡航、北方領土へのロシアのインフラ整備や視察など、米国がアジアから撤退する力の間隙を突いて、外交上の駆け引きが続いている。

日本と米国がどのように反応するか実験されている。

こうした問題やまたTPPへの参加なども外国上の重要課題であるが、参加するかどうかで国内世論が真っ二つに割れて、昨年は議論が重ねられた。然し、最終的に野田総理は参加を表明した。

また沖縄の在日米軍の普天間基地移転問題などもある。

こうした外交上の頭の痛い問題を沢山抱えていることがこの7室の傷つきが物語っていると言えるかもしれない。

2013年のヒンドゥーニューイヤーチャートを作成しても、やはり、ラグナと7室が傷ついている。

ラグナにはやはりラーフと土星が在住し、火星がアスペクトしており、7室にはケートゥが在住して、土星がアスペクトし、7室支配の火星は6室に在住している。

また6室と8室で星座交換している。

2012年のチャートでは木星と金星が6室に在住して土星からアスペクトされているが、6室は領土的な攻撃や公衆的健康、労働者階級などを表しており、この6室への木星の在住は、日本の国民の健康管理とか福祉、労働環境などの改善努力が続けられるということかもしれない。

然し、6室の吉星は敵を粉砕するのではなく、争いを避けるような弱腰外交となる可能性を示唆しており、二つの吉星が6室に在住することはダメージが大きい。

また2013年のチャートも6室に惑星集中している。

このようなことから2012年、2013年のヒンドゥーニューイヤーチャートからは、東北大地震の被害などを引きずって、苦しむ日本の姿がイメージできるが、2014年のヒンドゥーニューイヤーチャートは印象をがらりと変えるのである。

2014年のチャートはラグナに5室支配の水星が在住し、ラグナロードの土星は9室に在住し、5室に在住する木星はラグナとラグナロードにアスペクトしている。

1室が国民の一般的幸福や国家の状態を表しているとすれば、この頃から状況ががらりと改善され、良くなることが予想される。

そして、1室と絡むのは教育や娯楽や子供を表す5室や法律、宗教、貿易、科学、発明などを表す9室である。

文化的な発展が期待できる。

 

土星は今年の8月頃に一度、乙女座に逆行して、再び順行に転じて、天秤座に再入室する。

このタイミングがおそらく天秤座の土星のもっとも強い影響を発揮し始めるタイミングではないかと思われる。

マンデン占星術において、惑星が順行から逆行に転じるタイミングや逆行から順行に転じるタイミングは、何かが起こる重要なタイミングだという。

2010年の終わりに木星が水瓶座から一度、魚座に移動して、再度、11月頃に水瓶座に逆行して、順行に転じた時もそうしたタイミングであったと考えている。

木星を擬人化すれば、一度、乙女座に逆行して、再び、順行に転じて、天秤座に再突入することは、あたかもやり残した仕事をするために乙女座に戻って、仕事をやり終えて、天秤座に順行した後は、乙女座で仕事を完了しているだけにより天秤座の課題に100%取り組めるという、そんなイメージがある。

おそらく惑星は一度、逆行した後の順行の方がより力を発揮するのである。

私は以前からいろいろな人の個人鑑定を行って、そうした人たちの多くが2012年~2014年にかけて大きなマハダシャーの転機が訪れて、それ以降、ダシャーの惑星がダルマハウスの影響下に入ったり、ラージャヨーガが発動したりして、人生が上昇していくケースを多く見ている。

このことと、ヒンドゥーニューイヤーチャートの2012年、2013年、2014年の比較検討によって考えられることは、2014年以降の変容した世界の前に生みの苦しみとして、2年程度の年月を費やすということである。

それはちょうど土星が天秤座を通過していく時期と一致するのであるが、その土星の天秤座の滞在中に世界の変容が起こると思われる。

その間におそらくジョージ・ソロスがリーマンショック以上の危機と述べている欧州債務危機によって、大きな経済的な崩壊がやってきて、アメリカの米ドルも暴落し、今の資本主義体制が終わるのである。

現行の資本主義の欠陥、全ての人が生活していくことが出来ない欠陥が、各国一般大衆の大規模なデモ活動に結びついており、それが次の経済崩壊を引き金に現行のシステムを改革する動きに繋がっていく。

その時にやってくるのが、新世界秩序であって、経済システムを変えるということは一国に出来ることではなく、世界的な協力によって成し遂げられるレボリューション(革命)でなければ不可能である。

この2年の混乱の中で、日本の周辺各国の国家主義、民族主義的な動きが、領土問題などを生み出すかもしれないが、最終的に2014年以降になると、そうした動きが落ちついてくるのではないかと想像できるのだ。

 















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