古代ギリシアで、プラトンがイデア論を唱えたことで、それまでは目の前にある自然を畏敬し、その存在をそのまま受け入れていたのが、プラトンがイデア論を唱えてからは、目の前にある自然をそのまま受け入れるのではなく、それらは仮象であって、それらを生み出したイデアたる本体があるという考えとなり、存在が、ただの存在として受け入れられるのではなくて、存在は、仮象としての存在であり、その本質が存在するのだと考えられるようになったのだという。
つまり、もし自然をそのままに受け入れるだけであれば、真、善、美や正義を追求して、理想を実現しようという考えも生じないし、現実をただ受け入れるだけの姿勢となる。
然し、今の目の前の現実が仮象ということになれば、本体である真実在を求めることになる。
このプラトンの「イデア」は、哲学史の中で、アリストテレスの「純粋形相」、デカルトの「理性」、キリスト教の「神」、カントの「物自体」、ヘーゲル哲学の「精神」など、様々に名前を変えながらも、西洋社会の思考様式として存在し続けたという。
この思考様式が、西洋社会を推進し、近代科学、近代法思想などを生み出した原動力である。
古代ギリシアで、初めてイデアという何か全ての存在の源となる絶対的な超越的な原理が考案されたのである。
キリスト教の信者が、非常に強固な信念を持つのは、唯一神としてのこの絶対的な尺度を自らのうちに得たからである。
絶対的な尺度を得た人間は強いのである。
だから西洋人は、自分たちの考えを普遍とみなして、社会全体に行き渡らせることに絶対の正義を確信してきたようである。
それに比べると、無宗教で、一神教ではない、日本人は、部族社会の中で、その場その場で、一番、力の強い者に従い、その者が言ったことが従うべきことになる。これが絶対的尺度を持たない人間の弱さである。
日本人の恥の文化というものはそういうものだと思われる。一神教がなく、イデアというような超越論的な価値もないために、その場、その場で、場当たり的に過ごしていくしかないのである。
何か不正が行われた時に、普遍的な価値判断に照らして、それは正しくないことだから、いけないと言うことが出来ない。
普遍的な権利や正義を法制度化したものによって、自分の正義を誰に対しても主張できるというのは、西洋近代社会からプレゼントされたに過ぎない。それまではお殿様の言うことに従って、お殿様が法律だったのである。お殿様の気に入らなければ有罪で、気に入れば無罪である。常にその部族社会の一番、権力を持つ人に振り回されるしかない。
絶対的な原理を持たずに全てが相対的な力関係の中で決まるのである。真理も正義も何もかも全てがである。
従って、西洋近代社会の出発点となったプラトンのイデア論というものは非常に重要だと思われるし、近代社会が、ユダヤ・キリスト教的な一神教の世界で生まれたというのも納得できることである。
一神教というのは、絶対的な尺度ということである。
そして、このプラトンの『イデア』やアリストテレスの『純粋形相』に神学者が『神』を代入して作ったのが、キリスト教の教義体系だという。
この思考様式に共通するのは、仮象よりも、本質の方が、価値が高いという価値観である。
だから、進歩とか、道徳とか、発展とか、そうしたものは、西洋社会の産物である。
仮象から本質への運動というものが、西洋社会がもたらしたものである。
だから、現実を理想(本質)に近づける運動が、進歩であり、歴史というものは、
その時間軸の中で、進歩という価値観によって考えられるようになる。
そして、道徳的葛藤は、動物から神へというこの運動の中で、低次の欲求は、より価値の高い高次の欲求のために押さえ込まれ、抑圧されなければならないということから生じてくる。
西洋近代が入ってくる前の日本にはこうした進歩とか、道徳とか、発展といった概念がないのである。
日本の村落で行われていた性風俗とイギリスのビクトリア朝時代の性風俗を比べてみると、それがよく分かる。ビクトリア時代に流行ったヒステリー症状というのは、性を連想した時に女性が激しく痙攣するという症状だが、前近代社会での日本のおおらかな動物に近い性風俗を比較してみると、その違いがよく分かる。
つまり、理想と現実の間で分裂しているのが、西洋近代社会である。
それに対して、現実とその現実の受け入れのみが存在しており、理想と現実の葛藤がないのが、前近代の日本である。
(だから、プラトンが古代ギリシアで生み出した思考は、低次のものと高次のものの二重性を生み出したと思われる)
この一神教や、イデア論に見られる超越論的な原理に対して、多神教というものはどのような位置づけになるのか。
多神教というのは、例えば、ギリシア神話に出てくる神々がそうである。
そして、ギリシア神話には惑星に対応する神々が登場する。
マーキュリーとか、ヴィーナスとか、それぞれ人格神であり、人間の延長上にある、分かりやすい神である。
実は、多神教というのは、この太陽系内の惑星のロゴスに対する信奉である。
限りなく人間に近い神々である。時には人間が神になってしまう場合もある。
例えば、中国で言えば、三国志の時代の英雄・関羽を祭った関帝廟というのがある。
あるいは、西洋と東洋を融合させ、オリエント文明を築いたアレキサンダーなども、もはや神話となりそうな人物である。
多神教の場合、人間と神の間に連続性があり、神というのは、超人であり、人間が持つ、潜在的な美徳を最高度に輝かせた存在である。
実際、神智学などによれば、太陽系の惑星群は、惑星ロゴスであり、かつての人間が進化した結果としての超人である。
惑星を象徴する神々というのは、人間との間に連続性があるのである。
それに比べて、一神教というのは、唯一神がこの世界の全てを創造したという考えであり、ほとんど思弁的に求められたものである。
抽象化されたそのような神は本来、全く何の意味も持たない。
数学でいう「無限」(∞)という概念と同じように意味がない。
それを表す言葉は存在するが、その内容については全く人間は想像することも出来ない。
全く思弁によって演繹的に求められた概念である。
だから仏教では、神とか創造主といった形而上の事柄についての議論を避けたそうである。
多神教の方が、人間に優しい神々であり、人間に理解することの可能な具体的な存在である。
然し、多神教の神々だと、それらはあまりにも人間くさく、絶対的な原理ではない為、人間の一切の価値を図る尺度、絶対的な超越的原理にはならない。相対主義であり、部族社会と同じようにその都度、様々な神々のご機嫌を伺うことになってしまう。
プラトンが登場する前のギリシアは、自然を崇拝し、神々を畏敬する多神教の世界であったそうだ。
「反哲学入門」の木田元氏によれば、プラトンは各地を遍歴する中で、ユダヤ人の一神教に触れた可能性も考えられると述べていた。
それがイデアという世界の全ての存在の背後にある超越的な原理を考案したきっかけではないかというのである。
ギリシアでも、古代インドのヒンドゥー教でも、惑星を象徴する神々が存在するのであり、それらは人間の延長上にあり、人間に近い神々である。
超越的で絶対的な全てを創造したとする唯一神を考案して、それを万物の尺度とした所が、西洋世界の力である。
一神教だと真理が一つに定まるので、それを基準にして、全ての正当性が確かめられるのである。
科学的知識とか、法律とか憲法とか、西洋社会が生み出した様々なものは、神⇒理性という流れでの、そういう絶対的な基準から導き出されている。
●つまり、多神教というのは前近代的な封建社会、部族社会での人間ライクな神であり、人間の延長上に存在し、多くの神々の力関係で価値判断が相対的に決まる。
●それに対して、一神教というのは、世界の全ての存在を基礎付ける超越的な原理であり、それを基準として、全ての判断が可能となる存在である。然し、そのような神は人間には想像することが出来ない。
従って、キリスト教は、唯一神を信奉しているに関わらず、神の子としての人間的な”イエス”を用いなければ、神の存在を伝えることは出来ない。
然し、イエスは唯一神などではない。ただの進化した人間である。
インドの聖者とかヨギと同じである。
またユダヤ教の旧約聖書にしても、神がアダムやイサクに話しかけたとか色々物語が出てくるが、話しかけたという表現を用いる時点で、やはり人間の形式を取るしかない。
つまり、一神教でも、神を表現するのに人間を用いざるを得ないのである。
純粋に抽象的な概念としての神は、誰も見たことがないし、誰もそれがどんな存在なのか分からない。数学の無限(∞)という概念と同じようにマインドが生み出した抽象的な概念である。
プラトンのイデアという考え方も、何か物がある場合、その物をそのように存在させたアイデアがあったはずだという推論から、導き出した概念であって、マインドが考案したものである。
このように哲学とか一神教の出現は、人間のマインドの能力を基礎にしている。
人間の理性というのは神から分かち与えられた自然を超越した原理であるため、西洋において人間は神になったと言える。
ギリシア時代に何か人間において、プラトンの登場という、人間の知性の飛躍的な増大を示す事件が起こり、ただ自然を受け入れるのではなく、自然を生み出した背後のイデアという超越的な原理を考案したり、神という概念を発明したりすることが出来るようになって初めて、絶対的な価値基準を人間は持つことが可能になった。
マインドによってそうした抽象的な超越的な原理を考案することで、人間は個別具体的な事物、現前する事実や物、そして、場当たり的な状況や相対的な状況から開放された。
そしてそうした原理を生み出すことによって普遍が可能になり、いつ、どこで、誰でも、そこから判断できるような基準が生まれたのである。
それを西洋人は真、善、美、正義、神などと呼ぶ。
それまでは全ては相対的であり、場当たり的で、普遍性や確実性がなかった。
その後、19世紀にニーチェとかハイデッカーとか、ニーチェ以降の知識人が理性とか神とかそうした形而上の価値に疑問を投げかけたようだが、それでも、それはあくまでも、プラトンから始まる西洋哲学の王道があって初めて成立する否定であって、プラトンから始まる西洋の哲学がなければ、ニーチェやハイデッカーの思想も生じ得なかった。
だからそれらはプラトン主義を覆すものではなく、修正するものに過ぎない。
また神智学という運動は、プラトン主義である。
そして、いつ、どこで、誰にでも通用する普遍が可能になることによって、世界は一つになることが出来る。
そういう意味で、プラトンのイデアから始まる西洋社会の思考様式は、歴史を推進させる力である。
私はまだ読んでないが、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』にはこのようなことが書いてあるのではないかと思うのである。
西洋近代というものが、このような強力な力を持っているため、TPPへの参加の議論などを見ても、日本人には何か西洋人にはかなわないという何か一つの白けムードが漂っているのではないかと思うのである。
どうせ西洋人にはかなわない。結局、彼らの価値を受け入れざるを得ないという、無意識的な無力感が支配しているのかもしれない。
然し、彼らが推進する普遍が本当に普遍なのか、真理が本当に真理なのか、それを慎重に識別することが私たちに出来ることである。
・西洋人のマインドは普遍を生み出した⇒その為、西洋人は強い⇒だから西洋人はアフリカやアジアを植民地にした⇒これは歴史の必然である
表面上、西洋近代を批判しながらも、無意識の中で、このような思考過程を受け入れている人が多いのではないかと思われる。
だから西洋人のマインドが生み出したこの文化や思考様式を乗り越えて、凌駕するには、マインドを訓練した上で、更にマインドを超越した直観を身につけるしかないようである。
一神教と多神教というテーマからかなり逸脱してしまったが、
これらは以下のように対比できる。
・個別的-具体的-人間的-多神教
・普遍的-抽象的-非人間的-一神教
上記で分かるように多神教というのは、具体的で、人間のような神である。
一神教の万物の創造主たる神というものは、抽象的で、人間の頭では想像することが出来ない。その存在が理論的には推測できるが、無限という概念を想像する時と同じように漠然としてあいまいにしか想像できない。また実際に体験することが出来ない。
但し、マインドがそのようなものを想定したのはすごい事である。
上記は、木田元氏の『反哲学入門』、『反哲学史』などを読んで思いついたことである。
また以前、『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人著 PHP文庫 という書籍を読んだが、そこで、苫米地氏は、具体的な考えよりも、抽象度の高い考えの方がより優れていると述べている。
抽象度の高い方が、より普遍性があり、適用範囲が広いのである。
そう考えると、多神教よりも、一神教の方が、神の概念としてはより抽象度が高いのである。というよりも、最も抽象度が高いのが一神教である。
知性の高いユダヤ人が一神教を信奉しているというのもこの抽象度の議論からすると非常に納得がいく。
結局の所、一神教の神とは、一つしかないのであるから、イスラム教の神でもあり、キリスト教の神でもあり、ユダヤ教の神でもある。
然し、多神教の方は、太陽系の惑星ロゴスをなぞらえた神々であり、人間により近い相対的な神々である。
この神々は唯一神によって造られた存在であり、人間とほとんど同じ立場である。
例えば、日本も多神教の国であるが、狐まで神にしてしまう所はほとんど、見たものをそのまま神にして祭ったということではないかと思うのである。ここには抽象度がほとんど見られない。
日本人は伝統的にマインドを使っていないのであり、考えるのではなく感じる民族なのであり、だからこそ、TPPの議論などは苦手である。雰囲気とかフィーリングで決めてしまう。
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