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ビートたけし離婚について -ナヴァムシャのラグナを特定-



ビートたけしが40年近く連れ添った幹子夫人と離婚したとニュースが報じている。


ビートたけし離婚 40年近く連れ添った幹子さんと
日刊スポーツ新聞社 2019/06/12 10:12

ビートたけし(72)が妻幹子さん(68)と協議離婚していたことが12日、分かった。以前から、話し合いが続けられており、このほど結論が出た。

幹子さんは元女性漫才「ミキ&ミチ」で活動し、たけしと80年に結婚(正式な婚姻届は83年)、1男1女がいる。

40年近い結婚生活だった。たけしに不倫や隠し子騒動が浮上したり、86年のフライデー襲撃事件など、夫婦の危機もあった。94年にたけしがバイク転倒事故で重傷を負った時には、幹子さんが集中治療室の隣の部屋に泊まり込んで看病を続けたこともあった。近年は別居生活で、定期的に食事をするなどしていたが、会う回数は減っていたとみられる。

たけしは昨年3月いっぱいで、オフィス北野を独立し、自分が代表を務める「T.Nゴン」に所属している。


以前から私はビートたけしのラグナを山羊座に修正していた。




山羊座ラグナに設定すると、11室に木星、月、金星、ケートゥが集中しているが、11室に惑星が集中する人物は、成功者である。

社会的有力者となり、知名度が高く、数多くの受賞をして称号を得る。


特に映画監督としての数多くの受賞歴にそれは現れており、カンヌ国際映画祭などで金獅子賞を受賞して、授賞式で、パフォーマンスをする姿は印象的である。


山羊座ラグナであれば、11室に5、10室支配のヨーガカラカの金星が在住し、5-11のダナヨーガを形成し、高揚するケートゥとコンジャンクトし、ケートゥもケンドラとトリコーナの支配星と絡むことでラージャヨーガを形成している。


更に5、10室支配のヨーガカラカの金星は、7室支配の月とコンジャンクトして、5-7のラージャヨーガを形成し、月は減衰しているが、高揚するケートゥとコンジャンクトすることで、ニーチャバンガラージャヨーガを形成し、更に月のディスポジターの火星がケンドラで高揚し、月が高揚する星座である牡牛座の支配星(金星)が月から見てケンドラに在住しているため、ニーチャバンガラージャヨーガの条件を3つ満たしている。


11室支配の火星は、ラグナで高揚して、ルチャカヨーガを形成し、9室支配の水星、8室支配の太陽とコンジャンクトし、ラグナロードの土星と相互アスペクトしている。



11室へのエネルギー集中


11室や11室の支配星に絡む惑星が非常に多く、ほぼ全ての惑星が11室に絡んでいるのである。


この11室に絡む惑星の数が多ければ多いほど、成功するポテンシャルが高いことを表わしている。


また11室に多くの惑星が絡んでいることは、兄や姉に恵まれていることを表わしている。



ビートたけしは、4人兄弟で、2人の兄と1人の姉がいるが、更に他にも兄がいて、たけしが幼い頃に亡くなったそうである。



因みに3室支配の木星が11室に在住する配置は、兄弟姉妹の中で最年長か最年少を表わすと言われる有名な配置であるが、たけしは末っ子であるため、この法則が機能している。


従って、これほど沢山の兄姉に恵まれて、末っ子として生まれたのは、この配置が正しいことを物語っている。



またビートたけしは、ラグナで火星が高揚して、7室にアスペクトしているが、この配置が、対人関係における凶暴さを表わしており、たけしの暴力映画や、弟子たちや番組ゲストへのサディスティックな扱いの芸風などに現れている。


5、10室支配の金星が11室に在住する配置は、まさに映画監督として作品(5室)を作り、それが高く評価(11室)され、多くの富をもたらす(5-11のダナヨーガ)ことを表わす配置である。



因みにこのビートたけしが40年近く連れ添った幹子夫人と別れたのは何故かと考える過程で、ナヴァムシャのラグナは獅子座ではないかと見当がついた。



過去の多くの出来事やタイミングなどもこの獅子座ラグナで上手く説明できそうである。




離婚 - ラーフ/木星期


まず、今回、何故、離婚したのかというと、現在、ヴィムショッタリダシャーは、ラーフ/木星期である。



アンタルダシャーの木星は12室の支配星だが、12室は7室から見た6室(離婚)であり、主に12室の支配星のダシャーの時期は、相手から退いていく時期である。



自分からパートナーとの関係からフェイドアウトしていくのである。



そして、パートナーにとっては相手からの離婚訴訟(6室)として経験されるのである。



実際には協議離婚であるが、たけしの方から離婚を希望した形である。



もし6室の支配星の時期であれば、相手が不満を抱いて去っていくのであるが、この場合は逆である。



幹子夫人は出来れば婚姻関係を継続したかったが、たけしの方が、離婚したかったということである。






ナヴァムシャを見ると、木星は12室に在住しており、やはり、パートナーとの関係からフェイドアウトする12室に在住している。



従って、以前からずっとたけしは幹子夫人と離婚したいと公けにも語っていた訳であるが、それが、このタイミングで実現したということである。






離婚が報じられた2019年6月12日のトランジットを見ると、土星は山羊座12室で逆行し、木星は蠍座11室で逆行して、6室(離婚)にダブルトランジットしている。


また12室支配の木星に土星が逆行して絡み、木星も12室の支配星にコンジャンクトすることで、12室(別離)にもダブルトランジットし、更に火星が6室をトランジットして、ラーフ/ケートゥ軸も6-12室の軸をトランジットしている。


6室にダブルトランジットして、6-12室の軸に土星、火星、ラーフ、ケートゥが集中している状況であり、従って、トランジットの観点からも今のタイミングで離婚なのである。




ナヴァムシャのラグナが獅子座となるロジック



ナヴァムシャのラグナを獅子座に設定すると、3、10室支配の金星が5室に在住しているが、この配置は、スーパースターを生み出す配置である。






インドのタミル映画のスーパースター・ラジニカーントも獅子座ラグナで、3、10室支配の金星が5室に在住している。



獅子座は典型的な主演俳優で、主役しか演じられない役者である。そして、しばしば大根役者である。



映画監督で主演俳優でもあるたけしは、明らかにこの獅子座の典型的なスターである。




wikipediaの情報を元に過去の出来事とダシャーの関連を検討してみると、



ビートたけしは、1965年に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学するが、この時のダシャーがケートゥ/金星期である。




マハダシャーケートゥ期



獅子座ラグナに設定すると、ケートゥと金星は5室(学習)に在住している。



また出生図ではケートゥは5室支配の金星とコンジャンクトし、金星は5室の支配星である。



この時期に大学に入学したことを説明することができる。



しかし、たけしは大学での生活に適応できず、大学2年の時に家出同然で、一人暮らしを初め、新宿界隈で当ての無い生活を送り、学生運動にも参加したが熱心ではなく、そのうちジャズに傾倒し、“LeftyCandy”や「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」といったジャズ喫茶に入り浸り、ジャズ喫茶のボーイもしている。ジャズの見識は一部で有名であったと記されている。


ナヴァムシャで、ケートゥは3、10室支配の金星と5室に在住しており、金星は音楽の表示体で、5室も音楽の表示体である。


(因みに5室の金星にケートゥが絡む配置は、侘び寂びの効いた異国風の音楽を表わすと思われ、ジャズに該当するのである)



この頃、たけしは、ジャズ喫茶のボーイ以外に、菓子の計り売り、実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイ、東京国際空港での荷卸し、タクシー運転手、ガソリンスタンド店員を転々としたというが、これは売れないミュージシャンや芸術家が、アルバイトを転々とするのと似ている。


5室は10室(仕事)から見た8室であるため、きちんとしたオフィスでの就職などが出来ないのである。


この時期、たけしは、通訳になろうと思い立ったらしいが、おそらくそれは5室にケートゥが在住しているからである。


そして、この時期にジャズ喫茶で、出会った若松孝二の紹介で、『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり、学生演劇に参加したようである。


つまり、この時期に3、10室支配で5室に在住する金星が象徴する俳優や演劇の構成などを経験しているようである。






これはケートゥが3、10室支配の金星と5室でコンジャンクトしている為であると考えられる。


つまり、このケートゥ期にジャズ喫茶を通じて、作家や演劇などの芸術家と出会い、芸人になることを志すのである。



金星期前半


そして、決定的なのが、1972年夏に浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始めた頃で、この頃が、金星/金星期で、マハダシャー金星期がスタートした頃である。



この頃、浅草フランス座の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学び、初舞台は、痴漢のコントで、幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励んだと記されている。


金星は、3室(ダンス、パフォーマンス)、10室(仕事)支配で5室(演劇)に在住しているため、それで、浅草フランス座で本格的に芸人見習いとしてタップダンスの修行をしながら働き始めたのである。


(因みにタップダンスというのもダンスの中の特殊な分野であると思われ、ケートゥの象意が感じられる)


その後、兼子二郎(ビートきよし)と出会い、コンビを結成して、掛けあい漫才で全く目が出ず、演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになったと記されている。


そして、紆余曲折の末、コンビ名を「ツービート」に変更し、「ビートたけし」を芸名としている。


つまり、このマハダシャー金星期の前半は、ビートたけしにとって、芸人としての完全な下積み時代である。


金星/金星 ⇒ 太陽 ⇒ 月 ⇒ 火星などの時期がその時代に該当する。



金星/ラーフ期


そして、1978年に金星/ラーフ期(1978/11~1981/11)が来ると、漫才ブームが来て、一躍、有名になるのである。


wikipediaには以下のように記されている。


漫才ブームまで

演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。
1976年、協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。

1978年、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎や赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。

1979年、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行、亀有のアパートで生活を始める。

9月12日、父菊次郎逝去。

11月、『花王名人劇場』(関西テレビ 企画:澤田隆治)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム

1980年、「マンザイブーム」(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのは、ジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、たけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば怖くない」「少年よ大志を抱け。老人よ墓石を抱け。」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。

レオタードのハイレグを擬した「コマネチ」

この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた。

1981年1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中「コマネチ!」で自己主張をはかり、監督以下の顰蹙を買った。なお後年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。

1980年10月、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。

1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。

1982年の夏にはブームは完全に終息し、たけしは“タレント・ビートたけし”として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。

(wikipedia ビートたけしより引用抜粋)


金星/ラーフ期は、その後の成功の最初のタイミングであり、社会デビューの時期である。


この時期に「コマネチ」のギャグも生み出しており、ビートたけしの芸人としての原点が築かれた時期であると言える。






この金星/ラーフ期にたけしは、幹子夫人と結婚しているが、ラーフ/金星期は、しばしば結婚をするタイミングであり、無条件に結婚をもたらすダシャーのコンビネーションである。


ナヴァムシャを見ると、金星は結婚の表示体であり、ラーフは11室に在住して、ディスポジターの水星は結婚生活を表わす2室の支配星である。






因みにこの金星/ラーフ期に父親(菊次郎)が亡くなっているが、ドヴァダシャムシャ(D12)にて、金星は8室に在住し、ラーフは3室に在住している。






そして、9室を父親のラグナとすると、金星はマラカの2室支配の月と共に12室に在住し、ラーフは8室支配の土星と共にマラカの7室に在住している。



1980年6月にネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったと記されているが、この時のダシャーは、金星/ラーフ/水星期である。


ナヴァムシャで、ラーフは11室に在住し、ディスポジターの水星は2、11室の支配星で、4、9室支配のヨーガカラカの火星と6室でコンジャンクトしている。


水星と火星は2-9、9-11のダナヨーガを形成しており、ヨーガカラカの火星は高揚して強力である。



火星が分割図で6室に在住する配置は、基本的に良い配置であり、戦いや競争に打ち勝つ配置である。


従って、この時期にビートたけしには、巨額の印税収入が転がり込んだのである。



そして、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなり、漫才師としての確固とした地位を築くのである。


そして、金星/木星期に移行すると、ビートたけしは、単独で司会をする番組を多く持つようになっていく。



つまり、このように見てくると、金星/ラーフ期は、現在の地位を築くにあたって、極めて重要な時期であったことが分かる。



金星/木星期


そして、1982年になると、金星/木星期に移行するが、金星/ラーフ期が終わった後、完全にビートたけしは黄金期に入っていくのが分かる。



1982年から1984年にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン!』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた

スーパージョッキー(日本テレビ)
天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日)
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 (TBS)
OH!たけし(日本テレビ)
世界まるごとHOWマッチ(毎日放送)
オレたちひょうきん族(フジテレビ)
オールナイトニッポン(ニッポン放送)

上記は、1985年当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』『元気』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。

その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

(wikipedia ビートたけしより引用抜粋)


この金星/木星期に入ってから、弟子志願者が押しかけて、後にたけし軍団を結成するのである。


たけしの弟子、信奉者が、この頃に集まってきたのは、ナヴァムシャにおいて、木星(弟子)が5室(弟子)支配で、12室で高揚しているからではないかと思われる。


この頃、たけしが博識で評価されて、文化人的な出演要請が増えたのは、5室支配の木星が高揚している為である。


木星はダシャムシャ(D10)で、ケンドラの4室で高揚しているため、『スーパージョッキー(日本テレビ)』、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)』、『ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日)』『オレたちひょうきん族(フジテレビ)』など、たけしの黄金期を形成する冠番組が出揃い、すべて最高視聴率をマークするほど、キャリア上で、上昇した時期である。







金星/土星期


1985年時点では、既に金星/土星期に移行していたが、土星もD10で、10、11室支配で4室で、9室支配で高揚する木星とコンジャンクトして、9-10、9-11のラージャヨーガ、ダナヨーガを形成している。


従って、金星/木星期に次いで、金星/土星期もキャリア上の上昇は続くこととなった。



しかし、この後、1986年12月にビートたけしは、たけし軍団と共に講談社のフライデー編集部を襲撃し、現行犯逮捕され、懲役6カ月(執行猶予2年)の判決を受けて半年間芸能活動を自粛することになっている。


そして、芸能活動を再開した後も出演するテレビ局や所属事務所などに各種団体が抗議に訪れるなど、しばらくは事件の影響が尾を引いたようである。



このフライデーを襲撃した時のダシャーは、金星/土星/ラーフであるが、条件によっては、金星/土星期は「王が乞食に転落する」時期であると言われている。


ビートたけしの場合、金星/土星期になるまでの金星/木星期は明らかに王であったため、金星/土星期になってからの逮捕や謹慎は、王が乞食になっている状況ではないかと思われる。




Sloka 28½ – 29½: If Venus and Saturn posited in their exaltation, Swakshetra or Vargottamamsa be strong and ‘equally powerful to cause Yoga, they will, in their mutual Dasas and Bhuktis, make the native a beggar seeking alms and a powerless being, even if he be born a king or a Kubera. Should however one of the two be strong and the other weak, the stronger one will give the Yoga.

Venus and Saturn are natural friends and any student of astrology, logy will expect good results in their mutual Dasat and Bhuktis. But the sense contained in this sloka is contrary to the above statement. If the two planets are well placed, the Bhukti of Venus in Saturn’s Dasa and ‘Vice versa will be the worst periods the native can possibly expect. The stronger the two planets are the worse will be the effect.

Sloka 29½ – 30½. If both of them be weak and be so mutually placed that one occupied the 12th, the 8th or the 6th from the other, or happen to be owners of such places; or be conjoined with the lords of these houses, they become auspicious and confer wealth and happiness on the native. If one of them own, an auspicious house and the other an unfavourable one, even then, hath of them will produce good effects. If they are both malefics, they will prove extremely favourable to the native.


シュローカ28(1/2) – 29(1/2)

もし金星と土星が高揚、定座、もしくはヴァルゴッタマにあり、強く、ヨーガを引き起すに等しく強いなら、それらは相互のダシャー、ブクティーにおいて、人が例え王か、クベラ(お金や富の神様)に生まれたとしても、施しを捜している乞食、そして無力な存在にする。しかしながら、2つのうちの1つが強く、もう一方が弱いなら、より強い方がヨーガを与える。

金星と土星は生来的友好で、どんな占星学の生徒も、それらのダシャーとブクティーにおいて、良い結果を予測します。
しかし、このシュローカに含まれる感覚は、上記の言明と反対です。

もし2つの惑星が良い配置なら、土星のダシャーにおける金星のブクティーは(逆もまた同様ですが)、おそらくチャートの主が期待できる最悪の時期になるでしょう。2つの惑星のより強い方が、より悪い効果となります。


シュローカ 29(1/2) – 30(1/2)

もしそれらの両方が弱く、一方が他方から相互に12室、8室、6室に位置するか、もしくは、そのような場所の支配星であるなら、もしくはこれらのハウスの支配星とコンジャンクトしているなら、それらは吉祥となり、チャートの主に富と幸せを与えます。

もしそれらの一つが定座、吉のハウス、そしてもう一方が不吉なハウスであったら、それらの両方は良い効果を生みます。

もしそれらが両方とも凶星だったら、それらはチャートの主にとって極めて好ましいと分かります。

(ウッタラカーラムリタより一部、引用抜粋)




ウッタラカーラムリタによれば、土星と金星のより強い方が、ヨーガを与えると記されている。


ナヴァムシャでは、6、7室支配の土星は高揚しており、より強い配置であり、この土星がヨーガの結果を与えたと考えることができる。


すると、土星は6、7室支配で3室(メディア)に在住し、3、10室支配の金星(芸能活動)にアスペクトしている。


この土星が3室に在住し、3、10室の支配星にアスペクトしていることが、芸能活動を中断させ、謹慎をもたらしたことは明らかである。


また土星は、5室支配の木星(たけし軍団)にもアスペクトしており、フライデー襲撃事件はたけし軍団を巻き込んで実行されたのである。



またこのフライデー襲撃事件は、以下のように当時、交際していた愛人との交際をメディアに暴露し、更に愛人に怪我を負わせたことに対する報復行為である。



1986年12月8日、東京都渋谷区の路上で、ビートたけしこと北野武(以下「たけし」、当時39歳)と親密交際していた専門学校生の女性(当時21歳)に対し、『フライデー』の契約記者が、女性が通う学校の校門付近でたけしとの関係を聞こうと声をかけたが、それを女性が避けて立ち去ろうとしたため、記者が前方に立ちふさがってテープレコーダーを彼女の顔に突きつけ、手を掴んで引っ張るなどの行為に及び、頸部捻挫、腰部捻傷で全治2週間の怪我を負わせた。

(wikipedia フライデー襲撃事件)


従って、6、7室(愛人、あるいは妻)支配の土星が3室(メディア)に在住している配置でその事象を説明することができる。


6、7室支配の土星は、愛人を象徴し、更に妻である幹子夫人を象徴し、更にフライデーの批判的記事を象徴するとも言えるかもしれない。


土星は金星の星座に在住し、金星に一方的にアスペクトしているが、この辺りは複雑で、どう解釈すればよいか迷う所である。


土星が金星の星座に在住していることは、金星が優勢となることを表わし、土星が金星に一方的にアスペクトすることは、土星が優勢になることを表わし、ウッタラカーラムリタの記述のように土星が高揚して金星よりも強いため、土星が結果を表わすとも考えられる。


確かなことは、ビートたけしにとっては、金星/土星期は悪く働いたということである。




金星/土星期は、非常にミステリアスで、分かりにくいが、更に事例を見ていく必要がありそうである。








そして、ビートたけしは、1994年8月、バイクによる自損事故を起こし重傷を負っている。


この時期は、太陽/土星/土星期である。



太陽は出生図では、8室(致命傷)支配でラグナに在住し、マラカの4、11室支配の火星、6室支配の水星とコンジャンクトし、ラグナロードで2室支配の土星(マラカの7室に在住)と相互アスペクトしている。


8室(致命傷)支配の太陽がラグナに在住して、火星(6室の表示体:事故)と土星(8室の表示体:致命傷)の2つの凶星と絡んでおり、更に4室(乗り物)や6室(事故)の支配星と絡んでいることが交通事故を表している。


2室は顔を表すが、2室の支配星がマラカの7室に在住し、8室支配の太陽やマラカの4、11室支配の火星や、6室支配の水星からアスペクトされていることが、顔面への致命的な障害を表わしていたと考えられる。


このため、顔面の麻痺に対する長期に渡るリハビリテーションを必要としたのである。





幹子夫人との関係



ナヴァムシャでは太陽は、ラグナロードでマラカの7室に在住し、6、7室支配のマラカの土星が3室に在住している。



この事故が起こった時、ビートたけしは、当時、交際していた細川ふみえのマンションから帰る途中だったのではないかと言われている。






フライデー襲撃事件の時は、金星/土星期であり、バイク事故の時は、太陽/土星期であり、どちらも6、7室支配の土星期であり、愛人の存在がメディア(3室)に暴露されている。



この時、ナヴァムシャでは6室支配の土星が3室に在住していることから、幹子夫人との関係は良くないはずである。



事故を起こした後、1994年8月~1997年9月まで太陽期を経過しており、太陽は上述のようにラグナやラグナロードと絡む8室の支配星であるため、かなり長期に渡って、リハビリを必要としたことを物語っている。



その後、1997年9月からマハダシャー月期に入り、2007年まで続くが、この時期、月はナヴァムシャで、12室支配で4室で減衰し、ケートゥと土星から挟まれて、パーパカルタリヨーガを形成している。



従って、月は非常に傷ついて弱い状態である。






出生図では、月は7室の支配星で11室に在住しているが、このバイク事故を起こして重体に陥った時、幹子夫人が側で、つきっきりで看病したようである。


従って、事故から復帰した後も暫くは、幹子夫人との関係を安定させていたと考えられる。



それはナヴァムシャで月が弱いながらも4室のケンドラに在住していることが物語っている。



然し、その後、マハダシャー火星期に移行すると、火星はナヴァムシャの6室に在住しているため、再び、ビートたけしは、幹子夫人との関係が悪くなったと考えらえる。



このように見てくると、ビートたけしは、40年間連れ添った幹子夫人と常に関係が良かった訳ではない。


関係が良かったのは、ナヴァムシャの5室に在住するマハダシャー金星期(結婚当初の幹子夫人も漫才をしていた頃)であり、その次のラグナロードで7室に在住する太陽期であり、その後の4室に在住する月期もまだ関係は良かったかもしれないが、次の6室に在住する火星期には意見の不一致などが見られた可能性があり、そして、更にマハダシャーラーフ期になると、ラーフは11室(6室から見た6室)に在住している。


そして、ラーフのディスポジターの水星は、11室の支配星で6室に在住している。


従って、2007年ぐらいから幹子夫人との関係は、おかしくなっていたと考えるべきである。


そして、ラーフ期になってから更にそれが決定的になったと考えられる。






以前、私は、『北野たけし”100億円の愛人騒動”について』という記事を書いたが、2014年7月17日号の週刊文春に載っていた記事を参考にまとめたものである。



この2014年7月は、ちょうどマハダシャーラーフ期に移行する直前である。


ラーフは出生図において、恋愛の5室に在住し、月から7室に在住している。


またナヴァムシャでは11室に在住しているが、ディスポジターの水星は結婚生活の2室の支配星である。


またナヴァムシャではラーフは月から8室に在住しており、ディスポジターの8室支配の水星は、ラグナロードの火星と3室でコンジャンクトしている。


このマハダシャーラーフ期は、おそらくパートナーとの結婚願望(8室のラーフ)が出て来る時期であり、パートナーに頼りたいと思う時期である。


既に幹子夫人とは長い間、別居状態にあったということから、やはりラーフ期は、このタイミングで新しく結婚生活に入りたいと思った相手の存在を示唆しているのである。


それが発覚したのが、ちょうどマハダシャーラーフ期に移行したタイミングであった。






ラーフはダシャムシャ(D10)では、3室に在住し、ディスポジターの水星は3、6室支配で6室に在住し、ラグナロードの火星と6室でコンジャンクトしている。



従って、仕事に関しては、オフィス北野を独立し、自ら事務所を立ち上げることとなった。



そうした仕事上の奮闘が見られる時期である。



このように見てくると、ビートたけしのナヴァムシャのラグナは獅子座で、ダシャムシャのラグナは牡羊座で良さそうである。



ナヴァムシャのラグナを獅子座にすると出生図のラグナはダニシュターの第1パダになる。



ダニシュターは支配星が火星のため、ピッタ系の激しい性質を持つと共に音楽の才能を表わすナクシャトラとされている。



ビートたけしが、学生時代にジャズに夢中になり、ジャズの見識で高い評価を受けたことなどのエピソードはダニシュターであると考えると納得できる。



シュラヴァナは支配星が月のため、組織人間でNo.2が向いており、もう少し大人しい印象である。



ダニシュターは芸能人に向いているナクシャトラであり、人の話に耳を傾け、自分の血肉にする才能に恵まれている。



そうしたことを考えると『たけしのTVタックル』などで、たけしがゲストたちの話を非常によく聴いていることなどは、ダニシュターの象意に該当すると思われる。



今回の離婚で、ビートたけしは、幹子夫人に200億円以上の手切れ金を支払うと報じられている。


ダニシュターの人生とは、波乱万丈で、ドラマチックであり、お金にとらわれる人間ではないということから、ダニシュターの象意とよく合致している。













(参考資料)



ビートたけし離婚、莫大財産は元妻へ 終結まで長引いた背景
2019.06.12 16:00  女性セブン

「結果だけ見れば、0対100でたけしさんの完敗。それなのに本人は『オイラ、スッキリしちゃったぜ』って笑いながら頭をかいてましたよ」――。ビートたけし(72才)の知人は、苦笑いでこう明かした。

 たけしと幹子夫人(68才)の“離婚闘争”に、終止符が打たれていたことがわかった。元漫才師の幹子さんとたけしが結婚したのは漫才ブーム真っ只中の1980年。「勝手に婚姻届を出された」ことからズルズルと続いてきたというのはたけしの弁だが、幾度となく女性問題が取り沙汰されてもつかず離れずの関係を続けてきた。

 風向きが変わったのは2014年7月。『週刊文春』が「100億円の愛人」と題して18才年下のA子さんとの関係を報じたのだ。

「A子さんのマンションで同棲状態のたけしさんが彼女と結婚するため、100億円ともいわれる財産をすべて幹子夫人に渡して離婚するとの内容でした。降ってわいた“最後の恋”に関係者の衝撃は大きかった」(芸能関係者)

 2018年3月、たけしはオフィス北野から独立。新事務所「T.Nゴン」を立ち上げた。

「この頃から“A子はたけしの財産狙いではないか”“たけしは変わった”“A子以外の意見を聞かなくなった”とA子さんに否定的な報道が増えました」(スポーツ紙記者)

 今年元日にはスポニチが「たけし離婚調停」と報道。4日後の情報番組生放送でたけしは「調停なんか終わっているよ、バカヤロー! あとはハンコを押すだけだ」と発言していた。

 離婚の大きな争点は「財産分与」だと報じられてきたが、たけしにとってそこは重要な問題ではなかったようだ。

「A子さんが“後妻業”のようにいわれていますが、実際は違う。A子さんの立場を慮った部分が大きいでしょう。金銭面でいえばたけしさんは最初から幹子さんの要望をのむつもりでしたから。ただ、あまりに巨額なので弁護士を通してのやりとりが続き、時間がかかっただけでモメて話が停滞していたわけではない。A子さんもそこには口を出していません。

 たけしさんは結婚生活を始めた時から、ほぼ別居状態だったわけで“離婚するのに40年かかったよ”と苦笑いしていましたが、数百億円といわれた財産はすべて幹子さんへ渡した。たけしさんに残ったのは現在A子さんと同居する世田谷の自宅だけのようです」(たけしの知人)

 それでも冒頭の通り、スッキリした顔を見せているというが、悩みは「発表」の仕方。

「たけしさんは、どう話せば“ウケるか”と考えていたようですよ(笑い)。“誰もオイラの離婚に興味ないだろ”というのも本音のようですが、本人がどう報告するか気になるところ。たまには“恋”を本気で語ってほしいですが」(前出・芸能関係者)

 離婚後、A子さんとの生活に変化はあるのか。

「A子さんはたけしさんの家族とのコミュニケーションを密にとっています。たけしさんのお姉さん・安子さんからの信頼も厚いし、お兄さんの大(まさる)さんもそれを承知していた。北野家と距離があった幹子さんとは対照的かもしれません。たけしさんは『兄貴や姉さんも世話になってるんだ』と感謝していますし、もう少し行き来が頻繁になるかもしれませんね」(前出・たけしの知人)

 たけし側の代理人は「離婚が成立したのは事実ですが、それ以上はお話しすることはありません」と言うのみ。

 これから始まるA子さんとの二人三脚の人生。天才たけしの新たな一面がまたもや見られるか。

※女性セブン2019年6月27日号
参照元:ビートたけし離婚、莫大財産は元妻へ 終結まで長引いた背景
2019.06.12 16:00  女性セブン

ビートたけし 日本芸能界最高額の手切れ金 200億円以上譲渡で夫人と決別
2019年6月13日 05:30 スポニチアネックス

タレントのビートたけし(72)が、5月に幹子夫人(67)と離婚したことが12日、分かった。長く別居してきたが、40年にわたる関係に正式にピリオドを打った。200億円 以上ともされる莫大(ばくだい)な財産をたけしが夫人に渡すことで“決別”。自らの資産を捨てて、愛人とされてきた18歳年下の女性パートナーA子さんとの“愛”を 選んだ形だ。残りの人生を謳歌(おうか)するための、令和元年の再出発だ。

 関係者によれば、離婚が成立したのは5月。互いに弁護士を立てての協議離婚で、数年にわたって話し合いを続けてきた。代理人弁護士も「離婚したのは事実です。そ れ以上お話しすることはない」と話した。

 財産分与の話し合いでは、たけしがほぼ全ての財産を幹子さんに渡すことで同意したとみられる。幹子さんが受け取る財産は、金額に換算すると200億円以上になりそ うだ。

 知人は「個人資産で100億円、会社名義で100億円以上あったものを全て渡す形になったと聞いている。大切にしてきた高級外車のコレクションも手放すことになった」 と明かした。残ったのは、15年に立ち上げた新事務所「T.Nゴン」を兼ねた東京都世田谷区内の自宅だけだ。

 72歳の今もなお、テレビのレギュラー番組6本を抱えるなど売れっ子のたけしは、年収10億円超とされる。17年4月から新事務所に仕事の報酬が振り込まれているが、そ れまでは幹子さんが数十年にわたって収入を管理。「たけしさんは月額300万から400万円のお小遣いをもらってやりくりしてきた」(関係者)といい、多額の資産を残し ている。

 海外セレブが離婚に際して超高額の慰謝料を支払うことは多々あるが、日本では異例の金額。テレビ関係者は「日本の芸能界で史上最高額の“手切れ金”であることは 間違いない」と目を丸くした。

 たけしは「40年かかったけどやっとケジメがついた。これでA子と歩んでいける」と周囲に話しているという。別の知人は「たけしさんが再婚したとは聞いてない。面 倒なことはもう嫌でしょうし、今後することもないでしょう」と話しており、このままの関係を続けていくとみられる。

 A子さんとは7年前に出会い、交際を続けてきた。仕事の相談相手になるなど、たけしは絶大な信頼を寄せている。公私両面で欠かせない存在。自身の手元に唯一残した 財産である自宅が、2人の愛の巣だ。

 一方、幹子さんの周囲は「思うところもあるだろうが、納得している様子です」と明かした。ブレーク前の70年代から交際し、83年に結婚。当時から既に別居状態で、 幹子さんが離婚を求めたこともあったが、婚姻関係だけは続けてきた。

 その2人が、40年目に決めた熟年離婚。型破りな生き方をしてきたたけしだが、最終章に入っていく人生を見据えて選んだのは、お金ではなく愛だった。
参照元:ビートたけし 日本芸能界最高額の手切れ金 200億円以上譲渡で夫人と決別
2019年6月13日 05:30 スポニチアネックス










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藤田田著『ユダヤの商法』復刻の理由



最近、日本マクドナルド創業者の藤田田氏の著作全6冊を復刊するプロジェクトが実施されたようである。


中でも『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(1972年/KKベストセラーズ)は総計82万7000部を売り上げるベストセラーとなったようだが、中古市場で2万円の値に吊り上がってしまい、容易に入手できない本になっていた。




例えば、この本を座右の書にする実業家も多く、たかの友梨も愛読書として、この本を挙げている。


この伝説の書が復刊したのを目にした為、以前から読みたいと思っていた私は、思わず、Amazonでワンクリックで購入した。



(新装版)2019年4月25日 初版第一冊発行


私の動機としては、ビジネスに生かすというよりもユダヤ人の考え方を知りたいと思ったからである。


ユダヤ人の商人の考え方についての興味深い話が載っているのではないかと思えたのである。


実際、読んでみると、藤田田氏が学生時代にG.H.Q(連合国軍最高司令官総司令部)で通訳のアルバイトをしていた時にユダヤ人米兵の軍曹が、給料前に破産状態になった同僚に高利で金を貸して、給料日になると容赦なく金を取り立てて、取り立てが難しい時には配給物資を担保として巻き上げ、金の力で同僚たちを支配し、逞しく生きている姿に感銘を受けたことについて綴られている。

その軍曹は、車を二台も買い込み、軍曹であるにも関わらず、G.H.Q.の上層部以上の豪勢な暮らしぶりだったという。


その時以来、藤田田氏はユダヤ人に接近し、一緒にビジネスを行なうようになり、いわばユダヤ人商人の見習いに入り、ユダヤ人から商売のやり方を直に学んだのだという。


そして、ユダヤ人たちの商売のやり方から学んだ経験について色々綴っているのだが大変興味深い話ばかりである。


藤田田氏は、ユダヤ人貿易商たちとの取引で、身を立ててゆくが、ユダヤ人は契約を絶対守り、契約を守らない人間は信用しない為、ある時、納期に間に合いそうになかった品物を届けるのに赤字覚悟で、飛行機をチャーターして納期に間に合うように相手に届けたエピソードを記している。


藤田田氏は、ある時は損をしてまでユダヤ人との契約を守った結果、ユダヤ人商人たちから「銀座のユダヤ人」と呼ばれて、世界のユダヤ人から信頼されるようになったのだという。



この藤田田氏のチャートについて当然、興味が沸くが、チャートを作成してみて、獅子座ラグナではないかと思った。




何故なら、まず、最初の印象として、藤田田氏は、創価学会の池田大作に雰囲気が似ているのである。


おそらく池田大作は、獅子座ラグナである為、藤田田氏も獅子座ラグナである。


獅子座ラグナに設定すると、ラグナロードの太陽が7室に在住しているが、7室は貿易相手や海外の契約先を表わすハウスである。

そして、この太陽に12室支配(海外)の月がコンジャンクトしており、海外のビジネスパートナーを表わす配置である。


また海外のビジネスパートナーを表わすと共に海外との貿易で、しばしば出費をすることも表わしている。


従って、上述したようにある時は、契約を守るために損をするようなエピソードも経験したのである。



また獅子座ラグナにすると、ラーフ/ケートゥ軸が6-12室の軸に在住し、木星、金星、火星が6室から12室(海外)にアスペクトしている。


これは藤田田氏が、海外の取引先から受注した商品を納期に間に合うように奔走して、海外に船便や飛行機で送り届けることを表わしている。いわば海外の取引先に対するサービス(6室)を意味している。

とにかく、こうした納期を守り、約束を守る藤田田氏を世界のユダヤ商人たちは信頼したのであるが、これはこの6室に木星や金星など吉星が在住して、充実したサービスを提供したことを物語っている。


藤田田氏は、海外から色々な物を日本に持ちこんできた人物でもあり、日本マクドナルド、日本トイザラス(おもちゃ)、日本ブロックバスター(レンタルビデオチェーン)など、ヒット商品、ヒット事業を日本に持ち込んだ。


従って、創業者と言っても、純粋に新しいアイデアの事業を創業したというよりも、海外のアイデア、ヒット商品を日本にいち早く持ち込んだパイオニアであり、その本質は、輸入販売業者といった方がいいかもしれない。


つまり、藤田田氏の本質的な肩書きは、貿易商人である。


だからラグナから見た12室に木星、金星、火星などの惑星がアスペクトするばかりでなく、月、太陽から見ても12室に木星、金星、火星などが集中しているのである。


藤田田氏のビジネスにとって、海外とのやり取りというのは、欠かせないのである。



そして、藤田田氏は、意外にも太宰治と酒を酌み交わすような親交があったのは、6、7室支配の土星が4室蠍座(水の星座:酒場)に在住しているからである。






太宰治のラグナは蠍座ラグナであるから、この4室に在住する6、7室支配の土星の表示体になっている。




今、藤田田氏が脚光を浴びる理由


そして、今、藤田田氏の著作全6冊を復刊するプロジェクトが起こり、にわかに注目を集めているのは、何故かと言えば、現在、土星が射手座で逆行し、木星も蠍座で逆行し、牡牛座10室にダブルトランジットが生じているからである。


また月、太陽から見た10室にもダブルトランジットが生じている。


そして、土星は5室(出版)をトランジットし、また月、太陽から見た5室(出版)に土星と木星がダブルトランジットし、また土星と木星は、11室(高い評価)にもダブルトランジットしている。



藤田田氏は、既に亡くなっているのであるが、亡くなった後もダシャーが進行していたと考えると、現在、月/土星期である。


月から見ると、土星はラグナロードで10室に在住し、その土星に現在、木星と土星がダブルトランジットしている。






月と土星の組合せは、カリスマの組合せであることにも注目である。



またチャラダシャーを見ると、現在、牡牛座/射手座であり、牡牛座は10室(有名、高い地位)で、射手座は5室(出版)である。


そして牡牛座にはAmKとDKがアスペクトし、牡牛座から10室にはAKとPKが在住して、ジャイミニラージャヨーガを形成している。


ヴィムショッタリダシャーや、チャラダシャーでも、既に亡くなった藤田田氏がこのタイミングで、社会の注目を浴びる理由を示しているように思われる。




金星/土星期


藤田田氏は、1971年に日本マクドナルドを創業したのであるが、2000年頃からマクドナルドの業績が低迷し、2002年7月頃に業績不振や自らの体調不良などにより社長を辞任している。


この時期は、金星/土星期であるが、金星/土星期は、ウッタラカーラムリタによれば、王が乞食に転落する危険な時期とも言われており、この時期に藤田田氏が、業績不振や体調不良で社長を辞任していることを説明することが出来る。


この金星/土星の条件面について、もう少し精査が必要である。(この詳細なリサーチは今回は省略)



マハダシャーの金星は、3、10室支配で6室に在住し、ラーフ/ケートゥ軸や火星、土星と絡んで傷つけられており、この晩年におけるマクドナルドの業績低迷は、この配置が物語っている。



そして、藤田田氏は、2004年4月21日、心不全のため亡くなっている。






この時期は、金星/土星/ラーフ辺りである。



マハダシャーロードの金星は、マラカの6、7室支配の土星からアスペクトされ、土星は6、7室支配のマラカである。


そして、ラーフは12室に在住し、ディスポジターの月はマラカの7室に在住している。


12室は優先順位としては、マラカの次に死を表わすハウスである。




従って、もし藤田田氏が獅子座ラグナで正しく、またダシャーバランスが正しいなら、金星/土星期になってから、藤田田氏は、業績不振と体調不良、社長の辞任、そして、死も迎えたことになる。





為替(FX)や株式のトレードにおける損切りの考え方は、ユダヤ商人のビジネスに対する姿勢そのものである



私が、『ユダヤの商法 世界経済を動かす』を読んで興味深かったのは、以下の箇所(P.50)である。


辛抱よりは”見切り千両”

ユダヤ人は、相手の気持ちが変わるまで、辛抱強く待つ反面、ソロバン勘定に合わないと分かれば、三年はおろか、半年と待たないで手を引いてしまう。

ユダヤ人がある商売に、資金、人力を投入しようと決めたとすると、彼は、一か月後、二か月後、三か月後の三通りの青写真を準備する。

一か月経ち、事前の青写真と現実の間にかなりのズレがあったとしても、不安そうなそぶりや動揺はまったく見せない。どしどし資金と人力をそそぎ込む。

二か月経って、同じように青写真と実績の間に開きがあったとしても、ユダヤ人は一層補強投資をするだけだ。

問題は三か月目の実績である。

ここで青写真通りに行かない場合は、将来、商売が好転するというはっきりとした見通しがつかめない限り、思い切りよく手を引いてしまう。

手を引くということはそれまで注ぎ込んだ資金と人的努力を一切放棄してしまうことだが、たとえそうなったところでユダヤ人は泰然自若としている。商売はうまく行かなかったが、手を引くことで、ガラクタは一切背負い込まないですんだと考えて、むしろサバサバした顔をしているのだ。

ユダヤ人は、最悪の場合に三カ月で注ぎ込む資金は、あらかじめ予測している。その許容限度内の予算で勝負したのだから、クヨクヨすることはない、というのが彼らの考え方である。


「ダルマさん」は商売知らず

ところが、日本人の場合は大変なことになる。

「せっかくここまでやってきたのだから、もうひとふんばりしなくちゃ・・・・」

「今、ここでやめたら三か月の苦労が水の泡になる」

と、未練を残し、生半可に迷いながら商売を続ける。そして、結局、深みにはまり、再起不能のダメージを受けてしまう。

(略)



このユダヤ人の”見切り千両”の合理性は、FXや株の売買などにおける損切りの考え方と全く同じである。


しかも一定の損切り幅を決めて、その損切り幅を超えた途端に一切の感情に流されずに機械的に損切するという損切りルールの考え方と全く同じである。


FXや株のトレードにおいて、最も大事なことはこの損切りであり、損切さえしっかり出来ていて、防御さえしっかりしていれば、資金は増えていくと教えられている。


私自身、これは痛感しているが、素人は小さい勝ちを積み上げて、資金を増やしていくが、一度の大きな敗北を喫して、その全ての利益を失ってしまうのである。


それが素人の負けパターンであり、一度に全ての利益を吹き飛ばすリスクを損切りによって回避できれば、資金は増えていくのである。


ユダヤ人のビジネスに対する姿勢が、全くこの損切りの考え方と同じであることは非常に興味深い。


つまり、FXや株式のトレードに関しても、ユダヤ人商人と同じマインドを身に付ければ勝てるということである。


資本主義や株式市場を生み出したのがそもそもユダヤ人である為、これらを上手く扱う合理性もユダヤ人が有していても不思議ではない。


逆に日本人の場合、ダメなビジネスに見切りを付けられないで、再起不能のダメージを受けてしまうと、記されているが、これはFXや株式のトレードにおいて損切り出来ない人が損失を拡大して破産してしまうパターンである。



藤田田氏の著作の中で、最も有名なのは、『ユダヤの商法 世界経済を動かす』だが、この他にも『勝てば官軍』などの本も有名である。



資本主義を生み出し、世界経済を支配するユダヤ人のマインドや行動規範について知りたければ、これらの本はお勧めの本である。





【その他のエピソード】

藤田田氏が獅子座ラグナであることを物語るその他のエピソードがいくつかあるが、例えば、自分の息子たちに王様の名前を付けたことなどもいかにも獅子座らしいエピソードである。

藤田田氏には2人の息子がいるが、長男は、藤田元氏で、 次男は、藤田完氏である。

『ユダヤの商法』を書いた当時、成城大学1年と成城高校1年の息子(現在は、藤田商店の代表取締役、取締役副社長)がいて、長男に『元』(ゲン)、次男に『完』(カン)という名前を付けたが、これらは外国人には呼びやすい名前で、”ゲン”は英語で書くと、”Gen”で、将軍という意味であり、”カン”は、英語でカーンと発音し、”王様”を意味する。

藤田田氏の田(デン)という名前も外国人にとって呼びやすい名前らしく、そのことで随分得をしたといった話題の中で、外国人に親しみやすい名前を付けるべきだといった意見を綴っている。

獅子座は、”王室”の星座であり、自分を王様としてイメージする星座である。

そして、獅子座は子煩悩で、子供たちに自分の王様としての自己イメージを投影して、子供たちに王様の名前を付けたのではないかと思われる。

藤田田氏の出生図では、牡羊座や射手座、獅子座には全く惑星が在住していない為、せめてラグナは獅子座でないと、王様という自己イメージは生まれそうもない。

従って、獅子座ラグナで正しいと思われるのである。


またもう一つ、藤田田氏は、海外の悪徳商人から騙されて契約履行の直前に契約をキャンセルされ、損害を負わされそうになったことがある。

この時にケネディー大統領に手紙を書いて、この理不尽な商行為について直訴したようである。

ケネディー大統領は、商務長官を通じて、問題を解決するように指示し、場合によっては悪徳商人の海外渡航を禁じるような措置を取ることを伝えて来たという。

この大統領にまで直訴して、勝利を勝ち取った藤田田氏を海外のユダヤ人商人たちは、見直し、本物の信用を与えるようになったという。

このエピソードを読んで、更に獅子座ラグナで正しいと思われるのは、ラグナロードの太陽が7室に在住し、海外の契約相手に積極的にアプローチしていく配置であるが、7室の太陽は権力者を表わしているからである。

この配置が、ケネディ大統領のような権力者に自ら手紙を書いて、貿易問題の解決を直訴した配置であると言える。


最後に藤田田氏は、通訳をするほど、語学が堪能であったが、最低三か国語を話せることを推奨している。

もし獅子座ラグナだとすると、5室支配の木星にケートゥがコンジャンクトしており、語学の才能を表わしている。


このように様々な細かいエピソードを検討してみても、藤田田氏は獅子座ラグナで正しそうである。

後はナヴァムシャのラグナであるが、ナヴァムシャでは、木星と火星が高揚し、蟹座に惑星集中している。

創業社長の場合、2室が強調されるため、今回は、ラグナを双子座に設定してみた。ナヴァムシャのラグナの取り得る範囲は、牡羊座から射手座までである。

ナヴァムシャを双子座ラグナにすると、出生図のラグナは、マガーの第3パダである。



(参考資料)



なぜ今、藤田田なのか マック創業者の「金儲け書」復刊の訳
2019.04.13 07:00  NEWSポストセブン

 松下電器(現パナソニック)の松下幸之助、本田技研工業(ホンダ)の本田宗一郎、ヤマト運輸の小倉昌男など、名だたる大企業を一から築き、繁栄させた創業者たちに共通しているのは、決して人真似ではない独自の経営哲学や生き様を体現し続けたことにある。その類まれなるビジネスセンスやベンチャー精神は、今なお色褪せることなく著作物等を通じて語り継がれている。

 伝説的な名経営者といえば、この人も例外ではない。日本マクドナルド創業者の藤田田(でん)だ。

 東大在学中に高級雑貨輸入業の「藤田商店」を創業した藤田は、1971年に大手商社や食品メーカーを押しのけ、米国マクドナルドと合弁で日本法人「日本マクドナルド」を設立。東京・銀座の一等地、三越銀座店に1号店をオープンさせて以降、ハンバーガーという全く新しい食文化を瞬く間に日本中に根付かせた。その後、ファストフード業界を席巻するマクドナルドの躍進ぶりは周知の通りだ。

 藤田の略歴を記すと、「外資系企業を軌道に乗せただけでは?」と皮肉る向きもあろうが、日本での成功は単なる“米国流”の継承とは異なり独創性の高いものだった。

 藤田の生前、マクドナルドの広報部から依頼され2時間近くインタビューし、『日本マクドナルド20年史』に「藤田田物語」を書いたことのある外食ジャーナリストの中村芳平氏(近著に『居酒屋チェーン戦国史』がある)がいう。

「藤田さんは米国マクドナルドの創業者であるレイ・クロック氏に認められ、請われて合弁会社の日本マクドナルドを作ったのですが、その出資比率は50対50、しかもアメリカのアドバイスは受けるが命令は受けない、経営は日本人がやる──とエリアフランチャイズ(AFC)ではあり得ない日本優位の条件を呑ませました。日本マクドナルドは外資系ではなく“外枝系”(技術・ノウハウだけ提供を受ける)だ、と。

 それだけではありません。店名もアメリカ人の『マクダーナルズ』という発音は日本人には馴染まないとして『マクド・ナルド』に変えました。旧制松江高校の同級生を特攻隊で死なせた戦争経験世代の藤田にとって、決してアメリカの言いなりにはならず、日本発祥のハンバーガー店として成功させてみせるという強い意気込みがあったのです」

だが、そんな藤田は戦後GHQ(連合国軍総司令部)で東大法学部の授業料と生活費を稼ぐために通訳の仕事をした。そこで出会ったユダヤ人たちが兵隊の位は下士官以下、「Jew」と軽蔑されているのに金貸しをやり、贅沢な暮らしをしていたことに驚いたという。

 戦後国家の価値観が音をたてて崩れる中で、ユダヤ人は2か国語以上を話し、いつもたくましく生きぬいていた。5000年の民族の歴史のなかで、「金儲けの哲学」を確立してきたからだ。藤田はユダヤ人の兵隊たちと深く付き合うことで、「ユダヤの商法」を学んだ。東大2年の時、過分な外貨の割り当てを受けてヨーロッパに輸入に出かけたのが、藤田が輸入商社「藤田商店」を起業する原点だ。

 藤田は藤田商店を興そうとした時から、100万円を目標に、月々5万円という多額な貯金を始め、20か月で実現した。これが藤田を“銀座のユダヤ商人”に変えるのだ。

「藤田さんは『人生はカネやで!』と言ってはばからない人でしたが、『金儲けは目的ではなくチャンスを得るための手段』だとも話していました。

 藤田さんの発想の根底には“人間は裸で生まれて裸で死んでいく”という東洋的無常観が存在していました。つまり、どうせ裸で死んでいくなら今現在を精一杯生きることが、結果として金儲けにつながるんだという考え方です。人生は『仕事×時間=巨大な力』だと説いていました」(前出・中村氏)

 そんな“藤田流”経営の極意や金言が詰まった著書はこれまで数多く刊行されているが、中でも『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(1972年/KKベストセラーズ)は総計82万7000部を売り上げるベストセラーとなった。近年は品切れ状態が続き、中古市場では2万円近い高値で取り引きされるほどだった。

 ソフトバンクの孫正義が高校生のころに『ユダヤの商法』を読んで感銘を受け、藤田に直接会いに行ったエピソードは有名だ。

 しつこく面会を申し込んでくる孫に根負けした藤田は、15分だけ対面し、「これからはコンピューターの時代だ。米国留学するならコンピューターの勉強をしなさい」と進言したという。この言葉をきっかけに、孫は事業家として現在の地位を確立するまでになったのである。

 そんな『ユダヤの商法』はじめ藤田田の名著6冊が4月12日に復刊(KKベストセラーズ)された。

「78:22の宇宙法則」「女を狙え」「口を狙え」「今日のケンカは明日に持ち越さない」「不意の客は泥棒と思え」……『ユダヤの商法』を開くと、Part1の項だけでもドギツイ見出しがずらりと並ぶ。

 しかし、なぜ今このタイミングで藤田田の著作を復刊することにしたのか──。KKベストセラーズ書籍編集部で復刊プロジェクトチームの統括にあたった山崎実氏に聞いた。

「いまの時代は中小・大企業問わず『正社員としての終身雇用』が難しい時代で、特に就職氷河期の40代以下の若者は自分の力で厳しいビジネス社会や人生を切り開いていかなければなりません。

 もちろん藤田さんが活躍された時代に比べれば、いまはモノが豊かにあって新しいビジネスのアイデアを持った賢い人たちもたくさんいますが、藤田さんのように常識を打ち破り、素早く行動に移すことのできる“突破力”を持ち合わせる人はそう多くありません。

 新しいビジネスで世界を変えたいとか、お金持ちへの夢を貪欲に描いている人は、藤田さんの著書の中から必ず“成功のヒント”を見つけ出せると思います。露悪的な表現も多々ありますが、藤田さんには大阪生まれのユーモアや人情味もありました。その愛情溢れる言葉やノウハウの数々は、現代のビジネスマンや起業を志す若者の心にもきっと刺さると信じています」(山崎氏)

 藤田田が2004年4月に亡くなって、今年でちょうど15年──。日本最大の外食チェーンと巨万の富を築いた伝説の経営者の“金儲け術”に心酔して、第二の藤田田、はたまた孫正義が次々と登場すれば、日本の経済界も明るいのだが……。

(敬称略)
参照元:なぜ今、藤田田なのか マック創業者の「金儲け書」復刊の訳
2019.04.13 07:00  NEWSポストセブン

藤田田物語①手垢でボロボロに汚れた一通の「定期預金通帳」
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり
中村 芳平
2019年04月03日 BEST TIMES

日本を代表する経営者たちが、むさぼり読んだとされる『ユダヤの商法』。その著者・藤田田に、誰よりも深く切り込んだのが、外食ジャーナリストの中村芳平氏だ。中村氏は1991年夏、日本マクドナルドから要請され、藤田田に2時間近くインタビューをおこない、原稿をまとめたものが「日本マクドナルド20年史」に掲載された。その藤田田物語を大幅加筆修正してお届けする第1回。

■金儲けは正義である

「東大出の異色の経営者」、「銀座のユダヤ商人」、「アントレプレナー(起業家)のアイドル」、「文明評論家」……。総資産1兆7000億円といわれる日本最大の外食チェーン、日本マクドナルド株式会社を率いる藤田田には、ただ単に外食チェーンの経営者にとどまらない、予言者的、警世家的な風貌がある。それに加えて、〝日本マクドナルド教教祖〟兼〝日本金儲け教教祖〟といった雰囲気がある。

 企業が興隆するのには、魅力ある人物の出現が第一だといわれるが、藤田田には成功する起業家の条件が備わっていた。

 日本マクドナルドのハンバーガーが、わずか20年という短期間のうちに、全国津々浦々で800店余を数える日本一のレストランチェーンに発展したのは、藤田田の企画力、行動力、決断力、経営力に加え、人間的魅力があったからである。

 日本は歴史的に「米と魚の食文化の国」であった。日本で丸い小型のパン(ハンバーガーバンズ)に牛肉のハンバーグステーキを挟んだハンバーガーが、爆発的にヒットするとは誰も予想していなかった。 

藤田はそんな常識が支配する日本でハンバーガービジネスを展開するのに、「文化流水理論」を採った。「文化というものは高きところから低きところに水のように流れる」、つまり知識や情報はすべて「上から下へ流れる」という理論だ。

「アメリカという日本より高い文化のある国で、ハンバーガーとポテトがはやっているのであれば、日本が黒髪とみそ汁と米の文化の国だとしても、将来は金髪の女の子がハンバーガーとポテトを食べていてもおかしくはない」(藤田)

 藤田はハンバーガービジネスを最初に展開する場所に、アメリカ側が主張する湘南海岸のロードサイド店をはねつけて、東京・銀座を主張し一切譲らなかった。銀座という日本文化を象徴する場所に出店することで、ハンバーガービジネスが日本中に流れていくと確信していたからだ。

 藤田は1971(昭和46)年7月、日本マクドナルドの第1号店を銀座三越店の1階にオープンした。

 たった22坪、テイクアウト(持ち帰り)専門の小さな店だったが、8月からスタートする歩行者天国(日曜・祝日)を味方につければ、爆発的にヒットすると読み切っていた。実際、歩行者天国が始まると、銀座通りにはビーチパラソルの花が咲いた。その下には折りたたみ式の丸テーブルと椅子が置かれて、公道がそのままマクドナルドの店舗として使われた。家族連れが買い求めたハンバーガーやポテト、コーラ、アイスコーヒーなどのセットメニューをトレーに載せて運び、テーブルに座って飲み食いした。

 一方ではジーパンやミニスカートに代表される若者たちが歩行者天国を闊歩、歩きながらハンバーガーとコーラを立ち食い、立ち飲みした。それまで立ち飲み、立ち食いは日本の食文化では行儀が悪いと、家庭や学校教育では道徳上、原則的に禁止されていた。

 だが、藤田はそういう常識を破壊し、「右手にコーラ、左手にハンバーガー」というアメリカン方式の新しい食スタイルを流行らせることに成功した。日本マクドナルドの銀座三越店は連日連夜行列ができるほどの繁盛ぶりで、翌 72(昭和47)年10月1日、日商222万円を記録し、マクドナルドの売上高世界新記録を打ち立てた。

 藤田はハンバーガービジネスで、日本的な食習慣に革命を起こしたのである。

 藤田はこのような成功体験を引っ提げて72年5月、自著『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ刊)を世に問うた。

 それまで、日本人が最も苦手としたユダヤ人社会を題材にとり、世界経済を動かすユダヤ人の地下金脈や、ユダヤ人の政治力の実態に斬り込んだ。藤田は、「78:22の宇宙法則」、「首つり人の足をひっぱれ」、「女と口を狙え」、「懐疑主義は無気力のモト」といった全97項目から構成される『ユダヤの商法』で、金儲けの極意を明らかにした。

 藤田は「ユダヤ商法の原理原則の中にこそ金儲けのノウハウがある」と、喝破した。日本にマクドナルドのハンバーガーを導入し、それを成功させた快男児のことばであっただけに、そこには臨場感あふれる説得力があった。

『ユダヤの商法』を読んだ誰もがみな、マクドナルドのハンバーガーを初めて食べたときと同じような驚きと、カルチャー・ショックに襲われた。

 これを機に藤田は、稀代の起業家にして予言者、警世家、そして〝日本金儲け教教祖〟の座に就いたといっても過言ではない。『ユダヤの商法』は82万7000部売るベストセラーとなったが、現在では古本市場で高値をつけ、多くの読者からその復刊を待望されていた。

 藤田の素顔を探っていくと、原理原則に忠実なユダヤ教的合理主義者の面と、義理人情に厚い古風な日本人の面とが矛盾なく同居していることに驚かされる。怪物ぶりを発揮する反面、優しさを忘れないところに、藤田の人間的な魅力が感じられるのである。

■40年以上続けている定期預金

〝怪物〟藤田田は、手垢でボロボロに汚れた1通の「定期預金通帳」を、自らの生存を証明する唯一無二の「宝物」のように大切に保管している。

 預金通帳といっても40年以上前の1950(昭和25)年に発行された古いもので、現在の総合口座通帳のようにCD(キャッシュ・ディスペンサー)に挿入すれば残金を記帳できる便利な通帳とは異なる。

 小学生が国語の漢字の書き取り練習のときに、大きな四角のマス目のついたノートを使うが、藤田が大切にしている預金通帳もこれによく似た作りだ。通帳の1ページが大きな四角のマス目、12(1年分)~16に区切られていて、その一つひとつの枠内に、預金額が漢数字(算用数字併用)で「五萬円」と縦に書かれていた。預金額の下には銀行の受領印が捺してあった。

 藤田が住友銀行(現・三井住友銀行)新橋支店発行のこの預金通帳に月々5万円の貯金を始めたのは、50年のことだった。東大在学中の24歳のときのことで、この年、藤田はハンドバッグやアクセサリーなどを輸入販売する個人経営の貿易会社「藤田商店」をスタートさせた。藤田が貯金を始めたのは、藤田商店の設立がきっかけである。

 50年当時の5万円といえば、大金であった。

 そのころ、日雇労働者の1日の賃金が、「二個四」(〝100円札2、 10円札4〟で〝にこよん〟)という俗称のある手取り240円であった。すなわち25日間働いても、「240円×25日で6000円」にしかならなかった時代である。その時代に藤田は、日雇労働者の賃金8か月分以上にものぼる大金を毎月、定期預金していたのである。

 なぜこんな高額な貯金をするようになったのか。詳しくは後述するが、藤田はこの貯金通帳を初めに、最初の10年間は5万円、次の10年間は10万円、その次の10年間は15万円、つまり50年~80(昭和55)年の 30年間、毎月平均10万円をコツコツ貯金してきた。そして81(昭和56)年からは毎月10万円貯金していた。

 筆者が91(平成3)年夏にインタビューした時には40年以上にわたって10万円の貯金を続けていた。

 もちろん、50年に貯金を始めてから一度も休まずに続け、一度も引き出したことはない。

 それでは、藤田の定期預金は40年間でいくらになったか──。

 1年間が12か月だから、40年間といえば、12か月×40年間で480か月。その間に積み立てた元金の総額は、480か月×10万円で4800万円ということになる。これが毎年、複利でまわっていくわけだが、利まわり後の貯金額のトータルは、91(平成3)年4月現在で、なんと「2億1157万6654円」に達している。元金4800万円の5倍近い増え方である。

 参考までに計算してみると、藤田の定期預金が約1億2000万円になるのには30年かかったが、この2億1000万円余になるには10年間しかかかっていない。複利預金の増え方の威力をまざまざと見せつけられる思いである。

「この貯金については、毀誉褒貶があるんですよ。土地を買っておけば土地長者になっていたとか、株を買っておけばもっと儲かったとか、いろいろ言う人もおります。実際、長い間には、この金を引き出して使いたいという局面にも何回か遭遇しました。けれども、いったん下ろさないと決めたものを下ろしてしまったのでは、自分の負けなんですね。大変な克己心がいったことは確かです。でも、それを続けて来たことで、『藤田は約束を守る男だ』と銀行からも絶大な信用を得ています。私は、息子の元(現・藤田商店社長)に、『こ の貯金は、私が死んだあとも100年間続けてみろ』と、いっているんですよ。親、子、孫3代にわたって続けることになるかもしれませんが、そうすればどうなるか──。私のように粘り強い日本人がひとりくらいいても面白いではないか、と考えているんですがねぇ……」(藤田)

 毎月10万円ずつ100年間預金したら、複利でまわっていくらになるか──。今後、預金が1億円ずつ増える期間がどんどん短縮されていくのはわかるが、これを即答できる銀行マンはほとんどいないという。

 ともあれ、〝ユダヤの商人〟こと藤田田は、50年から40年以上、毎月いちども欠かさずに貯金してきた最初の定期預金通帳を、汚れてボロボロになった今も、昔と同様に宝物として大切に保管している。

〝怪物〟藤田田の真骨頂は、まさにこの預金通帳にあるといえる。

 天才とは、複雑な物事を単純化する能力であるといわれる。藤田は、人生が「仕事×時間=巨大な力」という単純な図式に当てはまるということを早くから見抜き、定期預金という形でそれを実証してきた。

 平凡なことを、非凡に実行する男──それこそが藤田田という怪物の正体である。

 藤田がこのような貯金を始めるきっかけは、どのへんにあったのであろうか。

■かまぼこ板と天性の腕白坊主

 藤田田は、大正から昭和へと移り変わる年、1926(大正15)年3月13日に大阪府で生まれた。

 日本マクドナルドが創業20周年を迎えた91(平成3)年、65歳になった。父・良輔、母・睦枝を両親に、5人兄弟の次男として生まれた。父は仏教徒であったが、母は敬虔なクリスチャンで、わが子がクリスチャンになるようにと願って、藤田の「口」の中に小さな「十」字架を入れ、「田」と命名したという。

 藤田の父は、英国の「モルガン・カーボン・クルシーブル」日本支社に勤める電気技師で、収入も多く、大阪千里山に豪華な邸宅をかまえていた。当時としては珍しい洋風生活で、藤田はベッドで育った。

 小学校は公立小学校に通い、中学校の進学にあたっては大阪市淀川区にある名門進学校の旧制北野中学校(現・大阪府立北野高校)を受験した。

 だが、早熟で、たびたび生意気な質問をして先生を困らせたことが災いしたせいか、内申書の成績が悪く、不合格となってしまった。

 そこで、藤田は、父の了解を得て、自らの意志で小学生浪人を経験した。当時も今も極めて珍しいケースだ。それだけ旧制北野中学校への進学が、その後の進路を決めると考えていたからだ。

 近所の老人から〝かまぼこ板〟とあだ名されるほど勉強したのは、このころのことであった。いつ見ても、背中を丸めて机にかじりついて勉強していたからだ。

 39(昭和14)年4月、藤田は2度目の受験で念願の旧制北野中学校へ進学した。成績は十数番であったようだ。

 このとき現役でトップクラスで入学したのが松本善明(93歳。弁護士。元・共産党衆議院議員)である。

「私たちが入学した当時、旧制北野中学校は6クラス編成でした。旧制中学校では成績が1番からビリまで全部貼り出され、机に並ぶ順番も成績通りと決まっていました。また、6クラスの級長、副級長も成績順に12人までと決められていました。

 私は全クラスでトップの成績だったので常に級長を務め、全クラスの組長に選ばれました。藤田は全クラスで13~15番程度の成績で、級長・副級長にはなれなかったですね。藤田は私のことをよく知っていたと思いますが、中学時代はほとんど付き合いがなかったです」

ちなみに、松本は26(大正15)年5月17日、大阪府生まれ。専門出版社「大同書院」(当時)の長男であった。学年では早生まれの藤田より1年下であるが、藤田が1浪して入学してきたので同期生となった。年齢は満13歳で同年齢である。

 松本は器械体操部に所属し、体を鍛えた。旧制北野中学校に入学して2年後の41(昭和16)年12月、真珠湾攻撃によってアメリカとの太平洋戦争が始まった。

 日本は初めのうちこそ快進撃を続けたが、42(昭和17)年6月のミッドウェー海戦での敗北を機に後退を余儀なくされた。43(昭和18)年4月に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、同年5月にはアッツ島部隊が玉砕した。

 純真な軍国少年であった松本は、他の級長2人と計3人で43年6月、海軍兵学校を受験した。

 当時、海軍兵学校が最難関とされたのは学業の優秀さに加え、身体が強健でなければ合格できなかったからである。このとき松本も含め旧制北野中学校からは三十数人が合格した。

 同年12月、松本は江田島の海軍兵学校に入学(第75期生、卒業は45年10月)。そして松本は江田島で終戦の玉音放送を聞くことになるのだ。

 藤田は旧制北野中学校に入学してからは陸上競技部に所属し、400メートル競走の選手をやっていた。陸上競技のなかでは瞬発力と耐久力が求められる厳しい中距離走の種目である。

 旧制北野中学校時代の同級生は「藤田は天性の腕白坊主であった」と証言している。藤田はヤンチャで、いつでも何か悪さをしていないと気がすまないといった性格であったから、教室にじっとしていることは少なかった。けれども、藤田のイタズラは、人の心を傷つけるような陰湿なものではなく、明るくカラッとしていた。ガリ勉タイプではなかったが、「試験のヤマを当てるのがうまかった」(藤田)ためか、成績は常に全クラスで上位10数番であった。

 しかしながら級友の間にも奇妙な人望があり、級長・副級長に次ぐ班長に推されたこともあった。

 全国屈指のラグビー校としても知られた旧制北野中学校では、大会があると全員で応援に参加した。参加しないと、先輩からビンタが飛んだが、こんなときでも藤田がビンタを張られることはまずなかった。

 判断が機敏で、すばしっこい上に、腕力にも自信があったからだと思われる。

(『日本マクドナルド20年のあゆみ』より加筆修正)〈②へつづく〉
参照元:藤田田物語①手垢でボロボロに汚れた一通の「定期預金通帳」
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり
中村 芳平
2019年04月03日 BEST TIMES

藤田田物語②「人生はカネやでーッ!」左翼学生に放った言葉
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり②
中村 芳平
2019年04月10日

日本を代表する経営者たちが、むさぼり読んだとされる『ユダヤの商法』。その著者・藤田田に、誰よりも深く切り込んだのが、外食ジャーナリストの中村芳平氏だ。中村氏は1991年夏、日本マクドナルドから要請され、藤田田に2時間近くインタビューをおこない、原稿をまとめたものが「日本マクドナルド20年史」に掲載された。その藤田田物語を大幅加筆修正してお届けする第2回。

■兄貴と慕われる

1944(昭和19)年4月、藤田は、戦火の激しい都会を避けて、山陰の学府・旧制松江高等学校に入学する。18歳のときのことだ。5か国語ほどを使い分けたという、語学の得意な父親の影響もあって、ドイツ語を第1外国語とする文科乙類に入った。「英語は中学時代5年間勉強して、ある程度マスターしていたので、もう1か国語くらい覚えたい」(藤田)というのが文乙志望の動機だった。文乙には好奇心の強い、少し大人びて、ひねくれた発想をする人間が集まっていた。

 藤田にとって不幸だったのは寮生活を一緒に送ったクラスメートが、肺結核に冒されていたことだ。入学して半年もすると体調を崩し、京都帝国大学で診断を受けた。その結果、肺結核で右肺に鶏卵大の空洞が二つあるのが発見された。

 診断をした京都大学結核研究所の岩井教授は、今ここで棺桶屋に電話をして棺桶の予約をするか、ただちに入院して人工気胸をやるかのどっちかだという。このままでは、あと2か月の命だともいう。

 私は、入院して人工気胸をやったら治るのかとたずねた。岩井教授は、それはわからないが、入院したら治すように全力をあげるという。私はやむを得ずに、即時入院を選んだ。

 入院をしたら、今度は、肛門のまわりに穴があく痔瘻にやられた……(中略)……。

 痔の手術は、痛いうえに恰好も悪い。尻の穴を人に見せるというのは死ぬほど恥ずかしい。しかも若いから、看護婦を見て体に変化が起きないように、シンボルに絆創膏を巻いて足に固定してしまう。まさに、踏んだり蹴ったりである。

 痔瘻はどうにか治ったが、結核は2~3年は安静にしていないといけないという。松江高等学校は、2年連続落第は放校だという。

 人工気胸というのは、空気を入れて、肺が動かないようにしておいて、そこへ栄養を送り込んで結核を退治するという治療法である。現在は抗生物質の出現で、人工気胸はやらなくなったが、当時は唯一の治療法だった。

 私は、死んでもいいと思って、学校へ出た。医師とは喧嘩別れである。そして松江の日赤に週に一度通って、空気を詰めかえてもらっていた。この人工気胸が私には効いた。

(『Den Fujitaの商法④ 超常識のマネー戦略 新装版』)

 藤田は寮の監督に事情を話した。そうすると、「無茶をするな。体調の悪い時は寮で寝ていても出席扱いにしてやる」と温情をかけられた。結局藤田は寝込むまで悪化せず、1年間の休学扱いですんだ。といっても小学生浪人の1年間を加えれば、2年間棒に振ったことになる。だが藤田にとっては、この2年間の道草が読書に親しむなど人間力を鍛えるのである。藤田はこのころから〝怪物〟ぶりを発揮し始めた。

 旧制松江高校は、数ある旧制高校の中でも弊衣破帽、汚いことにかけては土佐の高知高校と並び称される。〝蛮カラ〟の校風で知られていた。同校の先輩で、雑誌『暮らしの手帳』の名編集長だった故・花森安治氏が「女学生用のスカートをはいて、タクアンをボリボリとかじりながら、松江大橋の欄干(らん かん)の上を歩いた」という伝説が語り継がれるほど〝蛮風”でなる学校である。良くいえば、自由、革新の気風が強かった。

 ここで藤田は、応援団長、クラス総代、記念祭委員長などさまざまな役職をつとめることになる。これらは名誉職ではない。選挙で選ばれるもので、人格、識見、主義主張、能力、人望などが問われた。藤田は、何かことがあると飄々(ひょうひょう)として壇上に進み出て、自分の主張を早口の大阪弁で理路整然とまくしたてた。元来、こういう選挙では学校の教職員と近い関係にある学生が立候補したり、組織をバックにした左翼系学生がアジったりするのが常で、それに一般学生が追随するというスタイルが多かった。藤田は、そのような学生自治のあり方に不満を唱え自分の主義主張を訴えた。

 藤田の最大の武器は弁論だった。藤田の話は具体的で、左翼学生たちの舌鋒を軽く論破するだけの論理性、正当性、説得力を持っていた。加えて、藤田の人間的な魅力から、〝兄貴〟と慕う親衛隊も大勢おり、選挙となれば、誰よりも強かった。むしろ、学校の教職員が「藤田が選ばれると、何をするかわからないし、無理難題をふっかけられる可能性もある」という危惧から、選挙妨害もやりかねなかったほどだった。

 藤田には類まれなアジテーター(扇動者)の素質があった。

■タブーの軍国主義批判

 当時から藤田は、堂々と軍国主義批判をぶつような硬骨漢であり、いつも学校側を恐れさせた。藤田が旧制松江高校に入学した翌1945(昭和20)年3月ごろ、寮の3年生が召集令状で戦地に赴くことになった。さっそく、寮で形ばかりの壮行会が行なわれた。それぞれが型どおりのあいさつをするのに業を煮やした藤田は、こんな怒りをぶちまけた。

 「みんな、当たりさわりのない話しをしてこの場を取り繕っているが、お前たちは赤紙1枚で戦争に駆りだされ、むざむざ死地に赴く先輩の心情を本気で思いやっているのか。戦争に駆り出されて死ぬことが、どんなに無意味なことか、本当にわかっているのか。先輩の気持ちを思えば、そんな型通りのあいさつでお茶を濁すことはできないはずだ。もっと真心のこもった話ができないのか……」

 藤田の怒気に圧倒されて、座はシーンと静まり返った。一方、次の日に戦地に赴く3年生は、「よくぞいってくれた」と、藤田に泣いて感謝したのである。今なら何でもないことだが、あの時代に軍国主義批判をぶつのは、一歩まちがえれば憲兵隊に連行され、拷問される危険性があった。そんなことは百も承知の上で、藤田は、自分の正しいと思うことを堂々と発言した。それは、並大抵の勇気ではなかった。藤田の大きな特徴は、物事の本質を見抜く地頭の良さ、それと事に臨んでの度胸のよさにあった。

 藤田は、旧制北野中学校時代の松本善明のように軍国少年にはならなかった。それは外資系の会社につとめ、海外の動向に明るかった父・良輔から折りあるごとに、「日本が勝ち目のない無謀な戦争に突入した」と聞かされていたからだ。そして、その最大の理由は、「日本が単一国家、単一民族で視野が狭く、海外の動向についてあまりに無知であるからだ」と教えられていた。

 すでに、日本の敗色は濃厚であった。このまま戦争が続けば、次は藤田たちが戦地に駆りだされる番だった。藤田はやりきれなかった。

■父の遺言

 そんな藤田に大きな不幸が訪れた。大阪市内にあった実家が、1945(昭和20)年3月から始まったアメリカ軍のB29の全8回にわたる大空襲で全焼し、尊敬してやまなかった父を亡くしたことである。また兄・弟・妹も亡くした。

 藤田家は、この戦災で財産のほとんどを失った。戦後も無事に生き残り、91(平成3)年現在もなお健在なのは88歳の母・睦枝と、藤田本人、それに姉・美代子の3人だけである。

「父は読書家で数千冊の蔵書がありましたが、残ったのは今でも手元にあるドイツ語の辞典と、もう一冊程度でした」(藤田)

 父・良輔は、B29の爆撃が日増しに熾烈になる中で、このときが来るのをあるいは予感していたかのように、息子の田に宛てた遺書を英文で残していた。「THE WILL」と英語で表書きされた父の遺書には、あらまし次のような内容が便箋に5~6ページにわたって書かれていた。

 奈良のホテルにて。時間が少し空いたので、田に書き残しておいたほうが良いと思い、ペンを執りました。日本は、島国で視野が狭く、それが高じて世界と戦争をするような事態に陥りました。戦争はいずれ終わり、平和が来ると思います。その場合、田が生きていく上では東大の法学部に進学して政・財・官界に入るか、それができなければ、慶大の経済学部に進み経済人になるのが良いと思います。日本は、学歴、学閥社会なので、そのほうが生きやすいと思うからです。仮に私が死ぬようなことがあったら、そのときは母・睦枝を大切にしてください。

 父・良輔が冗談半分に息子の田に宛てて書いた遺書だったが、これが本物の遺書となったのである。戦争は、藤田家を悲嘆のどん底に突き落とした。藤田は、こんな中で「人間は、生まれてくるのも裸なら、死ぬのも裸だ」という厳粛な事実を認識した。このあたりに「人間・藤田田」の原体験があったのではないかと推測できる。

 父の死は藤田にとって、経済的にはきわめて厳しい高校生活を余儀なくされた。家庭教師など自分でお金を稼ぐ道を得なければならなかったからである。

■藤田のデカダンス

 藤田が「酒、煙草、女」といった青春の門をくぐるのは、このころのことだったと思われる。もともと藤田は、酒は一滴も飲めない体質で「奈良漬けを食べても酔っ払う」(藤田)ほどだった。

 父・良輔は、ひとりで2升、5人兄弟で集まると1斗酒を飲むほどの酒豪であったが、藤田は、子供のころから酒はきらいだったという。その藤田が酒を飲み始めるようになったのは、戦争という狂気の時代を生きのびる唯一の方法であったからだ。応援部の同輩に松江市在住の原田敬徳という醸造元「都の花」(当時)の跡継ぎがいた関係もあって、藤田は浴びるように酒を飲み始めた。親から受け継いだ酒豪の血が目覚めたか、1升びんをラッパ飲みし、下宿中を空瓶だらけにするほどの豪快な飲みっぷりだった。

「酒を飲むようになってからボクより酒の強い人間に会ったことはなかったですね。大酒を飲むようになってから友人と松江の遊郭に遊びに行ったことがあります。遊郭で飲んで放歌高吟していたら、外を歩いていた先生に見つけられ、寮の査問委員会にかけられ、放寮処分(寮を追い出される)になり、下宿するようになりました。それでもあの頃の旧制高校というのは先生と生徒の関係が濃密で、よく飲みに行って人生の問題などいろいろ議論したものです。ああいう全人教育というのは旧制高校のシステムがあったからこそ出来たのだと思います」

 藤田は、酒をラッパ飲みし遊郭で放歌高吟して放寮処分に遭いながら、それでいて試験の成績は、群を抜いて良かった。父の遺言に従い、東大に進むことが、藤田の精神的な支えになっていたからだ。

 1945(昭和20)年8月15日の敗戦を境に、日本は天皇中心の国家が崩壊し、民主主義社会へと大きく転換した。

■「人生はカネやでーッ!」

 戦後は混乱と不安で始まった。食糧難がこれに追い打ちをかけた。旧制松江高校の生徒たちも、自らの食べ物を確保するために奔走しなければならなかった。

 いつの世も時代の転換期には、藤田のように行動力、指導力、決断力を持った人間がその非凡な才能を発揮する。藤田は旧制松江高校の同窓会関係の人脈を使うなどして、隠岐島に渡ると、西郷町の町長と交渉し、魚を定期的に寮に入れてもらう約束を取り付けた。また、1946年の寮祭のときには、広島国税局と交渉し、煙草の特配を受けた。さらに、同じ年のインターハイのときには、県庁の隠匿(いんとく)物資となっていた木綿の反物を水泳部の六尺ふんどし用に大量に払い下げてもらった。加えて、この反物を米や魚と物々交換することで、京都のインターハイに参加していた旧制松江高校生の10日分ほどの食事を賄うという離れわざを演じた。

 すでにこの時代から、藤田には商才の萌芽(ほうが)が見られたのである。

 それは藤田が得意としていた英語、英会話が解禁になったことが関係している。

 なにしろ、文化祭やインターハイなどの催しは、すべてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可を得なければ開催できなかったので、藤田は、松江に進駐してきたGHQの本部に出かけて行っては「文化祭をやるから便宜をはかってほしい」と交渉した。その際の英会話力について藤田は、「ブロークン・イングリッシュだった」と謙遜するが、相当の英会話力であったようだ。当時、米軍キャンプのGI(米兵)といえば泣く子も黙る怖い存在で、日本人はGIを避けるようにした。しかし、英語が通じる藤田には、むしろ親しみやすく冗談の言える相手だった。GHQは多発する日本人とのトラブル解決などのために大量の日本人通訳を必要としていた。

 そういうご時世であっただけに藤田はすぐにGHQのアルバイトに採用され、高額なアルバイト料を稼ぐようになった。

 GHQは食品や嗜好品、衣料品など豊かな物資にあふれていた。それらを見るにつけて藤田は、「日本が戦争に負けたのは米国の経済力、物量によるものだ」と確信した。そして、「日本が焼け跡、闇市の悲惨な状況から立ち直るためには、一日も早く経済力を復興させることが大切だ」と考えた。

 藤田はGHQのアルバイトをすることで、左翼系学生たちと思想的に対峙していった。藤田は、「人生はカネやでーッ! これがなかったら、救国済民も何もできゃせんよ!」と、叫んだ。これは父親を亡くし、自力で生きてゆく道を見つけなければならなかった藤田の本音といえた。

(『日本マクドナルド20年のあゆみ』より加筆修正)〈③へつづく〉
参照元:藤田田物語②「人生はカネやでーッ!」左翼学生に放った言葉
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり②
中村 芳平
2019年04月10日

ニュース コラム ライフスタイル 藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
BestTimes 2019年4月17日 12:00

日本を代表する経営者たちが、むさぼり読んだとされる『ユダヤの商法』。その著者・藤田田に、誰よりも深く切り込んだのが、外食ジャーナリストの中村芳平氏だ。中村氏は1991年夏、日本マクドナルドから要請され、藤田田に2時間近くインタビューをおこない、原稿をまとめたものが「日本マクドナルド20年史」に掲載された。その藤田田物語を大幅加筆修正してお届けする第3回。■戦後日本の動向

戦後日本を支配したGHQ(連合国軍最高総司令官総司令部)の最大の目標は、「鬼畜米英」を叫ぶ日本の軍国主義を廃して、親米英的な国家につくり変えることだった。GHQは皇居お堀端の第一生命ビルに本部を置いた。最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥は1945(昭和20)年10月、5つの指令を出した。

 1、特高(特別高等警察)、治安維持法の廃止

 2、労働組合の結成奨励

 3、婦人参政権の確立

 4、学校教育の自由化(男女共学、単線型6334制の創設)

 5、経済の民主化(労働3法、農地改革、財閥解体)

 それと同時にアメリカン・デモクラシーを指導理念に、それまでの修身・日本歴史および地理教育を禁止した。国体改革(象徴天皇制、国民主権)が進められ、大日本帝国の支配体制は音をたてるように崩れ去った。東条英機ら戦争犯罪人が逮捕される一方、政治犯・思想犯が釈放された。18年間にわたって獄中にあった徳田球一が45年10月に出獄し、GHQを「解放軍」と呼んだ。英雄視され日本共産党を再建、書記長に就任した。

 戦後最初の第22回衆議院議員総選挙が46(昭和21)年4月10日に行なわれた。改選数466議席、大選挙区制。結果は日本自由党141、日本進歩党94、日本社会党93、そして戦前は非合法活動であった日本共産党が5議席を獲得した。49(昭和24)年1月23日に実施された第24回衆議院議員総選挙では中選挙区制が採用された。改選数は466議席で変わりはなかったが、民主自由党264、民主党69、日本社会党48、そして日本共産党は35議席獲得し大躍進を遂げた。

 さて、旧制北野中学校で藤田と同期だった松本善明は江田島の海軍兵学校で終戦を迎え、45年10月に同校卒業、46年4月、東大法学部を受験して合格した。海軍兵学校出身者が6人ほど合格、松本は3年間(当時旧制)彼らと多くの時間を過ごした。

 松本が東大に入学して一番勉強しようと思ったことは、「なぜ日本はアメリカと戦争したのか、なぜ日本はアジアへの侵略戦争を行なったのかを、哲学的に解明したかったからだった」という。

「最初の1年間は大学の授業によく出席して、先生方の講義をじっくり聞きました。そうしたら先生方は自分の著書を教科書にして講義しているだけだと気がつきました。それならば先生方に頼らずにとことん独力で勉強しようと思い立ちました。大学2年目からは授業には極力出ずに、毎日図書館に通い体系立てて本を読むことにしました」(松本)

 松本は軍国少年で海軍兵学校に進んだため、旧制高校生の必読書といわれた「デカンショ(デカルト、カント、ショウペンハウエル)」もヘーゲル、マルクスも読んでいなかった。戦後、日本共産党が公然と活動を開始すると、マルクス主義の入門書である『空想から科学へ』、『共産党宣言』、レーニンの『国家と革命』などは飛ぶように売れ、東大では青年共産同盟や日本共産党の活動家が幅を利かせていた。

松本はそんな中で聖書から哲学書まで1年数か月がかりで読み込み、「観念論」が誤りで、マルクス・レーニンの唱える「唯物論」が正しいと確信した。こうして48(昭和23)年9月、日本共産党に入党するのである。49年3月、東大法学部卒業。日本共産党国会議員団に勤務、同年夏、神田支部で画家で絵本作家のいわさきちひろ(1918~74 *戦後最大800万部の大ベストセラー、黒柳徹子『窓際のトットちゃん』のカバー・挿画を描いた画家)と出会い、50(昭和25)年1月に結婚した。51(昭和26)年11月、25歳のときに松本は、司法試験に合格。54(昭和29)年4月、弁護士活動を開始した。

■英語漬けの日々

 藤田は、旧制北野中学では同期となった松本善明よりも2年遅れて1948(昭和23)年4月に東大学法学部に入学した。松本のように最短距離で進学したのと異なり、小学浪人を1年経験、中学生活5年に加え、旧制松江高校で肺病により1年休学したからだ。それゆえ東大時代は藤田と松本はほとんど接点がなく、付き合いが始まったのは60(昭和35)年代に入ってからのことになる。

 藤田は「東大進学の一番の動機は授業料の安さだった」と述懐する。なぜなら、藤田は授業料も生活費も自分で稼がなければならなかったからだ。

 東京に出てまもなく、生活の糧を得るために、皇居をのぞむGHQの本部(第一生命ビル)で行なわれた通訳試験を受け、合格した。

 「初歩程度の試験だった」(藤田)というが、実際には交通事故解決のためのMP(憲兵)への通訳など、しばしば高度の英語力が要求された。米軍宿舎に泊まり込み、GIたちと直接英語で話した。英語漬けの毎日を送ることで、藤田の英会話力は、ますます上達し、半年もすると英語でものを考えられるまでになった。 藤田の1日は大学で講義を受けたあと、夜間にGHQの通訳として働いた。給料は1万1800円。48年当時の公務員の初任給が2300円だったから、藤田は、その約5倍も稼いでいたことになる。大変な東大生がいたものである。そして、藤田の交友関係は、このころから大きく広がっていった。

 藤田は、杉並区の西荻窪に下宿を借り、毎晩飲み歩いた。新宿にあった進駐軍専用の高級クラブにも通訳として出入りした。最後は西荻窪界隈の飲み屋で閉店まで飲んで、深夜下宿に帰るのが日課だった。

 そうした豪遊ぶりを見かねた西荻窪の飲み屋のママさんに、「土地でも買っておいたほうがいいんじゃないの」と、忠告を受けたこともあった。

 旧国鉄(現JR東日本)の西荻窪駅から歩いて5分くらいの住宅地が坪400円、100坪4万円で買えた時代である。藤田がその気になれば、GHQの給料4か月分で西荻窪周辺に100坪の土地を充分買うことができた。

 だが、藤田はついに1坪も買わなかった。

 また、別の機会に不動産屋から、現在、新宿コマ劇場の立つ土地200坪を坪1万円で買い取るようにすすめられたが、これも買い求めなかった。

その界隈は当時、葦の生い茂る水たまりで「坪1万円の価値があるとは、とても思えなかった」(藤田)からだ。そして今、藤田が買い損なったコマ劇場の土地は、91(平成3)年の時点では坪3000万円、200坪で60億円以上もしている。時価では、これよりもまだはるかに高いはずである。

 藤田は、「あのときに買っておけば良かったのかもしれないが、そんな先見の明などは少しもなかった」と振り返る。

■太宰治、山崎晃嗣との交流

 東大在学中に藤田は、戦後史を彩った人物たちとつき合っている。「光クラブ事件」で有名な山崎晃嗣(あきつぐ)や、流行作家の太宰治らである。

 GIスタイル、あるいは新調の背広にネクタイを締めて、藤田は、いつも東大に通った。まわりの学生たちが復員服姿で登校してきた時代に、藤田のダンディな服装は、ひときわ学内で目立った。

 旧制松江高校時代、応援団の団長をして〝蛮カラ〟の最右翼にいたころとは、180度の転換である。

 東大の法学部にはもうひとり、藤田と同じような服装で講義を受けにくる人間がいた。それが、学生金融「光クラブ事件」で有名になった山崎晃嗣であった。

「東大は天下の秀才、異才、奇才が集まってくると考えていたけれど、本当に話して面白かったのは山崎くらいしかいなかったですね。計算の早い男で8ケタ×8ケタは暗算でパット答えが出せるといっていました。それに女にモテて8人は愛人がいるといっていましたね。実際に計算したのを見たわけではないし、愛人8人がいるのも見たわけではないですが……。話していて頭がいいなと思ったのは、頭が整理されていて次、次、次というように論理立てて話すところでした」(藤田)

 山崎は、東大開校以来の秀才といわれた若槻礼次郎(元首相)の再来と騒がれた〝奇才〟であった。

 学徒出陣組で、終戦を北海道旭川市で迎えた。陸軍主計少尉で東大に復学。1948年9月、学生仲間と金融会社「光クラブ」を設立した。月1割3分の配当で投資家を募り、月3割に近い高利、すなわち10日で1割の利息を取る〝トイチ金融〟でおもしろいように儲けた。藤田は何事にも好奇心が強く、学徒出陣組の山崎の心情には強く共感を覚えた。一説には藤田は光クラブに融資していたと言われる。

 山崎は自著『私は偽悪者』で、「人間の性は、本来傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である故(ゆえ)、私は人間を根本的に信用しない」と書き、「国家も女も信用するな」と述べている。

 これは筆者が藤田から聞いたことだが、山崎が資金的に行き詰まり、にっちもさっちも行かなくなったとき、国際法にいう「事情変更の原則」、すなわちまわりの状況が変われば主張を変えても良いという原則を持ち出して、山崎に「自殺する手がある」とほのめかしたという。筆者は山崎が国際法にいう「事情変更の原則」を持ち出して、1949(昭和24)年11月25日、光クラブ(銀座證券保証株式会社)の社長室で青酸カリによる服毒自殺を遂げたのは、藤田のアドバイスだったのではないかと思っている。

 社長室の机の上には、「高利貸冷たいものと危機しかど死体にさわれば……氷カシ」、「貸借法すべて清算カリ自殺」などの遺書と手記が遺されていた。

 山崎はまだ、東大法学部3年生、27歳の若さだった。その生き方のデカダンス、頽廃(たいはい)的な傾向からアプレ・ゲールの犯罪、略して〝アプレ犯罪〟と呼ばれた。

「山崎は頭が良すぎて、先が見えすぎて、思い詰めて死んじゃったところがありますね。ちょうど医者が病気になると病気の末路を知っていて悲観し、普通の人より早く死んでしまうのと同じことです。人間というのはある程度バカな方がハッピーなのかもしれませんね」(藤田)

 このころ、藤田は「作家の太宰治とも三鷹でよく飲んだ」という。軟弱という理由で藤田は、太宰の文学をきらった。経済を復興させるような元気な文章を書いて欲しいと願っていたという。

 それでも藤田には良い飲み相手だったようで、三鷹駅前の屋台で飲んで、酔っぱらって太宰の三鷹の家にも行ったという。

 太宰は、山崎が自殺する前年の48(昭和23)年6月13日に愛人の山崎富栄と玉川上水に飛び込んで心中したといわれる。

 藤田は、たまたま太宰が自殺する直前まで、三鷹の酒場で飲んでいた。

「とにかく、あの日は雨がザンザン降りの上に、太宰はカストリ焼酎で酔っていた。そこへ女性が傘をさして迎えに来たんです。それで二人で帰っていったんですが、太宰は下駄履きで足元がフラフラでした。『危ないから気をつけなよ』といって別れたほどです。あの状況からいって、私は、太宰は自殺したのではなく、玉川上水の狭い道で足を滑らせて、あの災難に遭(あ)ったんだろうと思っています」(藤田)

 太宰と愛人の山崎の死体が玉川上水の下流で見つかったのは、同年6月19日のことだった。二人は赤い紐(ひも)で結ばれていたといわれる。その後も報道は過熱し、愛人の山崎の遺書なども出てきて、太宰の死は心中だったといわれるようになった。

 筆者が藤田にインタビューした91(平成3)年には、太宰が心中してからすでに43年経っていた。

「当時、太宰はカストリ焼酎を飲むと、ゴホンゴホンと咳(せき)をしてコップに半分くらいの血を吐いていました。結核は相当進んでいて、太宰にはいつ死んでもいいという絶望感があったんだと思います。今から思うとそういうストーリーの中で死んだのだと思いますね」

 藤田は東大法学部の1~2年生の頃、GHQの通訳の高給取りとして築地に好物の寿司を食いに行ったり、毎晩飲み歩いていた。

 光クラブの山崎やデカダンス(フランス語で退廃、衰退の意味)の作家・太宰と親しくつき合ったのは、藤田自身の中に当時、彼らの生き方に共感する虚無的な心情があったからかもしれない。

■世界を相手に商売する気概

 藤田は東大法学部時代、日本の経済力を復興させるために、保守陣営から金を引き出し、「東大自治擁護連盟」を作り、戦後の混乱に乗じて勢力を急拡大していた共産党と戦った。東大では共産党指導者の徳田球一とやり合ったこともあった。徳田が「GHQの回し者」といえば、藤田は「マルキストの売国奴」とやり返した。藤田と共に共産党と戦った仲間には、高丘李昭(西友会長、日本チェーンストア協会会長)、熊平肇(熊平金庫社長・広島ロータリークラブ会長)、渥美俊一(日本ペガサスクラブチーフコンサルタント)がいた。

 藤田には、東大を出て外交官になるという夢があった。しかし、GHQの通訳のアルバイトに精を出しているうちに、ユダヤ人の生き方に強く惹かれ始めた。というのも、ユダヤ人はGHQでは〝ジュウ〟(Jew)と吐き捨てるように呼び捨てにされながら、しかも兵隊の位は下士官や一兵卒クラスと低いのに、将校以上に優雅で贅沢な生活をしていたからだ。藤田が親しくなったウイルキンソン軍曹は、軍から支給される給料の他にサイドビジネスに金貸し業務を行ない、大儲けしていた。

 ユダヤ人は実にたくましかった。敗戦の混乱と騒乱がうち続く中で、既存の権威や秩序、法律などあらゆる価値体系が崩壊し、生きていく精神的支柱が何もなくなっていくのに、ひとりユダヤ人だけはバイタリティにあふれていた。ユダヤ人は藤田がいう「金がなかったら何もできゃしないよ!」ということばをそのまま実践していた。時代が変わろうと、価値体系が崩壊しようと、最後に勝つのは金を持っている人間だということを、ユダヤ人は5000年以上におよぶ民族の盛衰・興亡の歴史の中で、身をもって学んでいた。それは、生きる方向を見失っていた藤田にとって、まさに新鮮な驚きであった。

 一方、ユダヤ人は2か国語以上をあやつる〝語学の天才〟でもあった。藤田は、子どものころから、父・良輔に「2か国語以上はマスターしなさい。将来は世界を相手に商売する気概を持つのだ」といわれて育った。とはいえ日本人で日本語に加え、英語・ドイツ語など外国語2か国語以上マスターしている人など、めったにいなかった。

 藤田は2か国語以上あやつり、世界を相手に商売する理想像をユダヤ人の中に発見したのである。ユダヤ人は、藤田に金儲けのコツを教えた。しかし、ユダヤ人から見た藤田にはひとつの欠点があった。それは、藤田の懐疑主義である。

 ユダヤ人は「他人を信じずに、自分ひとりを信じようとする態度は悪くはないが、それが高じて他人のいうことをすべて疑ってかかることは、行動のエネルギーをそぎ、最後は無気力に陥ってしまうだけだ。それでは金儲けなど100年経ってもできない」と、藤田をさとした。藤田には思い当たるふしがあった。

 藤田は、口では「人生はカネやでーッ!」といいながら、一方では日本の最高学府「東大法学部」卒の肩書きで、エリートコースを歩いてゆきたいという欲望があった。「できれば、外交官として世界に雄飛したい」という希望も捨てがたかった。そうすると、どうしても今の自分を〝仮の姿〟とみなしてしまい、金儲けに情熱を傾けることができなくなってしまう。そこに東大出の最大の弱点があるのだが、ユダヤ人は「藤田のそんなエリート根性には一銭の値打ちもない」と斬り捨てた。

 こんな時期を経て藤田は、ユダヤ商法を見習うことになった。GHQのユダヤ人と組んで通訳の他にサイドビジネスを始めた。これがのちに、ハンドバッグやアクセサリーなどの高級雑貨を輸入販売する「藤田商店」へと結実していく。

 この時代に藤田は、神田駅前で大道商い、すなわち露店商を経験している。真鍮(しん ちゅう)の指輪やアクセサリーなどを扱った。「物品を販売する以上、客が何を欲しがるのかを、自分の目で確かめたかった」からである。東大2年生のとき藤田は、GHQにいたユダヤ人の取り計らいで、過分な外貨割当てを受け取り、彼らの貿易チャネルに乗って、単身ヨーロッパに渡った。そこで高級アクセサリーなどを買い付けて帰国し、輸入販売業務をスタートさせた。

 さて、はじめのほうでも触れたが、藤田が清水の舞台から飛び降りるような一大決心をして月々5万円の定期預金を開始したのが、1949(昭和24)年頃のことだ。この時期に藤田は準備を始め、50年(昭和25)4月、輸入販売の「藤田商店」を設立した。

 同年6月には朝鮮戦争が勃発した。GHQで通訳の仕事をしていた藤田はこの情報を誰よりも早くつかんでいた。

 最高司令官マッカーサーは「日本を反共の防波堤にする」と、これまでの占領政策を転換。同年7月、警察予備隊7万5000人を創設、海上保安庁8000人増員指令を出した。日本は再び事実上の軍隊を復活させたのである。

 日本は朝鮮特需による好景気に沸き、戦後の経済復興を軌道に乗せようとしていた。

 このような激動の時代に藤田は、100万円を目標に貯金を始めた。毎月定期的に5万円貯金することで、人生に対して何かふっきれていくものを感じたという。それは、東大法学部卒の〝権威〟とか、外交官になる〝夢〟とか、無気力の世界へと導く〝懐疑主義〟とか──そういった虚妄の世界とはまったく異なる堅実で確実な真実の世界であった。藤田は新しい実業の世界へ「心眼」が開けてゆくのを感じた。

 藤田は1年8か月で「目標の100万円」を貯めた。これを機に藤田は、GHQの通訳の仕事を足掛け2年半経った、50年12月頃にはやめた。そして、学生実業家の道を志すことにした。一応腕試しのために官僚の最難関とされる大蔵省(現・財務省)の試験を受験、合格したが官僚になる気はさらさらなかった。

 藤田は、51(昭和26)年3月、東大法学部政治学科を卒業すると、迷わず藤田商店の仕事に取り組んだ。東大法学部卒としては、まさに〝裸一貫〟、ゼロからのスタートであった。

 このような当時の事情を勘案すれば、藤田がなぜ毎月5万円の定期預金をスタートし、唯一の拠り所としたのか、容易に理解できるだろう。

 藤田は、自著『ユダヤの商法』で、ユダヤ人は徹底した現金主義で、銀行預金さえ信用しないと記している。一方で、ユダヤ人の蓄財法を紹介している。

 〈ふくれた財布がすばらしいとはいえない。しかしカラの財布は最悪だ〉 〈金銭は機会を提供する〉

 藤田は毎月5万円の定期貯金を続けることで、世界を相手にする「銀座のユダヤ商人」に脱皮する覚悟だった。

■北野中学同期の藤田田と後輩の手塚治虫

 東大法学部の2年生のとき、日本共産党に入党した松本善明が広く知られるようになったのは、61(昭和36)年に日本共産党衆議院選挙予定候補として、次の選挙に東京4区(中選挙区、渋谷区、中野区、杉並区)から立候補することが決まってからだ。松本は、松川事件・メーデー事件の弁護団などに加わっていたが、62(昭和37)年5月、松本善明法律事務所を設立、独立した。63(昭和38)年11月、初立候補した。

 その一方で、私は自らの人脈を活かして、立候補の挨拶を精力的に行いました。とりわけ北野中学の友人には力を入れて訴えかけました。(中略)

 戦後一五年が経過し、北野中学の同級生は各分野で活躍していました。新進経営者として大成功していたのは藤田田氏(後に日本マクドナルド社長)でした。大学も同じだった彼に面会を求めて、立候補の挨拶をしてカンパをお願いすると快く五〇万という大金を出してくれたのには驚きました。後日、「共産党が政権を取ったときの保険金」としてカンパしたのだという主旨を自著(※『ユダヤの商法』)に書き記しています。(中略)

北野中学の二年後輩である手塚治虫さんにもすぐ挨拶に行きました。手塚さんはあまりにも著名でしたが、初対面の私と意気投合して迷わず巨額のカンパを出してくれました。手塚さんは一度のカンパだけではなく、その後一貫して私と共産党を親身になって応援してくれたのです。妻ちひろの仕事を高く評価してくれていたことも無関係ではなかったかもしれません。 (『軍国少年がなぜコミュニストになったのか』松本善明)

 これをきっかけに藤田は法律の解釈や訴訟問題で、松本に相談するようになった。また、藤田の妻、悦子も、いわさきちひろの絵のファンで、家族ぐるみの交流に発展した。

 松本は初の総選挙では落選したが、捲土重来を期し、67(昭和42)年1月の総選挙で東京4区から再出馬、初当選した(以来11期33年間の国会議員生活を送り、2003年に政界引退)。藤田は松本の当選祝賀会に招待され、反共側の支援者として次のような挨拶をした。

 (中略)日本へ無愛想な顔をして、日本がソ連(現・ロシア)の方へ傾いたらそれこそ大変だからであります。そのアメリカの甘い顔がもたらす甘い汁を、たんまりといただくのが私の商売であります。日本が駄々をこねればこねるほど、アメリカは日本を大切にしてくれます。

 つまり、日本という体の中に、共産党というバイ菌がいて、それが暴れれば暴れるほど、アメリカという医者は日本へ良薬を与えてくれるのであります。

 その駄々をこねる役割り、バイ菌の役割り、私は、日本の共産党にそれを期待しているのであります。

 わたしが選挙資金を一部融通したのは、ソロバンづくでの私の商売にほかならないのであります。

 松本君は当選し、みごとにバイ菌の一つとして培養されました。私の投資は成功したのであります。

(藤田 田『ユダヤの商法』1972年5月初版より)

 藤田には偽悪家のところがあり、どこまで本音で話しているのか分からないことがあるが、はっきり言えるのは友情を大切にし、義理と人情に厚いことだ。

(『日本マクドナルド20年のあゆみ』より加筆修正)〈④へつづく〉 ④は4月24日(水)12時に配信予定です。
参照元:ニュース コラム ライフスタイル 藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
BestTimes 2019年4月17日 12:00








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ジョーティッシュ対面コンサルテーション【名古屋】

2019年6月14日(金)11:00~20:00の日程で、インド占星術・対面コンサルテーションをイベント特別料金で行ないます。


平日の日中ですので、予定が空いている方は多くはないかもしれませんが、宜しければ、この機会にお越し下さい。




イベント名

ジョーティッシュ対面鑑定【名古屋】



※対面鑑定枠で、個人レッスンを受講することも可能です。





日時

2019年6月14日(金)10:00~18:00





会場

JR名古屋駅近くのホテル内カフェもしくはレンタルスペース


※申し込み状況により、レンタルスペースか、ホテル内カフェか、どちらかに決まります。


※申し込みされた方に別途、ご案内します。


※ホテル内カフェの場合、別途、ご自分の喫茶代がかかります。







料金



【2019年5月12日迄のお申込み】

ジョーティッシュ対面コンサルテーション: 9,000円(60分)※イベント特別料金

※2枠予約される場合、間の10分も含めた130分コースとなります。




【2019年5月13日以降のお申込み】

ジョーティッシュ対面コンサルテーション: 12,000円(60分)※イベント特別料金

※2枠予約される場合、間の10分も含めた130分コースとなります。




※予約枠を設定しているため、料金は事前振込みとさせて頂きます。

※個人レッスンの方は、2枠となるため、入れ替え時間の10分も含めて、実質130分のレッスンとなります。

※万一、会場の問題等で鑑定が実施出来なくなった場合、全額返金いたします。




鑑定師及び講師

秀吉








申込み締切

6月4日

※期日になりましたので募集を終了しました。





予約について

①お名前(ローマ字+ひらがな)
②出生年月日と出生時間(母子手帳記載、母親の記録等、24時間表記)
③出生場所(○○県○○市ぐらいまでのデータ)
④希望日と時間(枠番号)
⑤希望内容(対面鑑定 or 個人レッスン)

<⑤で対面鑑定を選択された方は以下もお願いします>
⑥過去の出来事と日付 (過去に起こった重大な出来事と日付(3~5つ程度))
⑦依頼内容 (簡潔にお願いします。事前に思いつかなければ当日でも構いません。)

上記のデータを添えて、address_hkまでお申込み下さい。


件名は「対面コンサルテーション 名古屋」でお願いします。



尚、以下のフォームからも申し込みできます。(※個人レッスンご希望の方は、依頼内容の欄に「個人レッスン希望」とご記入下さい。)


対面鑑定申込みフォーム





予約状況は以下の表で確認できます。↓



名古屋鑑定2019 予約表

開催日枠番号予約時間予約状況備考
6月14日(金)111:00~12:00予約済み
212:10~13:10予約済み
313:20~14:20予約済み
414:30~15:30予約済み
515:40~16:40予約済み
616:50~17:50予約済み
718:00~19:00予約済み
819:10~20:10予約済み
920:20~21:20
予備21:30~22:30





メッセージ

大阪では何度かイベントを行ないましたが、名古屋では初めて行います。


東京だと遠方過ぎてサービスを受けられなかったという方、宜しければ是非、この機会にお越し下さい。


皆様のお申し込みをお待ちしております。




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息子を刺した元農水次官について考察する - 欲望が満たされない苦しみから更に否定的なカルマを積み増す -



一昨日、元農水事務次官であった熊沢英昭氏が息子を刺し殺すというショッキングな事件が報じられている。


元農水次官、自宅で長男刺す 東京・練馬、容疑で逮捕 搬送先で死亡
株式会社 産経デジタル 2019/06/01 21:25

1日午後3時40分ごろ、東京都練馬区早宮の民家から「息子を刺し殺した」と110番通報があった。駆け付けた警察官が血を流している男性を発見。警視庁練馬署は殺人未遂容疑で、この家に住む元農林水産省事務次官で無職、熊沢英昭容疑者(76)を現行犯逮捕した。調べに「長男を刺したことは間違いない」と容疑を認めている。

 同署によると、男性は熊沢容疑者の長男で無職、英一郎さん(44)。搬送先の病院で死亡が確認された。同署は容疑を殺人に切り替え、トラブルの有無などを調べている。

 逮捕容疑は1日午後3時半ごろ、自宅で英一郎さんの胸など複数箇所を包丁で刺すなどし、殺害しようとしたとしている。

 熊沢容疑者は岐阜県出身で東大卒。昭和42年に農林省(現農水省)に入り、経済局長などを経て平成13年に事務次官に就任したが、牛海綿状脳症(BSE)問題の責任を問われる形で14年に退官した。その後、駐チェコ大使を務めた。

 現場は東京メトロ有楽町線平和台駅の南約650メートルの閑静な住宅街。熊沢容疑者は妻と英一郎さんの3人暮らしで、近所の男性(86)は妻と出掛ける姿をよく見掛けたといい、「10年ほど前に引っ越してきたと思うが、息子の姿は見たことがない」と驚いていた。


熊沢英昭氏のチャートを作成すると、00:00:01で作成しても23:59:59で作成しても月は天秤座であるため、チャンドララグナを天秤座に設定して、チャートを吟味することができる。




天秤座から見ると、5室(息子)支配の土星は8室(深い精神的苦悩)でラグナロードの金星とコンジャンクトし、火星からアスペクトされている。


また子供運を見る場合、木星をラグナとして見るが、木星からみた5室支配の金星が12室で、8室支配の土星とコンジャンクトし、6、11室支配の火星からアスペクトされている。


5室には火星が在住し、土星と相互アスペクトして2つの凶星の絡みが見られ、月ラグナから見ても、木星から見ても5室の支配星は、ドゥシュタナハウスに在住し、凶星からのアスペクトを受けている。


ラグナロードの金星が5室支配の土星と共に8室でコンジャンクトする配置は、息子と一心同体で離れられず、苦悩しており、それが人生のテーマであることを物語っている。


また木星から見た5室の支配星が12室に在住し、8室支配の土星と6室支配の火星と絡んでいる配置からは、息子が世間から隔離されていて隠されている配置である。




熊沢英昭氏の自宅



記事によれば、近所の男性(86)は妻と出掛ける姿をよく見掛けたといい、「10年ほど前に引っ越してきたと思うが、息子の姿は見たことがない」と驚いていたという。


この息子は、ドラクエなどのゲームを自宅でずっと行っているようなニートだったようである。


またtwitterで父親のキャリアを自慢げに語る投稿なども見られる。



月から見て11室支配で7室で高揚する太陽は、9室支配の水星とコンジャクトして、9-11のダナヨーガを7室で形成しているが、この配置は、国家公務員としての輝かしいキャリアを表わしている。


月から見た5室支配の土星や木星から見た5室支配の金星は、それらの水星や太陽とはほとんど絡んでいない。


但し、水星はバラニーに在住しており、支配星の金星が5室支配の土星と共に8室に在住している為、仕事にもこの絡みが影響したかもしれない。


例えば、これは、牛海綿状脳症(BSE)問題の責任を問われる形で14年に退官しているが、そうしたキャリア上の問題につながったと考えられる。


何故なら牡牛座に在住する金星と土星の絡みは、まさに牛肉の問題を表わすからである。



牛海綿状脳症(BSE)問題と、息子のニート問題というのは、熊沢英昭氏のチャートにおいて、同じ金星と土星の絡みが表すカルマとして現れている。


ダシャーが土星や金星、火星、月、ケートゥのダシャーの時には常にこの息子の問題が影響したと考えられる。


息子を表わす5室とは、前世の功徳を表わすハウスであるが、前世の不徳の表れとしての5室の苦悩を息子を殺害することで終わらせたということである。


8室や12室などのモクシャ(解脱)ハウスは、困難な人生を通して、カルマ(因縁)を解消するハウスである。


その不幸な状況自体が、浄化のプロセスなのである。


従って、家でゲームしか出来ず、職に就いてまともな社会生活を送れない息子と一心同体で、その息子から逃れられず、面倒を見続けるという人生こそが、浄化のプロセスなのだと考えられる。



但し、このモクシャハウス(解脱:4、8、12室)にトリシャダヤハウス(欲望、怒り、貪り:3、6、11室)が絡んでくる場合、欲望の苦しみ(欲望がかなえられない苦しみ)が更なるカルマを積み増してしまう絡みである。



この金星と土星の絡みには、火星がアスペクトしており、火星は6室の表示体である為、トリシャダヤハウスの絡みであると考えることが出来る。


また木星から見た場合でも5室支配の金星が8室支配の土星と12室でコンジャンクトした状態で、6、11室支配のトリシャダヤハウスを支配する火星がアスペクトしている。



従って、熊沢英昭氏は、息子の面倒を見ることで、モクシャの人生を歩んで来ていたのだが、ここに来て、更なるカルマを積み増したと考えられる。


そこには息子が自分の理想通りにまともな社会人として適応してくれないことに対する絶望や悲嘆があったかもしれない。


あるいは、このまま自分たち両親が年老いて亡くなっていく場合にこの息子は一人で生きていくことが出来ない。


それならば親である自分が息子を殺すしかないとの絶望に近い結論、あるいは、閉ざされた思考、早急な決断などがあったと思われる。


ネット上の意見を見ていると、「自分が老いて死んでいく場合に息子は一人で生きていけないので息子を殺したのではないか」といった分析をしている方がいるようである。



息子の人生を完全に支配している自分が死んでいく場合に自分が面倒を見れないなら息子は生きていけないので殺すしかないという発想は、社会が息子の面倒を見てくれるという可能性を全く考えておらず、息子自身が何とか自分で生きていく可能性も一切、考えにない。


絶望に近い閉ざされた思考である。



トリシャダヤハウスの3室は食欲、性欲、睡眠欲などの低次の肉体的欲求を意味しており、6室は怒りのハウスであるというが、これは主に人間関係の欲望である。

人は相手が自分の期待通りに振る舞ってくれないと怒るのである。人間関係に伴う感情が絡む欲望である。



11室は貪りのハウスであるが、自分が既に十分に持っているのに更に欲しがる欲望である。


例えば、富を持っているのに更に富を欲しがる、名誉を持っているのに更により高位の肩書きや称号を欲しがるといった欲望である。


11室は、競争心を剥き出しにして成功を追い求めるのであり、その過程で、全く弱者などに対する思いやりや同情といったものは完全に無視される。



これらの3、6、11室を支配する惑星が機能的凶星となるのは、これらの欲望(欲望、怒り、貪り)は、決して満たされることがないからである。


だから、これらのハウスの支配星の時期には苦しみが生じるのである。


仏陀が苦しみがあるのは欲望があるからで欲望を捨てれば苦しみはなくなるといったのは、そういうことである。


欲望は決して満たされることがないため、欲望があると苦しみが生じる。



熊沢英昭氏の場合、息子の面倒を見ることで、モクシャの人生を歩んで来たのだが、やはり、自分の期待通りにまともな社会人として適応してくれないことに対する絶望や怒りがあったと思われる。


近所の男性が、「10年ほど前に引っ越してきたと思うが、息子の姿は見たことがない」と語っているのは、ある意味、息子のことを部屋に隔離して、人に見せないようにして来たとも言えるのである。


息子がニートで社会参加できないことをあってはならないこと、恥ずかしいこと、世間に隠さなければならないことと考えて来たかもしれない。


それは現状のありのままの息子、その息子がいることの社会の評価というものを受け入れられない、認めることが出来ないことを意味しており、私の息子は、こうでなければならないとする理想の息子像を追い求める欲求である。


そして、それが満たされないため、苦悩が生じるのである。




息子に受験勉強を強いる親などにもよく現れる欲望で、理想の息子像を追い求める欲求は、実は、息子を通して、自分の名誉欲を満たし、世間からの評価を得たいという自己中心的な欲求なのである。



そうした名誉欲、世間体を追い求める欲望が満たされない時、大きな挫折感につながり、理想通りに振る舞わない人物(息子)への怒りや暴力となって現れるのである。






現在、トランジットの土星が射手座で逆行し、木星は蠍座で逆行しているが、木星と土星のダブルトランジットが、この熊沢英昭氏の8室に在住して火星からアスペクトを受ける5室の支配星に生じている。



従って、息子と一心同体で離れられない束縛の中で、理想の息子と食い違っている現状の息子に対する絶望、怒りが噴出したと思われる。



8室は深い精神的苦悩のハウスである為、息子と鎖でつながれた密着した束縛の中でのどうしようもない行き詰まり感、絶望感の中での犯行である。


(この文章を書いている途中で、その後、息子が日常的に家庭内で暴力を振るっていたことや、息子が近所の「小学校の運動会の音がうるさい」と言うのを注意し、関係者に迷惑をかけたくないから殺害したといった事実関係が出てきているが本質的には変わらないと思われる)




然し、その犯行によって更なるカルマを積み増した時、そこにはやはり、トリシャダヤハウスの欲望が関係していたのである。



ラグナロードが5室の支配星と共に8室に在住し、6室の表示体としての火星からアスペクトされる配置、そして、木星から見た5室の支配星が8室の支配星と共に12室に在住し、6、11室支配の火星がアスペクトしている配置の中に現れており、犯行には特に火星が大きな役割を果たしたと考えられる。



8室や12室などのモクシャハウスが強調されている人は、束縛や損失、隠遁的な不幸で困難な状況を通して、カルマの解消(浄化、解脱)を行なっている場合が多いと思われるが、その際にいかにトリシャダヤハウスの関与を抑えて、更なるカルマを積み増すことを避けることが出来るかがポイントである。



しばしば聖者のホロスコープには通常の一般人に適用されるような占星術の法則が働かないと言われているが、私の考えでは、それは、聖者のホロスコープの場合、欲望がないため、3、6、11室の欲望のハウスが、通常の一般人のように凶意をもたらさないからではないかと考えている。



長い人生経験と苦闘の末に聖者は、食欲、性欲、睡眠欲に振り回されず、他人に対する期待とそれが満たされないことから来る怒りからも自由である。


そして、世間体や評価や名誉を求める欲求、成功への甘い誘惑とそれを追求して得られなかった場合の落胆、成功を掴んだ場合のそれに対する執着や束縛といったものも味わい尽くして、それらからも自由になった聖者にとって、トリシャダヤハウスの3、6、11室が、敏感な中立ハウスである8、12室に絡んで、8、12室がドゥシュタナハウスとしての最悪の機能的凶星として働くといったパラシャラが規定する法則からも自由なのではないかと思われる。



それで、聖者は欲望の苦しみからカルマを積み増すことはなく、カルマを全て焼却して、浄化し尽くした為に聖者になったのである。



従って、3、6、11室のトリシャダヤハウスとしての働きを弱めるために瞑想や奉仕などの霊的実践を行なう必要があると言える。



そうすれば、欲望が満たされない苦しみの為に更にカルマを積み増すという悪いサイクルから逃れられると考えられる。



(参考:2010/11/10 開運のための理論-『バガヴァッドギータの世界』より-)




(参考資料)



元農水次官「迷惑かけたくないと思った」 長男殺害容疑
2019年6月2日20時16分 朝日新聞DIGITAL

元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者(76)が東京都練馬区の自宅で長男(44)を殺害したとされる事件で、熊沢容疑者が警視庁の調べに対し、「長男は引きこもりがちで、家庭内で暴力を振るうこともあった」という趣旨の供述をしていることが同庁への取材でわかった。「周囲に迷惑をかけたくないと思った」とも話しているという。

事件前には「小学校の運動会の音がうるさい」と言う長男を注意した、と説明していることも判明。当日は朝から隣接する区立小で運動会が開かれていた。同庁は事件に至る経緯を詳しく調べている。

 練馬署によると、熊沢容疑者は1日午後3時半ごろ、自宅で長男の無職英一郎さんの胸などを包丁で複数回刺したとして、殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。英一郎さんは搬送先の病院で死亡が確認された。一家はこの2人と熊沢容疑者の妻の3人暮らし。妻は当時不在だったという。

 近所の住民たちは「息子さんがいるなんて知らなかった」と口をそろえた。女性の一人は「数年前に熊沢容疑者の奥さんと会ったとき、『娘を迎えに行く』と言っていた。娘さんがいて、今は夫婦2人暮らしだと思っていた」と話した。
参照元:元農水次官「迷惑かけたくないと思った」 長男殺害容疑
2019年6月2日20時16分 朝日新聞DIGITAL

元農水事務次官が刺殺した“引きこもり長男”の目を疑うツイート
2019/6/2 まぐまぐ編集部 MAG2NEWS

1日午後3時半ごろ、東京・練馬区早宮4丁目の住宅から、元農林水産相事務次官の熊澤英昭容疑者(76)が「息子を刺した」と警視庁に通報した。警官が駆けつけたところ、1階の和室の布団の上で、長男の無職・熊澤英一郎さん(44)が包丁で胸など複数箇所を刺されてあおむけの状態で倒れており、その後、搬送先の病院で死亡した。警察は、容疑を殺人に切り替えて、逮捕した熊澤英昭容疑者から詳しい経緯について聴取している。また、その後の調べで、事件の直前、隣の小学校の運動会の音がうるさいと腹を立てていた長男を父親がたしなめたことで口論になったと判明。週刊文春オンラインなどによると事件当日、隣の小学校では運動会が催されていたという。

新聞やテレビの報道によると、長男は家庭内で日常的に暴力をふるっていたという。熊澤容疑者は、家族に対して「身の危険を感じる」などと話すこともあったという。

また、NHKが報じたところによると、捜査関係者からの話として、長男は以前、都内の別の場所に住んでいたが、ごみ出しなどをめぐって近隣住民とトラブルになっていたという。その後、長男は実家に戻り、両親と同居していたとしている。同居後は引きこもりがちだったが、数カ月に一回程度、父親である熊澤容疑者と同じ理髪店で散髪をしていたという。長男は同理髪店に昨年から訪れていないことも判明している。

農林水産省元事務次官の熊澤容疑者は、東京大学法学部を卒業後、昭和42年(1967)に旧農林省に入り、畜産局長や経済局長を経て平成13年(2001)から14年(2002)まで事務方トップの事務次官を務めていたエリート。BSE(牛海綿状脳症)問題の対応にあたり、責任をとる形で、2002年1月に辞任した。また、平成17年(2005)から20年(2008)までチェコ大使も務めていたという。

調べに対し、「長男を包丁で刺したことは間違いない」と供述しているという。熊澤容疑者は妻と長男と3人暮らし。

事件翌日の現場を独自取材

MAG2 NEWSは、事件翌日の現場を独自に取材。朝6時すぎの現場付近は、住宅と住宅の間に畑が広がるのどかな雰囲気で、周辺では「野焼き」のような焦げ臭い匂いが漂い、静けさに包まれていた。

時折、近所を散歩する住民が規制線の貼られている理由を警察に尋ね、事件があったことを初めて知り驚く様子なども見られた。

近所に住む男性は「とても真面目な人だった、まさかあんな事件を起こすとは」と大変驚いた様子で警察官に話しかけていた。現場は、朝6時過ぎから週刊誌の記者やテレビ局などのマスコミ関係者が住民にコメントを求める光景、警察関係者などが出入りする様子などが見られた。

殺害された長男のTwitterアカウントが特定される

ネットなどでは、「殺害された英一郎さんはネットゲーム界で有名だった」などの情報も飛び交い、長男と思われるTwitterアカウントとなども特定されている。本名も公表していたSNSによると、オンラインゲームの「ドラゴンクエスト」を連日プレイしていたことがわかっている。

最後にツイートしたのは、殺害される数時間前と見られているが、ネット上ではこの投稿について「意味深だ」「誰も一人では生きられない、とは皮肉だな」などのコメントが投稿されている。また、過去には、両親に対して恨みを抱いていたとも取れる「愚母を殺したい」などのツイートを複数回投稿していた。

長男は無職で、近所の人にもその存在が知られていなかったことから「引きこもり」だったと見られ、熊澤容疑者が「引きこもり」の長男から家庭内暴力を受けていたことも殺害の背景にあるとみて捜査しているという。
参照元:元農水事務次官が刺殺した“引きこもり長男”の目を疑うツイート
2019/6/2 まぐまぐ編集部 MAG2NEWS

「長男が家庭内暴力」 逮捕の元農水事務次官
2019.6.2 14:48 産経新聞

東京都練馬区早宮の自宅で長男の胸などを包丁で刺したとして、元農林水産省事務次官の無職、熊沢英昭容疑者(76)が警視庁練馬署に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された事件で、熊沢容疑者が死亡した長男の英一郎さん(44)について「家庭内暴力があった」と供述していることが2日、捜査関係者への取材で分かった。同署は事件直前に2人の間で何らかのトラブルがあったとみて、詳しい経緯を調べている。

 関係者によると、英一郎さんは事件当日、近所の小学校で行われていた運動会の音に文句を言って、熊沢容疑者と口論になっていたとされる。熊沢容疑者は「周囲に迷惑をかけるといけないと思った」との趣旨の供述もしており、同署は事件との関係を調べる。

 同署によると、英一郎さんは室内の布団の上にあおむけの状態で倒れており、布団には大量の血痕が付着していた。周囲に引きずったような痕はなく、同署は熊沢容疑者が布団の上で英一郎さんを刺したとみて、容疑を殺人に切り替えて捜査している。

 熊沢容疑者は妻と英一郎さんとの3人暮らしで、事件当時妻は不在だった。調べに「息子は引きこもりがちだった」などと話しているという。

 英一郎さんのものとみられるツイッターのアカウントには、オンラインゲームに関する書き込みが連日のように投稿され、元事務次官の息子であることを示す内容もあった。
参照元:「長男が家庭内暴力」 逮捕の元農水事務次官
2019.6.2 14:48 産経新聞

死亡長男、傷は十数カ所 元農水次官強い殺意か
2019.6.3 08:51 産経新聞

自宅で長男を包丁で刺したとして殺人未遂の疑いで元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者(76)=東京都練馬区=が逮捕された事件で、死亡した長男の無職、英一郎さん(44)の遺体の傷が十数カ所に上ることが3日、捜査関係者への取材で分かった。

 傷は胸や腹など上半身に集中していた。警視庁練馬署は、強い殺意があったとみて当時の状況や動機を調べている。練馬署は同日、熊沢容疑者を送検した。

 捜査関係者によると、熊沢容疑者は「(英一郎さんが)引きこもりがちで家庭内暴力もあった」と説明。「周囲に迷惑を掛けるといけないと思った」との趣旨の供述もしている。練馬署は、長年にわたり家族間にトラブルがあったとみている。
参照元:死亡長男、傷は十数カ所 元農水次官強い殺意か
2019.6.3 08:51 産経新聞

元農水次官の長男、傷は十数カ所 上半身に集中、強い殺意か
2019年6月3日 8時46分 秋田魁新報社

 自宅で長男を包丁で刺したとして殺人未遂の疑いで元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者(76)=東京都練馬区=が逮捕された事件で、死亡した長男英一郎さん(44)の傷が十数カ所に上ることが3日、捜査関係者への取材で分かった。胸や腹など上半身に集中していたほか、自宅で殺意をほのめかすメモも見つかり、警視庁練馬署は強い殺意があったとみて当時の状況や動機を捜査。熊沢容疑者を同日送検した。

 捜査関係者によると、英一郎さんは10年以上前から都内の別の場所に住んでいたが、本人の希望で5月下旬から実家に戻っていた。別居中にはごみ出しを巡り近隣住民ともめることもあったという。
参照元:元農水次官の長男、傷は十数カ所 上半身に集中、強い殺意か
2019年6月3日 8時46分 秋田魁新報社

逮捕の元事務次官の男「身の危険を感じる」
2019年6月2日 19時8分 日テレNEWS24

1日、東京・練馬区で44歳の息子が包丁で刺されて死亡し、農林水産省の元事務次官の父親が逮捕された事件で、父親が息子から日常的に暴力を受けていたとみられることがわかった。「身の危険を感じる」などと話すこともあったという。

この事件は、1日午後、東京・練馬区の住宅で熊沢英一郎さんが胸などを包丁で刺されて死亡し、父親で農林水産省の元事務次官・熊沢英昭容疑者が殺人未遂の疑いで逮捕されたもの。警視庁の調べに対し、熊沢容疑者は容疑を認めているという。

近所の人「(1週間前に会ったときは)普通だよ、おかしいところは全然ない。息子の話は一切しなかった」

近所の人「本当に穏やかで、すてきなご夫婦だなと」「(Q長男の存在はご存じなかった?)私は全く(知らなかった)」

その後の捜査関係者への取材で、熊沢容疑者が息子の英一郎さんから日常的に暴力を受けていたとみられることがわかった。

熊沢容疑者は、家族に対して「身の危険を感じる」などと話すこともあったという。

英一郎さんは無職で、警視庁は家族間のトラブルがあったとみて容疑を殺人に切り替えて調べる方針。
参照元:逮捕の元事務次官の男「身の危険を感じる」
2019年6月2日 19時8分 日テレNEWS24

元農水事務次官“御曹子殺人” 「運動会の音がうるさい」と口論 殺された44歳“引きこもり息子”の素顔 - 「週刊文春」
編集部 文春オンライン2019年06月02日 13:15

「昨日は、隣の小学校で運動会が行われていたので、そんなことが起きていたなんて、まったく気付きませんでした。いきなりパトカーや救急車が何台も来て、騒然となっていた。私のところにも夕方4時くらいに警察が来て、いろいろ聞かれて。特にお父さんと息子さんの関係について聞かれました」(近隣住民)

6月1日(土)の夕方、東京・練馬区の住宅街で元農水事務次官の熊澤英昭容疑者(76)が、同居する息子の熊澤英一郎さん(44・無職)を刺殺。川崎市・登戸の小学生児童ら連続殺傷事件を起こした岩崎隆一容疑者(51・死亡)が長期にわたって就労しない”引きこもり傾向”にあったことが改めて社会的に議論となる中、一報は飛び込んできた。

 熊澤容疑者は東大法学部を卒業後、1967年に旧農林省入省。畜産局長や経済局長を経て、2001年からは事務方トップの事務次官を務めた。BSE(牛海綿状脳症)問題の対応にあたり、記者会見では汗をふきながら質問に答えていたが、結局、このBSE問題の責任をとる形で、2002年1月に辞任。退官後は2005年から2008年にかけてチェコ大使を務めた。

「熊澤さんのことは農水次官で偉かったこともあり、『先生』と呼んでいました。先生は自分の家の前を通るのでよく挨拶していた。奥さんと2人で年中いっしょにいて、仲はよさそうだったけれど、息子の悩みはもとより、息子がいるとは知らなかった。先週もお会いしましたが、家庭内で悩んでいる様子は見えませんでした」(別の近隣住民)

「周囲に迷惑をかけてはいけなかった」と熊澤容疑者は供述

 一家が引っ越してきたのは十数年前だが、不動産関係者は「今度すごい人が来ますよ!」と近隣に触れ回っていたという。最近でも黒塗りの車が自宅前に迎えに来るのが目撃されていた。熊澤容疑者は背広を着て、車に乗り込んでいたという。

「年に1回、秋くらいに同期会をやっていて、お酒を飲んだりしていたが、家庭の話は一切することはなかった。息子や娘がいることは知っているが、詳しくは聞いたことがない。(熊澤容疑者)本人はとても真面目な人間です」(元農水省の同期官僚)

 だが、熊澤容疑者が抱える家庭内でのストレスは暴発寸前だった。捜査関係者が話す。

「熊澤容疑者は息子の家庭内暴力のことでかなり精神的に参っていたようです。周囲や官僚仲間にも息子の引きこもりについての相談をしていました。

 この日も小学校の運動会がうるさくて、そのことが原因で口論に発展。日頃から家庭内に暴力を振るっていたが、熊澤容疑者は『周囲に迷惑をかけてはいけなかった』と話しています」

連日ゲームをやり続けていた息子

 殺された息子の英一郎さんは、ネットで本名の「熊澤英一郎」を名乗り、ゲーム「ドラゴンクエスト」についてのツイートをしていた形跡が残っている。また、SNSには本人と思しき人物による、こんな書き込みも残されていた。

〈あの本名、熊澤英一郎と申しまして元事務次官の愚息であります。凄い人でしょ?w 国家レベルの人なんですw〉

 SNSやウェブ上には、連日ゲームをやり続けていた形跡が残されている。近隣では生前の英一郎さんを見たという人が一人だけいた。

「私がここに住むようになって何年も経つけれど、一度しか息子さんを見ていない。3年前の昼間で、白いTシャツ姿。今風の長めのマッシュルームカットだった。あいさつなどもなく、ムスッとした様子でした。

 お父さんは朝からウォーキングしたり、お母さんもお花に水やりしたり、とてもやさしそうな、感じのいいご夫婦でしたが……」(別の近隣住民)

 熊澤容疑者は明日6月3日、送検される。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2019年6月6日号)
参照元:元農水事務次官“御曹子殺人” 「運動会の音がうるさい」と口論 殺された44歳“引きこもり息子”の素顔 - 「週刊文春」
編集部 文春オンライン2019年06月02日 13:15





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