ノーベル文学賞受賞・作家 カズオ・イシグロのチャートについて



2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロのチャートについて、その直後にラグナの特定に励んでいたが、決定的なことが分からず、そのまま放置していた。


作家としての創造性を発揮するには、5室や5室の支配星に水星、木星、金星などの生来的吉星が絡んでいることが重要で、また5室で良いヨーガを形成していたり、5室が強調されている必要がある。


木星が古典的知識や作品の歴史検証に耐えるだけの博識な周辺知識をもたらし、水星がジャーナリズムや評論家的なセンス、金星がユーモアやストーリー性、物語としての面白さを提供する。


作家になるために特に重要なのは、木星や金星の影響であり、水星だけだと、ジャーナリズムや評論文、随筆になってしまう。


カズオ・イシグロは、青年時代にミュージシャンを志していたことを考えると、5室に金星が絡んでいたことも考えられる。


そうした観点から、ラグナは蟹座もしくは双子座ではないかと考えていたが、作風などを研究する為に『日の名残り』を読むなどして、情報を収集していた。


そして、暫く放置したまま忘れてしまっていたが、再び、思い返してみた所、やはりカズオ・イシグロは双子座ラグナで正しそうである。


今回は、ラグナを双子座プナルヴァス第3パダに設定した。ナヴァムシャのラグナも双子座である。






双子座ラグナに設定すると、ラグナロードの水星が創作の5室に在住し、9室支配で高揚する土星とコンジャンクトし、3室支配で5室で減衰する太陽ともコンジャンクトしている。


太陽は減衰しているが、高揚する土星とコンジャンクトして、ニーチャバンガラージャヨーガを形成し、また3室の支配星が減衰している為、パラシャラの例外則によるラージャヨーガ的な効果が期待できる。


3室は手を使った仕事、文筆を表わし、5室に在住することは、やはり文筆活動を作品の創造に生かす配置である。




カズオ・イシグロは、作品の登場人物たちの感情の機微、揺れ動きを描くのが非常に上手いのであるが、それは5室支配の金星が蠍座の水の星座に在住しているからである。


金星は牡牛座にアスペクトバックして強く、また蟹座で高揚する木星からのアスペクトも受けている。



この木星は月から見て、ラグナロードで5室で高揚し、5室支配の月と星座交換している。




1913年に『ギタンジャリ』でノーベル文学賞を取得したラビンドラナート・タゴールも魚座ラグナで、木星が5室で高揚していた。



木星が5室で高揚する配置は、作家のポテンシャルとしては、最高の配置である。




カズオ・イシグロの場合、この月から5室で高揚する木星が更にラグナから見た5室支配の金星にアスペクトすることで、作品の登場人物たちの感情の繊細な動きを表現できるのである。



海洋学者の父親


wikipediaには、カズオ・イシグロの父親は、1920年4月20日に上海で生まれ、明治専門学校で電気工学を学び、1958年のエレクトロニクスを用いた波の変動の解析に関する論文で東京大学より理学博士号を授与された海洋学者であると記されている。


9室を父親のラグナとすると、ラグナロードの土星が9室で高揚し、5、8室支配の水星とコンジャンクトし、更に7室支配で減衰する太陽とコンジャンクトしている。


5室と強い水星、土星、太陽の絡みは、物理学に興味を持つ配置である。


5室支配の水星にテクニカルプラネットの土星と太陽が絡んでいることから、理系に適性があることが分かる。


そもそもラグナロードの土星が9室で高揚している配置は、宗教家にならないとすれば、学問の世界に興味を持ち、大学教授などになる配置である。






そして、9室支配の金星が10室で水の星座に在住しているが、これが海洋学者としての職業を表わしている。


金星が5室に絡む場合、植物学など、自然の草花、生態系についての博識な知識を表わす配置である。


アーユルヴェーダも金星が表示体となるが、薬草についての豊富な知識を必要とする。


海洋学者というのは、海の動植物の生態系について研究する仕事である為、おそらく10室の水の星座に金星が在住している象意で正しいと思われる。


父親は、高円寺の気象研究所勤務の後、1948年長崎海洋気象台に転勤となり、1960年まで長崎に住み、長崎海洋気象台で副振動の研究などに携わったほか、海洋気象台の歌を作曲するなど音楽の才能にも恵まれていたということである。


そして、1960年に父親が国立海洋研究所所長ジョージ・ディーコンの招きで渡英し、暴風によって発生し、イギリスやオランダの海浜地帯に深刻な害をもたらした1953年の北海大洪水を、電子回路を用いて相似する手法で研究するため、同研究所の主任研究員となったと記されている。

父親が北海で油田調査をすることになり、一家でイギリスのサリー州・ギルフォードに移住し、カズオ・イシグロは、現地の小学校・グラマースクールに通ったそうである。

このように父親が海洋学者として、海や油田の調査など、常に液体に取り組んでいたのは、9室から見た10室(職業)に金星が在住しているからである。


それで、その仕事で、海外勤務となり、油田の採掘など地下をドリルで採掘する調査を行なったのは、3、10室支配の火星が12室(海外、地下)で高揚しているからではないかと思われる。

また音楽の才能に恵まれていたのは、5室支配の水星が金星の星座に在住していたからである。




音楽活動、創作学科に進学


因みにカズオ・イシグロは、イギリスのサリー州・ギルフォードに移住した後、現地の小学校・グラマースクールに通い、卒業後にギャップ・イヤーを取り、北米を旅行したり、音楽のデモテープを制作しレコード会社に送ったりしていたとwikipediaには記されている。


この時期、カズオイシグロは、おそらく、20歳前後であると思われるが、1970年11月(16歳頃)以降にマハダシャー金星期に移行している。


金星は5室の支配星で、金星は音楽の表示体で、5室も音楽の表示体である。


5室が音楽の表示体であるというのは、ニーチェも指摘するように音楽というものが芸術の最高の形式だからである。






双子座ラグナで金星が5室の支配星であるため、この時期、ミュージシャンを目指し、音楽のデモテープなどを制作して、レコード会社に送るなどしていたのである。


そして、1974年にケント大学英文学科、1980年にイースト・アングリア大学大学院創作学科に進み、批評家で作家マルカム・ブラッドベリの指導を受け、小説を書き始めたと記されている。


1974年は金星/金星⇒太陽期であり、1980年は金星/ラーフ期である。


いずれにしても5室支配の金星が大学の英文学科や創作学科などへの進学をもたらしたことが分かる。



結婚


因みにカズオ・イシグロは、ロンドンのホームレスを支援する団体で働いていた時にスコットランド人のローナ・マクドゥーガル(Lorna MacDougall)夫人と出会い、1986年に結婚している。


1986年は、金星/土星 もしくは金星/水星期である。






マハダシャーの金星は5、12室の支配星であるが、6室(奉仕)に在住し、12室(病院、ボランティア施設)にアスペクトバックしている。


12室に金星がアスペクトバックして12室が非常に強い状態になっている。この12室にトリコーナの支配星がアスペクトしていることが慈善活動を表わしている。


金星は月から見ると3、8室の支配星でもあり、金星自体が結婚の表示体であるが、8室の支配星であることで、生活を支えてくれるパートナー(結婚生活)を意味している。


またアンタルダシャーはおそらく水星期だったと思われるが、水星は、ラグナロード(7室から見た7室の支配星)であり、月から見た7室の支配星である。


従って、金星/水星期は結婚のタイミングとして、説明できる。



今回、ナヴァムシャのラグナを双子座に設定したが、マハダシャーの金星は5、12室支配で結婚生活の2室に在住して、2室支配の月と相互アスペクトしている。






また月から見て金星は7室に在住している。従って、マハダシャーの金星期は結婚の時期を示している。


またこの金星期は、英文学科や創作学科で学んだ時期であり、それは5室支配の金星ということで説明できている。


また12室の支配星であることから、この時期にホームレスを支援する団体で働いていたのである。



そして、アンタルダシャーの水星はラグナロードで6室に在住しているが、ラグナの支配星(7室から見た7室)の時期は、結婚のタイミングである。



つまり、金星/水星期に結婚したことを説明することが出来る。



因みにカズオ・イシグロの出生図の10室には、月が在住しており、木星と星座交換しているが、これもホームレスを支援する団体での仕事を表わしている。



月は、医師の周辺の仕事である医療補助業務(看護師も含む)を表わすが、社会的弱者を支援する母性的な仕事を表わしている。



木星が星座交換しているため、ホームレスを支援して、社会復帰を手伝うなどの教育的な要素も含まれていたと考えられる。



結婚した年のトランジットを見ると1986年1月1日時点で、木星は8室山羊座、土星は6室蠍座を順行していたが、木星は8室から7室支配の木星にアスペクトし、土星は特に7室にアスペクトもトランジットもしていなかったが、その前年度の1985年4月1日から、土星は逆行して、同じく7室支配の木星にアスペクトして、7室にダブルトランジットしていた。




また8室に木星がトランジットして、土星が逆行して8室にアスペクトした為、8室にもダブルトランジットが成立している。



1986年に入ると、1986年4月1日の時点で、木星はラグナとラグナロードにアスペクトし、土星は逆行して、ラグナロードに絡み、7室と7室の支配星にアスペクトしている。




ラグナにダブルトランジットが成立していることが分かる


また木星はラグナから見た8室の支配星にアスペクトし、土星は8室にアスペクトしている。


また木星は月から見た8室にもアスペクトして、土星は月から見た8室の支配星とコンジャンクトし、逆行して8室にも絡んでいる。


従って、ラグナと月から見た8室にダブルトランジットが成立している。



この結婚した年の前年度からの木星と土星の動きを追っていくと、このタイミングで結婚したことが説明できる。



1986年時点で、木星が8室、土星が6室を通過していること自体、6室、7室、8室は結婚相手のハウスであり、基本的にパートナー関係上の重要な時期であったことを物語っている。






娘・ナオミイシグロの誕生



カズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した2017年時点で、25歳であったということから、1992年生まれである。


1992年は、太陽/ラーフ期であるが、出生図で、マハダシャーの太陽は5室に在住し、アンタルダシャーのラーフはディスポジターの木星が月から5室に在住している。






サプタムシャを見ると、太陽は5室の支配星で、ラーフは5室の支配星とコンジャンクトし、ラーフのディスポジターはラグナロードの木星で9室にアスペクトしている。






トランジットを見ると、土星は5室にアスペクトし、木星は逆行して、5室の支配星にアスペクトして、5室にダブルトランジットが成立している。







2017年度 ノーベル文学賞の受賞







ノーベル賞文学賞を受賞した2017年10月は、ダシャーは、ラーフ/木星/金星期辺りである。






マハダシャーのラーフのディスポジターである木星は高揚する11室の支配星と相互アスペクトしており、また月から見ても11室で高揚する9室支配の火星と相互アスペクトしている。


アンタルダシャーの木星は同じく、高揚する11室の支配星と相互アスペクトしており、また月から見ても11室で高揚する9室支配の火星と相互アスペクトしている。


プラティアンタルダシャーの金星は逆行して、11室にアスペクトし、またディスポジターの火星は11室の支配星で高揚し、月から見ても11室で高揚している。


ナヴァムシャでは、ラーフのディスポジターの太陽は11室で高揚し、木星は11室にアスペクトしている。






この時、トランジットを見ると、木星は11室にアスペクトし、土星は11室の支配星にアスペクトしていた。


また火星は少なくとも75日以内に11室の支配星にアスペクトし、月は10月5日4:00から遡れば、72時間以内に11室の支配星にトランジットしていた。


日本のメディアでカズオ・イシグロ氏の受賞が伝えられた5日には、トランジットの月は双子座から10室を通過しており、世間の注目を浴びたことを表わしている。







カズオ・イシグロの人物と作風






カズオ・イシグロの見た感じは、冷静で落ち着いて淡々としており、寡黙で自己主張する気があるのか不明な野心のないキャラクターである。


これはおそらく双子座のプナルヴァスにラグナが在住し、ラグナにケートゥが在住している為ではないかと思われる。




カズオ・イシグロの傑作と言われている『日の名残り』は、1989年の英国の世界的に権威のある文学賞であるブッカ―賞を受賞している。


内容的には、時代の変化に対応できず、古い伝統やしきたりの中で、執事という職務を愚直なまでに厳格に遂行する男の物語であるが、主人公は、執事という自らの役割に拘るあまり、恋愛の機会を逃したり、自分が仕える主人が第二次世界大戦での対独宥和主義者であること、その主人の執事であり続けることの社会的意義などを考えるような政治意識や視野の広さ、主体性なども持ち合わせていない。ただ愚直に執事という自らの役割の中に納まり続けるのである。

所謂、精神の不具とでも呼びうるような執事のスティーブンスを読者は、可哀そうに思ったり、憐れみを感じる。


カズオ・イシグロの作品は、弱者に対する繊細な感受性、思いやりを示す一方で、その運命に従うしかない人間の哀しみなどを冷静に描き出している。


その辺りは、5室支配の金星が蠍座6室に在住し、蟹座から高揚の木星(月から5室)がアスペクトして、非常に高い感受性、共感力があるが、一方で、双子座は冷静で分析的なのである。


蟹座の木星、蠍座の金星は、水の星座であり、伝統社会に固執する星座である。


従って、古き良き執事が輝いた黄金時代というのを懐かしむ主人公スティーブンスに非常に共感できるのであるが、然し、そのスティーブンスの行き先が狭められていく縮小する運命に対して、冷静に見つめてもいるのである。


ラグナが双子座であることは、そうした運命に飲み込まれる人間を冷静に見つめる所があるが、その運命を変えることが出来るとは決して考えない。


この『日の名残り』は、アンソニー・ホプキンス主演、エマ・トンプソン共演で映画化もされているが、原作が深い人間心理を描いたものであるだけに映画ではその全てを描ききれていない。




またカズオ・イシグロのもう一つの代表作『わたしを離さないで』があるが、これは私は原作は読んでいないが、2010年にキャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ主演で映画化された作品を見た。


こちらの作品でも臓器提供者という社会的弱者の日常を描いた作品であるが、友情、恋愛、嫉妬や裏切り、陰謀、悪意、謝罪、希望と絶望、哀しみ、諦めなど、あらゆる人間の感情が描き出されている。

カズオ・イシグロは、逃亡の物語を描きたい訳ではなかったと述べており、最終的に主人公たちは、自らの運命を受け入れていくのであるが、やはり、カズオ・イシグロはどちらかと言えば、運命論者である。


巨大な運命に立ち向かう人間を描くのではなく、巨大な運命に飲み込まれる人間の心の機微を描きたかったのである。


この辺りは、蠍座に在住する5室支配の金星、月から蟹座5室に在住する高揚する木星で表される保守性が現れている。


蟹座、蠍座、魚座は、社会を変えようとする革新性はないのであり、むしろ、変わらない社会を受け入れていく、そして、変わらないカースト制度を受け入れていく。


因みにインドの建国図で蟹座に惑星が集中しているが、そのインド人たちは、カースト制度を受け入れ、バラモンたちの唱える教えに従順に従って自らの運命を受け入れている。


蟹座とはそうした星座である。


視野が狭く自らの小さな世界の中で、豊かな感情や愛情を持って、人々との人間模様を生み出していく、そうした星座が蟹座である。


その世界の外側に何があるかには興味を持たないし、そこまで見るだけの視野の広さを持たない。



従って、カズオ・イシグロの小説は、個人の力ではどうにもならない運命の残酷さ、そこでの人間同士の感情の機微を見つめながら、その弱く傷ついた人間を慈しみのある眼差しで見つめた作品である。


カズオ・イシグロが、影響を受けた作家/クリエーターとして『東京物語』の小津安二郎監督を挙げているのも興味深い。



小さな家族の中での感情の機微を描くことがカズオ・イシグロのテーマであることがよく分かる。


またドストエフ・スキー、チェーホフ、トルストイ、ジェイン・オースティンなど、まさに登場人物たちの豊かな感情の交錯を描き出した作家から影響されていることも興味深い。




またカズオ・イシグロは、20世紀の歴史を作品の背景として描き出すことにも定評がある。


カズオ・イシグロのインタビューでは、近現代史を描いた歴史書を愛読しているようである。


そうした作品を読むことで、歴史的な視点を養ったり、時代背景の設定に役立てているようである。



こうした時代考証的な歴史家としての視点は、5室でラグナロードで4室支配の水星と、9室支配の土星がコンジャンクトして、ラージャヨーガを形成する配置に現れている。


水星と土星のコンビネーションは、優れた歴史家、歴史の研究者を生み出す絡みである。


歴史家は古い文書や資料から事実の掘り返して、歴史を再現するセンスが要求されるが、具体的な事実とそこからの分析を重んじるのが土星と水星の絡みである。



イシグロ・カズオのラグナの可能性として、生来的吉星の影響を受けた強い5室という観点から、双子座ラグナ、蟹座ラグナ、蠍座ラグナ、魚座ラグナなどを想定していたが、やはり、種々検討した結果、結婚のタイミング、また子供の誕生のタイミング、そして、ノーベル賞受賞のタイミングから、双子座ラグナでなければ説明出来ないように思われる。


然し、もう少し他の様々なエピソードで更に検証を重ねたい所である。








(参考資料)



カズオ・イシグロの親族が明かした「一雄くんのこと」
祖父は伊藤忠「伝説の商社マン」
週刊現代 2017/10/24

一夜にしてその名は世界中に知れ渡った。長崎生まれの日系イギリス人作家は、どんな家に生まれ、どんな環境で育てられたのか。親戚や恩師の証言を元に、ノーベル賞作家のルーツを追った。

トヨタ家との縁

長崎駅から車で10分。長崎市内を走る路面電車の新中川町電停から入り組んだ細い路地を100mほど進むと、3階建ての洋風の屋敷がある。ここにカズオ・イシグロ氏(62歳)が5歳まで過ごした生家が、かつてあった。

この付近は長崎らしく、坂の途中に一軒家や集合住宅が密集して立ち並ぶ住宅街だ。往時は桜の名所として知られ、いまも料亭がいくつか残っている。

「明治、大正の時代は富裕層の別荘地でした。いまはだいぶ景観が変わったけど、その名残で大きな屋敷がポツポツと建っています」(近隣住民)

先ごろ、ノーベル文学賞を受賞したイシグロ氏は、日本人の両親のもと、1954年に長崎県で生まれた。家族で5歳のときに渡英し、'83年にイギリス国籍を取得する。自身は英語しか話せないが、受賞のインタビューでも「私の一部は日本人なのです」と語っている。

イシグロ氏はどんな家庭に育ったのか――。

日本名は石黒一雄。石黒家は代々由緒ある名家だったと語るのは、カズオ・イシグロ氏のいとこにあたる藤原新一さん(71歳)だ。

「私の母の弟の長男が一雄くんになります。一雄くんのお父さんには二人の姉がいて、2番目が私の母になります。

我々の祖父、昌明さんは滋賀県大津市の出身。戦前、中国に渡り、上海にあった東亜同文書院という高等教育機関を卒業しています。この学校は、ほぼ国策学校で授業料も無料。秀才が集まる学校で、各県から一人ほどしか入学できないほどレベルが高かったそうです。

卒業後、祖父は現地の伊藤忠商事に入社しました。仕事ぶりも優秀で、上海支店の支店長まで務めました。ところが、会社で労働争議が起きた責任をとって退社を余儀なくされたんです。そんな祖父を救ってくれたのが、創業者の伊藤忠兵衛さんでした。

祖父の働きを高く評価していた忠兵衛さんは直々に、豊田佐吉さんに頼み込んで、祖父は上海の豊田紡織廠(トヨタ紡織の前身)の取締役として迎えられたそうです」

イシグロ氏の祖父が長崎に戻ってきたのは終戦の直前だった。なぜ帰国後、長崎を選んだのか、その経緯は不明だというが、ここでイシグロ氏は生まれ育った。

「一雄くんの家には、よく遊びに行かせてもらったので鮮明に覚えています。塀こそレンガ造りでしたが、純和風の邸宅で、武家屋敷のようでした。3階建てなんですが、中2階があってそこに一雄くんはよく居ました。

祖父はとにかく怖くて、怒られた記憶しかありません。日本に戻って来てからは仕事をしていなかったはずですが、生活ぶりは優雅でした。トヨタ関連の株の配当だけで生活していたんじゃないかな。

いまでもよく覚えているのは祖父の葬儀でのことです。伊藤忠兵衛さんから、読み終えるのに10分もかかる弔文が届いていました。祖父と忠兵衛さんは盟友だったみたいです。

祖父は豊田家との関係も深く、葬儀の際に使用した車は、すべて長崎のトヨタが提供していた。豊田家の方が長崎に来ると、石黒家が出迎えるという間柄でした。

うちの母が豊田章一郎さん(トヨタ自動車名誉会長)のことを『しょうちゃん』と呼んでいて驚いたことがあります」(藤原さん)

作品に活きた母の被爆体験

イシグロ氏の父である鎮雄氏もまた、ひとかどの人物だった。九州工業大学を卒業後、長崎海洋気象台に入り、海洋学者として活躍。1960年、イシグロ氏が5歳のときにイギリス政府から国立海洋学研究所に招致され、一家で渡英した。

藤原さんが続ける。

「『あびき現象』(長崎湾で発生する副振動)研究の第一人者でした。点字のタイプライターを製作し、エリザベス女王に拝謁したこともあるそうです。'94年には『日本語からはじめる科学・技術英文の書き方』という著書も出されている。

私にとってはやさしいおじさんという印象です。夏休みの宿題を手伝ってもらったり、天気予報の機械の作り方を教えてくれたこともあります。非常にインテリな方でした。

鎮雄さんは男前で日本人離れした顔立ちをしていました。目の色素が薄くて鼻も高く、一見、外国人に見えるほどでした。

一雄くんも純日本人っぽくない顔立ちですが、あれはお父さん譲りだと思います。一雄くんのお母さんである静子さんも美人でした。長崎市内で教師をされていたそうです。

お母さんは長崎で被爆されています。10年ほど前だったでしょうか、長崎在外の被爆手帳をもらうために来日されました。

一雄くんは処女作『遠い山なみの光』で原爆についても書いていますが、小さいころ、お母さんから戦争体験をよく聞かされていたようです」

「イギリス人」になる決意

イシグロ氏が5歳まで通っていた長崎市の「桜ヶ丘幼稚園」(現在は閉園)で、年少組の担任だった田中皓子さん(91歳)は、一雄少年のことを克明に覚えている。

「当時は年長と年少の2クラス。石黒くんが年少クラスにいた1年間、担当しました。上のクラスにはお姉ちゃんもいました。うるさい盛りの年ごろですが、石黒くんはそういう面がいっさいなかった。物静かで、落ち着いていて、我々としてはまったく手がかからない子供でした。

ほかの子供とはちょっと違いましたね。いま考えれば、周囲を黙って観察して、頭の中でいろいろ考えていたのかもしれません。

幼稚園では、よく絵本を読んでいたと思います。まだ小さかったこともあり、友達と騒いで遊ぶタイプではありませんでした。お父さんの転勤でイギリスに行く際、お母さんと一緒に退園手続きに来たときも、とても落ち着いていたことを覚えています。

なぜこんなに覚えているかというと、あの子は服装からして他の子とは違っていました。いとこの藤原さんもそうですが、制服にはアイロンがきちんとかけられていて、汚れひとつありませんでした。

また、着こなしもセンスが良いというか、家がしっかりしているんだなと感じました。この幼稚園は裕福な子弟が多かったのですが、育ちの良さは際立っていましたね」

若いころのイシグロ氏は作家ではなく、ミュージシャンを目指していた。本人いわく、レコード会社にデモテープを送ったりもしたという。

〈10代のころからアメリカのアーティスト、特にボブ・ディランやニール・ヤングが好きで、彼らのような音楽を演奏していました〉(『COURRiER Japon』2006年11月2日号より)

イシグロ氏が音楽に興味を持ったのも、両親の影響があったと前出の藤原さんは言う。

「石黒家にはいつも音楽がかかっていました。父の鎮雄さんはピアノやチェロを弾いていたし、母の静子さんもピアノを弾いていた。あの時代にチェロを弾いていた人はほとんどいませんでした。ちなみに、長崎の気象台には父の鎮雄さんが作曲した歌が残されているそうです。

一雄くんの一家がイギリスへ渡ったとき、家財道具を残していったのですが、その中には貴重なレコードもあったらしく、鎮雄さんから『テープに録音して送ってほしい』と頼まれたことを覚えています」

幼いころのイシグロ氏は、いつかは日本に帰るものだと考えていたという。イシグロ作品の愛読者でイシグロ氏と対談を行ったこともある、作家で生物学者の福岡伸一氏が言う。

「これはイシグロさんに直接聞いた話ですが、彼は毎年『来年になったら日本に帰る』と両親に言われていたそうなんです。それが中学生くらいになって、もうこれは日本には帰らないんだなとわかってきて、イギリス人として生きることを決意するのです」

イシグロ氏が、小説を書き出したのは26~27歳のころ。きっかけは、くしくも日本への記憶だった。

〈自分の中にある日本の記憶を永久保存したいと考えたのです。それと同時に、私は日本についての小説を書き終わるまで、日本には戻らないと決意しました。日本に行くと、自分の脳裏にある日本の記憶に干渉をすると思ったからです〉(『文學界』2006年8月号より)

イシグロ氏が日本に戻ったのは'89年。5歳で渡英して以来、約30年が経っていた。

〈長崎はずっと想像していたものに近かった。すべての丘を思い出すことができたし、昔いた古い家にも行きました。幼稚園への行き方も覚えていました〉(同前)

前出の幼稚園時代の恩師である田中さんが、当時を懐かしむ。

「'89年に来日されたとき、奥さんのローナさんを伴って幼稚園に来てくれました。『昔と同じ制服だ』と喜んでくれてね。ほとんど話す時間はありませんでしたが、忘れずに覚えていてくれたことは嬉しかったです。もう一度会いたいですね」

妻からの「ダメ出し」

イシグロ氏が、スコットランド出身のローナさんと結婚したのは'86年。以来、イシグロ氏のそばには常にローナさんの姿があった。ノーベル賞作家となったイシグロ氏だが、いまでも妻には頭があがらないという。過去のインタビューには、それを表すエピソードがある。

〈最新作の『忘れられた巨人』を書き始めたときのこと。40~50ページくらい書いたところで、妻のローナに読んでもらったんです。すると「これは全然ダメ。初めからやり直さないと」とけんもほろろに言われました〉(『an・an』2015年7月22日号より)

並の作家でも、「素人に何がわかる」と怒り出しても不思議ではない話である。ましてやイシグロ氏は、すでにこの時点で世界的に有名な作家として知られていた。

ところがイシグロ氏は驚くべき行動に出る。なんと妻の言う通りに小説を一から書き直したのだ。

〈妻のアドバイス通り、最初の草稿を全部捨てて書き始めると、前とはまったく違うアプローチになったんです。この本に限らず、妻にはいろいろ意見を聞くのですが、本作では特に、妻の影響は大きかったですね〉(同前)

誰に対しても誠実で謙虚――。イシグロ氏を知る人物は、皆そう口を揃える。

最後にいとこの藤原さんは親しみを込めて、こう語る。

「長崎にいる姻族は私だけになってしまいました。一雄くんがノーベル賞候補になってから、かれこれ10年くらい発表の前に取材を受けていたのですが、表に出ることはありませんでした。それが今回このような結果になって自分のことのように嬉しく思います。一雄くん本当におめでとう」

長崎に生まれた一雄くんは、名実ともに「世界のカズオ・イシグロ」となった。

「週刊現代」2017年10月28日号より
参照元:カズオ・イシグロの親族が明かした「一雄くんのこと」
祖父は伊藤忠「伝説の商社マン」
週刊現代 2017/10/24

ノーベル文学賞 カズオ・イシグロが語った日本への思い、村上春樹のこと
村上さんとはロンドンで、ジャズの話をしました
大野 和基 2017/10/06 文春オンライン

2017年のノーベル文学賞がカズオ・イシグロに決定しました。1954年、長崎に生まれた小説家の日本への思い、そして村上春樹についてを語ったインタビューをお届けします。(『文學界』2006年8月号より一部抜粋)

◆◆◆ 

ミュージシャンになりたかった

――それでは、小説作法についてお伺いしたいと思います。ポール・オースターにインタビューしたときに、彼は、同じく作家である妻のシリ・ハストヴェットの言葉を引用して、こう言っていました。「小説を書くということは、実際に起こらなかったことを思い出すようなものだ。その意味で、小説を書く方がノンフィクションを書くよりもはるかに難しい」。このコメントに同意されますか。

イシグロ 「実際に起こらなかったことを思い出す」というのは本当に興味深いコメントだと思います。まさにその意味で小説を書き始めたからです。若いときは、作家になる野心はまったくありませんでした。ミュージシャンになりたかったのです。実際に小説を書き始めたときは、自分でも驚いたほどです。自分がどうして小説を書くようになったのかと振り返ってみると、最初に書き始めたときの主な動機がまさにそうであることに気づくのです。つまり自分にない記憶を何とかして書き留めることです。

私は日本で生まれましたが、5歳のときに日本を離れたので、イギリスで育ったのと同じです。幼い時の日本の思い出しかありませんが、その思い出が私にとっての日本を象徴するのです。もちろんイギリスで育っているとき、ずっと日本社会はどういうものか、とか日本はどんな国かというのを想像していたと思います。ですから、20代の半ばにはもう、日本に対するイメージが完全に出来上がったと思います。それは、ある程度は記憶に基づくと思っていたのですが、実際は違いました。小説家が経験するように、架空のプロセスをすでに経ていたのです。それで日本に対するイメージを完全に作りあげていたのです。しかし、私がそれをやったのは、小説を書こうとしたからではなく、単純に、西欧で育ちながら、感情は日本とつながって魅せられたままでいるという子供のときの状況があったからです。今まで小説を書いたときも、「私の日本」を書こうとしたのです。それは常に自分がやっていないことを思い出そうとするようなものでした。それは記憶と想像の奇妙な混合です。小説家が実際にすることにかなり近いと思います。彼らは架空の世界を想像します。たとえ、リアリズムのモードで書いていてもそうです。自分の世界を創っているのです。自分の中の宇宙を、現実的な世界に押し付けているのです。もちろんポール・.オースターのように、現実からはっきり切り取られた世界を作り出す作家もいます。それでもかなり現実的に見えます。本当に小説としてうまく行くのは、現実の世界に、作家自身の世界が重なっているからだと思います。だからそういう小説を我々は高く評価するのです。

想像力はそれほど羽ばたかせませんね

――イシグロさんは想像力を羽ばたかせて書くのでしょうか。

イシグロ それほど羽ばたかせませんね。私は、かなり抑制の利いた作家です。私が小説を書くときは、何に想像力を使うかということについてはかなり慎重です。常に最初にテーマを思いつき、それから登場人物の関係を考えます。自分の想像力には、かなり明確な仕事を与えます。「ほら、このページは空白だ。自分の想像から何かクレージーでワイルドなことが出てくるか試してみよう」とは言いません。多くの作家がこうやってすばらしい小説を書き上げているのはわかっていますが、私の場含は一そろいのテーマが先にあって、それをかなり集中したやり方で探求します。一つや二つのテ-マを完膚なきまで探求するのです。それで、自分の想像力を稼動させて、「これがきみの仕事だ。どうだ、何かできるかね」と想像力に聞くのです。常に大枠があって、その中で、「これをいかにして表現するか、どのようなシーンがこのことを表すことができるか、いかにしてまとめるか」を絶えず考えます。即興的に「次はどこに行けるか」と考えることはしません。

現代史に関する本をたくさん読むようにしています

――あなたは小説もノンフィクションも読みますか。

イシグロ 両方読みますね。ノンフィクションもたくさん読みますが、リサーチのために読むことが多い。といっても直接自分が書いている小説のためではないことが多い。今は、最近イギリスとアメリカで出版された『Postwar(戦後)』という、歴史家のトニー・ジュットが書いた本を読んでいます。戦後の時代についての歴史書として非常におもしろい本です。小説を書き始めたのはもう25年も前になりますが、その頃同時代的に体験したことがまさに第二次世界大戦の余波であったと気づいたのです。大事件がたくさん起こりました。第一次世界大戦、第二次世界大戦、その後も小さな戦争がずっと起こっています。第二次世界大戦から半世紀以上経って、歴史的事件が数多く起きたことを再認識しています。私の世代の多くの人もそうだと思いますが、まだ世界をみるときに、戦後の歴史の観点からみることが多い。最近になってようやく、第二次世界大戦の影としてではなく、最近起こったことを単独で理解しようとしています。その形やパターンを実際に見ることは非常に重要だと思うからです。もちろん第二次世界大戦はものすごく重要ですが、現在起こっていることを第二次世界大戦に関係なく、理解し始めないといけないと思います。それで、現代史に関する本をたくさん読むようにしています。

村上さんと話すのはジャズのことですよ

――小説家の話になりますが、好きな作家は誰ですか。

イシグロ 伝統的な作家、つまり偉大な作家では、今でもロシアの作家が好きです。チェーホフ、トルストイやドストエフスキーです。ある意味では私が20代の頃に気に入っていた作家と同じです。年を取るにつれて、ジェイン・オースティンのような、若いときあまり好きでなかった作家が好きになってきました。オースティンは学生のときに読まされたのですが、とても退屈な小説でした。3年前にオースティンのすべての6冊の小説を立て続けに読んだのですが、本当に卓越した作家であると認識しました。ですから、ときには再読する必要があります。現代作家の中では、好きな作家はたくさんいますが、村上春樹がもっとも興味ある作家の一人ですね。とても興味があります。もちろん彼は日本人ですが、世界中の人が彼のことを日本人と考えることができません。国を超えた作家です。現時点で、村上春樹は現代文学の中で非常に関心を引く何かを象徴しています。人は、日本文化に必ずしも関心がなくても、村上春樹に通じるものを感じるのです。

――イシグロさんがこの前来日されたとき、村上春樹にお会いになったと聞いたのですが。

イシグロ 会いましたね。ここ(ロンドン)でも会いました。

――村上さんとはどういう話をされるのですか。

イシグロ ジャズのことですよ(笑)。そのようなものです。作家同士が会うと、文学というような、大それたテーマについて話すことはあまりありません。

――村上さんは、自分がイギリスやアメリカで生まれていたらよかった、と言ったことがありますか。

イシグロ ありません(笑)。そこまで親しくありません。東京で昼食を一緒にしたことがあります。それは2001年のことで最初に村上さんに会ったときです。それ以来、ロンドンで二、三回会っています。ロンドン・マラソンに出るために来たときだと思います。本の出版パーティーや晩餐会もあり、出版社の人はみんなとてもわくわくしていました。がっかりするかもしれませんが、そういうときの作家同土の会話はささいな話題です。大きなテーマについてはあまり話さず、サッカーや他のスポーツについて話したりします。作家たちはお互いに人間としてかかわりたいと思っています。確かに、村上さんはジャズにとても熱中されています。私もそうです。

5歳のときから凍結した日本語

――イシグロさん自身のことについて、おききしたいと思いますが、国籍は日本と二重国籍を持っておられるのでしょうか。

イシグロ 残念ながら、日本は二重国籍を許しません。イギリスは許しますが、もし日本のパスポートを持とうとすれば、だめですね。少なくとも私がイギリス国民になったときは、100パーセント日本人になるか、日本のパスポートを捨てるかどちらかでした。今でもそうだと思います。人生のある時点で決意しなければなりませんでした。最終的には感情的には日本ですが、すべての実用的な理由から、私はイギリス国籍を選びました。もしアフリカで困ったことになれば、日本大使館ではなく、英国大使館に行かねばなりません。日本大使館に行っても、理解してもらえませんが(笑)。

――両親から離れたのはいつですか。ある年までは両親と住んでいたのですね。

イシグロ 大学までです。それが普通みんな親から離れるときです。もちろんそれ以降も長い間、親のところに戻って、一緒にいた時期もありましたが、基本的には大学から親と離れて、しばらくスコットランドに住んでいました。親と同居しているときも、一人で長い間旅をしたこともあります。

――ご両親と話すときは、日本語を使うのですか。

イシグロ 今でもそうです。電話で話すときも、とても下手な日本語で話しますね。5歳の子供の日本語です(笑)。私がしゃべる日本語は、日本語であることがわからない日本語です(笑)。かなり古臭い、子供の日本語です。5歳のときから凍結した日本語で、それに英単語がたくさん混じります。

――ご両親はまだイギリスに住んでいるのですか。

イシグロ サーリーに住んでいます。

35歳まで日本にもどらなかった理由

――イシグロさんは35歳になった1989年まで日本にもどりませんでしたね。

イシグロ その通りです。

――どうしてですか。自分の運命を変えることはできなかったのでしょうか。

イシグロ 当時は今と比べて旅行するのが非常に難しかったと言わざるを得ません。今ほどは簡単ではありませんでした。私が10代になるまでに、日本はとても物価の高い国になり、若造が日本まで行くのに十分なお金を貯めることは非常に難しかったのです。また18歳、19歳になったときに、旅に出るのに十分なお金を貯めたのですが、私はアメリカに行きました、当時の私の夢は常にカリフォルニアに行くことでした。というのもその頃サンフランシスコは若者にとって、流行の場所でした。私の世代の若者はみんなそうでしたが、あちこちに旅しました。アムステルダムや他のヨーロッパの場所にも行きました。ヨーロッパ中ヒッチハイクをし、さらにアメリカとカナダの西海岸を3ヶ月間もヒッチハイクしました。当時は日本に行きたいという気持ちになったことはありません。もっと後になって、23、24歳くらいだったと思いますが、その頃になって初めて、日本にとても関心を持つようになりました。それで、自分の小説で日本について書くプロジェクトを始めたのです。私は日本についての小説を書き終わるまで、日本に戻らないという決意を意識的にしました。本当の日本が、自分の脳裏にある日本に干渉をすると思ったからです。私のプロジェクトは、自分の日本が脳裏から消える前に、小説に安定的に書き留めておくというものでした。ですから、本当の日本に行くということは、それを混乱させることになるでしょう。だから日本に行かなかったのです。自分版の日本を温存したかったのです。小説家として、日本を書き終えて初めて、日本に行きたくなりました。それで戻ったのです。それはすばらしい経験でした。でもそれは脳裏にあった日本とは異なっていました。

――失望したのですか?

イシグロ 失望したのではありません。私が日本だと思っていたものは、あくまで長崎のことだと気づきました。それは日本の他の部分と全く違っていました。長崎の記憶は私にとっては子供の世界であり、それに「日本」という名前を与えたのです。5歳のときに離れて以来初めて長崎に着いたときは、ずっと想像していたものに近かった、すべての丘を思い出すことができたし、昔いた古い家にも行きました。近所も昔のままでした。近所の人もみんな子供のときの私のことを覚えていてくれました。私もいろいろな場所を覚えていました。幼稚園への行き方も覚えていました。幼稚園の昔の先生にも会い、近所の年寄りの人にも会いました、そうして初めて、本当の記憶が蘇ってきたのです。でももちろんほとんどの時間は京都か東京にいました。そこはまったく異国でしたね。

叔父は京都大学の教授、父は科学者

――もしずっと日本で育っていたら、小説家になっていたと思いますか。

イシグロ そうは思いませんね。家族の誰も作家になっていませんし、叔父は京都大学の教授で、国際弁護士でした。父親は科学者で、もう一人の叙父は住友のビジネスマンです。私の家族には作家のような仕事をした人は誰もいません。私が作家になったのは、私が日本からの「亡命者」であることに大いにかかわっています。そして、常に、日本人である両親の目を通してイギリスという国を見たので、自分の周りの社会とも距離を置いて育ったことにも関係があります。友人のすべてが正邪として考えていたことを、私はイギリスのネイティブの変わった風習であるとみていたのです、距離を置いて、イギリスをみていたということです。そういうことも作家になる上でプラスに働いたと思います。

――外国に住んでいる日本人の両親は、子供にバイリンガルを維持してほしいがために、日本語の学習を強要しますが、ご両親はそういうことはなかったのですか。

イシグロ 両親は決して強要しませんでしたね。恐らく当時はそれがほとんど不可能だったからだと思います。私の家族がイギリスに来たのは、1960年であることを考慮しなければなりません。我々以外に日本人はいなかったのです。日本人コミュニティがなかったのです。今日本からイギリスに来ると、日本人は日本人学校に入れるので、日本語を勉強することは可能です。でも昔は非常に難しかったのです。母親はある程度日本語を教えてくれましたが、あるとき両親は、それはよくないと決意したのでしょう。もし私が漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、歪んだものになっていたと思います。それで両親は日本語を私に押し付けなかったのです。多くの点から考えると、そのことに私は感謝しています。特に日本語の読み書きをやるとなると大変な苦労ですから。

――今日は長いインタビューに応じていただき本当にありがとうございました。

(聞き手・翻訳=大野和基/2006年5月10日、ロンドン、ヒルトンホテルにて/『文學界』2006年8月号より一部抜粋)
参照元:ノーベル文学賞 カズオ・イシグロが語った日本への思い、村上春樹のこと
村上さんとはロンドンで、ジャズの話をしました
大野 和基 2017/10/06 文春オンライン

ノーベル文学賞受賞のカズオ・イシグロさん、騒ぎの渦中で落ち着き
2017年10月6日 BBC NEWS JAPAN ウィル・ゴンパーツBBC芸術担当編集長

「ノーベル賞受賞者は、どういう服を着たらいいのかな」。自分がノーベル文学賞を受賞したと40分前に知ったばかりのカズオ・イシグロさんは5日、こう尋ねた。

「意外な」知らせだったという表現は控えめ過ぎる。文字通り、本当のことだと信じられなかったのだ。

ただし間もなく、電話が絶え間なく鳴り始め、自宅前にテレビの取材陣が整然と並び始め(「どうしてみんな僕の家を知ってるんだ?」)、版元が精鋭の応援チームを派遣してくるに至って、やっと理解したのだという。

これはフェイクニュースではないと。これは素晴らしい、びっくりするニュースなのだと。もしかして受賞にふさわしい作家はほかにもいるのかもしれないが、とイシグロさんは思った。「けれども、賞というのはそういうものだから。宝くじのようなもので」。

混沌に取り囲まれながらも、イシグロさんはゆったりと落ち着き、穏やかに思慮深く、(このインタビュー用にきちんとした上着を取りに、パッと2階に上がって戻ってきてから)、いかに物語の力を信じているかを語った。そして自分の書く物語がしばしば、無為に終わった人生や機会について探る内容になっていると。

「物語の語り方によっては、人種や階級や民族性といったバリアを超えられるはずだと、僕は常に信じてきた」

私にとっては、イシグロさんは使う言葉のくくりを問わず、世界最高峰の現役作家の一人だ。どんな作家も物語を語ることができる。イシグロさんが語る物語は、次元が違う。

イシグロさんは読者を、代替現実のような世界に引き込む。その世界は未来かもしれないし、現在かもしれないし、過去かもしれない。完全体で本物の場所のように思えるが、見知らぬ場所だ。

イシグロ作品の世界は奇妙で、必ずしも幸せな場所でない。しかし自分の居場所がみつけられる世界、親近感を感じることのできる世界で、読者は登場人物たちに深く引きつけられていく。これは作家の仕事そのものだが、彼はただほかの多くの作家よりも、これが上手なのだ。

英国にいながら日本人の家庭で育ったことは、自分の物語作りに欠かせない要素だとイシグロさんは言う。そのおかげで、周りのイギリス人とは違った視点で、世界を見ることができるようになったと。

確かに彼の作品では語り部の多くが、物語から一歩身を引いた距離感で語る。これは「表面は穏やか、表面は抑制されているという、日本の芸術の長い伝統からきている。表面の下に抑え込んだ感情の方が、より激しいという感覚がある」とイシグロさんは話す。

しかし受賞発表後に会った時、イシグロさんの感情は表面的なものだけではなかった。大喜びしていたし、それは当然の喜びだ。

カズオ・イシグロはノーベル文学賞にふさわしい受賞者だ。

(英語記事 Kazuo Ishiguro keeps calm amid Nobel Prize frenzy)
参照元:ノーベル文学賞受賞のカズオ・イシグロさん、騒ぎの渦中で落ち着き
2017年10月6日 BBC NEWS JAPAN ウィル・ゴンパーツBBC芸術担当編集長









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