新庄剛志

氏名新庄剛志
ローマ字Shinjo Tsuyoshi
生年月日1972年1月28日
出生時間9:00
出生場所長崎県対馬市
Rodden Rating
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業元プロ野球選手(外野手、内野手)、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家など)、地方競馬馬主。
所属個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属。アワーソングスクリエイティブ(ケイダッシュグループ)と業務提携。→ 株式会社レハサフ→プラファー → エージェントオフィスタクト
業績メジャーリーグベースボール(以下:MLB)のワールドシリーズに初めて出場した日本人選手である(2002年)。
現役引退後はタレントへ転身。またエアブラシアート(エアブラシを使用する絵画制作およびメイクアップ)やモトクロス競技の練習に取り組んでいる。
その他福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として長崎県の母親の実家にて誕生。体重は3680グラムあり生後10か月で歩きだす。
小学時代に8回も交通事故に遭うが、幸い大怪我は負わずにすむ。しかし中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手であったなら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている。
小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属。
後にソフトボールを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『キャプテン』との出会いでもある。
新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。
足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられるほどであった。やがて父親から野球を教わり始める。小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。小学高学年時には家業を手伝い、重い石碑等を持つ作業で体力をつける。
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1983年5月小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会でのサヨナラ負けが決定するプレーの判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見たことがないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから軟式少年野球チームを創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生する(1983年5月)。
1987年高校は父親からの薦めもあり西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し、硬式野球部員として寮生活を送る。同部には2学年先輩として後にプロ入りする石貫宏臣・柴原浩が、2学年後輩として後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍。
1989年3年時の1989年、1番・中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会の4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)でサヨナラ安打を記録。決勝の福岡大大濠戦(久留米)ではサイクル安打を達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す。高校時代に全国大会出場はかなわず。
ドラフト会議にて阪神タイガースから5位指名を受ける。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである。新庄がファンであった読売ジャイアンツ(以下:巨人)のスカウトからは「3位までには指名できる」という話をもらっていたこともあり、新庄父子ともに高卒でプロ入りするかどうかを迷い、しばらく検討する(ドラフト指名を受けられなかった場合は、九州産業大学への推薦入学が決定していた)。そして最終的に父親から「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けたことにより決意して入団する。なお新庄を担当した阪神のスカウトは渡辺省三であり、こちらのエピソードも参照。背番号は、守備位置登録は外野手登録と決まる。
1990年プロ1年目の1990年は二軍で過ごし、腰痛の影響もあり出場36試合・打率.074(安打2)・本塁打および打点なし。守備はシーズン中に自らコンバートを志願して、外野手から内野の遊撃手へ転向する。
9月から11月フロリダ州レイクランドでの秋季教育リーグへ参加する。
1991年9月9日
9月10日
9月16日
秋口まで二軍で過ごし、キャリアにおいて唯一となる二軍規定打席に到達して打率.246・本塁打9・打点39を記録。そして一軍の中村勝広監督など首脳陣により見いだされ、9月9日に初の一軍昇格。翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打としてプロ初出場を果たし、香田勲男から初打席初安打初打点を記録する。16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手としてプロ初スタメン出場。
1992年この年より内野手登録へ変更となる。3月に欧州で実施予定であったバルセロナオリンピック野球キューバ代表壮行試合の対戦チームメンバーに選出されるも、事前にキューバ代表側の都合で遠征中止となる。シーズン開幕は二軍となり、40人枠(当時)からも外れるも、4月下旬に40人枠選手の中に故障者が出た場合の特例として嶋田章弘と入れ替わる。5月に一軍の主砲で三塁手のトーマス・オマリーが故障離脱したのを機に、急遽の三塁守備練習後に昇格し、26日の横浜大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)で7番・三塁手としてこの年の初出場。第1打席で有働克也の初球を左翼席へプロ初本塁打してこれが決勝打となり、初のヒーローインタビューを受ける。

この初本塁打をはじめとして、2日後の初代「ミスタータイガース」と称される藤村富美男が亡くなった日のナイターで決勝打を含むプロ初猛打賞を記録し、シーズン初出場から12試合連続安打、得点圏打率10割を保った期間もある活躍などにより、新庄が次代のタイガースの担い手となることを期待するマスコミの記事が出始める。そして一軍に定着して「(虎の)プリンス」という愛称が浸透してゆく。

この年 守備は遊撃手を経て7月より中堅手に定着して、NPB公式戦での外野守備は全て中堅に就くこととなる。打順は主に5 - 7番で起用される。7月のジュニアオールスターゲームへ出場。9月16日、優勝争いが山場を迎えていた広島戦(甲子園)の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で、山崎隆造の右中間へのライナーを中堅から走り込みダイビングキャッチしてピンチを防ぎ、そのまま0-0で迎えた9回裏の攻撃では大野豊からプロ初サヨナラ安打となる本塁打(参照)を放つ。試合後のヒーローインタビューでは「優勝です!」と宣言する。
前述のようにこの年、前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをする(最終順位は2位)。この躍進は、右中間守備コンビを組む亀山努らと共に活躍したことから亀山・新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称される。

当時に入寮している球団寮・虎風荘(当時は甲子園球場に隣接)へ届く新庄宛のファンレターは1日につき段ボール1個分あったという。また寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道され、寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった際には、梅本正之寮長などが新庄をホテルへ一時的に住まわせるなどの対策を施す。シーズン打率.278・本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に5票及ばず次点となる。11月の日米野球に初出場してロジャー・クレメンスなどと対戦するも無安打に終わる。翌1993年契約の年俸は推定2200万円となり、前年比323%増の昇給率は2007年→2008年の桜井広大に346%で抜かれるまで球団歴代最高であった。
1993年この年より背番号を「5」に変更。打席時応援歌も北村照文→金森永時と背番号5の外野手に引き継がれている曲に変更され退団まで使用される。春季キャンプより再び遊撃手へコンバートされるもキャンプ中にコンバート中止となる。2月下旬のオープン戦でのヘッドスライディングの際に左肩を故障した影響でシーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用される。

10月1日、甲子園での中日ドラゴンズ戦でプロ初の4番スタメン出場。21歳8か月3日での4番スタメンは球団歴代最年少記録である(2015年終了時点)。

この年初めて規定打席に到達して打率.257(初の年間100安打達成。高卒4年目までの達成は球団史上3人目。)、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録し、ベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞初受賞。
1993年タレントの大河内志保との交際が始まる。
1994年この年より外野手登録へ戻り、そのままキャリアを終える。1番中堅で開幕して、その後打順は6番・7番・3番で起用される。自身の後援会「新庄会」発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日のヤクルトスワローズ戦(甲子園)で、高津臣吾からプロ初となるサヨナラ満塁本塁打を記録。

7月のオールスターゲームにファン投票セントラル・リーグ最多得票で初選出され、第1戦(西武ライオンズ球場)で代走として初出場し、球宴初盗塁を記録。

この年は石嶺和彦と並びチーム最多の17本塁打、同じくチーム最多の205塁打を記録。守備ではリーグ外野手最多289刺殺(キャリア最多)を記録しゴールデングラブ賞受賞。
1995年中村勝広監督が途中休養となり藤田平代行となる中、主に6・7番中堅で起用される。

本塁打性打球が応援旗に当たり二塁打と判定

6月20日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて、1点差を追う9回表の先頭打者として佐々木主浩から放った左翼フェンス最上部付近への大飛球が、観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれた後にグラウンドへ落下。そして内野へと送球され、その間に新庄は三塁まで達する。この出来事に対し審判団は協議の末、公認野球規則3.16(妨害と同時にボールデッド。審判員は妨害がなければ競技はどのような状態となったかを判定するとの旨)に従い、二塁打と判定する。妨害がなければスタンドインしていたかどうかは微妙であり、阪神側の抗議後に審判員からの場内説明がなされると、左翼席からグラウンドへ多量のメガホンやごみに加え、太鼓・ごみ箱なども投げ込まれ、侵入者もでる事態となり、出場選手は一旦ベンチへ引きあげる。中断後、試合はそのまま敗れる。この件について自身は2年後の取材では「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ」と語る(なお後の北海道日本ハムファイターズ時代2004年4月にも、自身の大飛球を東京ドーム右翼席最前列の観客により捕られた際に、同様の二塁打の判定がなされている〈「幻の本塁打一覧」を参照〉)。

この年は右足関節捻挫、右膝打撲などで出場選手登録抹消を繰り返し規定打席に到達できず、この年から打率が4年連続して2割4分を切る。

引退騒動

オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の引退宣言を行う。予想される真の引退理由として報じられた当オフの出来事は、右肘や右足を痛めていて治療に専念しようとしていた時に藤田平・新監督により四国黒潮リーグへ出場させられた件や、慕っている柏原純一打撃コーチの退団により球団への不信感を募らせ横浜ベイスターズへのトレードを志願するも拒否された件などである。

しかし引退宣言後に新庄の父親の病気が悪化(後述)し、父親を勇気づけるために現役続行を決断。21日に宣言を撤回して契約更改した後の記者会見にて「ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから」と説明し謝罪する。

父親は当時の病状について「妻が息子の引退を思いとどまらせるために、私の体調不良を実際より深刻に伝え一芝居打ったようだ」と告白している。

新庄は球団へ引退を申し入れるにあたり、地元福岡の後援会「福岡剛虎会」からの了解を得るなどの手続きを踏んでいる。また引退宣言の際の「センスがない」発言については、著書に「1995年シーズン中に足首の故障で二軍落ちしていたある日、故障状態の悪さから判断して練習開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行った行動について、当時二軍監督であった藤田から遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていった。しかしどうせ辞めるのなら人のせいにはしたくないとの考えから、発表する理由を『センスがない』にすれば打撃成績も悪かったのである程度は納得してもらえると思った」との旨を記している。新庄はこの騒動の頃からMLBへの移籍志望を強く持ちだす(志望の旨は騒動以前に球団へ伝達済み)。引退を希望した他の理由として、後年の取材では「引退して野茂さん(野茂英雄)のように大リーグに挑戦したい気持ちもあった」と告白する。

なお翌1996年契約の年俸はプロ入り以来初のダウンとなる。
1996年開幕より5月下旬まで1番中堅。その後打順は9月上旬までは主に6・7番、そして藤田監督が途中休養に入り、柴田猛代行から4番で起用される。4月の中旬に4試合連続本塁打、月末からの横浜3連戦1・3戦目の2試合で初回先頭打者本塁打を記録(1戦目が自身初の先頭打者弾)するなど好スタートを切り、シーズン19本塁打。打率は.238に終わるも、共にキャリア最高となる四球55・出塁率.335を記録。

10月9日のシーズン最終戦(対中日、甲子園)1回に金森隆浩から満塁本塁打を放った後の同イニングに塩谷和彦も同投手から満塁弾を放ち、チーム1イニング2満塁本塁打というNPB史上初の記録を残す。ゴールデングラブ賞受賞。オフに派遣され所属したハワイ・ウィンターリーグのヒロ・スターズ(英語版)には、後に日本ハムで再び仕えるトレイ・ヒルマンが監督として、ニューヨーク・メッツ(2001年)で再び同僚となるベニー・アグバヤニが選手として在籍していた。
1997年吉田義男新監督のもと5月下旬まで3番中堅。その後打順は1番・7番・6番・5番で起用される。

応援ボイコット

7月のオールスターゲームにファン投票外野手部門第2位で選出され、シーズン打率2割1分台の状態で出場するが、第1戦(大阪ドーム)で自身の打席ごとのセ・リーグ応援団による応援ボイコットと一部の観客による「新庄帰れ」コールが起こる。

自主的に応援する者もいたが、ペットボトル・メガホンをグラウンドへ投げ入れる者がいて試合中断する場面もあり、スタンドのある横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれていた。この件について自身は現役最後の試合翌日の引退会見においても「あの時のショックな気持ちは未だに忘れない。(自身は引退するが)選手は一生懸命プレーしているので、例え不調であっても応援して欲しい」という旨を訴えている。

この年は公式戦でも自身のみへの応援ボイコットを受け、クリーンナップを組んだ桧山進次郎と共に三振を量産する(キャリア最多120三振)。キャリア唯一となるシーズン全試合出場を果たし、本塁打は20本記録して4年ぶりの20本台に乗せる。守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞受賞。オフのテレビ番組出演にて、高く積まれた跳び箱を跳ぶ競技に挑戦した際に跳び箱で左膝を強打負傷し、残りの競技もリタイアする。
1998年6番中堅で開幕して、その後打順は7・8番など主に下位で起用される。この年はオープン戦でセ・リーグ・スター大賞を受賞するもシーズンでは極度の打撃不振に陥り、通算100本塁打まで残り3本としての開幕であったが、シーズン1号および記念本塁打達成は7月となる。

シーズン打率はリーグ規定打席到達者最低の.222を記録し、本塁打6・打点27と合わせ打撃三部門においてそれぞれ規定打席到達シーズンではキャリア最低の成績に終わる。

10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となる。守備ではリーグ外野手最多タイ12補殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。契約更改ではプロ入り以来2度目の年俸ダウンでサイン。

投手挑戦

秋季キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始する。
1999年オープン戦で投手として数試合登板するも左膝を痛めたため、投手挑戦を断念する。

この故障によりシーズン初出場は4月中旬となり、左太股痛も抱えながらシーズンを送る。1990年代後半から現役引退まで、ほぼ常に脚・腰・右腹直筋などの中のどこかに故障を抱えることとなる。3番中堅で多く起用されるが、打順は4番・6番・8番など特に変動が激しい年となる。

5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民球場アルペンスタジアム)にて、三重殺(無死一二塁から三塁ゴロ)をとられたり、守備では満塁からの中前安打を後逸し3失点となる失策を犯した後、7点を追う攻撃でチーム初得点となる2点本塁打を放つなど二度得点に絡み、さらに6-7と1点差まで追い上げた最終回の攻撃では宣銅烈から9球粘り中前安打して一打同点の場面をつくる。結果チームは敗れ「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は、数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合と共に「新庄デー」などと報じられ、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられる。


敬遠球をサヨナラ安打


6月12日、首位攻防の巨人戦(甲子園)12回裏同点一死一三塁の攻撃(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で、敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同じような投球を三遊間を抜いて左翼前へ転がした。遊撃手が二塁ベース上に守っているのを見て三遊間に転がせば抜けると確信し、甘い球が来るように打席の後方に立っておき、打つ際にいつもの足のところに踏み出したという。巨人側から、打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており反則打球ではないかと抗議があったが、球審の田中俊幸は「はみ出した左足が打席ラインの一部分にでも掛かっていれば問題はない(ラインに左足踵が掛かっていた)」とこれを退けた。自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。また野村監督とも柏原を通し状況により実行許可のサインをもらえるよう打合せていて、実行直前にサインが出されていた。なお巨人側のこの敬遠策は走者三塁となったための満塁策であるが、前イニング同点の場面での阪神の攻撃においても先頭・新庄の三塁打が出たため満塁策がとられ、後続は三者凡退するという経緯があった。新庄のこのプレーは引退後の2015年に行われた阪神球団創設80周年特別企画でのファンに対するインターネットアンケート「思い出のシーン ベスト10」にて第6位に選出される。

この試合では他にも、リードされた直後の8回の攻撃で同点ソロ本塁打を放つなど、6打数4安打2打点を記録。12回の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった事情でプロ初の二塁に就く。ヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「明日も勝つ!」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締める。しかし翌13日の同対戦でチームは敗戦。自身も前夜から一転して上原浩治から3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わる。自身は敬遠球を打つのは一度きりと決めていたと語ったにもかかわらず、この日の試合前打撃練習でも大きく外された投球を打つ練習を行っている。以降しばらくの間、新庄を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られる。

7月のオールスターゲーム第2戦(甲子園)にて黒木知宏から記録した自身球宴初安打が全セ・リーグ通算1000本目の安打となる。第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合(倉敷マスカットスタジアム)では岩本勉から球宴初本塁打を達成するなど全セの全2打点を記録して、初のMVPを獲得。

9月10日の巨人戦(甲子園)で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と宣言するも、今度は翌日から球団歴代最長タイ記録の12連敗を喫する。

この年はチームに復帰した恩師である柏原打撃コーチ指導のもとで打撃成績は前年の低迷からは持ち直し、5年ぶりの打率2割5分台に復帰して14本塁打、5月には月間MVPを初受賞。この年の投手4冠を達成した巨人の新人・上原浩治との対戦では打率.381(21打数)・3本塁打を記録し、低めへの速球を難しい体勢で打った本塁打や前述の連続三振などにマスコミも注目する。併殺打を5月後半まで記録せずシーズン初は珍しい三重殺であったが、シーズン総数は21と終わってみれば両リーグ最多でキャリア最多を記録。ゴールデングラブ賞受賞。翌2000年契約の年俸は阪神時代最高の推定7800万円となる。オフに左膝の遊離軟骨除去手術を受ける。
2000年手術の影響で春季キャンプは別メニューからスタートするも、キャリア唯一となる開幕戦4番スタメン出場を果たす。シーズン序盤に故障離脱もするが、4番中堅でほぼ固定起用される。6月17日に自身の公式サイト「CLUB SHINJO」(旧サイト)を開設。

7月20日、甲子園での巨人戦で通算1000試合出場を達成。

9月30日、甲子園での広島戦で9回裏に紀藤真琴から右翼席へ阪神時代最後の本塁打となるサヨナラ本塁打を放ち、これがNPBにおける20世紀最後のサヨナラ本塁打となる(日本シリーズも含む)。

この年は6月に4試合連続本塁打、9月には16試合連続安打を記録。

勝利打点はチーム最多でこれまでの自己最多となる13回を記録して、1回の差で最多勝利打点のタイトル(特別賞)を逃す。猛打賞は10回、打撃主要3部門ではチーム三冠となる打率.278・本塁打28・打点85(本塁打・打点はキャリア最多。本塁打においては「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打が20本)。他の多くの打撃部門でもチーム最多を記録する[80]。ベストナイン、ゴールデングラブ賞受賞。

11月の日米野球に出場して打率.409(22打数)を記録。


MLBへの移籍表明


8月に初取得したフリーエージェント (FA) 権をオフに行使してFA宣言。横浜ベイスターズ、ヤクルトスワローズとの交渉が報道される。シーズン中より残留交渉を重ねてきた阪神が当年の好成績の評価と、人気選手を引き止めようとして提示した条件は、他球団より好条件となる5年契約総額12億円(金額は推定)である。しかし新庄の決断は阪神球団関係者も予想できなかったところである、MLBのニューヨーク・メッツへの契約金30万ドル(日本円換算約3300万円)・年俸20万ドル(同2200万円、メジャー選手最低保障額)プラス出来高払い50万ドル(同5500万円)の3年契約での移籍となる。シーズン中にはメッツの大慈彌功スカウトやオマー・ミナヤGM補佐も試合を視察しているが、交渉事実はメッツ側の都合で公表されていなかったのである。

シアトル・マリナーズへ移籍したイチロー外野手と共に日本人野手(投手以外)としては初めてMLBへ在籍することとなる。

12月11日の移籍発表記者会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団とは、ニューヨーク・メッツです」と発言。背番号は阪神時代と同じ「5」に決まる。
2000年12月27日タレントの大河内志保と入籍。大河内との交際は始まった1993年当時から認めているが、この時 当時から結婚までの約8年間同棲していたことを公表。夫人は芸能活動を2005年まで休止する。
2001年2001年より2009年までは個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し、アワーソングスクリエイティブ(ケイダッシュグループ)と業務提携してタレント活動等を行う。
2001年
オープン戦での好成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞[注 11]を受賞して開幕メジャー入り(MLBでの3年間は毎年開幕メジャー入り)。シーズン序盤は途中出場も目立つが実績に伴ってレギュラーとなっていき、打順は7番・6番・1番・3番・4番など様々となる。MLBでの守備は外野の全てへ毎年就くが、この年のみ中堅メインではなく両翼へも万遍なく就く。

"SHINJOY"

4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス、ターナー・フィールド)8回表の代走としてMLB初出場を果たし、一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁進塁(右中間のウォーニングトラック手前への飛球をアンドリュー・ジョーンズ中堅手が捕球後)。9回裏の左翼守備ではダイビングキャッチをみせ、10回表の初打席ではケリー・ライテンバーグ(英語版)から初安打を記録する。5日の同対戦で7番・右翼手として初スタメン出場。9日の本拠地開幕ブレーブス戦(シェイ・スタジアム)でジェイソン・マーキーから初本塁打を放ち、チームメイトが整列しての日本式の出迎えを受ける。

この初本塁打を機にメディアが新庄の姓を文字った造語である「SHINJOY(シンジョイ)」を使い始め、以降これは愛称として浸透してゆく。

5月24日のフロリダ・マーリンズ戦の大差リード中(11-3)の打席でカウント3ボール-0ストライクから打ちに出た行為が不文律に反するとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受ける。MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた、本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる行為や、その後ホームイン時に手で触塁する行為が相手チームから挑発的と解釈されたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑をかけられたりもする。

左太股の故障をおしての出場を続ける中、6月17日のニューヨーク・ヤンキース戦(シェイ・スタジアム)2点を追い掛ける8回裏一死一三塁の攻撃で二塁ゴロを放ち、全力疾走して一塁へ足から滑り込んで併殺は阻止する。その後に次打者マイク・ピアッツァの逆転決勝2点本塁打が出て、この試合はサブウェイシリーズ屈指の名試合と称され、新庄の故障をおしての走塁は「カミカゼ・スプリント」と称されて報じられる。

しかしこの走塁後に代走を送られたのを最後に、左太股裏(大腿四頭筋)肉離れで15日間の故障者リスト(以下:DL。期間は延長できる制度)に入る。なお最終出場以降もベンチ入りはしており、DL入りを発表したのは20日である。その後A-級・ブルックリン・サイクロンズでの調整出場2試合を経て7月16日より復帰する。

22日、フィラデルフィア・フィリーズ戦(ベテランズ・スタジアム)6回裏一死一塁の中堅守備で、直射日光を受ける中、トラビス・リー(英語版)のバックスクリーン方向への大飛球を背走して追い続けた末にフェンス手前で振り向くことなくポケットキャッチ(背面キャッチ)。このプレーは、ウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」を彷彿とさせると報じられる。ボビー・バレンタイン監督などからクラッチヒッターとの評価を受け打順3番で起用されることが多くなり、9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、チームのプレーオフ進出争いに終盤は4番打者としても貢献する。

この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録して総数は12(リーグ外野手5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手歴代最多記録更新)。

打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達(MLBでの3年間は毎年が未到達)ながら、満塁時に打率.583(12打数7安打)打点17を記録し、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。Topps ルーキーオールスターチーム(英語版)などを受賞する。

翌2002年契約の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で約1億3500万円と自身初の1億円越えとなる。

プライベートでは日本メガネベストドレッサー賞、ベストドレッサー賞を受賞。
MLB1年目は自身の意向で単身渡米し、2年目より夫人も居を移す。代理人をMLBでの3年間、マイク・ニコテラおよびその同僚のジーン・カザレッジョが務める。

通訳を2001年は球団職員・岩本賢一が、2002年よりは球団職員・小島克典(2003年は新庄と共に移籍)が務める。

また2001年より現役引退まで数人のトレーナーと専属契約を結んでいる。

2001年12月16日デシー・レラフォード(英語版)内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレードが発表され移籍。背番号は引き続き「5」。
2002年メジャーリーグベースボール(以下:MLB)のワールドシリーズに日本人で初めて出場した。
2002年球団が獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。1番打者ということで基本的に早いカウントでは打つなとの指示を受け、4月下旬に打撃不振で打順降格してから7月下旬のDL入り(後述)までは7番など主に下位に入る。

5月11日、モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて すぐさま本塁まで約90メートルをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリー(英語版)を補殺。このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入する。試合はそのまま勝利し「新庄の肩が試合をセーブした」などと報じられ、相手監督のフランク・ロビンソンもこのプレーを賞賛する。

7月、オールスターゲーム・ファン投票で100万票以上を得てナショナルリーグ外野手部門第4位となる。

25日の出場を最後に右太股(ハムストリング)を痛め15日間のDLに入る。

その後AAA級・フレズノ・グリズリーズでの調整出場2試合を経て8月13日に復帰出場するが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失う。復帰後の先発出場は激減し、この年は打撃のほとんどの部門において前年より成績を下げる。守備ではリーグ外野手および中堅手のレンジファクター(RF/9)1位を記録。シーズン最終戦の1試合前に決めたチームのワイルドカード獲得に貢献して、自身NPB・MLB通じて初のポストシーズン出場、リーグ優勝を果たす。日本人選手初のワールドシリーズ出場

10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番・指名打者で、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場。指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を中堅守備に就かせたいが、(当時は相手先発が左投手時限定のスタメン起用方針で、かつ第3戦 - 5戦は指名打者制ではなく)シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩せないため」と説明する。

第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンからシリーズ日本人選手初安打となる中前安打を放ち、この時使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。

27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)の3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場するが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れる。チームはそのまま敗れシリーズ制覇を逃し、選手らはナ・リーグのチャンピオンリングを翌年に受け取る。

オフに球団は翌2003年の契約オプションを行使せず、ノンテンダーFAとなり年を越す。

プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。
2003年MLB・NPBの数球団より届いた契約オファーの中から在籍経験を活かせるよう古巣であり、また好きな都市の球団であるニューヨーク・メッツを選び復帰。

1月11日に年俸60万ドル(日本円換算約6000万円)で契約する。背番号は引き続き「5」。

オープン戦で50打席以上のナ・リーグ選手としての最高打率.426を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり、主に相手先発が左投手時の中堅手としての起用で出場試合は減少する。

5月8日、シェイ・スタジアムでのロサンゼルス・ドジャース戦でNPB・MLB通算100補殺(外野守備機会)を達成。

23日のターナー・フィールドでのブレーブス戦では外野手としてキャリア唯一となる、勝利を決める最後のアウトの補殺を記録(中堅からの本塁直接送球で同点の走者を刺す)。

打撃成績は5月にこれまでの自己ワーストとなる24打席連続無安打を記録するなど、次第に低迷していき、6月28日のヤンキース戦デイナイトダブルヘッダー第1試合(ヤンキー・スタジアム)終了後にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちする(最終出場は前日27日の同球場での同対戦)。

その頃「あのような成績でメジャーにいるのは恥ずかしかった」と語る。この年はスプリングトレーニングで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報じられる。

7月17日にロースター40人枠から外れDFAとなり、後日にメッツとマイナー契約を締結。AAA級・ノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率.324(111打数)・本塁打3・打点9を記録。マイナー生活では様々なメジャーとの条件格差を体験するが、昇格を夢見て頑張る若い選手との交流などもあり、これまでの野球人生で一番に学べ、楽しい時代であったと語る。

オフにノンテンダーFAとなり、MLB・NPBの数球団より契約オファーを受ける。

なお自身は渡米する2001年シーズン前には、MLB移籍は3年間と示唆している。
2003年11月19日
12月3日
移籍先はNPBの翌シーズンより北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、契約金4000万円・年俸8000万円プラス出来高払い5000万円の2年契約(金額は推定、補殺数の出来高払いもあり)を結ぶ。

最初にオファーを受けた球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。

他にオファーを受けたNPBの球団は千葉ロッテマリーンズである。

また非公式ながら最初に獲得を打診してきた球団は巨人であるという。古巣の阪神は外野手層が厚くなった事情からオファーを出さず。

入団発表予定の前日となる11月19日、映画『バッドボーイズ2バッド』の日本公開特別試写会にて、非公式に入団を発表する。

翌20日の仮契約の席にてサインする様子が新庄の希望で後にテレビ放送される。仮契約後の入団公式発表会見では、北海道などのファンが自身の入団を求めて集めた署名を紹介する。

12月3日に新本拠地・札幌ドームのグラウンドにて一般公開され行われた入団発表(正式契約)の会見では、「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げる。登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、自身の専属広報に荒井修光が就任し現役引退まで務める。また日本ハム時代の専属トレーナーは自身運営の鍼灸院スタッフが務める。

入団初年度よりファンサービスの一環として、本塁打時の談話にて独特の打法命名を始めたほか、翌年にかけて試合前シートノックにて かぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを5回行い、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残す。
2004年北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」であり、表記法をイニシャル以外でのアルファベットとしたのは日本プロ野球(以下:NPB)において初めてである。
2004年開幕から7月まで主に2番中堅、8月早々に打順を坪井智哉と交代した後はプレーオフまでビッグバン打線の1番で起用される。

3月28日、開幕2戦目となる大阪ドームでの大阪近鉄バファローズ戦で吉田豊彦から「北海道日本ハム」としての球団第1号本塁打を記録。

5月30日、函館市千代台公園野球場での西武ライオンズ戦で張誌家からNPB通算1000本安打を達成。

球宴でホームスチール

前半戦最終試合(札幌ドーム)で受けた入団後初のヒーローインタビューと後日の取材にて、オールスターゲーム出場について触れ「MVPは僕のものです」と宣言する。

7月11日、第2戦(長野オリンピックスタジアム)3回裏二死三塁の場面(バッテリー:元同僚の福原忍・矢野輝弘、打者:同僚の小笠原道大)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディング。投手からすぐさま送球されクロスプレーでセーフとなり、球宴史上初となる単独本盗を記録。

ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表現する。このプレー直前に新庄は三塁塁上から、三塁ベースコーチを務めていた松中信彦や三塁側の対戦相手である全セ・リーグのベンチの古田敦也・山本昌などに対して本盗敢行についての相談を行い、古田・山本は新庄に対して敢行をあおるジェスチャーを送っていた。この試合では二塁打2本を記録して、球宴通算打率を.382とし当年開催終了時点30打席以上の選手として歴代5位となる。

また本盗での決勝点と合わせ全パ・リーグの全2得点も記録して、先の宣言通りにMVPを獲得。

ヒーローインタビューでは、この年起こったプロ野球再編問題を受け「これからは、パ・リーグです」と宣言する。

走者追い越しでサヨナラ「フェンス越え」安打

プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となる、9月20日の福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、森本稀哲・島田一輝・石本努・坪井智哉との同僚外野手5名で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりものパフォーマンスを実施する(他人と合同では初実施)。

かぶりもののモデル(秘密戦隊ゴレンジャー、頭部の仮面のみ)

プレーオフ進出争いを繰り広げる中での試合では、4-8で迎えた4回裏に新垣渚から左翼へソロ本塁打を放つ。さらに9回裏にはチームが9-12から12-12の同点として なおも二死満塁の場面で、三瀬幸司から4回の本塁打時と同じく左翼フェンス奥の三角形の空間へ打球を運ぶ。

この場面で一塁走者の田中幸雄は歓喜のあまりに新庄を二塁の手前で迎え、二人は抱き合ってその場で一回転。この動作により新庄は前位の走者を追い越したことになりアウト(後述)となる。しかし新庄のアウトより先に三塁走者が本塁へ到達していたのでサヨナラゲーム(勝利)は成立する(二死からの場合、追い越し行為による第3アウト〈後述〉より先に本塁到達している走者の得点のみが認められる。同点であったため、三塁走者の得点をもってサヨナラゲームとなりスコアは13x-12)。「新庄はアウトとなった」「第3アウト」と前述したが、追い越し行為以前にサヨナラゲームが成立しているため、記録の上でこの回の攻撃における第3アウトは記録されていない(この回の開始から登板した三瀬の投球回は2/3回。新庄の打席には通常はアウトとなった場合に記録される刺殺ではなく、一・二塁走者と同じく残塁が記録される)。

なお新庄の打撃記録はサヨナラ適時打(単打)となる。サヨナラ本塁打の取り消しは史上3例目であるが、取り消された結果でもサヨナラ勝ちのままとなるのは初めてである。なおサヨナラ打による得点が満塁本塁打の場合の4ではなく1となったことにより、この試合のチームの総得点となった13得点というのは、サヨナラゲームにおけるチーム総得点のパシフィック・リーグ歴代最多タイ記録である(2016年5月14日時点)。

また仮に満塁本塁打が成立していたとすれば、個人通算サヨナラ満塁本塁打のNPB歴代最多タイ記録達成(当時2本)となるところであった。新庄はアウトとなっているがダイヤモンドを一周し、本塁付近でチームメイトから手荒い祝福を受ける。この後、新庄の満塁本塁打が消えたことに対し責任を感じた田中より謝罪を受け、新庄は「いいんです。勝ったんだから」と笑顔で返す(なおシーズン終了後に球団の三沢今朝治統括本部長はこの打席の査定をサヨナラ満塁本塁打と同様に行うと発表)。

ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言。

さらに「明日も勝つ!」と宣言して、阪神時代にはお立ち台でその言葉を発すると翌日チームは負けるというジンクスが報道されていたが、翌日も勝利する。

この年は猛打賞12回(チームは該当試合で11勝)・打率.298(リーグ16位)とそれぞれキャリア最高を記録。

7月から9月はいずれも月間打率3割以上を残し[143]、7月には下旬に『スパイダーマン』のかぶりものパフォーマンスを行った試合から5試合連続マルチヒットを記録。

8月には中旬から7試合連続マルチヒットとリーグ月間最多二・三塁打(11本)を記録。

9月には全16試合中15試合で安打し、前述したストライキ明けの試合から3試合連続本塁打するなど、それぞれリーグ月間最多の本塁打7・打点20・得点15を記録して月間MVPを受賞。

守備でもリーグ外野手最多272刺殺を記録するなど、球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献。

第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たす。

11月の日米野球にファン投票選出されるも、シーズン終盤から悪化させた右太股裏痛を理由に出場を辞退する。シーズンMVPを選定する記者投票で第4位(チーム最多)となる点数を得る。受賞は他に、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、JA全農Go・Go賞3回(歴代年間最多タイ)、日本プロスポーツ大賞功労賞など。
2005年1番中堅で開幕して、打順は5月中旬より7月中旬の故障(後述)までは主に5番で起用される。

4月23日、東京ドームでのオリックス・バファローズ戦でNPB・MLB通算1500試合出場を達成。5月4日、インボイスSEIBUドームでの西武戦で大沼幸二の前に三振に倒れ、NPB・MLB通算1000三振を記録。

6月5日、ナゴヤドームでのセ・パ交流戦・中日戦で山本昌からNPB・MLB通算200本塁打を達成。

11日、甲子園での古巣阪神戦で本塁打を打った際に阪神ファンからも拍手を受け、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名する。

7月上旬より自身初の3試合連続猛打賞を記録するも、19日に死球を受けて右手小指球部を挫傷。その後はその故障による登録抹消期間もあり試合出場がまばらとなり、オールスターゲームでも話題は提供するも打席数は1に終わる。

この年は規定打席に到達できず。ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票で受賞するが、授賞式を欠席し、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」と声明を出す。

2年契約満了のため結んだ再契約は、新庄側の希望で1年契約、年俸はNPB歴代最高昇給額の2億2000万円増(当時)であり、キャリア最高額の3億円となる。プライベートではベストフォーマリストを受賞。
2006年この年、阪神時代の監督であった中村勝広がオリックスの、野村克也が東北楽天ゴールデンイーグルスのと同リーグ球団監督に就任し、ロッテのボビー・バレンタイン監督(2001年メッツ時代の監督)と合わせ、3人の恩師と対戦することとなる。1年間を6番中堅でほぼ固定起用される。自身の発案で「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」と銘打ち、何かやりますと予告していた3月25日の開幕戦(対楽天、札幌ドーム)試合開始にあたり守備へ就く際に、自身がハーレー・ダビッドソンのトライクを運転して入場し場内を周回して守備位置へ向かう。続いて他の先発メンバーもそれぞれサイドカーの助手席に乗車して守備位置へ向かうというパフォーマンスを、満員となった観客の前で実施。これを皮切りとして、この年の試合前に本格的なパフォーマンスショーを行った3試合はいずれもチームが勝利を収める。

開幕直後の引退表明

4月18日、東京ドームでのオリックス戦にて、1本目の本塁打を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名することにより、試合中に開幕直後にもかかわらず当シーズン限りでの現役引退を表明。そしてヒーローインタビューで改めて引退を宣言する。なお引退を表明する今回の命名を最後に、2004年より続けてきた本塁打への打法命名を封印する。

引退表明以降のマスコミからの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道される。

襟付きアンダーシャツ問題

30日の福岡ソフトバンクホークス戦へ出場した際、ユニフォームの下に着用していた襟付き練習着についてマナーの問題で物議を醸す。

自身は試合前に審判団へ同品を着用しての出場可否確認を求め、前川芳男パシフィック・リーグ審判部長の「現行規則では明記されていないため、今後の検討材料にする」との判断により着用許可を得ていた。試合中から試合後に渡り、相手球団の王貞治監督およびフロントが苦言を呈し、審判団の協議の末「今後は着用しての試合出場不可」と通告を受ける。

さらなる物議や新庄の意図についても含め、6月16日、札幌ドームでの広島戦で佐々岡真司からNPB通算200本塁打を達成。

7月、現役最後となるオールスターゲームの第1戦(明治神宮野球場)にて、中堅守備での好捕などでSANYO賞を2つ獲得して優秀選手賞を受賞。

8月22日、岩手県営野球場での楽天戦で渡邉恒樹からNPB・MLB通算1500本安打を達成。


引退試合・セレモニー

9月27日、レギュラーシーズン最終戦となる札幌ドームでのソフトバンク戦にて、この日限定で背番号をプロで最初に背負ったに変更。これに伴い、元々だった渡部龍一も1日限りに変更する。チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合後に引退セレモニーが行われる。場内を消灯して大型ビジョンに流された野球人生を振り返るVTRを、中堅の守備位置から帽子の上にグラブを被る姿(日本ハム時代の新庄の恒例となっている姿である)で見守った後、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後に。ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツの背中には「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」とファンへ向けるメッセージがプリントされていた。スピーチは行わなかったが、去り際には大型ビジョンに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」と署名つきの直筆メッセージが表示された。なお球団はこの時点では新庄の引退を認めておらず(慰留するため)、このセレモニーは球団ではなく自らがプロデュースしたものであり、先の引退表明を東京で行ったことに対する地元ファンへのけじめの意味合いも込められていた。予定通り、翌28日に渡部と共に背番号を戻す。

自身NPBでは初めてのリーグ優勝を決めたプレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク、札幌ドーム)の2試合通算で6打数2安打1打点(第1戦の勝利打点)を記録。

自身初出場の日本シリーズで、日本一を達成して引退

日本シリーズ終了後の11月に開催予定の日米野球にファン投票最多得票で選出されるも、引退を予定している選手であることを理由に出場辞退を表明し「日本シリーズで完全燃焼したい」などと声明を出す。

シリーズで対戦した中日のアレックス・オチョアは、新庄がジャイアンツ時代に2002年のワールドシリーズで対戦したエンゼルスの選手としても出場しており、この両人はMLB・NPB両方のシリーズで選手として対戦した初めての例となる。このシリーズでチームは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝き、個人5試合通算17打数6安打1打点を記録。10月26日の最終第5戦(札幌ドーム)8回裏、涙を流して入った現役最後の打席では、中里篤史からの全3球ストレート勝負にて空振り三振に倒れる。最終回の守備、二死からアレックスのレフトフライで日本一が決まると、捕球した森本稀哲はマウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱き合う。そして両者はマウンド付近にできている歓喜の輪へ向かい歩き出すが、新庄は涙を流し、まともに歩くことができなかった。その後、選手・首脳陣・スタッフ達の方が外野へ向かい歩いていって左中間で抱擁し合い、胴上げが新庄→小笠原道大→田中幸雄→大社義規前オーナーの遺影を掲げた大社啓二オーナー→トレイ・ヒルマン監督の順に行われる。日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」を共に達成してユニフォームを脱ぐ。

翌27日に札幌ドームのグラウンドで引退会見を行い、引退後の活動方針については明言を避ける。

11月のアジアシリーズについても、気力と体力の限界を理由に出場を辞退する。

11月8日、10度目のゴールデングラブ賞を受賞。

14日発表のシーズンMVPが選定された記者投票で第5位となる点数を得る。

18日、札幌で行われた優勝パレードに私服姿で参加し、これがファイターズの新庄としての最後の姿となる。シーズン中から引退撤回を求めるファンが署名活動を行い、球団からも撤回要請を受けていた。

しかし本人の意思は固く、球団側は手続き上、自由契約とすることを勧めるが、新庄側の希望で任意引退となる。
2007年1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式サイトの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告。

3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞を受賞。

5月10日、COTTON USAアワードを受賞。

6月21日、前年に行った寄付について紺綬褒章を受章。

12月28日、志保夫人との離婚を自身の公式サイトにて連名で発表。
2008年1月28日、株式会社レハサフを設立して取締役に就任。

業務内容はアスリート・アーティスト等のマネジメントやコスメティック・アパレルグッズの企画・販売など。自身の公式サイトを自社のものと共同として、名称「CLUB SHINJO」から「LHSF_COLONY」へ変更(2013年に自社を閉鎖するが、以降も個人の公式サイトとして存続)。

レハサフはこの年の5月より新庄の元同僚・森本稀哲とマネジメント契約を結んでいた期間がある。

5月18日、福岡 Yahoo! JAPANドームでのソフトバンク対日本ハム戦の始球式投手として余興ながら森本と1打席の真剣勝負を行う。

11月23日、札幌ドームでの日本ハムのファンフェスティバルにて特設スペース「SHINJOコーナー with ひちょ」が設置され、自身および森本のプロデュース商品などが販売される。28日、ホテルオークラ東京にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌年の自身の活動予定(自社商品の開発、俳優、歌手、地方競馬の馬主、画家)を発表。

初の絵画個展を29日より年末にかけて開催。
2009年絵画制作モデルとして購入する馬が競走馬となる予定であることから、地方競馬の馬主資格を取得していた。

同馬はタノシンジョイ号と命名され、9月に初出走で勝利し、翌年には中央競馬へも一度出走する。

またこの年には映画『僕たちのプレイボール』製作のエグゼクティブプロデューサーを務める。同作品主演・小原裕貴が11月1日の日本シリーズ・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に付き添いとしてグラウンドへ登場し、その後の同試合テレビ中継にて自身初の野球解説を担当する。
2010年2010年前半を最後にメディア出演はなくなり、この頃よりインドネシア・バリ島に住居を構え滞在する。

現地へは以前CM撮影に訪れたことがきっかけといい、現役引退後すぐに始めた絵画制作に加え、2011年よりモトクロス競技の練習を開始。

また地元の子供達への簡単な野球指導も行っている。
2011年8月初旬新庄の父親の通夜・告別式にてメディアに映る。

9月8日放送のTBS『世界の強運実話!もってる人グランプリ』にて2年ぶりにテレビ番組へ出演し、以降も仕事などの度に日本へ帰国している。

10月、球団買収される予定の横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の買収企業がDeNAとなる場合の次期監督の最有力候補に挙がっていると『サンケイスポーツ』が23日より複数回に渡り報じるも実現せず。

12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される。
2012年2012年11月18日の阪神対巨人OB戦(甲子園)には参加しなかったが、川藤幸三・阪神OB会長からの要望を受けてバリ島の自宅およびモトクロス場で収録したビデオメッセージがイニング間に大型ビジョンで放映される。

この模様および現地での生活ぶりが12月29日のダイジェスト番組(日本テレビ)で松村邦洋のリポートによる特別企画として放送される。日本国内では以降も時折ではあるがCM・テレビ番組出演等でメディアに登場している。

プラファーとマネジメント契約を結んでいる。
2013年エージェントオフィスタクトとマネジメント契約を結んでいる。
wikipediaより引用抜粋

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