西暦 | 年月 | 出来事 | ヴィムショッタリ | チャラ | ヨーギニ | トランジット |
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1890年 | 9月15日 | イギリスの保養地デヴォンシャーのトーキーにて、フレデリック・アルヴァ・ミラーと妻クララの次女、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとして生まれる。正規の学校教育は受けず母親から教育を受ける。 | ||||
1901年 | 父が死去。この頃から詩や短編小説を投稿し始める。ちなみに、詩や小説を書くことになった理由は、インフルエンザにかかり、読む本がなかったからだという。 | |||||
1909年 | 自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。 | |||||
1914年 | アーチボルド・クリスティ大尉と結婚。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。 | |||||
1919年 | 娘ロザリンド・ヒックスが誕生。 | |||||
1920年 | 数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版、ミステリ作家としてデビューする。 | |||||
1926年 | 『アクロイド殺し』を発表。大胆なトリックと意外な真犯人をめぐって、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名に。また、母が死去する。この年アガサは謎の失踪事件を起こす。 | |||||
1928年 | アーチボルドと離婚。アーチボルドは愛人と再婚。 | |||||
1930年 | 中東に旅行した折に、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)と出会い、9月11日再婚する。 この結婚について「クリスティはなぜ彼と結婚したかと問われて『だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから』と答えた」という逸話がある。一説によると誰かが流した心ないジョークで、クリスティは作者を殺してやるといきまいていたとも言われるが(ハヤカワ・ミステリの解説より)、孫のマシュー・プリチャードはクリスティ自身が冗談めかしてこのように語ったとしている(『オリエント急行殺人事件』DVD特典インタビューより)。 | |||||
1943年 | 『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。 同年 孫マシュー・プリチャードが誕生。 | |||||
1952年 | 書き下ろしの戯曲『ねずみとり』の世界最長ロングラン公演(1952年11月25日 - )始まる。 | |||||
1955年 | MWA賞巨匠賞 受賞。 | |||||
1956年 | 大英勲章第3位 (CBE) 叙勲。 | |||||
1971年 | 大英勲章第2位 (DBE) 叙勲。 | |||||
1973年 | 『運命の裏木戸』を発表。最後に執筆されたミステリ作品となる。 | |||||
1975年 | 『カーテン』の発表を許可する。 | |||||
1976年 | 1月12日 | 高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去。死後『スリーピングマーダー』が発表される。遺骸は、イギリスのチョルシーにあるセント・メアリ教会の墓地に埋葬された。 | ||||
2009年 | 『犬のボール』など未発表短編2篇が発見され、創作ノート『アガサ・クリスティの秘密ノート(上・下)』とともに公刊された。 | |||||
wikipediaより引用抜粋 |
西暦 | 年月 | 出来事 | ヴィムショッタリ | チャラ | ヨーギニ | トランジット |
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母方の実の祖母メアリ・アンとマーガレットの姉妹は孤児になり、イングランド南東部のサセックス州の親戚のもとで育つ。 実の祖母は16歳でフレデリック・ベーマー大尉と結婚して4人の子供をもうけるが、大尉は11年後に死去。マーガレットは、先妻を亡くした裕福なアメリカ人ナサニエル・ミラーと結婚してイングランド北東部のヨークシャー地方に住んでいたが、大尉の死後に実の祖母の娘で9歳になる母クララを養子に迎える。 母と、ナサニエルと先妻の息子だった父フレデリック・アルヴァ・ミラーが出会う。 | ||||||
1878年 | 4月 | アメリカ人実業家の父フレデリック・アルヴァ・ミラーとイギリス人の母クラリッサ・ベーマー(クララ)が結婚し、イングランド南西部のデボンシャー州トーキーに住む。姉マーガレット(マッジ)、トーキーで生まれる。父は家族をアメリカの親戚に紹介しようと、一家揃ってアメリカへ渡る。 | ||||
1880年 | 6月 | 兄ルイス・モンタント(モンティ)、アメリカで生まれる。父の親友の名を貰う。 母が、トーキーでヴィクトリア朝風の屋敷アッシュフィールドを購入する。 | ||||
1890年 | 9月15日 | アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラー、トーキーで3人きょうだいの末っ子として生まれる。 子供時代 裕福で幸福に暮らしていたが、姉と兄は寄宿学校に入っていて孤独だったので、空想の世界で遊ぶ。 正規の学校教育は受けなかったが、幼時から読書が好きで、特にチャールズ・ディケンズが大好きだった。 | ||||
1895~1896年 | 冬 | アメリカの財産管理人が投資に失敗して、一家の財政が傾く。 | ||||
1896年 | アッシュフィールドを人に貸して、家族で生活費の安くてすむ海外へ行き、フランス南西部のポー町に半年間滞在する。家庭教師につきフランス語を修得する。 帰国後、ドイツ人のピアノ教師フロイライン・ウーデルからレッスンを受ける。 | |||||
1901年 | 11月26日 | イーリングに初めて路面電車が走った事に触発されて詩を書き、地元の新聞に掲載される。11月26日 父が肺炎で死去、享年55歳。母の勧めもあり、この頃から詩や短編小説を様々な雑誌に投稿するようになる。 | ||||
1902年 | 姉は裕福な工場主の息子ジェームズ・ワッツと結婚し、マンチェスターのチードル・ホールに住む。ジュール・ヴェルヌ全集をフランス語で読破し、アンソニー・ホープの小説『ゼンダ城の虜』を読む。 | |||||
1903年 | 姉の息子ジャックが誕生。冬 母とアガサはベビーシッターとしてチードル・ホールで過ごす。アガサは義兄の妹ナンと知り合い、生涯を通じての友人となる。姉を通じてアーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズのシリーズを知る。 | |||||
1905年 | いくつかのパリの寄宿学校に留学する(約一年半)。 | |||||
1907年 | コンサート・ピアニストになりたいという夢は人前であがる性質のために断念し、オペラ歌手になりたいという夢は声量不足で挫折する。 | |||||
1908年 | アガサがインフルエンザからの回復期で退屈していると、母から短い小説を書くように勧められ、「美女の家」という約30ページの物語を書いて祖父ナサニエル・ミラーの名前でいくつかの雑誌社に送るが、採用されなかった。 | |||||
1909年 | 長編小説「砂漠の雪」を書き、隣人の作家イーデン・フィルポッツに批評を請う。ガストン・ルルーの推理小説『黄色い部屋の秘密』に触発されて、短編小説「幻影」と「あまりに気ままなために」を書き、フィルポッツに批評を請うと、アガサの才能に折り紙を付けてくれた。 | |||||
1910年 | 冬 | 母が医者から転地療養を勧められたためエジプトのカイロのジェジーラ・パレス・ホテルに逗留する(約三ヶ月)し、アガサはカイロで社交界にデビューする。 海軍士官ウィルフレッド・ピーリーに求婚されて承諾するが、数年間イギリスを離れる事になった彼の不在を喜んでいる事に気づいて婚約を解消する。 レジナルド・ルーシー少佐(レジー)に求婚されて承諾するが、彼は婚約期間を2年と決めて、香港の連隊に戻ってしまう。 | ||||
1912年 | 10月12日 | チャードリーのクリフォード卿のダンス・パーティで英空軍将校アーチボルド・クリスティー少尉(アーチー)と出会う。 | ||||
1914年 | 7月28日 | 第一次世界大戦が勃発する(~1918年11月11日)。 アーチボルド・クリスティー少尉がフランスの前線へ召喚される。 12月24日 アーチボルド・クリスティー少尉と二人だけの慌しい結婚式を挙げる。 アーチーはフランス戦線で戦い、後に大佐に昇進し、いくつもの勲章を授与される。 その間、アガサはトーキーの陸軍病院でボランティアの看護婦となり、初めは看護助手として、後に薬局の薬剤師として働き(~1918年)、薬局勤務を通して毒薬の知識を得る。 この環境に触発されて詩「薬局にて」を作る。 姉から「あなたには探偵小説を書けない」と言われた事がきっかけで、探偵小説を書き始める。 | ||||
1916年 | 『スタイルズ荘の怪事件』を脱稿し、名探偵エルキュール・ポアロを生み出す。複数の出版社に送るが、採用されなかった。 | |||||
1917年 | 最期の試みとして『スタイルズ荘の怪事件』の原稿をボドリー・ヘッド社に送る。 | |||||
1918年 | アーチーが空軍省に役職を得る。9月 ロンドンに家具付きの家を借りて引っ越す。 11月11日 第一次世界大戦が終戦する。 | |||||
1919年 | 8月5日 | 娘ロザリンドがアッシュフィールドで誕生。 | ||||
1920年 | ボドリー・ヘッド社の編集者ジョン・レーンに見出された最初の探偵小説『スタイルズ荘の怪事件』を出版する。母に捧げられた。初版約2000部を売り切るが、収入は僅か25ポンドだった。 | |||||
1922年 | おしどり探偵トミーとタペンス初登場の冒険小説『秘密機関』をボドリー・ヘッド社から出版する。 帝国博覧会の宣伝使節となったベルチャー少佐に、財政顧問として同行を頼まれた夫と共に世界一周旅行に出発し(約一年間)、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、カナダ、アメリカをめぐる。 | |||||
1923年 | 世界一周旅行から帰国する。 | |||||
1924年 | 1月 | 著作権代理人のエドマンド・コークを通してウィリアム・コリンズ社と出版契約を結ぶ。 詩集『夢の道』をジョフリー・ブレス社から自費で出版する。 ロンドンから南西郊外のサニングデールに転居し、アーチーの提案で「スタイルズ荘」と名付ける。 | ||||
1925年 | 冒険コメディー小説『チムニーズ館の秘密』をボドリー・ヘッド社から出版する。 | |||||
1926年 | 春 | 姉に捧げた探偵小説『アクロイド殺し』がコリンズ社から初めて出版されると、このトリックについてフェアかアンフェアかの論議を呼び、一躍有名になる。 早春 母、死去。精神的動揺が大きかった。 夏 アガサは、娘とアッシュフィールドで過ごす。 8月5日 アーチーが、ナンシー・ニールと結婚したいと離婚を迫る。 12月3日金曜日 有名な10日間の「失踪」事件を起こす。 12月13日 ヨークシャーの保養地ハロゲイトにあるハイドロパシック・ホテルで発見される。 マスコミ各紙がこの事件を報道し、一部からは売名行為ではないかと叩かれたが、後に記憶喪失症と診断される。 | ||||
1927年 | 初め | 姉の家の主治医からロンドンの専門医を勧められて、ハーレー街の精神科医の治療を受けて過ごす。 | ||||
1928年 | クリスティー作品が初めて映画化され、『秘密機関』を基にした無声映画「Die benteuer GmbH」(冒険会社)がドイツで製作される。 イギリスでも映画「謎のクィン氏」が製作される。 4月 アーチーとの離婚が成立する。 5月 『アクロイド殺し』がマイクル・モートンにより劇化され、「アリバイ」として上演される。 秋 中近東に初めて旅行をする。ウルの発掘キャンプを訪問し、考古学の権威レナード・ウーリー博士夫妻に歓迎される。考古学への興味を感じ始める。 冬 秘書兼家庭教師シャーロット・フィッシャー(カーロ)と娘と共にカナリア諸島で過ごす(~1929年冬)。 | |||||
1929年 | ロンドンのチェルシーにあるクレズウェル・プレースニニ番地にコテージ風の家を手に入れる。この頃、「探偵クラブ」に加入する。 | |||||
1930年 | ハーリ・クィン氏登場の短編集『謎のクィン氏』を出版する。ミス・マープル初登場の『牧師館の殺人』を出版する。 初めての普通小説『愛の旋律』をメアリ・ウェストマコット名義で出版する。 クリスティー自身の初めての戯曲「ブラック・コーヒー」がロンドンで初演される。 2月末 二度目の中近東旅行に出発する。ウルの発掘キャンプを訪問し、ウーリー博士の紹介で、博士の助手で25歳の考古学者マックス・E・L・マローワンと知り合い、マックスの案内で小旅行に出かける。娘が肺炎にかかったという電報が届き、マックスに付き添われてイギリスに帰国する。マックス、大英博物館に勤務する。 夏の初め マックス・E・L・マローワンと婚約する。9月11日 マックス・E・L・マローワンとスコットランドのエジンバラで再婚し、キャムデン街に住む。 マックス、ウルの発掘キャンプで働く。 | |||||
1931年 | クリスティー作品の初めてのトーキー映画として「アリバイ」が映画化される。アガサとマックスはテムズ河畔ウォリンフォードのウィンターブルック・ハウスを購入する。 マックス、スコットランドの考古学者キャンベル=トンプソン博士が指導しているニネヴェの発掘現場で働く。 冬 エジプトに滞在し、ルクソールのツタンカーメンの墓を訪れて以来、古代エジプトに多大な興味を抱く。 | |||||
1932年 | アガサはニネヴェに旅行し、マックスの仕事場テル・コチュクで発掘シーズンを過ごす。 | |||||
1933年 | 秋 | マックスに勧められて幾何学の講座を受講する。大英博物館と古代遺物研究所の助力を得て、マックスが調査隊を組織した初めての発掘がイラクのニネヴェ近くのアルパチヤで行われ、一人前の調査隊員としてアガサも同行する。 | ||||
1934年 | 『オリエント急行の殺人』を出版する。 自伝的性格の強い小説『未完の肖像』をメアリ・ウェストマコット名義で出版する。 | |||||
1935年 | シリアのチャガール・バザールでマックス自身の二番目の発掘が行われる。 | |||||
1937年 | 三幕の戯曲「アクナトーン」を執筆するが、上演されなかった。 代表作『ナイルに死す』を出版する。 | |||||
1938年 | 両親の家アッシュフィールドを売る。デヴォンにジョージ王朝風のグリーンウェイ・ハウスを購入する。 | |||||
1939年 | 『そして誰もいなくなった』を出版する。 9月3日 第二次世界大戦が勃発する(~1945年9月2日)。 | |||||
1941年 | 娘ロザリンドが職業軍人のヒューバート・プリチャード少佐とデンビーで結婚する。 グリーンウェイ・ハウスは、疎開してきた子供達の住まいとして臨時に貸し出され、マックスは空軍省に職を得たので、ロンドンに引越す。マックスは近東の専門家としてカイロに派遣される。アガサは、週三回、大学病院の薬局で篤志薬剤助手として働く(~1944年末)。 | |||||
1942か3年頃 | ポアロ最後の事件である『カーテン』、ミス・マープル最後の事件である「巣のなかの卵」(『スリーピング・マーダー』)を執筆し、高い保険をかけて銀行の金庫に保管する。前者は娘に、後者は夫マックスに贈られた。 | |||||
1943年 | 9月21日 | 娘ロザリンドがアブニーで息子マシューを出産。 11月 『そして誰もいなくなった』を脚本化し、ロンドンの劇場で初演を迎える。これ以後、演劇活動を始める。 | ||||
1944年 | 紀元前2000年のエジプトを舞台にした探偵小説『死が最後にやってくる』を出版する。 メアリ・ウェストマコット名義の小説『春にして君を離れ』を出版する。 秋 娘婿のヒューバートが戦死する。 | |||||
1945年 | 映画「そして誰もいなくなった」がルネ・クレール監督によりアメリカで製作される。 5月 マックスが帰国する。 12月25日 グリーンウェイ・ハウスを取り戻す。 | |||||
1946年 | イラクとシリアでの発掘の回想録『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』をアガサ・クリスティー・マローワン名義で出版する。 | |||||
1947年 | 5月26日 | メアリ皇太后の80歳の誕生日を記念してBBCがラジオの特別番組を企画し、皇太后の希望で執筆したラジオドラマ「三匹の盲ネズミ」が放送される。 | ||||
1948年 | マックスのイラクのニムルド発掘(~1958年終了)に調査隊員として同行する。この発掘はマックスの最大の業績となった。 | |||||
1949年 | 娘ロザリンドが弁護士で東洋学者のアントニー・ヒックスと再婚する。≪サンデー・タイムス≫が、メアリ・ウェストマコットがアガサ・クリスティーである事を暴露する。以後10年間、ニムルドでの発掘が続く。 | |||||
1950年 | 王立文学協会のフェローになる。ミス・マープル物の『予告殺人』を出版し、売り上げ記録を作る。ニムルドの仕事部屋「ベイト・アガサ(アガサの部屋)」で自伝のための覚え書を書き始める(~1965年)。 | |||||
1951年 | 興業主のピーター・ソーンダースと初めて組んで仕事をした戯曲「ホロー荘の殺人」が初演される。 | |||||
1952年 | 11月25日 | ロンドンのアンバサダー劇場で「ねずみとり」が上演される。 この劇は、世界で最も長いロングラン興業となる。 | ||||
1953年 | 10月28日 | 戯曲「検察側の証人」のロンドンでの初演が好評を博す。 | ||||
1954年 | アメリカ探偵作家からグランド・マスターズ賞を受賞する。 | |||||
1955年 | アガサとマックスは銀婚式を祝う。女王エリザベス二世とエジンバラ公がウィンザー・レパートリー劇場での「検察側の証人」に臨席する。アガサ・クリスティー・リミテッドを創立する。 | |||||
1956年 | CBE(Commander of the British Empire)を叙勲する。 | |||||
1957年 | 1957年 67歳 傑作『パディントン発4時50分』を出版する。 『検察側の証人』を映画化した「情婦」がビリー・ワイルダー監督により製作される。 | |||||
1958年 | ドロシー・セイヤーズを継いで「探偵クラブ」の会長に就任する(~1976年1月12日)。 | |||||
1960年 | マックス、CBEを授与される。 | |||||
1961年 | エクセター大学より名誉文学博士号を授与される。 | |||||
1962年 | 12月 | 最初の夫、アーチボルト・クリスティー死去。『パディントン発4時50分』を基にした映画「殺人と彼女は言った」がイギリスで製作される。 | ||||
1965年 | 宗教的な物語と詩を集めた『ベツレヘムの星』をアガサ・クリスティー・マローワン名義で出版する。 | |||||
1966年 | 夫マックス・マローワンが『ニムルドとその遺物』を二巻本として出版する。 | |||||
1968年 | 考古学分野での貢献により、夫がナイトに叙せられる。アガサは「レディー・マローワン」 を名乗れるようになる。 | |||||
1970年 | 80冊目のミステリ『フランクフルトへの乗客』を出版する。 実際起こったハイジャック事件を先取りしていたとして話題をまく。 | |||||
1971年 | DBE(Dame Commander of the British Empire)に叙せられ、「デーム・アガサ」となる。 | |||||
1972年 | マダム・タッソーの蝋人形館にアガサが並ぶ栄誉を得る。 | |||||
1973年 | 10月 | 『詩集』二巻がコリンズ社から出版される。 最後に書いた小説『運命の裏木戸』を出版する。10月 心臓発作に襲われ、創作活動に終止符が打たれる。 | ||||
1974年 | イギリスで映画「オリエント急行殺人事件」が製作され、世界中でヒットする。 | |||||
1975年 | 戦争中に書かれていたポアロ最後の事件『カーテン』が出版される。 | |||||
1976年 | 1月12日昼過ぎ | アガサ・クリスティーがオックスフォードシャー州ウォリングフォ-ドの自宅で死去、享年85歳。 5月 ロンドンのセント・マーティンズ・イン・ザ・フィールズ教会で追悼式が行われる。 10月 戦争中に書かれていたミス・マープル最後の事件『スリーピング・マーダー』が出版される。 | ||||
1977年 | 『アガサ・クリスティー自伝』が出版される。 夫マローワンの回想録『Mallowan's Memoirs』がコリンズ社から出版される。 | |||||
1978年 | 8月19日 | 夫マックス・マローワンが心臓発作で死去。 | ||||
1994年 | モニカ・グリペンベルクがアガサの伝記『アガサ・クリスティー』を出版する。 | |||||
wikipediaより引用抜粋 |