森進一

氏名森進一
ローマ字Mori Shinichi
生年月日1947年11月18日
出生時間22:00
出生場所山梨県甲府市
Rodden Rating
ナクシャトラ(Asc)アーシュレーシャ
ナクシャトラ(Mo)ウッタラアシャダー
職業歌手、作曲家、社会福祉活動家
所属
業績
その他
データソースwikipedia, 2チャンネル

コメント

検証メモ1980年 大原麗子と結婚 ラーフ/金星 ラーフはD9の2室 金星は6,11Lで2室 1984年 大原麗子と離婚 ラーフ/火星、木星/木星 木星は6L 1986年10月1日 森昌子と結婚 木星/土星/土星 木星は9L 土星は7L D9で、木星はLL 土星は2L 2005年3月 C型肝炎になる 土星/水星/ラーフ 土星は7,8Lでラグナに在住 水星は3,12Lで4室 ラーフは11室 2005年4月19日 森昌子と離婚 土星/水星/ラーフ 2007年2月 おふくろさん騒動が勃発、川内康範との確執が表面化 土星/ケートゥ/水星 土星は7,8L
検証メモ(ジャイミニ)
検証メモ (その他)

morishinichi_chart
西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
山梨県甲府市で生まれる。母子家庭に育ち、沼津、下関などを転々とした。最終的には母の郷里・鹿児島に落ち着き、鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住した。金の卵と呼ばれた若年労働者として、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えた。
1965年フジテレビ系の「リズム歌合戦」に出場して優勝。

チャーリー石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属した。芸名の名付け親はハナ肇であり、本名の「森内」と「一寛」から一字ずつ取り、渡辺晋のシンを進と読み替えて合成した氏名であった。

元は普通の声であり、ルックスもいいことからポップス系でデビューさせる予定でスクールメイツ入りさせた。しかし個性が弱いとして、チャーリー石黒は売れるためには声を潰し、演歌を歌うしかないと森と渡辺プロを説得。
1966年猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による「女のためいき」でデビューした。

「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューした青江三奈と共にため息路線として売り出された。猪俣はその後の彼の数多くの代表曲を手がけることになる。美声歌手が主流だった当時の歌謡界において、かすれ声で女心を歌う森のデビューは衝撃的であり、世間からは「ゲテモノ」「一発屋」と酷評された。
1968年しかしその後も「命かれても」「盛り場ブルース」と立て続けにヒットを重ね、ついにはデビュー3年目の1968年、ヒット曲「花と蝶」で第19回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。
1968年日本の国民的な作曲家である古賀政男の知遇を得てその薫陶を受けたこともまた特筆すべきである。プロ歌手として3年目の1968年には古賀メロディーを集めたアルバム『影を慕いて』が製作された。「人生の並木路」の録音の際には歌の内容を自らの人生に重ね合わせてしまい、涙を抑えることができなかった。後日の録り直しを申し出る森に対し、古賀は「歌は生き物だからこれでいいんだ」とそのままOKを出したという。
1969年全国の港町の情景を織り込んだ「港町ブルース」を発表。

22歳の若さで第11回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞、さらに出場2回目にしてこの年の「第20回NHK紅白歌合戦」のトリを務めた。
1971年「おふくろさん」(作詞・川内康範、作曲・猪俣公章)が発売され、同曲で2度目の最優秀歌唱賞を受賞した(第13回日本レコード大賞最優秀歌唱賞)。また、「第22回NHK紅白歌合戦」にも同曲で出場し、3年連続でトリを務めた。
1972年森の狂信的なファンの女性から婚約不履行、未成年者略取で告訴された。

実際には女性の主張していた内容は全くの狂言だったが、彼女がそうした妄想にとらわれるようになったのは、以前病気療養中の森の母を見舞った際に母から親切に対応されたのがきっかけだった。
1973年このことを苦にした母は翌1973年に自殺。山口地裁が森の全面勝訴を言い渡したのはその半年後だった。
1974年フォークソング全盛期の黄金コンビ、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の「襟裳岬」を発表。同曲で第16回日本レコード大賞、第5回日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、「第25回NHK紅白歌合戦」で自身初の大トリを務めた。この「襟裳岬」との出会い以降彼の曲の世界は転換期を迎え、通常の演歌歌手には無い趣向を持ち始める。
1974年「襟裳岬」は、「森に何か新しい発想のレコードをという」方針で、作曲者の吉田拓郎が「森さんみたいな人に書いてみたい」という話をしており実現に至った。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、拓郎もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたものの、当初はB面扱いだった。

当時の森は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていたが、当時森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた拓郎からの思いやりと、同曲の3番の歌詞に感動した森が渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り、両A面という扱いに変更して発売した。

また、森が「襟裳岬」で自身初めて大トリを務めた「第25回NHK紅白歌合戦」では、レコード大賞からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま歌唱し、間奏のときに白組の先輩歌手らが森のズボンのファスナーを閉める一幕があった。
1975年3月3月ラジオ放送を含めたNHK放送開始50周年の記念式典がNHKホールにて行われ、特別来賓として出席した昭和天皇・香淳皇后を前に森が「港町ブルース」を披露した。当日は天覧歌唱という舞台でもあったためか、森は1番と2番の歌詞を一部間違え、番ごとに変わるはずの地名の箇所を「宮古 釜石 気仙沼」と2回繰り返して歌ってしまうアクシデントがあった。
1979年2月デビュー以来約14年間に渡り在籍したナベプロから独立し、「森音楽事務所」を設立した。しかし一流スターが多く在籍する大手事務所からの独立は芸能界における自身の居場所を失う可能性を示唆していた。
再起を賭けて発表した「新宿・みなと町」がヒット、以降の活動に弾みをつける契機となった。このころ、ナベプロ時代の同僚だった既婚者の大原麗子との関係が取り沙汰された。
1980年大原麗子と結婚
1982年松本隆作詞、大瀧詠一作曲(両者とも元・はっぴいえんど)による「冬のリヴィエラ」を発表した。ポップス系のこの曲により従来とは異なる新たなファン層を開拓した。

この頃の活動は、公私共に充実し順風であるとしながらも、実際の夫婦生活は既にすれ違いが生じていたと言われる。
1984年大原麗子と離婚した。
離婚後、新しい挑戦として社会福祉活動「じゃがいもの会」を設立した。デビュー当時より面識があり、社会福祉活動に力を注ぎその前年からユニセフ親善大使の職を拝命されていた黒柳徹子がこれに賛同した。さらに歌手仲間である原田直之、小林幸子、森昌子らが参加した。
1985年8月21日坂本九が、日本航空123便墜落事故で不慮の死を遂げた直後の1985年8月21日放送のフジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE」では、森が坂本への追悼の意を込めて、当日歌唱予定であったオリジナル曲「うさぎ」の歌唱を急遽取り止めて、坂本の代表曲「見上げてごらん夜の星を」を涙ながらに熱唱。その際にスタジオにいた司会の芳村真理を初め、出演者・スタッフのみならず多くの視聴者の涙を誘ったこの場面は番組史上に残る絶唱として番組が終了した現在もなお語り草となっている。B'zのボーカル稲葉浩志は後年、プロミュージシャンを志すに当たって強い影響を受けた場面としてこの森による歌唱を挙げた。森はこの後も他のテレビ番組でも幾度か披露したほか、自身のオリジナルアルバムにも同曲を収録した。
1986年10月1日森昌子と結婚した。
1988年「京都去りがたし」でシングルとしては2回目の作曲を手掛け、はじめて作曲者「森進一」のクレジットでリリースする。
2001年「第52回NHK紅白歌合戦」で妻・昌子と共演。
2002年昌子とジョイント・コンサートを行うようになり、デュエットソングも2曲発表している(書籍扱いという異色の発売方法)。

しかし、これがきっかけで夫婦仲が悪化、昌子との意見の相違等が生じる。
2005年3月別居
その心労もあってか、彼は間も無くして長年の持病であったC型肝炎をこじらせて入院した。
4月19日所属事務所から2人の離婚が発表された。

闘病中にはうつ病にかかる。
2006年3月回復して退院した。
2007年2月おふくろさん騒動が勃発、川内康範との確執が表面化した。
2008年4月6日両者はついに和解に至ることのないまま、2008年4月6日に川内は逝去した。
2008年10月5日台東区蔵前にあるビクターのショールームで新曲「波止場」の発表を兼ねたファン限定のミニライブを開催、そのステージ上で二年前にC型肝炎が完治したことを報告した。
2008年11月森と川内の遺族が和解したことが明らかになり、1年9ヶ月に及んだおふくろさん騒動に一応の終止符が打たれた。話し合いの席には関係者らと森やレコード会社が同席したという。同年の「第59回NHK紅白歌合戦」に出演した際に「おふくろさん」を歌唱した。この時、冒頭で川内康範に謝罪を行う場面があった。
2009年11月25日尾崎豊の「I LOVE YOU」や石川さゆりの「天城越え」など、演歌からJ-POPまで様々なジャンルの曲を集めたカバーアルバム『Love Music』をリリースした。コブクロの「蕾」では、自身初の多重録音によるハーモニーを聴かせている。
2014年5月10日『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』で、肺がんの手術を行ったことを明かしている。
2014年12月『スポーツニッポン』(同年12月25日付)の取材に対し、「どこかの節目で(紅白出場を)やめたい」と述べていた。そしてその直後、北島三郎が50回出場を機に勇退を表明したことや番組側の悩みであるマンネリを解消することを目的に「50回出場を機に勇退したい」と改めて発言した。

この発言は合わせて他歌手に対して「50回出場で定年にしたらどうか」との意を込めたモノと解釈されたが他の紅白常連歌手からは反発の声も相次いだ。
2015年森にとってデビュー50周年の節目の年となった。1968年(昭和43年)の第19回紅白に初出場を果たして以来、48年連続出場を続けてきた『NHK紅白歌合戦』について、森は公式サイトにて2015年12月4日、「今年(2015年)の第66回紅白を区切りとして紅白歌合戦から卒業する」と発表した。

なお、森は「紅白を卒業しても命ある限り、唄い続けていく」と語っている。
wikipediaより引用抜粋

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