映画『マッチポイント』について

ウッディ・アレン監督最新作の『マッチポイント』を見たが、 
彼の無神論的な思想が今回も表されていた。 
既に彼の作品の中には何回も登場してくる思想である。 

まず元プロテニスプレイヤーの主人公が間借りした部屋の中で、ドストエフスキーの『罪と罰』とその解説本を読みふけっている姿が映し出されるが、ウッディ・アレンは彼とラスコーリニコフをダブらせたいのが分かる。 
しかし、後半で作品の結末に近づいた段階になり、物語の全体像が分かる頃になって初めて、監督がドストエフスキーの『罪と罰』を意識していて、冒頭で主人公が何故『罪と罰』を読んでいたかの意味が分かった。 

不倫相手に恵まれた生活と家庭の安定を壊されることを恐れて、口封じのために殺害するが、その過程で麻薬中毒の強盗殺人に見せかけるために同じアパートに住む老婦人を殺害して、その後で不倫相手を殺害するのである。 

この辺りも『罪と罰』の老婆殺しを意識したつくりになっているが、決定的に違うのはドストエフスキーの場合は主人公が老婆殺しを計画し、その殺害の正当性を理論的に正当化した後で、老婆の姪(?)が偶然現場を目撃してしまうことによって、想定していなかった第2の殺人を不本意に犯してしまうのだが、この『マッチポイント』の主人公は最初から、強盗殺人に見せかけるという周到な計画の元で不倫相手とは関係のない老婦人を殺害するのである。 

しかし、この主人公は罪の意識に苦しみながらも、最終的には、悪運の助けで罰を免れ、また罪の意識からも復活し、殺人を犯した後もぬくぬくと生き抜いていくのである。 
主人公は『異邦人』のジュリアン・ソレルのような人物へと変貌していくのである。 
あるいは元々ジュリアン・ソレルのような素質をもった人物だと言えるかもしれない。 

つまり、最終的にウッディ・アレン監督は無神論的な世界観を提示し、全ては偶然で不条理であり、悪い行いに対して罰が与えられるような単純なキリスト教的な道徳の世界を否定するのである。 

この思想とテーマは彼の今までの作品の中で何度も出てくるが、彼がユダヤ系であることが大きく影響していると思われる。 
つまり、ユダヤ人は愛や善悪、そして、罪と罰などのキリスト教的な道徳的世界観を信じず、世界はもともと不条理で偶然的であると考え、契約とか理性(REASON)のみを頼りにして生きていく民族である。 

この場合のユダヤ人(西洋人)の理性(REASON)とは、私がよく読んでいる政治経済学者の副島隆彦氏によれば、日本人が”理性”として理解しているような、単に感情に対立する客観的判断力のようなものではなく、”利益を生み出す計算”を指しているようである。 

従って、『マッチポイント』の主人公が不倫相手を殺害した行為は、道徳的な行動ではないが、理性(REASON)には適っているということになる。 
つまり、物質的に豊かな生活や家庭の破壊を防ぐためには不倫相手を殺害するしかなかったという状況設定を映画の中で巧みにつくりあげ、その状況下でのユダヤ的理性(REASON)の行為とその結末を描いて見せたのである。 


従って、ドストエフスキーのラスコーリニコフと今回の主人公は実は似ているようで全く似ていない。 

ラスコーリニコフは、理性の力によって老婆殺害を正当化し実行するが、その現場に、偶然、老婆の姪が居合わせたことで、老婆の姪も不本意に殺害することになり、罪の意識に苦しんで、最終的にキリスト教に救いを求めるのである。つまり、元々道徳的で、信仰的な素質のある青年の物語を描いている。彼は道徳観念に苦しみ自分の犯した行為を自白して許しを請う。 

しかし、ウッディ・アレン監督が登場させた主人公は、不倫相手と老婦人の殺害を計画的に実行し、最終的に道徳的な罪の意識から開放され、ぬくぬくと生きつづける骨太の青年であり、悪運が彼の味方をし、罰から逃れるのである。この主人公はユダヤ的理性の持ち主なのであり、不条理な世界の中にあって自分で道を切り開き、道徳に左右されないのである。 

つまり、ウッディ・アレンはドストエフスキーの『罪と罰』に異議を示したいのであり、映画の中で主人公が結婚相手の両親にドストエフスキーの『罪と罰』に対する奇抜な自説を展開して、結婚相手の父親に気に入られる場面にも現れている。 

主人公はこの父親の会社に雇われて重役としての恵まれた待遇を与えられるのだが、この社会的に成功した父親と父親によって守られる家族や世界もユダヤ的な成功者の象徴であり、理性(REASON)で世界を渡り歩いていく人々を表している。 


主人公は不倫相手と老婦人の亡霊が出てきて、何故、関係の無い私まで巻き沿いにしたのかと聞かれたときに、『仕方がなかった。軍事行動のようなものだ』と回答した。これを見て私はブッシュ大統領によるアメリカへの軍事行動を想起した。イラク戦争に関して、アメリカ人に言わせると、あの行為は道徳的には問題があるが、アメリカ人にとっての理性(REASON)には適っているそうである。 

またユダヤ人のユダヤロビイストの対アラブ政策、パレスチナでの絶え間なき闘争など、これらは家族を守るために仕方がなくやっている理性(REASON)に適った行為であると言っているようにも思えてくる。 


そして、監督が最後に富豪の息子に言わせた『運が強い子供であってほしい』というのも彼の伝えたいメッセージの一つであるが、監督にとっての”運”というのは”偶然”を指している。 

ウッディ・アレン監督の思想はカミュのように、世の中とは不条理で悪が簡単に裁かれるほど単純ではないとか、また人生は道徳や倫理には関係ないところで運の強い弱いは存在するということを言いたいのだと思われる。 
しかし、これは現象の表面だけを見た底の浅い理解である。 

確かに罪を働いても直ぐには裁かれないかもしれないから、罪と罰、あるいは徳行と幸運の関係は見た目上、今ひとつ、分からないかもしれないが現象界のカルマの法則は厳格に働いていて、それからは逃れられない。 
しかし、罪(行い)を働いてそれが直ぐに報い(結果)となって、誰の目にも分かりやすく現れるほど、世界は単純でもなくカルマの法則は複雑である。 


しかし、川に落ちなかった指輪が最終的に彼の殺人が暴露される証拠になると観客に思い込ませながら、最後にその指輪を麻薬中毒者が拾うことで、彼が罪から免れるという、予想しない結末となったのは面白かった。 
彼はこれによって、一般に普及している固定観念を破り、現象世界の複雑さを提示したと思われる。 

しかし、彼はおそらくもっと深いレベルの原因の世界があることについては勉強もしていないし、体験もしていないだろうと思われる。 

世界が不条理でないことを知るには人生が今生だけではなく、過去・現在・未来へと輪廻転生によって、何度も繰り返されることを理解していないと難しい。今行なった行為の結果が今生で返ってくるとは限らないのだ。その辺りが分からないと、無神論的な思想に陥り、世界の出来事を公正に見ることが出来ない。 

3/15 文章の内容を一部訂正予定 
(物語の一部について再度確認予定) 


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