映画『ブラックスワン』について

ナタリーポートマンがアカデミー主演女優賞を受賞した『ブラックスワン』を見たが、視るものの予想を裏切る意外な展開で衝撃を受けた。

以下は、まだ見てない人は読まない方がいいのかもしれないが、

まず最初にこの映画はバレエのダンサー達がお互いにライバルを蹴落とすバレエ業界の過酷な舞台裏の物語が展開するのかと思っていたが、視聴者には途中までそのように思わせながらも、映画の本筋のテーマは全く違うのであった。

そして、最後の山場でも全く意外性のあるエンディングを迎えている。

この映画のテーマは以下のようなものである。

子供を妊娠した為に自分の夢を諦め、人生に悲観している抑鬱状態の母親が、娘(ナタリーポートマン)にバレエを習わせることで自分が果たせなかった野望を実現させたいと思っており、母親は娘を自分の自己愛的な延長物としてしか見ておらず、娘を自分の思い通りにすることで自分の情緒的な安定を維持している。

娘は母親のそうした依存や精神的な支配によって自分の感情を神経症的に抑制している。
娘はそうした母親の精神的な支配や抑圧の中で自傷行為を行い、自分を傷つける時にのみ生きているという生の実感を得ることができる。それで何度も自傷行為を繰り返し、最終的にエンディングでその自傷行為はクライマックスを迎えるのである。

主演女優の座を狙うライバルの同僚とのやり取りも出てくるが、それらはこのテーマを際立たせる為の伏線に過ぎない。

主人公の女性ニナ(ナタリーポートマン)は、誰か現実のライバルがいた訳ではなく、常に自分自身と戦っていたことが最終的に明らかになる。

母子関係の病理の中で生まれた自分の神経症、そして自分の欲望が生み出す幻惑と戦っていたのである。

母親は娘にバレエを習わせて娘で自分が果たせなかった夢を代理的に満たして自分を慰めようとするが、然し、その一方で、娘が主演のダンサーとして羽ばたいて、そして、教官とも恋愛関係になったりすることに嫉妬しているというような複雑な関係性も見え隠れする。

その過程で出てくるバレエの教官や、同僚の官能的な女性ダンサーとの三角関係などは、彼女自身の性(セックス)に対する憧憬と、母親による禁止、そして、ライバルである官能的な同僚の登場などで、生み出された妄想なのである。

物語のかなりの大部分で、主人公である二ナ(12歳であるという設定から母親との自立を模索する思春期の少女である)が体験する出来事が幻覚や妄想である。

主人公の二ナは、母親にバレエの英才教育を受けさせてもらったおかげで、技術的にはバレエを完璧に踊ることが出来たが、然し、彼女は活き活きと人生を感じる能力に欠けていた。ニナの感情は母子関係の病理の中で抑制されていたのである。自分らしく振舞うことや、自分の人生を生きることを禁じられていたのである。彼女は母親の奴隷であり、母親の期待に応えて母親が果たせなかった夢を実現するためだけに頑張らなければならなかった。自分の欲望を押し殺して、ただ母親の人形として母親の期待を実現するためだけに生きて来なければならなかったのである。ニナは物語の中では12歳であり、ちょうど思春期の母親からの自立というテーマの中で葛藤する年齢である。

そして、白鳥の湖を踊る主演のダンサーに選ばれて、いざ踊るという段になると、彼女はその自分の弱点に直面するのである。

彼女はそんな中で、感情を素直に表現する官能的で女性としての魅力に溢れた同僚のヴェロニカに自分のペースを壊される。

バレエの教官トマスルロイ(ヴァンサン・カッセル)は踊りの中に官能的な活き活きとした情動を表現できないニナを酷評するのである。

そこで彼女は自分の異常な母子関係と、母親の人形として生きてきた自分に直面するのである。

悪友ヴェロニカの誘いによって、酒場で麻薬を試したり、酒場の男性と交流したりして、彼女は自分の中に押さえ込まれていた本当の自分の欲望に気づき始める。

自分の部屋の扉につっかい棒をして母親が入って来れないようにして、妄想の中で自慰に耽ったりして自立した大人の女性としての欲望を開放し始めるのである。

同僚のヴェロニカに主演の座を奪われたくなかった彼女は舞台の初日を病気で欠席すると勝手に劇団に伝えた母親の手を振り切って、バレエ会場に向かい、そこで、彼女は今まで踊れなかったブラックスワンを見事なまでに踊り切る。それは彼女が抑圧されていた感情を解放したことを示している。

ブラックスワンは、異性としての教官に対する性的欲望や、ライバルに主演の座を取られたくないといった彼女自身の活き活きした人間的な情動が素直に表に表現できた時に初めて踊ることが可能になったのである。

その活き活きした情動を得るために彼女が自分の潜在意識から自分に妄想を仕掛けて、自分自身に究極の自傷行為を行うのである。

そのクライマックスが壮絶で劇的で見るものは衝撃を受ける。

ホワイトスワンとブラックスワンというのは、顕在意識と潜在意識、抑圧した自己と真の自己の象徴である。

この映画からは期待していたものとは全く違った満足を得られたが、最近のハリウッド映画の傾向をよく示している作品の1つである。

例えば、最近では、映画『シックスセンス』のように主人公の児童心理学者であるマルコム・クロウ(ブルース・ウィリス)が、幽霊が見えるコールという少年を助けるうちに、自分が実際には既に死んでおり、幽霊であったと気づいて驚愕するといった、映画に登場する主人公と、映画を視聴する観客の両方が騙されるような演出の作品が目立つようになっている。

マーティンスコセッシ監督、レオナルドディカプリオ主演の『シャッターアイランド』も、連邦保安官テディ・ダニエルズ(レオナルド・ディカプリオ)は謎の失踪事件を捜査するために精神疾患の犯罪者を隔離収容する孤島の刑務所に訪れるが、実は、映画の最後の場面で実は自分自身が精神疾患の患者であり、刑務所に収容される為に連れてこられたのだという事実に気づくといったストーリーである。

この場合も主人公であるテディが最後まで騙されていて、映画を視聴する観客も最後まで主人公と一緒に騙されていて、最後に意外な真実が両者に明らかになるという演出がされている。

この手の演出手法が、編集技術的にもハリウッドで確立されて、最近のハリウッド映画では一つの流行になっているように思われるが、この『ブラックスワン』も、そうした映像編集の手法が採られている。

以前のハリウッド映画は、例えば、シルヴェスタースタローンの『ランボー』や『ロッキー』、あるいはジョージルーカス監督の『スターウォーズ』など、現実的に外的な敵がおり、単純にそうした敵と戦うことがテーマであった。

然し、東西冷戦が終わり、外部の明確な敵がいなくなった現代社会においては、敵は自分自身の中の恐怖心や競争心といった感情が生み出す幻想や幻惑なのであり、そうしたテーマを取り上げる作品が目立っている。

また映画『マトリックス』は、ユダヤ教のラビが制作に関わった作品であり、作品の舞台設定は、あたかも魂が物質界へ転生することと対比されており、物質界においては、想念がすべてを支配し、想念が強ければ、物質の束縛を超越することができるというテーマが主人公のネオを通して描かれている。これはカウンターカルチャー世代にヒッピーなどに回し読みされた「かもめのジョナサン」と同じテーマである。

五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)が生み出す物質的な外的現実よりも、想念や幻想、幻惑、夢といった思考(マインド)が生み出す内的現実の方がより重要視されるようになって来ている。

アメリカは外部の敵をつくろうとしてテロとの戦いなどといったスローガンを掲げているが、本当の敵というのは自分の中の感情なのである。

恐怖心や競争心といった感情が幻惑や幻想を生み出し、それを現実の中に投影してその自分の幻想や幻惑を体験し、それと戦っているに過ぎないという、このことが、大きなテーマになっている。

その結果、映画のストーリー自体が、仮想現実(認知心理学)、精神分析(精神医学)や東洋思想(仏教、ヒンドゥー教)などの影響を強く受けるようになっているのである。

この『ブラックスワン』のテーマも、主人公のニナが体験する出来事の中で、実際の外的な敵というのは母親だけであり、後は、彼女自身の欲望や抑圧された感情、恐怖心や競争心が、現実の状況や人物に投影されることでもたらされる幻想や幻惑との戦いなのであって、敵は彼女自身の中にあるのである。

徹底して、自分自身との戦いというテーマに貫かれている。

これが最近のハリウッド映画の傾向であるが、時代精神が求めているテーマと言えるかもしれない。


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