ガンジス河のほとりにて

ガンジス河のほとりでの体験は、中々深いものであった。
死んだら焼いて灰にしてガンジス河に流し、物質としての肉体は自然の中に戻すのである。

それはあの世には富(お金)や身体などの物質は全く持っていくことはできず、ただカルマのみが残るという真理が生活習慣の中に体現されている感じである。

日本のように遺骨をつぼに入れて墓に安置して存続させつづけるというのは、物質としての肉体への執着のように思われる。

本来、死んだら灰にして土に返すというのが最も自然な姿であり、ヒンドゥー教の伝統は、この世の富や身体にはそれほど執着していないように思われた。(全てのヒンドゥー教徒がガンジス河に灰を流す訳ではないと思われるが)

一方で、その対極に位置するのが、エジプトのファラオの墓であり、肉体をミイラにして存続させ続けようとする、激しい執念や所有欲が見られる。エジプト文明というのは、春分点が牡牛座にあった時に生まれた文明であり、穀物資源の確保(農業、豊饒さ)、鉱物資源の確保(ナイル川での金の採集)など物質的な所有に関心が高かった文明ではないかと思われる。そのため、墓というものはそもそも、物質的富や身体への執着の表現ではないかと思われる。

それはエジプトのファラオの墓が物語っている。

ヒンドゥー教は死んだら何もあの世に持っていくことはできず、ただカルマのみが存続し、人間は何も持たずに再び生まれ変わるという、この輪廻転生の真実が文化、生活習慣の中に率直に表されている。

日本でも死ぬ前から自分の墓のことを心配しだす老人がいると聞くが、墓へのこだわりは、この世での存続についてのこだわりではないかと思われる。(周りの人に迷惑をかけたくないという気持ちもあるかもしれない)

何か自分のこの世での足場やこの世での存在事実の物質的担保が欲しいという恐怖心から来る習慣かもしれない。

そのように思ったのは、このガンジス河のほとりの光景をみて、私が死んで、ここで焼かれて河に流される場面を想像してみて、少し恐ろしい感じがしたからである。

やはり、家族とか自分の生まれ育った土地の墓に入るほうが安心である。

別にそうしたとしてもしなくても、関係ないと思われるが、そこに恐怖心を感じるということは、現世で得た足掛かりを全く失うことへの恐怖心ではないかと思われる。

ガンジス河のほとりで行われている、この習慣を見て、敬虔な気持ちになったようだ。

カルチャーショックを受けたとも言えるかもしれない。

自分が灰となってガンジス河に流される場面などを想像し、物質としての存在のはかなさを考えた。

このような体験が金星/太陽/水星/土星/土星期に起こったということに注目している。

水星から見て、土星は8、9室支配で1室に在住している。

霊的な事柄に関するインスピレーション(学習)がもたらされたのはそのためではないかと思われた。


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