篠原欣子

氏名篠原欣子
ローマ字Shinohara Yoshiko
生年月日1934年10月19日
出生時間時間不明
出生場所神奈川県
Rodden Rating
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業実業家、学校法人理事長
所属パーソルホールディングス取締役会長。篠原学園専門学校理事長
業績アメリカの『フォーチュン』誌に12年連続で「世界最強の女性経営者」に選出され、2009年には、第37位にランクされた。2014年2月、保育士や介護士などの資格取得を目指す学生を対象に、奨学金を給付することを目的に、私財を投じ篠原欣子記念財団を設立。後に自己所有のテンプHD株式を同財団に寄付した。
その他著書
『前を向いて歩こう(私の履歴書)』 日本経済新聞出版社、2014年。 ISBN 4532319315
『探そう、仕事の、歓びを。 』 あさ出版、2007年。ISBN 4860632141
『女が輝くフリー・ワーキング : "自分のキャリア"の賢い活かし方 』 大和出版、1988年。ISBN 4804700897
『ミセスの生きがい働きがい : 再就職したい女性のための本』 現代書林、1986年。ISBN 487620103X

共著
篠原欣子、佐藤綾子、今井豊彦、木村歩美 『これからの保育者のために : 資質向上への新たな視点』 萌文社、2012年。ISBN 9784894912243
篠原欣子、汐見稔幸、佐藤綾子、木村歩美 『保育学を拓く-「人間」と「文化」と「育ちの原点」への問いが響き合う地平に』 萌文社、2012年。
データソースwikipedia 篠原欣子

コメント

検証メモ
検証メモ(ジャイミニ)
検証メモ (その他)


(参考資料)

テンプスタッフ株式会社 取締役会長 篠原 欣子

逆境にめげず、何事にも果敢にチャレンジしよう

取材中の篠原は、笑顔が絶えず、非常に気さくで決して偉ぶることはなかった。そんな篠原が38歳の時に起業したテンプスタッフは、今では連結売上2000億円超、経常利益100億円超、しかも実質無借金経営という優良企業に成長した。篠原自身も米フォーチュン誌が選ぶ『世界最強の女性経営者』に8年連続で選ばれている。常に経営の本質を愚直に追求し続ける篠原に、起業家の条件、そして篠原自身の起業の経緯などを聞いた。

※下記はベンチャー通信32号(2008年5月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。

【インタビュー前編】利己的な考えで起業してはいけません

― 篠原さんが考える“起業家の条件”を教えてください。

 まず「お金儲けをしたい」、「社長になりたい」という利己的な考えではうまくいかないと思います。「この事業をやって社会に貢献したい」という純粋な想いがないと会社は長く続きません。起業するのが目的で起業してはいけません。自分が起業することで、世の中でどんな役に立つのか、そこがいちばん大事です。

 私の場合、まだ日本で女性の活躍できる職場がなかったので、「じゃあ、自分で会社をつくって、女性の活躍できる職場をつくろう」と思ったのが起業のきっかけでした。また、私は海外での勤務経験が長く、ちょうどオーストラリアで秘書として2年間働いていた頃、現地で優秀な派遣スタッフが活躍しているのを見ていました。だから人材派遣業の素晴らしさを知って、日本でも人材派遣業を広めたいと思いました。

― 昔から起業志望ではなかったんですね。
 起業したいなんて思ったことはなかったですね(笑)。ただ、働く女性に憧れはありました。これは母の影響です。私が8歳の時に父が病死して、母は助産師の仕事をしながら5人の子供を育てたんです。その当時、自立した女性は珍しく、働く母の姿は本当に格好良かった。母は食事をしていても、寝床についていても、依頼があれば、すっと立ち上がり、きりっとした出で立ちで仕事に出かけていきました。私は子供心に「将来は母のような働く女性になりたい」と強く思うようになったんです。

― なるほど。では、起業当時の話を聞かせてください。

手元の資金は100万円でした。東京の六本木にわずか8坪の自宅兼オフィスを借り、電話と事務机ひとつでスタートしました。ちょうど私が38歳の頃です。そしてオフィスに寝泊りしながら営業活動を始めました。チラシをつくって、六本木近辺にある外資系企業に飛び込み営業をしました。

 起業当時は本当にお金がなく、母からお米を送ってもらう有り様でした。また日銭を稼ぐために、夜はビジネスマン向けに英会話教室を開きました。夜になると看板をかけかえていました。昼は人材派遣業、夜は英会話教室といった風に(笑)。そうやって何とか食いつなぎましたね。

― 今では米フォーチュン誌が選ぶ『世界最強の女性経営者』に8年連続で選ばれている篠原さんも、起業当時は“壁”だらけだったわけですね。

 当時の私に経営者としての知識なんか全くありませんでした。でも、何も知らないからこそチャレンジできたんだと思います。下手に経営に関して知識を持っていたら、起業なんて怖くてできなかったと思いますね。

 あるときは税務署から電話がかかってきて、社員の源泉徴収をしていないことを指摘されました。でも、私は源泉徴収って何?の世界。「源泉徴収って何ですか?」と私が聞くと、税務署の人は笑っていましたね。

 そんな私を周りの人は温かく応援してくれました。昔から私は特別な能力なんて持っていませんでした。今でも私は自分に特別な能力があるとは思っていません。だからこそ、周りの人が私を助けてくれたんだと思います。傍から見ていると、危なっかしくて放っておけなかったんでしょうね(笑)。

【インタビュー中編】「社員100名、年商100億円」を目前にした“壁”

― 篠原さんがいちばん印象に残っている経営の“壁”を挙げるとすれば、それは何ですか?

 「社員100名、年商100億円」を目前にした“壁”ですね。それまで派遣スタッフも社員も女性のみでした。しかし女性だけの会社で、これ以上会社を発展させることが困難になったんです。

 ちょうど起業して14年目、1986年の頃です。当社は『成長の鈍化』という“壁”にぶちあたりました。起業から13年間はバックオフィスの数名の男性を除いて、社員全員が女性でした。もちろん支店長も女性のみ。支店展開をしたものの、支店長たちは守りに入っていたんです。支店長に新規の顧客開拓について聞いても、「もう顧客開拓はすべてやり尽くしました。新規開拓の余地はありません」と。私は内心、そんなことはないと感じていました。そして、そろそろ女性だけの組織に限界がきたなと思ったんです。

 また当時、一部の女性の支店長は“女王”と化していました。優秀な女性の支店長は、その支店すべてを自分の管理下において、既得権益にしてしまっていた。いくら私が新規開拓をしよう!と言っても、彼女たちの耳には届きませんでした。女性の集団というのは、守りは強いけど、攻めは弱い傾向にあります。なかなか攻めようとしないんです。

 女性には女性特有の強みが、男性には男性特有の強みがあります。女性は、地道に足元を固めながら前に進みます。目の前にある課題を黙々と改善するので、安定感は高い。基礎を固めながら着実に伸ばします。そして、論理よりも感性を重んじる傾向があります。男性は、大きな夢や野心を持ち、ぐいぐいと組織を引っ張っていく。明確な目標も数字にして表し、何事も論理的に考える傾向があります。

 人間も動物です。DNAに刻み込まれているのだと思います。女性は子育てを、男性は狩りに出かけるというように。そして、この女性と男性の両方の力が企業経営には必要です。それまでは女性だけの力で伸ばしてきました。驚くことに、売上目標もなければ、個人のノルマもない。ただ、目の前にある課題に地道に挑み続けて、年商75億円までもってきたんです。女性の力って、本当に素晴らしいと思います。しかし、これ以上会社を発展させようと思えば、女性だけの組織では限界に達していたのも事実です。私は大改革を断行することを決断しました。

― 男性社員を採用したということですか。

 そうです。まず86年に男性アルバイトを採用し、87年には大手商社から男性が入社。88年にはリクルートの男性営業マンをスカウトしました。その後の3年間で30名の男性社員を採用しました。

― 女性社員からの反発はなかったんですか?

 もう大混乱ですよ。既得権益を守ろうとする女性と、新しく入ってきて改革をしようとする男性の間で戦争がはじまりました。私もずいぶんと悩みました。しかし、この改革を断行しないと、会社の将来はないと確信していたので、涙を飲んでトップダウンで決断しました。どんなに苦しくてつらくても、会社の体質が変わるまではやり抜こうと固く決意しました。

 改革の途中で、いろんなことが起きました。夜中に、古参の女性社員から「もう私は会社に必要ないんじゃないの?」と泣きつかれたこともありました。また、男性社員からは血判状を突きつけられました。「売上目標や勤務評価制度などをつくらなければ、会社は発展しません。要求が受け入れられなければ、私たちは辞めます」と。1枚の紙を渡され、その紙には会社への改善案と、7名の血判が押されていました。血判状を突きつけられた私は、逆に彼らの本気さに感動しました。そして何よりも経営について話せる仲間ができて、本当に嬉しかった。

 その後、彼らが主導となって、組織の構築、目標設定、大幅な人事異動、給与体系の見直しなどを数年かけて実行し、効率的な組織へと脱皮し、年商100億円を達成しました。私はこの改革を「第二の創業」と位置づけています。

【インタビュー後編】見栄を張る経営者はダメ

― 篠原さんが考える“壁”を乗り越えられる経営者、乗り越えられない経営者の「差」を教えてください。

 本質を見抜けるかどうかだと思います。表面的に格好つけたり、見栄を張ってはダメです。素直な心を持って、謙虚にいられるかどうか。そこが差だと思います。そして、何よりも仕事に対して熱心なこと。素直な心で、熱心に一生懸命やっていれば必ず“壁”は乗り越えられます。

 私も以前に、あと一歩のところで経営判断を大きく間違えるということがありました。50億円もする自社ビル購入の話が進んでいたんです。平成バブルの頃の話です。不動産価格が天井知らずで高騰していました。当社の男性役員から「不動産価格が年間30%の勢いで値上がりしているので、当社も自社ビルを購入しましょう。今がチャンスです」と説得されて、私もその気になってしまった。

 しかし、当社のビジネスの基本は支店展開です。全国に支店を展開して、その地域の企業と人をつなぐビジネスです。豪華な自社ビルを1箇所に建てるのは、当社のビジネスの本質に合っていない。私は夜も眠れなくなってしまいました。これは長年、資金繰りで苦労して身に付けた金銭感覚だと思っています。そして、自社ビル購入は間違っていると確信しました。

 私は契約の前日に不動産会社に一人で断りに行きました。もう先方はカンカン。2時間くらい叱られ続けましたが、私の意思は変わりませんでした。しかし、この時の判断は間違っていませんでした。その後、不動産バブルは崩壊し、多くの企業がその後遺症に悩まされることになりました。おかげさまで当社は特に後遺症もなく、その後も順調に成長を続けることができました。

 当時、私が豪華な自社ビルに憧れていたら、いまのテンプスタッフはなかったかもしれません。私自身に見栄を張りたいという気持ちがなかったから、間違った判断を回避できたのだと思います。謙虚で素直、これは経営者において一番大事な要素かもしれません。私は今でも、そう自分に言い聞かせています。

― 最後に起業を目指す若者にメッセージを下さい。

 まずは高い志を持つことです。自分が世の中にどんな価値を提供したいのか。そこを徹底的に考えてください。決して利己的な考えで起業してはいけません。

 またいったん会社を始めたら、絶対に途中であきらめないことです。逆境に負けない強い心を持ってください。やり抜くんだという強い気持ちが大事です。そして、たとえ失敗しても、その失敗は自分の経験となっています。失敗は成功の母です。失敗の中に成功へのヒントが隠されています。だから失敗をおそれずに、勇気を持ってチャレンジすればいいと思います。

 あと、仲間を大切にすることです。社長になったからといって、決して威張ってはいけません。ビジネスというのは仲間の協力を得ながらするものです。仲間あってこそのビジネスです。社長になると自分が偉くなったと勘違いする人がいますが、それは間違っています。社員が会社に集まるのは、意義のある事業を成し遂げるために集まっているのであって、社長のために集まっているのではありません。そこを履き違えずに、事業の本質を考えながら地道に頑張ってください。

■ 篠原 欣子 (しのはら よしこ)

1934年、神奈川県生まれ。商業高校を卒業後、53年に三菱重工業株式会社に入社、57年に同社を退社し、家事手伝いを経て66年にスイス・イギリスに4年間留学する。一時帰国後、71年にオーストラリアの市場調査会社ピーエーエスエー社に社長秘書として入社。73年に同社を退社。帰国後、オーストラリア就業時に知った人材派遣業からヒントを得て人材派遣会社のテンプスタッフ株式会社を設立し、代表取締役に就任。2006年、同社は東証一部に上場を果たす。
参照元:日本の社長(※ベンチャー通信32号(2008年5月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。)

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