徳川家康について

徳川家康の出生時間は、山下さん(仮名)提供のデータによれば、以下のようになっている。

西暦1543年2月10日3~5時 愛知県岡崎市

wikipediaによれば、寅の刻に生まれたと書いてあり、寅の刻というのは午前4時を中心とする約2時間であるそうである。

従って、前後に2時間とって、出生時間が3時~5時という表現になっているものと思われる。

出生時間を3時でチャートを作成してみると、ラグナは射手座の10°51’となった。

※図は出生時間を4時に設定した家康のD1チャート

TokugawaIeyasu_chart 家康については秀吉のように派手な特徴というものは思い当たらないが、しかし、射手座ラグナで正しいのかどうかという疑問は出てくる。

出生時間を更に進めていくと、4:18:54になったところで、ラグナは山羊座となったので、出生時間が3時~5時の場合は、ラグナは射手座か山羊座の可能性に絞られる。

生まれた時のダシャーは金星/火星期で、1555年12月12日まではマハダシャー金星期である。

人質生活

つまり、生まれてから13年弱ぐらいはマハダシャー金星期であるが、徳川家康の幼名は、竹千代で、幼い頃、敵方に人質として捉えられた中で、忍従の日々を過ごしていたことは有名である。山岡荘八著『徳川家康』にも竹千代時代の人質生活というものが描かれていたと思われる。

この幼少期に敵方となっていた人々が、家康が将軍となった際に家臣として家康を迎えたのであり、その時に昔の敵たちに普通に接することが出来たことが家康の器の大きさであったというような指摘がよくなされる。

この幼少期の人質生活は、家康の人格形成、将来の器を形成する上で、重要であったとされている。

つまり、「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」という歌で示される家康の性格はこの竹千代時代の体験が元になっていると考えられている。それは本当であるのか。
その幼少期についてwikipediaには以下のように書かれている。

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家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。
松平氏は弱小な一地方豪族(国人)であった。家康の祖父・松平清康の代で中興したが、清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男・広忠が命を狙われ、伊勢に逃れる事態により衰退。帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、同盟者であった戸田康光に奪われ、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏(今川義元)の元で人質として忍従の日々を過ごした。
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ラグナを射手座ラグナにすると、金星は6、11室支配で、3室に在住し、9室支配の太陽と接合し、ラーフと接合して傷ついている。

6、11室支配の金星は射手座ラグナにとって機能的凶星であり、病気や敵、借金などと戦う時期である。

その金星が忍耐の3室に在住し、ラーフや太陽といった凶星と同室して傷つけられていることから、これは竹千代の幼少期と一致する。

ディスポジターの土星は12室に在住しており、まさに敵方に監禁された不自由な生活を表している。

更に見ると、この3室には冥王星が同室しており、外部からの強制的な意志力を表している。

全く抗うことの出来ない強い力によって、幼少期の人生が決定されたことを物語っている。
もし山羊座ラグナであったら、金星は5、10室支配のラージャヨーガカラカとなり、8室支配の太陽と2室に在住することになるので、こうした体験にはならないはずである。

2室は両親、家族のハウスであり、金星期は両親、家族との生活の経験となったはずである。

射手座ラグナで金星が在住しているのが3室(4室から12室目)だからこそ、幼くして敵方に人質として取られ、母親(4室)とも引き離され、故郷(4室)や心の安定(4室)も失ったのである。

もし山羊座ラグナであるとすると、7室支配の月が4室に在住し、母親との密な関係性を表している。
然し、射手座ラグナに設定すると、月は8室支配で4室支配の木星と相互アスペクトし、また4室には12室支配の火星が在住するため、この竹千代時代の体験を象徴している。射手座ラグナの方が、心の安定を突然、損失した人質生活をよく表していると思うのである。

従って、ラグナは射手座ラグナで正しいと思われる。


6、11室支配の金星が3室に在住して、凶星から傷つけられている為に努力、忍耐の生活を強いられ、また3室は4室(母親、故郷、心の安定)を損失するハウスのため、幼くして敵地にて不自由な忍従の日々を送ったのである。

常に敵に取り囲まれて生活することがどのような経験を表しているか、あまり想像できないが、凶星から傷つけられている6、11室支配の金星とは、まさに病気を表しており、喧嘩や対立を表していたと思われる。

竹千代は、当初、織田信秀の人質となり、織田側は、再三、竹千代の父親(松平広忠)を脅したが、父親は「息子を殺さんと欲せば即ち殺せ、吾一子の故を以て信を隣国に失はんや」と返して、要求に屈しなかったそうである。

つまり、竹千代(家康)は、いつ殺されてもおかしくないような状態だったのである。

この織田家での人質生活の間の1549年3月6日に竹千代の父親(松平広忠)は死んでいる。暗殺されたというが真相は不明であるという。

この時は、金星/土星期であり、9室を父親のラグナとすると、金星はマラカの7室に在住し、土星はマラカの7室の支配星である。
この人質生活は、父親(松平広忠)が当時の従属していた守護大名・今川氏に誠意を示すために人質として差し出したことから始まっている。

竹千代護送役の同盟者・田原城主戸田宗光の裏切りに遭い、竹千代は、今川氏の敵方、織田信秀に売り飛ばされてしまう。

そして、いつ殺されてもおかしくない人質生活を送った後、人質交換の形で、今川氏の元で、更に人質生活を送るのである。

まさに敵方から敵方へ、例え、今川氏が当時、父親が従属していた相手だといっても、いつ敵になるか分からない戦国時代である。

そのような不安定な生活の中で、過ごしていた状況を理解することがポイントである。それはまさに6、11室支配の金星が3室に在住する配置である。
竹千代(家康)としては、敵方にいながらも、常に父親と心は一つだったと思われるので、それで6、11室支配の金星に9室支配の太陽が接合しているのである。人質生活とは、父親との共同作業だったといえる。但し、そのような人質生活は、父親に押し付けられたものでもあり、ある種、父親に対する批判や非難の気持ちもあったかもしれない。

それこそが、6、11室支配の金星が9室支配の太陽と接合している意味である。

9室支配の機能的吉星の太陽によって、金星は吉意を与えられているが、金星は生来的凶星としての太陽からコンバストされ、傷つけられており、金星は6、11室支配の支配星として太陽を傷つけている。

そして、この金星期の間に父親が暗殺の疑いのある死を迎えてしまうのだが、9室支配の太陽が6、11室支配の金星から傷つけられ、ラーフから傷つけらていることから納得できる。

人質生活の終わり

竹千代(家康)は、1555年3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗っている。

またこの時、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶っている。(※関口親永の娘・瀬名と結婚した)

この時のダシャーはマハダシャー金星期の最後のアンタルダシャーである金星/ケートゥ期である。

所謂、ダシャーチッドラと言われる時期であり、金星期から太陽期への移行期として、両方の出来事が起こる時期である。
竹千代としての修行の時代が終わり、次の太陽期の人生が見えてきた時期である。

今川義元の姪の娘と結婚し、名前を変えたというのは、ある種、人生が変容する通過儀礼(イニシェーション)であり、今川氏から一人前に認められたことを示している。

それはつまり、人質生活の終わりを意味している。

この金星期の終わりに竹千代としての人質生活が終わったという、このタイミングの一致が重要である。

TokugawaIeyasu_chart
金星/ケートゥ期は、ナヴァムシャを見ると、この4時で作成したチャートでは蠍座ラグナとなり、7室支配の金星が1室に在住し、ケートゥは7室に在住している。従って、この4時で作成したチャートでこのままナヴァムシャが使える可能性もあるが、ナヴァムシャに関しては、検討の必要がある。
竹千代は、結婚して次郎三郎元信と名乗り、後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めてから、

1558年には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となっている。
1558年は、太陽/ラーフ、太陽/木星期である。

マハダシャー太陽期は9室支配で3室に在住しており、太陽は機能的吉星でウパチャヤの凶星であることからよい時期である。

自信や威厳が伴う時期であり、初陣を飾り、戦国時代の中で努力奮闘していることが読み取れる。

wikipediaによれば、その後、以下のように書かれている。
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永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康(徳川家康)は、大高城から撤退し、松平家の菩提寺である大樹寺に入り、ここで自害しようとしたが住職の登誉上人に諭されて考えを改める。
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この時が太陽/水星/月期、あるいは、太陽/水星/火星期である。

つまり、太陽/水星期であるが、太陽からみて5、8室支配の水星が12室に在住し、12室支配の土星からアスペクトされている。

ラグナから見ると、7、10室支配の水星が2室に在住し、ディスポジターである土星が水星にアスペクトしている。

興味深いことは、水星はマラカの7室を支配してマラカの2室に在住し、マラカの2室の支配星からアスペクトされていることである。

この太陽/水星期がマラカと絡むアンタルダシャーの時期であることに注目すべきである。

主君である今川義元を討たれて撤退し、自害しようとするまでに精神的に追いつめられ衰弱したのは、このマラカと絡むアンタルダシャーの時期であったからだと分かる。

但し、wikipediaにあるように住職の登誉上人に諭されて考えを改めたのであるが、これはおそらく11室に在住する木星が逆行して、水星にアスペクトしていた為である。

木星は問題解決をもたらす惑星であり、保護を与える惑星である。

木星がアスペクトするかしないかは大きな違いであり、木星がアスペクトすることによって、大事を免れることはよく見られる経験である。

この住職の登誉上人とは、まさに木星の表示体であることが分かり、また逆行の木星が一つ前のハウスからアスペクトしていることもこのケースからよく分かるはずである。

そのように考えないと辻褄が合わない。

木星は月からみた場合でも9室の支配星であり、まさに僧侶(教師)の表示体なのである。

そして、非常にこれも興味深いことであるが、1562年に今まで主君であった今川氏と断交して、信長と同盟を結んでいる。

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永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。
翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。(wikipediaより)
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また翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。
この1562年はマハダシャー太陽期からマハダシャー月期への移行期であり、1562年3月7日から月/月が始まっている。

月は8室の支配星であり、1、4室支配の木星と5-11室の軸で相互アスペクトしている。
因みに私は以前、織田信長のラグナを牡羊座のバラニーに設定している。

信長がバテレン達(キリスト教徒)との交流を通して、西洋の事情に通じていた情報通であったことなどから、織田信長は、牡羊座でしかもバラニーである可能性が高い。

因みに今回、出生時間を提供してくれた山下さんによれば、四柱推命など別の占術の立場でも織田信長は牡羊座ラグナの出生時間、すなわち、午前1時付近になるそうで、この出生時間で正しいそうである。

この1562年に何故、突然、今川氏と断交して、織田信長と同盟を結ぶことになったかと言えば、8室支配の月が牡羊座のバラニーに在住しているからである。つまり、この月は織田信長の表示体である。

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しかも主君の今川義元が桶狭間の戦いで破れ、自害しようとした程、自分のことを追いつめた相手である。

決して勝てない相手であり、同盟を結ばなければ自分が滅ぼされるという段階にあって、同盟を結ぶことは避けられない、必然的に不可欠なもので、半ば強制的なことであったことが推察される。

また幼少時に自分が人質として取られた相手であり、人質として取られた間、食事を与えられ、住まいを与えた相手の息子である。

何らかの接触があったと思われ、それは全く対等でない、家来のような関係性が幼少時からあったと思われる。

ある種、家康にとって、織田信長は逆らえない相手であり、勝てない相手であったのである。

またそうであったからこそ、同盟を結び、家来として依存していく相手、尽くしていくことで恩恵を賜る相手であったとも言える。

因みに私の6/8理論においては、8室は勝てない相手、頼りたい相手、上司、支配者である。

従って、家康はこの時、信長と同盟を結び、以後、同盟関係によって、信長を援護するのである。
徳川家康のマハダシャー月期は、信長との同盟から始まって、武田氏とも同盟するが、しかし、その後、武田氏との同盟には摩擦が生じ、信長と武田は同盟しているが、徳川(家康)と武田は敵対するという複雑な三角関係となっていく。8室は三角関係を表すハウスである。

これはマハダシャー月期で、その月が11室(社交、同盟)にアスペクトし、11室に在住するラグナロードの木星と相互アスペクトしていた為であると思われる。

1568年から1570年にかけて、ちょうどマハダシャーが月期で、月/水星、月/ケートゥ、月/金星辺りの時期に家康がどのように行動していたかを確認すると、常に信長と行動を共にして、信長の戦いを同盟関係で助けているのが分かる。

また室町幕府の足利義昭が信長を管領に任命する人事を行った際も管領就任を辞退した信長に連動して、「三河守」を用い続けている。

後日、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めたにも関わらず、家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持している。

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永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。
元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。
また、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。なお、永禄11年に家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)が、左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり、足利義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。
だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた。
また後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。
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このようにマハダシャー月期は信長との同盟関係を表していることがはっきりと分かる。

そして、室町幕府の足利義昭から家康に信長包囲網の副将軍への就任を要請しても、全くぶれないで上司で主君である信長に忠義を尽くすあたりは、逆に言えば、信長の方が足利義昭より怖かったことを表している。

家康は信長のことを決して勝てない相手であると感じていたのである。

それは竹千代の頃からの原体験でもあり、また桶狭間の戦いで、少数の騎馬隊を率いて、今川義元の首を取った信長に対する畏怖のようなものもあったと思われる。

織田信長は、中国の歴史で言えば、秦末期の楚の武将・項羽のような人物であり、自ら馬に乗って敵陣に乗り込んでたった一人で、敵将の首を取るような猛将である。

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」という小説に出てくるが、織田信長の桶狭間の戦いのエピソードは、この項羽と通じるものがある。

「項羽と劉邦」でも劉邦が戦いに勝ったにも関わらず、項羽の方が圧倒的に人気があるようだが、牡羊座というのは非常にカリスマ的である。
家康は、信長の同盟関係の中で、主君である信長に仕えるのだが、その後も牡羊座に惑星集中する豊臣秀吉に仕えるのである。

そのように戦国時代の中で、牡羊座のカリスマ的な将軍たちに仕えて、サラリーマンのように滅私奉公して最後に彼らがいなくなった後にようやく、そのおこぼれに与って、天下を取った忍耐の人が徳川家康である。

冷徹な見方をすれば、家康は信長と共に鉄砲隊で武田信玄を破り、また秀吉の家臣となった後は、秀吉と共に北条氏を滅ぼし、天下を統一したのである。

つまり、No.2の立場で、2人の主君に天下を統一させたとも言える訳である。
従って、ある意味、最もつまらないのが徳川家康であると言える。

信長には勇猛なカリスマがあり、秀吉には華麗さがあるが、家康には日本のサラリーマン社会に通じる滅私奉公、主君への忠誠という物語があるだけである。

しかも家康は豊臣秀吉から秀頼の後見人に任命されたにも関わらず、大阪城の外堀と内堀を埋めさせたり、方広寺の鐘に「国家安康」の文があり、家康の名を分割して、呪っていると言いがかりをつけ、豊臣秀頼を大阪冬の陣、大阪夏の陣で滅ぼしてしまう。

この辺りの外交における狡猾さは、現在でいえば、他国を陥れることに長けているアメリカのCIAによる対外の工作活動に近いものがある。
それは家康のチャートでは8室(陰謀、悪意)支配の月が5室(マインド、判断力、知性)の牡羊座のバラニー(CIA、諜報)に在住しているからである。

この配置から、決して相手を信用しない、また情報戦に巧みで、相手を陥れることに巧みでな狡猾さ、陰謀・悪意があったことを示している。

家康には服部半蔵という忍者がいたが、今でいうCIAのような諜報活動の専門家である。

彼らが情報収集して、例えば、方広寺の鐘に「国家安康」の文があるといったことも、こうした諜報能力によって、収集されたのではないかと思われる。

また親藩、譜代大名、外様大名の区別により、幕藩体制を築き、参勤交代で、諸大名の力を抑制し、士農工商の身分制度を作って、統治したのは、基本的に性悪説の考え方で成り立っており、徹底的に人を信用しない態度によって貫かれている。

そして、自らが支配することによって、徳川260年間の平和をもたらすのであるが、それは、徹底的に人を疑った上での支配を前提としている。

これらは牡羊座の特徴であり、牡羊座は身分制度や階級社会をもたらすことは、イギリスの例でも明らかである。

従って、イギリスにはMI6というジェームスボンドでも知られる諜報の老舗のような組織がある。
このように徳川の幕藩体制ではインテリジェンス(諜報)の能力が、力を発揮していることは明らかである。

CIAがアメリカの世界覇権に大きく貢献しているようにである。

徳川家康がそうした幕藩体制の基礎を築いたのは、このマインドを表す5室牡羊座バラニーに月が在住しているためである。
また徳川の統治を支えたのが、宿曜占星術の三九の秘法であると考えられている。

つまり、諸大名の出生データから月のナクシャトラを調べ、どのように配置すればお互いに分裂し、同盟を結成しないように出来るのかについての地政学的な答えを運命学やオカルトからも得ていたと思われるのが、8室(オカルト)支配の月が5室に在住していたからである。

少し話を元に戻すが、8室支配のマハダシャー月期には、戦国時代の渦中にあって、織田信長や武田氏との同盟関係や敵対関係など三角関係などもあり、ひたすら織田信長の戦いを助けた。

マハダシャー火星期は1572年3月~1579年3月であるが、領内に攻め込んできた武田軍との戦いが主なテーマである。
以下は、その火星期にちょうど入りつつある時の徳川家康の動向である。(wikipediaより)

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家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保し、元亀3年(1572年)10月には徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した。
当初、武田氏は織田氏とは友好的関係であった。信長と反目した将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際に武田氏もこれに加わり挙兵する。信玄は元亀3年(1572年)10月に遠江・三河に侵攻し、これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は織田氏に援軍を要請するが、織田氏も信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。

遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた頃、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表される身代わりに助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。なお、このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる(三方ヶ原の戦い)。
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家康は、マハダシャー火星期になってから武田氏が領内に攻め込んできて、激しい一進一退の攻防が続いたが、必ずしも有利とはいかず、苦戦し、惨敗も喫している。

この火星期を通して、武田氏と激しい戦を行っている。そして、大きく敗北もしているのは、おそらく火星が月からみて1、8室支配で12室に在住しているからである。
そして、ラーフ期になると、本能寺の変があり、明智光秀を討つために軍勢を集め、進軍する途中で、羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知る。

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天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れたが、信長が家康を謀殺するためという説もあり、本多忠勝など選り抜きの家臣団と共に行動した。
6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。
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ラーフ期の印象としては、信長亡き後、秀吉の家臣となり、その天下統一までの道のりで秀吉を助け、努力した時期のように見える。
戦国武将における火星期とか、あるいは3室に在住するラーフ期などは、スポーツ選手においてよい時期である。

つまり、戦国武将というのは、スポーツの選手に例えると、非常に分かりやすく、ウパチャヤ凶星の時期や、また6室の表示体の火星期などは戦いの時期であり、12室の支配星の時期は敗北の時期であることが分かる。

マハダシャー火星期に敗北したのは、火星がラグナからみて12室の支配星で、月からみて12室に在住していたからである。

従って、マハダシャー火星期に武田軍との一進一退が続いたのである。

秀吉の晩年において、1596年、秀吉推挙により、家康は内大臣に叙されている。

また1598年に秀吉が病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命している。

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1596年 秀吉の推挙により内大臣に叙される。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。

1598年、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。
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この頃は、ラーフ/火星期から木星/木星期へ移行するタイミングであり、木星はラグナロードで11室に在住しているため、高い地位、称号、役職を得ていることが分かる。

そして、これは秀吉の推挙によって、また秀吉の生前贈与によって与えられた役職であるのは、ラグナロードの木星が11室に在住し、しかも8室支配の月と相互アスペクトしている為である。
マハダシャー木星期に移行してからの家康は、朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭となっていた為に実質的に最高実力者に近い状態となっていた。

非常に高い地位、称号、役職を得た状態である。wikipediaによれば、更に家康は、参謀の本多正信の献策に従い天下人への道を歩みだしたようである。その為に自分の血族を諸大名と結婚させ、権力基盤を盤石にしようとしているのが分かる。

こうした政略結婚による縁戚関係も称号の一部であり、有力な人脈をもたらし、高い地位や利得につながるものであったと思われる。

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秀吉死後

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。この頃より家康は参謀の本多正信の献策に従い天下人への道を歩みだす。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。

伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。

この頃より家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。
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そして、1600年には関ヶ原の戦いが起こっている。

木星/土星期であり、マハダシャー木星期のセカンドアンタルダシャーの時期である。

つまり、木星期を象徴する出来事がこの戦いである。
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9月15日午前8時頃、美濃国・関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)
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この戦いの勝利で、徳川家康は、天下人としての立場を確立している。それはマハダシャー木星期がもたらしたものである。

そして、1603年2月12日に後陽成天皇が家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命している。

この時期は木星/水星期だが、木星はラグナロードで11室に在住し、水星は10室の支配星であり、ナヴァムシャでは月からみて10室の支配星で高揚している。

まさに最高の地位と評価、称号を得たのが、この木星/水星期である。

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征夷大将軍

慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来、空位となっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る(豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない)。

関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行い、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を足利氏と同じく源義家に通じるようにさせた。

慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まってなかった常陸国・水戸の佐竹義宣を出羽国・久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸藩に入れた。これにより関東一円は完全に徳川氏が支配することとなる。

慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利義満から始まった慣例である。

同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
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徳川家康は、天皇という権威からの承認によって、称号、地位を与えられたのであり、社会的にも高い評価を得て、盤石な権力基盤を築いたと言うことができる。
一方で、信長のチャートでは全く11室は強い配置であるとは言えない。

誰かから称号や評価を得た訳でなく、その地位は純粋に武力によって自分で勝ち取って自分に与えたものである。

このように見てくると、徳川家康の生涯は、日本の企業社会におけるサラリーマンの滅私奉公的な出世物語にそっくりであるが、CIAのようなインテリジェンスを用いて狡猾に豊臣家を陥れたと推測される所、奸智に長けた汚い面も見られ、外交的、政治的手腕が、非常に老練で盤石であり、若々しさや面白みに欠けている。

但し、信長のように謀反で暗殺されたり、晩年の秀吉の朝鮮出兵や秀次事件に見られるような未熟さもなく、安定している。
















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徳川家康について」への4件のフィードバック

  1. you

    あの、質問ですが
    徳川家康の生誕日は
    ユリウス暦では西暦1543年1月31日
    グレゴリウス暦では西暦1543年2月10日
    なのですが
    ここで言われているのは後者の方ですか?

    返信
  2. 秀吉 投稿作成者

    このデータは知人から得た情報ですが、
    データソースは分かりません。

    グレゴリウス暦と一致しているのであれば、
    グレゴリウス暦ではないかと思います。

    返信
    1. 秀吉 投稿作成者

      徳川家康
      西暦1543年2月10日3~5時
      愛知県岡崎市
      ————————————————–

      これは私の講座に参加した方から提供された
      データで出生時間AM3:00~AM5:00ということですが、
      中国系の運命学、例えば四柱推命などで、
      修正された結果ではないかと思います。

      上記はそのままグレゴリオ暦の出生データとして使用すればよいということです。

      出生時間をAM 3:00 で作成すると、ラグナが射手座8°54′(ムーラ)となり、
      AM 5:00 で作成すると、山羊座8°45′(ウッタラアシャダー)になります。

      月は射手座ではなく、バラニーになります。

      返信

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