元日本赤軍最高幹部・重信房子の出所騒動 -大衆を狂乱させて操る魔女-



重信房子の出所時のメディアの興奮状態について、もう少し詳しく見て行きたいと思うが、非常に興味深い。


2022年5月28日午後8時過ぎに重信房子は、東京都昭島市にある医療刑務所「東日本成人矯正医療センター」を出所したが、その模様を取材するカメラマンは、150人ぐらい集まり、センター側から撮影場所が指定されたが、カメラマンたちが、これでは撮影できないと文句を言い始め、「前に立つな! そこどいて!」とか、「何やってんだ! いいかげんにしろよ!」と言った怒号を発しながら、フェンスを乗り越えて、彼女の近くに殺到したという。


重信房子の出所の現場は、罵声、悲鳴、懇願が生じ、大混乱した。





このようにカメラマンたちは興奮し、あたかも全共闘時代にセクトに所属する学生たちが、乱暴で汚い言葉で、大学側の教員や管理者を罵倒し、暴れた当時のような騒乱状態に陥ったのである。


これは明らかに重信房子の6室のラーフ、火星、月が表わしている。


月は大衆を表わしており、彼女に対面した大衆は、興奮し騒乱状態に陥ってしまう。


因みに月は7室(パートナー)の支配星である為、彼女の美貌に魅かれて赤軍に加入するような動機の男性も多かったと思われる。


然し、実際に彼女に魅かれて加入してみると、死の危険が伴う大変な現場が待っているということである。



記事にも書いてあるが、重信房子と6時間討論すれば、完全にオルグされてアカグン(赤軍)に加入するそうである。


彼女に接する人々を興奮状態にさせ、操ってしまうのである。


これが、6室に在住するラーフ、火星、月のコンビネーションである。







これが日本赤軍の部下たちに命令して、テロ行為をさせた配置なのである。


1972年5月30日、イスラエルのテルアビブ空港で3人の日本赤軍のメンバーによる自動小銃や手榴弾を使った乱射事件が起こり(テルアビブ空港乱射事件)、現場で2人は射殺され、1人は拘束されたが、その指令は、全てレバノンのベカー高原にいる重信房子から発信されたという。


彼女に接すれば、おそらく、双子座にラグナや月が在住するような人々は、テロ行為や殺人を決行する兵隊にさせられてしまう。


そして、彼女の兵隊になった者たちは、ある者は現場で射殺されたり、逮捕されたり、酷い目に遭うのである。


6室のラーフ、火星、月は、強力な配置であり、人を支配し、操る配置である。




希代のテロリスト重信房子、21年の獄中生活の末に見た「風景」
テロは論外だが、「若者の冒険」を過剰に否定する現代の風潮はいかがなものか
2022.5.31(火)橋本 昇 JBPRESS

 正直、驚いた。マスメデイアがこんなに興味を持つとは思ってみなかったのだ。日本赤軍の重信房子元最高幹部(76)のことだ。

 5月28日午前8時過ぎ、元日本赤軍トップリーダーの重信房子は東京都昭島市にある医療刑務所「東日本成人矯正医療センター」を出所した。20年の刑期を終えての出所だった。

 学生運動当時の重信を知る身としては、彼女の出所の瞬間はぜひ写真にとらえたいと思った。センター前についたのは午前5時45分。「ちょっと早過ぎたかな?」と思いもしたが、すでに5~6社のカメラマンたちが門の前でたむろしていた

 それだけでも驚きだが、その後、取材の人間はどんどん増え、最終的には150人くらいは集まっていたのではないだろうか。その関心高さに、改めて重信房子という人の存在感を見たような気がした。

 が、よくよく彼らの年恰好を見れば、彼女のテロリストとしての活動時代はもちろんのこと、22年前の逮捕当時のことを知ってそうな人間は数えるほどだった。おそらく、デスクあたりの命令で取材に来たという感じのカメラマンが多かったのではないだろうか。

「ここは日本赤軍が仕切る」

 センター側から指定された撮影位置は、建物の玄関から約30メートル離れたフェンス越しの空地だった。そこにずらりと脚立が並べられ、カメラマン一同は重信が出て来るのを待った。その間にも次々と新聞、週刊誌、テレビのカメラマンや記者達が到着し、次第に現場は混乱してきた。皆、少しでも良い撮影位置を確保しようと必死なのだ。

「何だよ。これじゃあ、撮れねえじゃねぇか」

 ぶつぶつカメラマンがぶつぶつと文句を言った。刑務官は「金網には絶対に手を触れないでください!」と、注意喚起をして回る。

 7時過ぎ、彼女の一人娘、重信メイさんらが出迎えの為に現れた。周りには20人ほどの支援者たちの姿もある。支援者たちが“We love Fusako”という大きな横断幕を掲げた。

支援者代表の山中幸男・救援連絡センター事務局長が「マスコミの皆さん、重信さんは車で出ますが、いったん止まって車から降りて姿を見せますから! その時、撮れますから!」と声を嗄らすが、カメラマン達は一切聞いていなかった。

 現場の混乱は続く。

「前に立ちはだかると撮れないので、少しさがって! 下がって!」

 と、互いの肩が触れ合うような混雑の中で叫ぶ者がいる。

 すると支援者の一人が素っ頓狂な事を言った。

「ここは日本赤軍が仕切るから!」

 暫らくそんなこんなのつばぜり合いが続いていたが、いよいよ重信を乗せた車が出て来ると、かろうじて保たれていた現場の均衡は総崩れとなった。

飛び交う怒号

「前に立つな! そこどいて!」

「何やってんだ! いいかげんにしろよ!」

 怒号が飛び交う。

 カメラマン達は、あれほど刑務官から「手を触れるな」と言われていたフェンスを次々と乗り越え、重信へと殺到した。いったん秩序が崩れると、カメラマンは私を含めて大変お行儀が悪い。

「キャー! やめて下さい。お願いですから、そこ、どいて!」

 とメイさんが叫んだ。それが混乱のファーストウエーブだった。


重信出所の現場で聞こえた罵声、悲鳴、懇願


 セカンドウエーブは近くの公園に設定された「記者会見場」で起こった。

 重信を乗せて車が到着するや否や混乱は始まった。罵声、悲鳴、懇願……。カメラマンたちは瞬時も見逃すまいと被写体に喰らいつく。警察官たちがそれを押し留めようとすると、どこかからか汚い言葉が飛んで来た。

「テメーたちが押してんじゃねぇーか!」

 びっくりマークの付く言葉がそこらじゅうから上がった。
これが元日本赤軍のトップリーダーが20年ぶりに味わった“娑婆の空気”だった。

学生運動の闘士から国際的テロリストに

 私が重信房子を初めて見たのは1970年の5月だったと記憶している。場所は、明治大学和泉校舎だった。

 その日、和泉校舎キャンパスでは学生集会が開かれていた。

 その頃、明治大学は私の属していた青ヘルメットがシンボルカラーの“反帝学評”の拠点校の一つだった。そこで赤ヘルメットの赤軍派が集会をやっているという話を聞き、様子を見にいった。いや、もっとはっきり言えば、襲撃のための偵察だった。労働者のことを顧みず、「革命には軍事が必要」などと主張する彼らは、ほとんどのセクトから敵対視されていた。そこでわれわれのグループは、赤軍派を和泉校舎から駆逐すべく、別大学のキャンパスに500人ほどの学生を待機させていた。私ともう一人の仲間は、明大の学生のふりをして赤軍派の集会に偵察に出かけたのだ。

 集会は赤ヘルメットを被った学生が100人くらい集まり集会を開いていた。その中心に重信房子がいた。彼女の流れるようなロングヘアーと、今の言葉で言うところのクールビューティーな姿はひと際、目立っていた。

「重信と6時間討論すれば、完全にオルグされてアカグン(赤軍)に入るぜ」

 と、私の仲間は彼女を見ながら言った。

 その日は結局、和泉校舎前に警察の機動隊が出張ってきたため、われわれの襲撃計画は未遂に終わることになった。

その後、彼女は中東のレバノンに渡り日本赤軍を結成した。イスラエルのテルアビブ空港で3人の日本赤軍コマンドによる自動小銃や手榴弾を使った乱射事件が起こったのはその直後だった。実行犯の2人はその場で自爆し、一人生き残った岡本公三は捕らえられた。

 そのストーリーを描いたのは重信房子とパレスチナゲリラの「パレスチナ解放人民戦線」(PFLP)だった。

 そしてこの事件で日本赤軍の存在は超過激派組織として世界中に知る渡ることになる。その後も、日本赤軍は世界各地でハイジャックや外国大使館占拠事件を起した。その指示も全てレバノンのベカー高原にいる重信から発せられたという。

 それから30年、パレスチナを巡る情勢も次第に変化した。重信も密かに日本に帰国していた。

 彼女が2000年11月に潜伏先の大阪で逮捕された時、やはりメディアは大騒ぎだった。大阪から東京へ新幹線で護送された重信を待ち受ける人々たちで、東京駅のホームや連絡通路は蜂の巣を突っついたような騒ぎだった。ホームを走り回るカメラマンや記者、数えきれない数の公安刑事や制服の警官たち。
 
やがて、両手に手錠を掛けられ、腰縄を打たれた重信が女性刑事に挟まれて現れた。

 彼女所が私の前を通過する時、私は思わずこう声を掛けていた。

「重信さーん!」

 無意識に「さん付け」で呼んでいた。すると彼女はこちらに目を向け、ガッツポーズを寄こした。

「日本赤軍」とは何だったのか

 あれからさらに21年以上が過ぎた……。

 三度目に遭遇した重信房子は、がんを患っていた。私達の前で彼女は静かに謝罪と感謝の言葉を述べた。配られた彼女の手書きのプレスリリースにも、かつての自分の在り方への反省や謝罪と共に命を?いで出所出来た事への感謝が綴られていた。また、文の中で彼女はかっての「武装闘争路線」は間違っていたとはっきり表明している。だが、当時はそう考えなかったとも……。

出所した重信に対して、世論は概して冷たい。「テロリストをヒロイン扱いするな」「何人もの殺人に関与し、日本を破壊しようとした人間の病気を、なぜ日本の税金を使って治療してやる必要があったのか」などといった主張がネットには溢れている。

 そうした意見は至極もっともではある。ただ、そこになんとなく座り心地の悪さを感じてしまうのも、私の正直な感想だ。

 決して賛美するつもりはないが、ふと、かつての武装闘争で若い命を散らした者たちの事を想う。彼らは、結果的に社会に迷惑をかけることもあったかもしれないが、自らの信じる行動を貫こうとし、そして挫折した。テロは論外だが、若者の、少々向こう見ずな行動さえ許容しない空気が現代は蔓延していないだろうか。「義務を果たせ」「責任を取れ」「社会に迷惑をかけるな」。どれも間違っているわけではないが、あまりに若者を縛り付けすぎてはいないだろうか。

 いったい日本赤軍とは何だったのだろうか? 時代が作り出した鬼っ子だったのか? それともあだ花か? 「若者に蔓延したウイルスだ」という者もいる。

 そう決めつける事は容易だろう。しかし、半世紀前の若者たちの想いをそのひと言で、「兵どもが夢の跡」とばかりに、忘却の彼方へ押し流してもいいのだろうか?

 今回の重信出所に対してのマスコミの大騒ぎも、身勝手だが自分の信念に基づいて行動した人間に対する「妬み」が背景にあるように思う。

 若者に蔓延した「ウイルス」というひと言で忘却しようとする現代にも、また別の病が巣くっているのではないか。

「他人に迷惑をかけるな」

 と、皆は言う。確かにそれはそうだけど……。






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