文部省が全国の教育委員会に対して、いじめの問題でいじめの被害に合っている生徒に「頑張れ」と言わないように通達を出したそうである。
確かに「頑張れ」というのは何の解決にもならない解決策である。
例えば、不眠症の人は眠ることを頑張ってしまうから、ますます不眠症になってしまうのであり、そうしたことを忘れた時に眠りがやってくるのである。従って、眠ることを「頑張る」ことは何の解決にもならない。むしろ、眠りを得ようと必死に力むこと、すなわちそれは欲望でもあるのであるが、かえって自我への集中を招いてしまい、眠れない状態となる。
神経症やどもりなどの症状も全くこれと同じ原理である。治そうと努力することで返ってその症状を強化してしまう。
頑張るという言葉の語源は分からないが、「我踏ん張る」というような意味と似ているかもしれない。我を踏ん張りすぎて、自分を忘れることができないので、いろいろな問題が生じてくるのである。
いじめられている子供に対して、「頑張れ」と言った時にどうなるかを考えると、いじめられている子供はおそらく、既に過度の自我意識を持っており、劣等感や恐怖心で自己に意識が集中している状態にある。
自分の安楽や恐怖からの開放を求めて、常に自己への欲望に集中している。他人に自分がどう見えるか?いじめっこに自分は何か気に障ることをしてしまったのではないか?常に自分が周りにどう見られているかということを考えており、自己中心の状態にある。そうした自己の安全を確保しようと必死になる様がむしろ更なるいじめを招く結果となるかもしれない。「頑張れ」ということによって、そうした自分への集中をますます強めてしまい、いじめの原因を自分の内部や自分の側の努力不足に求めて、返って行動は消極的で内省的になってしまう。
そこで昔はいじめなどは先生が介入するものではなく、生徒同士で解決することが理想であり、いじめられている当事者は頑張りが足らないのだという発想であったのが、最近ではいじめられていることを生徒が訴えたり、あるいはサインとして示したら、先生は全力で解決するよう動くようになってきている。
つまり、いじめは生徒が頑張って一人で解決しようとしてもどうにもならないこともあることが分かってきたのである。
いじめられている生徒は既に自我意識的であり、頑張りが足らないことを悩んでおり、それを誰にも相談できずに行動を起こせないでいる。それを先生に訴えるということは解決の為に自分で起こした行動として評価できるのであり、「いのち」のエネルギーの外的表現である。自分の内部で自我に集中しているのではなく、外部に放出されたエネルギーであり、「いのち」の発露である。従って、先生がその「いのち」の発露に注目して、生きようとしている生徒のエネルギーを強化し、より「いのち」が強く表現できるように援助することは必要なことである。
あるいは訴えるエネルギーさえ持たない生徒を教師の側が見つけ出し、その生徒を保護し、「いのち」の力を増大させ、より強く表現できるように援助することすら必要である。それが「いのち」の育成という観点である。
「頑張れ」というのは命令であり、育成とは全く違うメソッドである。それは強制し、やがては生徒が自分自身を条件付ける内的な装置として機能し、「いのち」の強化には結びつかない。むしろ、生徒が自主的に起こしたことを取り上げ、それを誉め、強化育成することが必要である。
それが「いのち」の表現力が弱くなった現代人へのメソッドであり、条件付けではなく、「いのち」や自発性の育成強化を優先するメソッドである。
夜回り先生として知られる水谷豊氏は、最初、麻薬やシンナーをする、いわゆる不良の子供を扱っていたが、そのうち、生徒の質が変わってきたと言っている。それはリストカットする生徒に見られるように非常に自我意識的で内向していく子供である。
水谷先生は、そうしたタイプの子供たちには「誉める」ことを通じて、自我を育成し、また両親の手伝いをさせたり、人に役立つことをするように促し、生きる力を得させるように指導している。
人の役に立つことで生きる力が育まれるというのである。自分への集中でなく、他人へと意識を方向転換することによって、生きるエネルギーを得て、「いのち」の強化につながるのである。これらは全く「いのち」の育成の観点から来る発想であり、現代の子供にとって必要なメソッドである。
おそらく人の役に立つように行為することによって、自己への集中から解放され、いじめられている自己からも解放されるのである。その時にはもうその悩みはなくなっているかもしれず、問題それ自体が変容しているかもしれない。
然し、カルマの観点が入ってきたときには非常に複雑になる。
そこには生徒の心がけなどといった一切の努力とは関係ない原因が存在するのであって、
生徒へのアドバイスはいかにいじめを受けやすい時期をやり過ごすか、被害を最小限に抑えるかの
具体的、現実的、実際的な方法を教えることが必要となる。
同僚や友人とうまくやっていくという理想を「頑張れ」という安易な言葉によって求めるようにしむけたりすることは
無益であり、いじめられたときにはどうするか、どう自分のいのちを守るか、苦しい状況から逃れるかの具体的、実際的な手段を教えることが必要となる。
時には法律に訴えたり、被害者の子供と一緒に先方の両親に対して、訴訟を起こしたりするぐらいの現実性があってもいいかもしれない。
そうして、先生が一生懸命に動いた時、その先生はおそらく、その子供にとっては木星の役割を果たしているのであると言えるかもしれず、既に子供のチャートに木星の保護として現れていると考えられる。
然し、そうした現実的な対応と合わせて、いじめそのものを扱うのではなく、いじめられている子供に生きる力、「いのち」の強化をもたらすように実践させることが問題の根本解決策かもしれず、それはカルマの解消という観点からも効果的である。つまり、いじめられている被害者の子供たちには奉仕の実践が必要であり、両親や教師、周りの人々は子供に仕事の手伝いなどをさせたり、いろいろ、子供に奉仕を実践する機会や選択肢を与えるべきである。そして、それは命令ではなく、お願いであるべきである。
そして、奉仕を受けた大人が子供の援助で喜んだり、助かったりする時、、それが子供の生きる力、「いのち」の強化につながるのだと思われる。
子供にもそのような心理学、カルマ的理解、洞察力に富んだ教師(導師)の導きが必要である。
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