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ロッキー青木家の遺産相続争い その2 -サルパ・ドレッカーナ-

2023 5/20



前回、ロッキー青木のラグナを射手座に修正して、遺産相続争いが何故、起きているかについて論じた。







ロッキー青木は3回結婚しているが、2002年に結婚した最後の妻、小林恵子(青木恵子)に対して、最初の妻(小林ちづる)の子供・スティーブと、2番目の妻(パメラ・ヒルバーガー)との子供・デヴォン青木が、小林恵子を信託基金の筆頭から除外する為の訴訟を起こしている。


2002年に結婚した時、火星期の終わり頃で、火星/金星 or 火星/太陽 or 火星/月期のいずれかであったが、直後にマハダシャーラーフ期に移行している。


ラーフのディスポジターは、6、11室支配の金星で、12室の蠍座4°15’で、サルパ・ドレッカーナに在住している。


つまり、2002年以降の小林恵子との結婚生活は、主に金星が表わしており、サルパ・ドレッカーナを経験していることになる。


サルパ・ドレッカーナには蛇を象徴し、逮捕監禁という象意がある為、晩年のロッキー青木は、インサイダー取引で、罰金50万ドル、保護観察3年の有罪判決を受け、ナスダックに上場する「BENIHANA」会長の座を辞任し、実の弟との間で、遺産相続の争いを起こして、孤独感が募っていた所で、青木恵子(小林恵子)夫人と結婚した形になる。







これは夫人がちょうど寂しさが募っていたロッキー青木に絡みついた蛇に象徴されるかもしれない。


ロッキー青木は、夫人に信頼を寄せ、遂には子供たちの反対を押し切って、「BENIHANA」の資産全ての管財人にするという遺言を残してしまう。


子供たちは、これに反発し、父親が自分たちに残してくれた遺産を昨日今日、父親と知り合ったばかりの見ず知らずの青木恵子氏に管理されることを拒んだ。


これが、遺産相続争いの概要なのだが、ここで、サルパ・ドレッカーナが大きく関わっていることが分かる。


この金星は蠍座のアヌラーダに在住しているが、アヌラーダは典型的な銀座のホステス、水商売の象意を持っている。


ロッキー青木としては、晩年に水商売の女性に貢いで入れ来んでしまった形であり、11室支配の金星が12室に在住している為、どんどん夫人にお金をつぎ込んでしまい、遂には夫人に「BENIHANA」の全財産を管理させる(つまりは実質的には譲るに近い行為)ことにまでなった。



これは妖艶な蠍座第1ドレッカーナ、サルパ・ドレッカーナがもたらした効果である。







ロッキー青木と夫人が並んだ写真を見ると、ロッキー青木は、年齢を重ね、弱々しい印象だが、夫人の方は脂ぎっていて、ギラギラしている。


あたかもロッキー青木に絡みつき、飲み込んで、エネルギーを吸い取っている蛇のように見え、妖艶で、ギラギラしたカリスマを放っている。




(参考資料)

故・ロッキー青木を看取った妻・恵子さんはいまも実業家「NYで介護用品の開発中です」
2022.06.14 17:00 NEWSポストセブン

アメリカ日本食ブームの立役者、ロッキー青木氏。1964年にNYに鉄板焼きレストラン「Benihana of Tokyo」を開業し、米国内で80店舗以上展開して大成功を収めたばかりか、広告塔になるために気球で太平洋横断を行なうなど型破りな冒険家であった。そんな青木氏の最期を看取ったのが、3番目の妻・青木恵子さんだ。2008年に亡くなった青木氏の「Benihanaを世界中に広げてほしい」という意志を引き継ぎ2020年までCEOとして世界中を駆け回った。そんな恵子さんはどんな人生を送り、いま何をしているのか――。

 ロッキー氏は死の間際に、ある言葉を恵子さんに伝えたという。恵子さんが明かす。

「夫は亡くなるまでの数日間は言葉を発せられないほど弱っていたので、死の間際はただ見つめ合うだけでしたが、後日、病室の引き出しの中から生前に書いたであろうメモ書きが見つかったんです。私宛に震える文字で“幸せだった。ありがとう”“I love you forever without you I am dead”と書かれていました。とても素敵なメッセージで、もしあなたがいなかったらもっと自分は早く死んでいたと。当時、傷心だった私はBenihanaをやるパッションは残ってなかった。でもこのメモ書きを見て彼の意志を継がないといけないと奮起し、10年はやろうと決意したのです」(恵子さん)

全世界の責任者が集う場を設けた

 ロッキー氏が遺した言葉通り、CEOに就任した恵子さんは米国内での新規店舗の開店はもちろん、17か国でのフランチャイズ展開でさらなる事業拡大を図った。

「ハワイ、ロンドン、オーストラリア、ポーランド、ルーマニア、カナダ、クウェート、サウジアラビア、タイ、インドネシア、エジプトなど世界各国を飛び回りました。どの国でもロッキーさんの考えた“エンターテインメント色の強いレストラン”という核の部分は守ってきました。ただ、米国とは違ってほかの国には宗教上の制限などもあります。例えばインドのお店ではビーフは使えないからラムやチキンを代用するなどして対応しました。また、昔からのメニューは絶対に外さず、時代の流行に合わせてヘルシー志向やベジタブル、豆腐ステーキ、シーフードを増やすなど様々な工夫をしました」(恵子さん)

店のメニューやサービス内容の構想を練るのはもちろんのこと、全世界に広がるBenihanaとそこで働くスタッフ一丸となることに注力したという。

「ロッキーさんはよく『会社には(統制する)ひとつの声が必要だ』と言っていました。私には会社を統制する責任があったので、フランチャイズ同士で交流する場として年に1回、全世界のBenihanaの責任者が一堂に会する交流会を設けました。毎年ホテルを貸し切って3泊4日で勉強会や報告会などのスケジュールを組み、まさにファミリーのような連帯感を築いたんです。これはBenihanaグループにとって大きな功績を残せたと思っています」(恵子さん)

 50代から60代の間、世界各地を飛び回りBenihanaを統制していくのは体力的にはかなりキツかったという。そして当初の“なんとか10年やっていこう”という区切りでBenihanaの売却を決意する。

「2018年、夫も親しくしていたタイの一大外食チェーン企業のマイナー・インターナショナル社にBenihanaの75%を売却し私はその1年半後にCEOを退任しました。10年という区切りもありましたが、“Benihanaをさらに世界中に広げること”は、今後はすでにマーケットを持っているところが進めるのが良いと思ったので悔いはありません。しかもその後、コロナ禍になって…私があのままやっていたら確実に潰れていたかもしれないと思うと、良いタイミングでした」(恵子さん)

30代からビジネスの才能を発揮

 そもそも、ロッキー氏と結婚する前の恵子氏にはどんな背景があったのか。大富豪に見染められた玉の輿だったわけではなく、恵子氏もまた実業家だった。

「山脇学園短期大学卒業後にハワイ大学に留学し、在学中にNY在住の日本人ビジネスマンと結婚してグリーンカードを取得したんです。色々あって1年半ほどで別れましたが、日本に帰ろうとは思いませんでした。NYのセレブマダムたちの交流の場だった“主婦の友”の理事に気に入られて五番街にオフィスを借りたんです。初めて入った依頼が“日本で毛皮を売ってくれないか”というものでした。1990年のことです」(恵子さん)

 当時、アメリカ経済は不景気で毛皮の販売が落ち込んでいたという。一方の日本はバブル景気の真っ只中。恵子氏は初めて挑戦したビジネスでいきなり大成功を収める。

「都内の毛皮店の方から“アメリカで1万ドルの毛皮が日本では7倍の値段で売れている”ことを聞き、NYの毛皮屋からサンプル品を借りてニューオータニのスウィートルームを3日間貸し切り毛皮の展示会を開催しました。会場ではお客様の契約だけいただいて商品は後日発送する方法で売上はなんと5000万円! 毛皮の並行輸入は恐らくですが、私が初めて成功したんです。これは嬉しかったですね」(恵子さん)

 しかし、恵子さんは浮かれなかった。高価な毛皮のコートは1人が2着も3着も買うものではない。これは長くは続かないと“次は何を売ろうか”と目を光らせていたという。

「そんな時に何気なく見ていたテレビ画面から目に飛び込んできたのがマドンナのコンサートツアー『ブロンド・アンビション・ツアー』でジャン・ポール・ゴルチエがデザインしたコーンブラのコルセット姿でした。さすがマドンナ、セクシー路線で今度は攻めたのね……と見ていた中で、私も閃いたんです。“次は下着だ!”と」(恵子さん)

今度は「下着」で成功

 下着は誰もが毎日着用するものだが、当時の日本では可愛いデザインのものが主流だった。「これからは日本女性も胸を盛る時代ではないか?」と目をつけたという。

「下着業界は4000億円以上のマーケットであるにもかかわらず、日本では大手2社がシェアを占めていました。アメリカでは当時、胸を寄せて上げるワンダーブラという人気商品があったので、これを日本に持ち込みたいと考えました。当時は下着はデパートで売るのが主流で下着屋さんなどはなく、これからはカタログではないかと目をつけた。ワンダーブラの日本での販売を大成功させ1992年から発売して4~5年はすごく売れていたと思います」(恵子さん)

 毛皮と下着の日本での輸入販売を大成功に収め、小野恵子(ロッキー氏と結婚前の旧姓)の名はNYのビジネス界で名を馳せるようになり、NY市やスペイン政府などと地場産業や観光産業の仕事にも関わるようになる。ロッキー氏がアメリカで日本食ブームを巻き起こしたように、恵子氏は日本女性で初めてNYでのビジネスに成功した女性だったのだ。

現在の恵子さんは「介護」にも注力

 そんな恵子氏はいま、どうしているのか――。Benihana のCEOを退任した後、NYで隠居生活でもしているのかと思ったら大間違い。今はふたつの事業を中心に活動しているという。そのひとつが好きなシェフを自宅に呼ぶことができる「chef OMAKASE」だ。

「コロナ禍に入り外食産業がストップして家で食事する機会が増えたタイミングというのもあったし、なによりシェフの働き方改革を行いたかった。レストラン勤務だと10時間拘束は当たり前ですが、出張シェフの仕事ならライフスタイルに合わせて4時間前後で済むので効率が良くなる。また“chef OMAKASE”は一人前90〜140ドルと気軽に利用できる料金設定。プライベートシェフをウーバーイーツくらい気軽に利用できるサービスにしたいと思っています」(恵子さん)

 また、同時に力を入れているのが介護用品の開発。きっかけは昨年亡くなった恵子氏の実母が要介護になったことだった。

「母の介護の現場で、日本の介護用品はもう少し改良できるのではないかって感じたんです。なんと言っても実用性はそこそこでもデザイン性に魅力を感じないものばかり。アップリケとかついて変に幼稚だったり、そうでなければ味気なかったり。私は寝たきりでも排泄物の処理をしやすく、なおかつオシャレで身につけたくなるようなデザイン性の高い寝巻きを開発しました。今まさに商品化に向けて準備をしているところです」(恵子さん)

 ロッキー氏と出会う前も一流のビジネスパーソンとして活躍し、ロッキー氏亡き後はBenihanaの世界的な展開に貢献した青木恵子。「挑戦することがなくなることが怖い」と語る彼女もまた、ロッキー氏と同様に冒険家なのであった。

 ◆取材・文/河合桃子
参照元:故・ロッキー青木を看取った妻・恵子さんはいまも実業家「NYで介護用品の開発中です」
2022.06.14 17:00 NEWSポストセブン

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