K.N.ラオ

氏名コタムラージュ・ナラヤナ・ラオ
ローマ字Kotamraju Narayana Rao
生年月日1931年10月12日
出生時間7:54
出生場所南インド・アーンドラ・プラデーシュ州マチリーパトナム(Machilipatnam town of Andhra Pradesh)
Rodden Rating
ナクシャトラ(Asc)ヴィシャーカー
ナクシャトラ(Mo)チトラー
職業元インド政府の監査および会計サービス(IAAS)所長(Indian Audits and Accounts Service as Director General)、世界最大の占星術学校バラーティア・ヴィディア・ヴァヴァン(Bharatiya Vidya Bhawan)創設者・アドバイザー
所属
業績
その他(資料---『ラオ先生のインド占星術-運命と時輪-』上より引用抜粋)

K.N.ラオ(コタムラジュ・ナラヤナ・ラオ)氏は、1990年11月、インド政府の会計監査院の最高職を退職しました。彼の父親であるK・ラーマ・ラオ氏は、インド独立前から活躍していたジャーナリストでした。

ラオ氏の父は、編集者としてナショナル・ヘラルドの創設に参加し、それ以後も、長年にわたって30誌以上の新聞・雑誌で編集者として敏腕を振るいました。ラオ氏は、その次男として生まれました。

 ラオ氏は、1943年の12歳の時から、今は亡き母親、K・サラスヴァニー・デーヴィーから占星術を教わりました。ラオ氏は、「結婚と子供」と「プラシュナ(ホラリー)」を占わせたら母親の右に出るものはいないだろうと今でも思っているそうです。

 ラオ氏は、1957年、日本でいう上級職公務員試験を通って役人として採用されるまで、英語の講師をしていました。その後、インド政府の会計監査院に勤務し、1990年11月に退職したときには、最高職にまで上りつめていました。

ラオ氏は、若いときは占星術よりもむしろゲームやスポーツに興味をもち、チェス大会に参加してすばらしい成績をおさめたほか、ブリッジ大会にも出場して2つの州で優勝しました。ラオ氏は、それ以外にも10種類のゲームをこなしているので、彼が書く占星術の本には、ゲームのたとえがよく出てきます。

 在職中、彼は会計監査に関する3つの国際コースで、プランナーとオーガナイザーそして講師を勤めましたが、その間、局長を2回、副局長を1回務めました。仕事と占星術の双方において、彼は20年以上も外国人と交流を維持していました。占星術家として、彼が海外ネットワークを大きくすることができたのも、このためです。

ラオ氏は、在職中に占星術の基本的な項目をすべて調べ終え、数万におよぶホロスコープを系統的に収集しました。収集された5万以上に及ぶホロスコープは、10の重要区分で分類・整理されています。おそらくこれは、あらゆる占星術家が所有しているデータベースの中でも、最大規模のものでしょう。

 ラオ氏は、占星術家としての使命感から、クライアントからお金をまったく取りませんでした。そのため、ラオ氏は、なんども占星術の道を断念しかけました。しかし、1981年12月、デリーで3日間の占星術セミナーが開かれ、その問題を克服する契機が訪れました。

ラオ氏がスピーチをしてからというもの、占星術に関する記事を依頼されるようになったのです。

以来、彼はそれまでのオリジナルの研究を発表する機会に恵まれ、やがて世界に認められるようになりました。

 1993年から1995年までの間、ラオ氏は5回渡米し、占星術に関する全米レクチャー・ツアーを行いました。

1993年の全米インド占星術協会が主催する第2回会議では、ラオ氏は主賓として招かれました。ラオ氏が参加すると多くの人を集めることができるので、1994年の第3回会議では、ラオ氏は会議の初日から参加するように頼まれました。

 1995年11月の第4回会議までラオ氏の名前は全米で宣伝され続けましたが、その会議で彼は、それ以後アメリカの会議には参加しないことを表明しました。

 ラオ氏の学術的なアプローチに惹かれて、今では、インドで1000人以上、アメリカでも200人以上の生徒が集まっています。

彼は、ニュー・デリーにあるバラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァン(Bharatiya Vidya Bhavan's Institute of Astrology)の占星術コースのアドバイザーを務めています。

ここで働いている占星術の講師たちは、みなラオ氏と同じように、名誉職という立場を取っており、生徒からまったくお金を取っていません。

 なにがラオ氏を占星術の道に駆り立てたのでしょうか。

それは、彼のホロスコープを見ればわかります。

アセンダント(ラグナ)と第10室の支配星がアセンダントのハウスでコンジャンクトしており、さらに強力な木星が第10室に在住しています。

すべては彼の占星術のグル(ジョーティッシュ・グル)であるグジャラットのヨーギー・バスカラナンダジによって予見されていました。

ラオ氏は、自分のグルを、最後の、純粋で古典的な、型どおりの聖者の占星術家(リシ・アストロロジャー)であると表現しています。

ラオ氏のグルはかつてラオ氏に、「インド占星術に栄誉と名声と威厳がもたらされるまで、(ラオ氏は)世界各国をまわらなければならないだろう」と言いました。

あるアメリカ人は、1993年、ラオ氏が初めてアメリカに来たときの衝撃を、「ラオ以前のインド占星術」と「ラオ以後のインド占星術」という言葉で表しています。

 多くのヨーギーが、ヴェーダーンガとしての占星術をあきらめないように彼を励ましたことが、本書に記されています。

 占星術家という仕事は、報酬目当てでぼったくりの要素があるために一般に評判が悪いものですが、ラオ氏は、占星術「屋」にはなりたくないという思いがあります。

そのため、彼は多くの称賛を受ける一方、ラオ氏に脅威を感じる一部の占星術「屋」からは敵視されてきました。

それは、ラオ氏の周りに200人以上の人が集まり、みなラオ氏と同様、占星術は生計を立てるためのものではなく、人生の目的と意味を知るための超科学であり、ヴェーダーンガとしての占星術はそうであったし、そうあり続けるべきである、という考えを持っているからです。

 ラオ氏のマントラ・グルであるスワミ・パラマナンダジとジョーティッシュ・グルであるヨーギー・バスカラナンダジは、どの本にも載っていない占星術の秘儀を、ラオ氏に伝授しました。

ラオ氏は、その秘儀の一部を本書で公開しています。

最新の基本的かつオリジナルな調査結果は、著書『Predicting through Jaimini's Chara Dasha』と『Predicting through Karakamsha and mandook Dasha』に出ています。

 なぜラオ氏がこのような調査を行うことになったのかというと、それは彼のジョーティッシュ・グルが、字面だけの翻訳でしかない一般の占星術書に書かれている内容以上のものがパランパラー(伝統)の中に存在していることを、ラオ氏に教えたからです。

彼の実の母親は、彼の最初のジョーティッシュ・グルであり、そのような伝統的秘儀を多く知っていました。

これらの一部は、『Ups and Downs in Careers』、『Planets and Children』、そして本書の3冊に公開されています。

 ラオ氏のマントラ・グルであるスワミ・パラマナンダジは、占星術がラオ氏の修行(サーダナ)にとって不可欠な部分であるとして、占星術をあきらめないように諭した最初の人物でした。

後日、1982年になってから、偉大なるヨーギーであるスワミ・ムールカナンダジは、ラオ氏が、偉大なる占星術ルネッサンスの開拓者になるだろうと予言しました。

この予言が成就したのかどうかは、彼の調査結果として出版されたものを見ればわかるでしょう。

データソースwikipedia, astrodatabank, 『ラオ先生のインド占星術-運命と時輪-』上(Astrology, Destiny and the Wheel of Time: Techniques and Predictions)


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K.N.Rao_chart
西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1931年10月12日次男として生まれる。

父親:K.ラーマ.ラオ氏:インド独立前から活躍したジャーナリスト。ナショナルヘラルド創設に編集者として参加。長年に渡って30誌以上の新聞・雑誌で編集者として敏腕を振う。

母親:偉大な占星術家。プナシュナ(ホラリー)や女性のホロスコープといった特定分野においては、間違いなく右に出る者はいない。独創的で、心が柔軟であらゆるものを現代的視点で見ようとする反面、南インド地方の純粋で伝統的なブラフミン。
火星/金星
1942年11歳の時に腸チフスにかかる。当時、インドのような国で子供がこの病気にかかると、まず助からないにも関わらず、周囲がほとんど諦めていたなか、奇跡的に生き延びる。6ヵ月間は固形物が食べられず、流動食だけで過ごす。母親がラオ氏の前にサラスヴァティー女神の絵を置いて、毎日、数秘術と手相術と占星術を教える。ラーフ/水星
1943年今は亡き母親、K・サラスヴァニー・デーヴィーから占星術を教わる。ラーフ/水星
1945年ラオ氏が広場でサッカーを楽しんでいた10代前半の頃、近所の3階建ての黄色い建物からは、名声不朽の偉大な歌手ベグム・アクタル(女性)のメロディアスな声が聞こえていた。彼女の人気は大変なものであった。当時のラオ氏には彼女がなぜそんなに人気があるのか理解できなかった。(ラオ氏回想)ラーフ/金星
1955年英文学を学んで大学で教師をする。木星/土星?
1957年1月上級職公務員試験を通って役人として採用される。木星/水星
在職中、彼は会計監査に関する3つの国際コースで、プランナーとオーガナイザーそして講師を勤める。その間、局長を2回、副局長を1回務める。仕事と占星術の両方において、20年以上外国人と交流を維持していた。木星期、土星期半分
1971年5月~ 『1970年頃、ラジコットで勤務していたわたしは、メフィルに招待されました。・・・その日はベグム・アクタルがガザルズを歌うというので、わたしは彼女の歌声を聞きに行きました。彼女の声は以前にも増して甘く、官能的な要素は少なく、より成熟していました。評論家の言うとおり、彼女の歌うガザルズのセミ・クラシックの気品は本物でした。感覚を刺激するガザルズにわたしはあまり興味を持っていなかったので、これは、わたしにとっては、まさに願望成就でした。神はいつも最後には微笑みかけるものなのでしょう。この当時のプラティアンタルダシャーは金星でした。』土星/水星/金星
1981年12月デリーで3日間の占星術セミナーが開かれたとき、その問題を克服する契機が訪れた。ラオ氏がスピーチをしてから、占星術に関する記事を依頼されるようになる。それ以来、それまでのオリジナルの研究を発表する機会に恵まれ、やがて世界に認められるようになる。土星/ラーフ
1982年スワミ・ムールカナンダ師が、ラオ氏が偉大なる占星術ルネッサンスの開拓者になるだろうと予言する。土星/ラーフ
1985年12月『それから15年経った1985年、ババのアシュラムにいるとき、献身的なオディッシ音楽の曲を聴きました。それは、これまで聞いたことのないほど魅力的な、献身をテーマにした音楽によるシンプルで情緒的な描写でした。そこで、わたしは、ヒンディー語のバジャン(神に捧げる歌)と、オディッシ・スタイルによるトゥルシーダスのラムチャリット・マナスを歌ってくれるように頼みました。ババ(長老)の弟子である一人の青年と、2人の若い女性は、このリクエストに見事に応えてくれました。』土星/木星/金星
1986年1月『・・・わたしのホロスコープにおける金星のプラティヤンタルダシャーが1985年12月に終わると同時にわたしの音楽とのかかわりは突然なくなるだろう、とわたしは彼らに言いました。1986年1月になってわたしに転勤の辞令が届きました。』土星/木星/太陽
1986年4月12日『わたしのプラティアンタルダシャーが10室を支配している月だったとき、S.R.さん(ババの2人の女性の弟子の1人)のプラティアンタルダシャーは10室に在住する金星でした。1986年4月12日、10室の支配星がわたしのプラティアンタルダシャーだった時にわたしが聴衆に彼女を紹介したことは、少しも不思議ではありませんでした。これは、多くの聴衆をひきつけるスターとしてアヌープ・ジャロタが招待されていたカンプールの同じステージでのことです。1986年4月12日、月と金星が彼女のホロスコープにおける10室を通過中でした。その後、彼女のラグナの支配星(月)は最高星位に入りました。S.R.さんは3曲のバジャンを歌って、聴衆を魅了しました。それを聴いた多くの人は、彼女が今後有名なバジャン歌手となっていくだろうと感じました。』土星/木星/月
『・・・10室の支配星とコンジャンクトしているわたしの弱い金星は、時折、音楽への興味を蘇らせてくれますが、それは道徳的に清らかな生き方をしている人たちが歌っている宗教音楽に対してのみです。甘美な賛美歌の長い歴史を持っているオリッサの音楽は、わたしの素人判断では、他の地域の賛美歌よりもはるかに魅力的です。
1990年1月インド政府の会計監査院の最高職を退職する水星/ケートゥ
『独身で政府高官という職にあったためにインドでは格好の結婚相手でした。伝統を重んじる人たちがわたしのところにやってきて、婿養子の話を持ちかけてきます。それをようやく断ると、今度は役所で女性たちがつけまわす。これには心底、困らされました。』
1993年3月14日朝ビハール州のブッダガヤの大学で哲学学科の長である、K.N.ラオ氏の友人、L.P.シンハ博士が、外国人の女性と一緒にラオ氏の家を訪ねる。
1993年ラオ氏は1993年~1995年の間、5回渡米し、占星術に関する全米レクチャー・ツアーを行う。1993年の全米インド占星術協会が主催する第2回会議では、ラオ氏は主賓として招かれる。水星/太陽、水星/月
1993年あるインド人がワシントンにある家にラオ氏を招き、ラオ氏は彼のホロスコープを見て、彼が管理職にある技師であり、とても大きな国際条約を結んでいると言う。彼は驚き、彼の奥さんはおいしい料理を振る舞い、彼はラオ氏に1000ドル渡す。水星/太陽、水星/月
1993年に初めてアメリカに招待されて以来、ラオ氏はインド占星術に関する英書を少なくとも20冊以上書いている。マハダシャー水星期
1994年ラオ氏が参加すると多くの人を集めることができるので、1994年の第3回会議ではラオ氏は会議の初日から参加するように頼まれる。
1994年9月カリフォルニア州サン・ラファエルで行われた、第3回インド占星術シンポジウムの際にインタービューを受ける。
水星/月
1995年7月ワシントンDC近郊のウエスト・ヴァージニア州で、プロジェクト・ハインドサイト関連の、トップクラスの西洋占星術家の会合が開かれ、そこへラオ氏が招待され、インド占星術のダシャーシステムについて2時間の講演を行う。水星/火星
1995年11月1995年11月の第4回会議までラオ氏の名前は全米で宣伝され続けましたが、その会議で彼は、それ以後アメリカの会議には参加しないことを表明する。水星/火星
『ラオ先生のインド占星術―運命と時輪―上巻』(インド占星塾 発行 大森一訳) を引用抜粋し、時系列順に並べ替え、大幅に編集。

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