西暦 | 年月 | 出来事 | ヴィムショッタリ | チャラ | ヨーギニ | トランジット |
---|---|---|---|---|---|---|
1876年 | 8月8日 | ヘルマン・アインシュタイン(1847年生まれ)とパウリーネ・コッホ(1852年生まれ)、カンシュタットにて結婚。 | ||||
1879年 | 3月14日午前11時30分 | 彼らの第1子であるアルバートが、ウルムのバーンホーフ通り135のアインシュタイン家にて生まれる。 | ||||
1880年 | 6月21日 | アインシュタイン家はミュンヘンの住民登録をする。 | ||||
1881年 | 11月18日 | E.(以下アインシュタインの略号)の妹マリア(マヤ)誕生。 | ||||
1884年頃 | 初めての驚き:E.が懐中型羅針盤に魅了される、最初の教育は個人教授による。 | |||||
1885年頃 | E.ヴァイオリンを習い始める(13才まで続けた)。 | 水星/木星 | ||||
1886年頃 | E.ミュンヘンの公立学校に通う。宗教的教育についての法律的な要件を満足するため、彼は家でユダヤ教の基本を教えられる。 | |||||
1888年 | E.はルイトポルト・ギムナジウムに入学。この時は学校で宗教的教育が続けられ、校長ハインリッヒ・フリードマンがE.をバー・ミツバ(ユダヤ教で13才に達した少年は賢信礼が施され、宗教上の責任と義務が生ずるようになる)の準備をするまで教える。 | 水星/土星 | ||||
1889年 | 初めてマックス・タルムードに出会う(彼は後に、タルミイと改名した)。彼は21才の医学生であり、E.にベルンシュタインの『物理科学通解』、ブュッヒナーの『力と物体』、カントの『純粋理性批判』やその他の本を紹介する、タルムードは、1894年までアインシュタイン家の常連となる。この間、彼とE.は科学と哲学の話題について論議する。 | ケートゥ/ケートゥ | ||||
1890年頃 | E.の宗教的段階が約1年間続く。 | ケートゥ/金星 | ||||
1891年頃 | 第2番目の驚き。彼は「神聖な幾何学の本」を読む。 | ケートゥ/太陽 | ||||
1891-5年頃 | E.は微積分含む、高度な数学の基礎に慣れ親しむ。 | |||||
1892年 | バー・ミツバはE.に対し行われず。 | |||||
1894年 | 家族はイタリアに移る。最初はミラノ、次にパヴィア、そしてミュンヘンに戻る。E.は学校を終えるためミュンヘンに留まる。 | |||||
1984年または95年 | E.はベルギーにいる叔父宛に、「磁場中のエーテルの状態の研究」という表題の小論を送る。 | |||||
1895年 | 春 | E.はルイトポルト・ギムナジウムを課程修了せずにやめる。彼は、パヴィアの家族のもとに再び加わる。 | ||||
秋 | 彼は数学と物理学においては非常に良い成績だったが、ETH(チューリッヒ連邦工科大学)の入学試験に失敗する。 | |||||
10月28日 -1896年初秋 | 彼は、アーラウの州立学校職業科に通う。彼は先生の一人である”パパ”ヨスト・ヴィンテラーの家に住む。この間に、彼は仏語のエッセー「私の将来の課題」を書く。 | |||||
1896年 | 1月28日 | 3マルクを支払い、E.がもはやドイツ市民(正確に言えば、ヴュルテンベルク領民)ではないことを証明する証書を受け取る。彼は、以後5年間、無国籍のままである。 | ||||
秋 | E.は、アーラウから卒業証書を得て、ETHの入学資格を与えられる。彼は10月29日にチューリッヒに居を定める。彼の学友は、マルセル・グロスマン、ミレーヴァ・マリッチらである。彼は高等学校で教える資格を得るための教職コースで勉強を始める。 | |||||
1897年頃 | チューリッヒにてE.はミケーレ・アンジェロ・ベッソーと会い、生涯の信仰の始まりとなる。 | |||||
1899年 | 10月19日 | E.はスイス市民権を得るために正式な申請をする。 | ||||
1900年 | 7月27日 | 試験管会議で、卒業証書を授与されることになった者の中に、候補者、グロスマンとE.もいる。E.の評点は理論物理、実験物理、天文学が5、函数論が5.5、卒業論文が、4.5である(最高点は6)。 | ||||
秋 | E.は、ETHの助手の職を得るため努力したが失敗する。 | |||||
12月13日 | チューリッヒからE.は最初の論文を『物理学年報』誌に送る。 | |||||
1901年 | 2月21日 | E.はスイス市民となる。3月13日、彼は扁平足と静脈瘤のため、スイス兵役に適さないと宣告される。 | ||||
3月 - 4月 | 求職のため、E.はライプツィッヒのオストヴァルトと、ライデンのカメリング・オンネスに依頼したが成功せず。 | |||||
5月17日 | E.はチューリッヒから出発することを通告する。 | |||||
5月19日 - 7月15日 | ヴィンタートゥールの工業高校での臨時数学教師の職につき、10月14日までE.はそこに滞在。 | |||||
10月20日 - 1902年1月 | シャフハウゼンにて臨時教職につく。 | |||||
12月18日 | E.はベルンの特許局に応募する。 | |||||
1902年 | 2月21日 | E.はベルンに着く。当初は、彼の生活費の唯一の支えといえば、家からの僅かな仕送りと数学と物理の家庭教師代である。 | ||||
6月16日 | スイス連邦評議会によりE.は、ベルンの連邦特許局における3級技術専門職試傭として任命される。年報は3500スイス・フランである。E.は6月23日からそこでの仕事を始める。 | |||||
10月10日 | ミラノでE.の父親が亡くなる。 | |||||
1903年 | 1月6日 | E.はミレーヴァ・マリッチと結婚。コンラット・ハビヒト、モーリス・ソロヴィーヌとE.の3人は「アカデミー・オリンピア」を創る。 | 金星/火星 | |||
12月5日 | E.は「電磁波理論」の論文をベルンの自然科学教会で発表。 | |||||
1904年 | 5月14日 | E.の長男である、ハンス・アルバート誕生(カリフォルニア、バークレーにて1973年に逝去)。 | ||||
9月16日 | 特許局での試傭が本採用に切り替えられる。 | |||||
1905年 | 3月17日 | E.は光量子仮説論を完成。 | 金星/ラーフ | |||
4月30日 | E.はPhD論文の「分子の大きさの新しい決定法について」を完成。7月に受理される。これは「わが友M.グロスマン博士」に献呈される。 | |||||
5月11日 | ブラウン運動の論文が受理される(『物理学年報』誌による)。 | |||||
6月30日 | 特殊相対性理論についての最初の論文が受理される(同上)。 | |||||
9月27日 | 特殊相対性理論についての第2の論文が受理される。それにはE=mc2の関係式が含まれている(同上)。 | |||||
12月19日 | ブラウン運動についての第2論文が受理される(同上)。 | |||||
1906年 | 4月1日 | E.は2級技術専門職に昇進。年報4500スイス・フランに上がる。 | ||||
11月 | E.は個体の比熱に関する論文を完成。それは固体の量子論について今まで書かれた最初の論文である。 | |||||
1907年 | 「私の人生で最も幸せな考え」:E.は、一様に加速された力学系について等価原理を発見。彼はこの原理を電磁気的現象にまで拡張し、赤方偏移についての正しい式を与える。また、この拡張は、質量の大きな物体のそばを通る光が曲げられることを意味すると付言する。この効果はあまりに小さくて観測できないと信じる。 | |||||
6月17日 | E.はベルン大学の私講師職に応募し。しかしその応募は大学教師資格取得論文を伴っていないために却下される。 | |||||
1908年 | 2月28日 | 2度目の申請で、E.はベルンにて私講師職を許可される。彼の未完の大学教師資格取得論文は「黒体のエネルギー分布則から導かれる輻射の本質の帰結について」と題されている。その年の初め、J.J.ラウプは、E.の初の科学的共著者となる。彼らは、二つの共同論文を発表。 | ||||
12月21日 | マヤはベルン大学からロマンス諸語のPhDを第二位で(優等)で受ける。 | |||||
1909年 | 3月、10月 | E.は、二つの論文を完成。それぞれに、黒体輻射理論についての推論が書かれている。現代流に言えばこれらの二つの推論は、相補性原理と対応原理に相当する。10月の論文はザルツブルグの会議に提出されたが、それは、E.が出席した最初の物理学会である。 | ||||
7月6日 | E.は、辞表(10月15日から有効)を特許局に提出。彼は私講師も辞任。 | |||||
7月8日 | E.は彼の最初の名誉博士号をジュネーヴ大学にて授与される。(後年、E.は次の大学からも名誉学位を受けた。チューリッヒ、ロストック、マドリッド、ブラッセル、ブエノスアイレス、ソルボンヌ、ロンドン、オックスフォード、ケンブリッジ、グラスゴー、リーズ、マンチェスター、ハーバード、プリンストン、ニューヨーク州立大学アルバニー分校、イェシバ。これらのリストはおそらく不完全である。) | |||||
10月15日 | E.は初任給年俸4500スイス・フランでチューリッヒ大学の準教授として働き始める。 | |||||
1910年 | 3月 | マヤは、ヨスト・ヴィンテラーの息子パウル・ヴィンテラーと結婚。 | ||||
7月28日 | E.の次男エドゥアルト誕生。(「テッド」または「テデル」。1965年、ブルグヘルツリの精神病院にて逝去。) | |||||
10月 | E.は古典統計力学における最後の大きな仕事といえる臨界タンパク光についての論文を完成。 | |||||
1911年 | フランツ・ヨゼフ皇帝は、4月1日付で、E.をプラハのカール・フェルディナンド大学の正教授として任命する書類に署名する。 | |||||
3月 | E.は、プラハに引っ越す。 | |||||
6月 | E.は皆既日食の間に光の曲がりを実験的に検証できることを認識する。彼は太陽のそばを通過する光線の屈折角が、実質的に0.83度ほどであると予言する(正確の半分である )。 | |||||
10月30日-11月3日 | 第1回ソルヴェイ会議。E.は「比熱の問題の現状」についての総合講演を行う。 | |||||
1912年 | 2月初め | E.はETHの教授に任命される。 | ||||
8月 | E.はチューリッヒに戻る。 | |||||
1912年-13年 | E.はグロスマン(当時ETHの数学教授)と一緒に一般相対性理論の基礎について共同研究する。重力は初めて計量テンソルによって記述される。彼らは、重力場の方程式は一般座標変換に対し共変ではありえないことを証明したと信じる。 | |||||
1913年 | 春 | プランクとネルンストはチューリッヒのE.を訪れ、ベルリンに来ないかと打診する。その申し出は、プロシア科学アカデミーの援助に基づく研究職で、ベルリン大学での講義義務のない教授職であり、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所(当時まだ設立されてない)の所長職である。 | ||||
6月12日 | プランク、ネルンスト、ルーベンス、ヴァールブルグらが正式にE.に、ベルリンのプロシア科学アカデミーの会員となるように提案する。 | |||||
7月3日 | この提案が21票対1票で可決受理される。(11月12日に、皇帝ヴィルヘルムII世により認可される。 | |||||
12月7日 | E.はベルリンでの職を手に入れる。 | |||||
1914年 | 4月6日 | E.は妻子らとともにベルリンに移る。その直後、E.家は別居する。ミレーヴァと子供たちはチューリッヒに戻る。アルバートは、ヴィッテルスバッハ通り13番地の独身アパートに移る。 | ||||
4月26日 | E.の最初の新聞記事が、ベルリンの日刊紙『ディ・フォジッシェ・ツァイトゥング』に載る。相対性理論を扱ったものであった。 | |||||
7月2日 | プロシア・アカデミーに就任演説を行う。 | |||||
8月1日 | 第一次世界大戦が勃発する。 | |||||
1915年 | 年の初め頃 | E.はベルリンの国立物理工学研究所の客員研究員となる。そこで彼とドゥ・ハースは回転磁気の実験を行う。E.はヨーロッパ文化を育成する人々が提携しヨーロッパ連盟を結成しようと主張する「ヨーロッパ人への宣言」に連署する。これはおそらく彼の名を添えた、最初の政治的文書である。 | ||||
6月末 - 7月初め | E.はゲッティンゲンにおいて一般相対性理論についての六つの講義を行う。「大変嬉しいことに、私はヒルベルトと(フェリックス・)クラインを納得させるのに成功した。」 | |||||
11月4日 | E.は一般相対性理論の一般座標変換に関する共変性の問題に戻ったが、ユニモジュラー(単長)変換のみが許されるという条件下に話を限っている。 | |||||
11月11日 | E.はユニモジュラー変換の条件を一層強いもの、つまり(-det gμν)1/2=1に置き換える。 | |||||
11月18日 | 最初のポスト・ニュートン的成果。E.は水星の近日点移動について1世紀あたり43"の値を得る。E.は光の彎曲(わんきょく)が、1911年に考えていたものの2倍のおおきさであるということにも気がつく。 | |||||
11月20日 | ダヴィッド・ヒルベルトは、重力場の方程式の最終的な形を示した論文を、『ゲッティンゲン・ゲゼルシャフト・デア・ヴィッセンシャテン』誌に投稿(エネルギー運動量テンソルの構造についての不要な仮説もそえて)。 | |||||
11月25日 | 一般相対性理論の論理的構成を完成。E.は11月4日と11日に導入した束縛条件は、なしに済ますことができるし、またそうすべきであると理解する。 | |||||
1916年 | 3月20日 | 一般相対性理論の最初の体系的な解説である「一般相対性理論の基礎」が『物理学年報』誌により受理され、後に1916年、E.の最初の本として出版される。 | ||||
5月5日 | E.は(マックス・)プランクの後継者としてドイツ物理学会の会長となる。 | |||||
6月 | E.の重力波に関する最初の論文。彼は(今の用語で言えば)グラヴィトンには、ただ二つの偏光の状態しかないことを発見。その主題は、次のような内容である。自発および誘導放射と吸収の係数、プランク法則の新しい導出法、エネルギーhνの光量子が運動量hν/cを選ぶというE.による活字になったものとしては最初の言明。量子物理学における「偶然」に対する初めての不快感。 | |||||
12月 | E.は、最も広く知られている本『特殊および相対性理論について---万人のために---』を完成。それは後に、多くの外国語に訳される。 | |||||
12月 | 皇帝はE.を国立物理工学研究所の評議会委員に任命することを認める。E.は1917年から1933年までこの役職にある。 | |||||
1917年 | 2月 | E.は宇宙論に関する初めての論文を書き、宇宙項を導入。E.は肝臓病、胃潰瘍、黄疸、全身衰弱などを次々と患う。E.の従姉のエルザが彼の世話をする。1920年までは完全には回復しない。 | ||||
10月1日 | カイザー・ヴィルヘルム研究所の活動(実験も理論も)が、E.所長のもとで始まる。 | |||||
1918年 | 2月 | E.の重力波に関する2番目の論文。それは四重極公式を含んでいる。 | ||||
11月 | E.はチューリッヒ大学とETHからの共同の申し出を断る。 | |||||
1919年 | 1月 - 6月 | E.はこの期間のほとんどをチューリッヒで過ごし、チューリッヒ大学で一連の講義を行う。 | ||||
2月14日 | E.はミレーヴァと離婚。 | |||||
5月29日 | 皆既日食で光の彎曲(わんきょく)を測定する機会を得る。これはエディントンの指揮下でプリンシペ島、クロンメリンの指揮下で北ブラジルとで行われる。 | |||||
6月2日 | E.は離婚した従姉のエルザ・アインシュタイン・レーヴェンタールと結婚。彼女の二人の娘イルゼ(1897年生まれ)とマルゴット(1899年生まれ)は法令によって早くからアインシュタイン姓を名乗っていた。家族はハーベルラント通り5のアパートに移る。 | |||||
9月22日 | E.はローレンツから一通の電報を受け取る。それは5月の皆既日食のデータの予備分析の結果、光の彎曲(わんきょく)が、ニュートンの値(0".86)とアインシュタインの値(1".73)の間であることを示しているというものである。 | |||||
11月6日 | ロンドンにおける、王立協会と王立天文学会の合同集会にて、5月の観測結果、アインシュタインの予言が確認されたと公表される。 | |||||
11月7日 | ロンドン『タイムズ』紙の見出し。「科学の革命」「宇宙の新理論」「ニュートン説を覆す」。 | |||||
11月10日 | 『ニューヨーク・タイムズ』紙の見出し、「天国の光がすべてゆがむ」「アインシュタインの理論勝利」。新聞のこのような書き方から、アインシュタインは一般大衆から世界的人物として認知されることとなる。 | |||||
12月 | E.はドイツからの唯一の名誉学位であるロストック大学の医学博士号を得る。 シオニズムについてのクルト・ブルメンフェルトと議論。 | |||||
1920年 | 2月12日 | ベルリン大学にて、E.の講義中に妨害がある。E.は、新聞では、その妨害を反ユダヤ主義といったものの現れであるように解釈する向きもありうるだろうが、そうではなかったと述べている。 | ||||
3月 | E.の母、E.の家で死去。 | |||||
6月 | E.はノルウェーとデンマークで講演。E.とボーアはベルリンにて初めて会う。 | |||||
8月24日 | ベルリンにて一般相対性理論に反対する大衆集会。E.はこの集会に出席する。 | |||||
8月27日 | E.は『ベルリーナー・ターゲブラット』紙で痛烈な反駁を公表。ドイツの新聞はE.がドイツを去る計画であると報道。ラウエ、ネルンスト、ルーベンス、そして文化大臣のコンラット・ヘニッシュもまた、E.と連帯を新聞に発表。 | |||||
9月8日 | ヘニッシュへの手紙の中で、E.はベルリンが彼にとって人間的、科学的関係によって最も密接に結びついた場所として共鳴できると述べている。彼はまた、外的な状況に迫られれば、外国からの招きに応じるかも知れないとつけ加える。 | |||||
9月23日 | バート・ナウハイムの会議にてフィリップ・レナルトと対決。 | |||||
10月27日 | E.は特別客員教授としての就任演説をライデンにて行う。この身分上、年に2-3週間はそこに行くことになる。1920年からはE.は、科学と直接かかわりのない文章を書き始める。 | |||||
12月31日 | E.はメリット勲位の受勲者に選出される。 | |||||
1921年 | 4月2日 - 5月30日 | エルサレムに創立予定のヘブライ大学の基金調達のため、チャイム・ワイズマンとともに初めてアメリカを訪問。コロンビア大学にてE.はバーナード・メダルを授与される。彼は、ホワイトハウスにてハーディング大統領の接見を受ける。シカゴ、ボストン、プリンストンの各大学を訪れ、相対性理論に関する四つの講義を行う。この旅行の帰途、ロンドンに立ち寄り、ニュートンの墓を訪れる。 | ||||
1922年 | 1月 | E.は統一場理論に関する初めての論文を完成した。 | ||||
3月 - 4月 | E.のパリ訪問は、フランスとドイツの関係の正常化に寄与する。E.は、ドイツが連盟に入る4年前に、国際連盟の知的協力委員会(CIC)の委員になることを承諾する。 | |||||
6月24日 | E.の知人である、ドイツ外相のヴァルター・ラーテナウが暗殺される。 | |||||
10月8日 | E.とエルザはマルセイユにて日本郵船「北野丸」に乗船、日本へ。途上、コロンボ、シンガポール、香港、上海を訪れる。 | |||||
11月9日 | 1921年のノーベル物理学賞が日本への途次にあるE.に授与されることになった。 | |||||
11月17日 - 12月29日 | E.は日本を訪問。 | |||||
12月10日 | ノーベル賞授与式には、E.の代理としてドイツ大使ルドルフ・ナドルニィが出席。その表彰状には次のように述べられている。「A.E.殿。理論物理学への功績と特に光電効果の発見によって。」 | |||||
1923年 | 2月2日 | 日本からの帰途、E.パレスチナを12日間訪れる。2月8日、彼はテルアヴィブの最初の名誉市民に指名される。パレスチナからドイツに帰る途中、スペインを訪れる。 | ||||
3月 | 国際連盟の目的にではなく、その実効性に幻滅を感じて、E.は知的協力委員会委員を辞退。 | |||||
6月 - 7月 | E.はノーベル賞受賞の答礼として、ヨテボリにおいて相対性理論の講義をする。コンプトン効果の発見により、光子の概念に対する長年にわたる反対に終止符が打たれる。 | |||||
12月 | 量子効果は、拘束条件が過剰に課された一般相対論の方程式から導かれるかもしれぬという彼の予想を、E.は初めて彼の科学論文の中で明らかにする。 | |||||
1924年 | 結束の証として、E.はクラブ会費を払ってベルリン・ユダヤ人団体に加わる。E.はヘブライ大学、物理学科の最初の科学論文集の編集をする。 ポツダムの「アインシュタイン・タワー」の中にある「アインシュタイン研究所」がその活動を始める。その主な装置は「アインシュタイン望遠鏡」である。 義娘イルゼがルドルフ・カイザーと結婚。 | |||||
6月 | E.は再考のうえ、知的協力委員会に再加入する。 | |||||
6月7日 | プロシア・アカデミーへの任命は、E.がプロシアの市民権を取得したことを意味するというドイツ文化省の見解にE.は反対しないと述べる。(彼はスイス市民権も保持している。) | |||||
12月 | E.の最後の主な発見:つまり統計的なゆらぎの解析から、物質に波動を結びつける独立の論法に到達する。ボース-アインシュタイン凝縮もまた、このとき彼により発見される。 | |||||
1925年 | 5月 - 6月 | 南アメリカ旅行。ブエノスアイレス、リオ・デ・ジャネイロ、モンテビデオを訪問。E.は(ガンジーらと共に)義務としての兵役に反対する声明書に署名。E.はコープレイ勲章を受章。 E.はヘブライ大学評議員の職につく(1928年6月まで)。 | ||||
1926年 | E.は王立天文学会から金メダルを受章。 | |||||
1927年 | 5月7日 | ハンス・アルバートE.はドルトムントにてフリダ・クネヒトと結婚。 | ||||
10月 | 第5回ソルヴェイ会議。E.とボーアとの間で量子力学の基礎についての論争が始まる。 | |||||
1928年 | 2月あるいは3月 | E.は肉体の過度の酷使のため、一時的な肉体的衰弱に陥る。心臓肥大と診断される。4ヶ月間ベッドに就いて、減塩食を摂らねばならなかった。完全に回復したが、ほぼ1年間は衰弱したままである。 | ||||
4月13日 | 金曜日 ヘレン・ドゥカスはE.のために働き始める。 | |||||
1929年 | ベルギー王家を初めて訪れる。エリザベス女王との親交が始まり、死に至るまで文通を続ける。 | |||||
6月28日 | プランクが最初の、E.が2番目のプランク・メダルを受賞。E.は、自分が量子力学に寄与したものというのはすべて、「主要な問題についての実りない努力」をするうちに生まれた「偶然の知見」であるから、そのような光栄に浴するのは「恥ずかしい」と述べている。 | |||||
1930年 | E.の最初の孫であり、ハンス・アルバートとフリダ・アインシュタインの息子である。ベルンハルト・カエサル(ハーディ)誕生。 | |||||
5月 | E.は平和と自由のための国際婦人連盟の世界軍縮の声明書に署名。 | |||||
秋 | 義娘マーゴットはディミトゥリ・マリアノフと結婚。(この結婚は離婚に終わった。) | |||||
12月11日 - 1931年3月4日 | E.主にカリフォルニア工科大学での、2度目のアメリカ滞在。 | |||||
12月13日 | 市長ジミー・ウォーカーがニューヨーク市の鍵をE.に贈る。 | |||||
12月19日 - 20日 | E.、キューバを訪問。 | |||||
1931年 | 4月 | E.は宇宙項を不必要かつ正当化されぬものとして拒否する。 | ||||
12月30日 - 1932年3月4日 | 再度、主にカリフォルニア工科大学での3度目のアメリカ滞在。 | |||||
1932年 | 2月 | ドイツ人の戦争反対者であるカール・フォン・オシェツキーの反逆罪に対する有罪判決について、E.はパサデナから抗議を申し立てる。 | ||||
4月 | E.は知的協力委員会委員をこれを最後に辞任。 | |||||
10月 | ニュージャージー州プリンストンの高等研究所の教授職に任命される。最初の意向では、彼はプリンストンとベルリンで半分ずつ均等に時を過ごすつもりであった。 | |||||
12月10日 | E.と彼の妻はアメリカ合衆国に向けてドイツを出発。この滞在は、再度の訪問として予定されたものである。しかしながら、彼らはドイツの土地を再び踏むことはなかった。 | |||||
1933年 | 1月30日 | ナチスが権力を握る。 | ||||
3月20日 | ナチスはE.の留守中に、彼のカプートの別荘を、共産党によって武器が隠されていると言い立てて家宅捜索する。 | |||||
3月28日 | ヨーロッパに戻る途中、E.はプロシア・アカデミーに辞表を送る。彼と妻は、ベルギー海岸のル・コク・スール・メールのサボヤード別荘に一時的に落ち着く。そこで二人のベルギー人警備員が、彼らの保護のために当てがわれる。イルゼ、マーゴット、ヘレン・ドゥカス、E.の助手であるヴァルター・マイヤーらが加わる。次の数ヶ月間中に、英国、スイスへの小旅行をし、そこで息子のエドゥアルトに会いそれが最後となる。ルドルフ・カイザーはベルリンにあるE.の論文を救出し、それをフランス政府郵便袋で、フランス外務省に送るように取り計らう。 | |||||
4月21日 | E.はバヴァリア科学アカデミーを辞任。E.とフロイトとの間の往復書簡が Why War?(『何故の戦争か?』)という題名の、薄い本として発行される。 | |||||
6月10日 | E.はオックスフォードにてハーバード・スペンサー記念講演を行う。 | |||||
9月9日 | E.はヨーロッパ大陸をこれを最後に去り、英国に行く。 | |||||
10月17日 | 一般旅行者ビザを持って、E.、彼の妻、ヘレン・ドゥカス、マイヤーはアメリカに着き、同日にプリンストンに向かう。 数日後、上記の最初の3人はライブラリー・プレイス2番地に移る。 イルゼとマルゴットはヨーロッパに留まる。 | |||||
1934年 | パリのイルゼ・カイザー・アインシュタイン死去。そこで間もなく、マルゴットと彼女の夫はプリンストンの家族に加わる。 | |||||
1935年 | 5月 | E.はバニューダへ小旅行、そこから彼は合衆国での永住許可を正式に申請。それが、彼が合衆国を離れた最後の機会となる。 | ||||
秋 | 家族とヘレン・ドゥカスはプリンストンのマーサー通り112番地に引っ越す。 E.はフランクリン・メダルを受章。 | |||||
1936年 | 9月7日 | マルセル・グロスマン死去。 | ||||
12月20日 | エルザ・アインシュタイン死去。ハンス・アルバート・E.はETHから工学博士号を取得。 | |||||
1939年 | マヤはマーサ通りの兄宅に加わり、そこで彼女の余生を過ごすことになる。 | |||||
8月2日 | E.はF.D.ルーズベルトに手紙を書き、その中で原子力エネルギーの軍事的意味について大統領の注意を促す。 | |||||
1940年 | 10月1日 | トレントンにおいて、フィリップ・フォーマン判事は、マルゴット、ヘレン・ドゥカス、E.を合衆国市民とする。E.はスイス市民権も依然保持している。 | ||||
1943年 | 5月31日 | E.は合衆国海軍兵站局の研究開発部門、弾薬および爆発物課、「高性能爆弾および放射薬」係のコンサルタント契約に署名する。(最終的に1946年6月30日まで引き続く。)彼の顧問料は1日当たり25ドルである。 | ||||
1944年 | 1905年の特殊相対論の論文のためにE.が、手書きした論文のコピーがカンサス=シティで、戦争遂行のためとして競売され600万ドルで落札される。(原稿は現在アメリカ国会図書館にある。) | |||||
1945年 | 12月10日 | ニューヨークにて演説する。「戦争には勝ったが平和ならず。」 | ||||
1946年 | マヤ、脳卒中で倒れ寝たきりとなる。 E.は原子科学者緊急委員会議長を務めることに応ず。 | |||||
10月 | E.は国際連合総会に公開状を送り、世界政府の結成を促す。 | |||||
1947年 | ハンス・アルバート・アインシュタインは、カリフォルニア大学バークレー校の工学部教授に任命される。 | |||||
1948年 | 8月4日 | ミレーヴァ、チューリッヒにて死去。 | ||||
12月 | E.の試験的開腹手術により、腹部大動脈の大きな手つかずの動脈瘤が明らかになる。 | |||||
1949年 | 1月13日 | E.退院。E.による『自伝的ノート』という表題の、大部分科学的な回顧録である「過去帳」を出版。 | ||||
1950年 | 3月18日 | E.は彼の遺言書に署名し封をする。オットー・ネーサン博士は唯一の遺言執行人と指名された。ネーサン博士とヘレン・ドゥカスは、彼の遺産管理人として連名で指名される。ヘブライ大学が彼の手紙と原稿の最終的な保管場所として指定される。他の条項の中で彼のヴァイオリンは、孫息子のベルンハルト・カエサルに遺贈される。 | ||||
1951年 | 6月 | マヤ、プリンストンにて死去。 | ||||
1952年 | 7月 | パウル・ヴィンテラー、ジュネーブの義兄弟ベッソーの家にて死去。 | ||||
11月 | E.はイスラエルの大統領職を提供されるが、断わる。 | |||||
1954年 | 4月14日 | 合衆国政府が、J.R.オッペンハイマーを十分な証拠もなしに訴追しようとした際、E.のオッペンハイマーを支持する声明が新聞に載る。E.とボーアの最後の出会い(プリンストンにて)。 E.溶血性貧血がひどくなる。 | ||||
1955年 | 3月15日 | ベッソー死去。 | ラーフ/月 | |||
4月11日 | (バートランド・ラッセル宛の)最後の署名した手紙。その中で彼は、世界中の国家に対して核兵器を廃棄するように迫っている声明書に署名することに同意する。その同じ週にE.は最後のことばを未完成の原稿に書いている。:「到る所で現われた政治的な情熱は、必ずその生け贄を要求するものだ。」 | |||||
4月13日 | 大動脈瘤の破裂。 | |||||
4月15日 | E.はプリンストン病院に入院。 | |||||
4月16日 | ハンス・アルバート・アインシュタインは、バークレーからプリンストンに到着。 | |||||
4月17日 | E.はヘレン・ドゥカスに電話する。彼は筆記用具と計算中の用紙を要求する。 | |||||
4月18日 | 午前1時15分 E.死去。遺体は同日午後4時にトレントンで火葬された。 | ラーフ/月 | ||||
11月21日 | ハンス・アルバートの息子のベルンハルト・カエサルの息子である、トーマス・マーチンがベルンにて誕生。アルバート・アインシュタインの最初の曾孫である。 | |||||
(アブラハム・パイス著 『神は老獪にして・・・』より) | ||||||
Internetより引用抜粋 |
アルベルト・アインシュタイン
2019.01.22
氏名 | アルベルト・アインシュタイン |
---|---|
ローマ字 | Albert Einstein |
生年月日 | 1879年3月14日 |
出生時間 | 11:30 |
出生場所 | ドイツ帝国 ヴュルテンベルク王国ウルム |
Rodden Rating | AA |
ナクシャトラ(Asc) | アールドラー |
ナクシャトラ(Mo) | ジェーシュタ |
職業 | 理論物理学者 |
所属 | |
業績 | 特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱。 「20世紀最高の物理学者」や「現代物理学の父」等と評され、それまでの物理学の認識を根本から変えるという偉業を成し遂げた。(光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって)1921年のノーベル物理学賞を受賞。 |
その他 | ハートデヴォー『Light on Life』の事例の中で、ラグナがアールドラーではなく、プナルヴァスであり、ナヴァムシャのラグナが牡羊座であることを解説しており、実際、それが正しいことを確認済み。(その際、出生時間は、11:33となる) |
データソース | wikipedia, astrodatabank |
コメント |
---|
検証メモ | |
---|---|
検証メモ(ジャイミニ) | |
検証メモ (その他) |
スポンサーリンク
スポンサーリンク