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ペストの流行と山羊座 - グリム童話「ハーメルンの笛吹き男」が意味するもの -

2020 5/21

現在の新型コロナウィルスの感染拡大は、中世のペスト(黒死病)の流行に比較されるが、実際、ペストはどんな惑星配置下で起こったのか、調べると色々、興味深い結果が得られた。


調べたきっかけは、一般財団法人 海外邦人医療基金のニュースレターの中に『感染症ノスタルジア(4)「文明を進化させてしまう魔力...ペスト」』という記事を見つけたからである。そこから非常に重要な情報が得られた。


以下にその一部を引用抜粋する。


感染症ノスタルジア(4)「文明を進化させてしまう魔力...ペスト」
NL03020102
感染症、ペスト

海外勤務健康管理センター
濱田 篤郎

1.「ハーメルンの笛吹き男」の恐ろしさ

 13世紀末、ドイツ北部の町ハーメルンの住民達はネズミの大量発生に悩まされていた。そこに、ある男が現れ「ネズミを駆除しょう」と申し出る。住民達は喜んでその男にネズミ駆除を依頼した。男が持っていた笛を吹くと、不思議なことに町中のネズミが路上に現れ、行進を始めたのである。やがてネズミ達は近くの小川に次々と飛び込んでいった。これがグリム童話で有名な「ハーメルンの笛吹き男」である。
 
 実は、この童話には恐ろしい続編がある。ネズミを駆除してから、笛吹き男は町の住民に約束の報酬を要求した。ところが、住民達はその約束を反故にしてしまった。男は怒りに震えながら再び笛を吹き始める。すると今度は、町中の子供達が隊列を作り、行進をはじめたのである。そして子供達はどこか遠いところに消えていった。

 グリム童話はドイツの古い民話が土台になっているが、実際にハーメルンの町で、1284年に130名の子供が消えたとする記録が残っている。そこで、この民話は何らかの史実が語り継がれたものと推測されている。

 それでは、なぜ子供達は集団で失踪したのだろうか。

 その理由の一つに、ペストにより子供達が集団死したとの見方がある。ペストはネズミと密接に関連する病気である。ネズミを駆除したという最初のストーリーは、ペストを暗示させるものだ。

 また、この事件がおこってから60年後の1340年代に、ヨーロッパ全域は中世の黒死病流行と呼ばれる、空前のペスト大流行に見舞われている。その少し前からペストが燻っていても不思議はないのである。

 いずれにしても、ペストは人間社会が形成されてから大流行を繰り返してきた。その恐怖は人々の記憶に深く刻まれ、各地の民話や風俗にはペストの流行に関連するものが数多く残されている。

2.繰り返す悲劇

 有史以来、ペストの世界的な大流行は4回記録されている。

 最初の大流行は6世紀のことで、東ローマ帝国のユスチアヌス帝が大ローマ復活をかけて、侵略戦争を繰り広げている最中の出来事だった。流行の極期に首都のコンスタンチノーブル(現イスタンブール)では、日に1万人近い人々が死亡したと記録されている。

 そして2回目の大流行が、1340年代に始まる中世の黒死病の流行である。この時は全世界で7000万人の命が失われる大惨事となった。

 3回目はロンドン大疫病とよばれる17世紀の流行で、この模様はダニエル・デフォーの「ペスト年代記」の中で詳細に述べられている。

(略)


グリム童話で有名な「ハーメルンの笛吹男」という話があるが、13世紀末にドイツ北部の町ハーメルンでネズミの大量発生に悩まされていた時にある男が現れて「ネズミを駆除しよう」と申し出て、男が笛を吹くと、ネズミが行進を始めて、近くの小川に次々と飛び込んでいったという話である。


町の住民たちが、男に報酬を支払わなかったので、男が怒って、笛を吹くと、町中の子供たちが行進をはじめて、遠いところに消えて行ったという恐ろしい結末である。





最近、グリム童話の本当の怖さについて語る書籍などが出ているが、そうした中で論じられているかもしれない話である。



実際にハーメルンの町で、1284年に130名の子供が消えたとする記録が残っているそうだ。



それで、このハーメルンの笛吹男の民話は、何らかの史実が語り継がれたものと推測され、その一つの見方として、子供たちが集団でペストに感染したのではないかというのである。



この130名の子供たちが消えたとする1284年のトランジットを調べると以下のような惑星配置である。





土星が山羊座をトランジットし、ラーフ/ケートゥ軸も蟹座と山羊座の軸にあり、木星がまもなく山羊座に入室していくタイミングである。


山羊座への土星と木星、ラーフ/ケートゥ軸などのトランジットは、『信用収縮・食糧危機の占星学 - トレンド転換のクリティカルポイント -』の中で、徹底的に調べたが、やはり、ねずみが大量発生したとされるこの時期に土星や木星、ラーフ/ケートゥ軸などが山羊座にトランジットしていたのである。


現在、アフリカでバッタが大量発生して、それが中国に迫り、食糧危機が引き起こされようとしているが、そうした天変地異の一つとして、当時、ねずみが大量発生し、ペストも大流行したのではないかと思うのである。


そのため、子供たちがペストに感染して集団死したのではないかとする説は、確かに可能性としてあり得る話である。



但し、この「ハーメルンの笛吹男」は、それ以上の興味をそそられる話である。



13世紀の中世といえば、まだルネッサンスが始まる前の暗黒時代で、魔術的な世界観で、人々が生きていた時代であり、また実際に魔術も存在したと考えられる。



例えば、聖書の中でも「ガダラの豚」という逸話がある。



悪霊がイエスに豚の群れに活かせてもらう許可を願い、イエスが許可を与えると、豚の群れが湖に飛び込んで溺れ死んだという話である。


ゲルゲサ

ゲルゲサ(Gergesa, Country of the Gergesenes)とは新約聖書に登場する地名で、ガリラヤ湖南東に広がる広大な地域を指していると考えられている。中澤啓介はケルサと呼ばれている場所であると推定している。この地方にはガダラやゲラサなど、ギリシャ人の住む植民都市が散在していた。たとえばガダラはマタイの福音書とマルコの福音書に登場するデカポリスの町の一つであり、ガリラヤ湖東岸の切り立った断崖の湖に突き出ている場所であった。
ゲルゲサは、「ガダラの豚」の逸話で有名である(ルカの福音書ではゲラサ人となっているなど、舞台についてはガダラ、ゲラサ、ゲルゲサの三つが併存している)。マタイの福音書によると、主イエスがガリラヤ湖の向こう岸に行くことを提案し、舟でガリラヤ湖を横断し、ガダラ人の地についた。その地の墓場に、レギオンという悪霊に憑かれて凶暴になった人がすんでいた。悪霊はイエス・キリストを神の子として認めて、底知れぬところに行くように命じないように懇願した。そこで、悪霊が豚の群に行かせてもらう許可を願った。イエスが許可したので、悪霊は豚の群れに移り、豚の群れはがけを下って、ガリラヤ湖で溺れ死んだ。この事件がガダラ人の地に広まりイエスは、ガダラ人の地から追い出された。

(wikipedia ゲルゲサより引用抜粋)

こうした話を読むと、自然界の諸力(ディーバ・エレメンタル)を操作できる人は、豚やネズミを川に突進させたりできるのではないかと思うのである。



以前、日本の江戸時代の田沼意次の時代を調べたが、冥王星や木星が山羊座をトランジットして、土星が逆行して、蟹座から山羊座にアスペクトする配置であった。



この田沼時代に飢饉が起こり、食糧難や疫病が生じたのであるが、明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発など、自然災害も頻発している。



地震、火山の噴火、火災、ネズミやバッタの大量発生などの天変地異とは、やはり、自然界の諸力(ディーバ・エレメンタル)の乱れから起こっていると考えられ、その深い原因は、現代科学では解明できないのである。



神智学や秘教では、こうした自然界の諸力の乱れは、人間の考え方や生き方が間違っている為に起こると考えられている。



つまり、思考、感情、行為のレベルで、否定的なものが蓄積されると、自然界の諸力が、それらを浄化する天変地異が起こるというのである。



「ハーメルンの笛吹男」の話は、中世の暗黒時代において、オカルト的な力を駆使して、自然界の諸力を扱える魔術師たちがいたのではないかと思うのである。



そして、惑星が山羊座を通過するような危機の時に暗躍したと考えることも出来る。





1340年代の欧州でのペスト大流行


そして、ハーメルンの町から子供たちが消えた1284年の60年後にヨーロッパ全域でペストの大流行が起こっている。





wikipediaによれば、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したと推計されており、イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街や村もあったという。



1284年の60年後のチャートを作成してみると、やはり、土星が山羊座をトランジットしており、木星も山羊座に入室する直前である。



そして、海王星も山羊座を通過している。







このペストの流行後に人びとの考えや社会制度に変化が生じ、欧州の労働者の生活は一変したのだという。



それは非常に納得できるのであるが、参考記事として、東洋経済ONLINEの記事『「黒死病」流行後に欧州の労働者が経験したこと 食事、賃金、宗教、慈善活動はどう変わったか」』(文末に参考文献として引用)が興味深い。



それによれば、「多数の人が亡くなったあとの西欧では、実質賃金が2~3倍に跳ね上がり、労働者が肉とビールの夕食をとるようになる一方で、地主は体面を保つのに必死だった」そうである。



山羊座を通過した後、土星は、水瓶座に入室していく為、大規模な福祉政策が行なわれたり、色々社会の状況が変わってくるということである。



つまり、ペストというのは社会がよく変化していくための一つのきっかけであったことがよく分かる。






17世紀のロンドン大疫病


その後、17世紀にロンドン大疫病とよばれるペストの流行があったようである。



ロンドン大疫病は、1665年~1666年に起こっている。



wikipediaによれば、18か月で推定100,000人(ロンドンの人口のほぼ4分の1)を死亡させたという。






この時もやはり土星が山羊座を通過して、海王星も山羊座を通過している。



1666年3月から土星が山羊座に入室していくのだが、木星が水瓶座を通過しているので、その前年度には山羊座を通過していたということである。



ラーフ/ケートゥ軸も射手座/双子座軸の半ばである為、その前年度には、ラーフ/ケートゥ軸も山羊座/蟹座軸をトランジットしていた。





1665年1月の時点で、木星とラーフ/ケートゥ軸が山羊座をトランジットしていることが確認できる。






ローマ帝国を崩壊させたアントニヌスの疫病


今度は時代を遡ると、西暦165年に「アントニヌスの疫病」と言われるものが発生している。



天然痘ともペストとも言われており、少なくとも350万人が死亡したという。







やはり、この時、土星が山羊座をトランジットしている。



因みにローマ帝国は、キリスト教徒の迫害で知られているが、その迫害は、皇帝ネロ(在位54-68)の時代に始まり、161年に即位したマルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代に迫害は更に強化されたようである。



その中で発生したのが、「アントニヌスの疫病」である。



キリスト教徒は野獣の餌にされ、拷問を受け、監禁され、凄まじい暴力を受けたという。



因みに法輪功の人々は、新型コロナウィルスが、中国の武漢で発生したのは、中国政府の法輪功への迫害が原因だと考えているようである。



そうした見解が、法輪功の広告媒体である大紀元というサイトで述べられている。



確かに新型コロナウィルスは、最も暴力的で、他国に害を行なっている中国と米国で起こっていることは注目に値する。



イタリアでも流行が激しく死亡率も高かったが、このローマ時代の負債をいまだに支払っていると考えられなくもない。



日本でそれ程、流行が少なく、死亡率が圧倒的に低いことが世界から不思議がられているが、何もたいして効果的な対策をする訳でもなく、運がいいだけだと評価されてもいる。



これは日本は、第二次世界大戦で、大東亜共栄圏といった思想を打ち出して、そのつけは支払ったものの、基本的に民族の本性として、それ程、暴力的ではなく、カルマ的な負債を背負っていないからだとも考えられなくもない。



間違った思考、感情、行為が、自然界の諸力(ディーバ・エレメンタル)の乱れを招き、浄化作用を被ると考えれば、これも理解できる。



民族のカルマというものが、国家の建設を行なう特定のタイミングにおいて、国家のマンデン図の中に織り込まれるのかもしれない。



だから、中国や米国のマンデン図において、水星とラーフ/ケートゥ軸の絡みが強調されるダシャーの時期にウィルスの流行が起こったのである。



国家のマンデン図の中に織り込み済みの民族(国民)のカルマが、噴出したと考えることが出来る。




そのように考えると、木星が減衰する山羊座とは、カルマが噴出する星座であるとも考えることが出来る。



過去のカルマ的負債を清算するタイミングとして、天変地異、食糧危機、疫病などが起こり、そのことが最悪の状況を作り出すと共に未来に向けて社会を改革する大きなチャンスともなる。



そういうことではないかと思われる。例えば、戦争であっても、それは一つの浄化作用である。



アリスベイリーの著作によれば、第二次世界大戦の原因は、世界で貧富の格差、階級の固定化が生じた為、それを破壊する為にシャンバラから破壊のフォースが解き放たれたという解説なのである。ヒトラーとか、ムッソリーニとか、それを迎え撃つ、ルーズベルトやチャーチルも、その媒体となるプレーヤーに過ぎないのである。







ユスティニアヌスのペスト


アントニヌスの疫病の後、6世紀のユスティニアヌス帝の時代に「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれるペストの流行が起こっている。



これは、wikipediaによれば、541年~542年もしくは542年~543年にかけて起こったとされており、ローマ帝国の全人口の40%が死亡し、コンスタンチノープル市内では、毎日1万人が死んだという。

「流行の最盛期には毎日5,000人から10,000人もの死亡者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥った」というが、コロナが流行する現在の状況と非常に似通っている。







但し、この時のトランジットを見ると、土星や木星は山羊座にはトランジットしていないが、木星と土星のアスペクトがあるため、山羊座にはダブルトランジットが形成されている。



また540年ぐらいには、ラーフ/ケートゥ軸が山羊座と蟹座の軸にあったと思われる。






過去に3回起こったペストの大流行


「wikipedia ペスト」によれば、ペストは過去3回に渡って世界的流行が生じており、第1次が6世紀の「ユスティニアヌスのペスト」で、第2次が14世紀(1340年代)のヨーロッパでのペスト大流行で、第3次は、19世紀末に中国で起こったものだという。


然し、上述したようにそれ以外にもペストは様々な時期に流行している。





19世紀末のペストの流行



この19世紀末の中国で起こったものが分かりにくいが、1855年に雲南省で腺ペストが流行っている。







この時、木星が山羊座をトランジットして、牡牛座で逆行しているので、山羊座にダブルトランジットが生じている。



1894年にも香港で大流行が起こっているが、この時は、土星は天秤座、木星は牡羊座をトランジットして、特に山羊座にはダブルトランジットは生じていない。







その他のペストの流行



また他にも小規模に起こっているペストの流行の時期を調べてみたが、必ずしも山羊座に木星と土星がトランジットしていない場合も多い。



従って、必ずしもペストが起こった時は、山羊座が関係しているとは言えないが、少なくとも過去の大きなペストの流行時は、山羊座に木星、土星、ラーフ/ケートゥ軸などが絡んだタイミングで起こっていることが確認できる。




ロンドン大疫病(1665~1666年)の後、1720年にフランスのマルセイユで、ペストが大流行しているが、この時は、土星は山羊座で、木星は乙女座をトランジットし、山羊座にダブルトランジットが生じている。







また1994年にインドでペストが発生した時のチャートも出してみたが、トランジットの土星は水瓶座を通過していた。







その前年の1993年のトランジットでは、山羊座を土星が通過し、木星が乙女座から山羊座にアスペクトして、山羊座にダブルトランジットが生じている。








1994年として記録されているが、おそらくその前年の1993年から感染が拡大していたと考えられる。






14世紀に欧州でペストが流行した時、人々のモラルが低下した



冒頭で紹介した一般財団法人 海外邦人医療基金のニュースレターの記事『感染症ノスタルジア(4)「文明を進化させてしまう魔力...ペスト」』を再び引用すると、1348年頃、ペストが流行した欧州の当時の様子がよく分かる。



5.早すぎた埋葬

 イタリアの諸都市に悪魔が到達したのは1348年のことである。

 当時のナポリには、ルネッサンスの幕引き役となる作家のボッカチオが滞在していた。彼は周囲の人々が次々と死んでゆく事態に恐怖し、故郷のフィレンツエに帰着する。しかし、そこも地獄の様相を呈していた。当時、12万人程の人口があったこの町で、1348年7月までに生存できたのは僅かに2万人だったのである。

 この死臭が充満する町で、ボッカチオは代表作の「デカメロン」を執筆する。それは、ペストに脅えて郊外に逃避した男女10人が語る好色艶笑譚であった。この男女のように、極限の恐怖状態のため、快楽と官能的な喜びに溺れる者も少なくなかった。

 ボッカチオはこの物語の冒頭で、人々が動揺し道徳が崩壊していく様をルポタージュ式に述べている。

 「姉妹は兄弟をすて、またしばしば妻は夫をすてるにいたり、また父や母は子供たちを、まるで自分のものではないように、訪問したり面倒をみたりすることをさけました」

 患者に近づくと感染するという経験から、家族は看病をやめて患者を放置するようになったのである。放置された患者は孤独の中で悶え苦しみ、そして息をひきとる。死体は門前に棄てられ、それを死体運搬人が回収するのであった。葬式が行われても、それは笑い声に満ちた馬鹿騒ぎの場と化していた。

 さらに恐ろしいことには、瀕死の患者も死体として処理されたのである。死者が膨大な数になると従来の墓場では足りなくなり、町の郊外に大きな穴を堀り、そこに死体を投げ込んでいた。この穴の中に、まだ息をしている瀕死の患者も数多く埋められていたのである。患者に近づきたくないために、死を判断することすら躊躇われたのだろう。墓場に生き埋めにされた患者は、多くの死体に囲まれながら昇天するのだった。

 ポーの怪奇小説「早すぎた埋葬」を彷彿とさせる情景である。


この記事で「デカメロン」を読んでみたいと思ったが、あまりにも死が日常になると、人々の感受性がおかしくなっていくようである。





ペストと山羊座の関係


このように見て来て、明らかにペストと山羊座は関係があることが分かる。



信用収縮・食糧危機の占星学 - トレンド転換のクリティカルポイント -』の中でも書いたが、山羊座に木星や土星、ラーフ/ケートゥ軸がトランジットすると、大規模な信用収縮、食糧危機、疫病、天変地異(自然災害等)が生じる。


そして、それは人間社会に積み重なったカルマ的負債を清算するようなタイミングであるかもしれないということである。


9室はダルマハウスであるが、10室はカルマのハウスである。


従って、山羊座はカルマの星座であり、カルマの意味とは、自分で播いた種を刈り取るということである。



自分で作ってしまった原因を取り除く為に猛烈な働き(仕事)を為さなければならない。


それによって、社会は新たに前進するため、ピンチとチャンスが同時にやってくるような機会である。


危機を経験しつつ、その危機を解消し、乗り越えていく活動によって、社会が進化、発展、改善していく重要なタイミングであるということである。




(参考資料)

感染症ノスタルジア(4)「文明を進化させてしまう魔力...ペスト」
NL03020102
感染症、ペスト

海外勤務健康管理センター
濱田 篤郎

1.「ハーメルンの笛吹き男」の恐ろしさ

 13世紀末、ドイツ北部の町ハーメルンの住民達はネズミの大量発生に悩まされていた。そこに、ある男が現れ「ネズミを駆除しょう」と申し出る。住民達は喜んでその男にネズミ駆除を依頼した。男が持っていた笛を吹くと、不思議なことに町中のネズミが路上に現れ、行進を始めたのである。やがてネズミ達は近くの小川に次々と飛び込んでいった。これがグリム童話で有名な「ハーメルンの笛吹き男」である。

   実は、この童話には恐ろしい続編がある。ネズミを駆除してから、笛吹き男は町の住民に約束の報酬を要求した。ところが、住民達はその約束を反故にしてしまった。男は怒りに震えながら再び笛を吹き始める。すると今度は、町中の子供達が隊列を作り、行進をはじめたのである。そして子供達はどこか遠いところに消えていった。

 グリム童話はドイツの古い民話が土台になっているが、実際にハーメルンの町で、1284年に130名の子供が消えたとする記録が残っている。そこで、この民話は何らかの史実が語り継がれたものと推測されている。

 それでは、なぜ子供達は集団で失踪したのだろうか。

 その理由の一つに、ペストにより子供達が集団死したとの見方がある。ペストはネズミと密接に関連する病気である。ネズミを駆除したという最初のストーリーは、ペストを暗示させるものだ。

 また、この事件がおこってから60年後の1340年代に、ヨーロッパ全域は中世の黒死病流行と呼ばれる、空前のペスト大流行に見舞われている。その少し前からペストが燻っていても不思議はないのである。

 いずれにしても、ペストは人間社会が形成されてから大流行を繰り返してきた。その恐怖は人々の記憶に深く刻まれ、各地の民話や風俗にはペストの流行に関連するものが数多く残されている。

2.繰り返す悲劇

 有史以来、ペストの世界的な大流行は4回記録されている。

 最初の大流行は6世紀のことで、東ローマ帝国のユスチアヌス帝が大ローマ復活をかけて、侵略戦争を繰り広げている最中の出来事だった。流行の極期に首都のコンスタンチノーブル(現イスタンブール)では、日に1万人近い人々が死亡したと記録されている。

 そして2回目の大流行が、1340年代に始まる中世の黒死病の流行である。この時は全世界で7000万人の命が失われる大惨事となった。

 3回目はロンドン大疫病とよばれる17世紀の流行で、この模様はダニエル・デフォーの「ペスト年代記」の中で詳細に述べられている。

 このような未曾有の大惨事にあたり、当時の人々はペストの原因を色々と考えた。とくに中世の黒死病の流行に際しては、数々の原因論が浮上した。

 最も一般的な意見は瘴気説である。大地から沸き上がる有毒な気体が人体を害するとする説だが、黒死病流行の直前に各地で地震が多発したため、それによって生じた割れ目から瘴気が発生したと考えたのである。

 一方、パリ大学の医学部は、フランス国王の諮問に応じて、その原因を天体の異常な動きによるものと結論している。また、信心深い人々はこの試練を「神から下された罰である」と考え、自身の体を鞭打ちながら行進する団体が各地に出現した。

 さらに恐怖のため集団ヒステリー状態に陥ると、ユダヤ人原因説が各地で沸きおこる。ユダヤ人が井戸に毒を撒いたとする説だが、この影響により、ヨーロッパ全土で彼等の迫害が加速されるのだった。

 19世紀末から始まる4回目の大流行は、幸いにもヨーロッパに達することはなかった。しかし、アジア、アフリカだけでなくアメリカ大陸にも波及する文字通りの世界的流行となったのである。

3.ペストの素顔

 この流行の渦中にある香港に北里柴三郎が登場する。1894年のことである。彼はドイツの細菌学者コッホの下で研鑽を重ね、帰国後は福沢諭吉の援助で北里研究所を設立していた。

 同じ頃、フランスの軍医であるイエルサンも香港に到着した。二人はペストの病原体の発見を競い合い、結局、北里が最初にペスト菌の素顔を眺めるのである。

 しかし北里の発見したペスト菌には雑菌も混在していた。このため、それから暫くして純粋なペスト菌を分離したイエルサンが、歴史上はペスト菌の発見者として登録されている。

 元来、ペスト菌はネズミの病原体である。この体長僅か2μmの悪魔は、ノミの吸血によりネズミの体内に注入され、この動物を葬り去ることを生業としていた。ところがネズミと人間が共存する環境では、その魔力が人間にも向けられ、流行が急速に拡大するのである。

 ノミの吸血で人体内にペスト菌が注入されると、まず手足や頚部のリンパ節が腫脹してくる。これはペスト菌の拡大を抑える人間の抵抗力によるものだが、このリンパ節の腫脹が激痛をおこす。それとともに高熱を発し、精神の錯乱状態に陥ることも少なくない。この状態が腺ペストと呼ばれるものである。

 フランスの文豪カミューの名著「ペスト」にも多くのペスト患者が登場する。この小説は1941年にアルジェリアの町で、フランス人医師が出会ったペスト流行の模様を詳細に綴ったものである。その流行で最初の患者となる門番の様子は、臨場感たっぷりに描かれている。

 「しばらく苦しみ続けたあげく、あえぎながら門番はまた床についた。熱は39度5分で、頚部のリンパ節と四肢が腫張し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。彼は今では内部の痛みを訴えていた」

 この哀れな門番のように人間の抵抗力が菌に敗北すると、ペスト菌はリンパ節から堰を切ったように全身に散布され、皮膚に黒い斑点を生じさせながら患者を死へと導く。この黒い斑点こそ、ペストが黒死病と呼ばれる所以であり、現代ではこれが敗血症により出血傾向をおこすためと解明されている。

 近年は抗菌剤が数多く開発され、とくにストレプトマイシンはペストの特効薬である。腺ペストの患者であれば、その投与によりほとんど治癒するが、敗血症の状態になると致命率は70%以上にも達する。これが抗菌剤のない時代には、腺ペストで半分以上、敗血症では100%近くが死んでしまったのである。それだけペストは殺傷力の強いの病だった。

4.視線を合わせるな!

 人間社会が出会ったペストの中でも、とりわけ中世の黒死病の流行は人々に強い恐怖感を植え付けた。それは病気の強力な殺傷力だけではない。その感染力の凄まじさ故なのである。通常はノミの吸血で感染する病が、空気により感染する病へと変化してしまったのだ。

 中世の流行の発端は中央アジアのバルハシ湖周辺と考えられている。1338年頃に、この地方を治めていたモンゴル人の集団が最初の犠牲者となった。

 それからというもの、流行の波は草原の道を一路西に向かい、その終着点の黒海沿岸のカッファに到着したのである。これが1347年のことだった。カッファは当時の海運を担っていたジェノバ人の拠点であり、この町からペストはジェノバの船に紛れて、ヨーロッパ各地へと散布されていった。

 ヨーロッパ内でのペストの流行は、それまでと様相を異にして急速に拡大の速度をあげる。これは本来のノミの吸血で感染する方法ではなく、空気感染する状態に変化したことを意味した。

 腺ペスト患者の一部には、末期になると肺炎をおこす者がいる。これが肺ペストで、現代でもこのような患者は、発病後18時間以内に抗菌剤を投与しないと100%死亡する。この当時は、肺ペストになれば間違いなく死亡していたはずだ。

 しかも肺ペストの患者は、咳やクシャミの際に大量のペスト菌を排泄する。これを吸い込んだ者は直ちに肺ペストを発病し、死に至るまでの数日間、強力な感染源となるのである。このように空気感染は極めて効率のよい感染方法だった。

 当時の人々にとって、患者に近づくだけで感染し、瞬く間に死んでてしまう様は恐怖そのものだった。感染の原因を「患者の視線による」と考える者も多かった。このため、患者を看護する際には、視線を合わせないことが鉄則とされていた。

 やがて、死者が多くなるに従い人々の心は荒廃し、信じられない程のモラルの低下を招くのである。

5.早すぎた埋葬

 イタリアの諸都市に悪魔が到達したのは1348年のことである。

 当時のナポリには、ルネッサンスの幕引き役となる作家のボッカチオが滞在していた。彼は周囲の人々が次々と死んでゆく事態に恐怖し、故郷のフィレンツエに帰着する。しかし、そこも地獄の様相を呈していた。当時、12万人程の人口があったこの町で、1348年7月までに生存できたのは僅かに2万人だったのである。

 この死臭が充満する町で、ボッカチオは代表作の「デカメロン」を執筆する。それは、ペストに脅えて郊外に逃避した男女10人が語る好色艶笑譚であった。この男女のように、極限の恐怖状態のため、快楽と官能的な喜びに溺れる者も少なくなかった。

 ボッカチオはこの物語の冒頭で、人々が動揺し道徳が崩壊していく様をルポタージュ式に述べている。

 「姉妹は兄弟をすて、またしばしば妻は夫をすてるにいたり、また父や母は子供たちを、まるで自分のものではないように、訪問したり面倒をみたりすることをさけました」

 患者に近づくと感染するという経験から、家族は看病をやめて患者を放置するようになったのである。放置された患者は孤独の中で悶え苦しみ、そして息をひきとる。死体は門前に棄てられ、それを死体運搬人が回収するのであった。葬式が行われても、それは笑い声に満ちた馬鹿騒ぎの場と化していた。

 さらに恐ろしいことには、瀕死の患者も死体として処理されたのである。死者が膨大な数になると従来の墓場では足りなくなり、町の郊外に大きな穴を堀り、そこに死体を投げ込んでいた。この穴の中に、まだ息をしている瀕死の患者も数多く埋められていたのである。患者に近づきたくないために、死を判断することすら躊躇われたのだろう。墓場に生き埋めにされた患者は、多くの死体に囲まれながら昇天するのだった。

 ポーの怪奇小説「早すぎた埋葬」を彷彿とさせる情景である。

6.覆面をした医師たちの饗宴

 家族にも見放されたペスト患者にとって、医者の治療を受けることなど、まず期待できなかった。病気を恐れて郊外に避難してしまう医者もいたが、多くの医者が死んでしまったためである。もっとも、この当時のペストの治療は、無意味な冩血か、腫大したリンパ節を切開する程度のことしか出来なかった。

 中世の大流行の後に、巷にはペスト医と呼ばれる医者が出現する。患者からの感染を防ぐために、彼等が纏う服装は大変に奇抜なものだった。全身を皮の衣服で包み、顔には覆面をかぶる。それは、鼻と口に鳥の嘴のような突起をもつ恐ろしい覆面だった。この嘴の部分には、空気を洗浄する目的で香の強い薬草を入れていた。もちろん目の部分には、視線を合わせないように覆いがされていた。その姿は巨大なヒヨコを彷彿させるもので、カミューはこのような医者が診察する光景を「覆面をした医師たちの饗宴」と描写している。

 そんなペスト医の一人として16世紀のフランスで名声を博したのが、予言者として著名なノストラダムスである。

 彼の母方の家系は医術を業としており、彼自身も1529年に大学の医学部を卒業した。卒後は南フランスのアジャンで幸せな結婚生活を送っていたが、間もなく妻と二人の子供がペストにより死亡してしまう。この試練を経て、彼はペスト医としての仕事に没頭するのである。ペストの予防に関しても、土葬をやめて火葬を推奨するなど、数々の画期的な提言を行っている。

 晩年になり、ノストラダムスは予言者としての地位も獲得するが、あの壮大な予言はペストとの格闘の中で閃いたものかもしれない。

7.周期的な大流行の秘密

 ペストの大流行は凡そ300年の周期で発生している。これは、その時期にネズミとノミの間のペストサイクルが過剰に回転し、さらに人間がそのサイクルに接触するためにおこる出来事なのである。

 古来から世界には3箇所のペストの巣窟があった。

 ペストサイクルが常に回転している地域であるが、一つはアフリカ中部の大湖地帯で、ここを震源地としたのが6世紀の大流行である。

 二つめは中央アジアの草原地帯で、ここから中世の黒死病の流行が勃発した。

 三つめは中国とミャンマーの国境にある山岳地帯で、19世紀末の大流行の震源地である。この巣窟に人間が侵入したり、あるいはネズミがそこから大量に移動することで、流行は世界各地へと拡大した。

 中世の黒死病流行の際も、モンゴル帝国により中央アジアに草原の道が築かれ、人間が巣窟へ容易に侵入できる状況になっていた。さらに、この時代はネズミ自体も巣窟からヨーロッパ方面へ大量に移動していたらしい。ペストの主な標的となるネズミはクマネズミと呼ばれる種類で、このネズミはヨーロッパに元来棲息していなかった。

 ところが13世紀頃から、徐々に中央アジアより移動を始めたのである。冒頭で述べた「ハーメルンの笛吹き男」の話でも、当時の人々がネズミの増加に悩まされていた件があるが、これこそクマネズミの西方への移動なのだろう。

 それでは、なぜクマネズミは西方へ移動したのだろうか。

 これは元々の棲息地域である中央アジアで、飢饉などにより食料が不足したためと考えられる。生態系の中で食料不足や個体数の過剰などがおこり、ある生物種の存続が困難になると、その生物種は別の生態系に移動する現象をおこす。さらに、それでも存続できなくなると、集団自殺行動をとることもある。ネズミであれば、次々と川に飛び込んで自殺するわけだが、これは「ハーメルンの笛吹き男」に出てくる状況と極似している。

 私は、ペスト菌の本来の意義が、ネズミの個体数を調整する生態系のメカニズムではないかと考えている。

 個体数が増えすぎたり食料不足になると、ネズミという生物種を存続させるために、ペスト菌がネズミの殺戮を開始する。すなわちペストサイクルが過剰に回転を始めるのである。こうして、人間がサイクルに接触する機会も増加する。それとともに、ネズミは移動という方法をとるため、巣窟の外にある人間社会にも流行が拡大する。

 こんな状況が300年周期で繰り返されていたのではないだろうか。

8.人間社会への警告

 人間の文明は古代、中世、近世、近代と進化を遂げてきた。そしてペストの大流行はその節目毎に出現している。この病気が本来は、ネズミという生物種を維持するメカニズムであったとしても、同時に人間の文明を進化させる魔力として機能しているのかもしれない。

 現在、世界に存在するペストの巣窟は3つにとどまらない。4回目の世界流行の果てに、それは北米の砂漠地帯にも新たな拠点を築いたのである。これら巣窟の周囲では、最近でも年間2000人前後のペスト患者が発生している。抗菌剤が発達した現代、その死亡率は10%以下に低下しているが、近年は抗菌剤に抵抗性のペスト菌も少しづつ出現しているのである。

 最後の世界流行が発生したのは19世紀末のことで、300年周期とすれば次の流行は22世紀あたりになるだろう。しかし油断は禁物である。ペストは文明の停滞や堕落を常に監視しているのだ。

 カミューは「ペスト」の最終章を次のような文章で結んでいる。

 「人間に不幸と教訓をもたらすため、いつかペストは鼠どもを呼び覚し、何処かの幸福な都市に彼等を死なせにやってくる」

参考資料
ペスト大流行 村上陽一郎著 岩波新書 1983年
ペストは今も生きている C.T.グレグ著(和気朗訳) 講談社 1980年
ペストの文化誌 蔵持不三也著 朝日選書 1995年
ヨーロッパの黒死病 クラウス・ベルクドルト著(宮原啓子、渡辺芳子訳)国文社 1997年
ペスト アルベルト・カミュー著(宮崎嶺雄訳) 新潮社 1958年
参照元:感染症ノスタルジア(4)「文明を進化させてしまう魔力...ペスト」
NL03020102
感染症、ペスト

海外勤務健康管理センター
濱田 篤郎
「黒死病」流行後に欧州の労働者が経験したこと
食事、賃金、宗教、慈善活動はどう変わったか
ウォルター・シャイデル : スタンフォード大学教授
2020/05/04 5:50  東洋経済ONLINE

人類はこれまで、さまざまな疫病を経験してきたが、疫病に見舞われた後には何が起こったのだろうか。

黒死病と恐れられた「ペスト」に襲われ、多数の人が亡くなったあとの西欧では、実質賃金が2~3倍に跳ね上がり、労働者が肉とビールの夕食をとるようになる一方で、地主は体面を保つのに必死だったという。

古代史を専門とし『暴力と不平等の人類史』を上梓したスタンフォード大学教授のウォルター・シャイデルは、「戦争・革命・崩壊・疫病」という4つの衝撃を中心に古代から現代までを分析している。中世ヨーロッパの労働者の生活は、疫病の感染爆発後、どのように変化したのか。今回、『暴力と不平等の人類史』から一部抜粋してお届けする。

ペストで一変した世界

1350年にはペストは地中海沿岸に広がり、翌年には、一時的であれヨーロッパ全土を衰退させた。

経済学者のパオロ・マラニマによる最新の推定によれば、ヨーロッパの人口は1300年の9400万人から、1400年には6800万人に落ち込んだ。減少率は25%を超える。

特に落ち込みがひどかったのがイングランドとウェールズで、ペスト前に600万人近くあった人口のほぼ半分が死亡し、18世紀初めになってやっとペスト前の水準に戻ったのだ。

イタリアも落ち込みがひどく、住民の3分の1以上が死亡した。

黒死病の影響が甚大だったことは疑う余地がない。歴史家イブン・ハルドゥーンは普遍史に関する著作でこう書いている。

東西の文明は破壊的な疫病に見舞われた。この病は国家を荒廃させ、国民を死へ追いやった……人間が住んでいた世界全体が一変した。

実際、世界は一変した。感染爆発のさなかとその直後には、人間の活動が低下した。長期的には、ペストとそれがもたらした混乱が、人びとの考えや社会制度に広く爪痕を残した。

つまり、キリスト教の権威が弱まり、快楽主義と禁欲主義が同時に繁栄し、恐怖と跡継ぎがいない者の死亡が原因で、慈善活動が増えたのだ。芸術のスタイルまで影響を受けた。医者は長年守ってきた原則の再考を迫られた。

最も根本的な変化は、経済領域、なかでも労働市場で起きた。黒死病がヨーロッパに達したのは、3世紀にわたって人口が大きく──2倍、時には3倍に──増加していた時だった。西暦1000年ごろから、技術革新、農耕法と収穫高の改善、政情不安の改善があいまって、定住が進み、生産性が向上し、人口が増えた。都市は大規模化し、数も増えた。

ところが13世紀後半には、この長期にわたる繁栄は自然に終息した。中世の気候最適期が終わりを告げると、生産性が低下し、需要が供給を上回りはじめたため、飢えた人びとが増加して食料価格が上がった。耕作に適した土地の拡大は止まり、牧草地が縮小したせいで、タンパク質の供給は減った。

同時に、ますます質素になる食事において基本的な穀物がそれまで以上に主要な食品になった。人口圧力によって、労働の価値が下がり、したがって実質所得が減少した。生活水準も、せいぜいのところ横ばいだった。

14世紀初めには、気候が不安定で収穫が減った結果、壊滅的な飢饉となって、状況はいっそう悪化した。人口水準は14世紀初めの25年間で下がったものの、生活が維持できるかどうかの危機はさらに一世代のあいだ続き、動物間流行病のせいで家畜が激減した。

労働力に対して土地が余るようになった

黒死病によって人口は激減したものの、物理的なインフラは損なわれずに残った。生産性が向上したおかげで、人口の減少ほど生産高は減らなかったため、1人当たりの平均的な産出量と所得は上昇した。

時おり主張されるように、ペストによって、本当に労働年齢にある人びとがそれより若いあるいは老いた人びとよりも多く命を落としたかどうかはわからないが、ともかく労働力に対して土地が余るようになった。

地代と金利は絶対的にも賃金比でも下がった。地主にとっては損だが、労働者は利益を望めそうだった。とはいえ、こうしたプロセスが実際の暮らしにおいてどう展開するかは、中世の労働者に有効な交渉力をもたらす制度と権力構造にかかっていた。

当時の西欧の観察者は、人びとの大量死によって賃上げ要求が高まったことにすぐに気づいた。カルメル会の修道士ジャン・ドゥ・ヴネットは、1360年ごろの年代記でペスト流行後の様子について書いている。

何でもふんだんにあるものの、価格は2倍だった。調度品や食料はもちろん、商品、賃金労働者、農業労働者、使用人などすべてがそうだ。唯一の例外は土地と家屋で、それらは現在でも供給過剰の状態にある。

労働者は3倍の賃金でも首を縦に振らなかった

作家のウィリアム・ディーンが書いたとされるロチェスター小修道院年代記によれば、労働者不足が続いたため、庶民は雇用労働など歯牙にもかけず、3倍の賃金で貴人に仕えるという条件にもなかなか首を縦に振らなかった。

雇い主はただちに、人件費の上昇を抑制するよう当局に圧力をかけた。イングランドが黒死病に襲われてから1年も経たない1349年6月、国王は労働者勅令を発布した。

住民の大部分、特に労働者と使用人(「召使い」)がペストで死亡して以降、多くの人びとが主人の窮状と労働者不足につけこんで、法外な給金をもらわないと働こうとしない……イングランドの領土に住むあらゆる男女は、自由民であれ非自由民であれ、身体が健康な60歳未満で、商売や特殊な技能の行使によって生活しているのではなく、耕す必要のある自分の土地からの不労所得がなく、他人のために働いているのではない限り、自分の地位とつりあう仕事を提供されたらその申し出を受ける義務が生じることを、ここに定める。その料金、仕着せ、支払い、給金は、わが国の統治の20年目[1346年]か、5、6年前の適切な年に、彼らが働いている地域で通常支払われていた金額でなければならない……多く受け取っていることが発覚すれば、牢獄行きとなる。

この勅令の効果は実際にはあまり上がらなかったようだ。それからわずか2年後の1351年、労働者制定法という別の法令で、こんな訴えがなされている。

先の勅令で述べられた雇われ人は、この勅令を無視して自分自身の豊かさや並外れた強欲さを優先している。20年目およびそれ以前に受け取っていた金額の2倍から3倍の仕着せや賃金をもらわない限り、偉人やその他の人びとのために働こうとしない。こうして、彼らは偉人に大変な損害を与え、あらゆる庶民を貧しくしている。

そして、このやっかいな状況を是正すべく、さらに詳細な制約と罰則が科されることになった。ところが、一世代も経ずしてこの施策も頓挫した。1390年代初め、レスターのアウグスティノ修道会の修道士、ヘンリー・ナイトンは年代記にこう書いている。

労働者はひどく思い上がっていて血の気も多いため、王の命令など気にも留めなかった。彼らを雇いたければ、その言いなりになるしかなかった。というのも、刈り取らずに農作物を失うか、労働者の傲慢さと貪欲さに迎合するか、2つにひとつしかなかったからだ。

もう少し中立的な言葉で言い換えると、政府の命令と抑圧によって賃金上昇を抑えようとする試みに対し、市場原理が勝ったということだ。雇用主、特に地主の個人的利益が、労働者に対して共同戦線を張ることによる強制できない集団的利益を上回ったからである。

イングランドばかりかほかの地域でも事情は変わらなかった。1349年、フランスも同様に賃金をペスト前の水準に抑えようとしたが、さらに早く負けを認めるはめになった。1351年には、改正法によって賃金を3分の1上げることがすでに認められつつあった。まもなく、人を雇いたい時は相場どおりの賃金を支払わなければならなくなった。

経済史家のロバート・アレンと共同研究者の尽力により、今では熟練・非熟練の都市労働者の実質賃金を示す長期的な時系列のデータが数多く手に入る。このデータは時に中世にまでさかのぼり、時空を超えて体系的に比較できるよう標準化されている。

賃金が上昇し、肉を多く食べるようになった労働者たち

ヨーロッパとレヴァント地方の11の都市で記録された非熟練労働者の賃金の長期的傾向から、明確な全体像が読みとれる。ペスト発生前の賃金がわかる少数のケース(ロンドン、アムステルダム、ウィーン、イスタンブール)では、ペストの流行以前は賃金が低く、その後急速に上昇している。

実質所得は15世紀初めから半ばにかけてピークに達している。この時期、ほかの都市でも同様のデータが残されており、やはり賃金上昇の動きが見られる。

14都市の熟練労働者の賃金についてもほぼ同じ構図が浮かび上がる。データが得られた地域では、ペスト発生の直前から15世紀半ばまでに人口の変化と実質所得には際立った相関関係がある。調査対象となった全都市で、人口が最低になった直後に実質所得がピークに達したのだ。人口が回復してくると賃金は減少に転じた。多くの都市で、1600年以降は人口が増え続けて実質所得は下がる一方だった。

地中海東岸でも同様の結果が見られる。黒死病の発生後、期間はヨーロッパより短かったものの、人件費が急騰したのだ。歴史家の アル=マクリーズィーはこう述べている。

職人、賃金労働者、荷物運搬人、使用人、馬丁、織工、作業員といった人びとの賃金は数倍に跳ね上がった。しかし、彼らの多くはもういない。ほとんどが死んでしまったのだ。この種の労働者を見つけるには、必死になって探す必要がある。

ペストの犠牲者からの遺贈や、遺産相続した生存者からの寄贈に支えられ、宗教的、教育的、慈善的寄付が急増した。おかげで、人手不足にもかかわらず建設工事が推進され、職人は非熟練都市労働者とともにわが世の春を謳歌した。

生活水準が一時的に向上したおかげで、肉の需要が押し上げられた。14世紀初めの所得と物価の内訳によれば、平均的なカイロ市民の1日の消費量は1154カロリー(タンパク質 45.6グラム、脂肪 20グラム)と控えめだったが、 15世紀半ばには1930カロリー(タンパク質 82グラム、脂肪45グラム)が摂取されるようになっていた。
参照元:「黒死病」流行後に欧州の労働者が経験したこと
食事、賃金、宗教、慈善活動はどう変わったか
ウォルター・シャイデル : スタンフォード大学教授
2020/05/04 5:50  東洋経済ONLINE
社会を変革させるパンデミック 流行終息後でさえ続く変化
2020/3/16 16:30 (2020/3/16 16:32 更新) 西日本新聞

「歴史が教えること」寄稿・山本太郎氏

 歴史を振り返れば、私たちは、これまでにも幾度ものパンデミックを経験してきた。14世紀ヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)や1918年から19年にかけて世界を席巻したスペイン風邪などである。

   14世紀にヨーロッパで流行したペストは、最終的にヨーロッパ全土を覆った。流行は、居住地や宗教や生活様式に関係なくヨーロッパ社会を舐(な)め尽し。最終的に当時のヨーロッパは、人口の4分の1から3分の1を失う。当時のヨーロッパ社会がいかにこの病気を恐怖したか。ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン(十日物語)』に詳しい。作品の背景には、ペストに喘(あえ)ぐ当時の社会状況が色濃く反映されている。

 「一日千人以上も罹病しました。看病してくれる人もなく、何ら手当てを加えることもないので、皆果敢なく死んで行きました」(「デカメロン-十日物語」野上素一訳、岩波文庫)

 ドイツ・バイエルン州にオーバーアマガウというアルプスに囲まれた小さな村がある。10年に一度、村人総出で世界最大規模の「キリスト受難劇」を上演する。それは、16世紀のペスト流行時の猛威に、神の救いを求めた代わりに、キリストの受難と死と復活の劇を10年に一度上演すると誓ったことに始まり、今に至るまで、400年近く続く。それほど、ペストの恐怖は、ヨーロッパ人の記憶に深く刻まれている。そのペストは、ヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。

 ペストがヨーロッパ社会に与えた影響は、少なくとも三つあった。第一に、労働力の急激な減少とそれに伴う賃金の上昇。農民は流動的になり、農奴に依存した荘園制の崩壊が加速した。第二は、教会の権威の失墜。ペストの脅威(きょうい)を防ぐことのできなかった教会はその権威を失った。第三は、人材の払底。それはそれまで登用されることのなかった人材の登用をもたらした。結果として、封建的身分制度は実質的に解体へと向かった。同時にそれは、新しい価値観の創造へと繋(つな)がった。

 半世紀にわたるペスト流行の後、ヨーロッパは、ある意味で静謐(せいひつ)で平和な時間を迎えたという。それが内面的な思索を深めさせたという歴史家もいる。そうしたなかで、ヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。ペスト以前と以降を比較すれば、ヨーロッパ社会は、まったく異なった社会へと変貌し、変貌した社会は、強力な主権国家を形成する。中世は終焉(しゅうえん)を迎え、近代を迎える。これがペスト後のヨーロッパ世界であった。

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックが今後どのような軌跡をとることになるのか、現時点で、正確に予測することはできない。ただパンデミックが遷延すれば、私たちは、私たちが知る世界とは異なる世界の出現を目撃することになるかもしれない。

 それがどのような世界かは、もちろん誰にもわからない。しかしそれは14世紀ヨーロッパのペストのように、旧秩序(アンシャンレジーム)に変革を迫るものになる可能性さえ否定できない。そうした変化は、流行が終息した後でさえ続く。

 感染症は社会のあり方が流行の様相を規定し、流行した感染症は時に社会変革の先駆けとなる。そうした意味で、感染症のパンデミックは社会的なものとなる。

 歴史が示す一つの教訓かもしれない。

 ただ、希望はある。それは、私たち自身の心の持ちようによる。そう信じたい。

 ちなみに、検疫は、14世紀のペスト流行時にヴェネツィアで始まった海上隔離に起源を持つ。当初、隔離期間は30日であったが、その後40日に延長された。検疫(クアランティン)は、「40」を表すイタリア語が語源となった。

▼やまもと・たろう 長崎大熱帯医学研究所国際保健学分野・教授。専門は国際保健学、熱帯感染症学。1964年生まれ。著書に「新型インフルエンザ 世界がふるえる日」「感染症と文明 共生への道」など。
参照元:社会を変革させるパンデミック 流行終息後でさえ続く変化
2020/3/16 16:30 (2020/3/16 16:32 更新) 西日本新聞
ローマ帝国の迫害と疫病
2020年02月23日 16時02分 大紀元時報日本

人々の徳が廃れた時、陰陽が乱れ、万物が凋落します。キリスト教徒を迫害したローマ帝国は、何度も疫病に見舞われました。

暴君ネロ

キリスト教徒への迫害は、皇帝ネロ(在位54-68)の時代に始まりました。

ネロは64年にローマで起きた大火の罪をキリスト教徒に負わせ、人々の憎悪をあおりました。一説によれば、自分好みの街を再建するために、ネロ自身が放火を指示したといわれています。

キリスト教徒への迫害は、残虐を極めました。彼らを円形闘技場に集め、野生動物の皮を被せて猛獣の餌食としました。また、夜には彼らを生きたまま火あぶりにし、街を照らす灯かりとしました。

その年の秋、疫病が発生し、およそ3万人が亡くなりました。3年後、ネロに対する暴動が起き、彼はローマから逃亡して自殺しました。

アントニヌスの疫病

161年に即位したマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161-180)は、キリスト教徒への迫害を更に強化しました。

歴史学者は、「キリスト教徒は野獣の餌にされ、拷問を受け、監禁された。キリスト教徒に仕えていた奴隷たちは、彼らの主人が近親相姦や食人儀式を行っていると証言した」と記録しています。誹謗中傷の中で、キリスト教徒たちは弾圧されました。

166年、疫病が発生しました。この病にかかると、「激しい嘔吐で内臓が震え、血を吐き、目から火が出る。身体は衰弱し、足はふらつき、耳が遠くなり、盲目になる」と歴史家が記録しています。

当時、ローマでは毎日およそ2000人が疫病で亡くなり、一部の地域では3分の1の人口が消失しました。

キプリアンの疫病

キプリアンの疫病は250年に始まり、20年間続きました。ピーク時には一日5000人が亡くなり、ローマ帝国に打撃を与えました。疫病の正体は、天然痘、インフルエンザ、あるいはウィルス性出血熱(例:エボラ)のような伝染病だったと言われています。

疫病は、トラヤヌス・デキウス(在位249-251)が皇帝に即位して1年後に発生しました。彼は全国民に、ローマの神々に犠牲を捧げ、崇拝せよという勅令を出しました。儀式は行政官の前で行うこと、また供犠証明書の発行などが義務づけられました。偶像崇拝を拒否した多くのキリスト教徒が処刑されました。

251年、デキウスは即位後2年で戦死しました。19年後、当時のローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスも疫病で亡くなりました。

ディオクレティアヌスの迫害

ディオクレティアヌス(在位284-303)は初期の頃、キリスト教徒に対して寛大な政策をとりました。しかし、彼は義理の息子ガレリウスにそそのかされ、迫害を始めました。教会を破壊し、聖書を焼き、財産を没収しました。これは、ローマ帝国時代において最も大規模な迫害でした。

その後、皇帝に即位したガレリウスは迫害を継続しました。

ガレリウスは後に、ぞっとするような難病にかかりました。「身体はひどく腫れあがり、性器に穴があき、そこから大量のウジがわいている。肉が腐り、吐き気のする悪臭が立ち込めた。最も忌まわしい病気である」と歴史家が記録しています。

自身の過ちを悔いたガレリウスは311年4月、迫害の停止を宣言しました。

313年、コンスタンティヌス1世のころ、ミラノ勅令が発布され、ローマ帝国における信教の自由が認められることになりました。この時点で、実に300年におよぶキリスト教への迫害が終わりました。

正教に対する迫害は、とてつもない罪業を造ります。キリスト教徒を迫害したローマ帝国は、疫病で600万人の命を失いました。現在、中国で蔓延している疫病は、法輪功迫害に対する報いなのかもしれません。

参考:明慧ネット

(大紀元日本ウェブ編集部)
参照元:ローマ帝国の迫害と疫病
2020年02月23日 16時02分 大紀元時報日本
ローマ帝国を崩壊させた「感染症」とは?
2020/2/28 デイリーBOOKウォッチ

 新型コロナウイルスとの戦いが世界に広がっている。このまま拡大が続くのか、なんとか収束の方向に向かうのか。本書『世界史を変えた13の病』(原書房)は感染症(疫病、伝染病)と人類の戦いを、世界史という枠組みで振り返ったものだ。わざわざ西洋社会で嫌われる「13」という数字をタイトルにしている。

衰退の一因に「疫病」

 腺ペスト、天然痘、梅毒、結核、コレラ、ハンセン病、腸チフス、スペイン風邪、ポリオなど知られた病名が並んでいる。中には「ダンシングマニア」(死の舞踏)、「ロボトミー」(人間の愚かさが生んだ『流行病』)、「嗜眠性脳炎」(忘れられている治療法のない病気)なども出てくる。

 トップに登場するのは「アントニヌスの疫病」。上記の病ほどは世間で知られていない。(医師が病気について書いた最初の歴史的記録)という副題が付いている。

 テーマになっているのは「ローマ帝国の崩壊」。強大な軍事力を背景に北はスコットランドから南はシリアまでを領地に繁栄をつづけたローマ帝国。本書はその衰退の一因に「疫病」があったことを強調する。

 皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121~180)のお抱え医師、ガレノスが当時蔓延した疫病について詳細な記録を残していた。この疫病は165年から167年にかけてメソポタミアからローマに到達したとされている。

 本書では、まず当時のローマの衛生状態が記されている。公衆トイレはあったものの、公共下水道につながっている個人住宅はほとんどなかった。排泄物はそのまま通りに捨てられていた。人々は浴場を利用していたが、殺菌されていなかった。マラリアや腸チフス、赤痢、肝炎などがしばしば蔓延した。

総死亡者数は1000万人を超えた

 ガレノスは新たにローマを襲った疫病について次のように書き残している。

 「患者は突然全身に小さな赤い斑点が現れ、一日か二日後に発疹に変化する。その後二週間、単純疱疹ができたあと、かさぶたになってはがれ、全身に灰のような外観が残る」

 「黒い便はその病気の患者の症状で、生き延びるか死亡するかにかかわらず・・・便が黒くなければ、必ず発疹が出た。黒い便を排泄した患者は全員死亡した」

 多くの患者が血を吐いた。病人の顔が黒くなれば葬式の準備を始めたほうがいいとも。もちろん治る患者もいた。「黒い発疹」が出れば生き延びる可能性がある。この疫病は、今では天然痘だったのではないかと見られている。総死亡者数は1000万人を超えたのではないかと推定されている。ローマでは毎日2000人が死んだとも。

 ローマ軍の軍人たちも罹患し、軍がガタガタになる。それに乗じて一時はゲルマン人がローマにまで攻め込んできた。最終的には押し返したが、ローマ帝国の最強神話がぐらつくきっかけになった。

 皇帝マルクス・アウレリウスもこの病気で死んだといわれている。『ローマ帝国衰亡史』で知られるギボンは、「古代世界はマルクス・アウレリウス統治時代に降りかかった疫病によって受けた打撃から二度と回復することはなかった」と書いているという。

罹患者を火あぶりにするな

 さかのぼれば、紀元前430年にはアテネで疫病が発生。人口の3分の2が死滅したという。腺ペストかエボラウイルスによるものだったと見られている。『戦史』で有名な古代の歴史家トゥキディデスの記述が紹介されている。

 「死亡率がどんどん上昇した。死にかけている人が積み重なり、半死半生の人間がよろよろと通りをさまよい、水を求めて泉という泉に群がった。寝泊りしていた聖地にも、そこで死んだ人々の死体があふれた。疫病が蔓延し、自分の行く末がわからなくなると、神聖だとか冒涜だとか、何もかもどうでもよくなったのだ」

 このようにギリシャ文明もローマ文明も、疫病によって土台が揺らぎ、崩壊に向かったことを本書は伝える。古代の都市はおおむね城塞でおおわれていたから、その内部では疫病が持ち込まれると、短期間で蔓延したに違いない。今回のクルーズ船の姿とも重なる。

 著者のジェニファー・ライトさんはニューヨーク在住の作家。医学史の研究者ではないが、巻末に膨大な参照資料のリストが掲載されている。

 著者は、人類が疫病にすばやく対処できるかどうかは、医師や科学者の努力だけにかかっているわけではないと強調する。

 「罹患者を罪人と見なして、文字どおりにしろ比喩的にしろ火あぶりにしてはならない・・・だが、新たな疫病が発生したとき、わたしたちは300年前と全く同じ過ちを犯す」

 BOOKウォッチでは関連で『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫)、『ウイルス大感染時代』(株式会社KADOKAWA)、『猛威をふるう「ウイルス・感染症」にどう立ち向かうのか』(ミネルヴァ書房)、『知っておきたい感染症―― 21世紀型パンデミックに備える』 (ちくま新書)、『感染症の近代史』(山川出版社)なども紹介している。
参照元:ローマ帝国を崩壊させた「感染症」とは?
2020/2/28 デイリーBOOKウォッチ
新型コロナによる社会変化、世界は良い方向に向かうのか
2020年5月12日 12:56 発信地:ロンドン/英国 [ 英国 ヨーロッパ ] AFP BB NEWS

【5月12日 AFP】黒死病(ペスト)の流行がきっかけとなった農奴解放や、第2次世界大戦(World War II)後の荒廃から誕生した英国における「福祉国家」など、主な社会的進歩は大惨事から発生することが多い。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大に伴い多くの政府が、以前は「ユートピア的」だとし取り入れていなかった、労働者に対する賃金支援やホームレスへの宿泊施設の提供といった政策を実施している。

 だが、緊急事態に伴う措置が緩和され、世界が正常化を試み始める中、こうした政策が実施されている場合、どれが継続可能か、もしくはどれを継続すべきなのかという議論が起きている。

 英国では他の国々と同様、今回の危機により配達員や教師、看護師といった市民生活に不可欠な職業に従事する人々の賃金が、不当に低い現状が浮き彫りになった。

 英政府は、法律上傷病手当が保障されていない自営業者が体調不良にもかかわらず働き続ける事態を恐れ、自営業者500万人分の収入支援にも乗り出した。具体的には、1か月の所得の80%分を、2500ポンド(約33万円)を上限に支給する。

 英オックスフォード大学(University of Oxford)の歴史専門家ティモシー・ガートン・アッシュ(Timothy Garton Ash)氏は、最低所得保障制度(ユニバーサル・ベーシックインカム、UBI)は、少し前までは「ユートピア的とは言わないまでも、急進的だ」と考えられていたと指摘する。だが、同大学の最近の研究では、欧州の人の71%が、UBIの概念を支持していることが明らかになっている。

 英国では、新型コロナウイルス感染リスクを考慮し、ホームレスを宿泊客のいないホテルやホステルに収容している。英政府によると、地元当局が把握する路上生活者の90%に当たる約5400人が宿泊している。

 慈善団体「クライシス(Crisis)」は、ホームレスの数は17万人に上り、感染拡大を理由に賃貸物件から立ち退きを迫られている人はさらに多いとしている。

 同団体のジャスミン・バスラン(Jasmine Basran)氏は、政府の対応は「信じられないほど素晴らしい」「政治的意思があれば、何が可能かということが示された」と話した。

 英ウォリック大学(University of Warwick)のマーク・ハリソン(Mark Harrison)教授(経済史)は、今回の危機は長期的には人々の認識を良い方向に変える可能性があると指摘する。

 だが、英ロンドンにあるインペリアル・カレッジ・ビジネススクール(Imperial College Business School)のサンカルプ・チャトルベディ(Sankalp Chaturvedi)教授(組織行動論、リーダーシップ論)は、善意には限度があると話す。

「この寛容さは、将来の増税につながる」と述べ、短期的な支援は不安と失望をもたらすと予測している。
参照元:新型コロナによる社会変化、世界は良い方向に向かうのか
2020年5月12日 12:56 発信地:ロンドン/英国 [ 英国 ヨーロッパ ] AFP BB NEWS
14世紀のペスト大流行の後は経済が急拡大した…しかし今回はそうではなさそう
Juliana Kaplan BUSINESS INSIDER Apr. 10, 2020, 10:30 AM BUSINESS

・ドイツ銀行の報告によると、イギリス経済はコロナウイルスの大流行を受けて2020年に6.5%のマイナス成長に陥る可能性があるが、ペストの発生した1349年の23.5%減ほどではない。

・約700年の間に多くの変化があったので、その影響はペストほど劇的ではないだろうが、パンデミックはしばしば経済の縮小を伴う。

・ペストによる影響が過ぎ去った後、イギリスでは賃金が上昇し、消費主義が台頭したが、それは限られた土地とそこで働く労働者が減ったことによるものだった。

・コロナウイルスが出現する前の経済状況を考えると、おそらく異なる結果が現れるだろう。より自動化が進む可能性があり、時間給の仕事は急速に縮小している。

フィナンシャル・タイムズAlphavilleのジェイミー・パウエル(Jamie Powell)記者は、ドイツ銀行のジム・リード(Jim Reid)氏の新しいレポートを引用して、イギリス経済は2020年に6.5%のマイナス成長になる可能性があると報じている。これは2009年を上回るが、黒死病(ペスト)の余波よりは少ない。

ドイツ銀行の報告書は、1271年までさかのぼってイギリスの経済縮小に注目している。2番目に大きな縮小は、ペストが発生した1349年で、マイナス23.5%に達した。コロナウイルスがイギリス経済にそれほど大きな打撃を与えるとは予測されていないが、1900年以降で見ると、その影響は1921年と1919年に次ぐものだ。

リード氏によると「当時のペストの死亡率は今日のパンデミックをはるかに超えており、イングランド銀行のデータによれば、イギリスの人口は1348年の481万人から1351年には260万人に減少していて、3年間で40%以上減ったことになる。しかしこのことが、パンデミックの経済への影響に関係している」という。

黒死病の余波は、ヨーロッパの経済状況を根本的に変え、特に労働者に大きな影響を与えた。

実際、ブルームバーグのアンディ・ムカジー(Andy Mukherjee)記者によると、ペストのパンデミックによる縮小が終わると生産性と賃金の上昇につながったと指摘している。限られた土地と限られた労働力しかなく、それが当時の経済における主要な財産だったからであり、そして大きな喪失のトラウマから大量消費への欲求が高まり、支出が増えていった。

しかし、ムカジー記者も指摘しているように、ペストの時代と現在の経済状況は違う。現代のデジタル技術と自動化への急速な移行は、時間給の非正規労働者を今以上に追い払う可能性がある。YouTubeのような企業はすでに「一時的に」、機械学習の自動化されたシステムでコンテンツを審査している。そして、アメリカ人は政府から景気刺激策の恩恵を受けることになるが、それは、さらなる介入が必要になるまでの数カ月間、経済を救うだけかもしれない。

かつて1560万人を雇用していたアメリカのレストラン業界は、パンデミックから抜け出せないかもしれない。全米レストラン協会によると、この業界は多くの時間給の労働者が雇用されている。

すでに約3万軒のレストランが閉店しており、4月にはさらに11万軒が閉店する見込みだ。3月21日までの一週間で、過去最高となる330万人の失業保険申請があったが、ここには多くのレストランの労働者が含まれる可能性がある。この数字は、多くの都市のレストランが、宅配・持ち帰り以外のサービスを停止した後の初めての報告だった。
参照元:14世紀のペスト大流行の後は経済が急拡大した…しかし今回はそうではなさそう
Juliana Kaplan BUSINESS INSIDER Apr. 10, 2020, 10:30 AM BUSINESS

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