自己啓発と射手座へのダブルトランジット

最近、反哲学について調べる過程で、サルトルの実存主義が、自己啓発セミナーの理論的背景としてあることを再発見した。

サルトルの哲学はフッサールの現象学の研究からスタートしているが、フッサールの現象学は認知心理学に近い。

「嘔吐」というサルトルの小説は認知心理学でいうゲシュタルトについて考察している作品である。


過去に経験した自己啓発セミナーに限らず、他の人の体験談などを聞いても、やはり事実には意味はなく不条理であり、全ては解釈に過ぎないという立場では共通していたりする。

このサルトルの実存主義は唯物的実存主義と呼ばれる。

この実存主義的な立場の正反対が信仰者である。

信仰者は全てが神の経綸であると考え、どのような出来事にも神の意志を読み取ろうとする。

例えば、朝、起きて雲ひとつない空に太陽が燦々と輝いていたら、神は今日、自分を祝福していると考えるのである。

あるいは、書斎に蜘蛛が現れたら、それは何か神の警告(お気づけ)があると考えたりする。

あらゆるもの、全てに意味があると考える。

かなり以前だが、米国女優シャーリーマクレーンの『アウトオンアリム』などの中でも、物事の全てに意味があるという考え方が彼女が遭遇したスピリチャルな人々の口から語られていた。

今日、車のタイヤがパンクしたら、そこには意味があると考える。

このような考え方は信仰的な考え方であり、神を信じている人は通常そのように考える。

私たちは常に神の意志と共にあるというように考えて、自分の身の回りに起こること全てを神に関連付ける。

それではジョーティッシュを実践する人のように運命学を信じる人は、どのような立場となるのであろうか。

ジョーティッシュを実践する人は神についてはそれ程、考えないが、前兆学はよく信じている。

今日、靴の紐が切れたら、何か物事が中断する予兆であると考える。

その日に予定していた計画が、中断するのではないかと、その出来事から直観する。

こうしたことは、ジョーティッシュを実践する人の思考回路であり、物事の背後には形而上の深い原理があって、それらが現象界の出来事を決めていると考えている。

それら形而上の原理とは、輪廻転生とかカルマとか、まだ認識されてはいないが、もっと微細なレベルでの現実である。

そのような宇宙の仕組みについて理解する。

例えば、ヴィムショッタリダシャーがこれから吉祥なヨーガを形成し、トランジットも吉祥な配置に落ち着くような場合、これから人生が良くなると考える。

惑星の運行によって、出生時の月の配置から導き出されるダシャーシステムと、トランジットによって、私たちの人生はほぼ決定付けられていて、全てはなるようにしかならない。

全ては神のお仕組みの中にあって、決まっていて、なるようにしかならないのだから、じたばたしないで、お任せの境地で生きればいい。

全ては神がやってくれるのだから、心配しなくてもいいと、自分で考えたり、人にもアドバイスしたりする。

このように運命学を信じる人は、神について、理論的に理解している人である。

神を1つの法則として、理解しているのだ。

キリスト教を信仰する人のように神を何か人間と同じようなレベルで、畏敬の念を持ち、神の罰を恐れたりしているのではないが、神を理論的に法則として理解し、何か高次元の法則によって、現象界の物事一切が運営されていると考える。

然し、このような究めて精密な仕組み、法則が存在するのは、やはり、高次の知性を想定しなければならないので、やはり、最終的に神を想定せざるを得ない。

運命学をするような人は、元々理論的でそこに理屈や法則がないと、納得ができないサイエンティストなのであるが、法則を探求して、理論的に追及していくうちに、この精密な法則を創った神に至るのである。

従って、運命学の実践者、占い師は、最終的には信仰者となる。

神を信仰する牧師とか神父のような人とは全く別の入り口から入ってはいるが、最終的に神という言葉を使いもするし、神を認めもする。

然し、信仰的な人が素朴に信じてるのとは全く違った過程によってである。

然し、面白いことにキリスト教の神父とか神学者は占いを全く理解できないし、彼らは運命学を理解できない。

彼らは素朴に私たちには自由があり、全ては私たちの意志次第で、自由に生み出すことができると考えている。

従って、彼らは神を信仰しているが、神が創った法則については何も理解できない人々である。

物事はほとんど全てが決まっているのだという、運命学の研究によって明らかになる真理=法則が理解できない。

従って、彼らは神を素朴に信じてはいるが、真理については理解できない人々である。

むしろ、彼らは神によって、私たちは自由意志を与えられており、何でも自分の意志で決めることが出来ると考えている。

そして、彼らは自分たちで決めた事柄が、神の御心に適っているだろうかと考える。

彼らは神の意志と自分の意志が一致しないことも可能なのだと思っている。

このような人が実は、自己啓発セミナーを熱心に受講するような人に多いのである。

そして、こうした人は木星や射手座が強い人に多いのである。(射手座が10室となる魚座を加えてもいいかもしれない)

自己啓発セミナーとは欧米から入ってきたものだが、欧米では自己啓発の教えが、キリスト教と結びついて普及しているようである。

キリスト教会が信者の確保と、生き残りをかけて、成功法則のようなものと、教会の教えをミックスしたものを信者に布教しているようである。

そして、こうした人が、サルトルの唯物的実存主義を背景としたプログラムを受けて、世界を積極的に解釈し直して、自分で自分の人生を創造しようとする。

神を否定するサルトルの実存主義が背景となっている自己啓発セミナーの教えが、キリスト教と結びついているというのは非常に興味深いことである。

何故かと考えると、キリスト教を素朴に信じる人々(木星や魚座や射手座が強い人々)は、何でも自由意志で自分の未来を切り開いていこうとする積極的で外交的な人々である。

自分が福音を伝えていくことが神の栄光につながるのである。従って、彼らは運命学などは無視するし、あまり関心がないのである。

それよりも、如何にして、人生を切り開いていくかということに関心がある。

そして、そういう人々にとっては、サルトルの人間の無限の自由を主張する実存主義哲学は、非常に魅力的に思えたのだと思われる。

従って、皮肉なことに唯物的実存主義が、自己啓発セミナーと結びついて、キリスト教の中に普及したのである。

コースインミラクルズという教程があるが、こうしたものも、実存主義哲学のように、一切は解釈であるという考え方と、神の信仰が結びついた教えであり、自己啓発セミナーとキリスト教が合体して出来たもののように見える。

JACIM - For Japanese Students of...
『奇跡講座』とは? - JACIM 『奇跡講座』(ア・コース・イン・ミラクルズ)のPreface の翻訳

然し、運命学を実践して深く理解した人は、自分が自由に決めたと思っていたことが、運命学で既に予見され、決まっていたのだということを知る。またこれから自分が選択することも、運命学によってある程度、決定していると考える。

自由意志などは限定されていると考える。だから運命学を信じる人は、法則に畏敬の念を持ち、法則に驚愕し、また運命に対して謙虚である。

従って、こういうことが言えると思う。

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信仰者=木星は、神を信仰しているが、神が創った法則についての理解には限界がある。

運命学の実践者(サイエンティスト)は、唯物的で無神論的であるが、法則についてはよく理解する。
そして法則が精密で驚嘆すべきものであるため、それを神が創ったという考え方も理解する。
然し、信仰者のように神を素朴に人間の延長上の存在として理解している訳ではない。

面白いことにブッダは形而上の議論を慎重に避けたそうである。

そして晩年には未来を正確に予言できる占い師を自分の後釜にすえようとしていたようである。

手塚治の『ブッダ』に描かれている。

ブッダ=水星は、形而上の議論を避けて、神についてはあえて語らない人々である。
法則についてだけ考え、存在が分からない神についての議論は避ける。

然し、カルマの法則や輪廻転生などによって、人間の運命はある程度、決まっているという事実は、
サイエンティストとして受け入れている。

水星は、私たちには知ることが出来ない形而上の議論を避けるのだが、
唯物論であっても、有神論であってもたいした違いはないのである。
分からないことについて議論しているだけである。

もし神を体感するなら有神論者になるし、神を体感しないなら唯物論者となるが、
それらの違いを生み出すのはあいまいな主観的経験や直観だけである。

分かっているのは、現象の世界に現れる法則だけである。

それらの法則を分析し、探求するのが水星である。
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信仰者が木星だとすれば、ジョーティッシュのような理論的な運命学の実践者は水星で表される。

西洋占星術を実践する人の中には、運命は自由に変えられると考えている人もいたりする。

そういう人にとっては惑星はその時々に私たちに影響を与える単なる道具に過ぎない。

私たちはその道具を使うことも出来るし、使わないことも出来ると考えている。

だから、”トランジットの惑星を使う”といった表現を使う。

私たちの人生を変えるために、トランジットの惑星を利用するということなのである。

こうした考え方は、占星術を木星の力で行なっている人に多いのではないかと思われる。

彼らのアドバイスはあたかも私たちは、彼のアドバイスに従えば、自分の自由意志で問題が解決できるかのようである。

話が脱線してしまったが、サルトルは、前兆学とか、運命学とか、形而上の法則を予感させる事柄についての経験や直感力が全くなかったのである。

そして、フッサールの現象学、あるいは、ゲシュタルト心理学の成果を使って、世界は不条理であり、意味はなく、全ては解釈にすぎないという理論を生み出した。

人間においては実存が本質に先立つという理論を提示して、神には退場してもらったのである。

この理論が、自由を求める多くの人に都合のよい理論であった為にサルトルは自由の戦士として、多くの大衆に受け入れられたようである。

何が言いたいかというと、このようなことをいろいろ考えたり、考察して、記事にも書いているのは、何故かと考えると、それは今現在、射手座に木星と土星がダブルトランジットしているからである。

射手座の象意が顕現しているのである。

だから、私はサルトルの実存主義のちょっとした本を読み、そして、自己啓発セミナーの理論的な背景との関連について考えた。

これは私の射手座9室に木星と土星がダブルトランジットして、法則のハウスである9室が顕現しているからである。

だから、私は自由の哲学というものに今、触れているのである。

この自由の哲学は、宗教学、形而上学、哲学(現象学、実存主義)、そして認知心理学(ゲシュタルト心理学)、精神分析などによって構成されている。

おそらくこの自由の哲学の構成要素は、射手座(木星)と双子座(水星)の軸がもたらしたものである。

 


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