相互扶助と、競争の原理について

お金というのは文明が発展するのに欠かせないもので、銀行が保有する金に対して、その何倍もの紙幣を発行する(信用創造)ことによって、文明社会にお金をふんだんに供給し、産業革命後、世界経済を拡大発展させるのになくてはならない道具として機能したと思われる。 

このお金の仕組み自体は文明を円滑に発展させ維持するための非常に便利な発明品であると思われるが、お金は人間の活動における道具になるべきであって、お金が金利を生んだり、お金自体を蓄積収集しようとすると問題が生じてくる。 

そうすると、人間生活のあらゆる面がお金儲けの観点から見られるようになり、全てが最大利潤という観点から考えられるようになる。 

友人によれば沖縄には”模合”という相互扶助の仕組みがあるそうである。それは何人かで模合のグループをつくって毎月、いくらかずつ模合に対して、お金を収めるのである。 

そして例えばお葬式代が必要になったり、子供が進学する際に学費が必要になったり、緊急の必要の際に必要な金額を模合からもらって使うのである。

全ての模合のメンバーが同じ時にお金を必要とするわけではなく、必要とする時期が異なるため、必要が生じた際に順番に資金の拠出を受けるのである。 

これこそ相互扶助の仕組みである。 

先日、ラオ先生の占星術学校に訪問した際に、授業と授業の休み時間に 
喫茶店で私達に飲み物をおごってくれたのだが、それはラオ先生が生徒にかわるがわる交代で、授業に出席した全員分の飲み物代を出させているのだそうである。 

この遣り方は非常に相互扶助の精神に富んでいてある意味、遣り方は違うが、模合に似ていると思ったのである。一人一人が自分の分だけを出すのではなく、全員の分を出すのである。そして、それを交代で行ない、皆の分を出して、ある種、和合というか、相互扶助の精神というか、メンバー皆が一体であるという感覚を養うのである。 

交代で出す際にはある時は全員の生徒の数が多いかもしれないし、ある時は全員の生徒の数が少ないかもしれないが、あまりそうした損得を計算しないのである。とにかく交代で、その当番の人が全員の分を出すのである。(つまり、拠出額に違いが生じてしまうことこそ、合理的な計算マインドを落とすために必要なことである) 

それぞれが自分の分だけ出して、自分だけの面倒を見るのではなく人の面倒を見るのである。これがある種、相互扶助の共同体のあり方であり、相互扶助の精神を養うよい訓練、機会である。 

沖縄の模合の例で言えば、わざわざ、仲間を作るために行なう”親睦模合”というのもあるそうである。それは模合の仕組み自体が仲間との間に一体感や絆を生むよい機会だからこそ、そうした”親睦模合”なる 
ものが生まれたのだと思われる。 

このような模合の中に見られるのは相互扶助の仕組みであり、もし本当の意味での共産主義というものがあるならば、このような仕組みをさすのだろうと思われる。 

メンバーはがちがちの計算によって損得を追求しないで、拠出額に多少の違いは生じるとしても、ある程度のおおらかな意味での平等が維持されるのである。それはがちがちの細かい緻密な計算をする平等ではない。 

相互扶助というのはある程度の平等を維持した上で、絶え間ない損得計算をするマインドを落としてしまわなければならない。マインドが自分と他人を厳密に区別し絶え間なく、損得を計算する時、そこには、おおらかな相互扶助が存在できる隙間、空間がなくなってしまうのである。 

従って、クリシュナムルティも言っているが、マインドは絶えず、自分と他人を区別し、比較し、差別、評価して、計算するので、損得計算の絶え間ないマインドが働いている限り、愛(それは相互扶助とか、分かち合いと呼んでもよいかもしれないが)の存在する隙間、空間はなくなるのである。 

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近代合理主義精神というのは、私有財産制度などと共に始まったのであるが、個人が自分と他人の区別をつけて、富を蓄積する権利が憲法や法律で認められたのである。 

マックスウェーバー著の「プロテスタンティズムと資本主義の精神」によれば、キリスト教改革派のプロテスタントこそが、商売をして富を蓄積することを奨励する原動力となったということであるが、このプロテスタントは利益計算をして、損得を追求し、冨を蓄積する最大利潤を追求する合理精神の表れだそうである。 

副島隆彦氏によれば、理性とか、合理的とか言う言葉は、我々日本人が理解しているような、ゆるい意味ではなく、本当の意味は、最大限の利潤を追求する精神、金銭崇拝の精神を表しているのだという。 

近代合理主義精神の産物である、市場経済、法律、株式会社とか、この文明を維持している多くの制度、形式が、この合理マインドから生成されているがゆえに、現在の社会は商業至上主義(最大限の利益を追求する)で埋め尽くされている。 

それは自分と他者を厳密に区別し、個人の最大限の利益追求と冨の蓄積を認めた私有財産制度によって発展してきた態度である。その究極が、商業至上主義であり、人がのたれ死のうが、リストラし、賃金をカットして、ぎりぎりまで利潤を追求する企業の態度であり、またIMFや世界銀行が発展途上国の医療費や教育費を削減して、借金を返済させようとする態度であったりする。

現在の市場経済の中では、損得計算のマインドが激しく活発に働いていて、人間の必要よりも利潤追求の方が優先されていくのである。 

そうした世界を生み出している商業至上主義の起源とは、実は、このお金を発明し、金融業を発明して、世界に金融ネットワークを形成した、マインドの力と非常に近しい関係にある。 

”ルシファー”を崇拝している人々は理性、合理精神こそが、全ての神秘主義を打破し、この世界のあらゆる問題を解決できると信じている。 

イルミナティという秘密結社はルシファーを崇拝しており、イルミナティに所属する人々は、市場が万能だと思い込んでいる。 

然し、理性は絶えず、比較し、区別し、損得を計算し、そこには多少の損を許容できるだけの空間が全くない。最大限の利潤を追求するのが、理性であり、些細な損失も許さない。 

例えば、金持ちほど、ケチであるというエピソードはよくあることである。船舶王のオナシスは、ボーイにチップを渡したくないがためにコートを着ないで出かけたという。コートを着て出かけると、部屋に入る時にボーイにコートを渡してチップを渡さなければならないからである。 

この金銭崇拝、利益計算、損得計算のマインドが働いている限り、せいぜいできたとしても、自分の評価を高めるために行なうフィランソロピーぐらいのものである。 

損得計算のマインドは、人間のもっと高貴な性質、霊性、相互扶助の表現など、人間のいのちに仕えて、働くふさわしい場所があり、それは外的文明社会の維持管理である。それらを人間の生活や人間のいのちの表現の上に君臨させてはならないのである。 

あくまでもマインドは道具であり、マインドが生み出したお金も道具である。それが目的になってしまうとおかしくなる。 


沖縄に”模合”という仕組みがあることを知ってから、私は株式市場や外国為替市場、先物市場なども”模合”と同じ仕組みかどうかを考察してみたが、どうやら、全く似て非なるものである。 

確かに市場に参加することは流動性を生み出し、流動性に一票を投じるかもしれない。参加することによって売り買いが円滑に行なわれる保証を高めるのである。然し、流動性とは相互扶助では全くなく、お互いに競争するもの同士が偶然作り出しているに過ぎない。 

然し市場は私は痛感するが、含み損を抱えた人の損切り値幅が、含み益を抱えた人の利益確定になるという仕組みになっている。 

市場とは万人の万人に対する闘争であり、負ける人がいるから勝つ人がいる、損する人の損失額が得した人の得した金額になるという闘争場である。 

そして、そこでは圧倒的に資本を持っている人が相場を動かすので、強い人が常に勝つ闘争場である。 

強い人、知識のある人が常に勝つのが市場であり、それは模合のような相互扶助の仕組みとは異なっている。 

現在の市場経済は競争というものが根本原理である。市場は全く無慈悲で、最大限の利潤を追求し、自然環境や人間から、労働力や資源(いのち)を搾り取る。全く盲目的で、貪欲で、破壊的である。 

従って、最大限の利潤を追求する合理マインドに任せていたら、地球環境を破壊したり、原子力で汚染したり、人間生活の質が犠牲にされるのである。 

あらゆる制度、機構の背後には相互扶助の精神とか、分かち合いの精神とか、互いに協力し合う動機が必要である。 

現在社会のように過剰に競争して、自分だけの最大限の利益を求める、合理マインドにこの社会の制度、機構というものをコントロールさせると、それは我々の地球を破壊し、人間のつながりを破壊するのである。 

ラオ先生がアメリカに行かないことを宣言したのは、その辺りに理由があるのである。何でも金銭に換算し、金銭を介した交換条件となる精神文化のない米国に嫌気がさしたのである。ラオ先生が著書の中で、ある米国人に無料で鑑定をしてあげたのにその米国人に米国の有名人の出生データを収集するようにお願いしたところ、その米国人がラオ先生に見返りに代金を請求したことについて、ぼろくそに非難しているのもそれがためである。 

アメリカ、つまり、国際金融勢力が管理しているアメリカは物質主義にもっとも冒されてしまった国家である。皆、子供の頃から、投資とか、資産運用の仕方を教えられるのであるが、それが賢い人間をつくると考えられている。 

然し、実際に見てみればあのアメリカの冷たい社会や精神文化の荒廃ぶり、貧富の差が拡大していく有様を見てみれば、お金に操られ、お金のマインドに振り回されて、あらゆる価値がお金に換算される商業至上主義(コマーシャリゼーション)の顛末は伺いしれるのである。 

社会は少しも明るくならない、人々は将来に不安を持ち、暗い顔つきで、互いに心を閉ざしているのである。 

こないだ親戚がニューヨークに旅行に行ったらしいが、人々の顔は暗く、雰囲気が悪いので、二度と行きたくないと思ったらしいのである。 

そして、その商業至上主義のマインドが最近、日本人の中にも急速に拡大している。金融ビッグバン、規制緩和という名目で、アメリカを中心として世界に広められている商業至上主義が日本にも導入され、貧富の差が日本においても拡大してしまった。これは小泉改革が原因と言われている。 

日本人皆が、FXとか株とか投資に夢中になり、投資の本がよく売れている。皆、競争することを教えられている。それが頭のいい生き方だと教えられている。 

株式市場とは90%の人が損をして10%の人がその皆の損から利益を上げているという厳然とした事実があるにも関わらず、その10%の勝者になろうとして、皆、競争に明け暮れる。大抵の人はその競争に負けてしまうのにである。 

だから10%の勝者になろうとすることは残り90%の人々の不利益のことは関心がなく、そうした他者のことに関心を持たずに自分の利益だけ、自分の生活の安定だけに集中していく態度である。 

これは霊的修行とは全くマッチしないようである。 
霊性を高めようとしたら、意識を拡大して他者の必要に気づいて、他者に奉仕していかなければならないにも関わらず、自分の利益、自分の自我に集中していくのである。 

これは精神エネルギーの無駄遣いであり、自我への集中を解き、全てのものとの一体感を持とうとする姿勢とは矛盾するのである。 

従って、どうやら私自身の頭がこの合理マインドに冒されているようなのである。最近、先物取引とか資産運用のことに心的資源、マインドのエネルギーを消費して本来もっと有益なことに使うべき、心的資源を奪われてしまっているのである。 

これは非常にエネルギーの無駄遣いだと最近、思い始めている。 


我々の社会はお金を忘れてしまえる社会にならなければならないのである。つまり、お金は全く人間生活の主役ではなく、脇役であり、道具にならなければならないのであり、人間がお金に使われてはならないのである。 

然し、私たち個人が日々、物の売り買いをする時に交換する金銭と品物の交換などは害は少ないかもしれないが、商業至上主義のような利潤を最大限に上げるマインドが、大規模かつ、構造的に世界に君臨した場合に、人々は全く、いのちの表現を奪われるのである。 

然し、何故、私たちは本来、物やサービスを物々交換すべきところを、 
このお金という媒介物、プロセスに頼らなければならないのか? 

私たち文明社会に住む人間は、お金というこの便利な媒介物がなければ何も出来なくなってしまったのである。お金というものは便利であるからこそ、そこに依存が生じるのである。 

何かお金がなければ私たちは生きていけないと錯覚している。 
然し、私たちは別にお金がなくても、一次産業に従事して農作物を育てたり、漁業などをして生きていけるのである。お金に頼らないで完全に自給自足の自立した生活をすることも出来るのである。 

日々の生活圏で物々交換のために利用されるお金と、銀行が信用創造によって生み出すお金は、同じお金でありながら、全く別物である。 

それは何故かというと、都会と地方では同じ日本であっても物価が違うのであるが、本来同じ価値であるはずのお金がその生活圏内の閉じられた系の中だけの価値というものが生じるのである。それはその生活圏での日々の物々交換に素朴に利用されているからである。 

一方で、信用創造によって中央集権的に生み出されるお金は全く別物である。 

信用創造によって生み出されるお金は全く手品のようにして作られている。 
http://www.anti-rothschild.net/ 

私たちはこの便利なお金を使い、お金に依存することによって、この文明のお金を管理している人々に支配されたり、操作されてしまうのである。 

アリスベイリーの本を読んでいたら、覚者方は、人間がお金そのものを欲望しなくなり、お金を単なる道具として用いることが出来るまで、お金という仕組みを世界から一度、排除する過程を検討していると書いてあった。(そのページを示すことができないが確かにそのように書いてあったと思われる) 

それはどのような過程かは分からないが、そんなことが可能なのかとも思われるが、水瓶座時代というのは、おそらく、お金に使われるのではなく、お金を使う社会なのだろうと思われる。 

言語とか、お金とか、我々の文明社会を存立させている道具は、私たちがリアリティーを直接体験するのを妨げる媒介物である。そうした媒介物に頼る必要がなくなったときに初めて、リアリティーを直接体験でき、そうした媒介物に操作されたり、フィルターされずにもっと活き活きとした真の体験が出来るのである。 

言語にしても、もしテレパシーが使えるなら、各文化の枠組みを越えられない言語の壁を越えることができ、またお金に媒介されなければもっと、物々交換の体験は活き活きと人間的で、精神的なものになる。 

媒介物というのはフィルターであり、それを通過した時にリアリティーが歪曲されたり、操作されてしまうのである。 
世界規模の資源の分かち合いが実現した社会では、日々の生活レベルでは、情報化された電子マネーを利用して、お金を意識することはなくなるかもしれない。そして、お金というものは段々重要なものではなくなってくるのだと思われる。分かち合うような社会では、活き活きと人間的な接触が行なわれ、愛他性が浸透し、そこではお金という媒介物が全く馬鹿馬鹿しいつまらないものに思えてくるだろうと思われる。 

本当の人間関係、本当の相互信頼などを体験するので、お金を媒介とした性悪説的な慇懃な媒介物、真の関係を妨げるフィルターなどに誰も関心を持たなくなるのである。 

そして、無限のエネルギーが供給される社会においてはお金そのものが意味をもたなくなるのである


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