最近のトランジットから-教師と生徒の関係論-

2010年1月13日から土星が逆行して、
水瓶座と獅子座の軸にダブルトランジットが生じているが、
その13日より鑑定依頼の問合せが急に増えだしたのである。

それは土星が逆行を開始した13日と一致しており、まさに
土星の逆行がもたらしたといえる。

土星が逆行して、水瓶座-獅子座の5-11の軸にダブルトランジットが形成された途端にそのような機会が増えて来ているが、

私の7室支配の金星が5室に在住しており、その金星にダブルトランジットが形成されたので、クライアント(7室)に鑑定(5室)を行なう機会が突然、増えたのである。

それは、私の体験として、最近、だいぶご無沙汰だった鑑定依頼が、1月13日の夜から突然、複数来て、その次の日や翌日も、複数来ていることから、強く実感できたことである。

ダシャーは金星/金星/水星/土星期で、特にこれと言って、鑑定依頼を受けるような配置をしている訳ではないため、やはり、土星の逆行が働いたと思われるのである。

明らかに土星の逆行というものはその日から突然、働いていたのである。

ここで重要なことは、土星が順行している場合は、土星はハウスへの入室の1月半ぐらい前から既に入室の効果を発揮するのであるが、土星が逆行する場合は、まさにその逆行を開始したその日から、逆行の効果を発揮し始めると分かったことである。

因みに民主党の小沢一郎が検察の攻勢により、窮地に陥ったのはちょうど、1月13日の夕方のことであり、それは土星がその日に逆行を開始したからだと理解できる。

それで以前、小沢一郎のダシャーを検討していて、ラーフ期から木星期への変化の時期などから乙女座ラグナか、あるいは獅子座ラグナのどちらかではないかというところまでは絞り込むことが出来たと思っていたのである。

すると、今回、1月13日に土星が逆行したその日に検察の攻勢があって、小沢一郎が窮地に陥ったことを考えると、やはり乙女座ラグナでよかったのだと思われるのである。

乙女座ラグナで6-12室の軸にダブルトランジットが形成したと考えられるからである。

私の場合、5室は学習、娯楽、趣味、創作のハウスで、クライアントと共に、チャートの特徴やダシャーの推移などを検証して考察していくのが、その5室で行なっている活動である。

それは創造的な過程であり、私にとっては娯楽や趣味とも言える活動である。

5室は生徒、弟子を表わすため、セミナーの主宰などはこの5室が表わしていると思われるが、

私も最近、何度かセミナーを主宰した経験もあるので、教師と生徒の関係における一般論についてジョーティッシュの観点を交えて考えてみたいのである。

教師は、生徒(5室)と相対して、教えて、反応をもらうことで、またそれが刺激になり、生徒と教師の間には、創造的な学びや発見が行なわれるのである。

生徒がよい質問をすると、教師も自分でさえも知らなかったことを自分の中から引き出されたり、あるいは、優秀な生徒から逆に教師が教えられることも多いのである。

5室と9室は入れ替え可能なのであって、それぞれがお互いの本質なのである。

従って、生徒(弟子)は教師を超えていくものであり、教師はそれを喜びとするのが本来の生徒-教師の関係であり、師弟関係である。

然し、昔の板前の世界のように部下が上司の仕事のやり方や技術を盗んで、やがて技術を身に付けて独立していくという封建的な支配-服従の関係というものも昔から存在している。

これは職業的な上司と部下とか、経営者と労働者というような枠組みの中でよく存在する関係性である。

その場合、上司は部下に自分の技を教えてしまうと、自分を超えてしまうから教えないというようなことが行なわれる。

部下たちはいつか教えてくれるものと思って、上司に服従してついていくのであるが、上司は部下を自分に仕えさせ、支配するためにいつまでたっても、その技術なり、知識なりを教えないということが行なわれる。

このような関係は6-8の支配と服従の関係である。

そこでは上司や経営者は、部下を育てるというよりも、支配し、仕事をさせるという観点から、接しているため、部下や労働者が強くなって独立していかないようになるべく使い潰すという観点となる。

やがて独立し自分と同じように自由に創造性を発揮できる人材として羽ばたけるように育てるということはしないのである。

これが6-8の関係である。

5-9の関係と、6-8の関係の違いを見極めるべきである。

例えば、生徒(弟子)が教師とほぼ同じかそれを超えるくらいの実力にまで到達した時、そして、生徒が教師を超えて新しい発見や知識を身に付けた時に、教師は生徒に謙虚に教えを請うことができるのが、5-9の関係であり、生徒もそれを教師に喜んで教えるというのが5-9の関係である。

生徒(5室)と教師はお互いがお互いと関わることが、幸福で、楽しくてたまらないのである。

然し、あらゆる教師と生徒の関係が、このような理想的な関係なのではなく、5-9の関係と6-8の関係が微妙に入り混じっているのが本来であり、時と場面によって、この両者が頭をもたげるのである。

例えば、日頃は生徒によく教えていたと思われる大学教授が、大学院生の優れた論文を目の前にして、それに嫉妬や羨望を感じ、自分の業績として発表してしまったりということがよくあるようである。

これは生徒の方が実力が上で、教師の方が実力がなかったために、6-8の関係の誘惑を招いたのである。

圧倒的に教師の方が実力が上で、一方的に生徒に教えるような立場の違いがある時には5-9の関係は生じにくく、6-8の関係となりやすいのである。生徒は教師の知識や教えに従うのみとなり、教師に提供するものを持たない。

あるいは教師の方が実力がなく、生徒の方に教師以上の実力がある場合は、上述したように教師の側が生徒の業績を奪うような卑劣な誘惑が生じうるのである。

このように実力にあまりにも差がある場合は、一方が一方に頼ったり、依存する傾向が出てきて、6-8の関係への誘惑や、必然的にそうなる傾向が生じるのである。

生徒と教師が5-9の関係になるには、生徒と教師の実力が伯仲しており、どちらがどちらの教師にもなれるような間柄であり、またお互いに提供し合って、刺激しあうような関係が見られるのである。

そのような場合に生徒と教師の間にお互いに対する尊敬が見られ、教師は生徒に自分の達成したものをよく提供し、また生徒は教師によい質問をしたり、アイデアを提供したりして、教師もまた生徒から学ぶのである。

生徒と教師の間に5-9の尊敬があり理想的な関係性を築いてきた間柄であれば、生徒が教師の実力や認識に迫まり、最後の最後の段階になって、生徒が教師を超えていくような過程も、すんなりと幸福のうちに通過すると思われる。

しかし、もし生徒と教師の間に実力の違いや尊敬がなく、6-8の関係が優勢であるときには、教師は、生徒に対して、簡単には自分の発見を教えたくないという気持ちも生じるかもしれない。

その場合、生徒は教師から盗みとったり、奪い取ったりするような形で、自分の実力で達成しようとするかもしれない。それが職人の世界で上司から仕事のやり方を盗めというような言われ方をしている関係性かもしれない。

つまり、6-8の関係で実力で生徒がのし上がってきて、まさに教師から実力で知識をもぎ取るかのようにして成り上がってきた生徒は、教師を超えていく最終段階で、両者が対等な互角の状態の中で、教師にも自我(エゴ)がもたげてきて、自分が体得したことを容易に教えたくないと思うかもしれない。また生徒も教師に頼らずに、自分の実力で発見しようとしたり、見出そうとするのかもしれない。

5-9の関係より6-8の関係が優勢だと、教師が自分の認識(秘伝)を生徒に教えるのにためらいが生じるかもしれず、教師が自分が体得したものを教えるに値する生徒なのかと、生徒を吟味するということもあるかもしれない。

そして、あまりにも教師と生徒の力量が違いすぎる場合は、5-9の関係になることができず、6-8の関係に必然的になってしまうというところもあると思われる。

生徒というのは常に教師から自分の認識を伝えるに値するのかどうかと吟味されている立場である。

おそらく教師にとって、自分の全知識を与えるに値する弟子を見つけるということはこの上もない喜びなのである。

つまり、5-9の関係に耐えられる素質のある生徒(弟子)で、やがては自分を超えて自分の業績を元にさらにそれに積み上げてくれそうなそうした生徒である。

そのような尊敬すべき生徒(弟子)を見つけた時、教師は息子を授かった父親のように大喜びするのである。

確か、スリ・ユクテスワが、弟子のパラマハンサ・ヨガナンダを街で見出した時、とか、ラーマクリシュナが、弟子スワミ・ヴィヴェーカナンダを見出した時などの記述から、自分の全てを伝えるに値する生徒(弟子)を発見した時の教師の喜びようが大変なものであるということが分かるのである。

それは弟子が自分の教師を見出した時の幸福と同じである。

上記はインドの聖者に関してのものだが、これはあらゆる分野(芸術、科学など様々な)における生徒と教師の出会いに当てはまる普遍の法則であると思われる。

それは恋愛(5室)に似ており、生徒(弟子)の中に潜在する優れた可能性を見出したのである。
















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