カントの「純粋理性批判」について

最近、「カント『純粋理性批判』入門」黒崎正男著を読み、カントの哲学の要点を理解することが出来た。

この本は「村上式シンプル仕事術―厳しい時代を生き抜く14の原理原則」村上憲郎著の中で、カント哲学を理解する為の良書として紹介していたので読んだのであるが、非常に読みやすくて分かりやすい本である。

カントの「純粋理性批判」は書店で読み開いても、何が書いてあるのか今まで全く理解できなかったが、この本は、青年時代にカント哲学で扱うような問いを自ら生み出しており、まさにカント哲学にのめりこむことが運命だったと思われる黒崎氏による本だからこそ、これだけ、分かりやすくカント哲学を解説できるのであると思われる。

村上憲郎氏が上記の著書の中で書いていたが、原書を読むということは必ずしも賢いことだとは言えないのである。

何かを学習する時にその一次資料(古典や原典)で学習しようとするのは、研究に関して高い水準を求める専門家にとっては必須かもしれないが、一次資料で研究を深めた専門家が書いた分かりやすい本を手早く読んで要点を掴んでしまうというのは、むしろ、効率的で賢い方法なのであるという意見には非常に同感できた。

カントについて勉強するのであればカントについての専門家に聞くのが一番、手っ取り早いのであり、人生をカントの理解に費やしているのだから、その人の話は参考になるというのは確かである。

カントの凄い所は、私たちが日頃、実在していると思っている時間と空間が、実際には、私たちの認識主観の形式であり、私たちの認識主観を離れた所では存在しないと主張している点である。

また私たちの理性が自然を観察する時にその中に原因と結果を見たり、物が単一であるか、複数存在するかなど、自動的に認識が生じるが、これは理性のカテゴリーであって、これらもまた私たちの認識主観の形式なのであると主張している。

カントによれば私たちが物を体験する時には感性と理性によって認識するが、その感性と理性によって認識された現象は”物自体”ではなく、私たちの認識主観に備わっている、時間と空間という形式や、因果律などの理性のカテゴリーによって、主観に現れ出てきた現象なのであり、私たちは”物自体”は認識できないということである。

私たちは認識できるのは、時間や空間という形式や因果律などの理性のカテゴリーを通して、主観が認識した現象だけであり、”物自体”は時間と空間の中にあるのではなく、また”物自体”においては、通常、認識している因果律などがどうなっているのかは分からないということである。

つまり、人間が何かを認識する時は、理性、感性というフィルターを通してしか認識できず、”物自体”がそのフィルターを通過する過程で、時間と空間や、因果関係などが与えられるのである。

だから”物自体”の世界では、時間的な時系列はなく、空間的広がりもなく、また因果関係などもどうなっているかは分からず、人間が直接認識することも出来ないし、想像することも出来ないというのである。

 

まず、私たちは時間と空間が実在していると思い込んでいる。

もし認識する私たちが存在しなくなっても、時間と空間というものがそこにあり、物はその中に存在すると思い込んでいる。

然し、カントはこの時間と空間が私たちが認識する時の形式であって、つまり、認識の仕方なのだというのである。

認識の仕方なのだということは、時間と空間という形式によらない物の認識の仕方が存在するということである。

そうすると、実は私たちの人生というものは、通常は時系列で展開されているが、人間の主観の形式である時間と空間に限定されない”物自体”の世界では、過去、現在、未来といった全ての経験内容が、全く同時的に存在しているのかもしれないのである。

ただ私たちの理性の形式が、時間と空間という形でしか、物を認識出来ないので、経験は時系列で生じているだけであり、この人間が用いている主観のフィルターを取り去ると、本当の実在の世界では過去、現在、未来は同時に存在しているかもしれないということである。

例えば○○さんには過去、現在、未来があって、今は『現在』にいると○○さん自身考えていても、物自体としては○○さんは過去と現在と未来が全て一体で同時的であるかもしれないのである。

私たちの認識主観が時間という形式を持っているので、『現在』しか認識できないのであるが、本当は過去、現在、未来が同時に存在しているあり方の方が本当かもしれないのである。

この物自体という概念から様々な考えが膨らんでくる。

カントの「対象が主観を決めるのではなく、主観が対象を決める」という発想の転換は、コペルニクス的転換として、哲学至上の最大の金字塔とされているらしいが、これは本当にそうだと思う。

これは例えば、花を見る場合にエーテル視力がある人は、花を取り囲むオーラなどが色鮮やかに見えるのであり、人間の認識の限界が対象を規定してしまう一例である。

私たちの感覚器官には限りがあるので、真の実在(物自体)の世界を見ることは出来ないのである。

上記の例で言えば、花の本当の姿は、輝くオーラーに取り囲まれた姿なのである。

人間の感覚器官に限りがあるので、その花の本当の姿(物自体)が私たちには見えないのである。

然し、更に高度な感性(感覚器官)があるとすれば、花は更に異なった姿を明らかにするかもしれないのである。

まず、私にとっては、時間と空間が認識主観の形式であるというカントの考えには非常に驚かされた。

私たちは、日々、何かを認識しているが、カントはその認識する対象について考えるのではなく、認識それ自体が、どのような構造になっていて認識とは一体、何であるかを考えたのである。

自分自身が時間と空間の中で物(現象)を当たり前のように認識している時に、その時間と空間が認識主観の形式であると考えるのは、自分が参加して経験している限定された活動領域を飛び越えて上から俯瞰して観察する能力が必要である。

つまり、カントの純粋理性批判とは、理性による理性の仕組みについての考察、あるいは問題提起なのである。

このような理性がその批判の対象を理性それ自身に向けるような場合、これを”超越論的”と呼ぶようである。

従って、カントの純粋理性批判は、超越論的認識論なのだという。

そして、こうした認知の認知といったものは、メタ認知と呼ぶようである。

wikipediaから以下に引用するが、メタ認知というのは、知性の極めて非凡なあり方である。

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メタ認知出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という。

 メタ認知能力(メタにんちのうりょく: Metacognitive Ability)

現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を言う。 自分の認知行動を正しく知る上で必要な心理的能力。

Knowing about knowing.(知っているということを知っている)、 Cognition about congnition.(認知していることを認知している)、

Understanding what I understand.(私は理解しているということを理解している)

現代において、メタ認知能力の育成は、教育、とくに学校教育において特定の教科教育を越えた重要な課題のひとつとなっている。
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私たちはこの世界で情報(知識)を収集すれば、物知りにはなるが、然し、知識をかき集めても、知性は得られないのである。

だから誰もが哲学者にはなれる訳ではないというのは、そんな所から言われることではないかと思われる。

特に哲学とは単に事実を蓄積することではなく、常に目の前にある事物に対して超越論的に思考することである。

 

古代ギリシアのプラトンは、「存在」について考えた最初の人である。

例えば、定番として椅子をテーマに挙げれば、目の前の事実である「この椅子」が、本当は、何であるかと、その本質を問うたのであり、個別具体的な様々な椅子があるとしたら、椅子の本質である椅子のイデアが存在し、そちらの方が価値が高い、真の実在であると考たのである。

つまり、具体物のそれぞれよりも、具体物から抽象化した「概念」(イデア)が実在しており、そちらの方が価値が高いと考えたのである。

具体的な個物のそれぞれは、このイデアが質料を得て、具体的なそれぞれの形を取ったのであり、このイデアの方が、個々の事物に先立って存在している本体であると考えた。

木田元氏の「反哲学入門」の中で述べられていたが、ハイデッカーによれば、この目の前の個別具体的な事実存在と、イデアとしての本質存在を区別した時に哲学が始まったのだという。

プラトンは、「存在」についてのメタ思考を行ったのであり、様々な物が存在しているが、そもそも、「存在」とはなんだろうかという問題提起をしたのである。

ここに一段階上位レベルの超越論的な抽象思考があり、この抽象化、メタ思考こそが、哲学者の知性なのである。

つまり、知性の最も高度な表れとは、形而上学であり、超越論的なメタ思考である。

秘教によれば、アトランティス時代においては感情・情緒体(アストラル体)を完成させるのが人類の目標で、この時代の人類を第四根本人種と呼び、現代の人類は、メンタル体を完成させることを目的とした第五根本人種であり、西洋人が主にそれに該当するという。従って、現代の西洋人のマインドの活動、知性の表現の中にこの第五根本人種の特徴が出ていると思われるが、

古代ギリシアのプラトンから始まり、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルに受け継がれてきたこの形而上学の流れは、まさに第五根本人種の知的営みの歴史であると考えられる。

第五根本人種を代表したこれらの天才たちが、人類が到達できる最高度の抽象思考、超越論的思考に辿り着いたのである。

プラトンの”イデア”→アリストテレスの”純粋形相”→キリスト教の”神”、デカルトの”理性”→カントの”物自体”→ヘーゲルの”精神”などは皆、同じものを指しており、形而上の世界についての抽象思考である。

哲学者の木田元氏によれば、プラトンの「存在」を質料と形相に分ける思考こそが、近代科学を生み出した思考方式なのだという。

こうした形而上学が土台となって、近代科学が生まれ、西洋近代社会が誕生するのであるが、東洋においては、形而上学も、近代科学も生まれなかったので、西洋近代社会からそれを輸入することになった。

再び、カントに戻るが、この時間と空間が認識主観の形式であるという考えは、飛びぬけたメタ認知である。

カントはエマヌエル・スヴェーデンボルグという当時の霊能者の超感覚的体験を参考に時間も空間もなく考えたことがそのまま現実となるような、そのような物自体の世界について考えたのだと思われる。

このカントの理性批判は、現象や認識について語っており、その後のフッサールの現象学やサルトルの実存主義哲学などにもつながって来る。

カントの「純粋理性批判」は理性の及ぶ範囲を厳密に検討することで、逆に人間理性の及ばない”物自体”の世界について想像を膨らませることにつながる点で、超感覚的な世界について洞察する霊的直観に優れた、神秘家のようにさえも思えてくる。

実際、カントの生年月日は、1724年4月22日であり、日数が22で、数秘術では、秘教的な直観や霊感と、現実的な能力の両方を表す数である。

 

カント哲学から学んだことをまとめると以下のようになる。

・時間と空間は認識主観の形式である

・因果律などは認識主観のカテゴリーである

・私たちは『物自体』を直接認識できず、私たちの認識主観によって、
時間や空間といった形式や因果律などのカテゴリーを与えられた『現象』のみ認識できる

だからシッディーを開発した人が、人の過去や未来の映像を一瞬、垣間見るのは、元々、物自体においては人間は過去と現在と未来が一体となった存在だからであり、そちらの方が本当の姿であり、その本当の姿を垣間見たということではないかと思われる。

もし物自体を直接、認識できるとしたら、私たちの過去と現在、未来が一瞬で見ることが出来るのである。

あるいは物自体は時間と空間という限定がないのであれば、思った瞬間、その必要な場所に移動できるのである。そもそも『移動』という概念自体が、人間の時間と空間という認識主観の形式がもたらしたものである。

ある場所からある場所へ瞬間移動できる聖者がいたとして、その人はものすごい高速で移動したのではないのである。それは人間の発想である。

そもそも人間の認識主観が空間という形式でしか物を認識することが出来ないから、瞬間移動というのも、人間の視点での考えであり、物自体としては『移動』しているという概念にはならないかもしれない。

ジョーティッシュで、ある人の月の度数から一生分のヴィムショッタリダシャーの時系列を作成してそれを時系列の表にすると、それで一生の流れについて同時的に見渡すことが出来る。

ジョーティッシュのダシャーシステムとは、本来、物自体としては同時的に存在している過去、現在、未来を、時系列によらず、一瞥で一望できる点では、物自体を直接認識することのアナロジー(類比)になっている。

本来、同時的に存在している過去、現在、未来をこの限定された人間理性(悟性)でも見る方法がジョーティッシュ、あるいは運命学一般なのだろうと思われる。

そして、もし過去、現在、未来が同時的に存在していて、そちらの方が真の実在なのであれば、私たちはやはり、意思次第で、自分の運命を変えることが出来るという発想につながって来る。

何故なら、『現在』の中に『過去、現在、未来』が同時に存在しているからである。

『現在』に決断したことが『過去、現在、未来』を創ると、考えると、現在がとても重要になってくる。

人間が物質界に転生してきた時に、時間と空間という形式や因果律などのカテゴリーに縛られるのであるが、輪廻とは過去を原因として現在があり、現在を原因として未来があるという時系列の牢獄の中に限定することなのかもしれないのである。

例えば、輪廻する前の魂の世界というのは、物自体の世界であって、そこでは『過去、現在、未来』は同時に存在していて、全て『現在』の中にあり、その『現在』の決断が、過去と未来も更新するようなそういうあり方だって考えられるのである。

物自体がどうなっているのかは全く分からず、人間が人間的な視点から形而上のことについて考えても全く意味がないが、真実は私たちが考えているのとは全く違っているのかもしれないということが、カントの哲学を学習すると、薄っすらと感じられてくる。

 
















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