有名人チャート検証

 

マリリン・モンロー
Marilyn Monroe
1926/6/1 9:30
Los Angeles,CA

マリリン・モンローと言えば20世紀の映画史に残るスーパースターである。
とりわけ演技が上手な訳でもなく、アカデミー賞を受賞するほどの大スターでもないのだが、多くの人に注目され、様々な逸話を生み出し、死してなお語り継がれているところを見ると、やはり、スーパースターと言わざるを得ない。

ざっと、一覧してみてもチャートは彼女の特徴を非常によく表している。
まずラグナが蟹座アーシュレーシャであり、妖艶な性的魅力を醸しだしている。
一言で言うのであれば魔性の女という言い方があっているかもしれない。

ラグナロードの月が7室に在住して、人生のテーマや活動場所が7室のパートナーであることが分かる。彼女はパートナーを次々に変えてゆき、『・・・マリリンはつねに愛を求め、男がそばにいなければどうにもならぬ女であった・・・』と資料にあるように男性との関係も派手であったことはこの配置から納得できる。

彼女が発明した『モンローウォーク』は当時の若い女性から随分真似されたようである。
これは明らかに10室牡羊座に在住する金星の象意である。

牡羊座は最初に物事を始めるのであり、発明家、起業人である。

『・・・ニューヨークの五番街やロサンジェルスのダウン・タウンを歩く若い女性たちは、ノーパンティで肌に密着したスカートをはき、無理に腰のスジを動かせて尻をふりふり歩いた・・・』

と資料にあるように世の中の女性たちは皆、マリリンモンローの発明したモンローウォークを模倣し、彼女に追随したのである。この常にまだ誰もしたことのないことを始める力、無から有を生じさせる発明家が牡羊座の象意である。

モンローウォークばかりでなく、地下鉄からの風で、スカートがめくれるシーン、あるいは、女優になる前にモデルをやっていた頃に、当時の社会のモラルの中では考えられなかったヌードモデルを彼女が他の誰よりも最初に始めたのは牡羊座10室金星の象意である。そして、彼女の写真やプロマイドが至る所に溢れ、死してなお、写真が20世紀のノスタルジーを感じさせる文化的シンボルとして活用されているのもそうである。10室は”多くの人の注目を浴びる大舞台”というのがその根本的な象意である。10室は有名になり、あらゆる人に知られるのである。

資料によればマリリンモンローは当時の大統領ジョン・F・ケネディよりもマスコミに書きたれられた回数が多いようである。それだけ有名になったのはやはり、10室金星の象意であると言える。

確かに金星はナヴァムシャでも10室支配で5室自室に在住して強い。そして、色々細かいところを見ていくと、彼女の金星はシャシティアームシャ(60分割図)で高揚しており、この辺りも見逃せない。60分割図で金星、太陽、月が高揚していることも彼女の実力や底力を感じさせるのである。

 

マリリン・モンローは生まれた時、火星/木星期であり、火星も木星も機能的吉星であるが8室に在住している。生まれたときには既に父親がいなかったようであり、資料には次のように書かれている。

『・・・・グラディスは無声時代のスター、ノーマ・タルマッジやグロリア・スワンソンに似た、かなりの美人だったそうで、C・スタンリー・ギフォードも”ちょいとつき合って、抱いてみた”だけで、すぐに捨ててしまった。ノーマ・ジーンのノーマも、タルマッジにあやかっているとか。  父親について、グラディスはマリリンが生まれる前、モーターサイクルの事故で死んだと教えていたが、マリリンは大きくなるにしたがって疑惑をもち、のちスターになってから居所をつきとめて電話をかけた。すると再婚したその妻が電話に出て、「言いたいことがあるなら弁護士に頼みなさいよ」と答えた。  これがよほど骨身にこたえたとみえて、ギフォードがマリリンの死の前年、ロサンジェルスを訪れてマリリンに電話をかけたとき、マリリンは同じセリフを実の父に吐いて、会おうとはしなかった。・・・・』

※グラディス・・・・マリリン・モンローの母親の名前
※C・スタンリー・ギフォード・・・・マリリン・モンローの実の父親

父親を表す9室の支配星(木星)や10室の支配星(火星)が苦悩の8室に在住しており、幼少時彼女には既に父親がいなかったという境遇、すなわち父親の保護に恵まれていなかったことはこの8室在住の木星と火星が物語っている。8室は父親(9室)を損失するハウスである。

 

1933年頃(7歳)、ラーフ/ラーフにシフトするが、ラーフはラグナから12室、月から6室に在住している。ラーフ期の始めの頃は、里親を転々としたようである。

1934年頃(8歳)は、経歴によると『預けられていた先で性的虐待を受けた』と記されている。
この時、トランジットの土星が出生の月をトランジットしており、 サディサティの最も厳しい時期である。

7室は性的関係のハウスでもあり、7室に在住する月に対して土星がトランジットすることで性的な何か抑うつ的な悲惨な体験があったことを物語っている。この時期、7室にラーフもトランジットしており、月に対して、土星とラーフがコンジャンクトしている。このコンビネーションはかなり抑うつ的な困難な組み合わせである。

1935年(9歳)には、彼女を預かっていた母の友人、グレイスが結婚することになったため、マリリンは孤児院「ロサンゼルス孤児ホーム協会」に移されたと記されているが、木星は9室の支配星であるが、8室に在住していることより、突然、保護を失うという象意ではないかと考えられる。
あるいは「ロサンゼルス孤児ホーム協会」が9室の象意で、孤児院で保護を受けることになったが、そこは自由が利かない(8室)だったのかもしれない。突然環境が変わったりする変化を8室は表していると考えられる。

然し、1937年(11歳)のラーフ/土星期になると、彼女は母の友人グレイスの伯母、アナ・ロウアーと暮し始めたと記されている。アナロウアーはマリリンモンローに初めて人間的な愛情を注いだ人であるそうである。

土星はラグナから見ても月から見ても、パンチャマハープルシャ・シャシャヨーガを形成して強力であり、マハダシャーラーフから見て、9室支配で5室で高揚している。従って、この土星期は彼女にとって幸福であることが分かる。この土星期に出会った人は天秤座のように調和的で人を支配せず、民主的で自由を尊重する人物であることが想像できる。アナロウアーが非常に人間性豊かで束縛しない愛を与える人物であったことが想像できる。

1939年(13歳)の経歴を見ると、

『中学生になって、マリリンは、自分が男の子達の熱狂的な関心の的となっているのを知る。この頃のマリリンの夢は、ハリウッドで活躍するメイクアップアーティスト』

と記されている。この時期はラーフ/水星期であるが、この時期は上記の一文だけでも楽しい時期であったことが伝わってくる。

水星はラグナから見て3室支配で11室に在住し、5室にアスペクトしている。また月から9室支配で5室に在住し太陽からも5室支配で1室に在住している。ナヴァムシャでもラグナから10室に在住して強く、月から9室支配で5室に在住し、太陽からも1、4室の支配星であり、友好星座在住で、友好惑星とコンジャンクトして、十分に機能的吉星化していると言える。

後に彼女の恩師、リー・ストラスバーグの主催するアクターズスタジオで演技指導を受けた時も木星/水星期であり、水星期は非常に幸福な様子が伝わってくるのである。

1942年6月19日(16歳)、近所に住む20歳の青年、ジム・ドハティと結婚したが、この時、ラーフ/ケートゥ期である。ケートゥはラーフから見て7室目に在住している。そして、11室の土星と12室の木星がラーフから7室目のケートゥに対してダブルトランジットしている。1942年1月と2月頃は土星と木星がラグナから7室に少しの間トランジットしていたようである。

この時の結婚は、後見人である母の友人グレイスが引越しするに辺り、次の後見人がいないため、マリリンを結婚させたようであり、あまり望んで結婚したようではないが、アンタルケートゥ期に結婚したことにもこれは表されているように思われる。

 

次のアンタル金星期はまさに彼女の10室金星の象意がそのまま出ているため、この出生時間が正しいことを強く確信できるのであるが、

1944年(18歳) 『夫ジムがロッキード航空機工場の工員だったため、サンタ・カリナ島の海軍基地へ夫婦で転勤。 そこで陸軍カメラマン、デビッド・コノーヴァーの目にとまる。 ブルー・ブック・モデル・エージェンシーの専属になり、ミス・スナイブリーのもとでモデル業をはじめる』

この時期はラーフ/金星期であり、彼女がモデルエージェンシーの専属モデルとなり、注目を浴びる大舞台で金星の持つカリスマ性、表現力を発揮し始めたことがよく理解できる。

翌年、1945年(19歳)、彼女は髪をブロンドに染めており、派手になっていくのが分かる。
この金星期に皆の知るマリリン・モンローがつくりあげられたようである。20世紀フォックスと契約し、芸名をマリリン・モンローとしている。

この時、夫、ジム・ドハティが彼女の仕事に理解を示さなかったため、離婚しているが、この時は、おそらく、ラーフ/太陽期である。太陽はナヴァムシャで8室の支配星で6室に在住しており、対人関係で争いごとや苦悩があり、離婚訴訟などになりやすい時期である。

後に木星/太陽期にも脚本家アーサー・ミラーと罵り合って、離婚している。

1947年(21歳)、「嵐の園」でスクリーン・デビューしているが、少しの出演シーンしかなく、20世紀フォックスを解雇されているが、この時期はラーフ/太陽、あるいは ラーフ/月である。

ラーフ/太陽期は離婚が生じた時期であり、契約関係(7室)が破綻する時期である。
ラーフ/月期も月はラーフから見て8室目に在住しており、ナヴァムシャでも月はラグナから見て7室支配で8室に在住している。対人関係、契約関係の苦悩が生じる時期である。

 

次のラーフ/火星期、及び、木星/木星期は、火星、木星ともに機能的吉星であり、火星は5、10室支配の機能的吉星であることから、キャリア上の躍進があることが理解できる。

しかし、ヌードカレンダーを撮影したりもしているが、火星が8室に在住しており、8室はセックスアピールを表すハウスであり、8室に在住する火星や木星がヌードの仕事(不道徳な仕事)をもたらしたと考えることが出来る。またエージェント・ジョニーハイドの尽力で20世紀フォックスと有利な契約を結べたりといったよい象意も確認できる。

そして、木星/木星期になると、エージェントが心臓発作で死亡し、マリリンモンローも自殺を図っている。木星は9室支配で8室に在住しており、また6室支配で8室に在住していることから、6-8室の絡みも生じている。

エージェントのジョニー・ハイドは55歳であり、マリリン・モンローにとっては保護者のような存在(9室)である。木星が8室に在住することによって、保護者役のエージェントを失うことを表しており、また8室は自殺を表すハウスでもあり、6、8室の絡みが生じていることから大変な苦悩を表している。50ドルを稼ぐために裸になったと、この時期は吉凶混合しているが、それは木星が9室の支配星でもあり、また6室の支配星で8室に在住してもいることから来ていると思われる。

----------------------------------------------------------------------------

【1948年(22歳) ラーフ/火星】
「Ladies of the Chorus」に出演。 ジョニー・ハイド、演技コーチのナターシャ・ライテスらと親しくなる。

【1949年(23歳) ラーフ/火星、木星/木星】
5/27に石油会社のヌードカレンダーを撮影。 ジョニー・ハイドの尽力で、20世紀FOXと再び有利な契約を結ぶ。 「Love Happy」に出演。わずか90秒のものだった。

【1950年(24歳) 木星/木星】
「彼女は二挺拳銃」「アスファルト・ジャングル」に出演。 「イヴの総て」の出演が決まる。 12/18、エージェント、ジョニー・ハイドが心臓発作で死亡(55歳)。マリリンも自殺を図る。 エリア・カザンの紹介で、まだ無名の劇作家アーサー・ミラーと出会う。 修理した自分の車を引き上げるお金50ドルのために仕方なく裸になった。

【1951年(25歳)木星/木星】
「イヴの総て」で女優の卵を演じる。

----------------------------------------------------------------------------

 

そして、1952年(26歳)頃に木星/土星期にシフトしているが、木星/土星期は大躍進している。
この時期に起こったことをまとめると以下のようになる。

 

・ジョー・ディマジオ(野球選手)と出会い結婚する
・「ノックは無用」、「モンキー・ビジネス」 ヌード・カレンダーが出回り、飛ぶように売れる
・「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」が大ヒット
・ 雑誌「ルック」の撮影で、写真家ミルトン・グリーンと出会い親しくなる
・ グラマウンズ・チャイニーズ劇場の前で、ジェーン・ラッセルとスターの手形を押す
・ ヌードカレンダーの写真が「PLAYBOY」誌の創刊号のグラビアになる
・映画雑誌「フォトプレイ」の「最優秀女優賞」を獲得
・新婚旅行で来日。韓国に駐留している米軍の慰問のためソウルへ行き、兵士達の前で歌う
・ 「私はただ幸せだけを感じていました」 「ショウほど素敵な商売はない」、「帰らざる河」出演

 

上記を見ると、マリリン・モンローの伝説はほとんどこの木星/土星期に生み出されたものであることが分かる。

繰り返すが、土星はラグナ、月から見て、ケンドラに在住して高揚し、パンチャマハープルシャ・シャシャヨーガを形成し、太陽から見て、9、10室支配のラージャヨーガカラカで6室で高揚し、マハダシャーの木星をラグナとすると、 ラグナロードが9室で高揚している。

大舞台で皆の注目を浴びて地位が向上すると同時に、9室支配の木星から見て、9室に土星が高揚することから、外国、海外での躍進(来日、韓国での慰問)、また9、10室支配のラージャヨーガカラカであることから、仕事上で成果を挙げる大昇進の時期である。

 

しかし、木星/土星期によいことばかりでなく、以下のような悪いことも多少生じている。

 

・度重なる遅刻、ギャラへの不満などで20世紀FOXとの関係が悪化
・来日時にディマジオが野球を教えに行って留守の間にマリリン・モンローは勝手に韓国に慰問にいってしまいディマジオが怒る

これはこれは太陽から見て10室支配の土星が6室で高揚していること、 あるいは、7、8室支配の土星が4室で高揚しており、8室が4室や7室に絡んでいることから解釈可能かもしれない。仕事を見るために太陽をラグナとした場合、土星は6室で高揚していることから、高揚惑星特有の自信や傲慢さが出たのかもしれない。

 

1954年8月10日(28歳)から木星/水星期に移行するが、水星期には以下の出来事が生じている。

 

・「七年目の浮気」の撮影がニューヨークで始まる。
・ スカートがまくれあがるシーンの撮影を見て、ディマジオが激怒。 ジョー・ディマジオと離婚
・ミルトン・グリーンと共同で、マリリン・モンロー・プロダクションを設立
・ N.Y.で、俳優養成の第一人者、リー・ストラスバーグの主催する「アクターズ・スタジオ」に入門し、演技指導を受ける

 

リー・ストラスバーグはマリリン・モンローの心の支えであり、恩師であるが、この水星期に彼の演技指導を受けていたことを考えると、水星期は良い時期であったと考えられる。
実際、水星期は先に述べたように楽しそうな時期であり、水星はトータルで見ると、十分に機能的吉星化しており、9室や5室を支配しているため、師との出会いがあり、高度な演技の理論や実技を学習することの出来る幸運な時期であったと考えることが出来る。

ジョーディマジオと離婚したのは何故かよく分からないが、1954年4月半ば〜9月まで土星と木星が6室(離婚訴訟)にダブルトランジットしていたようである。

そして、1956年(30歳)も木星/水星期だが、水星期はやはり良い象意が確認できる。

・劇作家アーサー・ミラーと結婚
・ 「王子と踊り子」の撮影のため、ロンドンへ。エンパイア劇場でエリザベス女王に謁見。
・非米活動委員会が、赤狩りを批判するアーサー・ミラーを告訴。マリリンはミラーの裁判を経済的にも精神的にも支援した。

ナヴァムシャで木星から見て水星は7室に在住しており、
1956年1月〜4月にかけて、土星と木星が7室にダブルトランジットしているのが確認できる。
(木星は逆行して7室にアスペクト)

そして、

1957年、1958年と、いずれも流産を繰り返しているが、いずれも木星/金星期である。
トランジットの土星は月に対して3室目のアスペクトをしている。
注: 出生の金星に対してはトランジットしていないようである。

1959年(木星/金星)になると、土星は乙女座に入室し、サディサティに突入している。
この時、マリリン・モンローは精神の安定を欠き、一時精神病院へ入院している。
しかし、 「お熱いのがお好き」でゴールデン・グローブ賞を受賞している。

1960年には、脚本家アーサーミラーと罵りあったりしており、1961年に離婚している。
この時、木星/太陽期であり、太陽はナヴァムシャで8室支配で6室に在住している。

1945年に最初に結婚したジムドハティともラーフ/太陽期に離婚しており、アンタル太陽期に離婚が繰り返されている。太陽が離婚の原因になっているのであれば、ナヴァムシャでの8室支配の太陽が6室に在住しているからであるとしか考えられない。

 

1961年2月1日にトランジットの土星が月の在住する7室山羊座に入室すると、その直後の2月5日に 精神病院に入院している。
この時、 ジョーディマジオに頼って退院したようである。

その後、木星/月期に移行するが、月に対して、土星がトランジットしているため、ダシャーの支配星に土星がトランジットしている影響で、サディサティの苦しみが強まっている。



1962年になると、 土星が徐々に月に接近しており、この時期がかなり心理的に厳しい時期であることが分かる。映画の撮影で遅刻とすっぽかしを繰り返していたようである。

そして、 1962年8月5日マリリン・モンローは亡くなっている。
この時のダシャーは木星/火星/ラーフである。

こうしてみると、彼女の人生はほぼヴィショッタリダシャーの分析で解釈できたことが分かる。

木星/土星期に知り合ったジョーディマジオは、マリリン・モンローが精神病院に入院した時に退院するのを助け、最後の葬儀も彼が執り行ったようである。高揚する土星の真面目で献身的な象意が表れている。

 

西暦(年) 年月 出来事 ヴィムショッタリ チャラ
1926 6月1日 ロサンゼルス私立総合病院で生まれる。本名、ノーマ・ジーン・モーテンセン。母はグラディス・ベイカー・モーテンセン。父は、母の同僚であったスタンレー・ギフォードだといわれている。 生後すぐにボレンダー家に預けられる。 火星/木星 蟹座-双子座
1927 祖母のデラが、マリリンを枕で押さえつけて殺そうとした事件が起こる。(マリリンは後にこの事実を知り、睡眠恐怖症になったといわれる。)

火星/木星
火星/土星

蟹座/牡牛座
蟹座/牡羊座
蟹座/魚座
1930 5歳の時、母グラディスが精神病院に入院する。

火星/金星
火星/太陽

蟹座/蠍座
蟹座/天秤座
蟹座/乙女座

1933 精神病院を退院した母に引き取られ、一緒に住むようになったが、母は再び入院。 マリリンは二つの家族の里子になったあと、母の友人グレイスに引き取られる。 セルマ・アベニュー・スクールに入学。孤児院の隣にRKO映画のスタジオがあり、マリリンは華やかな映画界に憧れるようになる。 ラーフ/ラーフ

双子座/牡牛座
双子座/牡羊座

1934 8歳。預けられていた先で性的虐待を受ける(この話を養母にした所、養母は信じなかったため、そのショックでマリリンはどもり始めたという) ラーフ/ラーフ
ラーフ/木星
双子座/牡羊座
双子座/魚座
1935 9歳。マリリンを預かっていた母の友人、グレイスが結婚する事になったため、マリリンは孤児院「ロサンゼルス孤児ホーム協会」へ。 ラーフ/木星 双子座/魚座
双子座/水瓶座
1937 11歳。母の友人グレイスにより、孤児院を出て、グレイスの伯母、アナ・ロウアーと暮らし始める。アナはマリリンに初めて人間的な愛情を注いだ人で、二人の交流はアナが70歳で亡くなるまで続く。 ラーフ/土星 双子座/射手座
双子座/蠍座
1939 中学生になって、マリリンは、自分が男の子達の熱狂的な関心の的となっているのを知る。この頃のマリリンの夢は、ハリウッドで活躍するメイクアップアーティスト。 ラーフ/土星
ラーフ/水星
双子座/天秤座
双子座/乙女座
1941 15歳。ヴァンナイズ高校に入学。 ラーフ/水星 双子座/獅子座
双子座/蟹座
1942 後見人のグレイスが引っ越す事になり、次の後見人がいなかったため、グレイスはマリリンを結婚させる事にする。マリリンは高校を中退し、16歳の誕生日から3週間目の6月19日、近所に住む20歳の青年、ジム・ドハティと結婚。 ラーフ/水星
ラーフ/ケートゥ
双子座/蟹座
双子座/双子座
1944 夫ジムがロッキード航空機工場の工員だったため、サンタ・カリナ島の海軍基地へ夫婦で転勤。 そこで陸軍カメラマン、デビッド・コノーヴァーの目にとまる。 ブルー・ブック・モデル・エージェンシーの専属になり、ミス・スナイブリーのもとでモデル業をはじめる。 ラーフ/金星 牡牛座/牡羊座
牡牛座/魚座
1945 ミス・スナイブリーの薦めで髪をブロンドに染める。(マリリンは髪を染めることをいやがったそう。) ラーフ/金星 牡牛座/魚座
牡牛座/水瓶座
1946 20歳。母が退院し、一緒に暮らすが、7ヵ月後に再入院。 20世紀FOXと契約、芸名をマリリン・モンローとする。 夫、ジム・ドハティが仕事に理解を示さなかったため、離婚。

ラーフ/金星
ラーフ/太陽

牡牛座/水瓶座
牡牛座/山羊座
1947 21歳。「嵐の園」でスクリーン・デビュー。 20世紀FOXを解雇される。 ラーフ/太陽
ラーフ/月
牡牛座/山羊座
牡牛座/射手座
牡牛座/蠍座
1948 22歳。「Ladies of the Chorus」に出演。 ジョニー・ハイド、演技コーチのナターシャ・ライテスらと親しくなる。 ラーフ/月
ラーフ/火星
牡牛座/蠍座
牡牛座/天秤座
1949

23歳、5/27に石油会社のヌードカレンダーを撮影。 ジョニー・ハイドの尽力で、20世紀FOXと再び有利な契約を結ぶ。 「Love Happy」に出演。わずか90秒のものだった。

ラーフ/火星
木星/木星
牡牛座/天秤座
牡牛座/乙女座
1950 24歳。「彼女は二挺拳銃」「アスファルト・ジャングル」に出演。 「イヴの総て」の出演が決まる。 12/18、エージェント、ジョニー・ハイドが心臓発作で死亡(55歳)。マリリンも自殺を図る。 エリア・カザンの紹介で、まだ無名の劇作家アーサー・ミラーと出会う。 修理した自分の車を引き上げるお金50ドルのために仕方なく裸になった。 木星/木星 牡牛座/乙女座
牡牛座/獅子座
1951 「イヴの総て」で女優の卵を演じる。 木星/木星 牡牛座/獅子座
牡牛座/蟹座
1952 26歳。野球選手のスター、ジョー・ディマジオと出会い、交際が始まる。 「ノックは無用」、「モンキー・ビジネス」 ヌード・カレンダーが出回り、飛ぶように売れる。 木星/土星 牡牛座/蟹座
牡牛座/双子座
1953

27歳。「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」が大ヒット。 雑誌「ルック」の撮影で、写真家ミルトン・グリーンと出会い、親しくなる。

6/26、グラマウンズ・チャイニーズ劇場の前で、ジェーン・ラッセルとスターの手形を押す。 ヌードカレンダーの写真が「PLAYBOY」誌の創刊号のグラビアになる。 映画雑誌「フォトプレイ」の「最優秀女優賞」を獲得。

木星/土星 牡牛座/双子座
牡牛座/牡牛座
1954 28歳。
1/14、ディマジオと結婚。

2/1、新婚旅行で来日。韓国に駐留している米軍の慰問のためソウルへ。(氷点下の寒空の下、スリップドレス1枚で歌ったので、次の日マリリンは熱を出して倒れてしまった) 兵士達の前で歌うマリリン。「私はただ幸せだけを感じていました」 「ショウほど素敵な商売はない」、「帰らざる河」出演。度重なる遅刻、ギャラへの不満などで20世紀FOXとの関係が悪化。

8/10から「七年目の浮気」の撮影がニューヨークで始まる。スカートがまくれあがるシーンの撮影を見て、ディマジオが激怒。 ジョー・ディマジオと離婚。 ハリウッドの歴史上でも有名な、ジョーが怒った問題のシーン。

1/14 木星/土星
2/01 木星/土星


8/10 木星/水星

牡牛座/牡牛座
牡羊座/牡牛座
1955 29歳。「七年目の浮気」封切。 ミルトン・グリーンと共同で、マリリン・モンロー・プロダクションを設立。 N.Y.で、俳優養成の第一人者、リー・ストラスバーグの主催する「アクターズ・スタジオ」に入門し、演技指導を受ける。(氏は後に、最も優れた門下生として、マリリンとマーロン・ブランドを挙げている) 木星/水星 牡羊座/牡牛座
牡羊座/双子座
1956 30歳。「バス停留所」でハリウッドに復帰。 6/29、劇作家アーサー・ミラーと結婚。 結婚式の時の写真。左がアーサー。マリリンがものすごく幸せそう! 「王子と踊り子」の撮影のため、ロンドンへ。エンパイア劇場でエリザベス女王に謁見。 非米活動委員会が、赤狩りを批判するアーサー・ミラーを告訴。マリリンはミラーの裁判を経済的にも精神的にも支援した。 木星/水星
木星/ケートゥ
牡羊座/双子座
牡羊座/蟹座
牡羊座/獅子座
1957 31歳。妊娠したが、流産する。 睡眠薬の飲みすぎで昏睡状態に陥っているところを発見される。 木星/ケートゥ
木星/金星
牡羊座/獅子座
牡羊座/乙女座
1958 32歳。「お熱いのがお好き」の撮影始まる。 「お熱いのがお好き」公開当時のポスター。 再び流産。 木星/金星 牡羊座/乙女座
牡羊座/天秤座
1959 精神の安定を欠き、一時精神病院へ。 「お熱いのがお好き」でゴールデン・グローブ賞を受賞。 木星/金星 牡羊座/天秤座
牡羊座/蠍座
1960 34歳。「恋をしましょう」に出演。共演者のイヴ・モンタンと恋におちたといわれる。 アーサー・ミラーによる脚本「荒馬と女」撮影開始。(二人の関係はすでに破綻しており、人前でもののしり合うことがあったという。) ケネディが選挙運動中より交際が始まる。 「荒馬と女」の撮影が終わった2週間後、クラーク・ゲーブルが心臓麻痺で急死。 木星/金星
木星/太陽
牡羊座/蠍座
牡羊座/射手座
1961 35歳。アーサー・ミラーと離婚。

1/30、「荒馬と女」封切。 「荒馬と女」に対する批評は大変厳しく、ショックを受けたマリリンは、家に閉じこもったままになり、
2/5に精神病院に入る。ディマジオの助けで退院、彼に頼る生活を送る。 胆のう炎の手術をする。

1/30、2/5 木星/太陽

木星/月

牡羊座/射手座
牡羊座/山羊座
牡羊座/水瓶座
1962 36歳。1月、ブレントウッドに自宅を購入。

4/24、「女房は生きていた」の撮影が始まる。遅刻、すっぽかしの連続で、33日間の撮影期間で、マリリンが出演したフィルムはたったの7分間だった。
5/19、撮影所に無断でマジソン・スクエア・ガーデンでのケネディ大統領の誕生パーティに出席、歌を歌う。 マジソン・スクエア・ガーデンで歌うマリリン。
6/7、20世紀FOXから解雇される。
8/5午前3:00、家政婦のユーニス・マレイによって、寝室で全裸で死亡しているのが発見される。 8/5の午前5:30、遺体が運び出される。
8/8、ディマジオの手で、簡素な葬儀が執り行われた。

4/24 木星/月/金星
5/19 木星/月/金星
6/07 木星/月/金星

8/05 AM 3:00
木星/火星/ラーフ

8/05 AM 5:30
木星/火星/ラーフ

8/08
木星/火星/ラーフ

牡羊座/水瓶座
牡羊座/魚座
マリリンモンローファンサイト(http://www5e.biglobe.ne.jp/~marilyn/)より引用抜粋

 

 

(資料)

『マリリン・モンロー−愛のヴィーナス/デラックス・カラーシネアルバム3』日野康一責任編集 芳賀書店 P.51〜より引用抜粋

酔狂な人もいるもので、有名人物がアメリカのマスコミに書きたてられた行数を数えあげ、ベスト・テンを作ったことがある。1位はズバ抜けてマリリン・モンロー、2位が当時の大統領ジョン・F・ケネディであった。あの人気高いケネディ大統領すら、マリリンにかなわなかった。 これだけ書きたてられた人は、アメリカではグレタ・ガルボがいるだけである。ガルボの場合は、彼女がいなかっただけで数十行の記事になり、謎の女性としてベールに包まれたミステリアスな行状は、つねに”豊かな想像力”を加えて描かれていた。 マリリンは逆に、なにごとにつけあけっぴろげで、彼女がいるだけで記事になり、”豊かな想像力”によって増幅されていた。ガルボがいつも”悲劇のヒロイン”にまつりあげられていたのに対し、マリリンはつねにコミカルで、マリリンの記事が出ているだけで、紙面が楽しくなる”コメディアン”であり、彼女自身もそれを意識して行動し、発言していた。 マリリンとガルボ以外に書きたれられた人は、アメリカではその後、ジャクリーヌ・ケネディ、イギリスではエリザベス女王、フランスにブリジット・バルドーがいる。女性ばかりというのも興味深い。 マリリンは、バルドーとともに、セックスのシンボルと日本では考えられている。事実この二人の名前を口にすれば、汚らわしいものに触れたような顔をする女性がいる。テレビではどうか知らないが、この女性は二人の映画を見たことがない。どちらも巨大グラマーにはほど遠く、プロポーションも完全無欠とはいいがたいが、独特なアピールの持ち主である。セックスのシンボルではなくて、アメリカやフランスでは、”隣の花ちゃん”的な、親しみが持てる女性的魅力のシンボルではあるまいか。可愛いのである。 アメリカ人男性にとってのマリリンは、ちょっとつき合って、抱いてみたいカワイコちゃんだ。”隣の花ちゃん”的でありながら、すべての男性が求める”女らしさ”の最大公約数を持ちあわせている。だが、マリリンはあくまでもガールフレンドであり、ペットであって、まかりまちがっても奥さんにする女ではない、事実、ガールフレンドとしてつきあった男たちは、どんな楽しみを味わったか。ジョー・ディマジオとかアーサー・ミラーみたいな大人物が、”毎晩抱こう”と欲張ったばかりにどんな目にあったか。女の魔性がひそんでおり、そこにマリリンのくめどもつきせぬ魅力の根源があろう。同時にマリリンはつねに愛を求め、男がそばにいなければどうにもならぬ女であった。 ”・・・そして神が作り給うた”は、ブリジット・バルドーの出世作「素直な悪女」の原名である。それならばマリリンはだれが作ったか。 ハリウッドのどまんなかに映画専門のフィルム現像所コンソリデーテッド・フィルム・インダストリーズというのがあり、一流でいまもご盛況である。タバコ成金のハーバート・J・イエーツが創立し、ひところは傘下に映画会社リパブリックを抱えていた。日本にも黄色いラベルを貼ったフィルムの缶が送られてくる。現実的な言い方をすれば、マリリンを作ったのはコンソリデーテッドであった。もしこの会社がなければマリリンは生まれてこなかった。マリリンこそは、生まれながらの映画人であった。 映画がまだ音をもたなかった1925年、コンソリデーテッドの女性従業員で、コロムビアやRKO映画の編集者の注文通りにネガ・フィルムを接合する仕事をしていたグラディス・モンロー・ベイカーは、同じ会社の運転手C・スタンリー・ギフォードと恋をした。  翌年、1926年6月1日午前9時30分、グラディスはロサンジェルス市立総合病院で女の子を生んだ。安産であった。父なし子で、ノーマ・ジーン・ベイカーと母の姓を名乗って出生登録がおこなわれた。のちのマリリンである。モンローは母の旧姓であり、マリリンは当時のミュージカル・スター、マリリン・ミラーにあやかって、20才のときつけられた芸名である。  自動車技師の祖父はモンロー大統領の子孫だと自称していた精神異常者、祖母デラも激しい発作を起す異常者であり、ともにマリリンが出生したとき、精神病院に入院したり、出たりしていた。母グラディスも多分にその傾向を引いており、たびたび保護施設のごやっかいになっていて、マリリンが5才のとき精神病院に入った。  グラディスは無声時代のスター、ノーマ・タルマッジやグロリア・スワンソンに似た、かなりの美人だったそうで、C・スタンリー・ギフォードも”ちょいとつき合って、抱いてみた”だけで、すぐに捨ててしまった。ノーマ・ジーンのノーマも、タルマッジにあやかっているとか。  父親について、グラディスはマリリンが生まれる前、モーターサイクルの事故で死んだと教えていたが、マリリンは大きくなるにしたがって疑惑をもち、のちスターになってから居所をつきとめて電話をかけた。すると再婚したその妻が電話に出て、「言いたいことがあるなら弁護士に頼みなさいよ」と答えた。  これがよほど骨身にこたえたとみえて、ギフォードがマリリンの死の前年、ロサンジェルスを訪れてマリリンに電話をかけたとき、マリリンは同じセリフを実の父に吐いて、会おうとはしなかった。  ハイスクール時代のマリリンは、友人たちに”私はね、クラーク・ゲーブルの落とし子よ”と私生児のことをからかわれるたびにやり返していた。そのマブタの父ゲーブルと「荒馬と女」に共演したら、二人にとって遺作になってしまった。 マリリンは里親を転々とした。 生後しばらくは、祖父母の家の向かいにある私設託児所みたいなボレンダー家に、グラディスが月25ドル払って預けていた。  ある日、精神病院から帰ってきた祖母デラが、マリリンを突然自宅へつれもどすと、枕で押さえつけて殺そうとする事件が起きた。眠っていたマリリンはもがいて、危機をのがれた。大きくなってこれを知ったマリリンは睡眠恐怖症になり、睡眠薬に親しむようになったとする説がある。そのあと再び精神病院に収容されたデラは、興奮のあまり心臓マヒを起こして死んだ。マリリンが13ヵ月のときであった。  七つの頃、精神病院を退院した退院した母とはじめて一緒に住むようになった。グラディスがハリウッドに家を借り、半分をイギリス人夫婦に貸した。しかし3ヵ月もたたぬうちにグラディスは発狂し、精神病院にかつぎこまれた。一年ばかりの間、イギリス人夫婦がマリリンの面倒を見ていたが、イギリスへ帰ってしまった。近所をたらい廻しにされていたマリリンは、ロサンジェルス孤児院へ入れられ、グレーの制服を着せられた。小学校へは孤児院からかよいだした。孤児院のすぐ隣にはRKO映画のスタジオがあり、彼女は華やかなハリウッドの灯にあこがれていた。マリリンはのちにこのスタジオで「夜の疼き」に出演する。  彼女は死の一週間前にこう語っている。 「名声は私のような浮浪児にとって一時的な幸福でしたが、一時的なものにすぎませんでした」  死の前年、メキシコを訪れたマリリンは児童福祉施設に千ドルを寄付している。 「私も孤児院で育ったので、朝食を食べられないことがどんなにつらいか知っています」と。  孤児院を出たマリリンは、数軒の里親のもとを転々とした。政府が出す養育費だけが目あての里親ばかりだった。10才のとき、里親のひとりの老人に暴行されたことが”伝説”になっているが、これには否定的な説もあり、たしかではない。  結局、マリリンは母グラディスのもとへ戻ってきた。ちょうどグラディスは10才も年下の発明技師エドウィン・ゴダードと四回目の結婚をしたばかりであった。彼女はここからバン・ナイスのハイスクールへかよいだした。 先輩にジェーン・ラッセル、後輩にロバート・レッドフォードがいる。ロサンジェルス市でも北のほうである。  このころ、近くに住む伯母アナ・ロウアーが、義父に目をつけられているマリリンを哀れんで引き取った。熱狂的な宗教家で、マリリンにはじめて人間的な愛情を注いだ人であり、11才からアナが70才で亡くなるまで12年にわたって交際がつづいた。  マリリンの夢は、ハリウッド最高のメークアップの名人になることであり、自分を実験台にエネルギーを注入した。おかげで性的に早熟なマリリンの周囲にはボーイ・フレンドが群がり、一週間ごとにデートの相手が変わった。学校のほうは勉強ぎらいで、ほとんどが落第点。高校へ進んだが半年で中退した。 ボーイ・フレンドのひとりに、母の家のそばに住むジム・ダハティという青年がいた。母親はじめ、アナ・ロウアーもい、マリリンを早く結婚させようと考えていた。 本人も里親たらい廻しや孤児院生活にあきあきしていたので、たいして愛してもいないのに、ジムのプロポーズをあっさり受け、16才の誕生日から三週間目の6月19日に結婚した。  ダハティはロッキード航空機製造会社の工員で、いい給料をもらっており、新婚早々の二人はセックスに没頭した。ちょうど戦争のさなかで、ダハティはサンタ・カタリナ島の海軍基地で体育教師をつとめることになった。 ここでの生活はマリリンにとって安定した日々ではあったが、周囲は女に飢えた兵隊たちばかり。あこがれの的になったマリリンは、挑発的な水着姿で基地内をのし歩いて応じた。  ダハティはカンカンになって怒った。ほぼ2年間だけ一緒に暮したあと、軍事物資輸送船団の仕事に転じ、オーストラリアに行ってしまった。マリリンはダハティ家へ戻り、義母と兵器工場でパラシュートの包装や、標的の塗装をして、まじめに働いた。  そんなとき、軍のカメラマン、デービッド・コノバーが工場を訪れマリリンのセックス・アピールに目をつけ、兵隊用のピンアップ写真のモデルにした。挑発的なポーズはサンタ・カタリナ島時代に身につけ、メークアップはお手のもので、モデルとしては優秀であった。彼女は本格的なモデルになる決心を固め、コノバーにモデル・エージェントのエメリン・スナイブリー女史を紹介してもらい、訓練を受けた。  当時の彼女は、27ページに収められている19才ごろのポートレートが示すように、マリリンのイメージとはかなりちがう。髪もトレード・マークのブロンドではなくて茶に近い。  セクシーなマリリンのポートレートが、ぞくぞくと男性誌をかざるようになった。カメラマンのアンドレ・ドディーンズと一ヵ月近くにわたり西部を歩きまわって、写真を撮られたこともあった。おそらくその一枚が24ページのカラーであろう。  マリリンは、ちょいと有名なモデルになった。スナイブリー女史の訓練がゆきとどき、モデルとしての態度やポーズが最高であり、なによりも本人が楽しんで打ちこんでいた。兵器工場で働くよりは、はるかによい金になった。”ラフ”という男性雑誌にのったポートレートの一枚が、当時RKO映画の社長で、航空事故のため入院していた話題の人ハワード・ヒューズの目にとまる。  ダハティとはタマに手紙をやりとりするだけになってしまった。マリリンにとってみれば、嫉妬深く、怒りっぽいダハティは耐えられなかった。のちにマリリンはリノへひとりで行き、離婚手続きをとってしまう。20才の1946年であった。  ヒューズは愛人のジェーン・ラッセルや、戦前にはプラチナ・ブロンドのジーン・ハーローを育てたスター・メーカーであった。さっそくスナイブリー女史に交渉したが、女史は20世紀フォックスのタレント・スカウト、ベン・ライアンに売りこみ、天秤にかけた。  マリリンのスクリーン・テストは一流メンバーによって行われた。ウォルター・ラング監督、レオン・シャムロイ撮影。アカデミー賞を四回も受けたシャムロイのひとこと、”彼女は画面外ににじみでるイットIt(ハーローの代名詞になった言葉)があるね”で、副社長ダリル・F・ザナックはマリリンと契約した。週給75ドルであった。  芸名マリリン・モンローがベン・ライアンによって命名された。彼女はスタジオで演技のレッスンを受け、数限りない写真をとられた。しかし本人が熱心なのとは逆に、20世紀フォックスは、”写真モデル”と考え、”女優”として扱ってくれなかった。スクリーン・テストの結果”イット”があることをシャムロイが証明しても、ウォルター・ラングは演技の才能はないと見ていた。20世紀フォックスが契約したのは、スターに育てるためではなく、RKOのハワード・ヒューズにもってゆかれぬためであった。 ”才能”について、「七年目の浮気」のビリー・ワイルダー監督は語っている。 「マリリンは演技を意識したら、どうにも使いものにならぬデクの棒になってしまう。しかし彼女はチャップリンいらいのコメディアンだ。役柄を教え、セリフを教え、そのままカメラを意識させずに放っておくと、役柄になりきってすばらしい演技をみせる。それまでが大変だがね。ちょうど子役や動物と同じで、マリリンは地で演技しているのだよ。アクターズ・スタジオでリー・ストラスバーグが教えたのも、演技ではなくて、どうすれば役柄になりきれるか、だろうよ」。  20世紀フォックスは週給を払っているうえは、映画にも出した。しかしデビュー作「嵐の園」のマリリンの出演部分は、大部分編集室で”不要”のバスケットに放りこまれてしまった。第二作「危険な年頃」も、役といえるほどではない。  ただ、20世紀フォックスの老重役、ジョセフ・シェンクはちがっていた。ノーマ・タルマッジを妻にもち、70歳になるこの老人は、マリリンに色目を使った。20世紀フォックスとの契約が1年で終わったとき、コロムビアに橋渡ししたのもシェンクであった。  コロムビアでは「コーラスのレディーたち」というBクラス映画の準主役になり、はじめてマリリン・モンローという”女優”がハリウッドの新製品として送り出された。彼女は一生懸命にやって、たしかにそれだけの実績はおさめたが、Bクラス映画ではいかんともしがたく、コロムビアとは一本だけで終わった。   またモデル生活に戻ったマリリンは、エージェントをマメに歩いて、映画の役をさがした。「ラブ・ハピー」にグルーチョ・マルクスと30秒ばかり出たのもこのころだ。若い娘が二人しかでてこない映画で、”モンロー・ウォーク”を実験したのが図に当り、いやがおうでも目についた。MCAのエージェント、ジョニー・ハイドがマリリンのマネージメントを引き受けてくれた。  30も年上のハイドはマリリンにほれこみ、献身的に、わが身を犠牲にして売り出してくれた。求婚し、妻と離婚し、家屋敷も手放してマリリンに入れこんだあげく、捨てられて死んだ。マリリンの”魔性”にとりつかれた好例である。「アスファルト・ジャングル」と「イヴの総て」―――ハリウッド映画史をかざる二本の名作に、ワキ役ながらも出演させてくれたマリリンにとっては恩人である。ハイドは死ぬ前に、マリリンと20世紀フォックスとの再契約に成功している。  例の、マリリンの名前をいやがうえにもたかめた石油会社のヌード・カレンダー(9〜10ページ)を撮ったのもこのころ。トム・ケリーというカメラマンである。お金が必要で思いきりよくヌードになったマリリンは、50ドルもらった。「なにも着ていなかった」のではなくて、「ラジオのムード音楽を着ていた」そうだ。当時、1949年ごろのアメリカは、ヌードになるにはよほどの決心が必要で、カレンダーを作った石油会社も、婦人団体やら宗教団体からひどい目にあった。おかげで、宣伝にはなった。  7年契約を結んだ20世紀フォックスは、またもやマリリンを飼い殺しにしはじめた。自社作品では、「彼女は二挺拳銃」「ファイアーボール」「君が考えているいように若い」「ラブ・ネスト」。「アスファルト・ジャングル」でマリリンの魅力を知ったMGMに貸出して「ライト・クロス」「ホームタウン・ストリー」、みんなチョイ役であった。  だが、「アスファルト・ジャングル」が封切られ、自社の「イヴの総て」が長い編集の末に完成すると状勢は変わった。ニューヨークの大批評家が新聞社評でマリリン・モンローの名前にふれ、あちこちで記事になってきた。このまま放っておくのはもったいない、と自社の作品に片っ端しから出して売名につとめた。「合法的にやろう」「ぼくたちは結婚していない」「ノックは無用」「モンキー・ビジネス」「人生模様」そして20世紀フォックス初の主演作(といってもキャストの順番は最初三番目であとからトップに組み替えられた)「ナイアガラ」である。ただいちばんまともな役は、RKOに貸し出された「夜の疼き」であった。  ようやく20世紀フォックスも気がついた。スタジオのカメラマンたちは彼女を撮りまくり、おびただしい数のポートレートが雑誌をかざり、名前もちょいとは知られるようになり、うまいことにヌード・カレンダーが問題になってきたのである。しかも世界最大のグラフ週刊誌「ライフ」がマリリン特集号を発行した。  前にものべたように、ヌードの先進国アメリカでさえ、当時は女優がヌードになるなんて、とんでもないスキャンダルであった。石油会社のカレンダーが、ガソリン・スタンドのトイレや、バーの奥にこっそり貼り出されて男たちの関心をひき、婦人団体や宗教団体がカッカしだして撤去を求めていた。石油会社は適当に受け流していた。するとひとりの男がヌードのモデルがRKO作品「夜の疼き」の主演女優であることに気づき、RKOを脅迫した。RKOにしてみれば、マリリンは20世紀フォックスの借物。さわいでくれたほうが得になるし、キズがついても他社商品。かえって利用する手に出た。  20世紀フォックスははじめ隠そうとしたがマリリン自身が”あのモデルは私です”と公言した以上、ひっこみがつかない。逆にあることないこと、マリリンの過去に関するスキャンダルを宣伝して、スキャンダルを逆手に使って売り出す作戦に出た。おまけに、野球のトップ・スター、ジョー・ディマジオとのロマンスという絶好のネタが現れた。こうして、20世紀フォックスとしては1年後のシネマスコープ第一作「聖衣」までつながる社運を賭けての大宣伝作戦を打って出た。  「ナイアガラ」は編集の段階でマリリンの出演場面を増やし、とくに”モンロー・ウォーク”を強調した。この映画の役自体が悪女であるからには、スキャンダルはかえってプラスになるのではないか、との計算もあった。ともかくモンロー売り出しは大成功で、「ナイアガラ」は大当り。余勢をかったシネマスコープ・キャンペーンも成功し、20世紀フォックスは一気に社運を盛り返したのである。  マリリンは「ナイアガラ」一本で、ハリウッドのトップスターにのしあがった。アメリカではマリリン・モンローの名前は子供でも知るようになった。ニューヨークの五番街やロサンジェルスのダウン・タウンを歩く若い女性たちは、ノーパンティで肌に密着したスカートをはき、無理に腰のスジを動かせて尻をふりふり歩いた。  「紳士は金髪がお好き」やマリリンのシネマスコープ第1作「百万長者と結婚する方法」では、「ナイアガラ」とは逆にキュートで親しみやすく、歌って踊れるスターである面も強調しようとした。どちらもコメディーで、コメディーがうけいれやすいアメリカやヨーロッパではすぐにコミカルな才能をみとめてもらえたが、日本では映画館に”尻をふらない、サギだ”と抗議がのるくらいで、”悪い女”マリリンのイメージが、「ナイアガラ」一本で定着してしまった。 「紳士は金髪がお好き」「ショウほど素敵な商売はない」と西部劇スタイルの「帰らざる河」の三本で、マリリンはペチャーとしたかわいい声でうたっている。スタジオのコーチに歌の特訓を受け、泣きベソをかいてなんとかマスターしたそうだが、いまとなってはマリリンが歌うレコードは、吹き替えではない肉声が聞ける遺産となった。  マリリンがジョー・ディマジオと知り合ったのは来日したときの記者会見によれば1952年2月という。ディマジオはアメリカ野球界の伝説的英雄であったが、野球にとんと興味がないマリリンは、ディマジオの名前すら知らず、単なる野球の人気プレイヤーと思っていた。マリリンは、1952年3月13日に行われたディマジオの記念試合を見て、はじめて彼女の前では完全に骨抜きになるノッポのイタ公が、アメリカのヒーローであると知った。すでにディマジオは第一線を引退し、コーチになっていた。  ディマジオは野球のほか、ほとんどしゃべる話題のない男であった。マリリンにとっては、いつも淋しい心を休め、暖かく包んでくれるだけの男にしかすぎなかったが、二人のデートは書きたてられ、二人が”友人以上の関係ではない”とウソをつけばつくほど話題を呼び、毎日のように新聞の第一面をかざった。  マリリンの人気は「ナイアガラ」いらいウナギのぼり1953年11月、ロサンジェルスのウィルシャー20世紀フォックス劇場で開かれた「百万長者と結婚する方法」のワールド・プレミアに出席するマリリンを見ようとして、数万の群衆が押しかけ、八車線あるウィルシャー通りの交通は三時間にわたりストップした。  マリリンとディマジオは、1954年1月11日、サンフランシスコ・シティ・ホールで結婚式をあげ、サンフランシスコのディマジオ邸に落着き、まもなく日本へハネムーンに出かけた。  2月1日、午後8時38分、パンアメリカン機からおりたった夫妻は、羽田空港はじまっていらいの大群衆にもみくちゃになりかけた。ミンクのコートに黒いドレスのマリリンは、ディマジオに抱えられるようにして機内へ戻り、しばらくしてから車へ飛び込み、帝国ホテルへまっしぐら。第一京浜国道はモンローを一目見ようとする人波に埋まっていた。  「映画の友」同年4月号から、淀川長治編集長のモンロー、ディマジオ夫妻記者会見記。 『二百人あまりの、その半分がキャメラマンで、人の顔よりレンズだらけ。金髪を片手に押しあげながら、艶やかに笑う様子は、ピンアップの美人画が抜け出した美しさ。記者団の”ディマジオ夫人”への質問から。 「マリリン・ウォークは貴方の発明ですか?」 「あら、私、生まれて6ヵ月目から、あんな風に歩いておりましたのよ」 と、チラリ、舌を出した。 「お好きな映画スターは?」 「バーグマン、チャールズ・ロートン、ハンフリー・ボガート、マーロン・ブランド」 「ディマジオさんの、どこが気に入ったんですか?」 「おお・・・全部・・・全部ですわ」 ディマジオは小さくなって、記者団から逃げ出した。 「お好きな監督は?」 「ジョン・ヒューストン」(「アスファルト・ジャングル」「荒馬と女」) 「美の健康法は?」 「よく眠ることです。美容は健康であればいいのですから」 「あなたのその毛皮は?」 「狐ですけど、20世紀フォックスとは何の関係もありませんよ」 「ファン・レターはどれくらい?」 「週に5万通、少ないときでも3万通まいります」 「結婚生活第一ですか、女優生活第一ですか?」 「私が昔からのぞんでいたのは、ハピー・ホーム・ライフです。いうまでもなく結婚生活第一です」  ソファに、ちょっと猫背になって脚を組んでいる。 その足の美しさ。ブラックのバックスキンの靴のカカトの線が、また美しかった。  彼女は若々しい。しかし映画で見るようなオチャッピイではなかった。うっすらお化粧しているお白粉が目につく。それがいかにも女優らしい・・・』 この記者会見、マリリンがディマジオに抱えられるようにして退出するとき、カメラをかまえながらバックしていた新聞社のカメラマンが池にドボンと落ちたり、別の新聞記者はスカートを下からのぞき、パンティをはいていたことを確認したそうだ。  ディマジオは、ハネムーンと日本での野球コーチをかねての来日であった。ディマジオが九州まで歩いているあいだ、マリリンは米軍の招待で韓国駐留軍慰問のためひとりソウルへ飛び、ヘリコプターで前線へ向かった。 「こんなに男ばっかり集まっているのは、生まれてはじめてだわ!」  とマリリン。万単位の兵隊が集まっていた。  特設ステージのカブリつきは先陣争いで大混乱。ステージから数百メートルはなれた小山にも鈴なり、お手のもの作戦用双眼鏡で”観戦”であった。  数曲うたい、うすいドレス一枚で肩をくねらせ、全身を躍動させての大熱演。2月の朝鮮の寒空で活躍したものだから、たちまち風邪をひいて寝込み、帝国ホテルではディマジオが必死になって看護に当った。  2月14日に羽田から帰米。  日本の記者会見ではしゃべらなかったが、当時マリリンが記者団に答えたあまりにも有名な文句がある。 「あなたは夜、ネグリジェを着て寝ますか?」 「あら、シャネルの5番よ」 フランスの有名な香水の名前であり、全裸で香水だけつけて寝るの意味。ヌード・カレンダーの「ラジオを着ていた」の延長であった。おかげでシャネルの5番はいちどにポピュラーになった。 東京での記者会見は20世紀フォックス日本支社がアレンジしたものであったが、つぎのような質問がでている。 狐のコートの延長である。 「こんどの旅行で20世紀フォックスを怒らせたそうですね?」 「じつはフランク・シナトラ、バン・ジョンスンと「ピンク・タイツ」に共演するはずでしたが、シナリオが気に入りませんでした」  出演を断ったマリリンを、20世紀フォックスは干した。 彼女は、小学校の先生がお尻をふって下品な踊りをする役が、彼女自身のイメージをこわすと考えた。結局20世紀フォックスは、新婚旅行に免じて出演禁止を解除した。  マリリンがスタジオと気まずくなりはじめたのは、前の年からであった。時間厳守のスタジオにおくれて現われ、ほかのスターたちやスタッフたちに待ちぼうけを食わせ、時間を空費する。これはハリウッドではいちばんタチの悪い”犯罪”であり、そのたびに注意されながら、改めようとしなかった。  ギャラの不満もあった。サラリーは週千ドル近くになっていたが、「紳士は金髪がお好き」で共演したジェーン・ラッセルは一本で十万ドルとっていた。値上げを要求したら、思いあがっているとハネつけられた。  マリリン自身も、このような交渉はいちばんへたくそなくせに、マネージャーをとうさず直接交渉することもあり、かえって事態を悪化させた。  そこへもちあがったのが、「ピンク・タイツ」事件である。フランク・シナトラは撮影中、週5千ドルもらうことになったが、値上げしてもらったマリリンは1500ドルだった。ベテランと人気上昇中とはいえ新人女優とのちがい、といえばそれまでだが、ぐずりつづけた。  ほかに2つも企画を蹴った。「マミー・ストーバーの反抗」と「赤いベルベットのぶらんこ」である。専属契約を結んでいる以上、ごねても契約書をたてに命令されたらどうにもならないが、マリリンは「ナイアガラ」いらい20世紀フォックスにとってはドル箱になっていた。首脳部はなだめすかし、契約条件にも修正を加え、週給契約を年2本の本数契約に切り替え、一本7万5千ドルないし、10万ドルとした。1954年6月のことである。  こうして一年ぶりにスタジオへ戻り、「ショウほど素敵な商売はない」がはじまり、「七年目の浮気」がつづく。しかし、遅刻ぐせは一向に改められず、かえって悪くなる一方。「七年目の浮気」では、ディマジオと気まずくなった。例の、地下鉄の通風口の上に立ち、電車が通過するとき吹きあげる風で、スカートがまくれあがるシーンである。  早朝に撮影されたが、つきそっていたディマジオはカンカンになって怒り、2週間後に離婚が発表された。ただ、ディマジオとの仲が切れたわけではなく、その後もつき合っている。 「七年目の浮気」は、映画自体も、マリリン自身も、たいへんに評判がよかった。マリリンがはじめて”女優”として認められた映画である。マリリンは気をよくし、同時にもっと本格的に演技の勉強をする必要を感じた。 「とってもとってもポピュラーになる方法」のシナリオを気前よく蹴ると、すぐにニューヨークへ飛んで姿をくらませた。  彼女はアクターズ・スタジオの門を叩き、リー・ストラスバーグに教えを乞うた。アクターズ・スタジオはストラスバーグが創立したニューヨークでいちばん名高い演劇塾であり、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、ジェームズ・ディーン、ジョアンヌ・ウッドウォード、エバ・マリー・セイントなど一流のタレントをブロードウェイ(ニューヨークの演劇街)やハリウッドに送りだしていた。  ストラスバーグはブランドの紹介によるマリリンを暖く迎え、ハリウッドの売れっ子女優であることを意識せずほかの俳優たちと一緒に厳しい訓練をほどこした。マリリンも、オツムが弱い娘あつかいされず、俳優としてみとめられたことに感激し、演技勉強に熱中した。”女優”マリリン・モンローとしてもっとも幸福な時代であった。 なおストラスバーグは「ゴッドファーザーPARTU」で映画初出演、アカデミー助演男優賞の候補になった。  1975年4月20日に来日したストラスバーグはマリリンの想い出を語った。  「マリリンは、スターとして名を成してからアクターズスタジオに来たが、当時はボディだけの女優で、演技などできるわけがないと反感を呼んだ。しかしスタジオの舞台で演じたとき、はっと見直すほどの素質をみせていた。 彼女の遅刻は有名だが、アクターズ・スタジオでは一分たりとも遅れなかった。それは私が、マリリンさん、もし遅れるのなら、時間より早く来るようになさい、と言ったからだ。いまさら、彼女が素晴らしい女優であったかどうか、聞くだけヤボだ」  同時に有力なプロデューサーのひとり、ミルトン・グリーンのすすめで、「ピンク・タイツ」出演拒否事件について20世紀フォックスを訴える訴訟が進行していた。 マリリンやグリーンの腹は、裁判にもちこむことによって20世紀フォックスの株主たちをさわがせ、さらに有利な契約をとりつけることにあった。  1955年のはじめ、マリリンはニューヨークで、ミルトン・グリーンと共同で独立プロ、マリリン・モンロー・プロダクションの創立を発表、これに応じて20世紀フォックスで4本に出演、1本10万ドルのギャラのほかに週500ドルの給料を受ける。監督の選択権ももつ。ほかにマリリン・モンロー・プロダクションの代表者として、利益配当を受けるわけである。専属女優ではなくなり、他社出演も可能になった。  第一作は、20世紀フォックスが前からマリリンのために入手していたブロードウェイ舞台劇「バス停留所」映画化である。アクターズ・スタジオで演技勉強をした成果がはっきり現われ、演技らしい演技をみせた。  しかし、ハリウッドでの彼女の評判は悪かった。思いあがり、遅刻常習犯、そして、ヌード・カレンダーいらい彼女の性的魅力に対する女性の反撥である。よい例がハリウッドの映画製作にたずさわる現場関係者(大部分が俳優)の投票によってきまるアカデミー賞である。マリリンはただの一度も、候補にすらのぼっていない。  さて、マリリンが、女優として開眼するうえに、また彼女の人生の上で第3の夫として、欠かせぬ重要な存在が劇作家のアーサー・ミラーである。「セールスマンの死」「橋からの眺め」、そしてマリリンに精力を吸いとられたスランプのあと、マリリンをモデルにしたと思われる「アフター・ザ・フォール(失墜のあと)」などで知られている。11才年上。  つきあいは1950年末、ミラーが20世紀フォックスのステージをたずねたころ、駈けだし時代のマリリンに紹介されたときにはじまる。ディマジオよりは、よほど古い。翌年には肉体関係をもったとか。  ディマジオと別れてから二人は急速に接近し、1956年6月29日にコネティカット州ウッドベリーのミラー農場に近いホワイト・プレインズの教会で結婚した。このとき、夫妻を追っていたフランス人女性記者が、車を立木にぶつけて死んだ。  新婚旅行は、またもやディマジオの場合と同様、ビジネスとかけもちであった。マリリン・モンロー・プロダクションズがワーナー・ブラザーズと結び、ロンドンで製作する「王子と踊子」出演である。監督と共演はイギリスが誇る名優サー・ローレンス・オリビエであった。 この映画ではのびのびと演技しているが、アメリカへ帰ってからはご難つづきであった。  マリリンはディマジオと離婚直後に人工流産手術をしており、少なくとも数回目といわれる。「王子と踊子」のあとは子宮外妊娠の手術、ミラーが非米活動委員会の調査を受けたため、その涙ぐましい援助、二年近くブランクのあと1958年末マリリンのベスト・フィルム「お熱いのがお好き」に出演したら、またもや妊娠した。病院へかけつけたら、想像妊娠だった。生理痛が人一倍激しいうえに、度重なる人工流産手術で子宮がめちゃめちゃになり、性生活にはつねに積極的であったにもかかわらず、彼女の性は、無残なものであったらしい。 マリリン自身が公言し、あるいは、相手が公言している肉体関係の相手は、わかっているだけで三ダースにおよぶ。彼女はわずかの間でもセックスをしないでいられない女であり、手当たりしだい男を求めていた。  マーロン・ブランド、フランク・シナトラ、ジャック・セルナス、セミー・デービス・ジュニアらの有名スター、求婚しつづけて身を滅したジョニー・ハイドをはじめ、ミルトン・グリーン、ジョゼフ・スケンクなどスタジオ関係者などなど・・・・カメラマンは軒なみだ。 しかし、性的にダメな女であったことも、異口同音で語られている。シナトラのようにベッドからころげおちて中断した男性側の失態は別にして、エクスタシーを知らなかった女らしい。ディマジオのように、死ぬまでマリリンを深く愛しながら、「彼女のセックスは大味であった」と言明しているかっての夫もいる。 「すばらしかった」と語っているのはモンタンだけ。  最後の大きな恋の相手は、「恋をしましょう」の相手役イブ・モンタンであった。アーサー・ミラーは仕事でつきそうことができず、モンタンの妻シモーヌ・シニョーレは舞台があってパリへ戻り、浮気には絶好の条件が揃ってしまった。二ヵ月間の仲であった。  モンタンとの浮気は、アーサー・ミラーとの夫婦仲をめちゃくちゃにした。かといってミラーはマリリンの甘い肉体をあきらめきれず、みずからマリリンのためにシナリオを書いて、その「荒馬と女」のロケ地、リノまで一緒についてきた。  炎熱の砂漠で、マリリンが薬物中毒のため入院した10日間を含み、5ヵ月以上の長いロケがつづいた。時間に遅れるどころかすっぽかしの連続。ミラーとの冷たい生活にも終止符が打たれることになった。ミラーの前で”父のように敬愛する”ゲーブルに秋波を送るマリリン。ゲーブルは撮影終了11日後、心臓マヒで急死した。マリリンは殺人犯のように憎まれた。  マリリンと睡眠剤―――これはマリリンと男性たちと同様、マリリンの生涯を語る上に2番目に重要な要素である。  睡眠剤とのつきあいがはじまったのは、「ナイアガラ」のころであろう。名声とともに中毒症状もつのり、アーサー・ミラーはさながら薬物中毒患者と結婚したようなものであった。精神面の遺伝的要素がある上にネンブタールや泡水クロラールと仲よくなった。「荒馬と女」のころになると、まるで夢遊病者であった。  1961年のはじめ、ひどいノイローゼにおちいっていたマリリンは自殺を企て、3日間精神病院に収容された。春の終わりには、胆のう炎の手術をした。ニューヨークでブラブラし、20世紀フォックスとの契約で「女房は生きていた」に主演するため、ハリウッドへ戻ってきたのが1962年4月。ほとんど無為にすごした1年あまりであった。  撮影はすっぽかしの連続。マリリンは32日間に6日しか出てこず、12回カメラの前に立ち、7分間しか撮影がおこなわれていなかった。  20世紀フォックスは、8年近くも手こずってきたマリリンに、最後の断をくだした。故意に契約を違反してすっぽかしたため解雇し、同時にマリリンのおかげでこうむった損害賠償として50万ドルを要求する訴訟を起こした。  もう映画に出ようたって、ハリウッドではだれも相手にしてくれない”もと女優”のマリリン。せっぱつまってニューヨークへ飛び、ストラスバーグに迎えられた。 「欲望という名の電車」の舞台に一晩だけ立ち、生涯の名演技をのこしたが、熱中のあまり舞台で放尿してしまった。夏になると、ハリウッドに近いブレントウッドの自宅のプールサイドでブラブラしながら生活していた。  心はうつろで追いつめられた状態にあった。  1962年8月4日「プレイボーイ」誌がヌードを撮ることになり、マリリンはカメラマンのラリー・シラーと打合せたあと、午後からピーター・ローフォード家のパーティに出かけ、途中で抜け出して帰宅した。  マリリンの死。まずロサンジェルス8月5日発、AP電報によってご紹介しよう。 『ハリウッドの有名な映画女優マリリン・モンローは5日午前3時ごろブレントウッドの自宅で死亡しているのが発見された。警察は睡眠薬の飲みすぎによるものと発表した。  マリリンは前日の夕方5時15分ごろ、かかりつけの精神分析医ラルフ・グリーンソン博士に電話し、不眠を訴えた。博士に「近くの海岸へドライブでもしていらっしゃい」といわれ、メイドのユーニス・マレー夫人に「海へ行きたくないけど、もっと近くにドライブしようかしら」といいながら、「おやすみなさい」と寝室へ入った。 このときは、ふだんと変わった様子はなかったそうである。  マレー夫人―――は「私は真夜中に寝ました。そのとき寝室に電気がついていましたが、気にもとめませんでした。しかし3時に目がさめたとき、まだつけっぱなしになっていたので様子を見ようとしましたが、ドアにはカギがかかっていて返事がなく、胸さわぎがするので、庭に出てカーテンの間から部屋をのぞいてマリリンが死んでいるように思い、すぐグリーソン博士を呼びました」数分後かけつけた博士は火かき棒でガラスを割り、中へ入った。  電話器を片手に、マリリンはうつぶせになってねていた。肩までシーツがまきつけてあった。博士は「死んでいる」と思ったが、すぐに内科医エンゲルバーグ博士を呼び、死を確認したあとで、午前4時20分、警察に電話した。  警察によれば「外傷は全然なく、部屋は荒らされておらず、遺書らしいものはなかった。ベッドわきのテーブルには睡眠薬のビンがころがっていた。ミス・モンローは寝室へ入ってまもなく、午後8時ごろ死亡したと思われる。」  発見されたとき、マリリンは彼女のトレード・マークである”シャネルの5番”のほか、なにも身につけていなかった。  すぐに検屍官が呼ばれた。安物のブルーの木棉の布に包まれた遺体は、検屍官のステーション・ワゴンにのせられ、近くのウェストウッド死体仮置場へ運ばれた。検屍の結果は一週間後に判明する。  ジョー・ディマジオがニューヨークから飛行機で飛んできた。』  ウェストウッド死体仮置場で、マリリン・モンローはつぎのように登録された。  検屍番号81128。姓名ノーマ・ジーン・ベイカー。白人、女性。年令36才。身長166・4センチ、体重53.2キロ、中肉中背のよく発達した肉体。(この比率を拡大するとミロのヴィーナスになる)  マリリンが死んで3日目の8月8日。  ウェストウッド教会で簡素な葬儀がいとなまれた。事実上の喪主は遺体を引き取ったジョー・ディマジオ。「故人かねてからの希望」で、映画スターや名士はただのひとりも招かれなかった。23名の出席者は、親しかった衣裳店主、美容院主、運転手、宣伝係、マネージャー、弁護士、ディマジオの息子ジョー・ジュニアなど。  なかでも死の前日パーティに招き、マリリンが寝てから電話をかけて呼び戻そうとしたといわれるピーター・ローフォードの立腹はたいしたもので、「誰が決めたか知らないが、万事は悪く進んだ」と語った。ディマジオによれば「ああいう友人がいなければ、マリリンは今も生きているのさ。考えてもごらんなさい、スターを一人でもよんだらさいご、ここまでと線を引くことは不可能だ」  ディマジオひとりが傷心の姿で柩の前にひざまずき、三度も「アイ・ラブ・ユー」と泣いた。最初の夫ジム・ドハティは知らん顔、三番目の夫アーサー・ミラーはカネティカット州ウッドベリーの農場に閉じこもり、記者団を「ノー・コメント!」と追い払った。もしマリリンが死ななかったら、ディマジオともとのサヤにおさまるはずだったともいわれる。  列席者の胸をかきむしったのは、ニューヨークから寄せられたリー・ストラスバーグの弔辞であった。  「彼女はその生涯をつうじ、虐げられた背景に成長した少女のみが成しうる神話を創造した。全世界に対し、疑いもなく”永遠の女性”の象徴になったのである。・・・」  マリリンの死から12日目の8月17日、彼女の遺言が正式に発表された。それがいかにもマリリンらしかった。  遺言は不動産が約50万ドル(約1億5千万円)  

@まず10万ドルの信託基金を設け、そのなかから  
a、精神病院に入院中の母グラディス・ベイカー夫人に毎年5千ドル  
b、親友であり元教師のマイケル・チェーホフ夫人に毎年2千5百ドル  
c、ほかはかつて世話になったニューヨークの婦人神経科医マリアンヌ・クリス博士が希望する研究団体に、精神病学研究のため寄付  

A遺産贈与  
a、異母妹バーニス・ミラクル夫人に1万ドル  
b、もと秘書メアリー・ライスに5万ドル  
c、友人ロストン夫妻が愛児パトリシアを教育する費用2千5百ドル   

B@Aや経費をのぞくすべての残余額(約25万ドル)をリー・ストラスバーグへ。衣類一切および形見の品をマリリンの友人、同僚たちへ与える権限も含めて。  

こうしてみると、マリリンのただひとつの心の支えは、老師ストラスバーグであった。  同じ日、ロサンジェルス市の検屍官シオドア・カーフィーが、マリリンの死因について最終的な断定をくだし、もっぱらささやかれていた過失死説を否定した。その要点は、  

@ロサンジェルス監察医務官・野口富恒の検死および解剖報告および精神学医の報告から判断して、彼女の自殺はほぼ疑いないものと思われる。彼女が8月2日、エンゲルバーグ博士から入手したネンブタール50錠入りの空ビンがベッドのそばに転っていたし、彼女が長期にわたって精神的な悩みを訴え、かなり強い脅迫観念に捕われ、不眠症であったことも明白であるが、常用する睡眠薬の使用に十分なれていて、使用量、危険量も熟知していたはずである。  

A部屋から発見されたネンブタールは、ふだんに比べて異常に多量だった形跡はないが、調査によると彼女は「映画界から引退したい」とか「死にたい」としきりに口走っており、過去にも睡眠薬自殺をはかったことが一度ならずあった。そのたびに自分から助けを求めてことなきを得たが、今回はそれをしなかった。  

B毒物学的な検死報告はまだその全貌を明らかにしていないが、”まずまちがいのない自殺”Probable Suicide である。  ロサンジェルス市自殺防止委員会長ノーマン・フォーベロー博士は語る。

「ミス・マリリン・モンローは以前にもこの委員会に救いを求めてきたことがある。死の床で手にしていた電話の相手がだれであったかもちろんわからないが、私たちはあのとき以前と同じように救いを求めてきたと信じている。その望みが達せられなかったことはとても残念である。いまはミス・モンローの霊安らかにあれど、心からの祈りを捧げるのみである」と。
墓地はロサンゼルス市西部、ウェストウッド・パーク・メモリアル・セメタリーにある。お寺の住職の息子・永六輔氏がつけた戒名は”妖艶院愛嬌大姉”、中国語の当て字は”瑪麗蓮夢露”。どちらも感じがでている。  マリリンが死んでからもマリリンほど、書きたてられた女性は少いだろう。  生前にモーリス・ソロトウというジャーナリストが伝記を書いたのをはじめ、ベン・ヘクト、フレッド・ローレンス、リッチ兄弟などの手により、伝記が少なくとも8冊アメリカで出ている。  なかでもセンセーションを呼んだのは、死後11年たってアメリカ最高の作家のひとり、ノーマン・メイラーが書いた「マリリン、その実像と死」(日本語訳・中井勲、継書房、1973年)である。  この本はまだ発表される前から日本でも新聞や週刊誌で宣伝され、マリリンがホワイト・ハウスの陰謀によって殺されたというショッキングな話題を提供した。おかげで、いま日本ではマリリンが、CIAなどアメリカのさる政府機関によって殺されたように考えられている。  ノーマン・メイラーの本を読む前、といっても日本語訳が出てからであるが、ぼくはハリウッドのウェストウッドにある安ホテルに泊まっていた。そこでアイルランド系の映画記者に聞いたことがある。 「マリリン・モンローは殺されたんだって?」  彼はすぐにさえぎった。 「ナンセンス、自殺だよ。すぐそこにお墓がある」  日本へ帰ってから、ノーマン・メイラーを読んだ。訳者もあと書きに書いておられるが、殺害説などカケラもなく、メイラーは自殺説をとっている。なによりも、この大著はマリリンの生涯をくわしくしらべ、宣伝部やマスコミのでっちあげと、事実との間を区別しようとした労作であった。この原稿にも、20世紀フォックスの資料とともに参考にさせていただいた。  メイラーによれば、ジョン・F・ケネディ大統領の弟、司法長官のロバート・ケネディとマリリンとの仲は、マリリンの死の数週間前、ハリウッドの山火事のようにひろがり、アメリカ上流社会の常識になったという。逢っていたことは事実だが、ロバートはカタブツで夫婦仲もよく、カトリック教徒であった。ロバートの家や、紹介者ピーター・ローフォード(夫人はジョン・F・ケネディの妹パット・ケネディ)の家で顔を合わせていた。そして、電話で他愛もない話をする間柄にしかすぎなかったらしい。  死の2ヶ月すこし前、ジョン・F・ケネディ大統領の誕生日パーティが、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開かれ、ローフォードがマリリンを招待した。マリリンは「女房は生きていた」の撮影をすっぽかしてニューヨークへ飛び、”ハピー・バースディ・プレジデント”を歌い、2万人の招待客を陶酔させた。  そして、8月4日の夕方、ローフォード家のパーティにもロバート・ケネディがいた。  問題点は、マリリンが死の前に3人の男に電話をかけたらしいことである。ひとりはローフォード、ひとりはロバート・ケネディ、三人目が疑問とされている。おそらくマッサージ師のラルフ・ロバーツか、自殺防止委員会と考えられる。  マリリンとケネディ家の関係はこれだけである。マリリンがローフォードとロバート・ケネディに電話をかけたのは、パーティの二次会のことであった。  どうしてマリリン暗殺説が出たか。暗殺説を流した日本の週刊誌の記者にたずねて見た。 「ノーマン・メイラーがすごい本を書いていて、マリリンとケネディ一家との間に関係があり、それが死に結びついているのではないか、という情報が出版権の代理店から伝わってきたので、われわれは飛びついたんです。  アメリカの政府機関が、マリリンの死とケネディ一家と関係がある証拠を持ち去ったともいうのです。 よそに出し抜かれたくないという気持ちがさきに立って、わずかの材料で記事を作りました。マリリンも、ジョン・F・ケネディも、ロバート・ケネディも死んでいるので事実はわかりっこないし、アメリカ政府を犯人に仕立てても、中国やソ連ではないから抗議がくる心配はない。競争誌でも、アメリカ政府のしわざにしていました。あとからメイラーの本を手に入れてみたら、暗殺説などカケラもないんですね。困りましたが、知らん顔するほかないでしょう。」  なんのことはない、マリリン暗殺説は早とちり、反米記事がお好きな日本マスコミの創造であった。  やはり、死後10年以上たっても、マリリンは書きたてられ、書きつづけられている。