竹脇 無我

生年月日:1944年2月17日 

出生時間:不明

出生場所:東京

経歴:60年、高校在学中に松竹映画「しかも彼等は行く」でデビュー。

二枚目俳優としてテレビドラマ『大岡越前』、『だいこんの花』などのほか

映画や舞台でも活躍。

 

出生時間が不明のため、ラグナを確定しなければならないが、彼の場合、0:00:01でチャートを作ると、月が天秤座のヴィシャーカーに在住するが、それだと、後ほど述べる彼が躁うつ病で苦しんでいたことと一致しないため、月は蠍座に在住していなければならないと判断される。すると、月がとり得る位置は牡羊座から、天秤座までぐらいになる。(蠍座になると、日付が翌日になってしまう)

また、父親が1959年11月頃に亡くなっていることなどから考えると、ラグナは双子座ではないかと思われるのである。

 

・・・月はケーマドルマヨーガで孤独を好む傾向があり、家庭から離れ、別居したという事実を物語っている。

・・・家を表す4室支配星は8室に在住するため、家庭運が良くないことを表すことになる。

・・・酒を暴飲する癖があるらしいため、ラーフを2室に設定できる。

・・・9室支配の土星が12室(損失)の部屋で、6室支配の火星(病気)と同室するように設定されたため、父親が早期に亡くなっている点を確認できる。

・・・5室(恋愛)の要素が8室(苦しみ)をもたらすという配置。

・・・12室に土星と火星が在住し、病院という意味を強く表示する点

 

双子座ラグナにすると、上記のようなことが確認できるのである。

 

そこで今回はラグナ双子座ということで、

ヴィムショッタリダシャーを検証することとする。

 

彼が最近、週刊ポストの中で過去の躁うつ病で苦しんでいた時の事を明らかにしているが、記事の下記は記事の引用である。

竹脇 無我

 

「酒と女と自殺未遂」衝撃告白・・・ 「毎日死ぬことばかりを考えていた」。

こんなショッキングな告白をするのは竹脇無我だ。二枚目俳優として順風満帆だった彼はいつしか酒、女に溺れ、自暴自棄となっていった。そこまで追い込まれた理由とは・・・地獄の8年間を今、初めて明かす。

自分がこんなふうになってしまうなんてまったく思いもしなかった。仕事も順風満帆だったし、まだバブルの弾ける前で、仕事が終わると、銀座、赤坂、六本木と毎晩のように朝方まで飲み歩いていた。でも結局、若い時からの自分の生活のツケが回ってきたんだね。

何となく体のだるさを感じはじめたのは、93年頃だったかな。でも、それは切れ間なく飲んでいる酒のせいだと思っていた。

ところが93年夏、テレビドラマで札幌ロケに行った時、大好きなゴルフをしていて猛烈なだるさに襲われ、ハーフでやめてホテルに帰った。今から思うと、それが、以後8年間にわたる躁うつ病との闘いの幕開けだった。 人に勧められて漢方薬を飲んだりしたが、体のだるさは尋常じゃない。コップが鉛のように重い。電話の受話器は数秒待っているうちに金の延べ棒のように重くなる。なにがなんだか分からなかった。

94年になって1週間の検査入院をした。肝機能が低下していて酒をやめろといわれるのではないかと覚悟していたのだが、結果は、肝機能はじめどこにも異常なしというものだった。 では、この倦怠感は何なのかと思いつつ、でも僕の仕事は会社員じゃないから、簡単に「今日は休む。お前、ちょっと代わってくれ」というわけにはいかない。本当は暗い閉め切った部屋でひたすら寝ていたかったが、僕も周囲の人間もやはり仕事をすることが回復につながるのだろうと考えた。 でも、なにしろカメラに映りたくない。「ああ、何でこんな仕事してんのかな」と思ってね。とても見られる顔じゃないと自分でわかるから、それでもやるのは辛かった。現場に行きたくないし、人に会いたくないし、電話もしたくない。ホントに体を起こせない。連続ドラマなどの仕事も、しょっちゅう降番し、誰かに代わってもらったりするようになっていった。 台詞も覚える気がないというか、全然覚えられない。だから自分に思い浮かんだ台詞だけをいう。「ここはこうで次はこう」といった台本の流れも全くわからない。

この時期、家では毎日缶ビールを10〜20本は飲んでいた。午後4時頃から飲み始め、眠れるまでひたすら飲む。酔っ払ったまま横になるんだが、すぐ目覚めてしまう。睡眠が浅く、全然眠れない。それまで1日10本程度だった煙草も20本ぐらいに増えた。そのうち「死にたい」と思うようになり、がんになりたい、と。がんなら完璧に死ねる感じがする。それなら煙草を増やしてがんになってしまおう、というわけだ。当時、僕は姉と同じマンションに住んでいたのだが、夕方になると、姉は僕にビールを買いに行かせる。酒屋は重いから配達しますよといっているのに、姉は自分で買いに行きなさいというんだよね。その帰り、歩道橋の上で「ここから飛び降りれば死ねる」と思う。でも「バスはスピードが遅いから死ねないな。トラックを待とう」「やっぱり軽自動車じゃ死ねないな」などといちいち理由をつけて、「ああ、もう今日はやめよう。帰ってビールを飲もう」と、毎日そんなことを繰り返していた。

 

<年下の女性にのめり込む>

96年1月下旬、朝起きるとまったく体が動かない。ああ、限界まで来たと悟って専門病院に行った。「死にたい」と繰り返す僕の話を最後まで聞いて、医師は「うつ病です」と診断した。そして、そのまま入院することになった。

なぜ、うつ病になってしまったのか。 それを考える時、まず頭に浮かぶのが父のことだ。

人気アナウンサーで「マダムキラー」といわれていた父は59年11月9日に49歳で自殺した。僕の精神的な疲れ方は、父とよく似ていた。父は当時「ノイローゼ」といわれたが、今思えば重症のうつ病だったのではないか。 父が死んだ時、僕は高1だった。ところが、次第にその年齢が近づいてくるにつれ、自分も49歳で死ぬのでは」という強迫観念に襲われて、49歳で父の命日を迎えるのが怖かった。

94年11月9日が、その日だった。僕は京都のホテルにいたのだが、一緒にいたマネージャによると、「オレも今日で終わりだ」とひどくおびえていたという。 また、僕は26歳で結婚し、娘が2人いるのだが、40歳を過ぎた頃に家を出て別居していた。自分がつくづく家庭生活に向かない人間だと分かったからだ。 妻は、いろいろと、よくしてくれた。だけど、僕はそれに応えられなかった。僕のために、たとえば洋服はエルメスやダンヒルというようにいつも良いものを用意してくれる。でも喧嘩している時は絶対に身につけたくないし、弁当を作ってくれても玄関に置いて出る。何か小さなことがシャクにさわってダメなのだ。そんな理由で別居しながら経済面の責任ははたそうと、ギャラの大半を生活費と養育費として送り続けていた。家庭問題と経済問題が僕の頭上に重くのしかかっていた。

もうひとつは女性問題だった。家を出る少し前、30代終わり頃から、僕は、ある女性に夢中になっていた。彼女は僕よりかなり年下だったが一目惚れだった。ところが、結果的には、彼女は僕と全く価値観が異なる人だったのである。 それでも恋は盲目というわけで、僕は、数年 間、彼女に惚れこみ、まるでクモの巣にからめとられた蝶のような状態で、彼女のために自分のエネルギーを使い果たしてしまった。いろんな意味で僕のキャパシティを超えた恋愛だったのだ。

家族と別居してからも、僕は妻と2人の娘への罪悪感に苛まれていた。とくに、娘2人には辛い思いをさせたと思う。僕のうつ病は、こうした僕のわがままが一因になっているのだ。たとえば定員1000人の劇場に2000人はどうしても入れられない。それと同じように、自分のキャパシティ以上のことをするとその反動が大きい。自分の処理できるキャパシティを超えた厄介事を背負い込んだ時、僕はうつ病になってしまった。

 

<一日中眠れるのがうれしい>

96年1月の入院で、僕は、テレビドラマ「大岡越前」のレギュラー・ ○原伊織役を降番することになった。うつ病をだましつつ、どうにか仕事を続けていたが、一度引き受けた仕事をキャンセルするのは初めてだった。申し訳なかったが、とても体が動く状態ではなかったのだ。入院した病院では抗うつ剤や睡眠薬を投与され、時間を気にせずに一日中眠れるのがうれしかった。

そうしているうち、4月になると、一気に、うつから躁に転じた。このように急激に躁に変わるのを躁転というそうだが、その躁状態を抑える薬を飲んで、気分も落ち着いていた6月に退院した。 退院した僕は江東区のマンションの8階に引っ越した。躁になると、周辺の人はうつが治ったと思ってしまう。だが当人にとっては躁もまたきつい。躁がエベレストだとすれば、その先に同じくらい深いうつという谷が待っているのだ。だが初めて躁になった時は、これで治ったと思ってしまい、このまま人生明るくいけると思ってしまう。 全然眠りもせず、夜から朝9時や10時まで飲んで、そのまま舞台に駆けつけても平気。繁華街に出かけても、いろんなものを買ってしまう。必要もない物を買い込んでしまうのは典型的な躁の症状だ。よく行く神楽坂の坂道には薬店、陶器店などが多いから、そこでシャンプーや薬などを買い込んでしまう。今でも自宅には「ムヒ」が10本もある。高い洋服もずいぶん買った。左へいくと神楽坂で右に行くと靖国神社というわけで、金がかからないからと靖国神社のほうに曲がるようにしていたんだけどね。

ところが少し経つと、再びうつ状態に変わった。今度は一転して買い物にも出ないし、全部、人任せになる。うつが高じ、児童の登校拒否ではないが、ほとんど引きこもりみたいになってしまった。 夜一人で缶ビールを手にして自宅マンションの9階の屋上に出る。以前、『完全自殺マニュアル』という本を読んだら、マンションから飛び降りても8階以下では死ねないと書いてあったのを思い出す。ここは9階だから確実に死ねると思いつつ、下を見ながら、ここには車がある、ここは樹木がジャマになる、と場所を移動する。そして自分の服装に気がついて「こんな汚れたパジャマで死んだら、 みっともない」などと毎晩のように繰り返していた。

この年8月に『徳川宗春』の舞台があった。だが僕は全く台詞が覚えられず、ついに長い台詞はテープで流すことになった。自分がしたことだから言い訳はしたくないけれど、役者としては完全な敗北だった。

その後も躁とうつを繰り返し、99年12月、僕はついに自宅で倒れて救急車で病院に運ばれた。酒の飲みすぎで脱水症状を起こしていたらしい。 その時の検査で血糖値が600ミリもあったことが分かった。基準値は70〜100ミリだから、とんでもなく高い。

翌年1月、糖尿病と躁うつ病を治すために総合病院に入院した。ここで精神科の主治医のT先生と出会ったことが転機となった。ある時、T先生のお母さんが僕のファンだと病室に見舞いに来てくれた。少し経つと、お母さんはがんで入院したという。さらに数日後に様子を聞くと、T先生は、「ああ、死んじゃいました」というではないか。 自分より辛い思いをしている主治医のT先生。病院の喫煙コーナーで顔見知りになった人たちの中には、僕より重い疾患を抱えている若い女性もいた。それに比べると僕のうつ病など気楽なもんだと思い、僕は、この病気を本気で「治したい」と思うようになっていった。

 

<心に響いた森繁さんからの手紙>

うつ病から抜け出すのに、必要なものが4つある。それは休養、薬、患者本人の治そ うとする意志、そして周囲の人々の支えである。 最後の周囲の人々の支えだが、僕の師であり親とも慕う”森繁の親父”こと森繁久弥 さんは、僕の病気をよく理解し、黙って見守ってくれた。 一緒にテレビを見ていると「そうか。人に会いたくないという病気があるのか」なん ていいながら、僕のほうは見ず、普通の態度で接してくれた。 3年ほど前、ようやく調子がよくなったので「何年間も大変失礼しました」と手紙を書くと、すぐに返事が返ってきた。そこには「長い間、待ちました」と、こう書かれていた。 「人間は泣いてばかりでは生きられない、また笑ってばかりでも生きられぬ(略)。交互にやればいいでしょう。太陽にだってそれがあります。ましてや人間にだって」 『大岡越前』の相棒・加藤剛さんも「物は考えようで、私たちの役者稼業は躁もうつも軽く手玉にとるのが仕事の技」だと手紙をくれた。 こうした思いやりにあふれた手紙をもらって、僕の気持ちはとても楽になった。自分も、うつ病の人に接する機会があれば、こんなふうに見守ってあげたい。

僕にとって、うつと躁に悩まされた8年間は確かに苦しかったが、一方で役者としても人間としても得難い体験をしたと思う。それは何といっても他人の痛みがわかるようになり、周りの人に対する感謝の気持ちを得たことだ。 今は落ちついているが、完治したわけではない。ずっと付き合っていくのだろうが、またうつに襲われても僕は今度は肩の力を抜いて向きあえると思う。 もし現在、うつ病に悩んでいる人は、散髪にでも行くように気楽に心療内科や精神科に出かけてほしい。僕が声を大にしていいたいのは「うつ病は死ななければ絶対に治る」ということだ。死にさえしなければ、今までの自分よりトンネルを抜けたみたいに明るくなれる。歯をくいしばって生き延びれば、絶対に治る病気だということを皆にわかってもらいたい。

 

彼が1993年頃から突然、体調に異変を感じ始め、その後、およそ8年間の間、躁うつ的症状に悩まされたことが述べられている。

上記の内容を略年表式にまとめ、それにダシャーの解釈を加えると次のようになる。

1959年11月9日・・・父親が49歳で自殺する。父親は当時「ノイローゼ」と診断されていたとのこと。(土星−ラーフ)

土星は父親を表す9室の支配星で12室に在住し、病気を表す6室の支配星である火星と12室でコンジャンクトし、またラーフは9室の支配星で、マラカの2室に在住し、マラカの木星とコンジャンクトしている。

1970年・・・26歳で結婚する。娘2人。

 

1984年頃・・・家庭生活が肌に合わず、家を出て別居する。(ケートゥ−ラーフ、ケートゥ−木星期)

 

1993年夏・・・テレビドラマで札幌ロケに行った時、大好きなゴルフをしていて猛烈なだるさに襲われ、ハーフでやめてホテルに帰る。 (本人コメント:今から思うと、それが以後、8年間にわたる躁うつ病との闘いの幕開けだった)(金星−火星)

金星は苦悩を表す8室に在住し、また、火星は病気を表す6室の支配星で、12室(病院)に在住している。

 

1994年・・・一週間の検査入院をする。肝機能には異常なしとの診断結果。倦怠感あり。この時期、家では毎日缶ビールを10本〜20本は飲んでいたとのこと。煙草も10本から20本に増える。「死にたい」と思うようになる。(金星−ラーフ)

 

1996年1月下旬・・・朝起きるとまったく体が動かない。うつ病と診断され、入院する。 入院してからは抗うつ剤や睡眠薬を投与され、時間を気にせずに一日中眠れるのがうれしいかったとのこと。 96年4月頃、一気に、うつから躁に転じる。6月に退院。(ケートゥ−ラーフ−水星)

 

96年8月頃、『徳川宗春』の舞台があったが、本人によると、台詞が全く覚えられなかったとのことである。その後もうつと躁を繰り返す。

 

99年12月、自宅で倒れて救急車で病院に運ばれる。酒の飲みすぎで脱水症状を起こす。血糖値が600ミリ(通常の6倍近く)あることが判明する。 (金星−木星)

 

2000年1月、糖尿病とうつ病を治すために総合病院に入院。 (金星−木星−ラーフ、金星−土星−土星にほぼ切り替わる直前)

おそらく月は蠍座に在住していると思われるが、実験的に設定しただけであり、また仮に

正しかったとしても細かいラグナの度数やナヴァムシャの確定などで間違っている可能性が

高い。然し、火星→ラーフ→木星→土星という期間は要注意であり、例えハウスがずれていたと

してもこれらの惑星が絡んでくるものと思われる。