ジグムント・フロイト(Sigmund Freud)

1856年5月6日 18:30 LMT

出生地:チェコ・モラヴィア地方フライベルク

ジグムント・フロイトは、精神分析学の創始者で、人文科学のあらゆる領域に影響を及ぼした20世紀の知的巨人として知られている。

彼は神経生理学を専門とする開業医であったが、その後、ヒステリー患者の治療や自身の夢の分析、錯誤行為などの研究、そして、当時の様々な分野で活躍する研究者の思想や文学の研究などから、ついに無意識に関する理論を打ち立てたのである。

フロイトのチャートを作成すると、10室支配の月と9、12室支配の水星が8室牡牛座でコンジャンクトしており、9室と10室が絡む良質のダルマカルマラージャヨーガを形成している。

この8室牡牛座でラージャヨーガが形成されている点が重要である。

フロイトの理論はエネルギー保存の法則など、当時の物理学の理論を意識したもので、唯物的な世界観を背景にして打ち立てられたものである。

フロイト没後のアメリカ精神分析学会会長のハインツ・コフートの研究者である中西信男教授は『コフートの心理療法』(ナカニシヤ出版)の中で、フロイトのギムナジウム時代(学生時代)の愛読書が以下の3点であり、それらのいずれも唯物的な世界観に彩られたものであったことを明らかにしている。

@『力と物質』(1855)ビュヒナー著

A『古き、そして新しき信仰』(1872)シュトラウス著

B『キリスト教の本質』(1841)フォイエルバッハ著

例えば@の書物については当時では有名な書物で、唯物論哲学を説いたもので、「革命の夢想」として知られており、当時、若者の頃、フロイトは青二才の若者だったとき唯物論について話し、極端な議論に打ち込んだそうである。

またAの書物については、ヘーゲルの観念論を唯物論に変え、キリスト教の三位一体、原罪、処女懐胎、霊魂不滅などの信仰を否定し、著書はイエスを「熱狂的で妄想的なユダヤ人」として描いているようである。

Bに関しては、マルクス・エンゲルスに強い影響を与えた書物として知られており、フォイエルバッハの神概念は「神は人がそのイメージとしてつくりあげたものである」と述べているようであり、唯物的な性質のある書物のようである。

これらの唯物的な書物を彼が選択した原因としてはやはり、土の星座である牡羊座に彼の知性、思想や考え方を表す水星が在住し、感情、気質を表す月が在住して、強く土の影響を受けていることが考えられる。

彼は非常に熱心な研究活動の末に精神分析という前人未踏の理論を打ち立てたのであり、それはこの水星と月のラージャヨーガが8室で形成されて研究を表していることが表しているようである。

また、8室はマニアックな世界、マイナーな世界を表しており、また牡牛座の月は美術コレクターを表していることが多い。

彼はギリシア・ローマ、そして、東洋の美術品、骨董品を収集していたことで知られている。それは非常に本格的なものだったようである。

http://www.kajima.co.jp/csr/culture/freud/greeting-j.html (収集家としてのフロイト展)

牡牛座の月はしばしば物の収集家になるようである。

私の知り合いに水星が牡牛座に在住している人がいるが、パソコンや放送機器の収集家である。

また前民主党の代表である前原誠司氏は金星が牡牛座自室に在住して強いが、SL(鉄道)の関連物や写真のコレクターのようである。

牡牛座は審美眼があり、具体的な物質を収集して、生活の質を高めようとする性質がみられるのである。

 

このようにフロイトの8室は非常に彼の特徴を鮮やかに反映している。

彼の理論は、エネルギー保存則と、産業革命時に発明された蒸気機関の仕組み(熱力学)を参考に作られており、膨張する蒸気の力と、それを押さえつけるピストンの物理的な連係をイド(無意識)とスーパーエゴ(超自我)の葛藤として、イメージしているのである。

このような機械的唯物論が、彼の人間理解の本質であるのだが、これは彼の水星と月が牡牛座に在住していることから非常によく分かるのである。

 

次にラグナロードの金星が7室に在住し、7室支配の火星が金星と7室自室にアスペクトしていることが分かる。

7室の状態が非常に強いことが分かる。また11室支配の太陽が7室に在住し、ラグナロードの金星とコンジャンクトしており、また7室にはラーフが在住しており、同室する惑星の影響を強く受けるとともに、同室する惑星の象意を極限まで引き出す影響を与えている。

ラグナロードが7室に在住することは相手に対してコミットメントしていくことを示しており、それは彼の仕事が開業医として、主にヒステリー患者の神経症を治療することであったことに表れている。基本的に一対一の契約関係であり、それは1−7室的な関係である。

そして、その治療契約から収入を得ていることは1室と11室が絡んでダナヨーガを形成していることで示されている。

11室の支配星が7室に入るだけでもパートナー、契約相手から得られる報酬という象意を示しているが、1−11室のダナヨーガが形成されている。太陽は7室で高揚しており、彼が患者に対して、絶対の権威者として、振舞っていたことが示されている。

実際、ヒステリー患者の治療とは患者を寝かせて、催眠をかけたり、自由連想をさせたりなど全く主導権は治療者の側にある。

この7室は性欲や性的関係を表す部屋でもある。7室に金星が在住した場合、金星の象意がパートナーとの関係とか、性的なものにばかり消費されることを示しているが、ラーフが在住することでさらにその傾向が強くなっている。ラーフは決して満足することのない欲望を示している。

彼の理論の中で、イド(無意識、本能)は性欲であるとし、文化や文明の発展などを性欲の昇華したものとして、全てを性欲で説明しようとしていることが認められる。ヒステリーの原因も性を意識することの抑圧を受けているためにそれが身体的症状に転換されて起こっているものとして理解したり、小児性欲を唱えたりなど、非常に性にこだわるのも彼の強調された7室を見ると理解できる。

フロイト自身が神経症であったことは知られている事実だが、それを観察し、理解していくなかで、彼の理論が構築されたのかもしれない。

彼自身も性の問題とは格闘したのだと思われる。それは彼の幼児期の複雑な家族関係の中にヒントがあり、彼は父親の非常に若い後妻を継母として、成長したのであり、その過程で、感じてはいけない性欲を継母に対して、感じてしまった可能性があるのである。そして、父親の妻に性欲を感じたり、そして、父親と妻を巡って争う関係となり、父親を殺したいという無意識の情動を神経症を研究する中で、意識化したのかもしれないのである。

おそらく、そうした彼の特殊な生育環境や家族関係が、彼の理論の中にギリシャ神話をモチーフにした『エディプスコンプレックス』を加えた理由だと思われる。そうした彼の理論は全て、自身の幼児体験から来ており、それをそのまま理論にしたのである。小児性欲も父親を殺したい衝動もおそらく、彼自身が幼少期に感じていたものだったのである。

実際、彼は生まれて直ぐにマハダシャー火星期に入っており、火星は7室(性欲)の支配星で、12室に在住している。

西洋占星術では12室は無意識を表すとされているが、性欲を表す火星がシャドバラ1.9ポイントと凄まじい強さで12室に在住しているのである。

これはリビドーエネルギー(性欲)を識閾下(無意識)に強烈に押し込めて抑圧している様子をイメージさせるのである。火星は12室から7室自室にアスペクトして、無意識の中に押し込められたエネルギーがそれでも性欲として溢れ出してくるイメージである。

彼が性欲を理論の中心に据え、神経症の原因は抑圧された性欲であるという発見をヒステリー患者の治療を通して発見したのは、こうした彼自身の惑星配置と幼児期の状況があったからだと思えてくるのである。

そうして考えると、この理論自体、彼の人生の物語であり、カルマであるように思われる。

 

西暦
出来事
ヴィムショッタリダシャー

1856年
5月6日

旧チェコスロバキア領モラビア地方の小都市フライベルクに生れました。父はヤコプ、母はアマリエです。ヤコプには前妻との間に二人の子供がいました。アマリエはヤコプにとって二人目の妻です。結婚した時ヤコプ40才、アマリエ21才。アマリエは有名なユダヤ法学者レップ・ナタン・ハレヴィの子孫でした。結婚してから5年目にフロイトが生れます。フロイトの下には5人の妹、一人の弟が生れます。アンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラそしてアレクサンダーです。フロイトが生れた時どのような名前にしようか迷いましたが、モラヴィアの王で伝説上の英雄ジークムントからその名前を取りました。。アマリエはフロイトに大変期待し、そして溺愛しました。フロイトの父親は毛織物商人でした。その商売も機械の機織機が出てきて安い布が市場に出回ると苦しくなってきました。
月/太陽
1859年 ウィーンに移住することになります。  ウィーンに移ってからのヤコプは羊毛を売って暮らしていました。フロイトはとても知識欲旺盛な子供で、たくさんのことをすぐに吸収しました。成績は常にクラスで一番でした。10才の時にシュペルル・ギムナジウムに入学します。
火星/木星
火星/土星
1866年 シュペルル・ギムナジウムに入学。

ラーフ/ラーフ
ラーフ/木星

1873年 ウィーン大学入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやウナギなど魚類の神経を研究、その論文はウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。ある晩にウィーン大学から来た講師の話しを聞きに行きそこでゲーテの書いたものからの引用をしました。「自然、自然、自然はすべての秘密に解答を与える」フロイトは科学を勉強することに決めました。フロイトはある日の午後大学の広場を横切ろうと思ったとき、へんな眩暈に襲われました。そのような奇妙な感じは駅のプラットホームとか広場を横切るような時に感じられました。しかし体のほうはとても丈夫でした。そのような変な眩暈を感じる時、恐怖感を感じ脈が速くなり息が切れ汗が出てきました。でもすこし休むと治りました。  フロイトはここで二年間科学と物理を勉強しましたが、それらには不向きであることを知り、医学部に入学しエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入ります。ここで彼は5年間動物の神経の構造を研究します。ウナギ、カエル及び魚類の神経構造に関する彼の論文はウィーン科学協会でブリュッケ教授によって発表されました。ここで彼はジークムント・フォン・エクスナー、フライシュ・マルホウ、ケーニッヒシュタイン、コーラーなどと知りあいになります。ヨーゼフ・ブロイアーもここに出入りしていました。彼とはのちに「ヒステリー研究」を共同で出版します。フロイトは解剖学を研究して全身の解剖の知識を身に付けていました。そしてもっと興味をもったのはものではなくて働きであり、人間のデリケートな思考と感覚でした。彼はすぐには大学を卒業せず、7年間そこにいました。
ラーフ/水星
1881年 ウィーン大学卒業。
ラーフ/火星
木星/木星
1882年

フロイトはのちに結婚するマルタ・エルナイスと出会います。フロイトは26才でした。マルタの兄のエリとフロイトの妹のアンナが知りあいになり、お互いの家を行き来するようになります。エリは有名なドイツのラビで現代神学を創設したイザック・ベルナイスの孫でした。エリには二人の妹がいました。姉のミンナと妹のマルタです。ミンナはかしこそうな目をしたスタイルのよい少女で、激しい気性を持ち、知性が高かった。作曲家のシェーンベルクの弟と婚約していました。しかしこの男性は急死してしまいました。マルタはそれと違い、冷静でデリケートな女性ですらりとしていて貴族的な顔をしていました。彼女はとても芸術的でした。  フロイトはマルタに一目ぼれし、そして二人は恋におち婚約します。しかし結婚するまでに4年もかかりました。フロイトはマルタと結婚するために父親の経済的援助から離れ自活しなければなりませんでした。しかし彼自身まだそのような状態ではありませんでした。彼はこの婚約を契機にブリュッケ研究所をやめて、1883年からウィーン総合病院の神経科に勤務することになります。そして神経病医としての資格をとり開業できるまでになりました。彼は大学時代ブリュッケ教授の助手に任命されると思っていましたが、それはなされませんでした。それが決まり次第二人は結婚式をあげる予定だったのです。フロイトは他の道を探す以外にはありませんでした。それで開業しようとしたのでした。ブリュッケ教授もこれ以上研究活動を続けることに懸念を示しました。フロイトはこの自由な雰囲気の大学にもユダヤ人に対する差別が存在するということを痛切に感じざるを得ませんでした。ユダヤ人には「自分だけでやれる仕事」しか許されてはいませんでした。マルタの母親はフロイトとマルタを別れさせようとしました。結婚することは絶望的だったからです。しかしマルタの決心は変わりませんでした。  フロイトがウィーン総合病院に入ったことは、のちの彼の精神病理学者になる第一歩になります。彼はそこでいろいろな神経病患者を見ました。また体のどこにも異常がないのにいろいろな訴えをする患者の各種の症状、麻痺、チック、振顫、悪心(吐き気)、痙攣および視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の障害、またヒステリー患者や恐怖症、神経衰弱、をみるようになります。彼はこれらの患者を研究するようになります。フロイトはこの病院の脳解剖学研究所(精神医学研究室?)で研究を続けました。ここの所長は脳の有名な研究家のテオドール・マイネルト博士でした。フロイトはつぎつぎに脳を調べて、神経の病気の際に彼らの症状をしめすような脳の形の変化とか、脳の軟化に遭遇しないかどうかということを調べました。マイネルト教授はフロイトにここに留まって研究を続けるようにと薦めました。しかし彼はブリュッケ教授の時のことを思い出しました。 「ここにいても教授になることはできまい。いままでユダヤ人が正教授に任命されたことはなかったのだから。」  彼はここでたくさんの研究をしましたが、結局自分の問いの答えになるものは発見できないだろうと結論づけました。ここの多くの患者は体に異常がないのに症状をもつ人たちでした。  フランスにヒステリーを研究していたすばらしい医者がいました。ジャン・マルタン・シャルコーです。シャルコー病(脳脊髄硬化症、筋萎縮性側索硬化症)は有名ですが、これは彼の名前からとられたものです。彼の指導するサル・ペトリエール病院はヨーロッパにおける神経病学のメッカでした。

の中での神経活動としての心理活動(すなわち「力動」)を解明するという壮大な目的で、自由連想法や精神力動論を考案した。しかし後年、その目的への程遠さにも気づいていた。

木星/木星
1885年〜1886年

パリのサル・ペトリエール病院に留学する

シャルコーはヒステリーの症状が心が原因でおこるものとし、催眠を使って同じような症状を作り出したりしていました。それを目の当たりにしたことはフロイトにとってとても衝撃的な体験でした。シャルコーはヒステリーは器質的所見を見出すことができず、機能的な病気で原因は精神的なものだと考えていました。しかし当時の医学界には受け入れられませんでした。フロイトはここで学ぶことによって精神的な原因で起る病気や神経症を研究、治療することになります。またシャルコーから無意識の心理作用がいかにヒステリーに関与しているかということを学びます。ある日食堂でフロイトはシャルコーからヒステリーには性欲が関係していることをそっと聞かされます。フロイトはシャルコーの診断研究のあるものをドイツ語に翻訳したいと申し出て受け入れられました。

木星/土星
木星/水星
1886年
30才の時にフロイトはハンブルグ経由でウィーンに帰ります。彼はマルタと結婚して開業します。フロイトには開業する資金を持っていなかったのでマルタがその持参金を提供しました。それは身内の人たちを非常に驚かせました。このお金で二人はアパートを借りることができ家具をそろえることが出来ました。そして一室は診療室にしました。そのアパートは以前国立劇場の悲劇のあった場所に宮廷の基金で建てられた新しいビルディング(そのビルディングは贖罪の家と呼ばれていた)の中にあり、彼はここで診療をし神経病医としてスタートしました。始めの内はなかなか患者が来ませんでしたがぼつぼつ来始め、じきにいろいろな患者がくるようになります。多くが他の医者ではどうにもできないような神経の症状をもったような人たちばかりでした。フロイトはこのような人たちをどうしたら救えるのか。彼の神経病医としての活動が開始されます。  彼はのちにウィーン公立小児病院の小児神経科医長の地位を得、長年の間そこで週三回働き、数々の神経学の業績を発表することになります。「失語症の理解のために」(1891年)「小児の半側性脳正麻痺の臨床的研究」(1891年)「小児期の脳性両側麻痺に関する知見」(1893年)などによって小児の脳性麻痺の研究に多大な貢献をしました。彼のこれらの業績は医学史上に残る不朽の評価を得た業績でした。神経病医として立派な地位を築いたのです。  フロイトが結婚してから9年間の間に6人の子供が生れました。マルチン、エネルスト、オリバーの男の子三人とマチルダ、ゾフィー、アンナの女の子三人です。マルタは時にオリヴァーを可愛がり、フロイトはアンナを可愛がりました。アンナは後に幼児分析の世界で活躍することになり自我心理学の分野で研究をするようになります。  フロイトはウィーンにもどってからフランスで学んだヒステリーのことを医学界で発表することになりますが、それらはどれも受け入れられませんでした。フロイトは医学界から離れて一人で険しい道をすすんでいかなくてはなりませんでした。彼自身もノイローゼで悩んでいたことがこの道を行かせる要因にもなったのでしょう。「自分の病気をなんとかしなければ・・・」  これはあまり知られていないかもしれませんが、フロイトはコカインの研究をしていたことがあります。
木星/水星
1884年〜1887年
フロイトはコカインの研究をしていたことがあります。1884年から1887年にかけて研究しています。コカインを目、鼻、などの粘膜に対する局所麻酔薬としての使用を考え、また神経症に効く薬だと思っていました。眼科医のコーラー、ケーニッヒシュタインはコカインを麻酔に使って手術に成功します。フロイトは彼らにそのコカインの麻酔薬としての使用のパテントを彼らに譲ってしまいます。フロイトはコカインこそ神経症治療の画期的な薬だと確信していたからそのような作用はたいしたものではないと考えていたからです。しかし当時の彼にはコカインが中毒作用があり有毒だということを知りませんでした。人々の心を爽快にし光悦感や精力感をもたらすこの薬の一面だけを取り上げてその薬で一旗揚げようと考えていたのです。しかし1886年ころからコカインの中毒作用の症例が各国から報告されることになり、フロイトも危機に立たされます。なんとか医師を続けられることにはなりましたが、とても悲惨な経験でした。また友人のフライシェルにコカインをすすめて、結局死に至らしめてしまいます。  あまりにも患者を救いたいという熱意、または成功を得たい、お金を得たいという動機から彼はコカインに惚れ込んでしまって失敗してしまいましたが、それが彼にはよい経験にもなりました。彼は自分の治療法に対して野心を抱かないようにとの戒めを自分に対してたてました。  開業したての頃は催眠と電気治療くらいしか治療法がありませんでした。電気治療はまったく効きません。また催眠はかかる人とかからない人がいて、効果も長続きしませんでした。
木星/土星
木星/水星
1887年12月〜1888年6月
催眠暗示方法を用いていました。
木星/水星
木星/ケートゥ
1887年

フロイトはウィルヘルム・フリースという耳鼻科医と1887年ブロイアーの紹介で出会います。フロイトは何故かフリースに傾倒してしまい、彼に教えを請いたいとまで思うようになります。フロイトは同性愛的な転移を起こします。彼はヒステリー患者から向けられたような性愛的な転移をフリースに対して起こします。その頃フロイトはノイローゼが酷くなりました。そしてフリースを自分の主治医のようにみなしていきます。彼は今で言う「うつノイローゼ」のような状態でした。 1896年10月に彼の父親がなくなったこともそのノイローゼに拍車をかけました。フロイトはフリースとの文通の中で自分のことをたくさん喋り、夢を報告しそして自己分析を続けてノイローゼを治します。その過程で得られたのがエディプス・コンプレクスでした。

「私自身の夢を分析して、私はこれをやりとげたのだ。それは勇気さえあればできることだし、ノイローゼはけっして我々の征服できぬものではない。」  フロイト

それまでのフロイトはヒステリーは大人の側からの性的暴力などによってひきおこされると考えていました。しかし患者の語るそのような事件は実は多くが虚構であることが分かりました。そしてフロイトはそのような事件は多くが空想であり、それは子供が大人に抱く性的願望から生じるものだと理解するようになります。ここにはフロイト自らが自分の心の中に近親相姦願望を洞察した経験が横たわっています。そのような願望は子供の時代に克服され乗り越えられて無くなってしまうはずのものですが、それを大人になってまで持ち続けている人がいる。そのような人は神経症になる。大人になっても母親への愛着、父親への敵意を克服出来ない人。そのような人はエディプス・コンプレクスを持った人であり、そのような幼児的な衝動に対して恐れや不安を抱き自我が防衛する。それが神経症の原因になる。そのような感情や葛藤は子供自身自然に感じるものであり、ある時期そのような考えに襲われるのであり、それは自然と消滅していくはずのものである。フロイトの理論は性的外傷説から性的本能説に移り変わっていきました。

木星/水星
1889年(33才)夏

催眠療法で名高いフランスのナンシーに旅しました。

そこでリェボーやベルネームに会います。そこで彼らが熱心に治療にあたる姿を見て感動します。そこで彼らに催眠療法についていろいろ聞きます。リエボーとは催眠法の問題点についていろいろ語り合います。リエボーはすべての患者を催眠に引き入れることができないことを残念に思っていました。そして1889年ナンシーから戻ってから催眠暗示の方法を捨てて、催眠カタルシスを用いるようになります。催眠カタルシスとはブロイアーがO・アンナを治療していく過程で発見したものでした。彼女は談話療法とか煙突掃除法とか名付けていました。しかしこの催眠カタルシスにも欠点がありました。実際にはO・アンナのように大人になってからの経験だけを回想すればよいというわけではなく、幼児期の体験まで遡らなければなりませんでした。そして催眠カタルシス、前額法の併用から自由連想法を使用するようになります。  フロイトは彼独自の理論(精神分析)を展開していきます。ブロイアーとの共著という形で1893年に「ヒステリー現象の心的機制について」、1895年には「ヒステリー研究」を発表します。ここにはフロイトの抑圧理論と患者の持つ抵抗のことが鮮明に書かれています。またフロイトは性的病因説を主張します。ヒステリーには性的興奮が関係している。また幼児期の性的体験が重要な役割を果たしていると主張しました。患者はそのような事実やそれに付随する感情を意識したくないので症状を作り出す。彼はシャルコーの言ったキズを発見することになります。それは体に出来たキズと同じように心に出来たものでそれが体に破壊的な作用を及ぼします。  これらの研究によってフロイトはまた孤立してしまうことになります。彼がヒステリーを治療、研究していくうちに発見した重要なことに転移があります。先程出てきましたO・アンナもブロイアーに転移を起こしていました。転移とは過去に両親に向けていた感情を治療者にむけることです。そして治療の中でこの転移を分析する技法を確立していくことになります。フロイトは禁欲原則、医師のとしての分別を守りつつ転移を合理的知性でもって認識し、それに取り込まれることのないよういろいろな戒めを作りました。そのようなフロイトもじきに自分がその転移を身をもって体験してしまうことになります。

木星/金星
1900年〜1905年 フリースとの交友は1900年に一応終ります。その年には不朽の名作「夢判断」が刊行されます。夢など意味のないものだというおおかたの世間の見方に対して、夢は願望充足の試みであり、眠りを妨げる心的刺激を排除して眠りを続行させるような心の働きであるとフロイトは考えました。そして患者の1000もの夢を研究し、また自分の夢も分析しました。この中には夢の働きや夢の分析の仕方、夢の象徴などたくさんの彼自身が研究した成果が盛り込まれていました。「夢は無意識にいたる大道である。」とフロイトは言いました。この本は書き上げられるまでに5年もかかりました。しかし、これも世間から無視されました。売れたのは2年間でたったの228部でした。  「夢判断」が出された次の年、1901年に「日常生活の精神病理学」をフロイトは発刊します。これはしくじり行為、物忘れ、言い違い、度忘れなどのような錯誤行為を研究したものであり、それらにもれっきとした意味があり大まじめな心的行為だとフロイトは言います。また1905年には「性に関する三つの論文」を出します。これは小児性欲に関した論文で、リビドーの発達や口唇期、肛門期、エディプス期などについて述べたものです。
土星/土星
土星/金星
1902年〜1910年 フロイトの精神分析は汚らわしい理論として国内では反発を受けていました。1890年から1910年まではフロイトも孤立しており、とても辛い時期だったのです。しかしそのようなフロイトの精神分析も次第に理解者が増えていきます。1902年の秋にフロイトの精神分析に理解をしめしたカハーネとライトレル、そしてシュテーケル、アドラーの4人である会合を開くことになりました。それは「心理学水曜会」と呼ばれるものでした。ここで毎週水曜日に精神分析に興味ある人々があつまって議論をしました。この会合の参加者は次第に増えていきます。1903年にはフェダーン、1906年にはランク、1908年にはフェレンツィ、1909年にはタウスク。そして海外からは1907年にチューリッヒからユングとビンスワンガー、1907年にはアブラハム、1908年にはA・A・ブリル、E・ジョーンズなどが参加しました。1908年4月15日この「心理学水曜会」は「ウィーン精神分析協会」に名前を変えます。  フロイトの精神分析はウィーンでよりも国外で高く評価されることになります。とくに英語圏です。1904年にスイスのチューリッヒ大学の精神科教授ブロイアーと助手のユングが精神分析の理論に賛成を公表します。二人ともフロイトの精神分析理論を積極的に取り入れます。ユングは1906年から約7年間フロイトと親密に付きあいます。またビンスワンガー、アブラハム、フェレンツィなどがフロイトの親しい友人になります。欧米を中心に支持者が増えてきた状況の中で1908年4月26日に第一回の国際精神分析大会をユングの主催のもとザルツブルグのホテル・ブリストルで開きます。ここでフロイトは有名な「ねずみ男」という強迫神経症の症例を報告します。またこの年フロイトはアメリカに招待されます。アメリカ・マサチューセッツ州ウースターのクラーク大学の創立二十周年記念式典の招待講演にです。これはクラーク大学学長のスタンリー・ホールの招きによるものでした。ただしフロイトはアメリカにあまりよい印象をもたなかったようです。
土星/水星
土星/火星
1910年〜1914年 1910年に第2回国際精神分析大会がニュルンベルクで開かれ、同年国際精神分析協会が設立されました。そしてフロイトの意向でユングが初代会長になりました。これには内部からいろいろな反発がありました。国際精神分析協会は今でも存在します。またフロイトは精神分析を他の分野に応用した研究論文を発表する雑誌として「イマゴ」をランクとザックスの編集下に発刊することになります。このように精神分析が広まっていくなかで、また内外での反発もありました。討論が禁止されたり、論文が発刊停止になったことがたびたびありました。また内部からの離反があい続きました。1911年にアドラー、1912年にシュテーケル、1914年にはユングといった優秀な弟子たちでした。  1914年に第一次世界大戦がはじまりフロイトの生活はとても貧しくなりました。食料もお金も少なくなり、精神分析の活動も国内だけにとどめめなければならなくなりました。三人の息子たちも兵隊として召集されました。またフロイトの大好きな葉巻も手に入りづらくなり苦しみました。第一次世界大戦はフロイトをとても悲しませました。それは未曾有の大量破壊であり、フロイトが拠り所としていた知性や合理主義の信仰が根底から覆されてしまったからです。それでも第一次世界大戦が行われていた時期はフロイトの天才がとても発揮された時期でした。「ナルシシズム入門」「本能とその運命」「抑圧」「悲哀とメランコリー」などの無意識の心理学の体系化の試みをなした論文たちが書かれた時期であり、「精神分析入門(正)」を刊行した時期でもありました
土星/火星
土星/木星
1918年〜1921年
第一次世界大戦が1918年に終ったあとも、数年の間ウィーンは極度の困窮に悩まされました。経済状況の悪化によってフロイトの貯蓄も底をついてしまいました。フロイトはしょうがなく、イギリス人かアメリカ人の患者を見つけては治療して食いつないでいきました。この時期にとても悲しい出来事が起ります。もっとも愛していた弟子のフォン・フロイントと娘のゾフィの死でした。自らの老いとこれらの愛するものたちの死に直面することが死の本能論を着想するきっかけになり1921年に有名な「快感原則の彼岸」を発表します。そのような中で1920年に第6回国際精神分析大会がハーグで開かれ各国から集まった研究者たちは再会を喜び合いました。
水星/水星
水星/金星
1923年〜1931年
フロイトは1923年4月に右側のあごと口蓋にできたロイコプラキア(白板症)の手術を耳鼻科医のハイエクから受けます。それはじきに癌と診断されます。フロイトは死去するまでに合計33回の手術をうけます。フロイトは大規模な摘出手術の後「怪物」と呼ばれる口腔と鼻腔の間にはめこまれた義歯のとりかえに苦闘することになります。それにより言葉をきちんと発音することが困難になり、右耳もほとんど聞こえなくなってしまいました。そのようなフロイトを娘のアンナはずっと看護し続けました。それはフロイトの希望でもありました。そのような中1923年「自我とエス」を発表します。そこには超自我・自我・エスに分けられる心的人格についての理論、エディプス・コンプレクスについての新しい知見などが盛り込まれています。のちの自我心理学、対象関係論の萠芽が見られます。  フロイトは癌でだんだん体が弱っていきました。にもかかわらず名声はしだいに高まっていきました。そのような中でウィーンの人々もフロイトを無視することができなくなり、1924年ウィーン市議会はフロイトに名誉市民に値する市民権をおくりました。また1930年にはフランクフルトのゲーテ・ハウスでゲーテ文学賞を受賞しました。病身のフロイトの代わって娘のアンナが授賞式に出席しました。フロイトは幼い頃からゲーテがとても好きでしたからそれはまたとない喜びになりました。またこの年母親のアマリエが亡くなっています。1931年にウィーンの医師協会がようやくフロイトを名誉会員に指名しました。
水星/太陽
水星/土星
1932年〜1939年
1932年になるとナチスのユダヤ人迫害はとても激しくなってきました。フロイトの本や精神分析関係の本はナチスによって禁書にされ焼き捨てられました。ユダヤ人であるフロイトの弟子達はみな亡命していきました。1933年ドイツ精神療法学会が国際精神療法医学会のもとに開かれ、ユングがその会長になりました。そして精神分析の術語の使用までが禁止されました。1938年にはウィーンの精神分析出版所の全財産がゲシュタポによって差し押さえられ、1938年3月ついにオーストリアにナチスが進入しました。そして3月11日、ゲシュタポが上顎癌で病床にあるフロイトの家に進入して家宅捜索しました。一週間後にもゲシュタポはやってきて今度はアンナを人質にしていきました。ジョーンズはフロイトにロンドンに亡命するように説得しました。フロイトは亡命する気はありませんでした。なぜならどのようなことがあってもフロイトはウィーンに骨を埋める気でいたからです。また癌で体はもうぼろぼろでした。ナチスの出国許可を得るまでに3ヶ月間かかりました。それにはウィーン駐在アメリカ大使ブリット、ルーズヴェルト大統領、デンマーク王妃マリー・ボナパルト、ムッソリーニ総統の協力がありました。フロイト一家は亡命することができましたが、ウィーンに残してきたフロイトの妹4人は数年後強制収容所で焼き殺されてしまいます。1938年6月4日フロイトはウィーンを発ちます。そして1938年6月6日にロンドンに到着しました。フロイトはロンドンで大変な歓迎を受けます。しかし癌のほうはどんどんと進行していき、1939年9月21日主治医のM・シュールに始めて鎮静剤のモルヒネを与えてくれるように頼みそして23日の夜83才の生涯を閉じました。墓はロンドンのグリーン・ガーデン墓地にあります。    

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ケートゥ/ケートゥ


ケートゥ/土星
ケートゥ/水星

(http://sapporo.cool.ne.jp/sigmundfreud/life.htmlより抜粋、引用)

 

(資料)

ジークムント・フロイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (ジグムント・フロイト から転送) 移動: ナビゲーション, 検索 画像:Sigmund Freud.jpg ジクムント・フロイトジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。生まれたときの名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳のときにSigmundと改めた。オーストリアの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。 彼の記録した数々の有名な症例報告は、彼の非常に詳細で精密な観察眼を示すものであり、現在においても研究に値するものである。精神力動論はその後彼の弟子たちに伝えられ、様々な学派により改良され、現在でも精神医学のみならず現代の文化・人間理解に大きな影響を与えている。その研究は後の世の精神医学、臨床心理学などの基礎となってきたが、やはり現代ではもはや古典である。彼の理論は「一般的」なものではなく、彼自身患っていた症状について詳しく記述しただけで、一事例の事例報告でしかない、という批判も現在ではある。

生涯

1856年、オーストリア帝国・モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル P?ibor)で毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。母親はブロディ出身のアマーリア・ナータンゾーン Amalia Nathansohn (1835?1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。家族は1859年ウィーンに引っ越す。1866年シュペルル・ギムナジウムに入学。1873年ウィーン大学入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやウナギなど魚類の神経を研究、その論文はウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。1881年ウィーン大学卒業。1882年、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。脳の中での神経活動としての心理活動(すなわち「力動」)を解明するという壮大な目的で、自由連想法や精神力動論を考案した。しかし後年、その目的への程遠さにも気づいていた。 自身がユダヤ人であったためか、弟子もそのほとんどがユダヤ人であった。また当時、ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ。そのため精神分析の誕生の当初は、ユダヤ人の似非科学のような揶揄、非難を浴びせられた。その意味でも、非ユダヤ系でチューリッヒ大学講師でもあった、スイス人の研究者カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ評価していたが、のち訣別。 彼自身の子どもたちの中で、アンナ・フロイトのみが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年の彼の慰めのひとつになった。 1923年(67歳)、喫煙によるとみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受けている。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず強靭な精神力か、著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。1938年、ナチス・ドイツに追われてロンドンに亡命。1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。 苗字のFreudはヘブライ名のシムハ(????Simcha; "喜び"を意味する)の独訳に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしばFraud(詐欺師)と揶揄された。

Biography

Sigmund Freud was born May 6, 1856, in a small town -- Freiberg -- in Moravia. His father was a wool merchant with a keen mind and a good sense of humor. His mother was a lively woman, her husband's second wife and 20 years younger. She was 21 years old when she gave birth to her first son, her darling, Sigmund. Sigmund had two older half-brothers and six younger siblings. When he was four or five -- he wasn't sure -- the family moved to Vienna, where he lived most of his life. A brilliant child, always at the head of his class, he went to medical school, one of the few viable options for a bright Jewish boy in Vienna those days. There, he became involved in research under the direction of a physiology professor named Ernst Brucke. Brucke believed in what was then a popular, if radical, notion, which we now call reductionism: "No other forces than the common physical-chemical ones are active within the organism." Freud would spend many years trying to "reduce" personality to neurology, a cause he later gave up on. Freud was very good at his research, concentrating on neurophysiology, even inventing a special cell-staining technique. But only a limited number of positions were available, and there were others ahead of him. Brucke helped him to get a grant to study, first with the great psychiatrist Charcot in Paris, then with his rival Bernheim in Nancy. Both these gentlemen were investigating the use of hypnosis with hysterics. After spending a short time as a resident in neurology and director of a children's ward in Berlin, he came back to Vienna, married his fiancee of many years Martha Bernays, and set up a practice in neuropsychiatry, with the help of Joseph Breuer. Freud's books and lectures brought him both fame and ostracism from the mainstream of the medical community. He drew around him a number of very bright sympathizers who became the core of the psychoanalytic movement. Unfortunately, Freud had a penchant for rejecting people who did not totally agree with him. Some separated from him on friendly terms; others did not, and went on to found competing schools of thought. Freud emigrated to England just before World War II when Vienna became an increasing dangerous place for Jews, especially ones as famous as Freud. Not long afterward, he died of the cancer of the mouth and jaw that he had suffered from for the last 20 years of his life.

経歴

(http://www.utm.edu/research/iep/f/freud.htm#H1より引用)

Freud was born in Frieberg, Moravia in 1856, but when he was four years old his family moved to Vienna, where Freud was to live and work until the last year of his life. In 1937 the Nazis annexed Austria, and Freud, who was Jewish, was allowed to leave for England. For these reasons, it was above all with the city of Vienna that Freud's name was destined to be deeply associated for posterity, founding as he did what was to become known as the 'first Viennese school' of psychoanalysis, from which, it is fair to say, psychoanalysis as a movement and all subsequent developments in this field flowed. The scope of Freud's interests, and of his professional training, was very broad - he always considered himself first and foremost a scientist, endeavouring to extend the compass of human knowledge, and to this end (rather than to the practice of medicine) he enrolled at the medical school at the University of Vienna in 1873. He concentrated initially on biology, doing research in physiology for six years under the great German scientist Ernst Brucke, who was director of the Physiology Laboratory at the University, thereafter specialising in neurology. He received his medical degree in 1881, and having become engaged to be married in 1882, he rather reluctantly took up more secure and financially rewarding work as a doctor at Vienna General Hospital. Shortly after his marriage in 1886 - which was extremely happy, and gave Freud six children, the youngest of whom, Anna, was herself to become a distinguished psychoanalyst - Freud set up a private practice in the treatment of psychological disorders, which gave him much of the clinical material on which he based his theories and his pioneering techniques. In 1885-86 Freud spent the greater part of a year in Paris, where he was deeply impressed by the work of the French neurologist Jean Charcot, who was at that time using hypnotism to treat hysteria and other abnormal mental conditions. When he returned to Vienna, Freud experimented with hypnosis, but found that its beneficial effects did not last. At this point he decided to adopt instead a method suggested by the work of an older Viennese colleague and friend, Josef Breuer, who had discovered that when he encouraged a hysterical patient to talk uninhibitedly about the earliest occurrences of the symptoms, the latter sometimes gradually abated. Working with Breuer, Freud formulated and developed the idea that many neuroses (phobias, hysterical paralyses and pains, some forms of paranoia, etc.) had their origins in deeply traumatic experiences which had occurred in the past life of the patient but which were now forgotten, hidden from consciousness; the treatment was to enable the patient to recall the experience to consciousness, to confront it in a deep way both intellectually and emotionally, and in thus discharging it, to remove the underlying psychological causes of the neurotic symptoms. This technique, and the theory from which it is derived, was given its classical expression in Studies in Hysteria, jointly published by Freud and Breuer in 1895. Shortly thereafter, however, Breuer, found that he could not agree with what he regarded as the excessive emphasis which Freud placed upon the sexual origins and content of neuroses, and the two parted company, with Freud continuing to work alone to develop and refine the theory and practice of psychoanalysis. In 1900, after a protracted period of self-analysis, he published The Interpretation of Dreams, which is generally regarded as his greatest work, and this was followed in 1901 by The Psychopathology of Everyday Life, and in 1905 by Three Essays on the Theory of Sexuality. Freud's psychoanalytic theory was initially not well received - when its existence was acknowledged at all it was usually by people who were, as Breuer had foreseen, scandalised by the emphasis placed on sexuality by Freud - and it was not until 1908, when the first International Psychoanalytical Congress was held at Salzburg, that Freud's importance began to be generally recognised. This was greatly facilitated in 1909, when he was invited to give a course of lectures in the United States, which were to form the basis of his 1916 book Five Lectures on Psycho-Analysis. From this point on Freud's reputation and fame grew enormously, and he continued to write prolifically until his death, producing in all more than twenty volumes of theoretical works and clinical studies. He was also not adverse to critically revising his views, or to making fundamental alterations to his most basic principles when he considered that the scientific evidence demanded it - this was most clearly evidenced by his advancement of a completely new tripartite (id, ego, and super-ego) model of the mind in his 1923 work The Ego and the Id. He was initially greatly heartened by attracting followers of the intellectual calibre of Adler and Jung, and was correspondingly disappointed personally when they both went on to found rival schools of psychoanalysis - thus giving rise to the first two of many schisms in the movement - but he knew that such disagreement over basic principles had been part of the early development of every new science. After a life of remarkable vigour and creative productivity, he died of cancer while exiled in England in 1939.