ジグムント・フロイト(Sigmund Freud) 1856年5月6日 18:30 LMT 出生地:チェコ・モラヴィア地方フライベルク ジグムント・フロイトは、精神分析学の創始者で、人文科学のあらゆる領域に影響を及ぼした20世紀の知的巨人として知られている。 彼は神経生理学を専門とする開業医であったが、その後、ヒステリー患者の治療や自身の夢の分析、錯誤行為などの研究、そして、当時の様々な分野で活躍する研究者の思想や文学の研究などから、ついに無意識に関する理論を打ち立てたのである。 フロイトのチャートを作成すると、10室支配の月と9、12室支配の水星が8室牡牛座でコンジャンクトしており、9室と10室が絡む良質のダルマカルマラージャヨーガを形成している。 この8室牡牛座でラージャヨーガが形成されている点が重要である。 フロイトの理論はエネルギー保存の法則など、当時の物理学の理論を意識したもので、唯物的な世界観を背景にして打ち立てられたものである。 フロイト没後のアメリカ精神分析学会会長のハインツ・コフートの研究者である中西信男教授は『コフートの心理療法』(ナカニシヤ出版)の中で、フロイトのギムナジウム時代(学生時代)の愛読書が以下の3点であり、それらのいずれも唯物的な世界観に彩られたものであったことを明らかにしている。 @『力と物質』(1855)ビュヒナー著 A『古き、そして新しき信仰』(1872)シュトラウス著 B『キリスト教の本質』(1841)フォイエルバッハ著 例えば@の書物については当時では有名な書物で、唯物論哲学を説いたもので、「革命の夢想」として知られており、当時、若者の頃、フロイトは青二才の若者だったとき唯物論について話し、極端な議論に打ち込んだそうである。 またAの書物については、ヘーゲルの観念論を唯物論に変え、キリスト教の三位一体、原罪、処女懐胎、霊魂不滅などの信仰を否定し、著書はイエスを「熱狂的で妄想的なユダヤ人」として描いているようである。 Bに関しては、マルクス・エンゲルスに強い影響を与えた書物として知られており、フォイエルバッハの神概念は「神は人がそのイメージとしてつくりあげたものである」と述べているようであり、唯物的な性質のある書物のようである。 これらの唯物的な書物を彼が選択した原因としてはやはり、土の星座である牡羊座に彼の知性、思想や考え方を表す水星が在住し、感情、気質を表す月が在住して、強く土の影響を受けていることが考えられる。 彼は非常に熱心な研究活動の末に精神分析という前人未踏の理論を打ち立てたのであり、それはこの水星と月のラージャヨーガが8室で形成されて研究を表していることが表しているようである。 また、8室はマニアックな世界、マイナーな世界を表しており、また牡牛座の月は美術コレクターを表していることが多い。 彼はギリシア・ローマ、そして、東洋の美術品、骨董品を収集していたことで知られている。それは非常に本格的なものだったようである。 http://www.kajima.co.jp/csr/culture/freud/greeting-j.html (収集家としてのフロイト展) 牡牛座の月はしばしば物の収集家になるようである。 私の知り合いに水星が牡牛座に在住している人がいるが、パソコンや放送機器の収集家である。 また前民主党の代表である前原誠司氏は金星が牡牛座自室に在住して強いが、SL(鉄道)の関連物や写真のコレクターのようである。 牡牛座は審美眼があり、具体的な物質を収集して、生活の質を高めようとする性質がみられるのである。
このようにフロイトの8室は非常に彼の特徴を鮮やかに反映している。 彼の理論は、エネルギー保存則と、産業革命時に発明された蒸気機関の仕組み(熱力学)を参考に作られており、膨張する蒸気の力と、それを押さえつけるピストンの物理的な連係をイド(無意識)とスーパーエゴ(超自我)の葛藤として、イメージしているのである。 このような機械的唯物論が、彼の人間理解の本質であるのだが、これは彼の水星と月が牡牛座に在住していることから非常によく分かるのである。
次にラグナロードの金星が7室に在住し、7室支配の火星が金星と7室自室にアスペクトしていることが分かる。 7室の状態が非常に強いことが分かる。また11室支配の太陽が7室に在住し、ラグナロードの金星とコンジャンクトしており、また7室にはラーフが在住しており、同室する惑星の影響を強く受けるとともに、同室する惑星の象意を極限まで引き出す影響を与えている。 ラグナロードが7室に在住することは相手に対してコミットメントしていくことを示しており、それは彼の仕事が開業医として、主にヒステリー患者の神経症を治療することであったことに表れている。基本的に一対一の契約関係であり、それは1−7室的な関係である。 そして、その治療契約から収入を得ていることは1室と11室が絡んでダナヨーガを形成していることで示されている。 11室の支配星が7室に入るだけでもパートナー、契約相手から得られる報酬という象意を示しているが、1−11室のダナヨーガが形成されている。太陽は7室で高揚しており、彼が患者に対して、絶対の権威者として、振舞っていたことが示されている。 実際、ヒステリー患者の治療とは患者を寝かせて、催眠をかけたり、自由連想をさせたりなど全く主導権は治療者の側にある。 この7室は性欲や性的関係を表す部屋でもある。7室に金星が在住した場合、金星の象意がパートナーとの関係とか、性的なものにばかり消費されることを示しているが、ラーフが在住することでさらにその傾向が強くなっている。ラーフは決して満足することのない欲望を示している。 彼の理論の中で、イド(無意識、本能)は性欲であるとし、文化や文明の発展などを性欲の昇華したものとして、全てを性欲で説明しようとしていることが認められる。ヒステリーの原因も性を意識することの抑圧を受けているためにそれが身体的症状に転換されて起こっているものとして理解したり、小児性欲を唱えたりなど、非常に性にこだわるのも彼の強調された7室を見ると理解できる。 フロイト自身が神経症であったことは知られている事実だが、それを観察し、理解していくなかで、彼の理論が構築されたのかもしれない。 彼自身も性の問題とは格闘したのだと思われる。それは彼の幼児期の複雑な家族関係の中にヒントがあり、彼は父親の非常に若い後妻を継母として、成長したのであり、その過程で、感じてはいけない性欲を継母に対して、感じてしまった可能性があるのである。そして、父親の妻に性欲を感じたり、そして、父親と妻を巡って争う関係となり、父親を殺したいという無意識の情動を神経症を研究する中で、意識化したのかもしれないのである。 おそらく、そうした彼の特殊な生育環境や家族関係が、彼の理論の中にギリシャ神話をモチーフにした『エディプスコンプレックス』を加えた理由だと思われる。そうした彼の理論は全て、自身の幼児体験から来ており、それをそのまま理論にしたのである。小児性欲も父親を殺したい衝動もおそらく、彼自身が幼少期に感じていたものだったのである。 実際、彼は生まれて直ぐにマハダシャー火星期に入っており、火星は7室(性欲)の支配星で、12室に在住している。 西洋占星術では12室は無意識を表すとされているが、性欲を表す火星がシャドバラ1.9ポイントと凄まじい強さで12室に在住しているのである。 これはリビドーエネルギー(性欲)を識閾下(無意識)に強烈に押し込めて抑圧している様子をイメージさせるのである。火星は12室から7室自室にアスペクトして、無意識の中に押し込められたエネルギーがそれでも性欲として溢れ出してくるイメージである。 彼が性欲を理論の中心に据え、神経症の原因は抑圧された性欲であるという発見をヒステリー患者の治療を通して発見したのは、こうした彼自身の惑星配置と幼児期の状況があったからだと思えてくるのである。 そうして考えると、この理論自体、彼の人生の物語であり、カルマであるように思われる。
(http://sapporo.cool.ne.jp/sigmundfreud/life.htmlより抜粋、引用)
(資料) ジークムント・フロイト 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (ジグムント・フロイト から転送) 移動: ナビゲーション, 検索 画像:Sigmund Freud.jpg ジクムント・フロイトジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。生まれたときの名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳のときにSigmundと改めた。オーストリアの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。 彼の記録した数々の有名な症例報告は、彼の非常に詳細で精密な観察眼を示すものであり、現在においても研究に値するものである。精神力動論はその後彼の弟子たちに伝えられ、様々な学派により改良され、現在でも精神医学のみならず現代の文化・人間理解に大きな影響を与えている。その研究は後の世の精神医学、臨床心理学などの基礎となってきたが、やはり現代ではもはや古典である。彼の理論は「一般的」なものではなく、彼自身患っていた症状について詳しく記述しただけで、一事例の事例報告でしかない、という批判も現在ではある。 生涯 1856年、オーストリア帝国・モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル P?ibor)で毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。母親はブロディ出身のアマーリア・ナータンゾーン Amalia Nathansohn (1835?1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。家族は1859年ウィーンに引っ越す。1866年シュペルル・ギムナジウムに入学。1873年ウィーン大学入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやウナギなど魚類の神経を研究、その論文はウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。1881年ウィーン大学卒業。1882年、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。脳の中での神経活動としての心理活動(すなわち「力動」)を解明するという壮大な目的で、自由連想法や精神力動論を考案した。しかし後年、その目的への程遠さにも気づいていた。 自身がユダヤ人であったためか、弟子もそのほとんどがユダヤ人であった。また当時、ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ。そのため精神分析の誕生の当初は、ユダヤ人の似非科学のような揶揄、非難を浴びせられた。その意味でも、非ユダヤ系でチューリッヒ大学講師でもあった、スイス人の研究者カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ評価していたが、のち訣別。 彼自身の子どもたちの中で、アンナ・フロイトのみが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年の彼の慰めのひとつになった。 1923年(67歳)、喫煙によるとみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受けている。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず強靭な精神力か、著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。1938年、ナチス・ドイツに追われてロンドンに亡命。1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。 苗字のFreudはヘブライ名のシムハ(????Simcha; "喜び"を意味する)の独訳に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしばFraud(詐欺師)と揶揄された。 Biography Sigmund Freud was born May 6, 1856, in a small town -- Freiberg -- in Moravia. His father was a wool merchant with a keen mind and a good sense of humor. His mother was a lively woman, her husband's second wife and 20 years younger. She was 21 years old when she gave birth to her first son, her darling, Sigmund. Sigmund had two older half-brothers and six younger siblings. When he was four or five -- he wasn't sure -- the family moved to Vienna, where he lived most of his life. A brilliant child, always at the head of his class, he went to medical school, one of the few viable options for a bright Jewish boy in Vienna those days. There, he became involved in research under the direction of a physiology professor named Ernst Brucke. Brucke believed in what was then a popular, if radical, notion, which we now call reductionism: "No other forces than the common physical-chemical ones are active within the organism." Freud would spend many years trying to "reduce" personality to neurology, a cause he later gave up on. Freud was very good at his research, concentrating on neurophysiology, even inventing a special cell-staining technique. But only a limited number of positions were available, and there were others ahead of him. Brucke helped him to get a grant to study, first with the great psychiatrist Charcot in Paris, then with his rival Bernheim in Nancy. Both these gentlemen were investigating the use of hypnosis with hysterics. After spending a short time as a resident in neurology and director of a children's ward in Berlin, he came back to Vienna, married his fiancee of many years Martha Bernays, and set up a practice in neuropsychiatry, with the help of Joseph Breuer. Freud's books and lectures brought him both fame and ostracism from the mainstream of the medical community. He drew around him a number of very bright sympathizers who became the core of the psychoanalytic movement. Unfortunately, Freud had a penchant for rejecting people who did not totally agree with him. Some separated from him on friendly terms; others did not, and went on to found competing schools of thought. Freud emigrated to England just before World War II when Vienna became an increasing dangerous place for Jews, especially ones as famous as Freud. Not long afterward, he died of the cancer of the mouth and jaw that he had suffered from for the last 20 years of his life. 経歴 (http://www.utm.edu/research/iep/f/freud.htm#H1より引用) Freud was born in Frieberg, Moravia in 1856, but when he was four years old his family moved to Vienna, where Freud was to live and work until the last year of his life. In 1937 the Nazis annexed Austria, and Freud, who was Jewish, was allowed to leave for England. For these reasons, it was above all with the city of Vienna that Freud's name was destined to be deeply associated for posterity, founding as he did what was to become known as the 'first Viennese school' of psychoanalysis, from which, it is fair to say, psychoanalysis as a movement and all subsequent developments in this field flowed. The scope of Freud's interests, and of his professional training, was very broad - he always considered himself first and foremost a scientist, endeavouring to extend the compass of human knowledge, and to this end (rather than to the practice of medicine) he enrolled at the medical school at the University of Vienna in 1873. He concentrated initially on biology, doing research in physiology for six years under the great German scientist Ernst Brucke, who was director of the Physiology Laboratory at the University, thereafter specialising in neurology. He received his medical degree in 1881, and having become engaged to be married in 1882, he rather reluctantly took up more secure and financially rewarding work as a doctor at Vienna General Hospital. Shortly after his marriage in 1886 - which was extremely happy, and gave Freud six children, the youngest of whom, Anna, was herself to become a distinguished psychoanalyst - Freud set up a private practice in the treatment of psychological disorders, which gave him much of the clinical material on which he based his theories and his pioneering techniques. In 1885-86 Freud spent the greater part of a year in Paris, where he was deeply impressed by the work of the French neurologist Jean Charcot, who was at that time using hypnotism to treat hysteria and other abnormal mental conditions. When he returned to Vienna, Freud experimented with hypnosis, but found that its beneficial effects did not last. At this point he decided to adopt instead a method suggested by the work of an older Viennese colleague and friend, Josef Breuer, who had discovered that when he encouraged a hysterical patient to talk uninhibitedly about the earliest occurrences of the symptoms, the latter sometimes gradually abated. Working with Breuer, Freud formulated and developed the idea that many neuroses (phobias, hysterical paralyses and pains, some forms of paranoia, etc.) had their origins in deeply traumatic experiences which had occurred in the past life of the patient but which were now forgotten, hidden from consciousness; the treatment was to enable the patient to recall the experience to consciousness, to confront it in a deep way both intellectually and emotionally, and in thus discharging it, to remove the underlying psychological causes of the neurotic symptoms. This technique, and the theory from which it is derived, was given its classical expression in Studies in Hysteria, jointly published by Freud and Breuer in 1895. Shortly thereafter, however, Breuer, found that he could not agree with what he regarded as the excessive emphasis which Freud placed upon the sexual origins and content of neuroses, and the two parted company, with Freud continuing to work alone to develop and refine the theory and practice of psychoanalysis. In 1900, after a protracted period of self-analysis, he published The Interpretation of Dreams, which is generally regarded as his greatest work, and this was followed in 1901 by The Psychopathology of Everyday Life, and in 1905 by Three Essays on the Theory of Sexuality. Freud's psychoanalytic theory was initially not well received - when its existence was acknowledged at all it was usually by people who were, as Breuer had foreseen, scandalised by the emphasis placed on sexuality by Freud - and it was not until 1908, when the first International Psychoanalytical Congress was held at Salzburg, that Freud's importance began to be generally recognised. This was greatly facilitated in 1909, when he was invited to give a course of lectures in the United States, which were to form the basis of his 1916 book Five Lectures on Psycho-Analysis. From this point on Freud's reputation and fame grew enormously, and he continued to write prolifically until his death, producing in all more than twenty volumes of theoretical works and clinical studies. He was also not adverse to critically revising his views, or to making fundamental alterations to his most basic principles when he considered that the scientific evidence demanded it - this was most clearly evidenced by his advancement of a completely new tripartite (id, ego, and super-ego) model of the mind in his 1923 work The Ego and the Id. He was initially greatly heartened by attracting followers of the intellectual calibre of Adler and Jung, and was correspondingly disappointed personally when they both went on to found rival schools of psychoanalysis - thus giving rise to the first two of many schisms in the movement - but he knew that such disagreement over basic principles had been part of the early development of every new science. After a life of remarkable vigour and creative productivity, he died of cancer while exiled in England in 1939. |