私たちのジョーティッシュグル、K.N.ラオ先生のチャートである。
これまで私はジョーティッシュをネット上のコンテンツや講座などを通じて、様々な教師から学んで来たが、元をたどれば全て K.N.ラオ氏に行き着くのである。 占星術ルネッサンスの開拓者であり、K.N.ラオ氏からの影響なくして多くの人が占星術を勉強しなかったと思われるぐらい、占星術の分野における彼の業績は計り知れないほど大きいのである。 そんな先生がどのようなチャートをしているのは彼から学んでいる人達は誰もが興味を持つのは当然の流れである。

ラオ氏は自分のチャートを公開しており、皆自由にラオ氏のチャートを吟味することができるが、彼が皆にチャートを見られるということ自体は10室に在住している木星、あるいは1室と10室の支配星の絡みで説明されるのである。 10室は注目を浴びる大舞台を表し、一切隠し事は出来ず、スポットライトを浴びるのである。人々からの注目を浴びることはすなわち、地位、名声、権威を持つことを表しているのである。

そのように最も目立つハウスであり、またそれゆえ、影響力も多大なのである。10室は力のケンドラの最も強いハウスであり、影響力のハウス である。公のオフィシャルな舞台において力を振るうのである。 その10室で木星が最高星位にあり、10室の支配星がケンドラ とトリコーナの支配星で自分自身を表す最大吉星であるラグナの 支配星と接合しているというのは彼の世界に対する影響力を物語っている。

彼が『Astrology,Destiny,Wheel of Time』(邦題『ラオ先生のイ ンド占星術-運命と時輪−』インド占星塾発行)の中で、自分のダシャーと出来事を紹介しつつ、占星術の技法について教えていく 様子は1室と10室が絡んでいるために、プライベートな出来事を公開しているのだと理解できる。 B.V.ラーマン氏もそうであるが10室の木星は成功する占星術師を表しており、これはラオ先生にも当てはまっている。

ラオ氏はラグナが天秤座に惑星集中していることから、民主的な人物で、世界中の人とメーリングリストでやり取りし、広く交流できるのはこの風の部屋が強いためだと思われる。 ケンドラに3つの吉星が在住し、3室と6室のウパチャヤに凶星が在住し、彼が教えるチャートを保護する要素に恵まれている。

しかし、唯一、ラグナに2、7室支配の火星が在住しており、この火星は彼が官僚時代に結婚相手として女性に追い掛け回されたという著書の中で時々触れている苦い経験に表れている。 7室の支配星が1室に在住しているため、例えば牡羊座ラグナの 女性が猛烈に求愛してくるなどの象意が考えられるのである。 彼の著書の中で、女性が彼を追いかけまわしたなどと軽く触れたエピソードの中にもそれが現れている。向こうの 方から働きかけてくることを表している。

『独身で政府高官という職にあったためにインドでは格好の結婚相手でした。伝統を重んじる人たちがわたしのところにやってき て、婿養子の話を持ちかけてきます。それをようやく断ると、今 度は役所で女性たちがつけまわす。これには心底、困らされまし た。』

この2、7室支配の火星は機能的にも凶星であり、彼のラグナに在住してラグナロードと接合しており、明らかに彼自身を傷つけている。彼が霊性修行とセックスは両立できないとして、性的関係に関して厳しい見解を持ち、自らは独身を貫いているというのは、この配置からすると矛盾しているようであるが苦い経験から くる反動形成的な態度かもしれないのである。

火星と金星の接合は激しい恋愛を表しており、彼が女性から激しく求愛されることを表しているのだが、火星は7室にアスペクトを返しており、7室自体も火星の象意で強いのである。 これだけ1室と7室の絡みが強いと彼が女性と交際することも多 かったのではないかと思われるのだが、そこまでの細かいプライ ベートは公開されていない。

1、8室支配の金星と2、7室支配の火星はパートナー(7室) に関する苦悩(8室)を表したり、あるいは関係が成就しない( 8室)ことを表すのかもしれない。12室が絡んでいないため、 性的関係などには結びつかない配置なのかもしれないのである。 この辺り、彼からそこまで詳しく聞くわけにはいかないため、分からないが、彼が独身を貫き、セックスを激しく非難することを 考えると、そのようにも考えられる。 然し、歌手との交流があったり、彼の弟子に女性が多いことを考えると、1室に金星や月が在住していることが納得できる。

次に10室には木星が在住しているが10室は職業、行為のハウ スであり、10室の木星は教師を表している。 彼はマハダシャー木星期に入ってから上級公務員試験に合格するまで、大学で英文学の教師をしている。 その後、木星/水星期に上級公務員試験に合格し、会計監査などを する役人に就職しているが、会計監査はまさに土の星座である乙女座で高揚する水星の象意を表しており、ダシャーの象意に一致 している。

水星は仕事を表す太陽から見て1、10室の支配星であり、1室で高揚するため、パンチャマハープルシャ・バドラヨーガを形成している。 彼は在職中に会計監査に関する3つの国際コースで、プランナー とオーガナイザーそして講師を勤めたと書かれており、局長や副局長などの管理職にもついており、地位が高い様子から、10室支配で高揚する水星の象意がよく出ている。 一方で、直ぐに辞めてしまった英文学の教師はおそらく木星/土星期に勤めていたと思われるが、太陽から見て5室支配の土星が4室 に在住しており、5室は教育のハウスであり、教育を通じて生徒に関わった時期とも考えられる。

会計監査でも講師を勤めたことがあり、また占星術の教師であり、いずれも教える仕事であり、教師であることには変わりはないようである。10室に木星が在住すれば基本的に教師であるといえる。

次に12室であるが水星はラグナ、月から9室支配で12室に在住しており、占星術や隠された教えに関する興味関心を表している。ケートゥと水星はジョーティッシュを学習する人に多く見られるコンビネーションである。ケートゥは12室の表示体であり、精神性や沈黙、隠遁、瞑想などの精神生活を表す表示体である。物質主義から離れる表示体と言える。水星は元々、ビジネス、商売の表示体であるが、水星にケートゥがコンジャンクトすることによって、知性の興味関心の方向性が精神性に向かうようである。また12室の表示体であることから、一切お金には無関心になるのである。

彼が占星術を霊性修行の一貫として考え、鑑定を無料で行い、占星術の学校での授業も授業料をとらないのはこの辺りlに現れている。水星は9室支配で12室に在住して、12室は献金、布施を表している。このように、ダルマハウスの9室、モクシャハウスの12室、12室の表示体(ケートゥ) と関わっている水星は占星術を良い意図に基づいて奉仕として行うことを表している。

しかし、水星は11室支配の太陽ともコンジャンクトしているが、11室支配の太陽は機能的凶星であり、名声や称号、多くの人との交流を求めるハウスである。また太陽は自己主張のハウスでもある。そして、太陽は包括性を与えて、広大なビジョンを与えるのであるが、彼は最近、マンデーン占星術に凝っているようである。水星と接合する太陽はマンデーン占星術のような個人の分析を超えて、企業や社会などもっと大きなものに関心を持つ配置である。

しかし、もしこれが太陽の影響だとすると、マンデーン占星術で未来を予言して、有名になりたいという名声欲が入り組んでくる余地があると言える。11室はカーマハウスであり、最後の誘惑のハウスであり、低次の物質的な欲求というよりも、もっと洗練された名声や称号を求める名誉欲を表しているのである。

水星は高揚しており、繊細で律儀で丁寧な情報整理をする星座であるため、非常に分析的である。彼はパラシャラの古典に書かれていることを実際のチャートと事実関係を調べて統計的にそれが正しいかどうかを確かめるのが彼の研究手法である。彼が主催する占星術学校・バラーティア・ヴィディア・ヴァーヴァンにおいても生徒にデータを収集させて実際にいくつかのパラメータを 調べさせ、自ら調べるというよりも調査を弟子や生徒にさせて 自分は指示、監督する立場にいるようである。 彼は5万人にも及ぶクライアントのデータベースを所持しているといわれ、情報の収集、整理整頓に優れているのが分かる。そうした細部に正確な性質は乙女座の水星が持つ長所である。 従って、9室は霊性、信仰、学問、高度な知識、海外などを表し 、12室は隠された知識、奉仕を表すが、乙女座の象意とあわせて、こ れらハウスの象意も非常によく出ているのが分かる。

水星は9室の支配星であるが、9室は仕事を損失する部屋(10 室から12室目)であり、仕事をやめて学問や奉仕などに打ち込み、霊的な生活を送るという象意があり、また海外旅行や留学という象意もある。 インド政府の会計監査院の最高職を退職したのが、マハダシャー水星期に入った後のセカンドアンタルダシャーの水星/ケートゥ期 である。

セカンドアンタルダシャーは水星期の象意が本格的に始まる時期を表し、この時期に仕事を辞めたのはよく理解できる。 そして、彼が1993年〜1995年の間に全米インド占星術協会の招きで、全米レクチャーツアーをしたのもマハダシャー水星期であり、海外に関わっていることが分かる。 1993年〜1995年の大半は水星/月期であり、月は10室の支配星であることから、彼が米国の占星術家たちの注目を浴び人気者となって大変な名声と名誉を得たことが分かる。

マハダシャー水星から見ても月は11室の支配星であり、目的を同じくする占星術の学習者たちと広く交流をはかり彼自身、非常に名誉を得たことを表している。 そして、水星は文筆や出版の表示体でもあり、彼はマハダシャー水星期に彼が現在出版しているほとんどの書籍を刊行している。 水星は水星から見て1、10室の支配星で1室でバドラヨーガを形成して強力であることから、文筆出版によって地位、名声を得ることを表している。

このように見ていくと、このチャートが正にK.N.ラオ氏のチャートであることがよく分かる。

次にヴィムショッタリダシャーを細かく見ていくと、さらにもっと興味深いことが分かってくる。
例えば、1942年の11歳の時に腸チフスにかかり、当時まずこの病気にかかると助からないと諦めていた中で奇跡的に生き延びたと書かれている。

この時、ラーフ/水星期であるが、ラーフは病気の6室に在住し、水星は入院の12室に在住している。そして、ラーフから見ると、水星は7室でバドラヨーガを形成して強力である。この時に母親から数秘術や手相術、占星術などを教わったというのは非常に興味深い。土星は8室をトランジットしており、生死の境を彷徨い生命というテーマが出てくる時期であり、2室のマラカにアスペクトして、何か生命に関わるような厳しい状況などを表している可能性を示唆している。また木星は出生の木星にリターンしていたようである。トランジットの解釈は置いておいて、アンタル水星期に占星術を習ったというのはダシャーの象意とよく一致しており、母親は彼の占星術の先生でもあるので、9室支配の水星の時期に母親から占星術を習ったと理解できる。そして、それは腸チフスで静養していた時(12室)のことである。

『11歳の時に腸チフスにかかる。当時、インドのような国で子供がこの病気にかかると、まず助からないにも関わらず、周囲がほとんど諦めていたなか、奇跡的に生き延びる。6ヵ月間は固形物が食べられず、流動食だけで過ごす。母親がラオ氏の前にサラスヴァティー女神の絵を置いて、毎日、数秘術と手相術と占星術を教える。』

そして、ラオ氏の『運命と時輪』には金星のアンタルダシャーやプラティアンタルダシャーの時期に女性や音楽と関わることが多かったことが綴られている。

例えば、1945年のラーフ/金星期の出来事として、以下のように書かれている。

『ラオ氏が広場でサッカーを楽しんでいた10代前半の頃、近所の3階建ての黄色い建物からは、名声不朽の偉大な歌手ベグム・アクタル(女性)のメロディアスな声が聞こえていた。彼女の人気は大変なものであった。当時のラオ氏には彼女がなぜそんなに人気があるのか理解できなかった。』

また、1971年5月〜の土星/水星/金星期の出来事として、以下のような体験が紹介されている。

『1970年頃、ラジコットで勤務していたわたしは、メフィルに招待されました。・・・その日はベグム・アクタルがガザルズを歌うというので、わたしは彼女の歌声を聞きに行きました。彼女の声は以前にも増して甘く、官能的な要素は少なく、より成熟していました。評論家の言うとおり、彼女の歌うガザルズのセミ・クラシックの気品は本物でした。感覚を刺激するガザルズにわたしはあまり興味を持っていなかったので、これは、わたしにとっては、まさに願望成就でした。神はいつも最後には微笑みかけるものなのでしょう。この当時のプラティアンタルダシャーは金星でした。』

さらに、1985年12月の土星/木星/金星の出来事として、以下のような体験が紹介されている。

『それから15年経った1985年、ババのアシュラムにいるとき、献身的なオディッシ音楽の曲を聴きました。それは、これまで聞いたことのないほど魅力的な、献身をテーマにした音楽によるシンプルで情緒的な描写でした。そこで、わたしは、ヒンディー語のバジャン(神に捧げる歌)と、オディッシ・スタイルによるトゥルシーダスのラムチャリット・マナスを歌ってくれるように頼みました。ババ(長老)の弟子である一人の青年と、2人の若い女性は、このリクエストに見事に応えてくれました。』

上記のように金星のアンタルダシャーやプラティアンタルダシャーの時期は音楽や女性との関わりがあるようである。
金星は風の部屋に在住しているが、風の星座に在住する金星は音楽を表すのではないかと思われる。

例えば、インドの有名な古典音楽奏者であるラヴィ・シャンカールは天秤座にラーフが在住しているが、ラーフ期にビートルズのジョージハリソンと交流し、ロックとインド古典音楽のコラボレーションなどを行ったようである。(ポール情報)

また、10室支配の月のアンタルダシャーやプラティアンタルダシャーの時期を調べてみると、彼が注目を浴びる舞台に立たされて、スポットライトを浴びているのがよく分かる。10室の象意である有名、地位というのがよく当てはまっているのが分かる。

例えば、1986年4月12日の土星/木星/月の出来事として以下のように綴られている。

『わたしのプラティアンタルダシャーが10室を支配している月だったとき、S.R.さん(ババの2人の女性の弟子の1人)のプラティアンタルダシャーは10室に在住する金星でした。1986年4月12日、10室の支配星がわたしのプラティアンタルダシャーだった時にわたしが聴衆に彼女を紹介したことは、少しも不思議ではありませんでした。これは、多くの聴衆をひきつけるスターとしてアヌープ・ジャロタが招待されていたカンプールの同じステージでのことです。1986年4月12日、月と金星が彼女のホロスコープにおける10室を通過中でした。その後、彼女のラグナの支配星(月)は最高星位に入りました。S.R.さんは3曲のバジャンを歌って、聴衆を魅了しました。それを聴いた多くの人は、彼女が今後有名なバジャン歌手となっていくだろうと感じました。』

この時、おそらく、ラオ氏は聴衆に向けて彼女を紹介するときに聴衆から注目される歌手と同じ舞台上に立っていたのであり、彼女(S.R.さん)とともに彼女を紹介したラオ氏自身もこの時、聴衆から注目を浴びたのである。

また、1993年の水星/月期における全米レクチャーツアーにおいては当然、多くの占星術家から注目され、後にラオ以前とラオ以後といわれるように多くの米国の占星術家に影響を与えたと思われるのである。

『ラオ氏は1993年〜1995年の間、5回渡米し、占星術に関する全米レクチャー・ツアーを行う。1993年の全米インド占星術協会が主催する第2回会議では、ラオ氏は主賓として招かれる。』(水星/月)

『あるインド人がワシントンにある家にラオ氏を招き、ラオ氏は彼のホロスコープを見て、彼が管理職にある技師であり、とても大きな国際条約を結んでいると言う。彼は驚き、彼の奥さんはおいしい料理を振る舞い、彼はラオ氏に1000ドル渡す。』(水星/月)

『ラオ氏が参加すると多くの人を集めることができるので、1994年の第3回会議ではラオ氏は会議の初日から参加するように頼まれる。 1994年9月カリフォルニア州サン・ラファエルで行われた、第3回インド占星術シンポジウムの際にインタービューを受ける。』(水星/月)

上記のようにいくつかのエピソードを確認しても、10室支配のアンタル月期のラオ氏は非常に大舞台に立ち、聴衆から注目を浴びて有名となったことが分かるのである。

その後、1995年7月になると、水星/火星期となるが火星期に以下のようにトップクラスの西洋占星術家の会合に招待され出かけているが、火星は機能的凶星で、ラグナ、ラグナの支配星、10室の支配星を傷つけているため、おそらく、ラオ氏はこの会合で嫌な体験をしたのではないかと思われる。

『ワシントンDC近郊のウエスト・ヴァージニア州で、プロジェクト・ハインドサイト関連の、トップクラスの西洋占星術家の会合が開かれ、そこへラオ氏が招待され、インド占星術のダシャーシステムについて2時間の講演を行う。』

7室支配の火星の象意から遠慮のない占星術師たちから、猛烈につけ回されて困惑したのかもしれない。
そして、1995年11月には彼は米国に今後来ないことを宣言してしまうのである。

『1995年11月の第4回会議までラオ氏の名前は全米で宣伝され続けましたが その会議で彼は、それ以後アメリカの会議には参加しないことを表明する。』
おそらく、この時期は米国人の物質性に触れて、ひどく困惑し、不愉快に感じたのかもしれないのである。
例えば、ラオ氏が米国に行った時のエピソードとして、自分は無料で鑑定してあげたのに、有名人の出生年月日のデータがあったら欲しいと米国人に頼んだら、お金を請求されたことに対して困惑した経験を挙げているが、米国人の何でもお金を介在させて考える商業主義に彼は批判的である。

あと、もう一つ興味深い点として、『運命と時輪』のエピソードで彼が挙げているのは、マハダシャー土星期やマハダシャー水星期の体験が多く、次いで幼少時のマハダシャーラーフ期の体験であり、マハダシャー木星期の体験はほとんど載っていないのである。

木星は3、6室支配の機能的凶星であり、私の鑑定経験からも天秤座ラグナにとっての木星期は非常に悪いのである。
ラオ先生は木星が10室で高揚しているにも関わらず、全く木星期の体験がほとんど載っていないというのは木星期が悪かった証拠なのである。
通常、人は自分の自叙伝に悪い体験は掲載しないのであり、それはどんな人でもそうした傾向は出てきてしまうのである。

実際、木星はラグナからも月からも火星からも、金星からも3、6室支配の機能的凶星であり、太陽、水星、ケートゥから見ても4、7室支配の機能的凶星である。従って、木星期にはラオ先生にはよい体験は期待できないのである。従って、彼の名声というのは実際には1室と10室の支配星の絡みが表していると思われる。ラオ氏の経歴を調べても彼の名声は水星/月期の全米レクチャーツアーで確立されたのである。

そして、もう一つ、土星/ラーフ期のエピソードだがアンタルラーフ期の経験は良いことが分かる。
例えば以下のように紹介されている。

1981年12月----『デリーで3日間の占星術セミナーが開かれたとき、その問題を克服する契機が訪れた。ラオ氏がスピーチをしてから、占星術に関する記事を依頼されるようになる。それ以来、それまでのオリジナルの研究を発表する機会に恵まれ、やがて世界に認められるようになる。』

1982年----『スワミ・ムールカナンダ師が、ラオ氏が偉大なる占星術ルネッサンスの開拓者になるだろうと予言する。』

この土星/ラーフ期のエピソードを見ると、努力しながら自分の地位を確立していく兆候が見られ、ラーフ期は非常に良いことが分かる。
ラーフはウパチャヤ凶星で強く、木星の星座に在住し、木星から自室へのアスペクトを受けており、6室は強くなっている。またラーフから見て木星は1、10室支配の機能的吉星である。 またラーフは9室支配で高揚する水星からもアスペクトされている。

ラオ先生自身が著書の中で自分のラーフ期について述べているようにラーフ期の象意がよいことが理解できる。

現在、ラオ先生はケートゥ/ラーフ期である。
ラーフは上記で述べたように6室ウパチャヤに在住し、木星が自室にアスペクトしているため強い配置である。
チャラダシャーで見ると、1995年〜続いていた獅子座のダシャーが終り、乙女座のダシャーに移行している。

獅子座のダシャー時は、獅子座から見ると、AKの太陽とPKの水星が2室に在住し、AmKの木星が12室に在住しており、DKの月とGKの金星、MKの火星が獅子座にアスペクトしているがジャイミニのラージャヨーガを一つも形成しておらず、仕事を表すAmKの木星が12室に在住していることから、彼の業績は表にでない時期であったと考えられ、あまりパッとしない時期である。

1995年の全米レクチャーツアーから帰ってきて、国内に戻った頃から、ずっと獅子座のダシャーが続いており、彼の活躍は低迷気味であった。 しかし、現在、乙女座のダシャーに移行し、乙女座から見ると、AKの太陽とPKの水星は1室で接合して、ジャイミニラージャヨーガを形成している。またAmKの木星は11室に在住して非常に良い時期に入ったようである。今まで研究や出版も停滞して彼の業績が表に出る機会がなかったが、これからまた蓄積された彼の研究内容が表に出てくる時期ではないかと思われる。

年月日
ヴィムショッタリダシャー
チャラダシャー
木星 土星
2006年5月4日 ケートゥ/火星 獅子座-獅子座 (2005年11月10日〜) 天秤座 蟹座
2006年10月1日 ケートゥ/ラーフ 乙女座-天秤座 (2006年10月11日〜) 天秤座 蟹座、獅子座(11/1〜)
2007年10月19日 ケートゥ/木星 乙女座-蠍座   ( 2007年10月11日〜) 蠍座 獅子座
2008年9月24日 ケートゥ/土星 乙女座-射手座 (2008年10月10日〜) 射手座 獅子座
2009年11月3日 ケートゥ/水星 乙女座-山羊座 (2009年10月11日〜) 山羊座 乙女座
2010年10月31日 金星/金星 乙女座-水瓶座 (2010年10月11日〜) 魚座 乙女座

2007年10月19日からケートゥ木星期であるが、木星はケートゥから見て、4、7室支配で11室に在住し、占星術家や仲間との社交の時期かもしれないが、木星は上述したように機能的吉星ではないため、単なる社交、交流に終わってしまい、インスピレーションや真の目的が得られない時期であることが考えられる。ジャイミニのチャラダシャーではブクティーの蠍座からはAmKの木星は9室に在住して蠍座にアスペクトしている。 これはよい配置かもしれないが木星のアンタルダシャーはよい時期とは思えないのである。

しかし、今年2007年7月16日よりトランジットの土星が蟹座(4/38)から獅子座(5/37)に移動し、 アシュタカヴァルガのビンドゥーが5/37と非常に高い場所を通過するのである。そして、11月22日には木星が射手座(2/28)にシフトすることによって獅子座11室にダブルトランジットが成立する。
この頃はケートゥ/木星期、そして、ケートゥ/土星期であるが、中心はケートゥ/木星期であり、ラオ先生の交友、社交が最高度に高まるのである。そして、名声、名誉も非常に高まる時期である。因みに私もこの時期にラオ先生のもとを訪れるのではないかと思っている。

ラオ先生の業績が本当に再び、文筆、出版の形で世に出始めるのはおそらく、2008年9月24日以降のケートゥ/土星期ではないかと思われる。土星はラグナ、月から4、5室支配のラージャヨーガカラカであり、ケートゥから見て、5室支配で4室に在住して、ラージャヨーガを形成している。ジャイミニでは射手座のブクティーであるが射手座から10室でAKの太陽とPKの水星が接合し、5室支配の土星と相互アスペクトしてジャイミニラージャヨーガを形成している。

そして、2009年11月3日からケートゥ/水星期に入ると、ケートゥから見て、水星は1、10室支配で1室に在住して、パンチャマハープルシャ・バドラヨーガを形成し、水星から見ても水星は1、10室支配で、1室に在住して高揚している。
さらにジャイミニでは、9室でAKの太陽とPKの水星が接合し、5室の支配の土星が相互アスペクトして、ジャイミニラージャヨーガを形成し、7室にAmKの木星が在住している。
彼の真の目的、真の業績が世に出て、ジョーティッシュは精神修行の一貫であるという彼の従来の目的に基づいた奉仕を為す時期である。
この時期はラオ先生が精神的に最も輝かしく栄光に満ちている時期ではないかと思われる。

アートマカラカ
アマティアカラカ
ブラトゥルカラカ
マトリカラカ
プトラカラカ
グナティカラカ
ダラカラカ
大臣
兄弟
子供
親戚
配偶者
AK
AmK
BK
MK
PK
GK
DK

ラオ先生の業績によってまさにジョーティッシュのルネッサンスが花開いたのであり、私がジョーティッシュが21世紀のスーパーサイエンスであることを理解できたのはラオ先生のおかげである。これからラオ先生が活躍する時期がやってくるのであり、私は大変期待している。

 

西暦 年月 年令 出来事 ヴィムショッタリダシャー チャラダシャー
1931年 10月12日 0歳

次男として生まれる。

父親:K.ラーマ.ラオ氏:インド独立前から活躍したジャーナリスト。ナショナルヘラルド創設に編集者として参加。長年に渡って30誌以上の新聞・雑誌で編集者として敏腕を振う。

母親:偉大な占星術家。プナシュナ(ホラリー)や女性のホロスコープといった特定分野においては、間違いなく右に出る者はいない。独創的で、心が柔軟であらゆるものを現代的視点で見ようとする反面、南インド地方の純粋で伝統的なブラフミン。

火星/金星
1942年 11 11歳の時に腸チフスにかかる。当時、インドのような国で子供がこの病気にかかると、まず助からないにも関わらず、周囲がほとんど諦めていたなか、奇跡的に生き延びる。6ヵ月間は固形物が食べられず、流動食だけで過ごす。母親がラオ氏の前にサラスヴァティー女神の絵を置いて、毎日、数秘術と手相術と占星術を教える。 ラーフ/水星
1943年 12 今は亡き母親、K・サラスヴァニー・デーヴィーから占星術を教わる。 ラーフ/水星
1945年

ラオ氏が広場でサッカーを楽しんでいた10代前半の頃、近所の3階建ての黄色い建物からは、名声不朽の偉大な歌手ベグム・アクタル(女性)のメロディアスな声が聞こえていた。彼女の人気は大変なものであった。当時のラオ氏には彼女がなぜそんなに人気があるのか理解できなかった。(ラオ氏回想)

ラーフ/金星
1955年? 24? 英文学を学んで大学で教師をする。 木星/土星?
1957年 1月 上級職公務員試験を通って役人として採用される。 木星/水星
在職中、彼は会計監査に関する3つの国際コースで、プランナーとオーガナイザーそして講師を勤める。その間、局長を2回、副局長を1回務める。仕事と占星術の両方において、20年以上外国人と交流を維持していた。 木星期、土星期半分
1971年5月〜 『1970年頃、ラジコットで勤務していたわたしは、メフィルに招待されました。・・・その日はベグム・アクタルがガザルズを歌うというので、わたしは彼女の歌声を聞きに行きました。彼女の声は以前にも増して甘く、官能的な要素は少なく、より成熟していました。評論家の言うとおり、彼女の歌うガザルズのセミ・クラシックの気品は本物でした。感覚を刺激するガザルズにわたしはあまり興味を持っていなかったので、これは、わたしにとっては、まさに願望成就でした。神はいつも最後には微笑みかけるものなのでしょう。この当時のプラティアンタルダシャーは金星でした。』

土星/水星/金星

1981年 12月 デリーで3日間の占星術セミナーが開かれたとき、その問題を克服する契機が訪れた。ラオ氏がスピーチをしてから、占星術に関する記事を依頼されるようになる。それ以来、それまでのオリジナルの研究を発表する機会に恵まれ、やがて世界に認められるようになる。 土星/ラーフ
1982年 スワミ・ムールカナンダ師が、ラオ氏が偉大なる占星術ルネッサンスの開拓者になるだろうと予言する。 土星/ラーフ
1985年 12月 『それから15年経った1985年、ババのアシュラムにいるとき、献身的なオディッシ音楽の曲を聴きました。それは、これまで聞いたことのないほど魅力的な、献身をテーマにした音楽によるシンプルで情緒的な描写でした。そこで、わたしは、ヒンディー語のバジャン(神に捧げる歌)と、オディッシ・スタイルによるトゥルシーダスのラムチャリット・マナスを歌ってくれるように頼みました。ババ(長老)の弟子である一人の青年と、2人の若い女性は、このリクエストに見事に応えてくれました。』 土星/木星/金星
1986年 1月 『・・・わたしのホロスコープにおける金星のプラティヤンタルダシャーが1985年12月に終わると同時にわたしの音楽とのかかわりは突然なくなるだろう、とわたしは彼らに言いました。1986年1月になってわたしに転勤の辞令が届きました。』 土星/木星/太陽
1986年 4月12日 『わたしのプラティアンタルダシャーが10室を支配している月だったとき、S.R.さん(ババの2人の女性の弟子の1人)のプラティアンタルダシャーは10室に在住する金星でした。1986年4月12日、10室の支配星がわたしのプラティアンタルダシャーだった時にわたしが聴衆に彼女を紹介したことは、少しも不思議ではありませんでした。これは、多くの聴衆をひきつけるスターとしてアヌープ・ジャロタが招待されていたカンプールの同じステージでのことです。1986年4月12日、月と金星が彼女のホロスコープにおける10室を通過中でした。その後、彼女のラグナの支配星(月)は最高星位に入りました。S.R.さんは3曲のバジャンを歌って、聴衆を魅了しました。それを聴いた多くの人は、彼女が今後有名なバジャン歌手となっていくだろうと感じました。』 土星/木星/月
『・・・10室の支配星とコンジャンクトしているわたしの弱い金星は、時折、音楽への興味を蘇らせてくれますが、それは道徳的に清らかな生き方をしている人たちが歌っている宗教音楽に対してのみです。甘美な賛美歌の長い歴史を持っているオリッサの音楽は、わたしの素人判断では、他の地域の賛美歌よりもはるかに魅力的です。
1990年 1月 インド政府の会計監査院の最高職を退職する 水星/ケートゥ
『独身で政府高官という職にあったためにインドでは格好の結婚相手でした。伝統を重んじる人たちがわたしのところにやってきて、婿養子の話を持ちかけてきます。それをようやく断ると、今度は役所で女性たちがつけまわす。これには心底、困らされました。』
1993年 3月14日朝 ビハール州のブッダガヤの大学で哲学学科の長である、K.N.ラオ氏の友人、L.P.シンハ博士が、外国人の女性と一緒にラオ氏の家を訪ねる。
1993年 ラオ氏は1993年〜1995年の間、5回渡米し、占星術に関する全米レクチャー・ツアーを行う。1993年の全米インド占星術協会が主催する第2回会議では、ラオ氏は主賓として招かれる。 水星/太陽、水星/月
1993年 あるインド人がワシントンにある家にラオ氏を招き、ラオ氏は彼のホロスコープを見て、彼が管理職にある技師であり、とても大きな国際条約を結んでいると言う。彼は驚き、彼の奥さんはおいしい料理を振る舞い、彼はラオ氏に1000ドル渡す。 水星/太陽、水星/月
1993年に初めてアメリカに招待されて以来、ラオ氏はインド占星術に関する英書を少なくとも20冊以上書いている。 マハダシャー水星期
1994年

ラオ氏が参加すると多くの人を集めることができるので、1994年の第3回会議ではラオ氏は会議の初日から参加するように頼まれる。
1994年9月カリフォルニア州サン・ラファエルで行われた、第3回インド占星術シンポジウムの際にインタービューを受ける。

水星/月
1995年 7月 ワシントンDC近郊のウエスト・ヴァージニア州で、プロジェクト・ハインドサイト関連の、トップクラスの西洋占星術家の会合が開かれ、そこへラオ氏が招待され、インド占星術のダシャーシステムについて2時間の講演を行う。 水星/火星
1995年 11月

1995年11月の第4回会議までラオ氏の名前は全米で宣伝され続けましたが、その会議で彼は、それ以後アメリカの会議には参加しないことを表明する。

水星/火星
『ラオ先生のインド占星術―運命と時輪―上巻』(インド占星塾 発行 大森一訳) を引用抜粋し、時系列順に並べ替え、大幅に編集。

 

(資料---『ラオ先生のインド占星術-運命と時輪−』上より引用抜粋)

K.N.ラオ(コタムラジュ・ナラヤナ・ラオ)氏は、1990年11月、インド政府の会計監査院の最高職を退職しました。彼の父親であるK・ラーマ・ラオ氏は、インド独立前から活躍していたジャーナリストでした。ラオ氏の父は、編集者としてナショナル・ヘラルドの創設に参加し、それ以後も、長年にわたって30誌以上の新聞・雑誌で編集者として敏腕を振るいました。ラオ氏は、その次男として生まれました。
 ラオ氏は、1943年の12歳の時から、今は亡き母親、K・サラスヴァニー・デーヴィーから占星術を教わりました。ラオ氏は、「結婚と子供」と「プラシュナ(ホラリー)」を占わせたら母親の右に出るものはいないだろうと今でも思っているそうです。
 ラオ氏は、1957年、日本でいう上級職公務員試験を通って役人として採用されるまで、英語の講師をしていました。その後、インド政府の会計監査院に勤務し、1990年11月に退職したときには、最高職にまで上りつめていました。ラオ氏は、若いときは占星術よりもむしろゲームやスポーツに興味をもち、チェス大会に参加してすばらしい成績をおさめたほか、ブリッジ大会にも出場して2つの州で優勝しました。ラオ氏は、それ以外にも10種類のゲームをこなしているので、彼が書く占星術の本には、ゲームのたとえがよく出てきます。
 在職中、彼は会計監査に関する3つの国際コースで、プランナーとオーガナイザーそして講師を勤めましたが、その間、局長を2回、副局長を1回務めました。仕事と占星術の双方において、彼は20年以上も外国人と交流を維持していました。占星術家として、彼が海外ネットワークを大きくすることができたのも、このためです。ラオ氏は、在職中に占星術の基本的な項目をすべて調べ終え、数万におよぶホロスコープを系統的に収集しました。収集された5万以上に及ぶホロスコープは、10の重要区分で分類・整理されています。おそらくこれは、あらゆる占星術家が所有しているデータベースの中でも、最大規模のものでしょう。
 ラオ氏は、占星術家としての使命感から、クライアントからお金をまったく取りませんでした。そのため、ラオ氏は、なんども占星術の道を断念しかけました。しかし、1981年12月、デリーで3日間の占星術セミナーが開かれ、その問題を克服する契機が訪れました。ラオ氏がスピーチをしてからというもの、占星術に関する記事を依頼されるようになったのです。以来、彼はそれまでのオリジナルの研究を発表する機会に恵まれ、やがて世界に認められるようになりました。
 1993年から1995年までの間、ラオ氏は5回渡米し、占星術に関する全米レクチャー・ツアーを行いました。1993年の全米インド占星術協会が主催する第2回会議では、ラオ氏は主賓として招かれました。ラオ氏が参加すると多くの人を集めることができるので、1994年の第3回会議では、ラオ氏は会議の初日から参加するように頼まれました。
 1995年11月の第4回会議までラオ氏の名前は全米で宣伝され続けましたが、その会議で彼は、それ以後アメリカの会議には参加しないことを表明しました。
 ラオ氏の学術的なアプローチに惹かれて、今では、インドで1000人以上、アメリカでも200人以上の生徒が集まっています。彼は、ニュー・デリーにあるバラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァン(Bharatiya Vidya Bhavan's Institute of Astrology)の占星術コースのアドバイザーを務めています。ここで働いている占星術の講師たちは、みなラオ氏と同じように、名誉職という立場を取っており、生徒からまったくお金を取っていません。
 なにがラオ氏を占星術の道に駆り立てたのでしょうか。 それは、彼のホロスコープを見ればわかります。アセンダント(ラグナ)と第10室の支配星がアセンダントのハウスでコンジャンクトしており、さらに強力な木星が第10室に在住しています。すべては彼の占星術のグル(ジョーティッシュ・グル)であるグジャラットのヨーギー・バスカラナンダジによって予見されていました。ラオ氏は、自分のグルを、最後の、純粋で古典的な、型どおりの聖者の占星術家(リシ・アストロロジャー)であると表現しています。ラオ氏のグルはかつてラオ氏に、「インド占星術に栄誉と名声と威厳がもたらされるまで、(ラオ氏は)世界各国をまわらなければならないだろう」と言いました。あるアメリカ人は、1993年、ラオ氏が初めてアメリカに来たときの衝撃を、「ラオ以前のインド占星術」と「ラオ以後のインド占星術」という言葉で表しています。
 多くのヨーギーが、ヴェーダーンガとしての占星術をあきらめないように彼を励ましたことが、本書に記されています。
 占星術家という仕事は、報酬目当てでぼったくりの要素があるために一般に評判が悪いものですが、ラオ氏は、占星術「屋」にはなりたくないという思いがあります。そのため、彼は多くの称賛を受ける一方、ラオ氏に脅威を感じる一部の占星術「屋」からは敵視されてきました。それは、ラオ氏の周りに200人以上の人が集まり、みなラオ氏と同様、占星術は生計を立てるためのものではなく、人生の目的と意味を知るための超科学であり、ヴェーダーンガとしての占星術はそうであったし、そうあり続けるべきである、という考えを持っているからです。
 ラオ氏のマントラ・グルであるスワミ・パラマナンダジとジョーティッシュ・グルであるヨーギー・バスカラナンダジは、どの本にも載っていない占星術の秘儀を、ラオ氏に伝授しました。ラオ氏は、その秘儀の一部を本書で公開しています。
最新の基本的かつオリジナルな調査結果は、著書『Predicting through Jaimini's Chara Dasha』と『Predicting through Karakamsha and mandook Dasha』に出ています。
 なぜラオ氏がこのような調査を行うことになったのかというと、それは彼のジョーティッシュ・グルが、字面だけの翻訳でしかない一般の占星術書に書かれている内容以上のものがパランパラー(伝統)の中に存在していることを、ラオ氏に教えたからです。彼の実の母親は、彼の最初のジョーティッシュ・グルであり、そのような伝統的秘儀を多く知っていました。これらの一部は、『Ups and Downs in Careers』、『Planets and Children』、そして本書の3冊に公開されています。
 ラオ氏のマントラ・グルであるスワミ・パラマナンダジは、占星術がラオ氏の修行(サーダナ)にとって不可欠な部分であるとして、占星術をあきらめないように諭した最初の人物でした。後日、1982年になってから、偉大なるヨーギーであるスワミ・ムールカナンダジは、ラオ氏が、偉大なる占星術ルネッサンスの開拓者になるだろうと予言しました。この予言が成就したのかどうかは、彼の調査結果として出版されたものを見ればわかるでしょう。