Queen Victoria, III (ヴィクトリア女王、III )

4:14:32 AM UT, 5/24/1819 

51N30, 0W07

チャートの持ち主は1837年6月20日、18歳の頃、イギリス女王として即位した。

写真を見ても分かるように、チャートの持ち主は、牡牛座アセンダント、月、太陽で、ぽっちゃりとしたふくよかな女性であり、動作もゆっくりと緩やかで落ち着いた気性の持ち主であると思われる。経歴より、彼女には3人の兄がいたようであるが、結局最終的に王位を継ぐことになったのは、チャートの持ち主、ヴィクトリア女王であった。11室には7、12室支配の火星、9、10室支配の土星、ラーフ、冥王星が在住して、惑星集中している。兄が3人いたというのはチャートから見て、非常に分かりやすいのである。何れも生来的凶星で、惑星的にも男性である。

彼女はドイツ人のアルバート公と結婚し、9人の子供をつくり、彼らの結婚を通じてヨーロッパ各国の王室や貴族と婚姻関係にあったというが、ラシチャートでは、5室に火星(7、12室)、土星(9、10室)がアスペクトし、5室支配の水星は、12室でラグナロードの金星とコンジャンクトしている。12室で、2、5、1、6室の絡みが出来ている。

ナヴァムシャでは、5室には、2、5室支配の水星、9、10室支配の土星がコンジャンクトし、スーパーラージャヨーガを形成している。また、そこに7、12室支配の火星がアスペクトしている。ナヴァムシャにおいても5室の状態が非常に良いことが分かる。

彼女は、これらの子供たちの婚姻関係を通じて、裏外交の主役であり、各国との対立などを未然に関係し、裏から影響力を振るったというが、ラグナロードが12室に在住し、5室支配の金星とコンジャンクトしていることはこうした事象と解釈できる。この頃、英王室は、絶対王政の時代が終わり、保守党と労働党による2大政党政治の展開や男子普通選挙制の実現、教育制度の整備や労働組合の承認など、自由主義改革が推進され、象徴としての機能が増した頃であり、表の舞台で活躍するというより、裏舞台で影響力を行使することが多くなったというのもその背景にあるかと思われる。

写真1

写真2

 

(資料)

Queen Victoria, III: 2. 4:14:32 AM UT, 5/24/1819. 51N30, 0W07. ヴィクトリア女王、III

 

(写真1、2説明文はウェブより)

写真1・・・・右は、英国国王四代が写っている「国宝的写真」です。 左から、皇太子、後のエドワード七世、 右は、その長男、後のジョージ五世、 ヴィクトリア女王に抱かれている赤子は、ジョージ五世の長男、後のエドワード8世(即位後、シンプソン事件で退位) ヴィクトリア女王  

写真2・・・・スタンリー・ワイントラウブ著 『ヴィクトリア女王』 から借用

 

19世紀05 ヴィクトリア女王が生まれたのは、1819年、父はハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の四男ケント公エドワード、そして母はドイツのザクセン・コーブルク公の娘であった。 3人も兄がいれば、自分の将来はどっちみち見えている。しかし、父エドワードの心には、あるジプシー女の占い師の言葉が妙にひっかかっていた。 「あなたはこれから幾多の苦難にあわれることでしょう。しかし死ぬときには幸福です。あなたの娘が偉大な女王になられるからです。」 ただどう考えてみても、娘とイギリスの王位との間には、あまりにも隔たりがありすぎる。父の胸中は穏やかではなかった。ヴィクトリアが生まれて8ヵ月、父エドワードは肺炎をこじらせてあっけなくこの世を去った。そしてその6日後には、晩年は精神錯乱に陥っていたジョージ3世が亡くなった。1820年1月のことである。 その後、少々あわただしい動きを経て、1837年6月20日、ウィリアム4世が老衰で亡くなると、占い師が予言したとおり、王冠はヴィクトリアのもとに転がりこんできたのである。このとき彼女はまだ18歳であった。 運命のいたずらは彼女を、「世界の工場」という地位を固めつつあった最盛期のイギリスの王座につかせたのであった。 金髪で桜色の頬をした若き女王は、即位当初から国民の熱狂的な歓迎を受けた。初々しく控えめな少女だったことだけがその理由ではない。人々がヴィクトリアを慕ったのは、まず何よりも彼女の「きまじめさ」であった。王室に清潔な道徳的イメージを抱いていたイギリス人はそれまで誰一人いなかったと言ってよい。(それは、現在も同じかもしれないが…)国王一族といえば、スキャンダラスな異性問題や金づかいの荒さが連想されるのが常だった。 しかし、ヴィクトリアは王室始まって以来の優等生であるといえた。幼いころからきかん気で、思い込んだら夢中になる性分から、周囲を手こずらせることはあったにせよ、彼女は王たる者の義務を体得し、なおかつそれを衆目の見守るなかで威風堂々と「見せる」天性が備わっていたらしい。 国民にとっての女王像は、即位3年目に最愛の夫アルバート公を迎えたことで一層親しみを増した。アルバート公は、ドイツ人で女王と同いどしのいとこにあたる。ヴィクトリアは17歳のとき、このハンサムでやさしい、「うっとりする」ような表情をするいとこにひとめぼれをした。アルバート公もまた、派手な社交生活は肌に合わぬという謹厳な性格で、女王にとってはまたとない伴侶であった。国民の多くは、このロイヤル=カップルに初めて理想の夫婦・家庭像を見出した。夫妻の間には9人の子が育ち、家族そろってのバルモラン城での休息が王室の年中行事となった。 1861年、アルバート公が腸チフスのため急逝したあと、女王は2年以上も喪に服視たまま、公の席に姿を見せなかったという。 「象徴としての王室」という、現在のイギリス王室が担っている役割は、実はヴィクトリア女王とアルバートが創り出した新しい伝統なのである。 1894年、ヴィクトリア女王75歳の時の写真が残っている。向かって右側に座っているのが長女(故ドイツ皇帝フリードリヒ3世の妃)、左がその長男ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世。周りにいるのは、イギリス・ドイツ・ロシア・ルーマニアの王侯貴族たち。のちの第一次世界大戦(1914〜17)は、女王の子孫の間で戦われることになる。 ヴィクトリア女王 -------------------------------------------------------------------------------- Victoria Hanover 1819年5月24日生 1901(明治34)年1月22日没 ロンドン、ケンジントン宮殿出身 ジョージ3世の四男・ケント公エドワード王子の娘 1837年〜1901(明治34)年 イングランド女王 ハノーバー朝第6代 伯父の死を受けて18歳で即位 その64年の治世はイングランド王中最長 イギリスの史上最も繁栄した時代に、その生ける象徴として君臨 首相メルバーンから君主としての教育を受ける 21歳の時、従兄弟のアルバート(アルバート公)と結婚 アルバートは当初王室で白眼視されるが、やがてその人格と深い教養により信頼と尊敬を勝ち得る 女王一家の家庭生活は、イギリス中産階級家庭の、道徳的模範とされるに到る 女王の治下イギリスは産業革命により資本主義が発達 世界の工場となって海外市場を独占し、七つの海に君臨 文芸はヴィクトリア朝時代として一時期を画した アルバート公の豊かな教養と賢明な助言を受けて、国民の敬愛を集め、王室の地位を高めた 1856年 ヴィクトリア十字勲章制定 1861年 アルバート公死去 1877(明治10)年 インド皇帝 1899(明治32)年 ヴィクトリア・アルバート博物館建築に着手 1901(明治34)年1月22日 死去 享年82 偉大な国王と称えられる16世紀のヘンリー8世のように、絶対王政を握って、予が憲法である!と言って自分の思い通りに国家運営ができた封建時代と異なり、立憲君主制が確立し議会が発達していた近代国家において、ヴィクトリア女王が歴史上偉大な国王と言われるのは何故でしょうか。 スタンリー・ワイントラウブ著 『ヴィクトリア女王』 から借用 先ずなんと言っても19世紀、世界中に覇権を広げた大英帝国の全盛時代に、64年間もの長きにわたってイギリス本国は勿論、アフリカ、中近東からインド、カナダ、オーストラリアまで、世界中の植民地を含め、総勢三億人にも及ぶ帝国の国民の上に君臨する皇帝として、ヴィクトリア黄金時代を築いたことが背景にあるでしょう。 然し、ヴィクトリア女王の存在が偉大であった真の理由は、夫君アルバートとの間に9人もの子供をもうけ、その子たちの婚姻関係を通じてヨーロッパ中に、ヴィクトリア女王を中心とする親密な王族ネットワークを創り上げ、「ヨーロッパの祖母」と慕われたことにあると思います。 その結果、国家間での外交交渉が行き詰まり風雲急な危機が迫ったことは何回もありましたが、女王のイニシアテイブで王族同士が関係修復に動くため、一線を越えたことは一度もありませんでした。 ヨーロッパは19世紀初頭まで、ナポレオン戦争の戦禍に荒れ狂っていましたが、植民地での紛争はともかく、その後のヴィクトリア朝時代のヨーロッパ大陸では大きな戦争が起こらず、ずっと平和が保たれていたのです。 然し、ヴィクトリア女王が世を去ると最早ヨーロッパには、ドイツをはじめ野心満々な軍事大国の強気の外交を抑えることが出来るキーマンはいなくなりました。その結果、ヨーロッパは間もなく、悲惨な第一次世界大戦のどん底へと落ち込んで行ったのです。 ヴィクトリア女王は、ヨーロッパの祖母として存在しただけで偉大な国王だったのです。 ヴィクトリア女王    19世紀半ば。  アメリカを失ったとはいうものの、広大な植民地帝国を築いたイギリスは、自国と西アフリカ・カリブ諸国を結ぶ奴隷貿易を軸とする三角貿易から得た莫大な利益が呼び水となった第一次産業革命、さらに第二次産業革命へと邁進して「世界の工場」としての繁栄を謳歌します。  保守党と労働党による2大政党政治が展開され、男子普通選挙制の実現、教育制度の整備や労働組合の承認といった自由主義的改革が推進された時代です。  1837年、18歳で即位したヴィクトリアはこうした大英帝国の最盛期を統治した女王です。  彼女はよく茶を楽しんだことでも知られます。  政治や経済の政策に積極的に関与した彼女のエネルギーの源には、茶があったのかもしれません。  19世紀のこの頃になると喫茶の習慣は洗練の時代へと移り、上流 階級でアフタヌーン・ティが始まります。  ヴィクトリア女王は、このアフタヌーン・ティを公式なもてなしの儀式 として取り入れました。 「紅茶は正しくいれること」 「食べ物の種類は多く、しかも豪華であること」 「テーブルセッティングは身分にふさわしく優雅であること」 といった作法が確立され、一般へと浸透してゆきます。  ところでヴィクトリア時代には「茶」の転換期がありました。  1823年に植民地のインド・アッサム地方で茶樹が発見され、1839年にはロンドンのオークションにアッサムの紅茶が出品されています。  そして中国とのアヘン戦争がきっかけで、インドやセイロン(スリランカ)での紅茶生産が本格化し、それまで主流だった中国の緑茶やボヒー茶(武夷茶)からの脱皮が進みました。 【ヴィクトリア女王の子孫たちと血友病の遺伝】 --------------------------------------------------------------------------------  ヴィクトリア女王の子孫たちは、血友病の患者が数多く出た事で知られていますが、女王の両親及びその祖先、そして女王の夫君アルバート公は健常者であったので、恐らくヴィクトリア女王本人が突然変異か何かによる血友病遺伝子の保因者であったのだろうと言われています。女王の9人の子供たちのうち1人が患者(男)、3人が保因者(女)で、彼らを通して血友病はヨーロッパの王室に広がり、さまざまな悲劇を引き起こしました。以下の系図では、女王の子孫たちの中で血友病の患者及び保因者であった人々のみを取り上げています。(なお、現在では血友病患者であった男子は全て子孫を残さずに死亡しており、血友病の遺伝子は絶えたとされています)    ●〜血友病患者(男)    ○〜血友病遺伝子保因者(女) --------------------------------------------------------------------------------   ヴィクトリア  (イギリス女王)       ┌―○ヴィクトリア      ┌―●ヴァルデマール      ‖          |   ‖          |      ‖――――――――――┤   ‖――――――――――┤      ‖          |   ‖          |    アルバート        | フリードリヒ3世     └―ハインリヒ      ┌―●ハインリヒ (ザクセン=コーブルク公子)  | (ドイツ皇帝)          ‖        |                 |                  ‖――――――――┤                 |                  ‖        |                 |              ┌―○イレーネ      └―●ヴァルデマール                 ├―○アリス         |                 |   ‖          |                 |   ‖――――――――――┼―●フリードリヒ                 |   ‖          |                 | ルートヴィヒ4世     |                 |(ヘッセン=        └―○アレクサンドラ                 | ダルムシュタット大公)      ‖                 |                  ‖――――――――――●アレクセイ                 |                  ‖          (ロシア皇太子)                 |                ニコライ2世                 |                (ロシア皇帝)                 |                 |                 ├―●レオポルド                 |(オールバニー公)                 |   ‖                 |   ‖――――――――――――○アリス―――――――――●ルーバルト                 |   ‖            (アスローン伯妃)    (トレマントン子爵)                 | ヘレーネ                 |(ヴァルデック=                  | ピルモント公女)                 |                 |              ┌―●レオポルト                 └―○ベアトリス       |                     ‖          |                     ‖――――――――――┼―●マウリッツ                     ‖          |                   ハインリヒ        |                  (バッテンベルク公子)   └―○ヴィクトリア    ┌―●アルフォンソ                                     ‖       | (コバドンガ伯)                                     ‖―――――――┤                                     ‖       |                                  アルフォンソ13世  └―●ゴンサロ                                  (スペイン国王) 《参考資料》 「遺伝と人間」松永英、培風館、1984 「あなたは何を遺伝するか」湯浅明、北隆館、1976 「ライフネーチュアライブラリー:進化」タイムライフブックス、1970 他 ヴィクトリア女王御崩御  1837年に即位された女王は治世64年、だが1901年1月22日ワイト島のオズボーン離宮で御崩御された。82歳の生涯だった。  漱石は滞英中 The Daily Telegraph を読んでおり、紙面に載っていた The Queen is sinking.(「女王危篤なり」)と1901年1月22日の日記に記している。  漱石は黒ネクタイをつけて、哀悼の意を表した。 ●ヴィクトリア女王 ヴィクトリアじょおう アジア インド AD1819   1819〜1901 イギリス女王(在位1837〜1901)。ハノーヴァー朝の王ジョージ3世の四男ケント公エドワードの娘。1837年伯父ウィリアム4世の死により18歳で王位についた。ハノーヴァーの国憲は女子の王位相続を認めなかったので,女王の即位とともにハノーヴァー家はイギリス王室から分離してカンバーランド公アーネスト=オーガスタスが王位を継承した。1840年,従弟にあたるザクセン=コブルク=ゴータ家のアルバート公と結婚した。教養高い夫君の指導もあずかって立憲君主として国民の敬愛を集め,〈君臨すれども統治せず〉の女王のもとに自由党・保守党による政党政治が確立した。1861年,42歳のとき夫君が病死した。その後寡婦として隠遁生活に入ったが,1874年保守党のディズレーリの感化により政務に復帰し,1877年「インド女帝」の称号を受け入れた。女王の治世64年間はイギリス帝国の最も輝かしい時代であった。女王は9人の子女(王子4人・王女5人)の母であり,彼らの結婚を通じてヨーロッパ各国の王室や貴族と姻戚関係にあった。 ヴィクトリア女王(イギリス女王) Victoria (1819-1901) −大英帝国絶頂期の女王− (2000.10.2作成) -------------------------------------------------------------------------------- 英国の女王。ジョージ3世の四男ケント公エドワードの娘。出生の翌年に父親が死亡、ドイツ人の母親により厳しく育てられた。伯父ウィリアム4世の死後、18歳で即位。21歳でいとこでドイツ出身のアルバート公と結婚した。1861年、アルバート公が42歳で死去したとき、彼女の悲嘆は大きく、いっさいの公務から退いたが、74年に首相に就任した保守党のディズレイリの説得で再び公式の場に姿を現すようになった。この後、夫を悼み、生涯喪服着用を貫いたという。ヴィクトリア時代は、ディズレイリの保守党とグラッドストンに代表される自由党の二大政党による議会政治が展開された。女王はグラッドストンの自由主義に批判的ではあったものの、「君臨すれども統治せず」の原則を貫いた。4人の王子と5人の王女があり、長女はドイツのフリードリヒ3世(フレデリク皇帝)と結婚した。 --------------------------------------------------------------------------------