織田信長の生き様や経歴を何かの折にふと考えた時、彼の人生はまさに牡羊座の人生であるということが閃いたのである。そこで、出生データを調べてみると、1534年6月23日尾張(愛知県)というようにきちんとしたデータが残っている。出生時間を12:00に設定してチャートを作成してみると、惑星配置は上記のようであるが、牡羊座には何も惑星が在住していない。然し、織田信長を考える際に彼の人生は典型的な牡羊座の人生であるため、牡羊座に何も惑星が入っていないということは考えられないのである。従って、ラグナが牡羊座である可能性が非常に高くなるのである。仮に牡羊座の23°20’に設定して、バラニーの第4パーダの最初の度数に設定するともっとも織田信長らしいチャートになったのである。織田信長は非常に粗野で露骨だったことから、もっとも欲望の直接的な表現を特徴とするバラニーではないかと思われた。またそのほかの特徴を検討してもバラニーではないかと思われる特徴が経歴やエピソードに何度も出てくるのである。
例えば彼が桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取った有名なエピソードにしても彼が横から数に劣る軍勢で、奇襲攻撃をかけた際に、自ら陣頭指揮をとって攻め込んだところなどは、まさに牡羊座の象意である。牡羊座は先頭を行くのがその象意である。
またもう一つの大きなエピソードとして、本能寺の変で部下の明智光秀によって裏切られ滅ぼされたところである。
牡羊座のもう一つの象意として、外部の敵に対しては圧倒的に強いにも関わらず、むしろ内部の部下の裏切りなどによって足を引っ張られるのが牡羊座の象意である。
これは占星コラムで取り上げたアレキサンダー大王の場合もそうであり、彼も戦闘のときは常に自ら先頭にたって戦ったのであり、また外部の敵に対してはほとんど無敵だったにも関わらず、身内の部下に毒を盛られて死んだのである。史実かどうかは分からないが、監督のオリバー・ストーンはそのように描いている。これは牡羊座の象意として一般的であるようである。
また牡羊座の象意として人がまだやったことのないことを始めたり、試みたりする特徴があり、彼は南蛮人(ポルトガル人)がもたらした洋服を誰も身につけていない中で最初に身につけ、また甲冑も西洋製のものを身につけていたようである。鉄砲を取り入れて、武田軍との戦いで効果的に活用したのも彼が最初である。様々なエピソードを調べていくと、他の人に先駆けて最初に行ったり、取り入れたことが非常に多いのである。従って、後世で行われたことは似たようなことは全て織田信長に追随するかたちとなっており、彼が道を切り開いたと言える。道なき道を切り開くというのも牡羊座の象意である。
ウィキペディアに以下のように掲載されていることから、彼は日本人で最初に地球が丸い物体であることを聞いて、知り理解した人間である。この地球の真実は一般の人々は通常知ることができない情報であり、今で言うところの国家機密に該当するが、この真実に到達したというのは彼の情報力を表しており、バラニーの特徴ではないかと思われる。バラニーは情報能力、諜報力によって、誰も到達し得ない真実に到達することが出来る能力をもっているのであり、この点がラグナをバラニーに設定した理由である。
イエズス会の献上した地球儀、時計、地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解出来なかったが、信長は「理にかなっている」と言い理解した) |
ウィキペディアより引用抜粋
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また彼は関所を撤廃して楽市・楽座などを通じて経済と流通を活性化させたり、検地を徹底して、領国支配を確立したとされているが、当時としては革新的な政策だったと思われる。つまり、現状あるものを破壊して新しく創造する力を持っており、革新的でオープンな思考の持ち主であることが分かる。
これはアレキサンダー大王も同じで、彼はギリシアからバクトリアに及ぶ広大な地域の各地にアレクサンドリアを建設し、経済や文化の交易を奨励したのである。この辺りのオープン思考や古い考えにとらわれない革新性は非常に織田信長と共通する部分があるようである。
そうした寛大でオープンな政策をとる一方で、裏切り者や謀反者に対しては残虐非道で徹底的な処罰を与えたようである。それはアレキサンダーも同じであり、映画『アレキサンダー』でもそのことは描かれていた。(続く)
その他
因みにウィキペディアに掲載されているエピソードを取り上げてみると、この牡羊座ラグナのチャートで説明できることが非常に多い。以下に引用箇所と、▼解釈結果を比較掲載して、象意の共通点を確認する。
・・・・・「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく松浦静山が作ったものである。またこの歌の続きは、この後「鳥屋にやれよ・・・」とあり、戦国時代の武将達と比較すると江戸の将軍はあまりに気骨がないと批判するもので、彼の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
・・・・・ (ウィキペディアより引用抜粋)
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▼牡羊座は土星が減衰する星座であり、非常に忍耐力がなく短気である。怒りやすい星座だと言える。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」というのはそんな短気な性質を表している。
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・・・・・南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した『馬揃え』にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたと言われている。ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示し、譲り受け彌介(やすけ)と名付け側近にしている。
・・・・・ (ウィキペディアより引用抜粋)
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▼南蛮品という当時の最新のものを身につけており、この辺りは牡羊座の性質であり、黒人に興味を持ち、側近に召し抱えたのは4室にラーフが在住しているからではないかと思われる。ラーフは外国人を表しており、自分の城に外国人を召し抱えていると考えることができる。
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・・・・・青年の頃は、女子とみまがう美男子であった。 ・・・・・
(ウィキペディアより引用抜粋)
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▼2室自室に金星が在住しており、2室は顔を示すため、美男子であったと思われる。
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・・・・・信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政、森蘭丸といった、命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた(竹中半兵衛や黒田如水は、名目上は信長の家臣だったが、実際には秀吉の軍師として仕えていた。如水は信長の実力を認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと考え、あえて秀吉を選んだという説が有力である)。ここまで成功した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。信長自身が他人の意見に従う事を好まず、このことが、周囲の人物が信長の意図を理解できずについていけなくなっていった要因のひとつともいわれている。ただ、乱世の時代に急速な改革を遂行するためには止むを得なかったという見方もある。
・・・・・ (ウィキペディアより引用抜粋)
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▼この記述からすると、信長は全く他人の意見に従うことを好まず、また出来なかったことが分かる。
例えば過去の事例を持ち出して諌めようとした明智光秀に対して激怒したエピソードもあるようである。
牡羊座は命令されたり、指図されたりすることを嫌うのである。ラグナで土星が減衰しているため、型にはめられることを嫌うのである。
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・・・・・ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことは殆どない。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることは殆ど無く、自分以外の大名の殆どを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠まわしな言い方を嫌う」と評している。身長は約170cm程度で、500m向こうから声が聞こえたと言う位に、相当に甲高い声であったと言う。また血痕や遺髪から血液型を鑑定し、A型である事が判明した。・・・・・
(ウィキペディアより引用抜粋)
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▼上記はイエズス会宣教師のルイス・フロイスは上記のように信長の人物像を評価しているようだが、ここで評価されている特徴は牡羊座の特徴そのものである。
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・・・・・能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛や林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。ただ当時としては革新的に過ぎて、周りが信長の思考を理解できなかった可能性も否定はできない。・・・・・
(ウィキペディアより引用抜粋)
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▼土星や土星が高揚する天秤座が平等や民主主義を重んじるのに対して、牡羊座は太陽が高揚する星座のため、能力主義によるヒエラルキーを好む傾向があると思われる。能力のあるものを優遇するのは牡羊座の特徴である。
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・・・・・機動力に優れており、例えば六条合戦では、本来なら3日はかかると言われた距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。・・・・・
(ウィキペディアより引用抜粋)
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▼牡羊座には『移動』という象意があるようである。機動力に優れているのも牡羊座の特徴である。 |
(資料-ウィキペディアより引用抜粋)
織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日(1534年6月23日) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。
古渡城主の織田信秀の二男(三男という説もある)として生まれる(正室の子であるため嫡子とされた)。幼児の折に那古屋城主となり、父の死後、同母弟の織田信行との家督争いに勝利し織田家を継ぐ。
その後、周辺の敵対勢力、今川氏や斎藤氏を破り、足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけるが、その義昭と敵対し武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成される。しかし、信長はこれを破り、以後は天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用する(織田政権)。
既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結へと導いていったが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から魔王(第六天魔王)とも恐れられた。最後は家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)により自害した。
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