王 貞治(おう さだはる)
国籍:中華民国
本名:Wang Chen-Chih

出生日時:1940年5月10日
出生時間:不明
出生場所:東京都墨田区

職業、経歴:野球選手、ホームラン王、 通算本塁打数868本(大リーグ、日本プロ野球NO.1)

監督通算勝利数1000勝達成した王監督

 

 

先日、中田英寿が現役引退を表明したが、引退までの道程が王監督と非常に似通っている。
それはラーフ期が主にトレーニングや模索の時期であり、木星期に輝かしい活躍をして地位や名声を得て、土星期に現役を引退するというパターンが全く同じなのである。木星は両者とも牡羊座に在住し、射手座の自室にアスペクトして強い。牡羊座の木星が誰も寄せ付けない前人未到の記録を打ち立てたり、スケールの大きな活躍をして後に続くものの目標となるのは牡羊座の木星のなせる業であると思われるのである。

王監督の場合、牡羊座で高揚する太陽と吉星の水星が木星にコンジャンクトし、世界のホームラン王、ワールドベースボールクラシックでの優勝など、常にNO.1を成し遂げるのは、この牡羊座で強い木星、太陽、水星の絡みによるものである。何でも1番が似合う人物であり、背番号1番なのも偶然ではないと思われる。

今回もウィキペディアの豊富なデータを活用して、それらを12:00で作成したチャートのダシャーと比較し、時系列で検証すると、王貞治の人とダシャーの推移の相関関係が鮮やかに浮かび上がってきた。

まず、幼少時、中学、高校など、巨人軍入団前は主に火星期からスタートし、主にラーフ期である。
ラーフは乙女座でヴァルゴッタマで強いが、ラーフをラグナとすると、8室に惑星集中しており、物事が順調に進まず中断や挫折が多かったようである。実力があったのに甲子園に出場できなかったり、小学校の頃、野球部に在籍してもグラウンドが使えなくて休部同然だったと書かれている様子がそれを物語っている。また早稲田実業時代は都内で一二を争う喧嘩の猛者だったというエピソードもラーフや8室惑星集中の象意に近いものが感じられる。

次にラーフ/金星期辺りで、巨人軍に入団するが、成績が振るわずに三振王と野次られたり、水面下でトレードの話が進められたりなど、資料を見ると、この入団当初の時期はまだ模索の日々が続いていたようである。

そして、1962年に荒川博コーチの指導で『一本足打法』を生み出し、それからホームランを量産するようになるのである。
この頃がおそらく、ちょうどマハダシャーが木星期への切り替わり時であると思われ、荒川博コーチの指導が木星の表す良い指導者との出会いや恩恵を表していると思われる。

12:00作成のチャートだと、この1962年が未だラーフ/月、ラーフ/火星期であるが、この荒川博コーチとの出会いや指導で、この年、38本(前年度13本)のホームランを打ち、前年度よりも飛躍的に成績が改善されていることから、この時期は既にマハダシャー木星期に入っているものと考えなければならない。従って、この時点で出生時間が12:00よりも後であることが分かる。

そして、マハダシャー木星期の打率やホームラン数や獲得した賞を見ればまさに世界のホームランバッター王貞治は、このマハダシャー木星期に築かれたことが分かる。

そして、年表では1980年に現役を引退するが、12:00で作成したチャート(月が牡牛座26°53’)ではこの時期に土星/土星期に入っている。

資料によれば1978年頃から、バッティングが徐々に鈍り始め、1980年に「王貞治のバッティングができなくなった」として現役引退を表明しようである。実際、成績を見てみると、1978年はホームラン39本であり、前年度の50本に比べると大幅に本数を減らしており、翌年の1979年は33本とさらに減らしている。従って、既に1978年の段階でマハダシャー土星期に入っていたと考える方が妥当である。

そうすれば上述の1962年に既にマハダシャー木星期に入っていたと仮定したことと整合性が取れてくる。

中田英寿の場合もそうであるが、土星期に入っても暫くは現役に留まり続けたと思われるのであるが、やはり、土星期の影響で成績が振るわなく、自分が100%のパフォーマンスを発揮できないことが分かってくるのである。中田英寿の引退のインタービューでも観客の期待に100%のパフォーマンスで応えることが出来なければプロとしての競技生活は終わりだと思ったというような言葉を述べている。「王貞治のバッティングができなくなった」と言って引退を表明した王監督も同じである。

従って、土星/土星期への切り替わりと同時に現役引退を表明したことになる12:00作成のチャートのダシャーでは事象と一致しないことになる。

 

土星期に入ってからの王監督の人生は平坦ではなかった。3年間巨人で助監督を務めるが、常にNO.1で、先頭の立場で行動する王貞治にとってはこの3年間の助監督経験は非常に地味である。また助監督とは監督ではないため、全く脇役であり、何も自分では決定することができない監督の使い走りに過ぎない。このような立場は今まで国民的スターであったことと比べると、非常に地味であり、忍耐の日々であることが推察されるのである。

この3年間の助監督時代に巨人は1981年(日本一)、1983年と2回リーグ優勝を果たしているが、これは王貞治の成績とは言えないものである。

1984年に監督に就任してからも成績は振るわず、1987年に優勝はしたものの日本一は逃したり、1988年には2位に終わった責任を取って、監督を辞任し、その後はNHK野球解説者を務めるなど、現役引退後の成績はパッとせず監督としての名声は得られていない。

1995年に福岡ダイエーホークスの監督に就任
しても、ファンから生卵を投げられ、「王ヤメロ」と罵声を浴びせられたり、散々な目にあっているようである。 また1998年にはスパイ疑惑などで監督批判が相次ぎ、ファンからの心無い仕打ちを受けるなど、屈辱に耐える忍耐の日々だったようである。

このように土星期は木星期の華々しい人生とは違って、成績不振の責任を問う忍耐力のない巨人フロントや勝てないことで罵声を浴びせる忍耐力のない短気な地元ファンに苦しめられる日々が続いたようである。

土星は減衰しており、土星の長所である忍耐力を失い、短気で切れやすく、土星が最も長所を発揮できない中で、ひたすら耐え続けなければならないという非常に困難な時期である。この野次を飛ばす忍耐力のないファンなどはまさに減衰する牡羊座の土星の象意である。


1998年はスパイ疑惑などで批判を受けるものの、”オリックスと同率ながら21年ぶりのAクラスとなる3位に入った”ことで、長い低迷から抜け出し、翌年1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝をし、日本シリーズを制して日本一になるのである。

年表ではこの1999年が水星/水星期となっているが、実際には上述の時刻修正と同じ理由で、Aクラスに入った1998年頃に既に水星/水星期に入っていたものと思われる。

このマハダシャー水星期に入ってからの王監督の成績は以下のように常に1位か2位である。

西暦 順位(パリーグ)
1999年 1位
2000年 1位
2001年 2位
2002年 2位
2003年 1位
2004年 2位

 

 

 

 

 

そして、記憶に新しい2006年には第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会にて日本代表の監督として優勝を果たし、世界の王という名前が再び、マスコミでも取り上げられるようになったのである。

まさに長い土星期の苦境が終わり、水星期に移行した中で、人生の最後の時期を名監督として、名誉と賞賛の中で送ることになったのである。水星期における王監督は木星期の重厚な人物像とは違って、もっと軽い印象である。野球が本当に好きで、それを楽しんでいる印象を受ける。

因みに最近、王監督が胃がんで入院していたようであるが、手術は7月17日に無事終了したようである。


『王監督は胃がん、手術成功 転移なし、主治医 [ 07月18日 12時21分 ] 共同通信  

胃の手術を受けたプロ野球ソフトバンクの王貞治監督(66)の容体について、担当した慶応大医学部の北島政樹教授らが18日午前、東京都新宿区の慶応大信濃町メディアセンターで記者会見し、王監督が早期の胃がんだったことを明らかにした上で、手術は成功したと語った。  胃がんは胃の上部から中部にかけて約5センチ。北島教授は「肉眼上は転移はない」と語り、王監督は18日朝に集中治療室(ICU)から自室に戻り、室内を歩いたという。また、医師の問い掛けに「特に痛みはない」と語ったという。17日の手術は午前9時40分から始まり、午後6時47分に終了した。今後の治療方針などは病理検査の結果を見て決める。復帰時期について、同教授は「家族と相談して決めたい」と語るにとどまった。』


この胃がんで入院している現在、12:00作成のチャートではダシャーが水星/月期であるが、然し、実際には上述の時刻修正と同じ理由で、水星/火星期ではないかと思われる。

火星は減衰する土星からアスペクトされており、また火星は手術のメスの表示体である。火星自体が凶星で、減衰する土星からアスペクトされているため、このアンタル火星期には運気の低下が考えられる。

1975年に一時的にホームラン数が33本に低迷したのは同じ理由に寄るものと思われる。

年度 ホームラン数 受賞
1974年 49 三冠王、本塁打王、MVP、首位打者、打点王
1975年 33 打点王
1976年 49  本塁打王、MVP、打点王

1975年は12:00で作成したチャートのダシャーでは木星/月期であるが、実際には上述と同じ修正を施して、木星/火星期であることが推測される。1975年が木星/火星期だとすると、今までの全てのダシャーバランスの整合性が取れるようである。

従って、王監督の成績が低迷した1975年を木星/火星期にすること、あるいは王監督が手術のために休養を取った2006年7月6日前後を水星/火星期と設定することで時刻修正が可能である。

起こった出来事とダシャーを調整して出生時刻を修正する上で、満たさなければならない条件を以下にまとめてみると次のようになる。

・1962年には既に木星/木星期に入っていなければならない。
(1962年は荒川コーチの指導で一本足打法を生み出してホームラン数が飛躍的に伸びた年である)
・ホームラン数が減った1978年頃から既に土星/土星期に入っていたと考える必要がある。
・1998年にAクラス入りという結果を出しているため、既にこの時期に水星期に入っていたと考えられる。
・ホームラン数が減った1975年は木星/火星期でならなければならない。
(土星の影響を受けているのはアンタル火星期だけであり、前後のアンタル月期やアンタルラーフ期に成績が落ちたとは考えられない)
・王監督が胃がんで手術をした現在は水星/火星期である可能性が高い。
(火星が手術の表示体であるというばかりでなく、 土星からアスペクトを受けていて、月から見て7室支配で2室在住であり、ナヴァムシャでも月から見て3、8室支配で2室に在住している。)

これらの条件を満たすように修正をすると、ダシャーの推移を1年程早める必要があり、王監督の出生時刻は13:30前後で、ラグナは天秤座である可能性が高いと思われる。

ラグナが天秤座であると考えると、王監督が非常に謙虚で本来、争いを嫌う性格であることや、長島監督にお見舞いに来てもらって恐縮するところや、正義感が強く、不正をして入団した江川に対して嫌悪感を露にしたことなどが説明できる。

本来、牡羊座の太陽は謙虚さや平和的性格とは無縁のはずだが、王監督が温厚で謙虚であり争いを嫌う人物であると評価されているのは天秤座の商売人的な人当たりの良さからくる調和的な性格によるものと思われる。

 

年表
西暦 月日 出来事 成績、表彰 12:00で作成したチャートでのVimshottari Dasha  

1940年5月10日〜
少年時代

  東京都墨田区で中華民国籍(浙江省出身)の父・仕福、日本人(富山県氷見市出身)の母・登美(旧姓:当住)の間に生まれる。実は、5月10日に二卵性双生児の弟として出生したのであるが、取り上げられても泣かないほどの未熟児であったため両親が出生届の提出を遅らせたことから、5月20日が出生日とされている(家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のために届けが遅れたという説もある)。なお、双子の姉・広子は、1歳3ヶ月で死亡した。

小学生のころ、当時の横綱・吉葉山から「相撲とりになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態だった。
 

マハダシャー火星〜マハダシャーラーフまで

火星/木星〜ラーフ/土星

 

 
中学、高校時代   父・仕福は貞治を電気技師にさせたかったようだ(父仕福氏は兄鉄城氏を医師にして、兄弟ともに母国中国に戻り働いてもらいたかった)が、区立本所中時代に、のちに指導を受ける荒川博(当時毎日オリオンズで活躍していた)に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業学校に進学することになる。高校受験での第一志望先である都立墨田川に落ちた結果であった。荒川との最初の出会い(犬の散歩をしていた荒川が、通りすがりに王が出ていた少年野球の試合を見ていた)の際、当時右打ち(ちなみに右打ちだった理由は、兄鉄城氏が右打ちだったかららしい)だった王は荒川から試合中に「君は左利きなんだから、左で打ってみなさい」とアドバイスを受け、すぐに実践したところツーベースを打ち、その後左打ちとなった。

早稲田実時代は春の甲子園の優勝投手として活躍し、関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。しかし、当時の国籍規定のため、甲子園優勝投手にもかかわらず国体には出場できなかった。 温厚そうな人柄だが、早稲田実時代は、王貞治と言えば都内で一、二を争うケンカの猛者だった。
  ラーフ/水星〜ラーフ/金星  
1959年   契約金1500万円で読売ジャイアンツに入団。同期入団には板東英二・張本勲・足立光宏らがいる。球速が遅かったため入団当時の水原茂監督に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向。プロ初出場試合では国鉄の金田正一と対戦し、全打席三振に終わるが、この初出場試合の結果は長嶋のそれと同じである。入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149で期待に応えたとは言えないものだった(実際、その頃「王は王でも三振王」などと野次られていた。ただし王がリーグ最多三振を記録した年はない)。   ラーフ/金星  
1961年   阪急のエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められた(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。   ラーフ/月  
1962年  

すくい上げる打法を矯正するため、荒川博コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法はアメリカでは一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」と呼ばれる。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」という話がある。

有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようだ。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ。」とコメントしている。

  ラーフ/月、ラーフ/火星  
1964年   とにかくこの打法改造がきっかけとなって驚異的な勢いで本塁打を量産し始め、1964年にはシーズン本塁打55本の日本新記録(2006年現在ではタフィ・ローズ、アレックス・カブレラと並ぶタイ記録)、同年5月3日に開かれた阪神戦(後楽園球場)では1試合4打席連続ホームランを記録。当時の広島の監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる『王シフト』と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。   木星/木星  
1971年   日本シリーズで当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志から逆転サヨナラ本塁打を放ち、チームの日本一に貢献。   木星/ケートゥ、木星/金星  
1972年 9月 公式戦7試合連続ホームランの記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、いまだに日本プロ野球記録である。   木星/金星  
1977年 9月3日 対ヤクルト戦で、アメリカメジャーリーグのハンク・アーロン選手が持っていた当時のメジャーリーグにおける本塁打記録(755本)を破る756号を鈴木康二朗から打つ(ただし、当時の日米のレベル差と日本の球場の狭さを考慮する必要がある。後楽園球場は両翼の実測が87mほどであり、外野に向かって傾斜が下がっておりバッターにとっては非常に有利な球場として知られる)。これにより、同年国民栄誉賞第1号を授与された。   木星/ラーフ  
1980年

現役引退。

現役本塁打通算868本は日本、アメリカともに未だ破られていない(ただし、ニグロリーグのジョシュ・ギブソンの通算本塁打数を962本とする説があり、断定できない)。また、通算OPS1位、13年連続を含む15回の本塁打王、三冠王2回などの記録も残している。ちなみに通算本塁打記録を球団がギネスブックに登録申請したが、日本の野球場がメジャーに比べて狭いとの理由から認められなかった(これは野球の世界に「世界記録」という概念がない、という立場からであって、前述のジョシュ・ギブソンの記録などと並んで記載はされている)。

王の打撃は1978年ごろから徐々に鈍り始め、1980年に「王貞治のバッティングができなくなった」と現役引退を表明。その年は打率は2割3分台とかなり悪かったものの本塁打は30本を記録しており、王自身の自身の打撃に対するプライド、またファンへの思いが窺える。

土星/土星
1981年 3年間巨人助監督を務め、藤田元司監督(2006年死去)、牧野茂ヘッドコーチ(1984年死去)とのトロイカ体制で1981年、1983年のリーグ優勝(1981年は日本一)に導く。 土星/土星
1984年 監督に昇格 土星/水星
1987年 優勝しているが、惜しくも西武ライオンズに2勝4敗で敗れ日本一はならなかった。 土星/金星
1988年 吉村禎章やウォーレン・クロマティのケガによるリタイア、西本聖の衰えによる投手陣の不調から2位に終わりフロントから責任を問われる形で退団。それ以後、何度か巨人監督復帰の噂が流れるが、王本人は否定している。この巨人監督時代には鹿取義隆投手を非常に頻繁に使ったため、「ピッチャー鹿取!」という流行語を生んだ。 土星/金星
巨人退団後NHK野球解説者を務める
1995年 福岡ダイエーホークスの監督に就任。当時のダイエーは前身の南海時代から続く長年の成績不振で、1996年5月9日の近鉄戦で大敗した後、日生球場から出てくるバスにファンの一部から「お前ら、プロか?」と言う罵声と共に生卵が投げつけられたり(これを俗に生卵事件と言う)、スタンドのファンから「王ヤメロ、王ヤメロ、やる気がないなら辞めちまえ」という辞任を求めた野次を浴びせられたり、「頼むからヤメテくれ、サダハル」「その采配が、王まちがい」などの横断幕が掲げられる光景もあった。それが原因で、心無い野球ファンからは「生卵サダハル」と言う侮辱に満ちたニックネームを頂戴するハメになる(余談だがこれらの暴挙は徳光和夫が『ザ・サンデー』(日本テレビ系)で「世界の王になんと言うことをするんだ!!」と一喝してからは誰もやらなくなっているがそれでも燻り続け、ダイエー初優勝時に裏番組である『サンデーモーニング』(TBSテレビ系)で王の親友・張本勲が「今までワンちゃんをバカにしていた奴等は皆坊主になって謝れ!!」と一喝してやっと収まったが、なんと3年を要した)。 土星/木星
1998年 スパイ疑惑などで監督批判が数多く報じられた。巨人監督を辞任する際にV逸の責任をフロントから問われた時とは違い、ファンの側から心無い仕打ちを受けるという、スター街道を進んできた王にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受け続けた時期が続いた。王はそれらに対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けた。一方でこの年はオリックスと同率ながら21年ぶりのAクラスとなる3位に入った。前身の南海時代から続いていたBクラスの連続年数はプロ野球記録であり、ホークスの低迷を象徴するものだった。久し振りのAクラス入りによって選手の勝利に対する意欲が高まり、翌年の優勝につながったため、非常に意義のある年だったとも王は後に語っている。 土星/木星、水星/水星
1999年   監督経験を重ねた力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し日本一に。   水星/水星  
2000年   優勝し2年連続リーグ優勝を成し遂げる。2000年の日本シリーズは長嶋茂雄監督との「ON監督対決」として注目された。   水星/水星、水星/ケートゥ  
2003年   再び日本一に輝く(二度の日本一になった年の日本シリーズでの対戦チームの監督はいずれも星野仙一であった)。   水星/金星  
2004年 6月7日 北海道日本ハムファイターズ戦で監督通算1000勝を達成。
西武ライオンズに優勝を譲り、リーグ優勝は逃す。
  水星/金星、水星/太陽  
2005年 1月28日 監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任(監督もそのまま兼任)した。
2005年度は千葉ロッテマリーンズにリーグ優勝を譲り、優勝を逃す。
  水星/太陽、水星/月  
2006年 3月 「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会」日本代表チーム監督に就任。   水星/月  
  3月21日 決勝戦でキューバを10-6で破り、日本をワールド・ベースボール・クラシック初代チャンピオン(世界一)へと導いた。   水星/月  
2006年 7月5日 西武戦(ヤフードーム)後の記者会見で胃の腫瘍の手術のためにチームを離れて休養することを表明した。秋ごろの復帰を予定している。   水星/月  

(年表はウィキペディアのデータを引用し、順序を並べ替えて作成)

 

成績とダシャーの相関関係(年度順)
年度 本塁打 打点 四死球 打率 表彰 Vimshottari Dasha
1959年 7 25 27 0.161   ラーフ/金星
1960年 17 71 72 0.27   ラーフ/太陽、ラーフ/月
1961年 13 53 67 0.253   ラーフ/月
1962年 38 85 84 0.272 本塁打王、打点王 ラーフ/火星
1963年 40 106 129 0.305 本塁打王 ラーフ/火星、木星/木星
1964年 55 119 121 0.32 本塁打王、MVP、打点王 木星/木星
1965年 42 104 144 0.322 本塁打王、MVP、打点王 木星/木星、木星/土星
1966年 48 116 149 0.311 本塁打王、打点王 木星/土星
1967年 47 108 137 0.326 本塁打王、MVP、打点王 木星/土星
1968年 49 119 131 0.326 本塁打王、首位打者 木星/土星、木星/水星
1969年 44 103 116 0.345 本塁打王、MVP、首位打者 木星/水星
1970年 47 93 125 0.325 本塁打王、MVP、首位打者 木星/水星、木星/ケートゥ
1971年 39 101 126 0.276 本塁打王、打点王 木星/ケートゥ、木星/金星
1972年 48 120 114 0.296 本塁打王、打点王 木星/金星
1973年 51 114 128 0.355 三冠王、本塁打王、MVP、首位打者、打点王 木星/金星
1974年 49 107 166 0.332 三冠王、本塁打王、MVP、首位打者、打点王 木星/太陽、木星/月
1975年 33 96 124 0.285 打点王 木星/月
1976年 49 123 127 0.325 本塁打王、MVP、打点王 木星/火星
1977年 50 124 132 0.324 本塁打王、MVP、打点王 木星/ラーフ
1978年 39 118 115 0.3 打点王 木星/ラーフ
1979年 33 81 94 0.285   木星/ラーフ、土星/土星
1980年 30 84 75 0.236 土星/土星

 

 

(資料)

(ウィキペディアより引用抜粋)

エピソード

 野球人として 背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によってたまたま1が空いていたため、それをつけることになったというのが実情である。

  長嶋茂雄とはチームの主力・顔として14年間の長きにわたり3・4番を務めて『ON砲』などと呼ばれ、2人で数多くのアベックホームランを放った(初のONアベックホームランは1959年6月25日、天覧試合となった後楽園での阪神戦。通算で106本(連発は29本)のONアベックアーチを放つ。106本目は長嶋の引退試合で放ったもの)。

 長嶋引退後も選手・監督として、王の引退後は監督同士、時には親友として、長く交友を続けている。また「尊敬する野球選手は?」という質問をされた際には、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れる。 「乱闘が起きてもベンチでただ一人手を洗っていた」という逸話を残すほど争いを好まない王が、唯一乱闘の口火を切ったのは1968年の対阪神戦(甲子園球場)。阪神・ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーのもとに詰め寄った(ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。
  その後、打撃コーチ・荒川博がバッキーと乱闘して退場となった。さらに交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤のボールをレフトスタンドに叩き込み、事実上の報復を果たした話は有名。  

  なお、この事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折。投手生命を絶たれる原因となった。上記のように温厚な王ではあるが、門限を守らず、平気な顔で長電話に興ずる同僚の堀内恒夫に対して一度だけ鉄拳を振るったことがある。

  足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。しかし意外にも腕力は弱く、腕相撲は巨人で一番弱かったばかりか、女性にも負けることもあったという。

 1977年9月3日に達成した世界新記録756号本塁打に関して、テレビ中継を行う予定の日本テレビは、当時の中継が19:30から開始(19時から19:30はそっくりショーが放映されていた)となっており、世界新記録達成の瞬間を生中継出来なかったことから、日テレには視聴者からの抗議が殺到したといわれる。

 756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が送られる手はずとなっていたが、3日間ホームランが出なかったため製作していた花屋は45万円分のカーネーションを無駄にすることになった。どうやらボランティア製作だったようである。 通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで"やしろ"となる846号を打ったバットを欲しがった為である。 このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。 プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本勲しかいない大記録であるが、本人はこの維持を気にかけていたらしい。引退会見ではホームランのことしか理由に出さなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている。尚、張本は王の引退理由についてサンデーモーニングで「投手からの牽制球が年とともに恐怖感が増してきたから」と語っていた。

 現役時代、日本シリーズで活躍しながらMVPを1度も受賞できなかったが、これは王が現役時代から日産自動車とのコマーシャル出演契約を結んでいた事もあり、日本シリーズMVPの賞品の自動車(トヨタ自動車協賛)を受賞し、新聞やテレビにその画像・写真を露出してしまうと契約違反になる恐れがあったものと思われる。また1971年の日本シリーズ第3戦、9回裏2アウト一三塁の場面で阪急・山田久志から放ったサヨナラ3ランは自他ともに認める最高のホームランであったが、それでも日本シリーズMVPを手にすることは出来なかった。 現役時代より大スターであったにもかかわらず、非常にファンサービスに熱心であり、サインを断ったことは一度もないという。それゆえ現在もソフトバンクの選手にファンサービスを熱心に行なうよう指導しているという。

 ちなみに王本人は少年時代、巨人選手にサインを貰おうとするも、川上哲治などには見向きもされず、与那嶺要に貰えることができたそうで、その与那嶺の姿勢に王も倣っているという。ちなみに最近の王は、サインをする際に俺は今までサインを書きすぎてるから、ネットオークションに出したって1銭の価値も無いよと笑いながらサインをする。 ほとんど知られていないが、犠牲フライの日本シリーズ記録を保有している。 通算敬遠427の中にランナー無しでの敬遠が13回含まれる(さすがに満塁では無い)。初回ランナー無しでの敬遠もあり、理解の範疇を超えている。本人は「相手にそれだけ怖がられているんだろうと、むしろ誇りに似たものがあふれてきた」と語っている。イニング別では1回が一番多い。 通算四球も2390個で2位に1000個近くの差をつけてダントツの1位である。四球の数が影響して通算本塁打率10.7や通算OPS1.080も不滅の記録として残っている。

  自身の引退の理由について「陰毛に白髪ができて、潮時だと思った」とコメントしている。 「空白の一日事件」で巨人に入団してきた江川卓に対して「キャンプで彼と同部屋になることは断固拒否する」「江川の代わりに阪神に行く小林繁はトレードマネーとして1億でも2億でももらったらいい」や、食堂にいた江川に対して「嫌な奴がメシ食ってる」と発言したとされ、物議をかもしたことがある。

王の曲がったことを許せない性格故のこととも言えるが、王の監督在任中の1987年に江川が引退したことは、これらの王の発言に対する江川の報復であると考えるファンもいる。 1996年3月30日の開幕戦は千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ戦。この年ロッテの監督に就任した江尻亮は、前年園川一美がダイエー戦で4勝1敗と相性がよかったこと、またダイエー戦の後に西武ライオンズ戦が控えていたことから、最有力候補だったエース伊良部秀輝ではなく園川を開幕投手に指名した。

  開幕戦前日にこのことを知った王は「開幕投手には格というものがあるだろう」と激怒。ところが開幕戦では園川を5回途中で降板に追い込んだもののその時点でチームは2-5とリードされており(最終的に4-6で敗戦)、王のこの発言も「負け犬の遠吠え」で片付けられてしまった。 日本では王よりも長嶋の方が人気があるが、アメリカでは立場が逆転する。ベーブ・ルース、ハンク・アーロンより多い868本の本塁打を打ったことが大きく、「サダハル・オー」の名は全米に轟いている。

 第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会では観客から日本チームの誰よりも大きな拍手と声援で迎えられ、日米野球ではメジャーリーグの選手からサインをせがまれるほどである。実際に、2005年ソフトバンクでプレーしたトニー・バティスタ経由で、サミー・ソーサやミゲル・テハダが王のサインボールを手に入れている。 「世界のホームラン王」として世界中の野球人から尊敬される『生きる伝説』王貞治の登場が、WBCの大会価値を大いに向上させた点も見逃すことはできない。またこのWBC優勝により、福留孝介の代打起用やイチローを中心とするスモール・ベースボールなどの采配、「世界の王」としてのチームのモチベーションへの影響力などが改めて見直され、メディアもこれらを大々的に報じ、2度の日本一の時以上に監督としての王の名が世間に知れ渡ることとなった。

  さらに日本を世界一に導いたことで、「世界の王」という名称が今まで以上に使われるようになった。しかしながら本人は「世界の王」と呼ばれることは、あまり好きでないとインタビューで話している。 優勝の際の胴上げで舞う姿は、手足を指先まで伸ばし、非常に美しいことも有名。『ザ!鉄腕!DASH!!』で胴上げに関する企画を行う際、その年の日本一になったこともあり、理想の「上げられ側」のモデルとされた。ホークスでは鷹の羽ばたきを意識してか両腕を横に広げることが多いが、WBCではオーソドックスに上の方に伸ばしていた。 時代の流れのせいもあるかもしれないが、10代くらいまでのホークスファン(特に福岡県周辺)の中には、王が偉大なホームランバッターである事はおろか、巨人の選手・あるいは監督であった事すら知らないファンが多く存在する。そういうファンが多く存在するほど福岡では「王貞治=ホークスの顔」としてすっかり定着している。  

 

人物・プライベート

真摯で誠実な人柄でも知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。 庶民的感覚も持ち合わせており、外食に行く際、連れ合いが高級な店を薦めても「俺は中華料理屋の倅だから」と大衆的な店にふらりと立ち寄るらしい。 野球では左投左打であるが、ごはんを食べる時の箸、そろばん、筆(ペン)、ゴルフスイングは右利き。元々は右利きだったのだが、野球(に限らず、球技において)では左利きは「独自のクセとキレがある」ために、野球においては、ワザと左利きだったようだ。このような野球選手は王以外にも多数いる(元巨人の宮本和知や吉村禎章、東京ヤクルトの石井一久等) 非常に大食い。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。さらに酒豪でもあり、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという。

第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会の優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み乾してしまった程である。 妻へのプロポーズの言葉は「ドドンパはお好きですか?」だったという。 家ではかなりの亭主関白だったらしく、本当に家の仕事は全く何もしなかったという。屋根の修理さえも妻の仕事。また礼儀作法に厳しく、娘たちが自分の言った事に対して口答えをすると容赦なく鉄拳を振るい、鼻血が出るまで殴っていたこともあるという。 3人の娘にはすべて「理」と付く名前をつけた。これは、いずれ嫁に行き、姓が変わってしまう娘だが、王の娘としていてほしい、里は王家だ、という切ない願いをこめて「里」に「王」の偏をつけた「理」とした。 三女が産まれた時に、王は男の子が欲しかったが、また女の子だったので舌打ちをしてしまい夫人に怒られた。

長女が年頃になったときに性教育を教えないといけないと思った王は、長女の前で全裸になって変態扱いされている。 次女の理恵が「ふくらはぎが太いのは、お父様のせいだ!」と王にやつ当たりしている。この事から王は、娘にお父様と呼ばせている事が判明した。 現役時代、独学でピアノを習い、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた。しかし、本当の理由は王自身が"大スター"になってしまったために、王の利益等を目当てに取り付く取巻き等を近づけさせないためで、本当はアウトドア派である。そのため、王本人はピアノを趣味だと思われるのは嫌らしい。しかしながら現在も時々ピアノを弾くようである。

父が中国大陸出身で中華民国国籍であり、現在の中華民国(台湾)とは直接的な?がりは無い。だが、「父の無言の遺言」として中華民国国籍を貫き、現在の中華人民共和国とは一線を引いている。台湾独立派支持の態度を取っており、中華人民共和国がホームラン世界記録を更新した王に国民栄誉賞を与えようとした所、王はこれを拒否した。

父親は大陸からひとりで日本に渡って来た天涯孤独に近い境遇で、また戦時中は敵国人でもあったため、母方の親族から正式な結婚を許してもらえなかった。そのため終戦後に晴れて入籍するまでは、王とその兄弟は母親の私生児として当住姓を名乗り、日本国籍を保有していた。 東京在住時には料理を全くしなかった王だが、単身赴任となった現在では魚を3枚に下ろせるほどの腕前らしい。またパソコンも使いこなし、WBC期間中はソフトバンクのオープン戦の動画をアメリカで見たり、またタッチタイピングもできるとの事。

現役・監督時代を通じ数々の表彰を受けてきたが、そこで頂いたものは人にあげたり寄贈したりすることが多く、家にはそれに関するものはほとんど残っていないらしい(長嶋茂雄も同じ)。 律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。 球界を代表する人格者であるところは疑う余地は無いが、酒豪で若い頃には門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか。」と後に述懐している。ただし、荒川コーチに酒、タバコを禁止されてからは、完全に改心している。 武宮寮長によると、巨人の寮での歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫との事。三人とも名球会入りしている。堀内がやはり若い頃に夜遊びが盛んだったのを王が咎め、泣きながら堀内に鉄拳制裁を加えたのは有名なエピソードでもある。 好奇心が非常に旺盛。よくメモを取る。自宅にいても気が付いたことは必ずメモする。また、ウインドーショッピングが大好き。「何にでも興味を持たないと」とは本人談。 政治家の二階俊博とは知人である。

その他

1981年から1993年の13年間、毎年朝日放送製作(自らの個人事務所・オフィスフラミンゴ協力)で、正月に「新春ビッグ放談」と題した対談番組のホストを担当した。(途中1989年だけ王自身は巨人監督を辞任関係などから出演せず)毎年スポーツ界を代表する選手との対談を実施。最終年の1993年は当時巨人監督に復帰した長嶋茂雄とのON対談が実現した。 2003年夏にフジテレビ系バラエティ番組『ワンナイR&R』の中で王監督に対する侮辱的シーン(コント「ジャパネットはかた」にて、“王シュレット”という王監督の顔を模った洗浄便座を紹介)が放送され当時のダイエーサイドが抗議し、それ以降フジテレビ系列(福岡地区ローカル以外)でのホークス戦の放送を自粛していたが、2005年5月17日のソフトバンク対巨人戦から解禁された。

(ウィキペディアより引用抜粋)