宮沢賢治

1896/8/27 4:00 岩手県花巻市

父:政次郎 母:イチ 妹:とし子

岩手県に生まれ、盛岡高等農林学校を卒業後、岩手県花巻市で農学校教師として活躍しながら創作活動を行った。のち退職して、創作に専念。羅須地人協会を設立し、また農民芸術を説いた。1933年9月21日に没した。 また賢治は、郷土岩手の地を深く愛し、作中に登場する架空の地名、理想郷をイーハトーヴォ(イーハトーブ)と名づけた。イーハトーブは、「いわて」を賢治が堪能なエスペラント風に発音したものであるとする説がある。

岩手県花巻に生まれる。盛岡高等農林農学科に在学中に日蓮宗を信仰するようになる 。稗貫農学校の教諭をしながら、詩や童話を書いた。『春と修羅』は生前刊行された唯一の詩集。農 民の暮らしを知るようになって、農学校を退職し、自らも開墾生活をしつつ羅須地人協会を設立し、 稲作指導をしたり、農民芸術の必要を説いた。

宮沢賢治といえばその作風は非常に理想主義的で、情緒、情感が深く、風景や叙情豊かな描写に優れ、植物や小動物に人間と対等な命を吹き込むような博愛主義で、鉱物の観察など自然の中でのフィールドワークを好み、ナチュラリストであり、彼自身、国籍や人種や国境を超越した国際感覚の持主で、エスペラント語をマスターし、菜食主義者でもあった。また農村の生活改善、稲作の指導、農民芸術の必要性を説くなど農民に対する尊敬や奉仕は彼の人間性をよく表している。

彼の作品の中で、例えば動物が主人公で外国人の名前(カタカナ英語)を名乗っていたりするのは彼の感覚が国際的で宇宙的でさえあることを感じさせるが、これは彼が農民や動物など生きとし生けるものに対等な命を見ていたからであり、彼の博愛精神、真の民主主義の精神、仏教徒(日蓮宗を信仰)としての生き方を表している。彼が決してキリスト教徒でなかったことは注目に値する事実である。(彼の月は魚座に在住しており、彼はキリスト教を信仰していてもおかしくないのである)

この博愛精神は高揚する土星や2室から8室のラーフが在住する水瓶座に対して、木星、太陽、金星、ケートゥがアスペクトし、非常に多くのエネルギーが水瓶座に集中していることによるものと思われる。

彼はラグナが蟹座アーシュレーシャで、ラグナロードの月が魚座レヴァーティーで、アセンダント、月という2つの重要な感受点が水の星座に在住していることから、非常に感情、情緒的であり、直観や感性が中心的な彼の特質である。然し、それだけではなく、彼は知的で科学者としての論理性も持ち合わせている。それは天秤座の風の部屋で高揚する土星が、思想や考え方の共有を目指す風の部屋において、博愛主義、民主主義、義務や自己犠牲など非常に高度な土星の特質を顕示している。それが彼が仏教徒で日蓮宗の信仰者で菜食主義であるという生き方、信条に非常に影響している。

彼の有名な作品である「雨ニモマケズ」は彼の自己犠牲的な生き方に対する理想主義の最高のものである。

そして、2室を見ると、9室支配の木星、2室支配で自室に在住する太陽、11室の支配の金星、11室から5室支配の火星がアスペクトしており、良質のダナヨーガが形成されている。2室は仕事から得られる収入と違って、実家の家業とか、家族とか、自分が出生した結果として与えられる生来の彼の金銭を得るための生産力をあらわしている。2室の生来的な象意は牡牛座であり、それは田園であり、穀物の収穫である。それは両親や先祖から受け継いだ彼の石高(こくだか)である。

そこで彼の両親の財力を調べてみると、彼の父・政次郎を表す9室をラグナとすると、6室に惑星集中している。ダナヨーガの条件はアルタハウスへの惑星集中である。6室は病気、敵、借金、訴訟の部屋であり、6室への惑星集中は障害に遭遇しながらも猛烈にがつがつと稼ぐ様子をしめしているようである。また6室はドゥシュタナであるから、そこには必ず苦悩や障害が付きまとうのである。実際、父・政次郎が父(賢治からみて祖父)から受け継いだ家業は質屋と古着商であり、農民たちに金を貸し、質草に取った古着をさらに別の農民に売るという商売であった。この家業は後の賢治の心に重苦しい負担となって残ったというが、彼は教職に就く前にこの質屋の店番などをしている。

この父親からみた8室には10、11室支配の土星が高揚しており、配偶者の金銭(7室から2室)が非常に豊かで配偶者から金銭が入ることを示している。実際、父・政次郎の妻であり、賢治の母であるイチは煙草・塩の専売品のほか雑貨商を営む資産家を実家に持ち、非常に裕福であった。

4室を母親(イチ)のラグナとすると、11室に惑星集中しており、また4、5室支配の土星がラグナに在住し、4室定座にアスペクトしており、父親は仕事で収入があり、実家からの援助が豊富で不動産運も非常に良いことが予想される。

こうした父・政次郎の6室惑星集中と母・イチの11室惑星集中は賢治の2室惑星集中となっており、先祖や両親から彼の出生の結果として与えられた財力、金を稼ぐ力となっている。

次に3室だが、3室は文筆、出版、コミュニケーションの部屋であり、そこで水星が高揚しているため、非常に繊細で職人技といえるような文章表現力をもっているのである。水星は12室も同時に支配しており、12室は神秘、隠された知識など神秘的、秘教的な不思議な魅力を持ち、解脱や宗教的な理想などの信仰でさえ、その文章には織り込まれているかもしれない。(筆者はそれほど宮沢賢治の著作を読んでいないが少なくとも神秘的、不思議な雰囲気は漂わせており、一部仏教的な理想を表現している)

そして、ラグナロードで魚座9室に在住する月からアスペクトされているため、情感豊かで、叙情に溢れ、豊かな詩的表現力を与えられている。

〔※この月と水星のコンビネーションは詩人のコンビネーションであり、浜崎あゆみも3室乙女座で月と水星がコンジャクトしており、作詞は全て自身で行っている〕

 

そして、この3室は弟・妹の部屋でもあり、3室の水星は賢治の病弱な妹・とし子を表している。

とし子は非常に成績優秀で小学校の時から全て成績は甲(1番良い評価)であり、4年生の時には模範生として表彰され、高校に入学しても卒業まで常に首席で卒業式の日には総代として答辞を述べるというような父親自慢の才女であったという。

賢治とも非常に仲が良かったというが、自分を表すラグナロードの月と妹・とし子を表す3室支配の水星が1−7の関係で相互アスペクトしており、他の惑星からのアスペクトを受けていないで孤立している。つまりお互いにかけがいの無い相手として援助し合い、対等な夫婦のようにお互いを尊敬しあう間柄のようである。例えば、他の家族が浄土真宗を信仰しているにも関わらず、2人だけは日蓮宗で法華経信仰を共にしていたのであり、それだけでも精神的に深い間柄であったということができる。

そして、彼の魚座の月が表す情緒的な月と繊細で科学的で論理的な職人的な技巧の3室水星が合わさることにより彼の作品が生み出されていると考えると、妹のとし子は彼の重要な一部であり、お互いに相手の長所によって影響されあうパートナーであったと言える。

実際、彼らはお互いに賢治が就職の相談をすればとし子がそれに励ましの返事をし、とし子が大学生活の不満をもらせば賢治がそれに対してアドバイスするというように精神的に深い信頼関係で結ばれていたようである。また、とし子が病気で入院すれば賢治が青年が出来ないような奉仕をとし子に捧げたという。それは以下に表れている。

 

『 「病院で賢治がとし子さんを看病する有様をおぼろげにはいまも知っておりますが、便のしまつから服薬、またいちいちその日の状態を医師に問い合わせたり、青年のできないようなことを実に克明にやられるのでした。・・・」 (関『随聞』 校本宮沢賢治全集 第14巻  筑摩書房より) 』

 

このように高揚する水星は優秀な彼の妹・とし子を表しているが水星は12室も同時に支配しており、妹を失うという損失の象意を元々付与されている。

また3室を妹のラグナとすると、12室に惑星集中するのが分かる。これはとし子が病弱で病院に入院したり、家で静養したりと若くして隠遁的な闘病生活をすることを表している。12室には病院とか隠遁とかいう象意がある。4、7室支配の木星が12室に在住し、家庭の幸福を損失し、配偶者がいないことを表し、また2、9室支配の金星が12室に在住し、お金を稼ぐことができず、また幸運を損失する配置となっている。また12室支配の太陽が12室に在住し、12室の隠遁という象意を強く顕している。太陽は権威や魂の表示体であるため、12室に在住することで一般的、社会的な権威や地位は失ったが12室の隠遁、解脱の精神面においては非常に成功することを示している。また12室にはケートゥが在住し、無執着や解脱などの精神性にとって良い配置をしている。

とし子から見て、兄である賢治は11室支配の月で表され、対向の魚座から彼女にアスペクトし、魚座の献身的な滋養や保護を与えているのも確認できる。

以下は妹・とし子の略歴である。(ウェブより引用)

(略歴)

1905年4月 花巻川口尋常高等小学校に入 学 トシの成績は6学年を通して全甲(1番良い評価 )で、4年生の時には模範生として表彰されている。

1915年3月 花巻高等女学校を卒業。1年 次より卒業まで首席をつづけ、卒業式では総代 として答辞を述べているような父親自慢の才女であったという。

1915年4月 日本女子大学校家政学部予科 に入学。予科で1年間主に語学を勉強してから 本科に進むことになる。

1916年4月 日本女子大学校家政学部に進 む(本科1年)。 7月 詩人タゴールの自作詩「ギタ ンジャリー」の朗読(英語・ベンガル語)を聞 く機会を得る。

1918年 11月 スペイン風邪が流行し、 トシも感染する。 12月 永楽病院に入院する。

1919年 肺炎で入院していたトシはこの年 の正月を病院で迎える。入院が長引いたのは、 下肺部に一時的にではあるが小部分結核があっ たため熱の下がりが悪く、また心臓も弱ってい たためである。

1919年2月 退院。 1920年9月 母校花巻高等女学校の教諭心得となり英語と家事を担当する。 (この頃は一時的に回復して教師の職について いた。金星−月)

1921年 3月盛岡で英語の勉強をする。こ の頃から体調すぐれず、9月に入って喀血する 。9月21日付で退職する。(金星−月−金星 )  

1922年 7月、トシは下根子桜の別荘へ移る。母が本宅から食料を運び、妹シゲがまかないをした。賢治はこの別荘の2階に泊まり、そこから学校へ通った。そして学校から帰ると、その日あったことを面白おかしくトシに話して聞かせた。

11月27日 朝からみぞれが降っており、トシは賢治に頼んでとってきてもらったみぞれを食べ、さっぱりしたと喜ぶ。その夜、父、母、弟、妹が見守り賢治が耳元で南無妙法蓮華教を叫ぶ中、永眠する。(享年24歳)

 

 

次に賢治のチャートの細部の検証と彼の生涯をヴィムショッタリダシャーの流れで見ていくとする。

彼は水星−金星期に生まれ、そして、1902年に病気(赤痢)で2週間入院しているがこの時のダシャーは水星−ラーフ期であり、ラーフは8室の生命の部屋に在住し、ドシュタナ在住で凶意を増している。8室には突然の病という象意がある。またラーフはマハダシャーの水星から6室目であり、6室には病気という象意がある。

1909年に県立盛岡中学に入学し、親元を離れて寄宿舎自彊寮に入るが、この頃からケートゥ−ケートゥ期にシフトしている。ケートゥ期は自分の内側に向かう時期であり、静かに勉学や読書などにふける時期である。親元を離れて独りで暮らすという環境の変化はまさにケートゥ期を表していると言える。

次にケートゥ−月からケートゥ−火星期への変り目に1911年に短歌創作を始めるとあるが月は文章表現力の水星からアスペクトされており、月期には彼の創作欲は高まることが考えられる。また火星は5、10室支配のラージャヨーガカラカであり、創造性を表す5室と行為の10室を支配する火星が人と意見や思想を共有したい欲を表す11室に在住し、彼がケートゥ期とはいえ、活発に創造活動に取り組む様子が想像される。

次に1913年に新舎監排斥運動に加わり、退寮を命じられるとあるがこの時期はケートゥ−木星期であることから、旧舎監が味わいがある建物であり、それを残したいという理想主義的な活動だったのではと思われる。

そして、1914年盛岡中学を卒業し、4月〜5月に岩手病院入院、進学希望がかなわないがその後、希望がかない受験勉強を始めるなど、ケートゥからみて、3室はウパチャヤハウスであり、努力、忍耐の部屋であり、中々思い通りに行かないが最終的には希望がかない受験勉強に入るのである。受験勉強は訓練、トレーニングであり、これらは3室土星の象意である。

土星はラグナからは7,8室支配の4室在住だが、ケートゥからみて、6、7室支配で3室に在住し、6室という病気の象意ももっている。またラーフが在住する8室の支配星でもあるため、この頃、1ヶ月入院したというのも説明できそうである。

そして、ケートゥ−水星期のアンタルダシャーが高揚する水星の時期に盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席で入学するが水星はケートゥから2室で獲得という象意がある。

1917年 大学への入学後に金星−金星期にシフトする。この頃、同人誌「アザリア」を4人で発刊とある。金星は4、11室の支配星で2室に在住し、金星をラグナとすると、3、10室の支配星である。3室には文筆、出版という象意があり、3、11室は意見や思想を仲間と共有する欲求を表し、仲間4人で同人誌を発刊するという象意にハウスの象意が一致している。金星−金星期は3年程あるため、金星−金星期に大学生活を終える。

次に1919年5月19日から金星−太陽期にシフトするがこの頃、賢治は卒業し、4月から質屋の店番生活に戻った。太陽は定座で地位や威厳があり、質屋のせがれとして、どっしりと店の中に腰を下ろして店番をするというのは獅子座の不動宮の象意がよく出ている。2室は商売を表すが太陽は2室の支配星で2室の定座に在住して強い配置である。

1921年1月に花巻を出奔して東京生活を始めるとあるが、この時期から金星−月期に入っている。既に1920年5月18日から金星−月期に入っているので、それから、およそ6ヵ月後である。月はラグナロードで9室に在住しており、9室の象意として、長距離旅行や巡礼、学業のための留学などを表し、また月には旅行という象意がある。彼の場合、国柱会(日蓮宗)の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働いたとある。月には3室から高揚する水星がアスペクトしており、筆で宛名を書いたりなどの技術職は文筆であり、また1つの芸能の一種であり、非常に3室水星高揚の象意と一致している。(3室は広告やマスコミなども表し、筆耕した宛名を人に対して送るとなればコミュニケーションや広報という象意も出てくるのであり、非常に3室らしい象意である)また、この時期に月に3000枚もの童話原稿を書いたとあり、これも文筆活動であり、3室水星高揚の象意が感じられるが、非常に創造性の高まった時期であったと言える。

そして、細かいことを考慮すればこの1月〜7月までの時期は、金星−月−木星、金星−月−土星、金星−月−水星と推移したのであった。いずれもプラティアンタルダシャーの支配星は強く、非常に創造的であったことは納得できる。

しかし、この年の8月に妹・とし子の喀血の電報を受け、原稿をトランクに詰めて、花巻の実家に帰ったとある。この時期は金星−月−ケートゥ期である。東京で順調に活動的な生活を送っていたのが急に田舎の隠遁的な生活に引き戻されたという感じである。これがプラティアンタル・ケートゥで起こったのは非常にダシャーの幽玄微妙な作用である。ダシャーが第3レベルまで正確に機能している。

そして、金星−月−金星期を経て、1921年12月17日より、金星−月−太陽期にシフトするが、12月から賢治は稗貫農学校教諭となり、代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習などを担当したとある。月から見て太陽は6室であり、非常に多忙で、激務だったのではと思われる。然し、太陽は定座で強く、教師としての威厳や地位を表しているように思われる。

1922年 童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取るとある。この時期は火星−金星期であり、火星は5、10室支配のラージャヨーガカラカであり、仕事による収入を表す11室に在住している。また火星は11室に在住し、11室の支配星である金星にアスペクトしている為、二重に職業による収入を表している。

そして、同年11月27日に最愛の妹・とし子が逝ってしまう。この時もまた金星−火星期であった。何故、金星−火星期なのかはチャートを一瞥しただけでは分からない。然し、十分に検討すると、火星は生死やカルマ、強制的な外部からの意志などを表す冥王星とコンジャンクトし、その火星は、水星が乙女座の最初の度数(3°07')にあるため、ほぼ4室目のアスペクトで妹・とし子を表す3室支配の水星にアスペクトをしているのである。

然し、それでもかなり納得がいかないかもしれないので、トランジットを見ると、ちょうど当日の11月27日にはラーフが水星にコンジャンクトしている。ラーフは出生図で8室に在住し、不吉な突発的な不幸や突然の病などを表しており、そのラーフが水星に対して緊密にコンジャクトしているのである。ナヴァムシャでも、もしラグナが正しければラーフは8室に在住しているため、8室に在住するラーフは二重に8室の生命を傷つけ、また8室の象意を帯びているのである。

賢治は、とし子との最後のやり取りを「永訣の朝」という詩に著している。(資料・最下行参照)

 

そして、その次に金星−ラーフ期にシフトするが、上京して童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが断られたり、イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版するなど、孤独な努力を強いられている。ラーフは飽くなき欲望を表し、8室に在住するため、孤独や苦悩が伴なう。金星から見ると、ラーフは7室目で取引や契約の相手を表しており、その7室目にラーフが在住している為、積極的に契約を持ちかけているがアセンダントからは8室であり幸福を損失する部屋にラーフは在住しているため、結局その欲は満たされることなく、自費出版をして自身で孤独にその欲求を解決したのである。

1926年になると、花巻農学校依頼を依頼退職する。この時期にはダシャーは金星−木星期にシフトしている。(3月19日より)例えば結婚とか、入学とか退職とかいうイベントは大きく環境が変わる時期であり、こうしたことがある時とダシャーの変り目が重なっていることは多い。賢治は花巻農学校を依頼退職しているがこの時期から彼は金星−木星期にシフトし、大きく環境を変えるきっかけとなったのである。学校を辞めた彼は、羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始めるとあるが、木星は9室の支配星であり、2室に在住し、金星を1室とすると、5室支配の木星が1室で3、10室支配の金星とコンジャンクトすることになる。

そして、教会の設立や自炊生活を始めた最初の頃はおそらく、金星−木星−木星、金星−木星−土星の時期である。土星は木星から見て、3室目であり、新しいことを始める最初の時期には苦労と努力を要したのである。そして、金星−木星期の中盤から後半にかけて、木星−水星、木星−ケートゥ、木星−金星、木星−太陽と続くが、金星−木星−水星期になると、1927年になると、賢治は肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書いたとあるが、この時期は金星−木星−水星期から始まっており、やはり3室で強い水星の時期において最も生産的で創造的な仕事をしているように見える。設計書を2000枚書いたというのはおそらくこの水星期に入ってからだろう。

1928年になると、賢治は発病し、病臥に伏せたのであるがこの時期から金星−土星期にシフトしている。土星は出生図では7、8室支配の機能的凶星で、マラカであり、4室で高揚しているので凶意は増している。

そして、1931年には以前よりアドバイスを受けに来ていた東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行うとある。また病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返すとある。そして、忍耐と自己犠牲の理想主義を綴った「雨ニモマケズ」を書き上げたというが、この時期はやはり、金星−土星期であり、土星は金星から3室目であり、3室の土星は強い忍耐力や意思力を表す配置であり、事象と一致している。

翌年、1932年には、病をおしても農民の肥料相談に応じ続けるとあり、この間も創作活動を続けているとある。この頃は金星−水星期に入っており、水星は3室で文筆活動に強く、またコミュニケーションの惑星でもあるため、農民の肥料相談に応じるというのも事象に一致している。

1933年9月20日ついに急性肺炎で容態が急変する。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じるとある。そして、9月21日午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱え、容態急変し喀血。 午後1時半没するとある。

この時のダシャーは金星−水星−ラーフであり、ラーフは生命の8室に在住して生命の部屋を傷つけており、また8室に在住することで凶意を増している。そして、水星からみて、ラーフは病気の6室目である。6歳の頃、赤痢で2週間入院した時と同じ水星−ラーフのコンビネーションが見られる。

1933年9月21日のトランジットを考慮するのであればマラカのT土星がマラカの7室をトランジットして、ラグナにアスペクトしており、ラーフが出生時の位置にリターンしてコンジャンクトしている。ラーフは8室生命の部屋を傷つける凶星であり、Tラーフが出生時の位置に戻ってきた時はそのカルマが噴出する時と考えられる。また、土星は単独で死を誘発するマラカとなり得る惑星だが、機能的にも7、8室支配のマラカであり、それが7室のマラカから身体を表すラグナにアスペクトしており、さらに生来的凶星であるT火星もマラカである土星にコンジャンクトして、マラカの7室にアスペクトしている。このようなことから考えると、トランジットの配置は死の条件を満たしていると考えることができる。

 

1933年9月21日のトランジット−太陽−3室、月−3室、水星−3室、金星−4室、火星−4室、木星−3室、土星−7室、ラーフ−8室、ケートゥ−2室

 

こうして見てくると、宮沢賢治の経歴における出来事とヴィムショッタリダシャーとの一致をほぼ説明することができ、出生時刻はほとんど正しいのではないかと思われる。

 

西暦 出来事 年齢 ダシャー
1896年(明治29年)

岩手県稗貫郡川口町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。この年、三陸大津波、陸羽大地震、大洪水、大雨相次ぎ、死者多数。

0歳 水星−金星
1902年(明治35年) 赤痢で2週間入院。   この年も低温、冷雨、などにより東北地方大凶作。 6歳 水星−ラーフ
1903年(明治36年) 花巻川口尋常小学校に入学。この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。 7歳 水星−ラーフ
1909年(明治42年) 県立盛岡中学(現盛岡一高)入学。   親元を離れて、寄宿舎自彊寮(じきょうりょう)に入る。   このころ鉱物採取に熱中。 13歳 ケートゥ−ケートゥ
1911年(明治44年)  このころより短歌創作を始める。 15歳 ケートゥ−月、ケートゥ−火星
1913年(大正2年) 新舎監排斥運動に加わったため、退寮を命じられて、清養院に下宿。   この年、未曾有の大凶作。 17歳 ケートゥ−木星
1914年(大正3年) 3月 盛岡中学卒業。   4月〜5月に岩手病院入院。   7月 進学希望をかなえられず、花巻に。   9月 進学が許可され、受験勉強に入る。 18歳 ケートゥ−土星
1915年 (大正4年) 盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席入学。 19歳 ケートゥ−水星
1917年 (大正5年) 同人誌「アザリア」を4人で発刊。前年より短編を書き始める。 21歳 金星−金星
1918年 (大正7年) 3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。   5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。 22歳 金星−金星
1919年 (大正8年) 4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで) 23歳 金星−太陽(5/19より)
1921年 (大正10年) 1月  花巻を出奔して、東京生活を始める。      東京では、国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。      この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。   8月  妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。  12月  稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。 25歳

金星−月−木星〜水星(1月〜7月)、金星−月−ケートゥ(8月)、金星−月−金星〜太陽(12月17日より太陽)

1922年 (大正11年)  童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。   11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。 26歳 金星−火星
1923年 (大正12年)  上京し、童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが、断られる。 27歳 金星−ラーフ(3/19より)
1924年 (大正13年) イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版。 28歳 金星−ラーフ
1926年 (昭和元年) 花巻農学校依頼退職。   羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。   干ばつと水害が多い。 30歳 金星−木星(3/19より)
1927年 (昭和2年) このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。   金融恐慌、銀行取付騒ぎ発生。 31歳 金星−木星
1928年 (昭和3年) 発病し、病臥。 農作物は干ばつのためほとんど全滅。 32歳 金星−土星(11/17より)
1931年 (昭和6年) 以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。   病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。   「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。 35歳 金星−土星
1932年 (昭和7年) 病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。岩手県では、失業者・欠食児童増える。 36歳 金星−水星(1/17より)
1933年 (昭和8年) 9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。   9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。   午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。 37歳 金星−水星−ラーフ

次にPACDARESメソッドで、基本に忠実に見ていくとする。

<ラージャヨーガ>

・ラグナロードの月が9室に在住⇒1、9のラージャヨーガ

・9室支配の木星が4室支配の金星とコンジャンクト⇒4、9のラージャヨーガ

・5、10室支配のラージャヨーガカラカの火星が4室支配の金星に片側アスペクト⇒4、5のラージャヨーガ

・10室支配の火星が9室支配の木星に片側アスペクト⇒9、10のラージャヨーガ

 

ラージャヨーガは上記の4つだけで以外と少なく、強さも弱いのが分かる。

権力や保護を表すケンドラへの惑星の在住は、土星が4室で高揚しているのみであるが、

土星は生来的、機能的凶星であり、4室で高揚することによってチャートを強く傷つけている。

ラージャヨーガが少ないので、地位や権力には無縁で割と地味であることを示している。

またラージャヨーガが少ないため、彼の人生では成功したというような体験が少ないことが分かる。

 

<ダナヨーガ>

・アルタハウス2室への惑星集中

・9室支配の木星が2室に在住

・2室支配の太陽が2室に在住

・11室支配の金星が2室に在住

・9室支配の木星が2室支配の太陽とコンジャンクト

・11室支配の金星が9室支配の木星とコンジャンクト

・11室支配の金星が2室支配の太陽とコンジャンクト

・5室支配の火星が11室に在住

・5室支配の火星が11室から5室にアスペクト

・5室支配の火星が2室にアスペクト

・5室支配の火星が9室支配の木星、11室支配の金星、2室支配の太陽にそれぞれアスペクト(計3つ)

 

次にダナヨーガだが上記のように13個以上出来ており、彼が非常に金銭に困ることは無かったことが分かる。彼の悩みはむしろ、質屋の息子として生まれ、農民に金を貸し農民から質草として取った古着を別の農民に売るという実家の冷たい貸金業に悩み、自分の貧困に悩むということはなく、自分の資本主義の搾取する側の立場に悩んでいた感じである。

彼の場合、2室に非常に多くの絡みがあり、2室を中心にダナヨーガが形成されており、2室のカラカである木星も2室に在住するという裕福な立場だが、それに執着していずにむしろ、金銭を儲けることには全く関心がないように見えるのは木星に緊密にコンジャンクトしているケートゥの影響があると思われる。このケートゥの影響で木星は富のカラカとしてよりもむしろ献身、奉仕などの宗教性に象意を向かわせたと思われる。

また2室は口やスピーチを表すが、彼はお経をよく唱えたと言われ、木星とケートゥのコンビネーションはまさにお経を示しているように思われる。2室に惑星集中しており、9室支配の木星でケートゥとコンジャンクトする木星が在住しているので、彼の話は宗教的で正しいことに溢れていたと思われる。また太陽が在住している為、自信があり、話には権威が伴なったと思われる。

彼は農学校の教師をやっていたが死ぬ間際まで農民に肥料相談に応じていたというくらい彼のスピーチには権威と徳、献身性があり、彼の説法を聞きたかったのだろう。

また彼の作品は詩が多く、考え抜いて文章化したというよりも言葉を思いつくままに素直に書き綴ったものが多く、文筆というよりもスピーチを記録したような感じなのは2室の影響だろうと思われる。

また彼の2室には金星も在住しているため、詩文はユーモアや芸術性も付け加わっており、退屈な作品ではない。それは例えば「注文の多い料理店」などは、非常にエンターテインメント性の高い作品である。

さらに2室は顔を表すが彼の顔は美形であり、高貴な顔立ちをしており、金星や木星の影響が感じられるが、お坊さんのようでもあり、また頑固そうな顔つきをしており、ケートゥや太陽の影響も感じられて、在住する惑星の影響がその顔立ちにも表れている。

 

<アリシュタヨーガ>

次にドシュタナや凶星によってラグナやラグナロードが傷つけられていないか確認する。

・7、8室支配のマラカで、8室支配で生来的機能的凶星の土星がラグナにアスペクト

・ラグナロードの月に12室支配の水星がアスペクト

・1室のカラカである太陽に6室支配の木星がコンジャンクト

・1室のカラカである太陽に生来的凶星の火星がアスペクト

・1室のカラカである太陽に8室在住のラーフがアスペクト

 

この中で最も強力なのはマラカで生来的機能的凶星の土星が4室で高揚し、ラグナにアスペクトしていることである。

実際、彼が亡くなった時、トランジットの土星は7室の山羊座からラグナにアスペクトし、ラグナの支配星で、生命力を表す月にも3室目のアスペクト、出生の土星に対してもアスペクトしており、出生図に刻まれた土星の配置が表すカルマを噴出させる引き金となっており、またマラカとしての土星の凶意を最大限発揮させるハウスを運行していた。

ラグナやラグナの支配星が凶星に絡む時、必ず身体に何かが起こると言われており、亡くなった時にはやはり、機能的にマラカで単独で生来的にもマラカとなり得る土星がその最大限の凶意を発揮していたのである。

この土星は7室の支配星であるが、賢治にとっての7室とは質屋で応対をする取引や契約の相手であり、また相談を受ける相手であり、それは農民を表していたと思われる。農民を表す土星は4室で高揚し、彼の心(4室)に重い負担となって常にのしかかっていたと思われる。4室は家や建物を表し、彼が設立した農民に農業の技術を教える施設(羅須地人協会)はこの4室で強い土星が表していると思われるが4室はケンドラであるため、惑星が在住すればその惑星は吉星であれ凶星であれ強い力を発揮するが凶星が高揚しているので非常に強い凶意を発揮したと思われる。

賢治は1926年に農学校の職をやめ、現花巻市桜町の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに百姓になるため自ら畑を耕し始めたが、その賢治の周りにはかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしたという。そして、それが「羅須地人協会」のはじまりであり、その協会の建物で農業や芸術の講義をしたと資料に記されているが、賢治の心の中は常に農民のことで占められており、農民に対する罪悪感に近い責任感のようなものにいつも縛り付けられていたと思われる。

そして、死の直前まで農民に対する肥料指導に務め、そして、亡くなったのである。土星はシャドバラで1.7ポイントもあり、非常に強くなっており、彼が農民に深く影響され、農民と深く関わっていることを示している。

おそらく彼は生まれた時から実家で農民が古着を質に入れにくるのを見ながら、育っており、幼少時における人格形成、心の発達に大きく影響していると思われる。何か幼いながらも農民の悲しみ、苦しみが彼に伝わっており、それが罪悪感のようなものとして彼の性格に深く刻みつけられたと思われる。

そして、彼は農民と共に生活し、農民に農業や芸術の指導をし、死の直前まで肥料の相談に応じ、最後まで農民のことを考えながら、急性肺炎でこの世を去るのである。肺は4室であり、肺炎は慢性的な病気であり、土星が表している。突発的な炎症系の火星が絡む病気ではなく、じわじわと時間をかけてその人を死に至らしめるのが土星である。

月は4室のカラカであり、肺を表すが、トランジットの土星が出生の月に3室目のアスペクトをしていたのは彼が肺炎で亡くなったことを示している。

 

この賢治と農民との関わりについて記された資料をウェブ上に見つけたので以下に引用する。

 

『賢治は質屋の長男として生まれました。家業は農民たちに金を貸し、質草に取った古着をさらに別 の農民に売るというものでした。この家業が後の賢治の心に重苦しい負担となって残りました。高等農林学校を卒業後、しばらくして花巻農学校の教諭になったときから賢治と農民との直接の関わりが始まりました。花巻農学校内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術という科目を担当したこと から、自ら農民の中に入っていくことになります。そして、担当した農民芸術の講義の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要」となりました。概論の冒頭で賢治は「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と言っています。賢治は農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるととも に、「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。その賢治のまわりに近くの農家の青年や かつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。この 集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。賢治は、農事講演や肥料相談のため、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。 賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたので す。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。この「 羅須地人協会」の活動は、昭和3年賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、豊沢の実家で療養生活を余 儀なくされた時に終わりを告げました。 』

次にチャンドララグナとスーリヤラグナで検証する。

月をラグナとすると、ラグナロードの木星が6室に在住し、3、8室支配の金星、6室支配の太陽、ケートゥがコンジャンクトし、非常に病気、敵、借金などの障害が人生に多く生じる配置となっている。人生が常に忙しくあわただしく、トラブル続きである傾向を表している。7室には水星が高揚しており、ラシチャートの分析では高揚する水星は妹・とし子を表していることを確認したが、月をラグナとするチャートはより心理的な内面生活を表し、とし子を心理的には妻とかパートナーとして捉えていたことを表している。また、土星が8室に在住して高揚しており、不労所得や直ぐには使用できない家の財産、もらえる金銭などを示している。収入の部屋である11室の支配星が8室在住のため、かなり自分の意思ではどうにもならない相手依存の金銭収入が多かったと思われる。

また太陽をラグナとすると、ラグナロードに惑星集中し、自己実現に熱心で、ラグナロードがラグナに在住し、また木星、ケートゥが在住している為、宗教的自己実現に夢中だったと思われる。実際、日蓮宗を信仰し、精神的に正しく人生を歩むことに関して非常に真剣であった。妹・とし子との最後のやり取りを綴った「永訣の朝」でもよき理解者である妹に対して、自分が真っ直ぐに進んでいくことに関する決意を述べている。

2室には水星が高揚し、話が繊細で正確で、技巧的で洗練されている感じで、彼の文章を見ると、随所に英語をカタカナでちりばめており、非常に技巧的であったことが分かる。

乙女座水星には手先が器用という象意がある。(特にハスタ)そして、3室には土星が在住し、忍耐力や意思の固さを示している。また月は12室を支配し、8室に在住しており、モクシャを支配し、モクシャに在住している。現世の物事に執着しないで、心が高い霊的、精神的世界に向いている隠遁した心の持主であると分かる。

また太陽をラグナとすると、ラージャヨーガカラカの火星が10室に在住して、社会的に活動的で地位が高い配置が現われてくるが、これはラシチャートやチャンドララグナでは全く出てこない傾向のため、ほとんど薄くしか現われないだろう。チャンドララグナでは10室の支配星が6室に在住のため、高い地位に就くというより、むしろ労働者とかサラリーマンとか、現場で汗水たらして働かないといけないような配置であり、ラージャヨーガカラカの火星が10室である象意はほとんど現われないと思われる。

 

最後にサルヴァアシュタカヴァルガを見てみると、7室で33ポイントと非常に高い配置を示している。1室も30ポイントと高いため、彼は相手(任意)に対して非常に献身的で対人関係に非常にエネルギーを費やすが、自尊心も高く、自分も大切にする人だと言える。

そして、10室のアシュタカヴァルガが25ポイントと低い割に収入の部屋である11室が37ポイントと高得点を示しているため、彼が仕事にエネルギーを費やすのに比べ、その評価は非常に高く、収入も多かったと思われる。だから彼は詩集を自費出版しているがお金に困った中で自費出版した訳ではないと思われる。

また12室の得点が37ポイントと非常に高い数値を示している為、彼は人から評価されない隠れた奉仕に非常にエネルギーを投入し、献金や寄付でお金を使ってしまう人であったと思われる。農民への教育活動に自分のお金を費やしたり、おそらく日蓮宗に対しても献金をよくしただろう。

しかし、彼の4室を見ると21ポイントと非常に得点が低いのが分かる。実際、ビナシュタカヴァルガを調べると、土星のポイントが2ポイントしかなく、太陽も2ポイントで、火星も2ポイントしか得点がないのである。土星がトランジットやアスペクトした時などに良い影響を発揮しにくく。ラシチャートでの土星自体が良い影響を発揮する要素が少なく、先ほどから述べている土星の生来的機能的凶星及びマラカとしての凶意をいっそう強くしている。太陽はこの部屋で得点を得ていないことから、威厳や自信を失い、バイタリティを失い、ただ農民の貧しさや厳しさの現実を突きつけられ重い罪悪感、責任感に悩む心があるようである。

さらにジャイミニのチャラダシャーでも検証してみる。

 

【1907年8月28日〜 魚座】

・魚座にはBKの月とGKの水星がアスペクトしている

・・・・・この時期はケートゥ期と重なっており、略年表からはあまりパッとした感じはない。小学校、中学校時代である。

 

【1914年8月28日〜 水瓶座】

・水瓶座にはAmKの土星がジャイミニアスペクト

・・・・・この時期は中学を卒業し、高校に入学した時期で最後の方で同人誌などを発刊している。この時期は高校時代にほぼ重なるが、Amkが絡んでいるので良い時期であったと推定される。略年表からは読みとることができないが、学業に充実した日々だったのではないかと思われる。

 

【1918年8月28日〜 山羊座】

・山羊座にはMKの火星、AKの金星、PKの太陽、DKの木星が絡んでいる

・・・・・1918年3月に盛岡高等農林学校を卒業し、それ以降、質屋の店番を2年程するが、1921年の1月に花巻を出奔して、東京生活を始め、東京では国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。 この時期は上京して、活発に活動し、童話原稿を月に3000枚書くなど非常に創造的で充実した期間だったのではないかと思われる。この期間はAKとPK、DKなどが絡んで、ジャイミニのラージャヨーガが形成されている。

1918年 (大正7年) 3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。   5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。 22歳 金星−金星
1919年 (大正8年) 4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで) 23歳 金星−太陽(5/19より)
1921年 (大正10年) 1月  花巻を出奔して、東京生活を始める。東京では、国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。    25歳

金星−月−木星〜水星(1月〜7月)、金星−月−ケートゥ(8月)、金星−月−金星〜太陽(12月17日より太陽)

 

 

【1921年8月28日〜 射手座】

・射手座にはBKの月とGKの水星がアスペクトしている

・・・・・タイミング的に一致しているが、このダシャーが射手座にシフトした1921年8月は妹・とし子が喀血をしたとの電報を受けて、花巻へ戻ることを余儀なくされた時である。そして、12月に地元の稗貫農学校教諭となるが、その後、彼は妹・とし子を病気で失い、上京しても童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが断られ、イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版するなど非常に苦労している。さらに花巻農学校依頼退職し、羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始め、自ら百姓になるために孤独な厳しい生活に入っていく。肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書くなど、創造的で効果的な活動をしてはいるものの、この時期の終わりには発病し病臥している。

1921年 (大正10年) 1月  花巻を出奔して、東京生活を始める。      東京では、国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。      この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。   8月  妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。  12月  稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。 25歳

金星−月−木星〜水星(1月〜7月)、金星−月−ケートゥ(8月)、金星−月−金星〜太陽(12月17日より太陽)

1922年 (大正11年)  童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。   11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。 26歳 金星−火星
1923年 (大正12年)  上京し、童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが、断られる。 27歳 金星−ラーフ(3/19より)
1924年 (大正13年) イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版。 28歳 金星−ラーフ
1926年 (昭和元年) 花巻農学校依頼退職。   羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。   干ばつと水害が多い。 30歳 金星−木星(3/19より)
1927年 (昭和2年) このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。   金融恐慌、銀行取付騒ぎ発生。 31歳 金星−木星
1928年 (昭和3年) 発病し、病臥。 農作物は干ばつのためほとんど全滅。 32歳 金星−土星(11/17より)

こうして見ると、GKが絡む射手座のダシャーの時期は非常に困難で苦労を伴なうことが多く、不幸な出来事も多く、健康面でも不安が感じられる。

 

【1929年8月28日〜 蠍座】

・アスペクトなし

蠍座には惑星がアスペクトしていないため、ジャイミニ的には肯定的な影響も否定的な影響もなく、何も起こらない時期と推定されるが下記の通り、この後の状況も改善には向かっていない。

1931年 (昭和6年) 以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。   病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。   「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。 35歳 金星−土星
1932年 (昭和7年) 病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。岩手県では、失業者・欠食児童増える。 36歳 金星−水星(1/17より)
1933年 (昭和8年) 9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。   9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。   午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。 37歳 金星−水星−ラーフ

 

ジャイミニで蠍座の時期が肯定的でも否定的でもなくても、射手座のダシャーの時期を引きずっているようである。

ダシャーの影響が悪いため、その悪い影響を否定するくらいのラージャヨーガが現われていない限り、そのまま前のダシャーの影響を引きずるのかもしれない。

 

このようにジャイミニのチャラダシャーで検証してみたが、ダシャーの変り目と事象の吉凶などは非常に一致しており(特にアートマカラカが絡むラージャヨーガからグナティカラカが絡むダシャーへのシフト時など)、よく機能していることが分かる。彼の幼少時の経歴データが足りないため、幼少時のグナティカラカが絡むダシャーの時期がどうだったかがよく分からないが、略年表で経歴が分かっている部分についてはよく機能しているようである。

 

 

(主な作品)

詩集『春と修羅』

童話集『注文の多い料理店』

『銀河鉄道の夜』

『風の又三郎』

『グスコーブドリの伝記』

『オツベルと象』

『水仙月の四日』

『セロ弾きのゴーシュ』

『よだかの星』

 

(資料)

賢治の略歴 1896年(明治29年)    岩手県稗貫郡川口町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。家業は古着商。   この年、三陸大津波、陸羽大地震、大洪水、大雨相次ぎ、死者多数。 1902年(明治35年) 6歳   赤痢で2週間入院。   この年も低温、冷雨、などにより東北地方大凶作。 1903年(明治36年) 7歳   花巻川口尋常小学校に入学。この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。 1909年(明治42年) 13歳   県立盛岡中学(現盛岡一高)入学。   親元を離れて、寄宿舎自彊寮(じきょうりょう)に入る。   このころ鉱物採取に熱中。 1911年(明治44年) 15歳   このころより短歌創作を始める。 1913年(大正2年) 17歳   新舎監排斥運動に加わったため、退寮を命じられて、清養院に下宿。   この年、未曾有の大凶作。 1914年(大正3年) 18歳   3月 盛岡中学卒業。   4月〜5月に岩手病院入院。   7月 進学希望をかなえられず、花巻に。   9月 進学が許可され、受験勉強に入る。 1915年 (大正4年) 19歳   盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席入学。 1917年 (大正5年) 21歳   同人誌「アザリア」を4人で発刊。前年より短編を書き始める。 1918年 (大正7年) 22歳   3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。   5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。 1919年 (大正8年) 23歳   4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで) 1921年 (大正10年) 25歳   1月  花巻を出奔して、東京生活を始める。      東京では、国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。      この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。   8月  妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。  12月  稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。 1922年 (大正11年) 26歳   童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。   11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。 1923年 (大正12年) 27歳   上京し、童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが、断られる。 1924年 (大正13年) 28歳   イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版。 1926年 (昭和元年) 30歳   花巻農学校依頼退職。   羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。   干ばつと水害が多い。 1927年 (昭和2年) 31歳   このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。   金融恐慌、銀行取付騒ぎ発生。 1928年 (昭和3年) 32歳   発病し、病臥。 農作物は干ばつのためほとんど全滅。 1931年 (昭和6年) 35歳   以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。   病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。   「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。 1932年 (昭和7年) 36歳   病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。   岩手県では、失業者・欠食児童増える。 1933年 (昭和8年) 37歳   9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。   9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。   午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。 以上の略歴は「群像 日本の作家12 宮沢賢治」(三木卓・他著 小学館 1990年)より抜粋させていただきました。 -------------------------------------------------------------------------------- 宮沢賢治 出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』 宮沢賢治(みやざわけんじ、宮澤賢治とも表記、1896年8月27日 - 1933年9月21日)は、詩人・童話作家。 目次 [表示非表示] 1 経歴 2 作品と評価 3 主な作品リスト 4 関連項目 5 外部リンク 経歴 岩手県に生まれ、盛岡高等農林学校を卒業後、岩手県花巻市で農学校教師として活躍しながら創作活動を行った。のち退職して、創作に専念。羅須地人協会を設立し、また農民芸術を説いた。1933年9月21日に没した。 また賢治は、郷土岩手の地を深く愛し、作中に登場する架空の地名、理想郷をイーハトーヴォ(イーハトーブ)と名づけた。イーハトーブは、「いわて」を賢治が堪能なエスペラント風に発音したものであるとする説がある。 作品と評価 生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。しかし、これら以外にも、遺稿として発見された完成度の高い作品が、死後多数発表されている。それらには、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』『グスコーブドリの伝記』などがある。 賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ法華経による献身的精神があるとされる。従来、文学的側面のみが語られてきたが、「教師としての宮沢賢治」の素晴らしさを記述する考察も近年現れている。 主な作品リスト 詩集『春と修羅』 童話集『注文の多い料理店』 『銀河鉄道の夜』 『風の又三郎』 『グスコーブドリの伝記』 『オツベルと象』 『水仙月の四日』 『セロ弾きのゴーシュ』 『よだかの星』 関連項目 日本文学 児童文学 チェロ 外部リンク 宮沢賢治記念館 宮沢賢治作品 (青空文庫) 第三部 賢治の経歴 宮沢賢治 M29・8・1〜S8・9・21  岩手県花巻生まれ T10 日蓮宗法華経の研究に熱中する 賢治の手帳「雨ニモマケズ」という詩が終わった最後のページに 「南無妙法蓮華教」とたくさん書いてあった。 《「賢治の手帳」のコピー配布》   原文はこちらへ 若いころは、花巻農学校で先生をしていた ↓ 農業の研究 ↓ ある年、冷夏で稲が取れなかった ↓ 宗教に救いを求めた このころ、「心象スケッチ」を開始している T11(26歳) 11月 トシ死去(24歳) 「永訣の朝」を1晩で書き上げる 《資料「賢治の生涯」配布》       原文はこちらへ T12(27歳) トシとの交信を求め、青森・北海道に旅に出る           ↓                 旅が終わった直後に「やまなし」発表 《資料「トシの年譜」配布》       原文はこちらへ 《資料「賢治とトシ」配布》       原文はこちらへ                      第四部は、こちらから。 「やまなし」第一部へ戻る 作家論に限りなく迫る 「やまなし」(光村六・下)の授業            第三部 /////////////////////////////////////////////////////////////////// 【資料】    賢治の生涯 〜誕生から「永訣の朝」「やまなし」執筆までの        妹・トシとの半生の軌跡〜                    ◇宮澤賢治経歴◇ M29・8・1〜S8・9・21  岩手県花巻生まれ  宮沢賢治は明治29年8月27日(戸籍面は8月1日)、 岩手県花巻に生まれた。この年には三陸大津波、陸羽大地震が 起こっているが、それは修羅道をゆく、波乱に富んだ賢治の生涯の 出立を暗示するかのようである。                    父・政次郎 母・イ チ  祖父よりの質・古着商を営む父政次郎は堅実な商法によって 産をなしたが、一方では仏教講習会を聞くなどの篤信家でも あつた。煙草・塩の専売品のほか雑貨商を営む資産家を実家に 持つ母イチは善根の血をうけて慈悲の心厚く、明朗な人であつた。  父母ともに日常仏前に読経する浄土真宗の家庭に育った賢治は、 早くから仏性が芽生え、人の不幸を我がものとする献身の心が 自ら育てられていった。 賢治と妹・トシ  花巻は周辺農村の中心にあり、主として農民・農村を基盤 にしての経済活動、商業によって発展した町である。  その農村は周期的ともいえる冷害あるいは旱魃、さらに酸性土壌 等の過酷な風土のもたらす凶作・飢饉をくりかえしてきた。  小作農の多い農民は、この宿命的な風土の中で貧困と忍従の 生活を余儀なくされたのである。家のすぐ近く、松庵寺門前の 供養塔からその農民たちの声なき声が聞こえてくるのを、 幼い賢治が聴かないはずはなかった。 T10(25歳) 日蓮宗法華経の研究に熱中する     →賢治の手帳「雨ニモマケズ」という詩が終わった      最後のページには、「南無妙法蓮華教」とたくさん      書いてあった。           「賢治の手帳」原文はこちらへ 若いころは、花巻農学校で先生をしていた  ↓ 農業の研究  ↓ ある年、冷夏で稲が取れなかった  ↓ 宗教に救いを求めた                       このころ、「心象スケッチ」を開始している T11(26歳)11月 トシ死去(24歳)        「永訣の朝」を1晩で書き上げる            「永訣の朝」原文はこちらへ T12(27歳) トシとの交信を求め、          青森・北海道に旅に出る   ※トシはM31年11月生まれである。    人は生まれた季節に死ぬことが多いようだ。 旅が終わった直後に「やまなし」を発表する。 ///////////////////////////////////////////////////////////////////        宮澤トシ(とし子)年譜1898(明治31年)  11月5日、トシ誕生。賢治の誕生が1896(明治29)年で  あるから、二つ違いの妹ということになる。 1905(明治38)年  4月、花巻川口尋常高等小学校に入学。 1911(明治44)年  3月、花城尋常高等小学校を卒業(花巻川口小は明治38年  12月に、花城小と校名を改めている)。  トシの成績は6学年を通して全甲で、  4年生の時には模範生として表彰されている。  4月、花巻高等女学校に入学。 1915(大正4)年  3月、花巻高等女学校を卒業。1年次より卒業まで首席を  つづけ、卒業式では総代として答辞を述べている  父親自慢の才女であった。  4月、日本女子大学校家政学部予科に入学。宮沢家一族は  教育熱心な家風で日本女子大には何人も進学していたが、  トシが入学した時には、祖父喜助の弟の末っ子である宮沢はるが  在学していた。  トシははると同じ責善寮(寄宿舎)に入り、予科で1年間主に  語学を勉強してから本科に進むことになる。  予科時代のトシが、自分の学校生活に疑問や不満を覚えていたで  あろうことは、10月21日付の賢治がトシに宛てた手紙から  推察することができる。 1916(大正5)年  4月、日本女子大学校家政学部に進む(本科1年)。  7月、詩人タゴールの自作詩「ギタンジャリー」の朗読  (英語・ベンガル語)を聞く機会を得る。 1917(大正6)年  1月16日に賢治がトシに宛てた手紙から、本科に進んだトシが  落ち着きをとりもどして勉強をしている様子がうかがえる。  4月、日本女子大学校家政学部2年。  6月23日付でトシが病気の祖父喜助に宛てて巻紙にしたためた  長文は、生と死について論じたものである。  この祖父は同年9月に死去、トシは死の意義をさらに深く考える  こととなる。 1918(大正7)年  1月27日に母イチに宛てた手紙でトシは、「私は人の真似ハ  せず、出来る丈け大きい強い正しい者になりたいと思ひます。  御父様や兄様方のなさる事に何かお役に立つやうに、  そして生まれた甲斐の一番あるやうにもとめて行きたいと存じて  居ります。」と自分の進むべき方向を明らかにしている。  4月、日本女子大学校家政学部3年。  11月初め、スペイン風邪が流行し、トシも感染する。  11月24日付の賢治に宛てた手紙には、賢治がトシの卒論の  相談にのっていたこと、トシが賢治の職業問題に関して  意見を述べ、励ましている様子があらわれている。  12月9日、トシは父宛ての葉書で24日に帰省する旨を知らせるが、  このあとに発熱、12月20日、永楽病院(東京帝国大学医学部付属  病院小石川分院)に入院する。  12月26日、責善寮寮監西洞タミノよりトシ入院の知らせが花巻に  あり、賢治と母イチはこの夜に花巻を発つ。翌朝上野駅に到着、  永楽病院近くの雲石館に宿をとり看病にあたる。賢治は東京滞在中、  トシの病状を報告するため父に46通の書簡を出した。 1919(大正8)年   昨年より肺炎で入院していたトシはこの年の正月を病院で迎える。  入院が長びいたのは、下肺部に一時的にではあるが小部分結核があった  ため熱の下がりが悪く、また心臓も弱っていたためである。  この入院の間、賢治が献身的に看護にあたった様子は、見舞いにきた  親戚関徳弥の話によくあらわれている。  「病院で賢治がとし子さんを看病する有様をおぽろげにはいまも   知っておりますが、便のしまつから服薬、またいちいちその日の   状態を医師に問い合わせたり、青年のできないようなことを、   実に克明にやられるのでした。…」     (関『随聞』 校本宮沢賢治全集 第14巻 筑摩書房より)  2月下旬、退院。雲台館で休養する。1月中旬にいったん花巻に戻って  いた母イチが叔母岩田ヤスとともに上京し、3月3日、トシは母、  叔母、賢治とともに帰花し実家で静養をつづける。  3月末、日本女子大学校卒業。トシは3学期は出席することが  できなかったが、慣例により見込点がつけられた。トシの卒業証書は、  責善寮寮監西洞タミノにより花巻のトシのもとに届けられた。  この年、トシは、賢治の短歌662首を清書し一冊にまとめた。 1920(大正9)年  3月、日本女子大学校時代の級友で学校に残っていた加用とき子に、  上京できそうな旨手紙で知らせたが、実現はできなかった。  7月、盛岡で洋服の講習を受ける。  9月下旬、母校花巻高等女学校の教諭心得となり英語と家事を  担当する。  トシは子供の頃から父親の自慢であったが、新しい女性の生き方に  理解のあった父は、母校に教諭として戻った娘を誇りにしていた。 1921(大正10)年  3月、盛岡で英語の勉強をする。  この頃より体調すぐれず、9月に入って喀血、  9月12日付で退職する。  賢治はトシ病気の知らせを受けて帰花、12月に稗貫郡郡立稗貫学校の  教諭となる。トシの病室は、宮沢家が大正8年頃買いとった古くて  陰気な隣家の一室あった。  そこに屏風をたて蚊帳をつってすきま風を防いでいた。 1922(大正11)年  7月、トシは下根子桜の別荘へ移る。母が本宅から食料を運び、  妹シゲがまかないをした。賢治はこの別荘の2階に泊まり、  そこから学校へ通った。そして学校から帰ると、その日あったことを  面白おかしくトシに話して聞かせた。  11月19日、本宅に帰る。トシは本宅の病室へ戻る時、  「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くていやな家だもな。」  とつぶやいた。賢治もトシとともに本宅に戻り、トシの病室に  やってきては南無妙法蓮華経をとなえた。  宮沢家の宗教は浄土真宗であるが、  賢治は日蓮宗を信じて国柱会に入会していた。  家ではトシだけが賢治と同じ信仰をもっていた。  11月27日、朝からみぞれがふっていた。  トシは賢治に頼んでとってきてもらったみぞれを食べ、  さっぱりしたと喜ぶ。その夜、いよいよ最期という時、父、母、弟、  妹が見守り賢治が耳元で南無妙法蓮華教を叫ぶ中、トシは逝った  (享年24歳)。   賢治は押し入れに頭をつっこんでおうおう声を  あげて泣いた。  そして、膝にトシの頭をのせるとその乱れもつれた黒髪をゴシゴシと  火箸ですいてやった。  11月29日、鍛冶町安浄寺(浄土真宗)でトシの葬儀が行なわれる。  賢治は宗旨が違うために出席しなかったが、柩を火葬場へ送り出す頃に  なるとあらわれ、一緒に手をかけて運んだ。  そして遺体が焼かれる間りんりんと法華経をよみつづけた。  賢治は遺骨を二つに分けるといいはり、自分の持ってきた丸い小さな  缶に入れた。この分骨は大正12年になってから国柱会の妙宗大霊廟  (静岡県三保)に納骨された。 /////////////////////////////////////////////////////////////////// 【資料】   賢治と妹・トシ   〜生涯にわたる最高の理解者として〜                 妹トシ宛書簡(大4・10・21)     ラナイ様ナ科目ヲ仕度シテ置イテ好イデセウ 勿論私ニハコンナヤウナ事ヲ云フ資格ハアリマセンガ先ヅ ロダケデ云ツテ置キマス ソレカラ色々利己的ダノト自分デ辯解シテ居ラレル様デスガ ソンナ気兼ネハアマリセンデ好イデセウ 兎ニ角何川卜 云ツテモ結局ハ今ニミンナ一人前ニ成ル事ダカラツマラヌ 心配ハ要ラヌ事卜思ヒマス                        以上                    大正四年拾月廿一日  4月、賢治は盛岡高等農林学校第2部(のち農芸化学科)に、 妹トシは日本女子大学校家政学部予科にともに入学し、 生家を離れそれぞれ寄宿舎に入る。2人は後に法華経信仰を ともにするほどよき理解者として深い兄妹愛で結ばれていた。  この書簡は、学校生活に疑問を抱き、悩みを訴えてきた 彼女への返信である。妹の悩みに温かくこたえようとする 優しい兄賢治の心づかいが見られる。  妹トシの亡くなったとき。賢治は押し入れの中に入って、 泣いて泣いて泣き明かした。亡くなったのは11月だった。 トシが亡くなる直前、病臥中のカヤの中には、電気コイルの ストーブが3つ入れられていた。賢治は、降っていた雨雪を 外からとってきて、トシに食べさせたりした。 賢治作品の中に、「雨雪 とて ちて けんじゃ」とある。 雨音をとってきて下さい、の花巻弁だ。トシの声だ。 妹トシの死  梅木万里子   宮澤賢治は1896(明治29)年8月27日、岩手県 稗貫郡花巻里川口町(現・花巻市)に生まれました。 この年は大津波・大洪水・大地震と天災が相次ぐ年で、 その被害を受けた犠牲者は多くおりました。  旧盆の8月15日のタ暮れどきから、花巻の町はずれを 流れる北上川ではしめやかに灯籠流しが始まります。 弔う灯籠のあかりは童話「銀河鉄道の夜」でケンタウル祭の 夜に川へ流す″青い烏瓜のあかし″のようです。  灯籠のあかりは北から南へ流れ、その水面に映る銀河を 北から南へと主人公ジョバンニを乗せた汽車は走ります。 その旅でジョバンニは赤く燃える”蠍の火″に出会い、 その蠍の死のエピソードに強く心を打たれます。  「わたくしの汽車は北へ走っているはずなのに/ここでは みなみへかけている」(「青森挽歌」)。  1923(大正12)年7月31日から8月12日まで、 県立花巻農学校教諭の賢治(26歳)は、教え子の就職依頼を 目的に北海道を経由して樺太へ旅をしました。 汽車の窓から見えるヤナギランの群落などの風景が次から 次へと移り変わっても、8か月前に亡くした妹トシヘの 賢治の追慕は変わらずいっそう深まります。  トシの死を見つめどこまでも一緒に行こうとする永遠の生命を 賢治は願いました。 そして、その旅の間、「オホーツク挽歌」群を書き綴りました。  それから5年後の1928(昭和3)年、この年の夏は旱天が 続きました。稲作への影影響を心配した賢治(31歳)は、 奔走して疲労が重なり高熱を出して8月10に倒れて しまいました。40日間、熱と汗に苦しみしみました。 それは、死への長い闘病生活の始まりとなりました。  妹トシの病気の急報により、上京中の賢治(25歳)が 帰郷したのも、この季節だったのでした。 トシの悲しい予言  結核に倒れた妹・トシの病状はなかなか好転せず、 大正11(1922)年の夏には自宅を出て、花巻郊外にある 下根子・桜の別邸で療養することになる。  陽当たりの悪い自宅の病室から出ることができて、トシは とても喜んだのだが、寒さや食事の世話の不便さなどから、 11月19日に自宅に戻ることになった。  トシはそれがよほど嫌だったようで、「あっち(自宅)に 行くと、暗くて寒いから、死んでしまう」と言っていた。  その言葉は、悲しい予言となっていた。 自宅に戻ったわずか8日後の11月27日朝、トシの容体は 急変したのである。 みぞれと松葉  11月27日は、朝からみぞれの降る冷たい1日だった。 脈拍が低下し、10秒間に2回しか打たない危篤状態に陥った トシは、みぞれを賢治に取ってきてもらって食べ、 みぞれに添えられていた松葉の先で頬を刺して、 「林の中に来たようにさっぱりした」と喜んだ。 今度生まれてくるときは……  臨終の間際、父・政次郎は病気ばかりしてきた娘をはかなんで、 思わず「今度生まれてくるときは人間になど生まれてくるんじゃ ないぞ」と言った。それに応えて、トシも「今度生まれてくるときはこんなに自分のことばかりで苦しまないようにします。」 まさに絶唱と呼ぶベき、父娘の会話だった。 無声慟哭  11月27日午後8時30分、トシは亡くなった。 呼吸が止まる直前、賢治が耳元で「南無妙法蓮華教経!」と 大きな声で叫ぶと、トシは二度うなずくように顔を動かして、 息絶えた。        賢治は押し入れを開けて布団の中に顔を突っ込み心の底から 泣いた。詩の題名にもなった”無声慟哭″である。 妹の髪を梳いてやる  ひとしきり泣いた後、賢治は膝にトシの頭を乗せ、 乱れた黒髪を火箸で梳いてやった。 これが、賢治の最大にして唯一の理解者であったトシとの永久の 別れである。 葬儀に参列しなかった賢治  トシの葬儀は29日、菩提寺である安浄寺で営まれたが、 浄土真宗を信仰する一家の中でただひとり日蓮宗を信じる賢治は、 宗旨の違いを理由に葬儀には参列しなかった。 そのかわり、出棺のときに現れて、棺を火葬場まで運んだ。  また、トシのなきらが荼毘に付された後で分骨を申し出て、 政次郎の反対を押し切って、遺骨の一部を持参した丸い小さな 缶に入れ、後日、静岡県三保にある国柱会本部に納めた。 半年間の空白  トシの死後半年間、賢治は詩作をいっさいしなかった。 最愛の妹の死は、そこまでの深い悲しみを与えたのである。 賢治の描いた菩薩像     「菩薩像」として伝えられている原画は焼失して 現存しないため、描画の時期は不明である。 しかし、妹トシの面影もあるので、妹トシの没後に、 その理想像を描いたものと推定される。  賢治とトシ、この2歳違いの長男長女の2人は、たがいによき 遊び相手であり、よき話し相手であった。 さらに長じて後は、書簡にもみられるようによき相談相手であり、 また国柱会会員として信仰をともにするほどよき理解者でも あった。  その兄妹仲は、大正7年の暮れからの2か月余に及ぶトシの 入院中の献身的な看護に顕著に現れているといえよう。  このような兄妹仲が『春と修羅』中の挽歌の詩群「無声慟哭」の 背景となって、賢治は妹に呼びかけているのである。 その呼びかけは、青い薄莱の陶碗と雪が基調となり、永訣の朝の 悲しみと祈りとなつているが、「あいつだけがいいとこに 行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます」 (青森挽歌)という祈りの姿勢が注日される。  信仰をともにした妹への哀悼として、賢治の悲しみが 理解される。 作家論に限りなく迫る 「やまなし」(光村六・下)の授業            第四部     〜クラムボンとは何か〜第四部 「やまなし」の読解 この物語は2部に分かれています。 それぞれの印象をノートに書きなさい。 「五月」      「十二月」   悲しい         幸せそう   暗い          明るい   こわい         人間みたいな表現   薄暗い         平和   きれいだけど少し暗い  楽しい   重い          明解   明るい→暗い      静かで明るい   難解          分かりやすい    ↓           ↓ 「−イメージ」   「+イメージ」 意味の分からない言葉を辞書で調べなさい。 →クラムボン、イサド、金雲母、かばの花、ラムネのびんの月明かり  やまなし、光のあみ、遠眼鏡、かげ法師、水晶、金剛石、トブン  つぶつぶ、幻灯、黄金・・・ ※《クラムボン、イサドについては説明なし》  《金雲母、ラムネのびん、水晶、金剛石については実物を提示》  《かばの花、やまなしについては写真提示》  《トブン、つぶつぶについては資料「オノマトペ」配布》                       原文はこちらへ 「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」は、誰の言葉ですか。 →かにの兄・・・ 1名  かにの弟・・・25名 「かぷかぷ」を普通の言い方にしてごらんなさい。 →にこにこ、楽しく、にやにや、笑顔で、くすくす、にかにか 「かぷかぷ」から、どんなイメージが浮かびますか。 →水の中の泡のイメージ 「かぷかぷ」と笑う「クラムボン」の行為を全て抜き出しなさい。 →笑う  はねる  殺される  死ぬ  生き返る 「クラムボン」は賢治の造語です。 はっきりと何だか定説がありません。 例えば「かに」は英語で「クラブ」、「泡」は「バブル」と言うので そこから作ったのではないかという人もいます。 「笑ってはねて殺されて死んで、そして蘇る」クラムボンを、 あなたは何だと思いますか。 →水草  アメンボ  太陽の光線  泡  トシ  魚  自然  トシをイメージした生物  トンボ(脱皮をする生物) ★児童の考えた、その根拠 ◆クラムボンはトシだと思う。「死ぬ」や「殺される」はトシの  最後そのもの。「はねる」は幼い頃の回想。「生き返る」は  「永訣の朝」で「今度生まれてくるときは」と言っていること  だと思う。 ◆やっぱりトシだと思う。死ぬ前に、賢治の「あめゆじゅ」を  食べて生き返った様に思えるから。                      第五部は、こちらから。 作家論に限りなく迫る 「やまなし」(光村六・下)の授業          第五部〜第六部     〜「五月」と「十二月」〜 第五部 「色の対比」 「やまなし」を「色」から考えてみます。色は、物語の登場人物の心を 表していることが多いのです。 「白いぼうし」は「白」で「松井さんの優しさ」を、 「大造じいさんとガン」では爺さんは「赤」で「闘争心」、 残雪は「白」で「純真さ」を表していました。 では、まず「やまなし」に使われている色を全て抜き出しましょう。 →「五月」   青白い、青く、水銀のように、銀の色、日光の黄金、白い、鉄色に   黒く、青光り、ぎらぎら、青い、光の黄金、赤かった  「十二月」   白い、青白い、黒い、黄金、青い、金剛石の粉 「五月」と「十二月」を代表する色は、それぞれ何ですか。 →「五月」は「青」  「十二月」は「黄金」 このことから、どんなことが分かりますか。 →「五月」←→「十二月」    悲しい         楽しい    暗い金属(銀、鉄)   明るい金属(黄金)    種類が多い       種類が少ない    例えた色        そのものの色    寒色          暖色    暗さを覆い隠す     明色 「五月の色」と「十二月の色」の対比から、考察をしなさい。 →◆五月は色の数そのものは多いが、暗いイメージばかり。   十二月は数は少ないが明るいイメージがほとんど。  ◆実際の気候や気温と逆になっている。  ◆「十二月」は、元々は「十一月」という題名。   十一月はトシの死んだ月。翌年の五月は賢治が最も悲しさに暮れて   いたころで、十一月はそれを乗り越えたころ。  ◆月の色は賢治の心。「青白い火が燃える」はトシの死を   暗示しており、「燃やしたり消したり」で立ち直りが伺える。 全体を貫く色は何色ですか。 →「黄色」:五月が白で、十二月が黄金。併せて黄色       キーワードは「光」。光は黄色のイメージ  「黄土色」  「青」: 幻灯も青。全体として最も多い。最初に出てくる  「青」 (但し、様々な濃さ)  「青白」  「ラメ入りの青」  「黄緑」:色が変わりやすい  「緑」: 明るくも暗くも見える  「紫」: 赤と青とを混ぜた色  「濃い黄緑」「濃い青」:賢治の心の色  「透明」:どの色にも染まる  「青」と「黄色」:この2つは混ぜてはいけない  「赤」: 血、元気 第六部 「光の対比」 「五月」と「十二月」の「光」について対比しなさい。 →「五月」←→「十二月」    水銀のように      いっぱい    夢のように       もかもか    光のあみ        ゆらゆら    くちゃくちゃにして   月光のにじ    ぎらぎら        水に流されながら    ぎらっ         きらきら    ゆらゆら    かげ    クラムボン 「光」について考察をしなさい。 →◆五月は太陽などの自然の光、十二月は反射した光  ◆五月も十二月も暗い光から明るい光に変化している  ◆五月は透明な光、十二月は色のついた光  ◆五月は瞬間的に入ってくる光、十二月はそこにある光  ◆五月は明るい光、十二月は淡い光  ◆五月はギラギラしていてこわい光、   十二月はキラキラしていてやさしい光  ◆五月は焦った感じの光、十二月はゆったりとした光  ◆五月は直接的でまぶしい、十二月は比喩的でキラキラしている  ◆五月は「ゆらゆら」など、光そのものではなく、光をイメージできる   言葉が多く、十二月は「ラムネのびんの月光」など光るものそのもの   が多く書かれている。  ◆五月は寂しい光、十二月は明るく楽しい光  ◆五月は「入れた」光、十二月は「ある」光  ◆五月は目覚めさせる光、十二月は目覚めた後の光  ◆五月は水底(かに)に届く光、十二月は水面の光  ◆五月は何か物足りない光、十二月はそのままで十分な光  ◆五月は暗い影など黒のイメージがあるのに、十二月には1つもない。  ◆五月は「光」と言う言葉が多く、「月」は1つもない。十二月には   「月」が多く「光」は少ない  ◆五月は悪いイメージの光、十二月は気持ちよい落ち着いた光  ◆五月は賢治が何かを考えついたころ、気持ちが変わった。だから変   に富んでいる。十二月はトシの死を納得し、自分の気持ちとトシの   気持ちとが分かり、決意した明るさ 先生は「五月」(初夏)と「十二月」(晩秋→初冬、トシの死)との イメージが逆に感じるのだが、なぜそうなっているのだろうか。 →◆トシが死んだ月だからこそ、明るいイメージに作り、   頑張っていこうとする決意を表している。  ◆五月は旅先での悲しみ、十二月は帰郷後の安らぎ  ◆五月は執筆時の思い、十二月は1周忌の思い  ◆五月はトシの死の予感、十二月は現実を乗り越える  ◆五月の光は「涙」の象徴、十二月の光は「希望」「立ち直り」の象徴  ◆五月は賢治の焦り、十二月は乗り越えたい意欲  ◆五月は言葉自体が光のイメージ、十二月は光る世界 「五月」と「十二月」とでは、視点はどのように変化していますか。 ワークシートに記入しなさい。 その際、父蟹・兄・弟・かば・やまなし・かわせみ等、 視点の基準となるものを添えなさい。 永訣の朝  けふのうちに  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ    (あめゆじゆとてちてけんじや)  うすあかくいつそう陰惨な雲から  みぞれはびちよびちよふつてくる    (あめゆじゆとてちてけんじや)  青い専菜のもやうのついた  これらふたつのかけた陶椀に  おまへがたべるあめゆきをとらうとして  ゎたくしはまがつたてつぱうだまのやうに  このくらいみぞれのなかに飛びだした     (あめゆじゆとてちてけんじや)  蒼鉛いろの暗い雲から  みぞれはびちよびちよ沈んでくる  ああとし子  死ぬといふいまごろになつて  わたくしをいつしやうあかるくするために  こんなさつぱりした雪のひとわんを  おまへはわたくしにたのんだのだ  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ  わたくしもまつすぐにすすんでいくから     (あめゆじゆとてちてけんじや)  はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから  おまへはわたくしにたのんだのだ  銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの  そらからおちた雪のさいごのひとわんを……  ……ふたきれのみかげせきざいに  みぞれはさびしくたまつてゐる  わたくしはそのうへにあぶなくたち  雪と水とのまつしろな二相系をたもち  すきとほるつめたい雫にみちた  このつややかな松のえだから  わたくしのやさしいいもうとの  さいごのたべものをもらつていかう  わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ  みなれたちやわんのこの藍のもやうにも  もうけふおまへはわかれてしまふ   (OraOradeShitoriegumo)  ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ  あああのとざされた病室の  くらいびやうぶやかやのなかに  やさしくあをじろく燃えてゐる  わたくしのけなげないもうとよ  この雪はどこをえらばうにも  あんまりどこもまつしろなのだ  あんなおそろしいみだれたそらから  このうつくしい雪がきたのだ     (うまれでくるたて      こんどはこたにわりやのごとばかりで      くるしまなあよにうまれてくる)  おまへがたべるこのふたわんのゆきに  わたくしはいまこころからいのる  どうかこれが天上のアイスクリームになつて  おまヘとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ              1922.11.27 第一部 「宮沢賢治」の環境について 宮沢賢治について知っていることはありますか。 →「雨ニモ負ケズ」を知っている。  「どんぐりと山猫」  「銀河鉄道の夜」  「風の又三郎」  「注文の多い料理店」  「オツベルと象」  「水仙月の四日」  「よだかの星」  「税務署長の冒険」  「グスコーブドリの伝記」・・・ 「雨ニモ負ケズ」は、どこまで知っていますか。 →雨にも負けず 風にも負けず 雪にも 夏の暑さにも負けぬ  丈夫な体を持ち 欲はなく 決して怒らず いつも静かに  笑っている・・・・・・ 「グスコーブドリの伝記」の登場人物を言えますか。 →ブドリ  ネリ 「伝記」と言っていますが、グスコーブドリは実在の人物なのですか。 →違う。賢治自身ではないか。 では、ネリは誰のことだと思いますか。 →賢治の妹のことではないか。 賢治には弟と妹がいました。弟は清六、妹はトシと言います。 ネリはおそらくトシのことではないかと言われています。 ところで、「グスコーブドリ」って、変な名前ですよね。 賢治は自分でものに名前をつけるのが得意だったようで、 よくカタカナの名前を作っては自分の作品に登場させました。 例えば「イーハトーヴ」って何だと思いますか。これは地名です。 →分からない。 ローマ字に直してごらん。 「IHATOVU」になりますね。 賢治の出身はどこだか知っていますか。 →岩手県 岩手は昔はひらがなで「いはて=IHATE」と書きました。そこから ひねって、自分の生まれた岩手県を「IHATOVE=イーハトーヴ」 と呼んだのです。 これから勉強する「やまなし」にも、ちょっと考えなくては 意味の分からない「作った言葉」、造語がいろいろとでてきます。 第二部 賢治の詩を学ぶ これから「永訣の朝」という詩を黒板に書きます。 皆さんはノートに視写してください。 →「永訣の朝」の板書、視写       原文はこちらへ 意味の分からない言葉はありましたか。 →「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」  が、分からない。 「あめゆじゅ」は「雨雪」、雪のことです。 「とてちて」は「取って来て」、 「けんじゃ」は「賢治さん」という呼びかけです。 →「ora ora de shitori egumo」  が、分からない。 岩手県の方言ですね。 「オラ」は「私」のこと。「しとり」は「一人」です。 「私はこれから自分1人で行く」ということです。 →( )がいくつもある意味が分からない。 賢治の詩の特徴です。同時に2つのことが頭に浮かんだり見えたり したときには、1つを()に入れて、同時進行をしていたと読めば いいのです。 このように賢治は独特な詩を書きました。心に浮かんだことを スケッチブックに書くように言葉にしたので、自分で「心象スケッチ」 と名付けました。 《その後、言葉の意味を幾つか説明》 この「永訣の朝」は、どんな状況で書かれたと思いますか。 →「永訣」は「死に別れ」のことだから、「わたくしの妹」が  死にそうな時に書いた。 妹のトシは、胸を患い、若くして死にました。賢治は最愛の妹を 亡くそうとするその場面で、枕元でこの詩を考えました。 外にはきれいな雪が降っていて、トシはその雪を最後に食べたい、 と、賢治兄さんに「取って来て」と頼んだのだそうです。 宮沢賢治とは誰か -------------------------------------------------------------------------------- イントロダクション ▽このサイトの狙い  宮沢賢治は日本で世代をこえてもっともよく読まれ、愛されている作家のひとりである。約100年前の1896年に岩手県で生まれ、37歳の若さで亡くなった。そのため、生前に出版されたのは童話集「注文の多い料理店」と詩集「春と修羅」だけで、ほとんど世に知られていなかった。しかし、彼の死後、書き残した多数の童話と詩などが編集され出版されるとともに、作品世界の豊かさと深さが広く認められるようになった。  1996年は賢治の生誕100年にあたり、故郷の岩手県をはじめ各地でさまざまな催事が開かれただけでなく、賢治をめぐる多数の書籍が出版され、たくさんのテレビ番組と何本かの映画が製作され-------といったようにさまざまなメディアをあげての大きなブームとなった。この現象には大手の広告代理店や鉄道会社が仕組んだブームという面もあるが、それだけのこととはとても言えない。  近年、世代をこえて熱心な賢治の読者が増えていて、これには、日本社会のいき詰まりを感じている人たちが、賢治の著作に新たな方向を探っていく手がかりを感じとっているという面がある。  このように日本国内ではもっともよく読まれる著作家の一人になっているにもかかわらず、海外では賢治はいまのところほとんど知られていない。それなら、賢治の作品の豊かさ、深さを海外の人たちにも知ってもらうきっかけをインターネット上でつくろう、というのがこのサイトの主な狙いのひとつである。  賢治の著作は、国や文化の違いにかかわりなく、現代の困難な課題に挑もうとする人たちを励ます力をもつと思われるからである。 ▽辺境的な地域に根を下ろした世界的な普遍性  賢治が生涯のほとんどを過ごした岩手県は、東京からは辺鄙な貧しい地方とみなされていた。賢治の生家は富裕な質屋であり、周囲の貧しい人たちから絞りとった利益によって恵まれた生活をしてきたのではないかという思いに彼は苦しめられた。そうした思いと仏教への信仰に駆られて、賢治は短い生涯の間、貧しい農村の生活を改善することに役立ちたいという情熱を持ち続けた。  賢治は地域の生活の向上に役立つために苦闘するとともに、他方で同時代(1910〜20年代)のヨーロッパを中心に起きた科学や哲学、芸術の大きな地殻変動に対して強い関心をもち、貪欲に知識を吸収していた。  こうして急速に近代化しつつある日本の辺境扱いされた場所から、ローカルな地域に深く根をおろしながら、同時に世界中の人々の心に訴える普遍性をもつ賢治の作品群が生み出された。 ▽賢治のコスモロジー  賢治の物語では、人と動物や植物、風や雲や光、星や太陽といった森羅万象が語りあったり、交感しあったりする。このような森羅万象の関わりあいの自在さに、賢治の物語の大きな特色がある。これらがデタラメなこととしてではなく、生き生きとしたリアリティをもって語られる。  地質学者としての訓練を受けた賢治はフィールドワークの人であり、彼のファンタジーの出発点も、野外を歩き回っている時に実際におきた心の中の出来事におかれている。そのために、リアリティをおびた生き生きとした語り方が可能だったのだろう。野外を散策しながら、鉱物や植物について細かく観察し、気象の変化を敏感に感じとるだけでなく、それらに促されて自分の心の中から湧いてくるさまざまな感情や想念とその交錯を観察し、記録するという方法をつくりだしていった。そうした方法を賢治は心象スケッチと呼んだ。 →『宮沢賢治と心象スケッチ』の概念マップ  賢治は、生き物はみな兄弟であり、生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえないと考えていた。しかし、単に理念としてそう考えただけでなく、山野を歩き生き物や鉱石、風、雲、虹、星との関わりのうちに、しばしば我を忘れて没入する人だった。賢治はそうした自然との交感に至福を見いだしていたし、賢治の文章の豊かな活力の源泉も、そうした森羅万象との交感から得たエネルギーにあった。  賢治のたくさんの作品群から、自然に対する近代の人間の傲慢さ知り、人と生き物と地球と宇宙の関係を捉え直す、新たなコスモロジーへの方向づけを、読者は読みとることができるだろう。 ▽排外主義的な日本社会に対するオルタナティブの探究  また賢治が生きた時代は、日本社会で周囲のアジア諸国の人々に対する排他的で自己中心的な意識が強まり、やがてアジア諸国に対する侵略戦争へと進んでいく時期だった。他方、賢治の物語の中では村人と村をとりまく自然の中で生活する異質な者たち(山男、風の精、山猫、鹿、熊、狐-----)との開かれたコミュニケーションが重要なテーマとなっている。賢治はこうしたテーマを通じて排外的で閉ざされた日本社会と違った、オルタナティブな可能性を探ろうとしたのだと思われる。  これは、21世紀に向かう現代社会に対する新鮮な問題提起でもある。 賢治とその作品の魅力 賢治作品のユーモア 賢治作品のリズム 星や風、生き物からの 贈り物としての詩、物語 科学と詩の出会い 詩と科学の出会い・2 心のたしかな出来事 としてのファンタジー 異質の者に対して開かれた心 子供から大人への過渡期の文学 作品の多義性、重層性 作品における倫理的な探究 エコロジスト的な探究 教師としての賢治 社会改革者としての賢治 -------------------------------------------------------------------------------- 賢治の作品世界 イーハトーヴォ 私にとっての賢治 フォーラム ギャラリー リンク スタッフ 宮沢賢治の宇宙 社会改革者としての賢治 -------------------------------------------------------------------------------- ●賢治は新しい農村コミュニティづくりをめざす社会改革者としての面も持つ。1926年、賢治は花巻農学校を退職し、自ら農業を営むかたわら、羅須地人協会をつくり農村青年を集めて土壌学などについての講義をするとともに、演劇や音楽などの文化活動をともに行った。賢治のこうした側面は、作品の中では例えば「ポラーノの広場」に現れている。 ●羅須地人協会の活動に託した賢治の想いは、「農民芸術概論綱要」の中で宣言的な形でつぎのように述べられている。 「農民芸術の興隆-----何故われらの芸術がいま起こらねばならないか---- 曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い 芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ 芸術もてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来たってわれらと交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」 (ちくま文庫「宮沢賢治全集」10) エコロジスト的な探究 -------------------------------------------------------------------------------- ●賢治が菜食主義者だったのも、「すべてのいきもののほうたうの幸福をさがさなければいけない」という倫理感からきているのだろう。「ビジタリアン大祭」では、菜食主義者とそれに対する反対者のユーモラスなディベートがなされる。 ●また「虔十公園林」は、知恵が足りないと近所の人に思われていた虔十が植えた杉の林が、時代が移り周りの環境がすっかりかわってもそこは昔のままで子供たちが喜んで遊ぶ場所であり続けたという話である。長い時間を隔ててみると、皆が杉が育たないと思っている所に杉苗を植え育てることに執着し馬鹿にされていた虔十が、生き物から何かを感じとる「賢さ」をもっていたことがわかる。自然と人間の関係では、ある時代の人間の知識は所詮たいしたものではなく、虔十のような愚直さの方が尊いと賢治は考えたのだろう。 ●生き生きとした自然生態系の保全のためには、自然とともに生きる伝統的な生活の知恵をもつ土着の人たちから多くを学ぶ必要があることを、現代のエコロジストは最近になって認識しつつある。  他方、賢治の作品では「なめとこ山の熊」の小十郎、「鹿踊りのはじまり」の嘉十のように、野生の生き物との相互依存的な関係の中で生活する土着の人たちの哀歓をつきつめて描いている。そういう点では、現代のエコロジストにも多くの示唆を与えるだろう。 星や風、生き物からの      贈り物としての詩、物語 -------------------------------------------------------------------------------- ●賢治は地質学者としての訓練を受けたフィールドワークの人であり、山や森や野原に出かけることを好んだ。そして、そうした野外の旅や散策は、植物や鉱物を採集したり、天体を観察する機会であるだけでなく、星や風や生き物たちから詩や物語のもとを与えられた。  物語の登場人物のように、風の音の中から誰かが語りかける声を聞きとったり、疲れて眠って、まわりの岩が語り出すのを聴いたりもしたのだろう。 ●賢治の心は星や虹、風や雲、生き物、鉱物などさまざまなものと交感し、そこから詩的なインスピレーションを得ているが、「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」と「農民芸術概論綱要」で書いているように、風や雪、雲といった気象のエネルギーに強く感応する人だった。  賢治の代表作のひとつである「風の又三郎」では風が重要な主題となっている。また、「鹿踊りのはじまり」、「サガレンの八月」、「氷河鼠の毛皮」など風の音から物語を聴きとるというはじまり方の話もある。 ●また、賢治の物語には地上の生き物が天界の星や太陽に憧れるというものが多い。地上の生き物どうしが交感しあうだけでなく、地上の生き物が気象や天界と交感しあい、宇宙的な連関のうちにある自らを見いだすというのが、賢治に特徴的な詩的な想像力の発揮され方のひとつである。 科学と詩の出会い -------------------------------------------------------------------------------- ●賢治は小さい頃に周囲の人たちから「石っこ賢さん」と呼ばれていた鉱石好きの少年だった。盛岡の大学時代とそれに続く研究生の時期に、地質学を学び、地質学者の卵としての仕事もしている。 ●地質学では、さまざまな地層を掘ったり観察することを通じてある地域の地形や地層の形成のメカニズムと歴史を洞察していく。その前提となるフィールドワークの際には、野山や川を歩きながら、観察した事項をその都度ノートに書きとめていく。こうした地質学の方法が賢治の仕事全体の土台となったと考えることができるのではないか。 ●「注文の多い料理店」と同じ時期に刊行した詩集「春と修羅」について、賢治は詩集ではなく「心象スケッチ」だと言っている。心象スケッチとは野山を歩きながら、風景や生き物、気象について感じたことやそれにともなう感情や思考、想念の流れを細かく書きとめていく方法であり、地質学のフィールドワークの方法が変形されたもののようにも思える。  賢治にとってはこの心象スケッチが、いわば心の地層を探究する方法となっていたらしい。つまり、心象スケッチとは単にイメージを書きとめることではなく、深い方法論的な意識をこめた言葉であることが、「春と修羅・序」を読むとわかる。 →『宮沢賢治と心象スケッチ』の概念マップ ●「春と修羅・序」では、宇宙や地球や生命が生成した時間の積み重なりと、「わたくしという現象」との関係が問いかけられている。賢治は宇宙や地質の歴史を感じるのも心の現象に過ぎないと言う。  そして「人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれの新鮮な本体論もかんがへませうが それらも畢竟こヽろのひとつの風物です」といたずらっぽい調子で存在論的な問題についての洞察を語る。  ここには、宇宙や地球や生命の歴史について感じたり、考えたりしている「わたくしという現象」がじつはそうした生成の歴史の中から生じてきたという、眩暈のするような不思議が含まれている。心象スケッチとは、こうした時間の積み重なりのうちにある心の現象の探究なのだ。 詩と科学の出会い・2 -------------------------------------------------------------------------------- 「春と修羅」第1集の詩では、地質学や気象学、植物学の用語がたくさん使われていることが同時代の文学者たちを驚かせた。 「春と修羅」について、賢治は若い友人への手紙の中で「心理学的な仕事の仕度」の「心象スケッチ」だと述べている。この「心理学的な仕事」とは、ひとつの仮説として「心象の時空の探究」だったと考えてみることができる。 賢治にとって心理学とは、心の科学的な研究であったようだ。そして、「春と修羅」第1集は詩であると同時に、心の科学的な研究のための「心象の時空の探究」のための心象スケッチでもあったと考えられる。 この心象の時空を描きだすために、地質学や気象学の用語が駆使される。つまり、心の科学の準備あるいは詩のために、自然科学の用語がメタファーとして活用される。このように独特の形で、領域をこえて用語が転用され、しかも、奇をてらってそうした訳ではなく、起きるべくしてそうした異なる領域の結びつきが起きている所に、賢治のすぐれた創造性が認められる。(心象スケッチと幻想) 賢治が感じていた時空は、古典物理学的な等質な時空とは、著しく異なるものだった。地上の人間が普通に生きている「わたしたちの空間」とは異なる異空間があって、時空の窪みのような所を通じて、異空間に入りこむという感じを賢治はもっていた。 たとえば「インドラの網」は、こうした異空間に入り込む感覚をリアルに描いているし、ドタバタ喜劇風の詩「真空溶媒」でも、登場人物たちは真空の作用で異空間に吸い込まれる。異空間の旅である「銀河鉄道の夜」では、銀河鉄道で銀河を旅していたジョバンニは、ブラックホールのような「石炭袋」を通じて地上に戻ってくる。 等質な時空ではなく、異質な時空の入り組んだ心象の時空という感じ方は、賢治がしばしば幻想(幻覚)を体験したこととも深い関係があると思われる。幻想の経験は、賢治に恐怖を感じさせたが、またある場合には、幻想を通じて現れる尊い者との出会いを可能にした。 たとえば、「春と修羅」第1集の中の代表的な詩のひとつである「小岩井農場」では、ユリアとペムペルという賢治にとって元型的な生物と出会っている。そして、「ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ/わたくしはずゐぶんとしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なあしを見た/どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白亜紀の頁岩の古い海岸にもとめただろう」と書かれているように、心の深層から現れる元型的な生物のイメージは、人類以前の地質学的な時代と結びつけられている。 つまり賢治は心の深い部分から遠い記憶につながる元型的なイメージが発掘されるという、「心の地質学」のような感じ方をもっていたのだと思われる。(「雁の童子」と砂漠で発掘された有翼の天使 ) ユリアとペムペルと同じ存在かどうかはわからないが、「青森挽歌」では、天上の尊い生物である「巨きなすあしの生物たち」が描かれている。妹のトシの死の翌年、妹の影を追うようにして北に向かって旅した時の日付をもつ「青森挽歌」で、賢治は、死んだ妹がどこを通ってどんな所に行ったと感じられるかを執拗にたどっている。そしてトシがいったと感じられる天上にも、「また瓔珞やあやしいうすものをつけ/移らずしかもしづかにゆききする/巨きなすあしの生物たち」という表現が出てきて、賢治は天上にも尊い元型的な生物がいると感じていることがわかる。「ひかりの素足」という物語からわかるように、賢治にとって、白くひかる巨きな素足は如来の属性でもある。(「地質学の太古と元型的な生き物のイメージ」) このように、賢治の詩や物語では、地質学的なメタフアーが頻繁に用いられるが、注目すべきなのは、「発掘」というメタファーが、現在から見た過去について語る時だけでなく、未来やそれと置き換え可能な関係をもつらしい天上の異空間について語るためにも、よく使われるということだ。 たとえば、「春と修羅・序」の終わりの部分で「おそらくこれから二千年もたつたころは/それ相当のちがつた地質学が流用され/--------/新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層/きらびやかな氷窒素のあたりから/すてきな化石を発掘したり/あるいは白亜紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかもしれません」と書いているように、未来について語る場合にも、地質学的な発掘というメタファーが使われている。未来には、地上ではなく「気圏の上層」で発掘をしているだろうというのだ。 「銀河鉄道の夜」の「プリオシン海岸」では、気圏のいちばん上層で発掘するというイメージが転じて、銀河のほとりで、大学士が牛の先祖の骨を掘り出したりしている場面になっている。これは、「イギリス海岸」に書かれている賢治が経験した泥岩層からのクルミの化石や偶蹄類の足跡の発掘が変奏されて「銀河鉄道の夜」の一場面になっている部分である。 「春と修羅・序」の二千年後の「気圏の上層」での発掘が、「銀河鉄道の夜」では天上の異空間での発掘へと展開している訳であり、賢治の心象の時空では、「これから二千年もたつころ」という未来は天上の異空間に移しかえうる位相空間的な関係にあることがわかる。「インドラの網」では、「人の世界のツェラ高原」から「天の空間」にまぎれこんだ「私」は、天の子供たちに出会う。この天の子供たちは「小岩井農場」では幻想の中から現れてきて、ユリアとペムペルと同様に賢治にとっての元型的なイメージであり、幻想から現れる尊いものと感じられている。そしてやはり、「小岩井農場」で天の子供たちの幻想は、「珠羅(じゆら)や白亜のまつくらな森林のなか」という地質時代の雰囲気と結びついた形で出現している。 この天の子供たちの場合にも「巨きなすあしの生物たち」と同様に、古い意識の層から幻想として現れる尊い元型的な存在が、「天の空間」にも現れるという関係になっている訳である。 さらに、賢治の物語と詩では、この天の子供たちも考古学的な発掘と結びつけられている。 「インドラの網」や「雁の童子」で出てくる天の子供たちは、砂漠から発掘された壁画に描かれた天の子供たちだし、「小岩井農場」で幻想に現れる天の子供たちも、先駆形Aでは「あなた方はガンダラ風ですね。/タクラマカン砂漠の中の/古い壁画に私はあなたに/似た人を見ました」と呼びかけられている。 この「タクラマカン砂漠の中の古い壁画」とは、オーレル・スタインがミーランで発掘した有翼の天使の壁画に触発されたイメージではないかと言われている。「インドラの網」の天の子供たちは、主人公の「私」が発掘した壁画に描かれていた天の子供たちだし、「雁の童子」では、物語の最後の部分で、砂漠から発掘された天童子の壁画に出あって雁の童子は天に戻っていく。雁の老人に託されて雁の童子を育てていた須利耶圭が、前世では雁の童子の父親でこの壁画を描いたことが明かされる。このように、賢治の物語と詩では、天の子供と砂漠から発掘された壁画との結びつきが重視されているのは明かだ。 これは、大乗仏教の歴史と縁の深いタクラマカン砂漠から天使の壁画が発掘されたという話と自分の幻想から現れる天の子供の元型的なイメージが結びついて、賢治は深い感銘を受けたためではないかと思われる。 ここには、古い時代の地層から過去の歴史を考える上で重要な標本が発掘されるということと、心の深層に蓄えられている元型的なイメージが幻想を通じて現れるということとの対応関係がある。 こうした例からもかわるように、地質学的、考古学的なメタファーは、賢治にとって心象の時空を言語化するために不可欠の方法だったと考えられる。 心のたしかな出来事        としてのファンタジー -------------------------------------------------------------------------------- ●賢治は、優れた科学的な観察力をもつと同時に子供のような心をもち続けた人で、冷静な現実世界の観察と神話的な空想の世界とを往き来し、両者を結びつけることができた。そういう意味で、科学者であると同時にシャーマン的な性格の持ち主であったと言える。つまり、境界を超えて、あちらとこちらを媒介する人だった。  そうした資質をもった賢治にとってファンタジーとは架空のことではなく、「たしかにこの通りその時心象の中に現れたもの」(「注文の多い料理店」の広告)であり、どんなに奇妙に思えようとそうした心の深部から生まれてくるものに真理が含まれると賢治は考えた。 ●そこで賢治の物語では、登場人物の人間と生き物や場所との交感が高まりファンタジーの世界に踏み込んでいく心の状態の移り行きが繊細にリアルに描かれることが多い。  たとえば、「なめとこ山の熊」の小五郎、「鹿踊りのはじまり」の嘉十のように山村で生活し動物たちの営みを身近に感じている人が動物どうしの親密なやりとりの場面に出会った時、にわかに動物の語りあう言葉がわかるようになる。そういう場面では心の有り様が緻密に描写される。「茨海小学校」の「私」の体験の場合も同様である。 ●「インドラの網」でも、冷静な観察者の視点と幻想とが独特な形で結びつけられている。この作品では、科学的な見識をもった旅人が疲れて空気が希薄な高原を歩くうちに、意識は幻想的な状態に入り込むが、それを科学者の意識が観察しているという書き方になっている。 異質な者に対して開かれた心 -------------------------------------------------------------------------------- ●イーハトーヴォとは岩手がエスペラント語風に変形された地名である。物語の舞台についてのこの命名に端的に示されるように、トーハトーヴォ童話の世界とは、東北地方の岩手県の風土、生活、歴史に根ざしながら、それらが賢治の詩的想像力によって変成されたミクロコスモスである。 ●日本列島では、稲作農耕が始まる前に、成熟した狩猟採集文化を育んだ縄文時代が続いたがその中心は東北地方にあった。やがて列島の南や西から稲作農耕の弥生文化が浸透し、東北地方にも波及してくるが、奥深い豊かな森林をもつこの地方には、縄文的な要素が残り続けた。そして、東北地方を支配域に統合しようとした関西や関東を中心にする権力と先住民の蝦夷やその後裔との対立、抗争が続いた。明治時代に入ってからも、関東や関西を中心に工業化が推進され、東北地方は貧しい後進地域と見なされた。  このように、権力の中心から離れ、奥深い自然をもつこの地方では、農耕社会や工業社会の秩序に組み込まれていない自然の領域が豊かにあり、それと結びついた縄文的、蝦夷的な文化の伝統が力をもち続けてきた。 ●こうした中央から遠く離れた周縁的な場所としての岩手県の風土的、歴史的な特質を賢治は掘り下げていった。そうした探究がイハートーヴォ童話の世界に投影されているのだと思われる。  イーハトーヴォでは、人間の集落をとりまく自然の住人たち(山男、風の精、山猫---)がそれぞれの生き生きとした個性をもっている。そうした自然の住人たちと人間とのさまざまな形での出会いや緊張関係が、多彩なドラマをつくりだす。そして、賢治は、農耕民の共同体の側の視点から自然の住人を異質な者として恐れたり排斥したりするのではなく、両者を結ぶ開かれたコミュニケーションの可能性を探ろうとした。 ●そうした姿勢がわかりやすい形で現れるのが村人と山男の関係である。  東北の伝統的な村落においては、山男は人里離れた山に住む、幻想的な恐ろしい者として意識されてきたが、なかには山男を約束を守る律義な者として語っている伝承もある。賢治の物語に登場する山男は、黄金色の目をしていて異様ななりをしている点は伝承の山男の属性を帯びているが、村の人々を恐れされる存在という面は除かれ、正直で純朴な性格が強調されている。  「祭の晩」では、村の若者たちが「よそもの」としての山男に対して排他的な攻撃をする。しかし、山男の善良さを感じた子供の亮二は山男を窮地から救い、その後、亮二にたくさんの薪や栗が届けられ、山男との相互的な関係がつくられる。この物語では、明らかに村人と異質な者との開かれたコミュニケーションの可能性が主題となっている。 ●「狼森と笊森、盗森」でも、野原を開墾して村だてをした農民と狼や山男などのその周囲の森の住人との相互依存的な関係がつくられていく。これも、農民とその周囲に住む異質な者たちの間の相互的なコミュニケーションがテーマとなっている物語である。 ●さらに、「雪渡り」は人を騙すという偏見をもたれている狐と子供たちとの心の出会いが主題となり、「どんぐりと山猫」では、子供の一郎が山の住人である山猫に招かれ、どんぐりの争いをおさめる。「鹿踊りのはじまり」では、手拭いを囲む鹿たちの様子に感動した嘉十に鹿の言葉が聴こえはじめるし、「なめとこ山の熊」でも谷の向こうの景色に見とれる熊の親子の会話を猟師の小十郎が聴きとる。  これらの物語では、村人の周囲に住む動物(および植物)という異質な者たちとの開かれた関係がテーマになっていると言うことができる。 ●また、「風の又三郎」の村の子供たちの心の中では、遠くからの転校生で都会的な風貌の高田三郎と遠くから風を運んでくる風の又三郎とが重ね合わせられる。やはり、村の子供たちにとって、高田三郎および風の又三郎は、神秘的な属性を帯びた異質な者である。とすると「風の又三郎」も、村の子供たちと遠くからやってきた異質な者とのコミュニケーションの物語として考えてみることができる。 -------------------------------------------------------------------------------- 子供から大人への過渡期の文学 -------------------------------------------------------------------------------- ●賢治の詩的な想像力の働き方の特徴のひとつに、キラキラとした清冽な透き通るようなイメージを好むという点がある。これは、夜空の星への強い憧れとなったり、雲間からのぞく一きれの青空やキラキラと流れる透明な水の流れとなったりする。初期の童話である「双子の星」から代表作のひとつである「銀河鉄道の夜」にいたるまで、星座や銀河を主題にした物語に大きな力が注がれている。  賢治は自分の作品を「少年少女期の終わり頃から、アドレツセンス中葉に対する一つの文学」だと言っているが、こうした清冽なイメージは、この時期の感受性に合致するのだと思われる。 ●アドレッセンスつまり子供から大人への過渡期にある若者は、しばしば大人の社会の秩序に同化することを嫌い、同世代の仲間たちとともに既存の秩序から離脱して、哲学的、倫理的、芸術的、政治的な懐疑や探究をぎりぎりのところまでつき詰めようとする。 ●「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニと友人のカムパネルラが夜空を走る銀河鉄道で旅をし、ジョバンニは二人でどこまでもどこまでも行きたいと願う。これはアドレッセンス期の若者たちが日常の生活圏から離脱し極限に向かう旅である。そして、この旅の過程では、「ほんとうの幸いとは何だろう」という倫理的な主題の探究が執拗になされる。このように「銀河鉄道の夜」は、子供から大人への過渡期にある若者たちの異次元への旅と極限的な探究の物語であると考えることができる。 ●鳥の仲間から嘲笑される地上での生活から逃れて、空をどこまでも飛んで星になろうと願う「よだかの星」の物語も、ある意味で「銀河鉄道の夜」と似た特徴をもつ。  現実の社会的関係で深く傷つけられた自己意識が天界への限りない飛翔に向け替えられる。 -------------------------------------------------------------------------------- 年 年齢 賢治の動向 世間の動き 明治29年 (1896年) 0 8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手県稗貫郡里川口村川口町 303番地(現花巻市豊沢町)に生まれる。当時家業は質・古着商。弟妹は、 トシ、シゲ、清六、クニ。仏教篤信の家庭で幼時より経文を唱える。 三陸大津波 明治36年 (1903年) 7 花巻川口尋常高等小学校に入学。童話を好み、石や虫を採集し、綴り方に長じていた。 東北凶作 明治38年 (1905年) 9 小学校3年生。担任の八木英三先生から(五来素川翻案、マーロー原作「家なき子」)、「海に塩のあるわけ」など童話や民話を読み聞かされる。 日露戦争終結 東北凶作 明治39年 (1906年) 10 小学校4年生。父の始めた「我信念講話」に参加。この頃、鉱物、植物、昆虫採集、標本作りに熱中。 東北凶作 明治40年 (1907年) 11 小学校5年生。担任はクリスチャンの照井真臣乳。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」と呼ばれる。 岩手豊作 明治41年 (1908年) 12 小学校6年生。綴り方「遠方の友につかはす。」「皇太子殿下を拝す。」を書く。 大演習で皇太子来盛 明治42年 (1909年) 13 2月、綴り方「冬季休業の一日。」を書く。 3月、花城尋常高等小学校卒業、成績優等で「高等小学読本」などを与えられる。 4月、県立盛岡中学校(現県立盛岡第一高等学校)入学。寄宿舎自彊寮に入る。鉱物採集に熱中。HELPのあだ名がつく。 伊藤博文暗殺 明治43年 (1910年) 14 中学2年生。6月、博物教師に引率されて岩手山初登山。その後たびたび登る。 9月、同室の親友藤原健次郎病死。 ハレー彗星出現 明治44年 (1911年) 15 中学3年生。哲学書を愛読。短歌の創作開始。教師への反抗的態度が見られる。 8月、盛岡市北山、願教寺の「仏教夏期講習会」にて島地大等の法話を初めて聴いたと推定。 花巻高等女学校開校 明治45年 大正元年 (1912年) 16 中学4年生。5月、仙台方面へ修学旅行。初めて海を見る。一人菖蒲田に病気の伯母平賀ヤギを見舞う。歎異鈔に感動。 花巻に電灯つく 東北大凶作 石川啄木没 大正2年 (1913年) 17 中学5年生。3月、新舎監排訴の動きにより全員退寮させられ、賢治は盛岡市北山、清養院(曹洞宗)に下宿。 第一次世界大戦勃発 大正3年 (1914年) 18 3月、盛岡中学校卒業。 4月、肥厚性鼻炎手術で岩手病院に入院。手術後発疹チフスの疑いのある高熱のため再入院、看護婦に片思い。父、看病中に倒れて入院。 5月末退院。島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」に感銘。家業を手伝いながら高等農林学校受験準備。 岩手軽便鉄道(現JR釜石線)開通(花巻〜晴山) 大正4年 (1915年) 19 1月、盛岡市北山の教浄寺(時宗)に下宿。盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第2部に首席で入学。寄宿舎自啓寮に入る。土、日は登山、鉱物標本採集。 アインシュタイン一般相対性理論発表 大正5年 (1916年) 20 盛岡高農2年生。 3月、修学旅行で東京、京都、奈良の農事試験場を見学。特待生に選ばれ授業料免除となる。 7月、関教授の下で盛岡地方の地質の調査。 7月末、上京してドイツ語講習を受ける。 9月、関教授の下で秩父地方の土性地質調査見学に参加。 ダゴール来日 大正6年 (1917年) 21 1月、家の商用で上京。 3月、再び特待生となり、旗手を命ぜられる。『校友会会報』に筆名「銀縞」で短歌「雲ひくき峠等」を発表。 4月、盛岡中学に入学した弟清六と盛岡市内に下宿。 7月、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌「みふゆのひのき」、短編「『旅人のはなし』から」などを発表。 9月16日、祖父喜助死亡。 ロシア革命 大正7年 (1918年) 22 父と卒業後の進路について対立。 2月、『アザリア』に断章「復活の前」を発表。親友保阪嘉内、退学処分となる。得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」提出。 3月、盛岡高等農林学校卒業。4月より研究生となる。徴兵検査、第2種乙種、徴兵免除となる。 6月末、肋膜炎となり1カ月静養。童話の制作を始める。『アザリア』に短編「峯や谷は」を発表。 8月、童話「蜘蛛となめくじと狸」、「双子の星」を家族に読んで聞かせる。 12月、妹トシ入院との報せで母と上京。翌年3月まで滞在。 シベリア出兵 第一次世界大戦終結 全国米騒動 大正8年 (1919年) 23 東京で人造宝石の製造販売の職業を計画するが、父の反対にあう。萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出会い感銘を受ける。 3月、退院したトシと共に帰郷。家事に従事。浮世絵版画の収集を始める。無署名「手紙」を配る。 ベルサイユ講和条約 大正9年 (1920年) 24 5月、盛岡高等農林学校研修生修了。関教授からの助教授推薦の話を辞退。短編「猫」「ラジュウムの雁」を書く。夏には短編「女」を書く。 11月、国柱会信行部に入会。父にも改宗をせまる。 日本初メーデー 大正10年 (1921年) 25 1月、無断で上京。国柱会本部で高知尾智耀に会う。本郷菊坂町75稲垣方に下宿。文信社の校正、筆耕の仕事に就きながら街頭布教や奉仕活動をする。 4月、上京した父と関西旅行。 8月、トシの病気の報に帰郷。 9月、『愛国婦人』に童話「あまの川」を掲載。 12月、稗貫郡立稗貫農学校(のち県立花巻農学校)教諭に就任。『愛国婦人』に童話「雪渡り」を発表。稿料5円を得る。「龍と詩人」、「かしはばやしの夜」、「鹿踊りのはじまり」、「どんぐりと山猫」、「月夜のでんしんばしら」、「注文の多い料理店」、「狼森と笊森、盗森」など多くの童話を創作。 原敬暗殺 大正11年 (1922年) 26 花巻農学校教諭。 1月、心象スケッチ「屈折率」、「くらかけの雪」を書き、「春と修羅」制作開始。「水仙月の四日」創作。 5月、「小岩井農場」を書く。 8月、「イギリス海岸」を書く。 9月、生徒6名と岩手山登山。農学校の生徒「飢餓陣営」を上演。 11月27日、妹トシ死去。「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」を書く。 ソ連邦成立 大正12年 (1923年) 27 花巻農学校教諭。 1月、上京し、弟清六に童話の原稿を出版社に持ち込ませるが断られる。 4〜5月、『岩手毎日新聞』に詩「心象スケッチ外輪山」、童話「やまなし」、「氷河鼠の毛皮」、「シグナルとシグナレス」を発表。国柱会機関紙『天業民報』に詩「青い槍の葉」他を発表。この年、「土神と狐」(推定)を書く。 関東大震災 花巻温泉営業開始 大正13年 (1924年) 28 花巻農学校教諭。 2月、童話「風野又三郎」の原稿筆写を教え子に依頼。「空明と傷痍」を書くことにより詩集「春と修羅」第二集の作品が始まる。 4月、心象スケッチ『春と修羅』(関根書店)を自費出版。 5月、生徒と北海道修学旅行。 7月、辻潤が「春と修羅」を賞賛。 8月、農学校生徒と「飢餓陣営」、「植物医者」、「ポランの広場」、「種山ケ原の夜」を上演、一般公開。 12月、イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。「銀河鉄道の夜」初稿成立。 レーニン没 大正14年 (1925年) 29 花巻農学校教諭。 1月、三陸旅行。 2月から森佐一、7月から草野心平と交わり、森編集「貌」、草野編集「銅鑼」に詩を発表。 8月、森佐一らと花城小学校で開かれた詩の展覧会に作品出品。 11月、東北大学の早坂一郎博士をイギリス海岸に案内してバタグルミ化石を採集。 12月、「冬(幻聴)」を発表。岩手日報に変名にて「法華堂建立勧進文」発表。 JOAKラジオ試験放送開始 大正15年 昭和元年 (1926年) 30 1月から3月にかけて、尾形亀之助編集『月曜』に「オツベルと象」、「ざしき童子のはなし」、「寓話猫の事務所」を発表。 3月末まで岩手国民高等学校で農民芸術論を講義。 3月31日、花巻農学校を依願退職。 4月1日より花巻町下根子桜で独居生活を開始。 5月、開墾や音楽の練習、レコードコンサートを始める。この頃より町内や近郊に肥料設計事務所を設け、肥料相談や設計を始める。 8月、土曜日に近所の子供に童話を読み聞かせる。妹クニらと八戸旅行。 羅須地人協会を設立し、11月頃から定期的に集会をもつ。 12月、チェロを持って上京。上野図書館やタイピスト学校で勉強。オルガン、チェロの練習、エスペラントを学習。29日、帰郷。 NHK設立 昭和2年 (1927年) 31 1月、『無名作家』4号に詩「陸中国挿秧之図」を発表。羅須地人協会で講義。 2月、『岩手日報』に羅須地人協会の記事が出て、社会主義運動との関係を疑われ、警察の事情聴取を受ける。 9月、『銅鑼』に「イーハトーブの氷霧」を発表。 12月、盛岡中学『校友会雑誌』に詩を発表。花巻温泉南斜花壇を作る。この頃までに肥料設計図2千枚を書く。 芥川龍之助自殺 昭和3年 (1928年) 32 2月、『銅鑼』に「氷質の冗談」を発表。 3月、『聖燈』に「稲作挿話」(未定稿)を発表。稗貫郡石鳥谷で肥料相談に応じる。 6月、東京で浮世絵や演劇鑑賞。伊豆大島旅行、「三原三部」を書く。日照りで稲作指導に奔走。 12月、急性肺炎になる。 第1回普通選挙 昭和4年 (1929年) 33 病臥続く。 4月、東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪、以後交際が始まる。病床に中国の詩人で、陸軍士官学校生が訪問。高等数学を勉強。   昭和5年 (1930年) 34 病状やや回復し、園芸に熱中。 9月、陸中松川の東北砕石工場を訪問。 10月、「まなづるとダァリア」校訂終わる。 11月、『文芸プランニング』に詩「遠足許可」等4編を発表。 世界経済恐慌 昭和6年 (1931年) 35 2月、東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受け持つ。 7月、『児童文学』第1冊に童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。 8月頃、「風の又三郎」の執筆進む。 9月、教え子の沢里武治に「風の又三郎」<どっどどどどう>の歌の作曲を依頼。20日、石灰宣伝で上京中に発熱、遺書を書く。28日、帰郷、自宅で病臥。 11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。 昭和恐慌 軍部勢力強化 昭和7年 (1932年) 36 3月、『児童文学』第2冊に「グスコーブドリの伝記」を発表。挿絵は棟方志功。 4月、仙台在住の民俗学者佐々木喜善が来訪。 8月、『女性岩手』創刊号に文語詩「民間薬」、「選挙」を発表。 11月、『女性岩手』に「祭日」、「母」、『詩人時代』に「客を停める」を発表。 満州国建国 5.15事件 昭和8年 (1933年) 37 3月、『天才人』に童話「朝に就ての童話的構図」を発表。 4月、『現代日本詩集』に「郊外」、「県道」を発表。 7月、『女性岩手』に「花鳥図譜七月」を発表。 8月、病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じる。 9月21日、法華経1千部を印刷して知人に配布するよう父に遺言して、午後1時半死去。9月23日、安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。法名「真金院三不日賢善男子」。 昭和26年7月、身照寺に改宗。 ドイツ、ヒットラー内閣成立 日本国際連盟脱退 http://www.city.hanamaki.iwate.jp/main/kenji/kenjifrm.htm  賢治は質屋の長男として生まれました。家業は農民たちに金を貸し、質草に取った古着をさらに別の農民に売るというものでした。この家業が後の賢治の心に重苦しい負担となって残りました。高等農林学校を卒業後、しばらくして花巻農学校の教諭になったときから賢治と農民との直接の関わりが始まりました。花巻農学校内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術という科目を担当したことから、自ら農民の中に入っていくことになります。そして、担当した農民芸術の講義の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要」となりました。概論の冒頭で賢治は「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と言っています。  賢治は農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。賢治は、農事講演や肥料相談のため、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。  賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、豊沢の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げました。 宮沢賢治と童話の出会いは、小学校三年の時の担任、八木英三の話してくれた童話に感動したことに始まります。後に自ら「自分の童話の源には先生のお話が影響している」と語っています。  賢治は、15才のころ短歌を作りはじめました。入院中の看護婦との初恋、父との対立など、ことあるごとに歌っています。  高等農林3年の時に同人誌「アザリア」を発行し、短編、短歌を発表しました。賢治の童話は、国柱会に傾倒して家を飛びだし、上京した時にもっとも多く書かれました。国柱会を創設した田中智学の「芸術を通じて道を説く、これ真の芸術なり」という文芸観が賢治の執筆活動をうながしたからとも言われています。  花巻農学校に勤務した時期、賢治は実にのびのびと振る舞いました。農学校の校歌にあたる精神歌(393KB)を始め次々に作詩作曲をおこない、いくつかの戯曲を書いて生徒たちに上演させたりしました。この時期は、賢治にとって、精神的に起伏や振幅に富んだもっとも心豊かな時間でした。  この頃すでに、短歌という形式から離れることを自覚していた賢治は、口語の自由詩「心象スケッチ」を書きはじめました。常に手帳と鉛筆を持って山野を駆け回りながら心に浮かんだ模様をものすごいスピードでメモしていた、というエピソードもあります。  賢治の生涯にとって一番大きな衝撃だった妹トシの死も、賢治の作品に大きな影響を与えました。  賢治の文学作品は、生涯の前半は短歌、童話の作品が多く、後半に詩(心象スケッチ)が目立っています。その他にも数々の俳句、戯曲などもあり、多彩な賢治の面がよくうかがえます。 賢治と仏教の出会いは、10歳の時に大沢温泉で父が主催した仏教会に参加した事から、という説もあります。幼いころ、伯母のヤギに子守歌のように聞かされていた「正信偈」や「白骨御文章」を仏前で暗唱したり、また、父も仏教会を主催するなど、仏教の素地は家庭環境から作られましたが、真に仏教に目覚めたのは、中学3年の時に浄土真宗の願教寺で開かれた夏期仏教講習会に参加したころでした。 以来、毎年参加して、住職で仏教学者の島地大等の法話に聞き入りました。  盛岡中学を卒業した後、病気、入院、将来の進路をめぐる父との対立とすっかりノイローゼ状態になっていた賢治は、島地大等編の「漢和対照妙法蓮華経」と出会い、衝撃を受け、のちの一生を決定するほどの契機になったと言われています。   トシの病気の際、看病のために行った東京で田中智学の講演を聞いたことがきっかけで、田中智学の創設した純正日蓮主義を唱える在家宗教団体、国柱会に入会し、死ぬまで会員を通しました。日蓮思想に傾倒していった背景には、浄土宗に深く帰依していた父との対立があったとも言われていますが、国柱会は、賢治と、賢治の作品の上に大きな影響を与えました。 宮沢賢治が昆虫採集や鉱物採集に興味を持ったのは、小学校4年生の頃と言われています。「石ッコ賢さん」とあだなを付けられ、豊沢川をさかのぼってずっと奥まで歩き回りました。  県立盛岡中学校に入学後、賢治は植物・鉱物採集と星座に熱中しました。近くの野山 を歩いて、熱心に植物や岩石標本を採集してまわり、Helpというあだ名がついたほど でした。  盛岡中二年の時に初めて岩手山に登頂してからは、後には一人でも登るようになり、中学、高等農林時代を通じて30回を超える岩手山登山を繰り返すほど岩手山を愛しました。  中学時代の賢治のもっとも得意な科目はもちろん、この博物学でした。賢治の人一倍強かった鉱物に対する興味や、岩手山、小岩井農場の雄大な自然、それらから得られた詩想は、後の作品の数々に散りばめられています。 作家名: 宮沢 賢治 作家名読み: みやざわ けんじ ローマ字表記: Miyazawa, Kenji 生年: 1896-08-27 没年: 1933-09-21 人物について: 岩手県花巻に生まれる。盛岡高等農林農学科に在学中に日蓮宗を信仰するようになる。稗貫農学校の教諭をしながら、詩や童話を書いた。『春と修羅』は生前刊行された唯一の詩集。農民の暮らしを知るようになって、農学校を退職し、自らも開墾生活をしつつ羅須地人協会を設立し、稲作指導をしたり、農民芸術の必要を説いた。

 

永訣の朝  

けふのうちに  

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ  

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ    

(あめゆじゆとてちてけんじや)  

うすあかくいつそう陰惨な雲から  

みぞれはびちよびちよふつてくる    

(あめゆじゆとてちてけんじや)  

青い専菜のもやうのついた  

これらふたつのかけた陶椀に  

おまへがたべるあめゆきをとらうとして  

ゎたくしはまがつたてつぱうだまのやうに  

このくらいみぞれのなかに飛びだした     

(あめゆじゆとてちてけんじや)  

蒼鉛いろの暗い雲から  

みぞれはびちよびちよ沈んでくる  

ああとし子  

死ぬといふいまごろになつて  

わたくしをいつしやうあかるくするために  

こんなさつぱりした雪のひとわんを  

おまへはわたくしにたのんだのだ  

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ  

わたくしもまつすぐにすすんでいくから     

(あめゆじゆとてちてけんじや)  

はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから  

おまへはわたくしにたのんだのだ  

銀河や太陽 

気圏などとよばれたせかいの  

そらからおちた雪のさいごのひとわんを……  

……ふたきれのみかげせきざいに  

みぞれはさびしくたまつてゐる  

わたくしはそのうへにあぶなくたち  

雪と水とのまつしろな二相系をたもち  

すきとほるつめたい雫にみちた  

このつややかな松のえだから  

わたくしのやさしいいもうとの  

さいごのたべものをもらつていかう  

わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ  

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも  

もうけふおまへはわかれてしまふ   

(OraOradeShitoriegumo)  

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ  

あああのとざされた病室の  

くらいびやうぶやかやのなかに  

やさしくあをじろく燃えてゐる  

わたくしのけなげないもうとよ  

この雪はどこをえらばうにも  

あんまりどこもまつしろなのだ  

あんなおそろしいみだれたそらから  

このうつくしい雪がきたのだ     

(うまれでくるたて      

こんどはこたにわりやのごとばかりで     

くるしまなあよにうまれてくる)  

おまへがたべるこのふたわんのゆきに  

わたくしはいまこころからいのる  

どうかこれが天上のアイスクリームになつて  

おまヘとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに  

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ             

1922.11.27