三島 由紀夫 (みしま・ゆきお)

【生年月日】1925年1月14日

【出生時間】21時10分 

【出生地】東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目)

【職業】作家、文学者(戯曲、評論等も多くする)

【作品】「仮面の告白」「潮騒」(新潮社文学賞)、「金閣寺」(読売文学賞)、「鏡子の家」「豊饒の海」、受賞多数、ノーベル文学賞候補に何度も上った。

【経歴】1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町2番地(現・新宿区四谷4丁目)に、父・平岡梓(あずさ)、母・倭文重(しずえ)の長男として誕生。本名平岡公威(きみたけ)。 1970年(昭和45年)45歳11月25日、「楯の会」学生長森田必勝ほか3名の同志と、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に至り、自衛隊の覚醒と決起を促すも果たさず、「天皇陛下の万歳」を三唱して古式に習い割腹自決。森田の介錯を受ける。辞世の句は「益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」「散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐」。12月11日、文化人・学生雄志による追悼の夕。1971年(昭和46年)1月14日、府中市多磨霊園の平岡家墓地に遺骨埋葬。24日、築地本願寺で葬儀を行う。葬儀委員長は川端康成。 同性愛者であった事は有名だが、既婚者である。 男の色気を描く才能だけでなく、色々な事に造詣が深かったが、割腹自殺で最期を迎えた為か、偏見も持たれている。

「宴のあと」裁判--- 1961年(昭和36年)3月、長編「宴のあと」がモデル問題を惹起し、15日、元外相有田八郎よりプライバシー侵害のかどで提訴される(「宴のあと」裁判http://www.mainichi.co.jp/eye/iwami/sunday/1999/0711.html)。裁判は1964年(昭和39年)8月、東京地裁第一審で敗訴、被告側は翌月直ちに提訴上告。1966年(昭和41年)11日、両陛下主催の秋の園遊会に招待される。28日、有田家との間に裁判上の和解成立。 (はてなダイアリーより)

三島由紀夫論については近年までに様々なものが発表されている。

それらは三島由紀夫が自分の死をもって、国の行く末を案じた憂国の士であると高く評価し、現在でも「憂国忌」などで、彼の思想と行動や死の意義を高く評価しているもの、もしくは彼の性格はアメリカ精神医学会の「精神障害の分類と診断の手引き」(DSM- W)で定義する自己愛人格障害の特徴に一致しており、幼少期の過保護な養育環境によるトラウマ(外傷体験)こそが、彼をして常に人に認められようとしたり、人の賞賛、評価を得ようとする行動を生じさせ、最終的には天皇という絶対的な保護者を理想化し、同一化することによって、憂国の士としての優れた価値ある重要な人物を自ら演出し、英雄として死を迎えるという空想(万能の自己)を実現しようとする行動に帰結したのだとするものまで様々である。

インターネット上には三島由紀夫に関する様々な情報が蓄積されており、それらが自由に手に入るため、ここではそうした人の三島由紀夫研究や収集資料類を参考にしながら、比較的労力をかけずに三島由紀夫の本質に迫ることが可能である。

筆者は自己愛人格障害という精神病理学的定義や、精神分析学的な解釈が三島由紀夫理解の最も優れた手段であると思っているが、一方で、インド占星術的にはどのような解釈が可能かを探ってみたい。

 

自己愛性人格障害  アメリカ精神医学会 DSM-IV  

誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。 以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

1、自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。

2、限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。

3、自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。

4、過剰な賞賛を求める。

5、特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。

6、対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。

7、共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。

8、しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。

9、尊大で傲慢な行勤 または態度。

 

 まず、ラグナと月が獅子座プールヴァパールグニーに在住しており、他人に自分を愉しませるという自己中心的なナクシャトラであることが分かる。 ナクシャトラの支配星が金星であり、快楽主義であり、人生を謳歌し、愉しむのに最も力を発揮するナクシャトラである。

獅子座ラグナの場合、金星が3、10室の支配星となり、踊り、パフォーマンス、芸能(3室)、職業(10室)というように金星が俳優のカラカになることが分かる。 実際、三島由紀夫は映画に俳優として出演したり、モデルのような仕事もこなしていることから、それは確認できる。

また3室は文筆、マスコミを表しているが、3室支配の金星が創作活動、知性、才能を表す5室に在住している。そして、5室にはムーラトリコーナ度数に非常に近い定座で強い木星が在住しており、高度な知性と学識、古典に通じた幅広い教養と才能に恵まれていることが分かる。 それらは創作活動に発揮され、3室、10室支配の金星とコンジャンクトすることで、文筆活動(3室)を職業にして、作品(5室)を次から次へと生み出すことができたのである。

また彼は賞や評価に恵まれており、新潮社文学賞、読売文学賞など、多数の受賞歴があり、海外でも高い評価を得て、ノーベル賞候補にもなったのであるが、それは5室の吉星群が11室にアスペクトしていることが考えられる。11室が強いと願望が成就し、賞や評価に恵まれ、収入や富にも恵まれるのであり、彼の人生がまさにそうであったことは確認されている。

また彼は3室で高揚する土星が5室定座の木星にアスペクトして、土星と木星の絡みを生じているのであるが、アイデアや理想、思想を具体的な文章の中に表現し、作品として構築することが出来る優れた実践的な能力、言語力、表現力を有していたようである。 彼の文章は技巧的で言葉の魔術師と言えるような言語を駆使したものであったようだが、これらは土星の形を創る能力が表されたものである。

また彼は東大法学部を出ているが、木星と土星の絡みは法律を表している。 法律は理想(木星)を実現するための法文、形式(土星)なのであり、彼は当初、内務省の官僚となったのであるが、初めから作家活動のみではなく、官僚経験もしたのは、この強い土星の絡みがあることが考えられる。 組織、制度(土星)に適応して、実務的な仕事をこなすことが出来るのである。

このように彼の5室には木星、水星、金星という吉星群が在住しており、非常に創造性に優れた芸術家であることが分かるのである。 5室には演劇、娯楽、教育、創作活動、恋愛など様々な象意があるが、彼の経歴を見れば、演劇の戯曲を書いたり、俳優をして、監督も務めたり、作家として作品を生み出す一方で、思想家として、政治的な発言や評論活動、対談、社会運動などにも参加して教育的、啓蒙的な活動にも取り組んでいる。 また乗馬をこなしたり、美輪明宏との恋愛沙汰があったり、など、娯楽、恋愛などの象意にも恵まれていることが分かる。 非常に5室の象意に恵まれているのである。

 

 然し、彼のこうした非常に恵まれた配置の中で、一点だけ、通常の人よりもずっと弱く、傷ついている箇所があるのである。 チャートを眺めていて、既にお気づきの方もいるかもしれないが、それは彼の太陽の弱さである。

彼のラグナロードの太陽は6室で敵対星座に在住しており、ラーフ/ケートゥ軸と絡んで傷つけられており、ヴァルゴッタマにも関わらずシャドバラが0.5ポイントしかなく、平均値の半分程度の力しか持たないのである。

つまり、自信を表す太陽が6室で迫害を受けており、ケートゥとコンジャンクトして、自信の欠乏、損失に悩まされているのである。 そして、この太陽はラグナロードであることから、人生の基本的な基調、テーマ、取り組むべき課題、活動分野を表しており、この自信の欠乏が、彼の人生全体につきまとう傾向となっているのである。 彼は生涯に渡って、自らの自信、存在意義、アイデンティティ、自我の確立といったようなテーマと格闘しなくてはならず、それらを迫害してくる敵と戦わねばならなかったのである。

この三島由紀夫の弱点を表すエピソードが数多くあるが、資料の中で赤字、青字にしているものがそうである。

それらを列挙してみると、以下のようなものである。

 

●昭和45年11月25日、自衛隊員の決起を促すために市ヶ谷自衛隊総監部に乗り込み割腹自殺を遂げた三島由紀夫率いる有志達の行動があまりにもお粗末だったという指摘。

この当時の描写として「自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説に耳を傾けるものはなかった」とあるように、この時の三島は英雄などでは全くなく聴衆から無視された哀れな存在でしかなかったようである。

彼はそんな聴衆の自分に対する過小評価に深く傷つき、聴衆に自分への注目を向けさせようと、必死に「静聴しろ」と怒鳴り、自分の自尊心、プライドを保つのに必死だった様子が痛々しいまでに伝わってくる。

こうした彼の行動は6室で敵対星座に在住し、ケートゥとコンジャンクトして弱くなった太陽を象徴しているのである。 つまり、指導力、リーダーシップが欠乏しており、それらは努力で補えるようなものでは決してないのであるが、彼は必死に英雄になろうとしているのが分かる。痛々しいまでに分かるのである。

 

●三島由紀夫が金箔付きの臆病者だったというエピソード。

彼は、日頃「尚武の精神」とか「文武両道」を強調していたそうであるが、まず精神分析的に、それらを強調する人の心理としては、必ず、それらに対する劣等意識があり、それを抑圧した上で他者にそれを投射しているということが言える。 つまり、他者の勇気の無さを批判することによって、自分の勇気の無さから目を逸らすのである。これらは抑圧と投影の機構が働いている。

その他に赤字にしてある部分を列挙すると、いずれも彼が臆病者であったことが明白である。

 

 「彼は嘘をついて兵役を逃れた「入隊拒否者」だったのである」

 「『逃げ足の早さでは脱獄囚にも劣らぬ』勢いで、一目散に駆けだしたのだ」

 「空襲警報が鳴り出すと真っ先に防空壕に逃げ込んだ」

 「家族で海岸に出かけても海が怖くて泳ごうとしなかった」

 「料亭の出す膳に蟹があると、恐怖のあまり顔色を変えた」

 「蟹という文字さえ嫌悪した」

 「映画監督(増村保造?)をひどく怖がって、撮影所長以下のお歴々に泣きつき、彼らに立ち会ってもらって最後の場面の撮影を完了した」

 「唯一の例外が新左翼系のいいだ・ももで、彼と対談するときには日本刀持参で席に臨んだ」

 「形勢が不利になると、話の途中で相手の頭上で白刃をぶんぶん振り回した」

 

太陽は勇敢さやプライド、力を表し、これらが傷ついている人は、非常に臆病になるか、もしくはそれを隠すために勇敢さや力を過度に示そうとするのである。その場合、その表現方法は病的な感じを帯びるのである。 割腹自殺で示した勇気も病的な勇気であり、その病的な表現は彼が実際には勇気がないことを示しており、勇気を示すための反動形成的な痛々しいまでの表現となるのである。

資料では、このような三島の臆病な性格を形成した原因として、祖母の夏子の過保護な養育を挙げている。

例えば以下のような保護は三島由紀夫の精神にとって、過酷な試練であったことが分かる。

 

 「祖母は三島が「危ないこと」をするのを恐れ、外出を禁じた。そして年上の女の子3人を友だちとしてあてがい、おはじきや折り紙で遊ばせた」

 「小学校に上がるようになると、帰宅した三島は祖母の用意しておいたオヤツを食べ、彼女の枕元で勉強する」

 「祖母は事故を恐れて学校行事の遠足にも三島を参加させなかった」

 「三島は物心ついたときから、祖母の命じることにはどんなことでも従った。彼は、幼い囚人だった」

 

過保護にされ自由を奪われることによって、現実と戦うことで成熟した自我を形成するのではなく、万能の自己という太古的な空想に退行するしかないのである。

資料によれば、三島由紀夫は幼い時にしばしば空想にふけったようである。

 

 「並の少年なら、このまま温和な人間になったかもしれない。しかし三島は想像力を駆使して外の世界に逃れ出て、そこで祖母から禁じられた危険な生活を楽しむ能力を持っていた」

 「彼は空想の中で勇士になり英雄になって、危険な冒険に挑戦する。が、その果てに勝利の栄光が待っているのではなく、悲劇的な死が待っている点が、大方の夢物語と違っていた」

 「5歳で読み書きができるようになった三島は、手にはいる限りのお伽噺を読んだけれども、王女たちはどうしても好きになれず、殺される王子 や死ぬ運命にある王子に興味を覚え、「殺される若者たちを凡て愛した」のだった」

 「祖母は三島が死にはしないかと恐れていたから、彼は逆に自分が殺されたり、戦死したりする場面に刺激を感じるようになった」

 「祖母が家系を誇り、宮家で過ごした過去を語り草にしたから、彼は無知で粗野な糞尿汲取人を愛したのだ」

 

この資料の記述で分かるように三島の空想は祖母の支配から脱出し自由になるための試みなのである。 つまり、祖母に支配され自分のことを自分で決められない惨めな自分を解放し、プライドと自信を取り戻そうとする試みなのである。それを現実の中で行うことができない為、空想の中でそれを成し遂げようとしているのである。 そして、これらは占星術的な観点では平均よりもはるかに弱く傷ついた太陽が原因であることが考えられる。

太陽は魂であり、自我であり、自己決定や意志の中心であり、自由意志の源泉であるが、その太陽が迫害され、傷つけられていることにより、彼はその自由を尊厳を取り戻そうと必死なのである。

つまり、”英雄として死を迎える”ことは彼の幼少期に起因するトラウマから生じており、1970年11月25日の市ヶ谷での割腹自殺も結局はこの祖母から自由になるための試みに過ぎないのである。

このように彼の行動は傷ついた太陽が動機づけとなっていることは明らかである。 恐怖から自由になり、大衆から賞賛を浴びて、自己の尊厳を取り戻す試みが割腹自殺であり、6室ウパチャヤの太陽なのである。

資料には以下のように書かれている。

 「特に勇敢とはいえなかった三島が、市ヶ谷の総監室で見事に腹を切り得たのはなぜだろう。当時の新聞報道によると、一緒に死んだ森田には「ためらい傷」があったが、三島にはそれがなかったという。彼のこの果敢さは、何時いかにして生まれてきたか、それを探ることがこの文章の主たる目的である。」

三島は臆病であったにも関わらず、何故このような果敢な勇気が生まれてきたのかを知りたいのだと資料の提供者は述べているのである。

インド占星術的に解釈すると、ウパチャヤは努力によって徐々に改善していく部屋であり、6室凶星(太陽、ケートゥ)は勝負強さや集中力、困難に立ち向かう強さを表している。 つまり、敵対星位で6室在住で傷つき、シャドバラ0.5ポイントで敵対惑星のケートゥとコンジャンクトして傷ついている太陽は、それでも最終的には、ためらわずに切腹するだけの勇気を示すことが出来たと考えることができる。

ナヴァムシャを見ると、ラグナロードの火星が3室で高揚し、10室支配の太陽、ラーフとコンジャンクトしている。3室にウパチャヤに凶星が集中しているのである。 つまり、太陽は行為(10室)を表しており、ラグナロードの火星が高揚して、行為(10室)の起爆剤となり、ラーフが同室する惑星の象意を極限まで引き出している為、貪欲に行為の成就に向かわせるのである。

そして、その行為は3室の努力、勇気、パフォーマンス、宣伝という分野において行われるのであり、彼の最後の市ヶ谷での自決パフォーマンスをよく表している。 3室ウパチャヤの凶星は努力や意思力を表し、また勇気を表している。

彼は本質的には勇気があり、人生の最終局面(人生の後半)ではそれを見事に示したと言うことが出来る。 然し、勇気を示したといっても彼の行動に病的な神経症的な動機づけがあるのは確かであり、実際、6室の太陽はプライド、自信が病気になっていることを示している。

彼は自信、自己尊敬、自己の尊厳に対する病気を患っており、人生全般に渡って、闘病生活をしたというのが、ラグナロード太陽が6室在住で表されている。

ここで再び、彼の幼少期の体験に遡るが、 三島が13歳になった時に祖父母とは別の借家に移り住むことになり、祖母の支配から脱したのであるが、「今度は父親の圧政下でくらすことになった」と書かれている。

 

父親との関係を表すエピソードを資料から引用すると以下のようなものがある。

 

 「三島の父は農林省の役人だったが、文学に興味を示し始めた息子が気に入らず、三島が小説本を読んでいると、それを取り上げて床に叩きつけたり、書きかけの原稿を引き裂いてゴミ箱に捨てたりした」

 「三島が可愛がっていた猫を捨ててしまうかと思えば、悪戯をした息子を木刀を持ち出して折檻しようとした」

 

これらは三島が自己表現しようとする際にその揚げ足を取る行為であり、自由に飛びたとうとする鳥の羽をもぎ取る残酷な行為である。

精神分析的にはこのような行為をする父親自身も幼少期に過保護や支配を受け、自由に人生を謳歌できなかった為に未熟な万能の自己を抱えており、自分の希望通りに振舞わない息子に対して、ちょうど母親の乳が自分が望む時に与えられずに怒り泣きわめく赤ん坊のように未熟な自己愛的憤激をして、その息子の振る舞いを妨害したのである。

これは太陽は父親のカラカである為、6室で傷ついていて弱い太陽は三島の父親を象徴しているのである。

山羊座の太陽は権威主義的で家父長的で冷酷な性質を示すものと思われるが、資料からすると、三島の父親は山羊座的な人物であることが分かる。

それでは三島の祖母の夏子が占星術的にどのようなカラカで表されるかを考えると、 彼女は三島の父親の母親であるため、三島のラシチャートの9室から4室目を祖母のラグナと考えることが出来る。

すると祖母のラグナは12室でラーフが在住しており、ラグナロードの月が2室に在住して、6室に金星、木星、水星が惑星集中している。 配偶者を表す7室には太陽、ケートゥが在住しているのが分かる。

資料を見ると、「・・・彼女は樺太庁長官まで勤めた夫を憎み蔑んで尻の下に敷き、息子夫婦を頭から押さえつけて一言も文句を言わせなかった」とあり、夫に対して、傲慢な態度であったことが分かる。

7室の太陽は対人関係、パートナーとの関係において、尊大で傲慢な態度を表している。

また尻に敷かれている夫は7室でケートゥとコンジャンクトする弱い太陽が象徴しており、三島の太陽は、彼自身だけでなく、家族や先祖など、様々な家系のカルマをも示していることが分かる。

1室に在住するラーフは、生後49日目の三島を両親の手から引き離し、自分の手元に移すという強欲で独裁的な祖母夏子をよく表している。1室には海王星も在住しているが、蟹座のラーフと海王星は過保護でしかも強欲な祖母の性格をよく表している。

また6室への惑星集中は病気を表しており、資料の中に「・・・彼女が夫から性病をうつされてやや精神に異常を来していたからであり、座骨神経痛に悩まされて騒音に過敏に反応したからだった」とあるように彼女は病気を抱えていたことが分かる。

また「夫を憎み蔑んで」とか「家族全員が腫れ物にさわるように祖母に接した」もしくは「息子夫婦を頭から押さえつけて一言も文句を言わせなかった」などの記述が示すように病気ばかりでなく、闘争的でトラブルが耐えない6室の象意をよく表している。

この祖母のラグナロードは月であるが、三島のラグナロードの太陽とは6/8室の関係であり、2人が敵対的な関係であることが分かる。 そして、何故、祖母とこれだけ密接な関係があったのかを考えると、祖母のラグナロードが三島のラグナに在住していることが考えられる。

三島にとっては12室支配の月がラグナに在住するのであり、隠遁的な母性的養育環境に親しむ配置である。

また心理的に引っ込み思案、控えめ、隠遁好きになるのもこの配置である。 そして、この月は自分を損失する、隔離する、監禁するという象意にもなっている。

月は母親のような養育する女性や少女を表すのであり、この月が母親や祖母との密接な繋がりを示すものであることが分かる。

幼少期に祖母の枕元で、おやつを食べ、勉強していた三島の状況をよく表している。

 

(ヴィムショッタリダシャー)

ヴィムショッタリダシャーを確認すると、 祖母夏子の影響下にあった12歳までがほぼマハダシャー金星期、太陽期と経過しており、 太陽期が終り、月期に移行すると同時に人生が大きく変化し、ペンネームを使い、作品を発表し始めて、作家としての活動が盛んになっている。

この太陽期の終りには三島の両親が祖母の家とは別のところに借家して、彼が祖母の支配下から逃れた時期である。この太陽期はまさに祖母の影響下にあって、彼の人格の基本が築かれた時期である。6室で太陽が非常に弱っていることがチャートに出ているのであり、それがまさに祖母の養育だったと言える。 太陽から12室目に惑星が集中しており、この太陽期は隠遁的、監禁的な環境であったことが分かる。

月期になると、徐々に作家としての成功に向けて創作活動に没頭していく様子が示されている。月から見ると、木星、金星、水星が5室に在住しており、月期には非常に創造的になることが分かる。

 

マハダシャー月期
年月日 出来事 ヴィムショッタリダシャー
1940年 平岡青城の俳号を使い、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩『凶ごと』を書いた。 太陽/ケートゥ(1940/3/20〜)⇒太陽/金星(1940/7/20〜)
1941年

公威(三島由紀夫)は「輔仁会雑誌」の編集長に選ばれる。小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水とは、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。なお、同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。

月/月(1941/7/20〜)
1942年 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する。 月/火星(1942/5/21〜)
1944年 高等科を首席で卒業し、恩賜の時計を拝領。東京帝国大学法学部法律科独法に入学する。 月/ラーフ(1942/12/20〜)⇒月/木星(1944/6/20〜)
1945年 群馬県の中島飛行機に勤労動員。『中世』を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く。本籍地で入隊試験を受けるが、折からひいていた風邪を、軍医が肺浸潤と誤診。即日帰郷となる。以降、三島は複雑な思いを持ち続けることになる。 月/土星(1945/10/20〜)
1946年 鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、『中世』『煙草』を渡す。「鎌倉文庫」の重役であった川端は、雑誌『人間』に『煙草』の掲載を推薦。これが文壇への足がかりをつかみ、以来川端とは生涯にわたる師弟関係となる。 月/土星(〜1947/5/21)
1947年1月 太宰治、亀井勝一郎を囲む集まりに参加。このとき、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」発言をしたとされる。これに対して太宰は「嫌いなやつはここにはいねぇよな」と返したという。 月/水星(1947/5/21〜)
1947年11月 東京大学法学部卒業。高等文官試験に合格し、大蔵省事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務するが、以降も小説家としても旺盛な作品の発表を行う。初の長編『盗賊』発表する。 月/水星(〜1948/10/19)
1948年 河出書房の編集者坂本一亀から書き下ろし長編の依頼を受け、9月には、創作に専念するため大蔵省を退職した。 月/ケートゥ(1948/10/19〜)
1949年7月 書き下ろし長編『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーショナルを呼び、高い評価を得て作家の位置を確立した。 月/金星(1949/5/20〜)
1950年 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表 月/金星(〜1951/1/19)
1951年 『禁色』を発表。戦後文学の旗手としての脚光を浴び、旺盛な活動を見せる。 月/太陽(1951/1/19〜)

 

月期が終わると、マハダシャーが火星期にシフトするが、ここでも三島の人生に大きな転機が生じている。

まず、1951年に朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発しているのだが、火星は9室の支配星で海外旅行を表している。 火星はラージャヨーガカラカであり、この火星期には三島の人生上の躍進が期待出来る時期であるが、実際、彼は火星期に入ってから、代表作を次々に発表し、文壇での地位を確立している。

 

マハダシャー火星期
年月日 出来事 ヴィムショッタリダシャー
1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。 火星/火星(1951/7/21〜)
1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。 火星/土星(1953/12/10〜1955/1/19)
1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。 火星/水星(1955/1/19〜1956/1/16)
1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(〜1958年ごろまで)。

火星/ケートゥ(1956/1/16〜)⇒火星/金星(1956/6/13〜)

1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。 火星/太陽(1957/8/14〜)

 

その次のラーフ期には長編『鏡子の家』を発表するが、この作品は文壇から無視され、「失敗作」と酷評を受けている。

ラーフは12室に在住して12室の支配星のように振舞うが、トラブルの6室に木星、金星、水星が在住している。 実際、『宴のあと』で他人のプライバシー問題で提訴され、三島と出版社側は敗訴して賠償している。 また『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件なども起こし、政治や思想と関係したトラブルに巻き込まれている。

 

マハダシャーラーフ期-1
年月日 出来事 ヴィムショッタリダシャー
1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』発表。 ラーフ/ラーフ(1958/7/20〜)
1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。 ラーフ/ラーフ
1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。 ラーフ/ラーフ⇒ラーフ/木星(1961/4/2〜)
1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。 ラーフ/木星
1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団。 ラーフ/土星(1963/8/26〜)

 

1965年にはノーベル文学賞有力候補になっているが、この時のダシャーはラーフ/土星期である。

土星は3室ウパチャヤで高揚しており、非常に強い配置であるが、ノーベル文学賞は結局、川端康成が受賞し、彼は受賞を逃したのであり、ノーベル文学賞の有力候補となる栄誉だけに終わっている。

この時のマハダシャーがラーフであり、次のアンタル水星期はラーフから見て6室目であり、ラーフは12室に在住している為、貪欲に賞を獲得したい時期であってもノーベル賞を受賞できるほどの強いダシャーではないことが分かる。

そして、ラーフ期に入ってから、人の賞賛や注目を集めようとするパフォーマンスが激しいようであるが、この頃はおそらく彼が地位、名声を築いた火星期ほど、人は彼のことを注目しなくなっていた時期である。

『鏡子の家』が不評に終わった辺り(つまり、マハダシャーラーフにシフトした時)から、彼は大田区馬込に派手なビクトリア調コロニアル様式の新居を建築したり、ボディビルに加えて剣道を始め、大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり、写真家細江英江の『薔薇刑』の被写体モデルになったりと、露出的なパフォーマンスに凝るようになっている。

彼はおそらくラーフ期に入ってから、落ち目に入ってきて世間の注目や賞賛を失っているのを感じ、注目を浴びるために様々なパフォーマンスを始めたのではないかと思われる。

※こうしたパフォーマンスをする人の心理として、サッカーの三浦知良選手がワールドカップの代表候補から落選した時に髪の毛を金髪にして、記者会見に臨んだように、今まで注目を浴びていた人が注目を失い落ち目を感じると、自分を派手に飾って、注目を得ようと虚勢を張る心理があるのである。

然し、日本での評価や注目を失う代わりに、この時期、三島の文学は、ヨーロッパやアメリカなど海外で評価されるようになったようである。

この時期、彼の文学は舞台上演も多く行われ、ノーベル文学賞の候補にもなり、世界的評価を確立したのであるが、ラーフは海外を表す12室に在住しており、マハダシャーラーフ期に海外で評価を受け始めたというのはよく理解できるのである。

 

マハダシャーラーフ期-2
年月日 出来事 ヴィムショッタリダシャー
1966年12月 民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループと交遊を含めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。 ラーフ/水星(1966/7/2〜)
1967年 民兵組織による国土防衛思想の最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、F104戦闘機への試乗や『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊将校の山本舜勝とも交遊した。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。 ラーフ/水星
1968年 第三部『暁の寺』(〜1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。 ラーフ/水星
1969年 戯曲『椿説弓張月』『癲王のテラス』を発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。同年には、『論争ジャーナル』グループと決別し、「楯の会」はのちの三島事件の中心メンバーとなる。 ラーフ/ケートゥ(1969/1/18〜)
1970年11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバーとともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を巻き、演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。 ※なお、決起当日の朝、担当編集者に手渡された『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話の脱稿日は、同日となっていた。 ラーフ/金星(1970/2/6〜1973/2/6)

 

ラーフ期の途中から、彼のパフォーマンスが政治、思想活動に偏りはじめ、パフォーマンスの質が変わってきている。

この頃、おそらく、三島は彼の中での「天皇主義」を確立したのであり、それは注目を失って傷ついた彼が、天皇を理想化し、天皇と同一化することによって、彼の中での空虚感、存在の貧しさを埋め合わせようとしたのである。

絶対的に強く理想的な天皇と自らを同一化することによって、自分自身も絶対的に強く理想的な存在になれるのである。

三島事件での彼の行動は、実際的な緻密なクーデターの計画が練られたのではなく、彼の心理的な動機に起因する神経症的な欲求を満たす儀式行為のようであり、それは、彼の名誉を回復し、傷ついた自分の尊厳を取り戻す為の儀式行為であった。彼は天皇の名誉を回復し、自衛隊を動かして、天皇中心の国家に回帰しようと図ったのであるが、それはほとんど、空想に近い現実感を伴わないものだった。

そして、彼は最終的に英雄として死を迎えなければならなかった。その死は崇高であり、彼を取り巻く世間の不評、無視などの低い評価---惨めな自分---を一気に挽回し、栄光の頂点に、力の頂点に到達させるものである。祖母に監禁されていた幼い頃に見た空想---自由を得るために危険を顧みず最後に英雄として死を迎えるという空想---と同じものであった。

彼は天皇と同一化して、英雄として死ぬことによって、彼が生まれてきてからずっと持ち続けてきた欲求(空虚感---太陽の弱さ)をついに最高の形で実現したのである。

英雄になり、そして、天皇という究極に美しく強く理想的な存在と同一化したのである。彼は自己愛人格障害の最も究極の形を表現してくれたのであり、彼の行動は究極のナルシズムから生じたものである。

 

もし、出生時間が正しければ、彼が割腹自殺を遂げたのは、ラーフ/金星期である。

金星はラグナ、月から3、10室の支配星(俳優のカラカ)で5室(演技、舞台)に在住し、ラーフから6室に在住して、マラカの水星(2室支配)と土星(7室支配)と絡んでいる。

もし、出生時間が正しければ、彼は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部の総監室バルコニーで、自決パフォーマンス(金星)を行ったと言う解釈も可能である。

(※各出来事の生じたアンタルダシャーを細かく分析していないため、出生時間の修正が必要になる可能性あり)

 

 精神分析的な解釈は非常に分かり易く、人の人物像を鮮やかに浮き彫りにするが、幼少期の体験(トラウマ)を決めるのが、まさにカルマであり、そういった意味で、精神分析は心のメカニズムを明らかにし、インド占星術は心のメカニズムを生み出した具体的な事象を明らかにすると思われる。両者は扱う対象が全く異なるのであり、同一人物に対して、両者をそれぞれに独立して用いて、同じ結論に導くことができそうである。

 

(資料)

三島由紀夫 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、男性作家、劇作家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ、通称こうい)。東京市四谷区生まれ。学習院初等科から中等科および高等科を経て東京帝国大学法学部卒。卒業後、大蔵省国民貯蓄課に入省したが9ヶ月で退職、作家として独立した。 代表作は『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』、『豊饒の海』。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。唯美的な作風で知られる。

その生涯

出身

三島由紀夫こと、平岡公威は、1925年1月14日東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。なお、三島の満年齢と昭和の年数は一致する。父・平岡梓、母・倭文重の長男であった。父・梓は、農商務省(のちの農林省)勤務。母・倭文重は、東京開成中学校の校長で漢学者の橋健三の次女。家族は、妹・美津子(1928年生まれ)、弟・千之(1930年生まれ)。祖母・夏子の父は大審院判事の永井岩之丞であり、母は常陸宍戸藩藩主、松平頼位の三女高。祖母は、その長女として生まれ、後に有栖川宮熾仁親王の行儀見習いとして仕える。祖父の平岡定太郎は兵庫県印南郡志方町(現・兵庫県加古川市志方町の農家出身。東京帝国大学法科大学(英法)を卒業し内務省官僚となり、福島県知事、樺太庁長官を勤めた。公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は、夏子の影響下におかれている。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、貴族趣味をふくむ過保護的な教育を公威に行った。男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使ったいう。家族の中で、夏子はヒステリーなふるまいを起こすこともたびたびだった。また夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家などの作家的素養を培った。

幼少年期 <1925年(大正14年)〜1940年(昭和15年)> 

1931年に公威は、学習院初等科に入学する。当時学習院は、華族中心の学校で、平岡家は平民だった。大名華族意識のある祖母の意向と言われる。高学年時から、同学友誌「輔仁会雑誌」に詩や俳句を発表する。1937年中等科に進むと、文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年には同雑誌に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)〜秋彦の幼き思ひ出』『座禅物語』が掲載された。1939年、祖母・夏子が他界。また同年第二次世界大戦が始まった。またこのころ、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会う。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年、平岡青城の俳号を使い、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩『凶ごと』を書いた。このころの心情は、のちに短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。このころオスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』『古事記』などの古典文学も愛読した。

戦時下の思春期 <1941年(昭和16年)〜1945年(昭和20年)> 

1941年、公威は「輔仁会雑誌」の編集長に選ばれる。小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水とは、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。なお、同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。また清水に連れられ、保田與重郎と出会い、以降、日本浪曼派影響下の詩や小説を発表する。1942年、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する。1943年、林不二馬を知り、以降親しく交際する。また同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。1944年、高等科を首席で卒業し、恩賜の時計を拝領。東京帝国大学法学部法律科独法に入学する。出版統制の中、「この世の形見」として、『花ざかりの森』刊行に奔走。10月に出版された。本籍地の兵庫県加古川市(旧印南郡加古川町)で、徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。同級生の大方が特別幹部候補生として志願していたが、三島は兵卒として応召するつもりであった。1945年、群馬県の中島飛行機に勤労動員。『中世』を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く。本籍地で入隊試験を受けるが、折からひいていた風邪を、軍医が肺浸潤と誤診。即日帰郷となる。以降、三島は複雑な思いを持ち続けることになる。このころ『和泉式部日記』、上田秋成などの古典、イェーツなどを乱読する。このころ保田與重郎を批判的に見るようになった。同年『エスガイの狩』などを発表。遺作を意識した『岬にての物語』を起稿する。8月15日、敗戦。三島の「感情教育の師」とされる蓮田善明が陸軍中尉としてマレー半島で終戦を迎え、8月16日にピストル自殺。10月23日には、妹・美津子がチフスで17歳の若さで死去。このころ、のちに『仮面の告白』で描かれている恋人とも別れている。

文壇デビューと『仮面の告白』 <1946年(昭和21年)〜1951年(昭和26年)> 

1946年、鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、『中世』『煙草』を渡す。「鎌倉文庫」の重役であった川端は、雑誌『人間』に『煙草』の掲載を推薦。これが文壇への足がかりをつかみ、以来川端とは生涯にわたる師弟関係となる。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』がようやく雑誌『群像』に掲載された。1947年1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集まりに参加。このとき、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」発言をしたとされる。これに対して太宰は「嫌いなやつはここにはいねぇよな」と返したという。11月、東京大学法学部卒業。高等文官試験に合格し、大蔵省事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務するが、以降も小説家としても旺盛な作品の発表を行う。初の長編『盗賊』発表する。このころ林房雄と出会う。1948年、河出書房の編集者坂本一亀から書き下ろし長編の依頼を受け、9月には、創作に専念するため大蔵省を退職した。1949年7月、書き下ろし長編『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーショナルを呼び、高い評価を得て作家の位置を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年に、『禁色』を1951年に発表。戦後文学の旗手としての脚光を浴び、旺盛な活動を見せる。また1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発した(翌年8月帰国)。

自己改造と『金閣寺』 <1952年(昭和27年)〜1957年(昭和32年)> 

世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見した三島は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼした。1955年頃からはじめたボディビルに代表される「肉体改造」。そして森鴎外に代表される古典的な「文体改造」である。その双方を文学的に昇華したのが1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした、長編小説『金閣寺』(1956年)と言え、三島文学の代表作となった。かたや三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。タイトルは流行語ともなり、映画化作品も多数制作され、文字通り文壇の寵児となる。また戯曲『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲発表も旺盛で、文学座をはじめ演出、出演も行った。

世界的評価と『鏡子の家』 <1958年(昭和33年)〜1964年(昭和39年)> 

1959年に三島は、書き下ろし長篇『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが、本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男は「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じた。とはいえ文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇。『百万円煎餅』(1960年)、『剣』(1963年)などの短篇。『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。一方プライベートでは、1958年に、画家・杉山寧の娘、瑤子と結婚。大田区馬込にビクトリア調コロニアル様式の新居を建築する。また、このころ、ボディビルに加えて剣道を始め、大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演(1960年)したり、写真家細江英江の『薔薇刑』の被写体モデル(1963年)になったりと、肉体を露悪的積極的に自らさらした。またこの時期は、三島の文学がヨーロッパやアメリカなど海外で評価されるようになり、舞台上演も多く行われた。以降、三島の世界的評価は固定される。三島は、国内での冷遇された評価に対し、海外を意識し、理解者を求めた形跡がある。なお、1961年に発表した『憂国』は作者の意図を超えて、のちの作者自身に大きな影響を与えた一作となる。一方『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年〜)。深沢七郎『風流夢譚』をめぐる嶋中事件で右翼から脅迫状(1961年)。『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(1963年)などと、文学と政治・思想にまつわる事件も多かったが、晩年のファナティックな政治思想ほどの関わりは持たなかった。1962年には、のちの『豊饒の海』の構想が固まってもいる。

楯の会と『豊饒の海』 <1965年(昭和40年)〜1970年(昭和45年)> 

自らライフワークと称した輪廻転生譚『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年から連載開始された(〜1967年)。同年には『サド侯爵夫人』も発表、ノーベル文学賞有力候補が報じられ、以降引き続き候補となった。同時に主演・監督作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年〜1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。1966年12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループと交遊を含めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年には、その最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、F104戦闘機への試乗や『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊将校の山本舜勝とも交遊した。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。1968年、第三部『暁の寺』(〜1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。1969年、戯曲『椿説弓張月』『癲王のテラス』を発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。同年には、『論争ジャーナル』グループと決別し、「楯の会」はのちの三島事件の中心メンバーとなる。1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバーとともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を巻き、演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。なお、決起当日の朝、担当編集者に手渡された『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話の脱稿日は、同日となっていた。

略年譜

1925年(大正14年) 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。

1931年(昭和6年) 学習院初等科に入学。

1937年(昭和12年) 学習院中等科に進む。同学友誌「輔仁会雑誌」に誌『秋二編』が掲載される。坊城俊民と出会う。

1938年(昭和13年) 「輔仁会雑誌」に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)』『座禅物語』が掲載される。国語教師として赴任した清水文雄と出会う。オスカー・ワイルドやジャン・コクトーを愛読する。

1940年(昭和15年) 詩人川路柳虹に師事する。詩『凶ごと』を書く。東文彦と出会う。伊東静雄を愛読する。

1941年(昭和16年) 『花ざかりの森』を『文芸文化』(同人は、清水文雄、蓮田善明、池田勉、栗山理一ら、斉藤清衛門下生)に掲載。ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。「輔仁会雑誌」編集長となる。保田與重郎と出会う。

1942年(昭和17年) 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊。

1943年(昭和18年) 林不二馬を知る。東文彦死去。

1944年(昭和19年) 高等科を首席で卒業。東京帝国大学法学部法律科独法入学。『花ざかりの森』刊行。徴兵検査第2乙種合格。

1945年(昭和20年) 『中世』『エスガイの狩』発表。

1946年(昭和21年) 川端康成の推薦で、自ら創刊した雑誌『人間』に『煙草』発表。『岬にての物語』発表。

1947年(昭和22年) 東京大学法学部卒業。大蔵省事務官に任官。『盗賊』発表。

1948年(昭和23年) 椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らとともに『近代文学』の同人となる。創作に専念するため、大蔵省を依願退職。

1949年(昭和24年) 書き下ろし長編『仮面の告白』を発表。高い評価を得て作家の位置を確立する。

1950年(昭和25年) 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表。

1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。

1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。

1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。

1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(〜1958年ごろまで)。

1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。

1958年(昭和33年) 画家杉山寧の娘、瑤子と結婚。剣道を始める。

1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』発表。

1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。

1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。

1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。

1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団。

1964年(昭和39年) 『絹と明察』発表。文学座を退団したメンバーと劇団NLTを結成。

1965年(昭和40年) 『サド侯爵夫人』発表。『豊饒の海』第一部『春の海』連載開始。主演・監督作品『憂国』撮影、翌年上映。ノーベル文学賞有力候補に。

1966年(昭和41年) 『英霊の声』発表。

1967年(昭和42年) 第二部『奔馬』連載開始。自衛隊に体験入隊する。F104戦闘機に試乗する。「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。空手を始める。

1968年(昭和43年) 第三部『暁の寺』連載開始。「楯の会」結成。中村伸郎らとNLTを退団し劇団浪漫劇場を旗揚げ、「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」などを上演。

1969年(昭和44年) 『文化防衛論』発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。

1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。割腹自殺する。

三島事件

1970年11月25日、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバーと共に「総監に刀を見せる」と訪れ、自慢の名刀を益田兼利総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取って籠城、バルコニーで自衛隊決起を促す演説をしたのち割腹自殺した。(原因は三島自身が演説している最中「三島ーっ。頭を冷やせ!!!!」「何やってんだバカヤローっ!!!!」と自衛隊員から野次を飛ばされたことに愕然としたからだといわれる。)介錯は森田必勝および古賀浩靖。最初は森田が斬りつけたものの二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた。なお古賀浩靖は服役後、谷口清超・生長の家総裁の娘と結婚し、荒地浩靖の名で宗教活動を行っている。

『宴のあと』裁判

三島は、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告人でもある。 1961年3月15日、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えが東京地方裁判所に起こされた。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に判決が出て、三島側は損害賠償の支払いを命じられた。

雑知識

三島自身は「受験に失敗したことがない」と偽っていたが、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島の母方の祖父(橋健三)は開成中学の校長で、三島の父(平岡梓)も開成中学→一高→東大→農商務省という経歴であり、由紀夫も開成中学にあこがれていた。受験失敗の事実をひた隠しにしていたのは、開成中学へのコンプレックスに悩まされていたからであるといわれる。 ボディビルを始める以前はボクシングをしていたが、その動機が単に立派な肉体が欲しいというものだと安部譲二に見透かされたので止めてしまったという話がある。またボディビルに熱中するきっかけは、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたためといわれる。 三島由紀夫は日本の作家の中でも特に海外での評価が高く、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画'Mishima: A Life In Four Chapters'も製作されているが、日本での公開は行われていない。 三島が監督・脚本・主演全てを行い、後の自決を予感させるような内容の映画「憂国」は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年に発見されたという。 また、忌日は憂国忌と呼ばれ、偲ぶ集いが行われる。

作品リスト

文学

花ざかりの森

夜の仕度

魔群の通過

仮面の告白

鏡子の家

潮騒(新潮社文学賞)

金閣寺(読売文学賞)

十日の菊(読売文学賞)

戯曲

「サド侯爵夫人」(芸術祭演劇部門賞)

豊饒の海

文化防衛論

サド侯爵夫人

わが友ヒットラー

葉隠入門

不道徳教育講座

美しい星

複雑な彼

 

 

 

資料については以下のサイトから引用させて頂いた。

筆者は特に三島由紀夫の研究者ではないため、彼の生涯の事実関係を把握するには既に彼について研究を重ねている方の研究資料を閲覧、引用するのが最も手っ取り早いと思われるのである。そして、その事実関係にインド占星術的な視点からそれを分析していけば研究の時間を最も短縮できる。

特にHPの主催者が誰かは分からないが、以下に引用している三島由紀夫についての評論文は、読んで見ると、それ自体、優れた三島論のようで、既に主催者の心理学的な優れた洞察に満ちているが、筆者は、その事実関係(素材)を用いるために以下の評論を引用している。 (秀吉より)

 

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http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/misima.html 三島由紀夫について書かれた評論

http://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/bungaku/mishima/ 三島 由紀夫 CyberMuseum

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三島由紀夫 1925年1月14日21時10分 東京

1925年1月14日  三島 由紀夫 (みしま・ゆきお) 

【作家】 〔東京都〕 ◆1925年(大正14年) 【1月】 14日、東京市四谷区永住町2番地(現・新宿区四谷4丁目)に、父・平岡梓(あずさ)、母・倭文重(しずえ)の長男として誕生。

昭和45年11月25日 日本のみならず世界中を揺 るがせた三島由紀夫、市ヶ谷自衛隊駐屯地での自決の日

 

【はじめに】

老子を読んでいると、三島由紀夫が反面教師として浮かんでくる。 老子はエネルギーをシフトダウンして、ゆっくり生きようと提唱しているのに、三島はエネルギーをトップのところまでシフトアップして、全速で突っ走る生き方をしたからだ。

老子を開けば、、次のような章句が並んでいる。

 

木強ければ折る

物壮なれば老ゆ

善く士たるものは武ならず

鍛えてこれを鋭くすれば、長く保つべからず

 

いずれも三島に対する警告の言葉みたいではないか。

だが、反老子的な生き方をしたお陰で、彼の周辺が活気に満ちていたことは間違いない。

社交上手だった彼の家には、海外からも客が押し寄せ三島との歓談を楽しんだ。

彼の生き方が、そうした千客万来の賑やかな日常を生んだのである。

私はこれから三島由紀夫の生涯を概観するけれども、こちらは何しろ生来の老子愛好家だから、以下の拙文が三島ファンの逆鱗に触れるだろうことはほぼ確実である。

 

【討ち入り】

三島由紀夫が自衛隊員の決起を促すために市ヶ谷自衛隊総監部に乗り込んだのは、昭和45年11月25日であった。

それまでに三島はかなり入念な準備を積んでいたように見える。市ヶ谷に同行した「楯の会」の学生らの選定をその年の4月中に済ませているから、少なくとも決行の半年前には具体的な準備に入っていたのである。

6月13日には、同行する学生たちと計画の具体的な内容を決めている。

市ヶ谷駐屯地に赴いて東部方面総監を人質にした上で、自衛隊員の決起を促し、国会を占拠するという計画である。

その後も彼らは頻繁に顔を合わせて計画に手直しを加え、11月25日の決行の日に至っている。

しかし、それにしては決行当日の彼らの行動はあまりにもお粗末だった。

猪瀬直樹の「ペルソナ(三島由紀夫伝)」、ヘンリー・スコット=ストークスの「三島由紀夫 死と真実」などに依拠しながら、当日の状況を再現してみよう。

総監室に乗り込んで益田兼利陸将を縛り上げるところまでは計画通りに進んだ。

だが、廊下から総監室に入るドアをバリケードを築いて封鎖したものの、隣りの部屋に通じるドアを閉鎖することを怠ったため、ここから幕僚らの突入を招いてしまう。

三島はこのとき、日本刀を振るって獅子奮迅の働きを見せ、何人もの幕僚に斬りつけて重傷を負わせている。

自衛官らをバルコニー前に集結させることにも成功した。だが、ここにも誤算があった。

この日、900人の精鋭部隊は富士演習場に出かけていて留守で、残っていたのは通信・資材・補給などの実戦とは縁のない留守部隊だった。

集まった自衛官の前に、同行した学生がバルコニーから垂れ幕を巻きおろした。しかし白地の布に書き連ねたアピールの檄文は、細字で書かれていて隊員たちには読みとれない。

ここは、太字でスローガンだけを箇条書きにしておくべきだったのである。 ::::::::バルコニー上から訴える三島 続いて学生の手でビラが撒かれた。

だが、束のまま放り投げられたから、ビラは固まったままドスンと地に落ち、自衛官の手にほとんど渡ることなく終わった。

もし全員の手にビラが渡ったとしても、あまり効果はなかったちがいない。

今読んでみても、檄文には三島らしい華がないのだ。

やがて、三島がバルコニーに登場する。 このころになると事件を聞きつけたテレビ局などのヘリコプターが上空を旋回し、騒然とした雰囲気になった。

これでは集結した全員のところまで三島の声は届かない。自衛官への演説を1時間近く予定していながら、彼らはマイクを手配することをしなかったのである。

自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説に耳を傾けるものはなかった。

苛立った三島は、「静聴しろ、静聴ツ」とか、「静聴せい、静聴せい、静かにしろ」と叫ぶ。

しかし聴衆からは、「聞こえねえぞ」「ばかやろう」「下へ降りてきてしゃべれ」という罵声が返ってくるばかりだった。

三島は、最後に蒼白になって訴えた。 「諸君の中には一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」 三島は10秒ほど待った。

「一人もいないんだな。よし、俺は死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(ゆったりした口調で)それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳、万歳、万歳」 バルコニーから総監室に戻った三島は、誰にともなく「仕方がなかったんだ」とつぶやいて、切腹の準備を始めた。

上着を脱いで上半身裸になった彼は、「やあっ」と廊下にまで届く凄まじい気合いを入れて、短刀を臍の下4センチのところに突き刺した。

介錯を命じられていた森田必勝は、次に自分が切腹することになっていたから動揺していた。

振り下ろした刀は三島の肩を切り裂いただけだった。二回目も失敗した。森田は最後の力を振り絞って三回目の刀を振り下ろしたが、やはり三島の首を切り落とすことはできなかった。 「浩ちゃん、代わってくれ」 森田の差し出した刀を剣道の心得がある古賀浩靖が受け取って、一刀のもとに三島の首を切断した。

こうして「天才作家」三島由紀夫は45年の生涯を終えたのだった。まさに壮絶な死であった。  

               

【臆病者】

壮烈な死を遂げた三島は、日頃「尚武の精神」とか「文武両道」を強調していたが、さほど勇気のある男ではなかった。

彼が金箔付きの臆病者だったという証言がたくさんあるのである。

三島由紀夫は、林房雄との対談で学生時代に書いた遺書について大いに弁じている。

昭和20年2月15日、軍隊への入隊命令を受けた時に彼が書き残した遺書は、以下のような文面になっている。    

 

遺書 

平岡公威

一、御父上様  御母上様   恩師清水先生ハジメ   學習院並二東京帝國大學   在學中薫陶ヲ受ケタル   諸先生方ノ   御鴻恩ヲ謝シ奉ル

一、學習院同級及諸先輩ノ  友情マタ忘ジ難キモノ有リ 諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー

一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ 御父上、御母上二孝養ヲ尽シ 殊二千之ハ兄二績キ一日モ早ク  皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ   

皇恩ノ万一二報ゼヨ 天皇陛下萬歳

 

末尾を「天皇陛下萬歳」で結んだこの遺書に関連して、三島は次のように語るのだ。

「それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。

もう二度と来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。

いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。僕は少なくとも、戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません」

三島のこの言葉に嘘はないかもしれない。実際、戦争中の彼は天皇のため、皇国のために、命を捨てる覚悟でいたのである。

しかし、三島は入隊前の身体検査で軍医が「この中に肺の既往症がある者は手を挙げろ」と言ったときに、サッと手を挙げるのだ。

彼は嘘をついて兵役を逃れた「入隊拒否者」だったのである。 この時の自身の振る舞いについて、彼は「仮面の告白」に次のように書いている。

「何だって私はあのようにむきになって軍医に嘘をついたのか? 何だって私は微熱がここ半年つづいていると言ったり、肩が凝って仕方がないと言ったり、血痰が出ると言ったり、現にゆうべも寝汗がびっしょり出たと言ったりしたのか?」 必死になって嘘をついたお陰で彼は、入隊を免除され帰宅を許された。

検査場の門を出るやいなや、三島は付き添ってきた父親と一緒に脱兎のごとく逃げ出した。

「さっきの決定は取り消しだ」と言われはすまいかと、父親の表現によれば「逃げ足の早さでは脱獄囚にも劣らぬ」勢いで、一目散に駆けだしたのだ。

三島の恐怖症については、空襲警報が鳴り出すと真っ先に防空壕に逃げ込んだというような逸話があるし、あれほど作品の中で海を美しく書いた三島が、家族で海岸に出かけても海が怖くて泳ごうとしなかったという話にも現れている(夫人の談話)。

だが、こうした弱さは誰にもあることである。だから、あまり詮索しないとしても、彼の「蟹」恐怖の激しさには、やや異様なものを感じる。

三島は料亭の出す膳に蟹があると、恐怖のあまり顔色を変えたというし、蟹という文字さえ嫌悪したというから、症状は半端ではなかった。

「からっ風野郎」という映画に出演したときの挿話にも、引っかかるものを感じる。

彼はこの時の映画監督(増村保造?)をひどく怖がって、撮影所長以下のお歴々に泣きつき、彼らに立ち会ってもらって最後の場面の撮影を完了したというのだ。

恐怖に駆られて子供が親にすがるように、本能的に撮影所長にすがる。

世俗的な権威にすがる代わりに、日本刀にすがる場合もあった。 明敏な頭脳を持っていた三島は、対談・討論などで誰を相手にしてもひけを取らなかった。

だが、唯一の例外が新左翼系のいいだ・ももで、彼と対談するときには日本刀持参で席に臨んだという。

そして形勢が不利になると、話の途中で相手の頭上で白刃をぶんぶん振り回した。

何時でも優位に立っていないと不安になる三島は、こんな子供っぽいやりかたで頽勢を挽回しようとしたのである。

特に勇敢とはいえなかった三島が、市ヶ谷の総監室で見事に腹を切り得たのはなぜだろう。

当時の新聞報道によると、一緒に死んだ森田には「ためらい傷」があったが、三島にはそれがなかったという。

彼のこの果敢さは、何時いかにして生まれてきたか、それを探ることがこの文章の主たる目的である。

 

【生育環境】

彼の気の弱さ、そして大人になっても抜けない幼児的な恐怖への過剰反応を生んだのは、特異な生育環境だった。

人が臆病になるのも、粗暴になるのも、幼児期の生育環境の結果であり、本人の責任とはいえない。

三島の場合は特にそうなのである。 三島は生後49日目に両親から引き離されて、祖母の手元に移された。

その頃、彼の両親は祖父母と同居して二階に暮らしており、祖父母は階下にいたから、赤ん坊の三島は二階から階下に移されたのだ。

母の倭文重が息子に会えるのは、日に数回の授乳の時だけだった。 祖母の夏子は、独裁者として家の中に君臨していた。

彼女は樺太庁長官まで勤めた夫を憎み蔑んで尻の下に敷き、息子夫婦を頭から押さえつけて一言も文句を言わせなかった。

家族全員が腫れ物にさわるように祖母に接したのは、彼女が夫から性病をうつされてやや精神に異常を来していたからであり、座骨神経痛に悩まされて騒音に過敏に反応したからだった。

三島は、老いの臭いと病臭のこもる祖母の部屋で、12年間を過ごしたのである。

三島が自家中毒で死にかけるという出来事もあって、祖母は何より孫の病気や怪我を恐れた。

留守中に三島が階段から落ちて怪我をしたと知らされたときに発した祖母の言葉は、「死んだのかい」だった。

 

【祖母夏子と三島】

祖母は三島が「危ないこと」をするのを恐れ、外出を禁じた。そして年上の女の子3人を友だちとしてあてがい、おはじきや折り紙で遊ばせた。

小学校に上がるようになると、帰宅した三島は祖母の用意しておいたオヤツを食べ、彼女の枕元で勉強する。

祖母は事故を恐れて学校行事の遠足にも三島を参加させなかった。そして三島に家門の誇りと、貴族趣味を教え込んだ。

夏子の祖父は若年寄にも取り立てられた名門旗本永井玄蕃頭であり、彼女は皇族の有栖川宮熾仁邸に12歳から17歳までの5年間、行儀見習いのため住み込んでいたのである。

三島は物心ついたときから、祖母の命じることにはどんなことでも従った。彼は、幼い囚人だった。しかし、注目すべき点は、三島がこうした状況を決して嫌ってはいなかったことである。

彼は成人してからも病臭の籠もる祖母の部屋を懐かしんで「私の内部のどこかがまだ暗い病室の枕元のほうが好きだったのだ」と書いている。

三島のあとに生まれた妹と弟は、両親と一緒に二階で暮らしている。そのことを不満に思うより、家の中の絶対的権力者である祖母に自分だけが選ばれ、特別に庇護されていることを喜ぶ気持の方が強かったのだ。

生まれつきひ弱で、学校に通うようになってからは「あおじろ」とあだ名されるような三島は、支配される不満を感じる前に、庇護される特権を誇らしく感じたのである。

三島が数えで13歳になったとき、祖父が「いくらなんでも中学生ともなれば、他の弟妹と離しておく訳にはいかないだろう」と夏子を説得してくれたおかげで、彼は両親と一緒に暮らせるようになった。

両親は三島を引き取ることになったのを機に、祖父母とは別の借家に移り住むことになる。

祖母の支配から脱したと思ったら、三島は今度は父親の圧制下でくらすことになった。

三島の父は農林省の役人だったが、文学に興味を示し始めた息子が気に入らず、三島が小説本を読んでいると、それを取り上げて床に叩きつけたり、書きかけの原稿を引き裂いてゴミ箱に捨てたりした。

三島が可愛がっていた猫を捨ててしまうかと思えば、悪戯をした息子を木刀を持ち出して折檻しようとした。

三島の父は、息子に厳しい態度で臨んだ理由を「抵抗が人間を育てるんだ。そのために僕は、倅にきびしく当たってきた」と弁明している。

こうしたときに、三島を庇ってくれたのが母親の倭文重だった。彼女は息子が詩に関心を持ち始めたと知ると、三島を連れて詩人の川路柳虹宅を訪ね、息子の指導を頼んでいる。

川路は華麗な作品を作る詩人で、私には三島の人工的で壮麗な文体は、川路の影響を受けているように思われる。 三島は自分を庇護してくれる母を他のいかなる人間よりも愛していた。

猪瀬本には、友人の見聞として、20代の三島に関わるこんな話が載っている。

ある時、友人が三島を訪ねていったら、倭文重が「ちょっと足が痛くて」と言った。すると、三島が「お母ちゃま、どこ、どこ?」と人目もはばからず、一心に母の足をさすり始めたので、目のやり場に困ったというのである。

同じ頃に、三島は二人の女性に求婚したが、実らなかった。 その理由を娘の一人は、「あれほど濃密な母と息子の関係を見せられると、とても入り込んでいけないと思われたから」と語っている。

三島を庇護してくれたのは、祖母や母ばかりではなかった。

学習院中等科に通うようになった三島は、同学年の友人よりも年長の先輩や教師との交渉を深め、彼らの手厚い庇護を受けている。

最初につきあった年長の先輩は、8歳年長の坊城という上級生だった。当時高等科3年だった坊城は、中等科1年の三島が校友会誌に発表した作品を読んで感心し、彼の方から交際を求めてきたのだ。そして二人は毎日のように長い手紙を交換するようになった。

坊城の次に親しくなった東文彦も、5歳年長の先輩である。 三島の早熟の才能に目をつけたのは、先輩ばかりではなかった。

国語教師の清水文雄と、その後任の蓮田善明は、三島を高く評価しその作品を自分たちの関係している同人誌に紹介する労を取っている。

高等科に入ってからはドイツ語教師新関良三にも目をかけられた。 清水と蓮田は「日本浪漫派」系の教師だったから、三島もその影響下に保田与重郎などの作品を耽読するようになった。日本浪漫派系の詩人や作家たちは、あの破滅的な太平洋戦争のさなかに、死と滅びの美しさを歌い上げていた。

三島と同じく戦中派の私は、日本浪漫派に心酔している友人を何人か知っているが、そのうちの一人が「これはいいなあ」と、まるで夢見るような表情で賞賛した保田与重郎の作品を思い出す。

それは、ビルマ戦線かどこかで、友軍とはぐれてしまった兵士が象にまたがって森の奥から戻ってきた話をメルヘン風に描いた作品だった。

戦争末期の青年たちは、日本浪漫派を読むことによって間近に迫った死を一種の恍惚状態のうちに待ち受けていた。それは蛇を前にした蛙が麻痺したように赤い口の中に呑み込まれて行くのに似ていた。

あれだけ聡明な三島が、さほど優れているとも思われない国語教師に惹かれ、その導きのままに日本浪漫派に傾倒ししていったのは、庇護してくれるものに随順するという物心ついた頃からの習性による。

三島は学習院高等科を首席で卒業し、天皇から恩賜の銀時計を貰っている。 後年の天皇主義は、こんな所に根を持っているのかも知れない。

天皇主義者になってから、彼は天皇みずから自衛隊の各部隊に連隊旗を手渡せ、と提言している。そうすれば、天皇と隊員を結ぶ感情的な靱帯は、一層強くなるというのだ。

彼が学習院を首席で卒業したことは、彼がペン習字の手本のような文字を書いていることと並んで興味深い。

祖母や母を喜ばせ、目をかけてくれる教師たちの期待に応えようとすれば、どうしても世俗の側に立ち優等生という勲章を目指して努力しなければならない。

すれっからしに見える三島の内部には、庇護者に純情を捧げる熱いロイヤリティーが潜んでいた。

三島には、目をかけてくれる上長の人間への臣従癖があるのである。

彼は川端康成の紹介で文壇に登場し、「盗賊」を出版したときに川端康成から序文を書いて貰った。

この序文を保管しておく封筒に、三島は「川端康成氏から賜はりたる序文」と記している。

 

【夢想】

少年期の三島は、門の外に出ることを許されず、危ないことは一切禁じられ、祖母の病室に幽閉されていた。

並の少年なら、このまま温和な人間になったかもしれない。しかし三島は想像力を駆使して外の世界に逃れ出て、そこで祖母から禁じられた危険な生活を楽しむ能力を持っていた。

彼は空想の中で勇士になり英雄になって、危険な冒険に挑戦する。

が、その果てに勝利の栄光が待っているのではなく、悲劇的な死が待っている点が、大方の夢物語と違っていた。

5歳で読み書きができるようになった三島は、手にはいる限りのお伽噺を読んだけれども、王女たちはどうしても好きになれず、殺される王子や死ぬ運命にある王子に興味を覚え、「殺される若者たちを凡て愛した」のだった。

祖母は三島が死にはしないかと恐れていたから、彼は逆に自分が殺されたり、戦死したりする場面に刺激を感じるようになった。

祖母が家系を誇り、宮家で過ごした過去を語り草にしたから、彼は無知で粗野な糞尿汲取人を愛したのだ。

(「仮面の告白」では、彼が糞尿汲取人に惹かれた理由を同性愛の嗜好があったからだと説明している。諸般の事情から見て、三島がホモだったという伝説は甚だ疑わしい。彼は文学的な戦略上、自分を同性愛者であるかのように見せかけたのである)

子供の頃、死にからまる耽美的な空想にふけっていた三島は、祖母の手を離れて両親と暮らすようになると、空想の対象を変化させはじめた。

両親が安全を旨とする小市民的な生活を送っていたので、三島は平穏な生活を覆すような凶事を待望するようになったのである。

大抵の三島論は、15歳の三島が作った「凶ごと」という詩を引用する。 わたくしは夕な夕な 窓に立ち椿事を待った 凶変のどう猛な砂塵が 夜の虹のように町並みの むこうからおしよせてくるのを 凶事を待望し、悲劇的な死を願っていた少年が、さらに成長して学習院高等科に進む頃になれば、二・二六事件の青年将校たちに関心を持つようになるのは自然だった。

なぜか戦時下の東京には、血盟団、五・一五事件、二・二六事件などに関する本が大ぴらに売られていたのである。

重要なことは、三島が処刑された青年将校たちの死に様ではなく、その心情に目を向けたことだった。

日本浪漫派の洗礼を受けて、「高貴な魂は卑俗な現実の前に滅びて行かざるを得ない」と考えていた彼は、その「高貴な魂」を青年将校たちの上に見たのだった。

彼は、心底から感動した。 どのような戦争にも、人間を純化する側面があるものだ。 戦争中に「農耕隊」に編成された農学校生徒の話を聞いたことがある。

彼らは松林の中の寮に泊まり込んで、食糧増産のために毎日、あちこちの空き地を耕して回ったのだが、国のため天皇のために働いていると思うと空腹も疲労も全然気にならなかった。 毎朝、戸外で洗面していると、松林の向こうから朝日が射してくる。

その朝日が清らかな霊気を含んで明るく輝いていた。この世ならぬ光に見えた。こんなに明るく澄んだ美しい光を見たことがなかった・・・・。

この農学校生徒に限らず、個を越えた大きなもののために生きようと思ったときに、人はこれまで知らなかったような浄福に包まれる。

三島も、天皇のために兵を起こし、その天皇の命令で逆賊として処刑された青年将校の運命に自分を重ね合わせたときに、怒りとも悲しみともつかない深い感情に襲われたのだ。

彼がそれまでに知っていた死は、自傷行為としての死であり、耽美的な死だったが、青年将校たちの死は、自分一個のためではなく、他のなにものかのために身を捧げ、酬われることなく終わった死だった。

 

【芸術至上主義】

三島は学習院高等科時代から、世に出るために人一倍努力を重ねている。

国語教師の清水・蓮田を介して文壇人や編集者への接近をはかり、大学に入ってからは勤労動員先の工場が休みになるたびに作家訪問を試みている。

お陰で、「花ざかりの森」の出版にこぎつけはしたが、功を焦る三島の行動は関係者にあまりいい印象を与えていない。

詩の師匠だった川路柳虹は、三島のことを「あれは早熟でも天才でもない。ただの変態だ」と冷評していたし、つてを頼って作品を読んで貰った志賀直哉(志賀の娘は三島の学友)からは、「平岡(三島の本名は平岡公威)の小説は夢だ。現実がない。あれは駄目だ」とにべもなく一蹴されている。

詩人の伊東静雄は、「花ざかりの森」の序文を何度頼まれれても、書こうとしなかった。それでもあきらめず三島は伊東の自宅まで押し掛けて頼み込んだが、伊東はやはり断っている。

彼はその日の日記に、「夕食を出す。俗人」と書き、その後、また三島が手紙で序文を頼んで来た日の日記には、「平岡から手紙。面白くない。背のびした無理な文章」と記している。

当時、「文芸」の編集者をしていた野田宇太郎は、三島が持ち込んだ原稿を読んでその才能を認めたが、「岬にての物語」には感心しなかった。

達者な文壇小説という印象を受けたからだった。 野田が「君は一体文壇の流行作家になりたいのか?」と問いただすと、三島は「有名な流行作家になりたいです」と答えて、以後野田から遠ざかってしまった。

野田は「もう私の利用価値もそこが見えたのだろう」と推測し、「私は小賢しい三島という男がいやになった」と書いている。

努力の甲斐があって、戦後、川端康成の紹介で三島の作品が「人間」に作品が掲載されることになった。

三島にジュリアン・ソレルの面影があると感じていた「人間」の編集者は、そのころ「光クラブ」の経営に失敗して自殺した学生高利貸しをモデルに作品を書いてみないかと勧めた。

彼と三島の間に共通するものを感じたからだった。

三島も乗り気になって原稿を書き始めたが、「青の時代」と題名をつけて作品を発表する段になると、掲載誌をアイデアを出してくれた「人間」から、「新潮」に切り替えてしまった。

「新潮」の方が大きな雑誌だったからだ。 「人間」の編集者は、(三島はまさにジュリアン・ソレルだな)と思った。

三島は、能力のない人間や、利用価値のない者を冷酷に無視し切り捨てた。これは流行作家に共通した性格ともいえるが、三島のように目から鼻へ抜けるような人間だと、こうした点がよけいに目に付くのである。

しかし、これらは彼がすぐれた作品を次々に発表しているうちは問題にされることはなかった。

こうした性癖は、才能ある作家にはつきものだと大目に見られるのである。 実際、デビュー後の三島の活躍は目覚ましかった。

まるで鶏が卵を生むように易々と短編・長編小説やら、エッセー・作家論を発表する。しかもそのどれもが、水準を抜く出来映えなのである。

彼は魔術師のように巧みに言葉を操り、明晰で切れ味鮮やかな文章を書いた。

意表をつく構成、あっと驚くどんでん返し、鮮やかな論理展開、どれをとっても水際だっていた。

ほかの作家に比べると、カラスの群の中に舞い降りた鶴のような感じだった。 三島の成功は、戦後日本の市民的幸福にシニックな攻撃を浴びせる作品を量産したことにあった。

記憶が定かでないけれども、「日曜日」という短編があったと思う。日曜日だけにデートできる貧しい恋人が、一年先の分まで日曜日の予定をギッシリ立てている。

ところが、その二人はデートの帰りに、プラットホームから落ちで電車に轢かれるのだ。そして、この作品は二人の首が線路脇にごろりと転がってしまうところで終わるのである。

丹念に作り上げた予定表も、ちょっとした事故で簡単に崩れ去る。市民的幸福なんて、そんなものだよと三島は言うのである。

「私の修業時代」で、三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。

「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続ける。

「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)

市民的幸福に対する呪詛に近いまでの攻撃は、福祉国家否定に発展する。三島は週刊誌の質問に答えて、「人間の絶望的状態である完全福祉国家」といい、「福祉国家までいかないと、福祉国家の嫌らしさは分からない」と放言している。

デビュー後の三島の長編小説には、共通の特色がある。 「愛の渇き」のヒロインは、密かに愛していた若者が愛を返してよこしたとき、嫌悪感に襲われて相手を殺してしまう。

「沈める滝」の青年技師は、愛人関係にあった人妻を棄て、女を自殺に追い込んでしまうが、それは不感症だった女が性の喜びを知るようになったからだった。

三島の最高傑作とされる「金閣寺」も、似たような構造をしている。金閣寺を愛していた青年僧は、美が滅びるのは、美そのものよりも美しいと言う理由で金閣寺に放火する。

そして美の囚われ人だった彼は、寺を焼き払うことによって初めて自由になり、蘇生する。

自由を実感するためには、愛するものを抹殺するしかないという冷酷なまでの自己中心主義。 三島の主人公たちは、愛の完成・美の享受を目指して営々と努力して目的を達する。

普通、物語はここで大団円になり、めでたしめでたしで終わるところを、三島はくるりとひっくり返して彼らを奈落の底に突き落とすのだ。

そして、その後には歌舞伎にみるような残酷な殺しの場面が続く。彼らは揃って、愛するヨハネの首を欲しがったサロメ的人間なのである。

 

【芸術至上主義の裏側】

市民的な幸福や常識的なモラルをシニックな目で描いた三島は、登場以来、芸術至上主義者と目されていた。

だが、彼の実生活は芸術至上主義とは程遠いものだった。というより、彼は自分が作品の中で軽蔑して見せた常識的・世俗的な幸福の中にぬくぬくと安住していたのである。

職業作家になったばかりの頃に、二人の女に求婚して両方から断られるという苦い経験をした三島も、今や、「上流社会」の女性たちから競って秋波を送られる身になった。

彼は夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になったが、執筆のかたわらスタンドプレーも忘れなかった。

彼は乗馬クラブに通い、馬を馬場から一般道に進め、避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。 軽井沢では、上流の令嬢や夫人によるパーティーが開かれていた。

三島はそれらに顔を出して、岸田今日子・兼高かおる・鹿島三枝子・「鏡子の家」のモデルになった人妻などと親しくなった。

やがて彼は歌舞伎の楽屋を訪ねた折りに一緒になった料亭の娘と親しくなり、三日にあげず旅館で逢瀬を重ねるようになる。肉体交渉を伴うこの関係は、数年間続いている。

彼の「世俗的生活」を象徴するのが、ビクトリア朝風の白亜の邸宅だった。

「鏡子の家」の印税を前借りして建てられたというこの家は、欧米人の目には異様に映り、日本人にはグロテスクに見える金ぴか趣味の邸宅だった。

家の中には、骨董品を寄せ集めたような得体の知れぬ家具がごたごた並び、ソファには三島が少年時代から大事にしていたお気に入りの人形が置いてあった。

さほど広くない庭の真ん中に「理性に対する軽蔑の象徴」として大理石のアポロ像が据え置かれて、訪問客の目を驚かせた。客の応対に出る女中は、西洋風の白いキャップに白エプロンという格好をしており、食後には客にブランデーと葉巻が出された。

三島邸を訪ねた外人記者は、「これほど西洋式を徹底する日本のインテリを見たことがない」と語っている。 :::三島邸−中央にアポロ像が立っている

三島の所有する「外車」も人目を引いた。彼はアメリカ製の大きな青い自動車を買い込んでいた。とにかく彼は他人と違うことをしていなければ気が済まなかった。

「三島由紀夫 死と真実」の著者によると、彼にとっての日常は、やたらに自分を飾り立て、派手な演技をする場所でしかなかった。

三島は、約束の時間を違えず、原稿の締切も厳守するという市民的な美徳の持ち主だったが、同時に金の貸借にも合理的で、友人に貸した金などを厳しく取り立てたらしい。

こうした作品と実生活の乖離はどこから来るのだろうか。 三島由紀夫の基層にあるのは紛うことなき俗物性だった。

彼には祖母直伝の貴族趣味と、両親から受け継いだ小市民主義があり、また、自身で育てたエリート意識があった。

三島は、祖母・母・先輩・教師の庇護を離れて自立するようになってからも、自分を庇護してくれるものを求めた。

それが、世評であり、他から抜きんでることであり、たえず周囲から注目されることだった。 彼は世俗的なもので身を包んでいないと安心出来なかった。

それは、自分には何か大事なものが欠けているという強い不全感があったためと思われる。祖母や母から行き過ぎた庇護を与えられているうちに、彼はそれは自分に何か欠けているものがあるからだと感じるようになったのだ。

俗物的な生活を送りながら、反俗的な作品を書くという二重の構図は、祖母に守られて安全第一の日々を送りながら、頭では流血の死にあこがれた少年期の二重生活を引き継ぐものだった。

彼はこの二重性の故に、頭では世俗を否定し、大衆社会現象を軽蔑していながら、その世俗から受容され賞賛されることを求めないではいられなかったのである。

三島は自らの性格的なひ弱さを克服しようと、いろいろ努力している。だが、その努力も、結局は自分の世俗的価値を高くする方向に向かってしまう。

小学生だった頃に、彼は省線電車の中で、大人の乗客をにらみつけ相手が目を逸らすまで凝視を続けるという「自己訓練」を行っている。最初、相手はいぶかしそうに彼を見返すが、やがてうるさくなって視線を逸らす。すると、幼い三島は「勝った」と思うのだった。

三島を知る誰もが口にする彼特有の高笑いを、ラジオで聞いたことがある。

私は病気療養中、安静時間にはラジオを聴いて過ごしていたが、ある日、「高校生の作家訪問」という番組を聞いていて、あの有名な高笑いを聞いたのである。

それは、相手の感情を無視した傍若無人の哄笑で、聞く者を脅かして不安にさせる笑い方った。

この高笑いを彼は新進作家時代に身につけたと言われる。 話をするとき、相手を真っ正面から見据え、続けさまに人の心を脅かすような哄笑を浴びせかける対話術は、相手より優位に立っていないと崩れてしまう三島の幼児的な弱さを隠す「仮面」だった。

世俗的な生き方をしながら、反俗的な作品を書き続けるという矛盾は、何時かは馬脚を現さずにはいない。それは彼が、「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった」と誇らかに記してから4年後に起こった。

その文章は次のようになっている。 「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」 三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。

「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。しかし、この作品は批評家からは、評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。 「鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。

ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。

美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。

日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。

商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。

この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。 「三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。

四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。 峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。

同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。

だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。

江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている」 「鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。

三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。

「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。

これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのもやむを得ない。 ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島には、「鏡子の家」の失敗が大変な打撃だったらしい。

彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。

事実、この頃から三島由紀夫の狂乱がはじまるのである。

 

【三島狂乱】

年譜によると、三島は「鏡子の家」を発表した翌年に大映映画「からっ風野郎」に出演している。この時、彼は大映と専属俳優契約を結んでいるから、この後も続けて映画に出る積もりだったに違いない。「からっ風野郎」での三島の役はちんぴらヤクザだった。

この映画に出たことで三島は、彼を愛する読者たちに幻滅を与えることとなった。それまで、三島には天才作家というイメージがあったけれど、映画で見る彼は短躯短足、情けないほどに貧相な人物だったのだ。ラッキョウ頭だけが目に付くその体には、未成熟で病的な印象があった。致命的だったのは、役柄の関係もあって、彼が精神的にも深みに欠けた薄っぺらな男に見えたことだった。

三島はこの悪評にもめげず、やたらに週刊誌や新聞の三面記事に登場するようになった。 町内会の一員として、はっぴ姿で御輿を担ぐところを写真に撮られるかと思うと、ゲイバーに出かけて自分で作詞したシャンソンを歌い、衆人環視の中で丸山明宏(三輪明宏)と抱き合ってキスをした。

彼が最も熱中したのは、肉体の改造だった。三島は夜中に執筆し、夜明けから正午まで就寝するのを例としたが、午後からボディービルや剣道の道場に通うようになった。その熱心さは異常な程で、間もなく彼の身体には「隆々たる筋肉」がつき始めた。 ::: 

三島の胸毛も有名だった 不全感の所有者がやることには、限度というものがない。自分の肉体に自信を持ち始めた彼は、機会あるごとに肉体を誇示するようになった。

三島は、男というものは、うぬぼれと闘争本能以外に何もないのではないかと弁解しながら、機会あるごとに裸になった。

彼は「三島由紀夫展」のカタログに次のように書いている。 「私はようやくこれ(鍛え上げた肉体)を手に入れると、新しい玩具を手に入れた子供のように、みんなに見せ、みんなに誇り、みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。私の肉体はいわば私のマイ・力ーだった。 ・・・・・しかし肉体には、機械と同じように、衰亡という宿命がある。

私はこの宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもっとも危険な道を歩かされているのである」 かくて「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版し、「わが肉体は美の神殿」と自称するにいたる。

ここまで来ると、もう狂気の沙汰としか思えない。彼は書斎に等身大の鏡を据え付け、自分の姿を鏡に映しながら執筆しているという噂がたった。 三島がしきりに愚行を重ねるのは、自分を評価しなくなった知識人に当てつけるためだったが、その度に、彼に対する評価は落ちていった。

三島文学は本質的に青春文学だから、若かった頃に三島の作品を愛読した読者も、年を取ると次第に彼の逆説や反語、装飾過多の文章をうるさく感じるようになる。そこへ三島の露出趣味である。年輩の読者の三島離れが、急速に進行し始めた。その結果、新作を出すと20万部は売れていた彼の著書が、1960年代(35歳以後)には2〜3万部しか売れないことが多くなった。彼が苦々しげに「作家殺すに刃物はいらぬ、旧作ばかりをほめればよい」と書いたのもこの頃である。

世評にも増して三島に打撃を与えたのは、相次ぐ旧友の離反だった。 彼は当代一流の知性である中村光夫・大岡昇平・福田恒存・吉田健一と「鉢の木会」を作って定期的に交流していた。自分にとっては先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは三島の大きな自信になっていた。が、ある日メンバーの一人から、「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きたのだ。

三島は「鏡子の家」に続いて有田八郎元外相をモデルにした小説「宴のあと」」を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。ところが、この時「鉢の木会」の吉田健一は有田側に立つ発言をしたのである。 「文学座」の運営で同志の関係にあった福田恒存にも裏切られた。福田は、三島由紀夫と杉村春子に後足で砂をかけるようにして、文学座の有力俳優を引き抜き劇団「雲」を発足させたのだ。 そして三島は、杉村春子からも裏切られる。 杉村春子は、昭和38年、三島の戯曲「喜びの琴」を右翼的であるとして、上演を拒否した。この件で、三島は朝日新聞に抗議文を載せ、10年近く続いた彼と「文学座」の濃密な関係は遂に絶たれてしまった。

他に、三島は年少の友人黛敏郎とも絶交している。 読者の離反、旧友の離反に続いて川端康成がノーベル賞を受賞したことも、三島にはかなりのショックだったと思われる。三島の作品は、若者向きである以上に、外人向きに出来ていた。日本には私小説の伝統があって、作品は作家の生活や人となりと絡めて鑑賞されるのが常だったが、三島は作品を自分から完全に切り離し、それ自体で成立する自律世界に仕立て上げていた。自伝的作品とされる「仮面の告白」ですらそうだった。 これは西欧的な文学作法に他ならなかった。三島も、文学作品は一つの夢をシステマタイズすることによって成り立つと語り、中村光夫との対談では「物語というものは、人を知らぬ間に誘い出し、どこか水の中にポコンと落として溺れ死にさせるようなものですね」と言っている。 こうした事情もあって、日本文学を海外に紹介することに貢献したドナルド・キーンなどは、早くから三島に注目し、その作品を英訳して自国に紹介している。三島自身もアメリカやフランスに渡り、欧米の出版業界に顔を売る一方、各国の文学関係者に知己を増やしていた。そのため、1960年代の半ば以降、毎年のように三島がノーベル文学賞を獲得するのではないかという下馬評が流れるようになった。 三島もその気になって、ノーベル賞の受賞がほぼ確実というニュースが流れた時など、自ら記者会見場を予約して吉報を待ったほどだった。が、結果は川端康成の受賞に終わった。

三島はその報を聞いて、祝辞を述べるために真っ先に川端邸に駆けつけている。そして「この次にノーベル文学賞を取るのは自分ではなくて大江健三郎だろう」と語り、格別、悔しそうな顔も見せなかった。大江の受賞を予言したところなど、三島の眼力はさすがである。 苦心の労作が批評家に黙殺されるというようなことは、作家なら誰でも経験することだった。だが、三島は「鏡子の家」が期待したほどの評価を得られなかったことで「狂っちゃった」り、ノーベル賞を逃したことで深刻な失意に陥ったりする。三島は世評を軽蔑するポーズを取りながら、ニコチン中毒患者がタバコを必要とするように周囲からの絶えざる賞賛を必要としていたのである。 いまや彼の耳に入ってくるのは嘲笑ばかりだった。三島は石川淳に「(僕が)一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする」と愚痴り、林房雄には「身から出たさびだと思っています。やはり僕の行跡がたたっていましてね、何をやったって信じてもらえない」と語っている。 俗物にして有名作家という二つの面で生きている三島は、その片方だけでは満足しなかった。どん欲な彼は、双方を満足させる必要があった。

そして基層の俗物的部分を満足させるには、上層の作家活動で成功し続けなければならなかった。俗物的部分を充足させるには、芸術的価値の高い反俗的作品を書く必要があった。すべては作家的名声を維持出来るか否かにかかっていた。 三島は文壇に登場する際、戦略として同性愛者を装った。今度は、行動する作家という戦略をとることにして、剣道、ボクシング、空手などに熱中しはじめた。ゴルフをやる作家はいても、武術や格闘技をこなす作家はいない。 行動する作家として認知されるには、理論武装も忘れてはならない。その理論は現代人の手で汚されていない、そして今も脈々と日本人の意識の底を流れる地下水系のような思想でなければならなかった。

アメリカの社会学者リースマンの著書を愛読していた三島は、社会には「横の社会」と「縦の社会」があり、前者は個性を失った砂のような人間によって形成される大衆社会だが、後者は歴史的民族的社会で、このなかに「汚れていない思想」が眠っていると強調する。

この見地から彼が持ち出してきたのが「葉隠」であり、陽明学だった。彼は何かの思想に触れると、たちまちその使徒になり、高らかに人寄せのラッパを吹き始める。 が、文壇の反応は冷ややかだった。彼の行動主義は、それまでに彼が演じてきた人気取りのパフォーマンスと同列に見られ、「ああ、またか」と作品の評価をさらに引き下げることになった。 こうなったら彼に残された道は、暫くマスコミと関係を切り、鳴かず飛ばずの状況に身を置くことしかないのに、三島は沈黙を守るどころか、「知識人の顔というのは、何と醜いのだろう!」というふうなことを感嘆符つきで言ってしまう。

ドナルド・キーンなど外国の友人は、三島に一年ほどカナダに行ってひっそり暮らすことを勧めている。 だが、三島は自宅に毎日客を招き、マスコミから対談・対論の注文がかかれば、どこへでも出かけていって誰とで議論することを喜びとしている男だった。そんな男が1年間もの孤独に耐えられるはずがなかった。 だが、この頃の三島は極めて危険な状況にあったのである。 「豊饒の海」に着手する1年あまり前、三島邸に一人の青年が押し入ってきた。この青年はすぐに警察の手に引き渡されたが、三島はこの小事件を素材にした短編「荒野より」を書いている。このなかで、三島はあの青年はどこから来たかと自問し、三島自身の心の荒野から来たのだと言っている。

「それは私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野である。私の心の一部にはちがいないが、地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。 そこは見渡すかぎり荒涼としており、繁る樹木もなければ生い立つ草花もない。ところどころに露出した岩の上を風が吹きすぎ、砂でかすかに岩のおもてをまぶして、又運び去る。 私はその荒野の所在を知りながら、ついぞ足を向けずにいるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知っている。明らかに、あいつはその荒野から来たのである」 三島由紀夫が、何時頃から自死を日程表にのせはじめたか確言できない。 三島には死に向かう体内時計が埋め込まれていたという説もあり、彼は死を恐れていたから、死を選んだという者もいる。あまりたくさん書きすぎて、もう書くことがなくなったので死んだのではないか、と推測する作家仲間もいる。 早くに名声を得て、その後もずっと名声を維持してきた作家が突然自殺するというケースをしばしば見受ける。例えば、芥川龍之介は、夏目漱石に認められて早くに文壇に出てから、一貫して第一線を歩み続けた。にもかかわらず、突然、自殺している。 芥川本人は、遺作の中で「ぼんやりした不安」がその原因だと説明している。 しかし友人の菊池寛は、自殺する前の芥川に作家活動を暫く休んで、大学教師にでもなったらどうかと忠告していた。書く素材が尽きて、芥川が自信喪失に陥っていると見たからだった。

最初から「一流」の地位を維持してきた芸術家は、そのレベルから脱落することをひどく恐れる。そして、もう一流の地位を維持できないと見切ったときに、実に簡単に自殺する。自分が二流の存在に堕してしまうことが耐えられないのだ。 三島には、まだ種切れの兆候はなかった。執筆依頼が途切れることはなかったし、書きたいテーマも少なくなかった。 だが、彼は疲れ傷ついていた。死を願いつつも、踏み切ることができないでいた。その状態は「鏡子に家」が不評だった頃から、ずっと続いていると言ってもよかった。

 

【スプリングボード】

人は外に向けていた攻撃的エネルギーを自分自身に向けることで自殺する、というのが精神分析派の考え方である。 例えば事業家は、攻撃的エネルギーを仕事に振り向けて懸命に働くが、どう頑張っても潰れそうな会社を立て直すことが不可能だと悟ると、エネルギーを自身に振り向けて自殺する。仕事に向けていた努力をやめても、攻撃的エネルギーはそのまま残り、別の攻撃対象を探して自分を殺すことになるのだ。仕事がうまくいかなかった会社員が、頭をかきむしったり、帰宅して愛する家族に当たり散らすメカニズムを拡大したものが自殺なのである。 三島は自分を認めなくなった知識人に戦いを挑み、ボクシングジムに通い、空手初段になって見せた。それだけでは不十分だとして更に戦線を拡げ、民族的伝統の擁護者になって「文化防衛論」を書いたりした。これは、戦後民主主義そのものへの挑戦を試みた攻撃的な著書だったが、ほとんど話題にならなかった。 折から、安保反対の風が吹きまくっていたから、好機到来とばかり彼は「敵」の牙城東大に乗り込み新左翼の学生たちに論戦を挑んだけれど、これも三島特有のパフォーマンスと受け取られて三面記事的な興味を呼んだだけだった。彼のやることはすべて空転し、「やはり僕の行跡がたたっていましてね。何をやったって信じてもらえない」と述懐するような結果になるしかなかった。

三島の攻撃的エネルギーが反転して自分に向かった時期に、彼の内部で自己中心主義から天皇中心主義への転換が始まったのだった。攻撃的エネルギーが自分に向かえば、過去に演じてきたパフォーマンスへの自己嫌悪や、ジュリアン・ソレル的行動への悔恨が群がり起こる。

虚偽と汚辱に満ちた過去を思い、自分のエゴ・セントリックな性格を慚愧の気持ちで反省しているうちに、三島は自分にも純な気持ちで生きていた時期があったことを思いだしたのだ。 三島は日本浪漫派に心酔し、二・二六事件の青年将校たちに涙した過去を想起した。あれほど醇乎たる気持で、天皇と国家について思いめぐらしたことはなかった。 自己中心主義を捨てて、主人持ちの身になること、これ以外に自分が再生する道はない。

三島はそう思ったのだろう。そして、そうなれば死ねると思ったのだ。 主人持ちの人間が死と親和することを描いているのが「葉隠」だった。武士道とは死ぬことと見つけたり、生きるか死ぬか迷ったら死の方を選べ、主人が間違ったことをしたら死んで諫めよ、葉隠のどこを開いても主人持ちの使命は死ぬことにあると書いてある。 「葉隠」には自己中心的に生きる武士たちの醜さも的確に描写されていた。

三島は、それを大衆社会日本に生きる現代人の肖像だと思って読んだ。 彼は「葉隠」を座右の書にするようになった。三島は「葉隠に書いてあるのは、絶対間違いない、聖書と同じでね」と確信を持って語っている。この瞬間に三島の内部で、自死に向けた号砲が鳴り響いたのである。

三島は目から鱗が落ちるような気がしたのだった。自分は子供の頃から死にあこがれてきた。そして大衆社会現象の支配する日本では、自分の生きる場所がないと嘆きながら、女々しく生きながらえてきた。そうなのだ、主人持ちの身になれば死ぬことができる。 三島は下校してから、祖母の用意しておいたオヤツを食べ、枕元に座って勉強した小学生時代の気持ちを思い出した。他者の命に素直に従うことの心地よさ。 あとで誤診であることが分かったけれど、愛する母が余命幾ばくもないと知らされたときの胸つぶれる気持ちも思い出された。母のために祈った、あのときの一念ほどに純粋なものはなかった。

古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」にはこんなやりとりがある。 −さうすると三島美学を完成するためには、どうしても絶対的な権威が必要だといふことになり、そこに…… −天皇陛下が出てくる。(笑) −そこまでくると、私はぜんぜん三島さんの意見に賛成できなくなるんです。

問題は文学上の美意識でせう、なぜ政治的存在 であるところの天皇が顔を出さなきやダメなんですか。 -天皇でなくても封建君主だっていいんだけどね。「葉隠」における殿様が必要なんだ。それは、つまり階級史観における殿様とか何とかいふものぢやなくて、ロイヤリティ(忠誠心)の対象たり得るものですよね。……天皇でなくても いい。『葉隠』の殿様が必要なんだ。 三島にとっての天皇は、ロイヤリティーの対象としての天皇であり、もっとハッキリ言えば自死へのスプリングボードとしての天皇だった。 三島の天皇主義 三島の考えている天皇は、現実の天皇ではなかった。美の総覧者・日本文化の体現者として、非人間的な徳性を備えた架空の天皇だった。だから、現実の天皇に対する三島の評価は、極めて厳しかった。 昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。

特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまう、と三島は言う。 皇太子時代の現天皇についても、福田恒存との対談で手厳しいことを言っている。 三島:皇太子にも覚悟していらっしゃるかどうかを、ぼくは非常にいいたいことです 福田:いまの皇太子にはむりですよ。天皇(昭和天皇)も生物学などやるべきじゃないですよ 三島:やるべきじゃないよ、あんなものは 福田:生物学など、下賤な者のやることですよ 三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。 彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。 「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」 「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」 彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。 「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」 三島は死ぬ覚悟を決めると、積極的に自死する事を予告し始めた。私は三島の対談集を数種類読んでみたが、彼は自分の死をにおわせる発言を繰り返し行っている。対談相手が(またか)と持て余ますほどに。 ヘンリー・スコット=ストークスは、三島の死に関して「人間の自殺が、これほど綿密に計画されたのは、例が少ないことだろう」と感想をもらしている。が、対談で、講演で、また評論で、これほど頻繁に自殺を予告している例も少ないに違いない。

一、二例を挙げれば、対談ではこんな風に語るのである。 「ぼくぐらい行動というものにあこがれて自分が行動していない男はいままでない。何もしないで行動行動といっている。・・・・・(が、今に行動するから見ていてほしい)自分だけ死んで笑われるかもしれないけれども、それでもいいじゃないか」 こんなのもある。

「(自分は文学外の行動と、文学が同じ根から出ていることを証明しようと努めてきた)それを証明しようと思って躍起になればなるほど漫画になるのはわかっているけれど、死ねばそれがぴたっと合う。自分で証明する必要はない。世間がちゃんと辻褄を合わせてくれる」

自死の予告は、市ヶ谷のバルコニー上から撒いたビラの末尾にも書かれていた。 「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」 三島がこれほど頻繁に自殺をにおわせたのは、何故だろうか。一般に、予告は、自殺を引き留めてほしいというサインだと考えられている。 彼が最後の瞬間まで生に執着していたことは、上掲の「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」という部分にほの見えているし、 「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」 という辞世の歌からも感じ取れる。

自分の行動を、死を恐れる臆病な世人と対比してみせるところに、かえって彼の未練のようなものが透けて見える。 だが、そんなふうに考えるのはこちらの邪推で、自分を後戻りさせないための手段としてだったかもしれない。とすると、彼の気持ちはまだゆらいでいたことになり、これもやはり未練の表明だったと言うことになる。 死へ向かって自分を追いつめて行く過程で、三島は「豊饒の海」四部作に着手する。戦争末期に「花ざかりの森」をこの世に残して戦死することを夢見た彼は、「豊饒の海」を遺作として世に残すことに決めたのである。 「豊饒の海」は生まれ替わり物語である。

生まれ替わりというテーマを選んだ三島の気持ちには、かすかに死後の再生を期待する願望があったかもしれない。しかし彼はそうした気持ちを「豊饒の海」という題名によってうち消している。豊饒の海は月面にある空虚な海の名前であり、彼はこの題名によって再生譚を否定しているだけでなく、自分の生涯そのものを否定している。 三島は「荒野より」で彼の心を取り囲こむ荒野について語った、月面にひろがる豊饒の海もあの荒野を思い出させる。三島はこうした虚無的な心をかかえて、「豊饒の海」四部作に着手し、自衛隊に体験入隊し、F104超音速戦闘機に試乗し、「楯の会」結成に乗り出したのだった。 「楯の会」に百名足らずの学生を集めたことで、三島は自死へのお膳立てを整えた。そうとは知らない世間からもマスコミからも、三島はすっかり愛想を尽かされてしまった。

彼の親しい友人ですら、「その悪趣味や酔狂な行動は時とともにグロテスクの度を増し、楯の会にいたってその頂点に達した」と書いている。 「荒野より」で老人のような寒々とした心境を吐露した三島が、「楯の会」では打って変わって、生来の幼児性をむき出しにしている。彼は会の発足に当たり、全員で巻紙に血書することにした。そして指を安全剃刀で切り血をコップに溜め、血書を済ました後で、皆でコップの血を飲んだ。隊員の中には、脳貧血を起こすものや、吐きそうになるものが出た。

それから彼はデザイナーに頼んで、まるで「ホテルのドアマンのような(猪瀬)」制服を作り、隊の制服にした。この制服を見て、隊を脱退するものも現れた。 「仮面の告白」の読者は、女児のように育てられた三島の過去を思い出して、兵隊ごっこは子供の頃からの彼の夢だったのだろうと考える。だが三島は、委細かまわず隊員を自衛隊に体験入隊させ、自分の前で分列行進をさせた。 ロンドン・タイムズやニューヨーク・タイムズの東京支局長をつとめたヘンリー・スコット=ストークスは、三島に呼ばれて訓練の様子を見学に出かけた。そして「楯の会の隊員が、富士山麓を分列行進するさまは、まるで一団のデクの坊だ」と書いた。

外人記者には、世界的な名声を誇る作家三島が、「楯の会」を発足させた理由が分からなかった。そこで記者が会の目的を質問すると、三島は「サムライの伝統を復活するためだ」と答え、「今なおサムライの魂を持つ日本人は、ヤクザだけだ」と断定して相手を唖然とさせている。 「楯の会」結成は、第二次安保騒動に備える目的だったが、結局、三島の自殺をサポートするだけに終わり、三島の死後解散している。 入念な準備の上に決行したはずの市ヶ谷討ち入りは空振りに終わった。それは、計画が失敗したら全員切腹すると決めていたからだった。そして、参加者全員が計画は結局失敗するだろうと予想していたのである。

成功する見込みがあれば、念を入れて計画を練り上げるけれど、失敗するとわかっている計画に真剣に取り組むものはいない。 三島が失敗覚悟で計画を強引に推し進めたのは、切腹という方法で「諫死」をすることが既定の路線として行動予定表に組み込まれていたからだった。天皇と日本国民に反省を促すために、衆人環視の中で死んで見せる、これが彼の数年来の計画だったのだ。 それが年来の計画だったのなら、はたから何もいうことはない。 しかし、それなら宮城の前で一人で割腹自殺すべきだったのではないかという疑問は残る。決行の間近になって、三島は彼と学生隊長森田必勝2人だけで切腹することに変更したけれど、最初は4人の学生全員を道連れにして死ぬ積もりだったのである。 結果として、彼は森田という春秋にとむ若者を死なせただけでなく、総監室では刀を振り回して数多くの部外者を傷つけている。

ここに伝記作者が、「冷酷なほどの自己中心主義者」と表現する三島の性格の一端が現れている。「東大を動物園にしろ」という本の中で、三島は次のように発言しているのである。 「羽田事件のときつくづくと思ったね。佐藤首相をアメリカヘやりたくなきや、殺せばいいぢやないか。簡単なことだよ。テロは単独行動で、大衆を組織化するといふ彼らの理論に反するかもしれんが、要は度胸がねエんだよ。一人でやる度胸がねエんだ

 

【母】

出口裕弘「三島由紀夫・昭和の迷宮」には、三島が死んだ後の母について記した一節がある。 「ジョン・ネイスンによると、自決の翌々日、平岡家は弔問客に門をひらいた。ある弔問者が白薔薇の花束を持って訪れ、三島の遺影を見上げていると、うしろから母の倭文重がこう言ったという。 『お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな』 平岡公威を産み、乳児のうちから姑にその子を奪い去られ、ようやくわが手に取り戻してのちは、一貫して「三島由紀夫」の第一読者だった人の言葉である。」

三島には妹と弟がいたが、妹は戦後間もなくなくなり、弟は外交官になって海外で暮らしていた。だから母にとって身近にいるのは三島だけだった。 母は三島の書斎に自由に出入りして、原稿用紙・ペン・お茶・果物・毛布などを用意してやっていた。彼女は息子の作品を生原稿で読んでいる「第一読者」だった。息子の死後、彼女は家族の誰一人三島を理解しようとしなかったと怒り、その怒りは夫と嫁に向けられた。

彼女は夫とはうまく行かず、ひそかに離婚を考えていた。 そういう母親にとって、三島は恋人のような存在だった。事実、彼女は三島が死んだときに「恋人が私の手許に帰って参りました」と言っている。母親は息子の欠点も長所も知り尽くし、彼が何を企てているか察知していながら、そのすべてを許し受容していたのであった。

三島が、天皇主義などではなく、かの谷崎潤一郎のように母親賛歌をうたい続けたら、あのような死を迎えることはなかったろう。 最後に とにかく三島由紀夫は先を急ぎすぎた。彼は自分の作品について次のように書いている。 「書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ」 彼は一つとして同じ趣向の作品を書いたことはなかった。

三島はマンネリズムとは無縁の作家だったのだ。一つの作品を完成するたびに、もっと新しいものを、もっと知的刺激にとんだものをと、自分に鞭を当て続けたから、立ち止まって自分の作品を賞味し反芻するゆとりがなかった。 思想についても同じで、俊敏な三島は次々に新しい思想を渉猟し、それをすぐに評論や作品の中に吐き出して見せた。だが、一つの思想を内部に留め置いて静かに熟成させることがなかったから、それらは単なる彼の知的アクセサリーにとどまり、何の力にもならなかった。

吸収したものが「心の糧」になることはなかったのである。 それどころか、彼はとんでもない読み違えをしている。 陽明学は葉隠とならんで、晩期の三島を支えた思想的支柱である。これを彼は行動的ニヒリズムに基づく「革命哲学」だと規定しているのだ。 そして、彼は「陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極地をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである」などと意味不明なことを言い始める。

王陽明は、「万物一体の仁」を説いた愛の哲学者で、行動的ニヒリズムに類するようなことは一言も口にしていない。彼は、人間の内面が二層を成していると考え、下層を躯殻的己、上層を真己に分けている。下層の躯殻的己は私欲に汚れた自己であり、これを突き抜けた上層に天地万物と繋がる宇宙的な自己がある。これが真己なのである。 この真己(良知ともいわれる)が発動すると(致良知)、「知行合一」の行動になる。つまり、内なる愛の本能が具体化されたら、その行動は自ずと理にかなった知的行為になると王陽明はいうのだ。

三島が陽明学を理解できなかったのには、理由がある。 三島は唯識論や臨済禅について作品の中で蘊蓄を傾けているけれど、彼ほど非宗教的な人間はいない。宗教的世界を理解するにはエゴを超えた超越体験が必要とされるが、三島は死ぬまで自我圏内を出ることがなかった人間だった。彼の宗教論議は、すべて頭でこね上げた牽強付会の説であり、真実からは遠いのである。

王陽明が二層の自己に開眼したのは、32歳の時、陽明洞という洞窟の中で「光耀神奇、恍惚変幻」の神秘的な体験をしたからだった(洞窟内で霊的な光に遭遇したところはマホメットの体験に似ている)。 もし三島が長生きをして、本気になってインドあたりでヨガの修行をすれば、唯識論も臨済禅も、そして陽明学もすべて自家薬籠中の物にしたはずである。三島なら、ひとたび求道の志を立てたら、インドでもチベットでも、どこにでも出かけて猛烈な修行をしたに違いないのだ。この点でも彼の早世は惜しまれるのである。

(03.4.11) 戻る 昭和とともに歩んだ作家、三島由紀夫。その自決は、世界中に大きな衝撃を与えました。あれから四半世紀あまり、もしも今生きていたら、三島はこの時代に対してどんな発言をするのでしょうか。  

このたび、霊峰富士を仰ぐ湖畔の「山中湖文学の森」に生まれる「三島由紀夫文学館」は、そんなことを問いなおす機会を与えてくれます。

三島由紀夫の自宅をモデルにした洋館の文学館に、著作品をはじめとして、創作ノートや原稿、遺品など約700点が収蔵されます。  文学館の完成に先駆けて、インターネット上に「三島由紀夫 CyberMuseum」を開館します。

ここでは、文学館収蔵品の目録、収蔵品の一部の紹介や、三島の生い立ち、関連マップ、第一線の三島研究者が答える質問コーナー、文学館への期待・要望を募るフォーラムなどを予定しています。  

世界的作家である三島由紀夫を、より多くの方々に知っていただき、そして三島文学の素晴らしさを理解していただきたい。「三島由紀夫 CyberMuseum」を、お楽しみください。

 

 

◆1925年(大正14年) 【1月】 14日、東京市四谷区永住町2番地(現・新宿区四谷4丁目)に、父・平岡梓(あずさ)、母・倭文重(しずえ)の長男として誕生。本名平岡公威(きみたけ)。梓は東京帝国大学卒業後、農林省に入り水産局長を最後に勇退、以後会社社長などを歴任。  

4.22 治安維持法公布/5.5 普通選挙法公布/7.12 東京放送局、ラジオ放送開始

◆1928年(昭和3年)3歳 【2月】 23日、妹・美津子誕生。  

2.20 第1回普通選挙実施/6.4 満州某重大事件(張作霖爆殺)

◆1930年(昭和5年)5歳 【1月】 19日、弟・千之(ちゆき)誕生。幼時は、祖母・夏子の溺愛を受けて育てられ、病弱であった。  

4.22 ロンドン海軍軍縮会議調印/11.14 浜口首相、狙撃され重傷/世界大恐慌、  日本に波及

◆1931年(昭和6年)6歳 [当時の資料] 【4月】 学習院初等科入学。このころから詩歌、俳句などに興味を持ち、初等科機関誌「小ざくら」に毎号習作が掲載される。また読書に親しみ、小川未明、鈴木三重吉の童話、及び講談社「少年倶楽部」(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)などを愛読。  

9.18 満州事変勃発/9.1 清水トンネル開通

◆1932年(昭和7年)7歳 [当時の資料]  5.15 犬養首相射殺(5.15事件)/9.15 満州国承認  12.16 日本橋白木屋で火災

◆1933年(昭和8年)8歳 【7月】 四谷区西信濃町16番地に転居。  2.20 小林多喜二虐殺/3.27 国際連盟脱退/5.26 滝川事件

◆1934年(昭和9年)9歳  3.1 満州国帝政開始/4.21 忠犬ハチ公の銅像建立/9.21 室戸台風

◆1935年(昭和10年)10歳  初等科の1泊旅行に初めて參加。霞ヶ浦から鹿島、香取を回る。  2.18 天皇機関説問題/9. 第1回芥川賞(石川達三)、直木賞(川口松太郎)

◆1936年(昭和11年)11歳  2.26 蔵相高橋是清ら殺害(2.26事件)  8.1 ベルリンオリンピックで前畑秀子優勝/11.25 日独防共協定調印

◆1937年(昭和12年)12歳

【3月】 学習院初等科卒業。初等科時代は作文の点悪し。

【4月】 同中等科に進学。文芸部に入部。渋谷区大山町15番地の両親のもとより通う。このころ、祖母に連れられ初めて歌舞伎や能を見る。

【7月】 随筆「春草抄〜初等科時代の思ひ出」(「学習院輔仁会雜誌」159号)。この後、中等科・高等科在学の6年間、同誌に詩歌、小説、戯曲などを発表。

【10月】 父・梓、大阪営林局長となり単身赴任。  2.11 文化勲章制定/7.7 蘆溝橋事件(日中戦争始まる)/9.6 文学座結成

◆1938年(昭和13年)13歳 【3月】 短編「酸模(すかんぽう)〜秋彦の幼き思ひ出」、同「座禅物語」(「学習院輔仁会雜誌」161号)。中等科時代に文芸部の先輩坊城俊民、東文彦、徳川義恭と知り兄事する。国文の師、岩田九郎の指導を受ける。  4.1 国家総動員法公布/6.9 勤労動員始まる/11.20「岩波新書」創刊

◆1939年(昭和14年)14歳

【1月】 18日、祖母・夏子死去(64歳)。

【3月】 詩「九官鳥〜森たち、第五の喇叭、独白、星座、九官鳥」、戯曲「東の博士たち〜馬太伝第2章による 1幕」(「学習院輔仁会雜誌」163号)

【4月】 国文の師、清水文雄の指導を受ける。

【11月】 中編「館・第1回 未完」(「学習院輔仁会雜誌」164号)  5.11 ノモンハン事件/9.1 第2次大戦始まる

◆1940年(昭和15年)15歳 [当時の写真] 2月より翌年7月まで、俳号「平岡青城」のペンネームで、「山梔(くちなし)」に俳句、詩歌などを随時投稿。このころ、川路柳虹に師事して詩作し、「公威詩集」・・・、「木葉角鴟(このはずく)のうた」などの習作詩集成る。のち、一部を「十五歳詩集」として発表。短編「彩絵硝子(だみえがらす)」(「学習院輔仁会雜誌」166号)。クラス委員になる。中等科時代の愛読書は、堀口大学訳「ドルヂェル伯の舞踏会」、ワイルド「サロメ」、谷崎潤一郎やリルケの作品など。特に伊東静雄の詩を愛した。 9.27 日独伊三国同盟/10.12 大政翼賛会結成

◆1941年(昭和16年)16歳 [当時の資料]

【4月】 このころ、「学習院輔仁会雜誌」の編集長になる。

【9月】 中編「花ざかりの森」(「文芸文化」4巻9〜12号)。国文の師、清水文雄の理解ある指導を受けて、その同人誌に推薦される。ペンネーム「三島由紀夫」は、伊藤左千夫の名にヒントを得てこのときから用いる。

【10月】 父・梓、農林省水産局長になる。  4.1 小学校を国民学校と改称/12.8 太平洋戦争始まる

◆1942年(昭和17年)17歳

【3月】 学習院中等科卒業。父・梓、水産局長を勇退。伊東静雄詩集「夏花」、及び王朝文学を愛読。

【4月】 詩「大詔」(「文芸文化」5巻4号)。学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に進学。主任教授は新関良三。文芸部委員となり、のち委員長となる。このころ、「文芸文化」の同人と交流を持つ。同人は清水文雄、蓮田善明、栗山理一、池田勉ら。同誌を通じて日本浪漫派の間接的影響を受ける。

【7月】 評論「古今の季節〜古今集論」(「文芸文化」5巻7号)。短編「苧菟(おっとう)と瑪耶(まや)」、中編「花ざかりの森の序とその一」、随筆「転載のことば」、詩「馬」、随筆「後記」(「赤絵」創刊号)。「赤絵」は、先輩・東文彦、徳川義恭との3人で出した同人誌。装幀は徳川義恭で400部の自費出版。顧問清水文雄。

【8月】 26日、祖父・定太郎死去(80歳)。

【10月】 詩「かの花野の露けさ」、書簡「清水文雄先生へ」(「文芸文化」5巻10号)

【11月】 短編「みのもの月」、評論「伊勢物語のこと」(「文芸文化」5巻11号)  5.20 翼賛政治会結成/6.5 ミッドウェー海戦始まる

◆1943年(昭和18年)18歳

【1月】 随筆「寿」(「文芸文化」6巻1号)。学習院図書館懸賞論文「王朝心理文学小史」が入賞。

【3月】 中編「世々に残さん」(「文芸文化」6巻3〜10号)

【6月】 詩「恋供養」、短編「祈りの日記」、随筆「後記」(「赤絵」2号)

【10月】 東文彦の夭折(23歳)により、「赤絵」は2号で廃刊。このころ、保田與重郎を初めて訪問。また富士正晴と知り、林富士馬に紹介される。中世文学に凝り、特に謡曲にひかれる。晩年まで能楽に親しむ。

【12月】 短編“Marchen von Mandala”(後に「曼陀羅物語」と改題)、詩「夜の蝉」、随筆「東健(たかし)兄を哭す」、随筆「夢野乃鹿」(「学習院輔仁会雜誌」169号)。評論「柳桜雑見録」(「文芸文化」6巻12号)  10.21 神宮外苑競技場で、出陣学徒の壮行会

◆1944年(昭和19年)19歳 [当時の資料]

【1月】 評論「古座の玉石〜伊東静雄覚書」(「文芸文化」7巻1号)

【5月】 郷里(兵庫県印南郡志方村)で徴兵検査を受け、第2乙種に合格。帰途大阪に初めて伊東静雄を訪ねる。

【6月】 評論「檀一雄『花筐(はながたみ)』〜覚書」(「まほろば」3巻2号・終刊号)。舞鶴海軍機関学校での訓練に参加。

【8月】 短編「夜の車」(「文芸文化」7巻4号・終刊号)。後に「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」と改題。翌月上旬にかけ沼津海軍工廠に勤労動員。

【9月】 学習院高等科を首席で卒業。天皇より恩賜の銀時計を拝受。ドイツ大使より文学の原書3册を贈られる。

【10月】 詩「彩雲抄」(「曼荼羅」創刊号)。処女短編集『花ざかりの森』(七丈書院)。出版は富士正晴らの尽力により、装幀は徳川義恭で定価5円。翌月、上野池之端・雨月荘で出版記念会を催す。このころ、中編「中世」執筆。東京帝国大学法学部法律学科(独法)に推薦入学。  3. 東京歌舞伎座など19の劇場が閉鎖/8.4 学童集団疎開始まる  8.23 女子挺身勤労令、学徒勤労令公布

◆1945年(昭和20年)20歳 [当時の写真]

【1月】 勤労動員で、群馬県太田町中島飛行機小泉工場へ行く。

【2月】 郷里での赤紙応召の入隊検査に際し、軍医の誤診により即日帰郷。

【5月】 勤労動員で、神奈川県海軍高座工廠の寮に入る。

【6月】 短編「エスガイの狩」(「文芸」2巻5号)。野田宇太郎の斡旋により、このとき初めて原稿科を貰う。東大文化委員の回覧雜誌「東雲(しののめ)」を編集。本名で発表。短編「黒島の王の物語の一場面」(「東雲」創刊号)。詩「バラアド」、同「もはやイロニイはやめよ」(「曼荼羅草稿」4輯)。同誌は庄野潤三、島尾敏雄、林富士馬らの同人誌で、以後廃刊。また同人らと佐藤春夫を訪ねる。

【7月】 詩「オルフェウス」、同「絃歌」、同「夜告げ鳥」、同「饗宴魔」、随筆「後記」(「東雲」2号)。「東雲」は2号で廃刊。高座工廠の寮で「岬にての物語」を起稿し、翌月脱稿。戦争末期は主として能楽と近松の世界に親しむ。

【8月】 15日、発熱のため、一家が移っていた世田谷区豪徳寺の親戚の家に帰り、そこで終戦を知る。「昭和二十年八月の記念に〜些か心情を述べて後鑑を俟つ」執筆。「文芸文化」同人、蓮田善明(陸軍中尉)、マレー半島ジョホールバールで終戦4日目に自決。

【10月】 23日、妹・美津子、聖心女子学院2年在学中に腸チフスで死去(17歳)。短編「菖蒲前(あやめまえ)」(「現代」26巻10号)  8.6 広島に原爆投下/8.9 長崎に原爆投下/8.15 終戦

◆1946年(昭和21年)21歳

【1月】 鎌倉に初めて中編「中世」、短編「煙草」の2作を持って川端康成を訪ねる。

【2月】 詩「落葉の歌」(「光耀」創刊号)。伊東静雄主宰の同人誌「光耀」に参加。同人は庄野潤三、島尾敏雄、林富士馬ら。

【6月】 評論「バルタザアルの死」(「文芸新誌」8巻3号)。短編「煙草」(「人間」1巻6号)。川端康成の推薦を受け、文壇に登場。鎌倉文庫に出入り自由となる。この後、「人間」に発表された作品の多くは、同誌編集長・木村徳三の助言を受ける。

【11月】 短編「岬にての物語」(「群像」1巻2号)。17日、成城学園高校素心寮で行われた蓮田善明追悼式に列席し、詩を捧げる。

【12月】 中世(「人間」1巻12号)。このころ、矢代静一らと共に太宰治を訪ねる。  1.1 天皇が人間宣言/3.5 冷戦の始まり

◆1947年(昭和22年)22歳

【4月】 短編「軽王子(かるのみこ)と衣通姫(そとほりひめ)」(「群像」2巻4号)。評論「宗十郎のことなど〜俳優論」(「日本演劇」5巻2号)

【8月】 短編「夜の仕度」(「人間」2巻8号)。短編「鴉(からす)」(「光耀」3号)。「光耀」は3号で廃刊。 【11月】 小説集『岬にての物語』(桜井書店)。東京大学法学部卒業。

【12月】 短編「ラウドスピーカー」(「文芸大学」創刊号)。長編「自殺企図者〜盗賊2章」(「文学会議」3輯)。短編「春子」(「人間 別冊(1)」人間小説集)13日、高等文官試験行政科に合格。24日、大蔵事務官に任官、銀行局国民貯蓄課に勤務。のちに、大蔵財務協会機関誌「財政」の編集に携わる。このころ、加藤周一、福永武彦、中村真一郎、窪田啓作らのマチネ・ポエティックの人々と交流を持つ。また林房雄と知る。  5.3 日本国憲法施行/8.1 東京都23区制  3.31 教育基本法・学校教育法公布(6・3・3・4制)

◆1948年(昭和23年)23歳 [当時の写真]

【1月】 短編「サーカス」(「進路」3巻1号)。短編「婦徳」(「令女界」26巻1号)

【2月】 長編「恋の終局そして物語の発端」(「午前」)、長編「盗賊」序章に当たる。短編「蝶々」(「花」7号)

【3月】 長編「出会」(「思潮」)、長編「盗賊」第3章に当たる。長編「嘉例」(「新文学」5巻3号)、長編「盗賊」第5章に当たる。評論「重症者の兇器」(「人間」3巻3号)

【5月】 戯曲「あやめ 1幕」(「婦人文庫」3巻5号)。短編「ツタンカーメンの結婚」(「財政」13巻5号)。評論「ドルヂェル伯の舞踏会〜作品研究」(「世界文学」21号)

【6月】 短編「頭文字」(「文学界」2巻6号)。短編「慈善」(「改造」29巻6号)。短編「宝石売買」(「文芸」5巻6号)。「近代文学」の、いわゆる第2次拡大期の同人参加の呼びかけを受ける。この第2次参加の顔ぶれは、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房、原民喜、高橋義孝、寺田透、船山馨、日高六郎、中田耕治ら。

【9月】 22日、創作に専念すべく決意し、大蔵省を退職。

【10月】 長編「美的生活者」(「文学会議」5輯)、長編「盗賊」第4章に当たる。皇居内のパレス乗馬倶楽部に入会。

【11月】 戯曲「火宅 1幕」(「人間」3巻11号)。25日、書き下ろし長編「仮面の告白」起稿。長編『盗賊』(真光社)

【12月】 短編「獅子」、座談会「文学の表現について」「編集後記」(「序曲」創刊号)。「序曲」創刊に参加。同人は、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生、野間宏、船山馨、寺田透、中村真一郎、島尾敏雄、埴谷雄高ら、1号で廃刊。小説集『夜の仕度』(鎌倉文庫)  1.26 帝銀事件/4.1 ソ連、ベルリン封鎖/5.1 美空ひばり、11歳でデビュー  6.13 太宰治心中事件/11.12 東京裁判判決 ◆1949年(昭和24年)24歳

【1月】 短編「大臣」(「新潮」46巻1号)。短編「恋重荷」(「群像」4巻1号)。短編「幸福といふ病気の療法」(「文芸」6巻1号)。短編「毒薬の社会的効用について」(「風雪」3巻1号)。評論「川端康成論の一方法〜〈作品〉について」(「近代文学」4巻1号)

【2月】 短編「魔群の通過」(「別冊文芸春秋」10号)。戯曲「愛の不安 1幕」(「文芸往来」1巻2号)。評論「中村芝翫(しかん)論」(「劇場」創刊号)。短編集『宝石売買』(講談社)。「火宅」…毎日ホ―ルで俳優座創作劇研究会第5回公演(青山杉作演出)

【4月】 27日、書き下ろし長編「仮面の告白」脱稿。

5月】 戯曲「灯台 1幕」(「文学界」3巻3号)

【7月】 短編「訃音」(「改造」30巻7号)。評論「一青年の道徳的判断」(「人間」4巻7号)。書き下ろし長編『仮面の告白』(河出書房)。「仮面の告白」ノート(『仮面の告白』・月報)。随筆「これはヘドである〜『仮面の告白』について」(「図書新聞」23日)。作品集『魔群の通過』(河出書房)

【10月】 短編「薔薇」(「文芸往来」3巻9号)。短編「退屈な旅」(「別冊小説新潮」12号)。戯曲「ニオベ 1幕」(「群像」4巻10号)。戯曲「聖女 1幕」(「中央公論文芸特集1号)

【11月】 「灯台」…大阪文学座で大阪放送劇団・関西実験劇場第4回公演(小山賢市演出)

【12月】 短編「怪物」(「別冊文芸春秋」14号)。学習院の先輩で「赤絵」の同人、徳川義恭死去(28歳)。後の短編「貴顕」はその追悼作。  4.23 1ドル360円に/7.5 下山事件/7.15 三鷹事件/8.17 松川事件  12.10 湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞

◆1950年(昭和25年)25歳

【1月】 短編「果実」(「新潮」47巻1号)。長編「純白の夜」(「婦人公論」36巻1〜10号)。「灯台」…毎日ホールで俳優座創作劇研究会第8回公演(作者演出)

【3月】 戯曲「魔神礼拝 4幕」(「改造」31巻3〜4号)

【4月】 評論「オスカア・ワイルド論」(「改造文芸」2巻4号)

【5月】 作品集『灯台』(作品社)

【6月】 書き下ろし長編『愛の渇き』(新潮社)。作品集『怪物』(改造社)

【7月】 短編「日曜日」(「中央公論文芸特集」)。長編「青の時代」(「新潮」47巻7〜12号)。京都鹿苑寺(金閣寺)放火事件起こる。

【8月】 短編「遠乗会」(「別冊文芸春秋」17号)。詩「オルフェウス」(「近代文学」5巻8号)。目黒区緑ケ丘2323番地に転居。

【9月】 16日、岸田国士、福田恆存、小林秀雄、千田是也ら文壇、演劇人30数名をもって、「文学立体化運動」を目指した「雲の会」結成に参加。

【10月】 戯曲「邯鄲(かんたん)〜近代能楽集の内 1幕」(「人間」5巻10号)

【12月】 短編「牝犬」(「別冊文芸春秋」19号)。長編『青の時代』(新潮社)。長編『純白の夜』(中央公論社)  1.7 千円札発行/6.25 朝鮮戦争勃発/7.8 警察予備隊発足

◆1951年(昭和26年)26歳

【1月】 短編「家庭裁判」(「文芸春秋」29巻1号)。戯曲「綾の鼓〜近代能楽集の内 1幕」(「中央公論文芸特集」6号)。長編「禁色(きんじき) 第1部」(「群像」6巻1〜10号)

【2月】 評論「檀一雄の悲哀〜当世作家論」(「文学界」5巻2号)

【3月】 中編「偉大な姉妹」(「新潮」48巻4号)。短編「椅子」(「別冊文芸春秋」20号)。短編「箱根細工」(「小説公園」2巻3号)。作品集『仮面の告白その他』(改造社)

【4月】 短編「死の島」(「改造」32巻5号)。自選作品集『聖女』(目黒書店)

【6月】 論争「批評家に小説がわかるか〜批評に対する私の態度」(「中央公論文芸特集」8号)。処女評論集『狩と獲物』(要書房)

【7月】 作品集『遠乗会』(新潮社)

【8月】 長編「夏子の冒険」(「週刊朝日」5日〜11月25日)。作品集『花ざかりの森』(雲井書店)。「純白の夜」…松竹で映画化(大庭秀雄監督)、三島出演。

【10月】 作品集『三島由紀夫短編集』(創芸社)、これは作品集『灯台』の改題本。舞踊劇「艶競近松娘」…明治座で第5回柳橋みどり会公演

【11月】 評論「日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?」(「演劇」1巻6号)。長編『禁色 第1部』(新潮社)。舞踊劇「姫君と鏡」…帝国劇場で青山圭男、若柳登新作舞踊発表会公演(青山圭男演出)

【12月】 短編「離宮の松」(「別冊文芸春秋」25号)。長編『夏子の冒険』(朝日新聞社)。25日、朝日新聞出版局長嘉治隆一の尽力により、特別通信員の資格で横浜から乗船、世界一周旅行に出発。 翌年5月10日帰国。この第1回外国旅行の印象は種々の雜誌に発表され、翌年10月『アポロの杯』としてまとめられる。このころ、吉田健一、大岡昇平、福田恆存、中村光夫らの「鉢の木会」に参加。  6.3 NHK、テレビ初の実験実況放送/9.8 日米安全保障条約調印  9.10黒沢明「羅生門」、ベニス国際映画祭でグランプリ受賞

◆1952年(昭和27年)27歳 [当時の写真]

【1月】 短編「クロスワード・パズル」(「文芸春秋」30巻1号)。戯曲「卒塔婆小町〜近代能楽集の内 1幕」(「群像」7巻1号)。短編「近世姑気質」(「オール読物」7巻1号)。北米滞在。 【2月】 戯曲「只ほど高いものはない 3幕16場」(「新潮」49巻2号)。対談「演劇と文学 芥川比呂志」(「文学界」6巻2号)。「綾の鼓」…三越劇場で俳優座第3回勉強会公演(島田安行演出)。「卒塔婆小町」…文学座アトリエで、文学座アトリエにより第6回公演(長岡輝子演出)。南米ブラジル滞在。

【3月】 紀行「旧教安楽」(「朝日新聞」5日)。紀行「リオの謝肉祭」(「朝日新聞」29日)。パリで戯曲「夜の向日葵」脱稿。同地で木下恵介、黛敏郎らと交遊。

【4月】 紀行「あめりか日記」(「群像」7巻4号)。翌月にかけロンドン、ギリシア、イタリア旅行の後、帰国。

【5月】 紀行「リオ・デ・ジャネイロ」(「新潮」49巻5号)。紀行「パリの芝居見物」(「朝日新聞」4日)。紀行「パリにほれず」(「朝日新聞」22日)

【6月】 紀行「南米紀行」(「別冊文芸春秋」28号)。紀行「遠視眼の旅人」(「週刊朝日」8日)。短編「真夏の死」起稿

【7月】 劇評「『班女』拝見」(「観世」19巻7号)。紀行「憂鬱なヨーロッパ〜欧州紀行」(「婦人公論」38巻7号)。対談「廃墟の誘惑 中村光夫」(「群像」7巻7号)。紀行「希臘・羅馬紀行」(「芸術新潮」3巻7号)。紀行「シルク・メドラノ〜欧州紀行」(「婦人公論」)

【8月】 長編「秘楽(ひぎょう)〜『禁色』第2部」(「文学界」6巻8〜7巻8号)。紀行「フォンテエヌブロオへのピクニック」(「近代文学」7巻8号)

【9月】 短編「金魚と奥様」(「オール読物」7巻9号)

【10月】 短編「真夏の死」(「新潮」49巻10号)。海外紀行『アポロの杯』(朝日新聞社)

【11月】 長編「にっぽん製」(「朝日新聞夕刊」1日〜28年1月31日)。帝国劇場で行われた文士劇「弁天娘女男白浪(べんてんむすめをのしらなみ)」に番頭由兵衛役で出演。

【12月】 短編「美神」、座談会「僕達の実体」(「文芸」9巻12号)  5.1 血のメーデー事件  5.19 白井義男、ボクシングのフライ級で日本人初の世界チャンピオンに

◆1953年(昭和28年)28歳

【1月】 「夏子の冒険」…松竹で映画化(中村登監督)

【2月】 作品集『真夏の死』(創元社)

【3月】 長編『にっぽん製』(朝日新聞社)。長編「潮騒」取材で三重県神島を訪れる。

【4月】 短編「江口初女覚書」(「別冊文芸春秋」33号)。戯曲「夜の向日葵・あとがき 4幕30場」(「群像」8巻4号)。短編「雛の宿」(「オール読物」8巻4号)

【6月】 短編「旅の墓碑銘」(「新潮」50巻6号)。短編「卵」(「群像増刊」8巻7号)。戯曲『夜の向日葵』(講談社)。「夜の向日葵」…大阪毎日会館で文学座公演(長岡輝子演出)、翌月にかけ東京第一生命ホールで公演。

【7月】 短編「不満な女たち」(「文芸春秋」31巻10号)。随筆「伊東静雄氏を悼む」(「祖国」5巻5号)。随筆「伊東静雄氏」(「プシケ」)。『三島由紀夫作品集』全6巻(新潮社)、翌年4月完結。 この作品集において「秘楽」の名を抹殺し、「禁色」1巻にまとめる。

【8月】 長編「恋の都」(「主婦の友」37巻9〜38巻7号)。再度神島を訪れる。

【9月】 短編「花火」(「改造」34巻11号)。長編『秘楽・禁色第2部』(新潮社)。長編「潮騒」起稿。

【10月】 短編「ラディゲの死」(「中央公論文芸特集」68年13号)。戯曲『未来劇場 綾の鼓』(未来社)。舞踊劇「室町反魂香」…明治座で第7回柳橋みどり会により公演(宮川英棋振付)

【11月】 評論「折口信夫氏のこと」(「三田文学」折口信夫追悼号)

【12月】 芥川龍之介原作「地獄変」…歌舞伎座で中村吉右衛門劇団により公演(久保田万太郎演出)、三島脚色。「にっぽん製」…大映で映画化(島耕二監督)。帝国劇場で行われた文士劇「仮名手本忠臣蔵」に磯川十郎左衛門役で出演。  2.1 NHK、テレビの本放送開始/3.14 バカヤロー解散

◆1954年(昭和29年)29歳

【1月】 戯曲「葵上〜近代能楽集の内 1幕」(「新潮」51巻1号)

【4月】 長編「潮騒」脱稿

【6月】 戯曲「若人よ蘇れ 3幕」(「群像」9巻6号)。これを機に、旧作「魔神礼拝」を作品目録から抹殺。書き下ろし双書(4) 長編『潮騒』(新潮社)

【7月】 短編「鍵のかかる部屋」(「新潮」51巻7号)。短編「復讐」(「別冊文芸春秋」40号)

【8月】 短編「詩を書く少年」(「文学界」8巻8号)。中編「女神」(「婦人朝日」〜30年3月)。散文詩「軽王子序詞」(「現代」創刊号)。「潮騒」映画化のため、東宝ロケ一行と共に3度神島へ行く。

【9月】 長編『恋の都』(新潮社)

【10月】 短編「志賀寺上人の恋」(「文芸春秋」32巻5号)。評論「ファッシズムは存在するか?」(「文学界」8巻10号)。後に「新ファッシズム論」と改題。小説集・昭和名作選5『鍵のかかる部屋』(新潮社)。「潮騒」…東宝で映画化(谷口千吉監督)

【11月】 短編「水音」(「世界」107号)。戯曲「鰯売恋曳網 1幕」(「演劇界」12巻12号)。短編「S・O・S」(「小説新潮」8巻15号)。評論「学生の分際で小説を書いたの記」(「文芸」11巻13号)。戯曲・一時間文庫『若人よ蘇れ』(新潮社)。評論集『文学的人生論』(河出新書)。「鰯売恋曳網」…歌舞伎座で吉右衛門劇団により公演(久保田万太郎演出)。「若人よ蘇れ」…俳優座劇場で俳優座により公演(千田是也演出)。歌舞伎座で行われた文士劇「雪月花歌舞伎 彩(いろどり)」に御所五郎蔵の子分平々役で出演。

【12月】 「潮騒」により第1回新潮社文学賞を受賞。この年より、新潮社「同人雑誌賞」が設立され、以後その選考委員を務める。  2.23 造船疑獄問題化/3.1 第5福竜丸ビキニ沖で被爆/7.1 自衛隊発足

◆1955年(昭和30年)30歳 [当時の写真]

【1月】 短編「海と夕焼」(「群像」10巻1号)。長編「沈める瀧」(「中央公論」70年1〜4号)。戯曲「班女〜近代能楽集の内 1幕」(「新潮」52巻1号)。長編・青春文学叢書『潮騒』(新潮社)

【2月】 舞踊劇「熊野(ゆや)」…歌舞伎座で莟会第2回公演(三島演出)。莟会は中村歌右衛門の歌舞伎実験劇場。

【3月】 短編「新聞紙」(「文芸」12巻3号)

【4月】 短編「商ひ人」(「新潮」52巻4号・創刊600号記念号)。短編「山の魂」(「別冊文芸春秋」)。長編『沈める瀧』(中央公論社)

【5月】 戯曲「熊野〜宗盛館の場・清水寺の場 2場」(「三田文学」45巻5号)

【6月】 評論「空白の役割〜青年の役割・特集」(「新潮」52巻6号)。評論「芸術にエロスは必要か」(「文芸」12巻7号)。長編「幸福号出帆」(「読売新聞」18日〜11月15日)。中編『女神』(文芸春秋新社)。「船の挨拶」より…文学座アトリエ第22回公演(三島演出)。「葵上」「只ほど高いものはない」…大阪毎日会館で文学座により公演(長岡輝子・戌井市郎演出)

【7月】 短編「牡丹」(「文芸」12巻9号)。作品集『ラディゲの死』(新潮社)。限定版『創作ノオト・盗賊』(ひまわり社)

【8月】 戯曲「三原色 1幕5場 付演出覚書」(「知性」2巻8号)。戯曲「船の挨拶 1幕」(「文芸」12巻10号)。評論「終末感からの出発〜昭和二十年の自画像」(「新潮」52巻8号) 【9月】 戯曲「白蟻の巣 3幕」(「文芸」12巻11号)、劇団青年座のために執筆。16日より、早大コーチの玉利齊について、自宅で週2回ボディ・ビル練習開始。 【10月】 「白蟻の巣」…俳優座劇場で青年座により第3回公演(菅原卓演出) 【11月】 書き下ろし評論『小説家の休暇』(講談社・ミリオンブックス)。「芙蓉露大内実記」…歌舞伎座で吉右衛門・猿之助劇団公演(三島演出)。東京宝塚劇場で行われた文士劇「屋上の狂人」に弟末次郎役で出演。 【12月】 戯曲「芙蓉露大内実記 1幕」(「文芸」)。評論「新恋愛講座」(「明星」〜31年9月)。随筆「現代の出版人(38) 嶋中鵬二氏」(「出版ニュース」上旬号)  5.8 砂川基地闘争/7.  石原慎太郎「太陽の季節」を発表/10.13 社会党統一  11.15 自民党結成(保守合同)

◆1956年(昭和31年)31歳 [当時の写真] 【1月】 長編「金閣寺」(「新潮」53巻1〜10号)。長編「永すぎた春」(「婦人倶楽部」〜12月)。戯曲集『白蟻の巣』(新潮社)。長編『幸福号出帆』(新潮社) 【3月】 戯曲「大障碍 1幕4場」(「文学界」10巻3号)、杉村春子のために執筆。オペラ「卒塔婆小町」…大阪産経会館で関西歌劇団創作歌劇第2回公演(石桁真礼生作曲・武智鉄二演出) 【4月】 評論「永遠の旅人〜川端康成氏の人と作品」(「別冊文芸春秋」51号)。1幕戯曲集『近代能楽集』(新潮社) 【6月】 作品集『詩を書く少年』(角川小説新書)。「中央公論」懸賞小説の選考委員になる。 【7月】 短編「足の星座」(「オール読物」11巻7号) 【8月】 評論「自己改造の試み〜重い文体と鴎外への傾倒」(「文学界」10巻8号) 【9月】 評論「亀は兎に追ひつくか?〜いわゆる後進国の諸問題」(「中央公論」71年10号) 【10月】 短編「施餓鬼舟(せがきぶね)」(「群像」11巻10号・創刊10周年記念号)。評論集『亀は兎に追ひつくか?』(村山書店)。長編『金閣寺』(新潮社)。限定版・長編『金閣寺』(新潮社) 【11月】 「鹿鳴館」…第一生命ホールで、文学座創立20周年記念により公演(松浦竹夫演出)、作者出演。 【12月】 短編「橋づくし」(「文芸春秋」34巻12号)。戯曲「鹿鳴館 悲劇4幕」(「文学界10巻12号)。長編『永すぎた春』(講談社)。舞踊劇・コクトオ原作「オルフェ」…東横ホールで喜多村峰瑞新作舞踊発表会により公演。このころ、日大拳闘部の小島智雄に会い、ボクシング練習を8カ月ほど続ける。この年より中央公論新人賞選考委員を32年を除き、36年まで務める。  ・英訳『潮騒』(米・クノップ)  2.19 「週刊新潮」創刊、以後週刊誌ブームに/3.19 住宅公団、初の入居者募集  7.17 経済白書「もはや戦後ではない」/12.18 日本、国連に加入

◆1957年(昭和32年)32歳 【1月】 短編「女方」(「世界」133号)。戯曲「道成寺〜近代能楽集の内 1幕」。対談「美のかたち〜『金閣寺』をめぐって 小林秀雄」(「文芸」14巻1号)。長編「金閣寺」により第8回読売文学賞を受賞、式後講演。 【2月】 評論「川端康成における東洋と西洋」(「国文学・解釈と鑑賞」(22巻2号) 【3月】 戯曲集『鹿鳴館』(創元社)。ジャン・ラシーヌ作「ブリタニキュス」の翻訳…第一生命ホールで文学座公演(矢代静一演出) 【4月】 戯曲「ジャン・ラシーヌ作 ブリタニキュス 5幕」(「新劇」39号)、安堂信也訳・三島由紀夫修辞。長編「美徳のよろめき」(「群像」12巻4〜6号)。「大障碍・綾の鼓」…文学座演劇研究所で文学座アトリエにより公演(松浦竹夫演出)。「ブリタニキュス」により第9回毎日演劇賞(劇団賞)を受賞。 【5月】 ジャン・ラシーヌ原作、安堂信也訳・三島由紀夫修辞『ブリタニキュス』(新潮社)。「永すぎた春」…大映で映画化(田中重雄監督)。「金閣寺」…新橋演舞場で新派により公演(村山知義演出) 【6月】 評論「現代小説は古典たり得るか」(「新潮」54巻6〜8号)。長編『美徳のよろめき』(講談社)。「班女」…千代田公会堂で俳優座スタジオ劇団・同人会により特別公演(田中千禾夫演出) 【7月】 戯曲「朝の躑躅(つつじ) 1幕」(「文学界」11巻7号)。短編「色好みの宮」(「オ―ル読物」12巻7号)。9日、アメリカの出版社クノップ社の招きで渡米。ミシガン大学で「日本文壇の現状と西洋文学との関係」と題し講演。翌年1月10日帰国。 【8月】 短編「貴顕」(「中央公論」72年10号)、学習院の先輩で「赤絵」の同人、徳川義恭の追悼作。「朝の躑躅」…新橋演舞場で新生新派と莟会の合同により公演(長岡輝子演出)、中村歌右衛門参加。 【9月】 評論「日本文壇の現状と西洋文学との関係〜ミシガン大学講演草稿」(「新潮」54巻9号)。評論集『現代小説は古典たり得るか』(新潮社)。限定版・長編『美徳のよろめき』(講談社)。西インド諸島・メキシコ・北米南部を旅行。 【10月】 12月にかけニューヨーク滞在。「美徳のよろめき」…日活で映画化(中平康監督) 【11月】 『三島由紀夫選集』全19巻(新潮社〜34年7月完結)、「収録作品年譜」収録。  ・英訳『近代能楽集』ドナルド・キーン訳(米・クノップ)(英・セッカー)  ・英訳『潮騒』(英・セッカー)  1.29 南極に昭和基地設営/10.4 ソ連人工衛星打ち上げ成功

◆1958年(昭和33年)33歳 [当時の写真] 【1月】 小説集『橋づくし』(文芸春秋新社) 赤ハコ(5版〜9月刊行)。スペイン、イタリアをめぐり、上旬帰国。 【2月】 「綾の鼓・邯鄲」…一ッ橋講堂で作品座第2回試演会により公演(新島寿演出)。産経ホールにおける谷崎潤一郎全集刊行記念、中央公論社愛読者大会に出席、「美食と文学」と題し講演。 【3月】 評論「心中論」(「婦人公論」43巻3号)。紀行「旅の絵本」(「新潮」55巻3号)。長編「鏡子の家」起稿。母・倭文重が咽喉の病気で東大病院に入院。山の上ホテルに泊まり執筆。 【4月】 「日記」(「新潮」55巻4〜56巻9号 翌年9月)、34年8月休載。後に「裸体と衣裳」としてまとめる。 【5月】 戯曲「薔薇と海賊 3幕」(「群像」13巻5号)。アメリカ紀行『旅の絵本』(講談社)。戯曲『薔薇と海賊』(新潮社)。「鉢の木会」同人らと河野與一の話を聞く会を発足。 【6月】 随筆「『花ざかりの森』出版のころ〜処女出版」(「群像」13巻6号)。11日、川端康成の媒酌により、日本画家杉山寧の長女瑤子(日本女子大学英文科2年在学中)と見合い結婚。麻布国際文化会館で挙式。本籍を兵庫県より東京目黒区に移す。このころ、剣道の稽古開始。師範は東調布警察署助教・吉川正美7段。 【7月】 評論「不道徳教育講座」正続(「週刊明星」27日〜翌年11月29日)。「薔薇と海賊」…第一生命ホールで文学座により公演(松浦竹夫演出) 【8月】 「金閣寺」…大映で「炎上」と題し映画化(市川昆監督)。「近代能楽集・邯鄲」…ハワイ、ホノルルのアーリントン・ホールで公演(ロバート・ソーラ演出) 【10月】 長編「鏡子の家 第1章・第2章」、訳詩「むかしと今」、随筆「編集後記」、随筆「同人雑記・抄」(「声」創刊号)。舞踊劇「橋づくし」…明治座で第11回柳橋みどり会により公演。「近代能楽集」…西ドイツの各地24都市で年末にかけ公演。神西清、大岡昇平、中村光夫、吉川逸治、吉田健一らと共に季刊誌「声」を創刊、同人編集参加。8カ月ほど続けたボクシングをやめ、ボディ・ビル練習に復帰。 【11月】 「むすめごのみ帯取池(おびとりのいけ)」…歌舞伎座で吉右衛門劇団・猿之助一座により公演(久保田万太郎演出)。東京宝塚劇場で行われた文士劇「音菊文春歌舞伎」に助六の髭の意休役で出演。 【12月】 戯曲「むすめごのみ帯取池 1幕2場」、戯曲「地獄変 1幕」(「日本」1巻12号)。「薔薇と海賊」により週刊読売新劇賞を受賞。この年までの日記が焼却される。1日、第一生命地下の道場で剣道の稽古開始、師範は山本孝行7段。  ・英訳『夜の向日葵』篠崎茂穂、V・A・ウォーレン共訳(北星堂)  ・英訳『仮面の告白』(米・ニューディレクションズ)  ・スロバキア訳『潮騒』(ザグレブ・ゾラ)  4.1 売春防止法施行/8.21 小松川事件/8.25 初のインスタントラーメン登場  10. 長島茂雄新人王/12.23 東京タワー完成

◆1959年(昭和34年)34歳 【1月】 評論「文章読本」(「婦人公論」別冊付録)。「不道徳教育講座」…日活で映画化(西河克己監督)、作者出演。長編「鏡子の家」第1部 脱稿、第2部起稿。近代能楽集「綾の鼓・葵上・邯鄲」…アメリカ、サンフランシスコのアンコール劇場で公演(ミッチェル・リフトン演出) 【2月】 「灯台」…東宝で映画化(鈴木英夫監督) 【3月】 評論『不道徳教育講座』(中央公論社)。「愛の不安」…文学座アトリエ勉強会により公演(水田晴康演出) 【4月】 書評「春日井建氏の歌」、戯曲「熊野〜近代能楽集の内 1幕」、随筆「同人雑記」(「声」3号)。カンタータ「祝婚歌」…NHKテレビ・ラジオでNHK交響楽団演奏会放送。産経ホールにおける「週刊文春」発刊記念講演会に出席し講演。 【5月】 評論「十八歳と三十四歳の肖像画〜文学自伝」(「群像」14巻5号)。10日、大田区馬込東1丁目1333番地(現南馬込4〜32〜8)に転居。新居の設計は清水建設の鉾之原捷夫で、白亜のコロニアル様式。「不道徳教育講座」…大阪中座で松竹新喜劇6月公演(館直志脚色)。近代能楽集「綾の鼓・卒塔婆小町・班女」…スウェーデンのストックホルム王立劇場で公演(ミミ・ポラク演出) 【6月】 評論『文章読本』(中央公論社)2日、長女・紀子誕生。 【8月】 このころ、東調布警察署助教吉川正美6段に剣道の指南を受ける。 【9月】 書き下ろし長編『鏡子の家』第1部・第2部(新潮社)。編著・写真集『六世中村歌右衛門』(講談社)、評論「六世中村歌右衛門序説」収録。「女は占領されない」…芸術座で東宝現代劇により公演(長岡輝子演出) 【10月】 戯曲「女は占領されない 4幕11場」、越路吹雪のために執筆。 【11月】 短編「影」(「オール読物」14巻11号)。評論集『裸体と衣裳』(新潮社)。「桜姫東文章」…歌舞伎座で公演(久保田万太郎演出)、作者監修。東京宝塚劇場で行われた文士劇「文春顔見世歌舞伎・弁天娘女男白浪」に、弁天小僧菊之助役で文士劇最後の出演。 【12月】 評論「近代能と新劇 英文」(「New Japan」)  ・英訳『金閣寺』(米・クノップ)(米・エイボンブックス)(英・セッカー)(日・タトル)  ・独訳『潮騒』(ハンブルグ、ローボルト)  ・独訳『近代能楽集』(ローボルト)  ・スペイン訳『近代能楽集』(アルゼンチン、マンドラゴラ)  3.17「少年サンデー」「少年マガジン」創刊/4.10 皇太子結婚

◆1960年(昭和35年)35歳 【1月】 戯曲「熱帯樹 悲劇3幕23場」。長編「宴のあと」(「中央公論」75年1〜10号)。長編「お嬢さん」(「若い女性」6巻1〜12号)。評論「社会料理三島亭」(「婦人倶楽部」〜12月)。「熱帯樹」…第一生命ホールで文学座により公演(松浦竹夫演出)) 【2月】 評論『続不道徳教育講座』(中央公論社) 【3月】 大映映画「からっ風野郎」(増村保造監督)の主題歌を作詞(深沢七郎作曲)、自ら朝比奈武夫役として出演。翌月、キングレコードから発売。 【4月】 オスカー・ワイルド原作「サロメ」…東横ホールで文学座により公演(作者演出)。近代能楽集「道成寺・班女」…メキシコシティのグラネロ劇場で公演 【5月】 鈴木力衛、長岡輝子、鳴海四郎、安堂信也らと共に文学座の企画参与となる。 【6月】 日米安全保障条約調印反対の国会周辺デモを取材。 【7月】 戯曲「弱法師(よろぼし)〜近代能楽集の内 1幕」(「声」)。「白蟻の巣」…文学座アトリエにより試演(中西由美演出)。近代能楽集「葵上」…オーストラリアケラングのメモリアル・ホールで公演(コーラル・ジャミエソン演出) 【8月】 15日から10日間、長編「獣の戯れ」取材のため浜名湖、西伊豆の安良里へ行く。 【9月】 短編「百万円煎餅」(「新潮」57巻9号) 【10月】 推薦文「伊東静雄全集推薦の辞」(「果樹園」56号)。対談「演劇と文学についてのまじめな放談 福田恆存」(「風景」創刊号)。座談会「近代文学の二つの流れ〜谷崎的なものと志賀的なもの」(「群像」15巻10号) 【11月】 短編「スタア」(「群像」15巻11号)。長編『宴のあと』(新潮社)。長編『お嬢さん』(講談社)。近代能楽集「綾の鼓・葵上・班女」…ニューヨークのデ・リース劇場で公演(ウォルト・ウィトコーバー演出)。1日より翌年1月にかけ、夫人同伴で世界一周旅行。アメリカ、ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、ギリシア、アラブ連合などを回る。ニューヨークのデ・リース劇場でエドワード・オルビーと対談。 【12月】 パリでジャン・コクトオと会う。  ・英訳『仮面の告白』(英・セッカー)(英・ピーター・オーエン)  ・英訳『真夏の死』(日本出版貿易)  ・オランダ訳『潮騒』(アムステルダム、ミューレンホフ)  ・フィンランド訳『潮騒』(オタワ)  1.19 日米新安保条約調印/6.15 安保反対デモで、東大学生樺美智子さんが死亡  10.12 浅沼社会党委員長が、右翼少年に刺殺/11.8 米大統領選で、ケネディ当選

◆1961年(昭和36年)36歳 [当時の写真] 【1月】 短編「憂国」(「小説中央公論」2巻1号)。季刊誌「声」10号で廃刊。小説集『スタア』(新潮社) 【2月】 「お嬢さん」…大映で映画化(弓削太郎監督)。近代能楽集「綾の鼓・葵上・卒塔婆小町」…ニューヨーク・シティのプレイヤーズ劇場で翌月にかけ50日間公演(ハーバート・メイチズ演出)。ニューヨークで「近代能楽集」試演を見る。 【3月】 長編「宴のあと」がモデル問題を惹起し、15日、元外相有田八郎よりプライバシー侵害のかどで提訴される。 【4月】 紀行「美に逆らふもの〜香港のタイガー・バーム・ガーデン」(「新潮」58巻4号)。評論「存在しないものの美学〜『新古今集』珍解」(「国文学・解釈と鑑賞」)。『神西清全集』全3巻(文治堂)の編集参加。剣道初段になる。 【5月】 日本ペンクラブ代表に、長編「宴のあと」問題につき説明。 【6月】 長編「獣の戯れ」(「週刊新潮」12日〜9月4日)。東京地裁で「宴のあと」プライバシー裁判初公判が開かれる。 【7月】 評論「魔〜現代的状況の象徴的構図」(「新潮」58巻7号)。「橋づくし」…歌舞伎座で新派により公演(榎本滋民脚色・演出) 【8月】 日記「21日のアリバイ〜八月の日記から」(「夕刊読売」21日) 【9月】 短編「苺」(「オール読物」16巻9号)。長編『獣の戯れ』(新潮社)15日、アメリカの「ホリデイ」誌に招かれて渡米し、半月ほどサンフランシスコに滞在。カリフォルニア大学共催の日本シンポジウムに出席、「日本の青年」と題し講演。29日までアメリカに滞在。 【10月】 評論「“Party of One”英文ドナルド・キーン訳」(「ホリデイ」日本特集号)。「灯台」…青年座稽古場で青年座第3回勉強会により公演(五十嵐康治演出) 【11月】 評論集『美の襲撃』(講談社)。「十日の菊」…第一生命ホールで文学座創立25周年記念により公演(松浦竹夫演出) 【12月】 戯曲「十日の菊 3幕29場」(「文学界」15巻12号)。戯曲「黒蜥蜴 3幕13場 江戸川乱歩原作による」(「婦人画報」)。パリの週刊誌「エクスプレス」が長編「金閣寺」を紹介。  ・英訳『潮騒』(日・タトル)(米・バークレイ)  ・独訳『金閣寺』(ミユンヘン、パウル・リスト)  ・伊訳『潮騒』(ミラノ、フェルトウリネリ)  ・フィンランド訳『金閣寺』(オタワ)  ・スロバキア訳『潮騒』(ブレゼルノバ・ヅルズバ)  2.1 嶋中事件(右翼少年の中央公論社社長襲撃)  4.12 ソ連、人間衛星打ち上げに成功(ガガーリン少佐)  4.19 米駐日大使にライシャワー着任

◆1962年(昭和37年)37歳 【1月】 短編「帽子の花」(「群像」17巻1号)。短編「魔法瓶」(「文芸春秋」40巻1号)。長編「美しい星」(「新潮」59巻1〜11号)。長編「愛の疾走」(「婦人倶楽部」43巻1〜12号)。評論「終末観と文学」(「毎日新聞」14日)。「十日の菊」で第13回読売文学賞(戯曲部門)を受賞。 【3月】 戯曲「源氏供養〜近代能楽集の内 1幕」(「文芸」復刊3号)。評論「近代能楽集について」(「国文学・解釈と鑑賞」27巻3号)。『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社)。江戸川乱歩原作「黒蜥蜴」…サンケイホールで水谷八重子・芥川比呂志らにより公演(松浦竹夫演出)。「黒蜥蜴」…大映で映画化(井上梅次監督) 【5月】 評論『不道徳教育講座』(中央公論社 新書版)。「綾の鼓」…新橋演舞場で新派により公演(松浦竹夫演出)2日、長男・威一郎誕生。このころ、ライフワーク「豊饒の海」の構想成る。 【6月】 晴海の自動車教習所へ運転練習に通う。 【8月】 短編「月」(「世界」200号・創刊200号記念号) 【9月】 長編「午後の曳航」取材のため横浜で乗船。 【10月】 評論「現代史としての小説 上下」(「毎日新聞夕刊」9〜10日)。評論「谷崎潤一郎論 上中下」(「朝日新聞」17〜19日)。長編『美しい星』(新潮社) 【11月】 「鹿鳴館」…新橋演舞場で新派により公演(戌井市郎演出)。ゲーテ原作「プロゼルピーナ」…伊勢丹ホールでサンケイ邦舞研究会により公演(堂本正樹演出)、能形式で三島訳。 【12月】 評論「第一の性」(「女性明星」〜39年12月)。編著『文芸読本 川端康成』(河出書房新社)。評論「川端康成序説」、座談会「川端康成氏に聞く」収録。  ・伊訳『金閣寺』(ミラノ、ガルザンティ)  ・スウェーデン訳『金閣寺』(ストックホルム,ボニエ)  ・韓国訳『潮騒』(ソウル、新太陽社)  8.12 堀江謙一、ヨットで太平洋横断  10.10 ファイティング原田、世界フライ級チャンピオンに  10.22 キューバ危機

◆1963年(昭和38年)38歳 【1月】 短編「葡萄パン」(「世界」205号)。短編「真珠」(「文芸」2巻1号)。長編「肉体の学校」(「マドモアゼル」〜12月)。評論「私の遍歴時代」(「東京新聞夕刊」10日〜5月23日)。長編『愛の疾走』(講談社)14日、芥川比呂志、仲谷昇、岸田今日子ら29名が文学座を去り、新たに劇団雲を結成。三島は文学座再建のために残り、理事となる。 【2月】 評論「林房雄論」(「新潮」60巻2号) 【3月】 限定版・細江英公写真集『薔薇刑』(集英社)の被写体モデルとなる。評論「細江英公序説」収録。長編『愛の疾走』(講談社)。剣道2段に昇進。 【4月】 随筆「筋肉と知性の練磨〜特集・わたしの中の“男らしさ”の告白」(「婦人公論」48巻5号)。「三原色」…草月会館で堂本正樹リサイタルにより公演(堂本正樹演出) 【6月】 劇評「可憐なるトスカ」、対談「文学座の新しい道・その一 安堂信也」(「文学座プログラム」)。ヴィクトリアン・サルドウ作、安堂信也訳・三島修辞「トスカ」…新宿厚生年金会館小ホールで文学座により公演(戌井市郎演出) 【7月】 日生劇場のためのオペラ「美濃子」脱稿。 【8月】 短編「雨のなかの噴水」(「新潮」60巻8号)。短編「切符」(「中央公論」78年8号)。評論「芸術断想」(「芸術生活」〜39年5月)。評論『林房雄論』(新潮社)。30日より翌月6日まで、長編「絹と明察」取材のため彦根、近江八景へ取材旅行。 【9月】 評論「天下泰平の思想」(「論争」27号)。書き下ろし長編『午後の曳航』(講談社)。「灯台」…新橋演舞場で新派により公演(戌井市郎演出)。舞踊劇「葵上」…イイノホールで花柳龍二リサイタルにより公演(堂本正樹脚色・演出) 【10月】 短編「剣」(「新潮」60巻10号)。戯曲「鹿鳴館」…明治座で新派により公演(戌井市郎演出)。細江英公写真集『薔薇刑』が西独フランクフルトのインターナショナル・ブックショーに出品され、大きな反響を呼ぶ。 【11月】 評論「わが創作方法〜創作方法の問題2」(「文学」31巻11号)。評論「文学座の諸君への公開状〜『喜びの琴』の上演拒否について」(「朝日新聞」27日)。23日、文学座のための戯曲「喜びの琴」が座内の反対で上演中止と決定され、文学座を脱退。矢代静一、松浦竹夫、賀原夏子、中村伸郎ら14名がこれに続く。 【12月】 小説集『剣』(講談社)  ・英訳『宴のあと』(米・クノップ)(英・セッカー)  ・スウェ―デン訳『近代能楽集』(ストックホルム、ボニエ)  ・スペイン訳『金閣寺』(バルセロナ、バラル)  ・ノルウェー訳『金閣寺』(オスロ、ギルデンダル)  3.31 吉展ちゃん誘拐事件/5.23 狭山事件/11.22 ケネディ大統領暗殺  12.15 力道山刺され、死亡

◆1964年(昭和39年)39歳 [当時の写真] 【1月】 長編「絹と明察」(「群像」19巻1〜10号)。長編「音楽」(「婦人公論」49巻1〜12号)。劇団NLTを結成しその顧問となる。 【2月】 戯曲「喜びの琴 3幕6場」(「文芸」)。長編『肉体の学校』(集英社)。戯曲集『喜びの琴 付・美濃子』(新潮社)。『三島由紀夫短編全集』(新潮社) 【3月】 「剣」…大映で映画化(三隅研次監督) 【4月】 評論集『私の遍歴時代』(講談社)。「潮騒」…日活で映画化(森永健次郎監督) 【5月】 長編『獣の戯れ』(新潮社 2版・白カバー)。「喜びの琴」…日生劇場で劇団四季により公演(浅利慶太演出)。長編「獣の戯れ」…大映で映画化(富本壮吉監督)。このころ、「春の雪」のライト・モチーフ浮かぶ。 【6月】 20日より10日間、出版打ち合わせのため渡米。 【7月】 限定版『三島由紀夫自選集』(集英社) 【8月】 「婦人公論」東京オリンピック記念論文の選考委員になる。「箱根細工」大阪新歌舞伎座で藤山寛美らにより公演(館直志脚本・演出)。2日より2週間、伊豆下田の東急ホテルで家族と共に過ごす。以後、例年8月は下田で過ごすことが慣例となる。 【8月】 長編『幸福号出帆』(桃源社)。翌月にかけ、東京オリンピックの取材記事を報知、読売、朝日、毎日の各紙に発表。河出書房新社第3回文芸賞の選考委員になる。係争中の長編「宴のあと」裁判は、東京地裁第一審で敗訴、被告側は翌月直ちに提訴上告。 【10月】 戯曲「恋の帆影 3幕」(「文学界」18巻10号)。長編『絹と明察』(講談社)。「恋の帆影」…日生劇場で水谷八重子らにより開場1周年記記念公演(浅利慶太演出) 【11月】 長編「絹と明察」により第6回毎日芸術賞(文学部門)を受賞。 長編「宴のあと」が国際文学賞候補に上る。河出書房新社『石原慎太郎文庫』全8巻の編集委員になる。 【12月】 評論『第一の性〜男性研究講座』(集英社・コンパクトブックス)  ・独訳『仮面の告白』(ハンブルグ、ローボルト)  ・伊訳『宴のあと』(ミラノ、フェルトウリネリ)  ・デンマ―ク訳『近代能楽集』『宴のあと』(コペンハーゲン、ギルデンダル)  ・韓国訳『美徳のよろめき』(ソウル、晴雲閣)  4.28 「平凡パンチ」創刊/8.10 ベトナム反戦集会  9.23 王貞治55号、ホームラン日本新記録  10.1 東海道新幹線開業/10.10 東京オリンピック

◆1965年(昭和40年)40歳 【1月】 短編「三熊野詣」(「潮騒」62巻1号)、短編「月澹荘綺譚」(「文芸春秋」43巻1号)。 評論「現代文学の三方向」(「展望」73号)。シナリオ「憂国」脱稿。 【2月】 短編「孔雀」(「文学界」19巻2号)。評論「法学士と小説」(「学士会会報」686号)。長編『音楽』(中央公論社)。9日より5月末まで、自宅3階増築のためホテル・ニュージャパンに滞在。 奈良の円照寺に「春の雪」取材のため訪れる。 【3月】 紀行「ロンドン通信」(「毎日新聞夕刊」25日)。英国文化振興会の招きでロンドン旅行、約1カ月滞在。 【4月】 翻訳・神秘劇「ガブリエレ・ダンヌンツィオ作『聖セバスチァンの殉教』」(「批評」復刊1〜3号)、池田弘太郎と共訳。紀行「続ロンドン通信 上下」(「毎日新聞」9〜10日)。村松剛、佐伯彰一らの「批評」が復刊され、山崎正和らと新しく同人に迎えられる。自作自演の短編映画「憂国」完成。共演鶴岡淑子。 【5月】 近代能楽集「弱法師・班女」…アートシアター新宿文化でNLT新宿文化提携により公演(水田晴康演出)。「灯台・綾の鼓」…日仏会館ホールで劇団造形公演(天野二郎演出)。浅野晃詩集「天と海(英霊に捧げる七十二章)」を朗読し、タクト音響レコードに吹き込む、題して「ポエムジカ」(詩楽)。 【6月】 短編「朝の純愛」(「日本」)。限定版・サフィール(15)『レスボスの果実』(プレス・ビブリオマーヌ)。近代能楽集「熊野」…歌舞伎座で中村歌右衛門により公演 【7月】 小説集『三熊野詣』(新潮社) 【8月】 評論「私の戦争と戦後体験〜二十年目の八月十五日」(「潮」)。評論『目〜ある芸術断想』(集英社) 【9月】 長編「春の雪〜『豊饒の海』第1巻」(「新潮」〜42年1月 62巻9〜64巻1号)。5日より11月にかけ、夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジア各地を旅行。長編「暁の寺」取材のためカンボジアのアンコール・ワットと並ぶ遺跡アンコール・トムに立ち寄る。このころ、谷崎潤一郎、ショーロフと並びノーベル文学賞候補に上る。 【11月】 戯曲「サド侯爵夫人 3幕」(「文芸」4巻12号)。評論「太陽と鉄」(「批評」〜43年6月 3〜12号)。戯曲『サド侯爵夫人』(河出書房新社)。「サド侯爵夫人」…新宿紀伊国屋ホールで劇団NLT・紀伊国屋ホール第2回提携により公演(松浦竹夫演出)。18日、「豊饒の海」取材のため、奈良の円照寺へ行く。このころ、碑文谷警察署で初めて居合抜きを習う。 【12月】 「肉体の学校」…東宝で映画化(木下亮監督)。戯曲「サド侯爵夫人」が文部省芸術祭賞(演劇)に決まる。  ・英訳『午後の曳航』(米・クノップ)  ・英訳『仮面の告白』(英・ワールド・ディストリビューターズ)  ・仏訳『宴のあと』(ガリマール)  ・スイス(独)訳『志賀寺上人の恋』(チューリッヒ、ディオゲネス)  ・スウェーデン訳『潮騒』(ストックホルム、ボニエ)  ・デンマーク訳『金閣寺』(コペンハーゲン、ギルデンダル)  2.7 ベトナム戦争で北爆開始/6.22 日韓基本条約調印  10.21 朝永振一郎、ノーベル物理学賞受賞/11.10 中国で文化大革命始まる

◆1966年(昭和41年)41歳 【1月】 短編「仲間」(「文芸」5巻1号)。長編「複雜な彼」(「女性セブン」5日〜7月20日)。戯曲「サド侯爵夫人」がツ―ル国際短編映画祭(世界短編映画コンクール)で次点となる。参議院議員会館道場で催された議員グループとの親善剣道大会に参加。 【2月】 評論「危険な芸術家」(「文学界」20巻2号)。対談「二十世紀の文学 安部公房」(「文芸」5巻2号)。評論・連載講座「をわりの美学」(「女性自身」14日〜8月1日) 【3月】 評論『反貞女大学』(新潮社)。皇居内の済寧館道場に剣道の稽古に通う。 師範は松永政美7段。 【4月】 評論「お茶漬ナショナリズム」(「文芸春秋」44巻4号)。限定版・短編『サーカス』(プレス・ビブリオマーヌ)。映画版『憂国』(新潮社)撮影台本。映画「憂国」…アートシアター系で封切り。 【5月】 評論「映画的肉体論〜その部分及び全体」(「映画芸術」)。対談「映画『憂国』の愛と死 川喜多かしこ」(「婦人公論」51巻5号)。剣道4段に昇進。 【6月】 短編「英霊の声」(「文芸」5巻6号)。作品集『英霊の声』(河出書房新社)。17日、「奔馬」取材のため、奈良市率川(いさがわ)神社三枝(さいぐさ)の百合祭を見る。長編「複雑な彼」…大映で映画化(島耕二監督) 【7月】 随筆「私の遺書」(「文学界」20巻7号)。「白蟻の巣」…日仏会館ホールで劇団造形により公演(天野二郎演出)。9日、大手町日経ホールで催された丸山(美輪)明宏のチャリティー・リサイタルにゲスト出演。自作の詩「造花に殺された船乗りの歌」を歌う。この年から芥川賞選考委員となる(第55回〜第63回 45年まで)。 【8月】 長編『複雑な彼』(集英社)。『三島由紀夫評論全集』(新潮社)。ドナルド・キーンと共に奈良の大神(おおみわ)神社に3日間参籠、三光の滝に打たれる。21日から10日間、「奔馬」取材のため京都・広島・熊本へ行く。江田島の元海軍兵学校教育参考館では特攻隊員の遺書を見る。熊本では「日本談義」主幹荒木精之に会い、神風連事跡ならびに遺跡をたずね、龍驤館道場で剣道の稽古を受ける。一夕、蓮田善明未亡人を囲み語る。 【9月】 長編「夜会服」(「マドモアゼル」〜42年8月)。評論「三島由紀夫レター教室〜手紙の輪舞」(「女性自身」〜42年 5月)。翻訳・審美劇ガブリエレ・ダンヌンツィオ作『聖セバスチァンの殉教』(美術出版社)、池田弘太郎と共訳。「綾の鼓」…虎ノ門ホールで名古屋青年劇団公演(加藤良明演出)。このころ、船坂弘より日本刀・関孫六を贈られる。 【10月】 短編「荒野より」(「群像」21巻10号)。対談『対話日本人論』(番町書房) 林房雄との対談集。ユウゴオ原作「リュイ・ブラス」…紀伊国屋ホールで劇団NLTにより公演(松浦竹夫演出)。このころ、自衛隊体験入隊の意志を明らかにする。 【11月】 評論「伊東静雄の詩〜特集・わが詩歌」(「新潮」63巻11号)。「アラビアン・ナイト」、日生劇場で北大路欣也、水谷良重らにより公演(松浦竹夫演出)、千秋楽に出演し歌う。11日、両陛下主催の秋の園遊会に招待される。28日、長編「宴のあと」問題は有田家との間に裁判上の和解成立。この年より中央公論社の谷崎潤一郎賞選考委員となる。長編「豊饒の海」第1巻(春の雪)脱稿。 【12月】 国立競技場で早朝マラソン練習。このころ「楯の会」の母体をなす青年たちと知る。  ・英訳『真夏の死 その他』(米・ニューディレクションズ)  ・オランダ訳『宴のあと』『金閣寺』        『近代能楽集』(アムステルダム、ミューレンホフ)  ・ノルウエー訳『午後の曳航』(オスロ、ギルデンダル)  ・フィンランド訳『宴のあと』(ヘルシンキ、オタワ)  ・ハンガリー訳『班女』(ブタペスト)  ・トルコ訳『仮面の告白』(イスタンブール、フスヌ・タビアト)  ・韓国訳『美徳のよろめき』(ソウル、知文閣)  ・韓国訳『橋づくし』(希望出版社)  2.4 全日空ボーイング727が、東京湾に墜落するなど、この年飛行機事故相次ぐ  6.29 ビートルズ来日/10.11「黒い霧」事件

◆1967年(昭和42年)42歳 [当時の写真] 【1月】 短編「時計」(「文芸春秋」45巻1号)。評論『宴のあと公判ノート』(唯人社)。雑誌芸能記者クラブ選出のゴールデン・アロー賞(話題賞)を受賞。 【2月】 長編「奔馬〜『豊饒の海』第2巻」(「新潮」〜43年8月 64巻2〜65巻8号)。20日、武智鉄二製作の映画「黒い雪」裁判の被告側証人として東京地裁に出廷、その芸術性を証言する。28日、川端康成、石川淳、安部公房と共に中国文化大革命に対する抗議アピールを発表。居合道初段になる。このころ、東京水道橋後楽園の日本空手協会で空手の稽古を開始。指導は中山正敏首席師範。 【3月】 評論「古今集と新古今集」(「広島大学国文学攷」42号)。評論「『道義的革命』の論理〜磯部一等主計の遺稿について」(「文芸」6巻3号)。作品集『荒野より』(中央公論社) 【4月】 評論「太陽と鉄」(「批評」7〜11号 43年3月)。11日より5月27日まで、久留米陸上自衛隊幹部候補生学校・富士学校教導連隊・習志野空挺団に、隊付として平岡公威の名で約1カ月半、第1回の体験入隊。M24戦車に試乗。この年より国立劇場の理事となる(45年11月まで)。 【5月】 座談会「われわれはなぜ声明を出したか〜芸術は政治の道具か?」(「中央公論」) 【6月】 インタビュー「自衛隊を体験する〜46日間のひそかな“入隊”」、談話「三島“帰郷兵”に26の質問」(「サンデー毎日」11日)。「鹿鳴館」…新宿紀伊国屋ホールで劇団NLTにより第6回公演(松浦竹夫演出)。「熱帯樹」…砂防会館ホールで代々木座と演劇研究会「塔」提携により公演(佐藤正隆演出)。この年から、日本文芸家協会の理事となる。長編「愛の渇き」…日活で映画化(蔵原惟繕監督)、43年2月封切り 【7月】 武智鉄二の「黒い雪」裁判に無罪判決下る。 【8月】 座談会「現代日本の革新とは〜ニュー・コンセンサス・メーカー大いに語る」(「論争ジャーナル」8号)。限定版・戯曲『サド侯爵夫人』(中央公論社)28日より末日まで、京都の仙洞御所を拝観。 【9月】 日本人の知恵(2)書き下ろし評論『葉隠入門《武士道は生きている》』(光文社・カッパビブリア)。「三原色」…新宿文化劇場地下のアンダーグラウンド蠍座で、アンダーグラウンド演劇により公演(堂本正樹演出)。26日より10月下旬にかけ、インド政府の招きにより夫人と同伴で「暁の寺」取材旅行。夫人は一足先に帰国。帰途ラオス・タイのバンコックに立ち寄る。弟・千之、ラオス大使館勤務。 【10月】 戯曲「朱雀家の滅亡 4幕」(「文芸」6巻10号)。随筆「いかにして永生を?」(「文学界」21巻10号)。紀行「インドの印象 上下」(「毎日新聞夕刊」20〜21日)。紀行「インド通信 上下」(「朝日新聞夕刊」23〜24日)。戯曲『朱雀家の滅亡』(河出書房新社)。「朱雀家の滅亡」…新宿紀伊国屋ホールで劇団NLTにより第7回公演(松浦竹夫演出)。番町書房『昭和批評大系』全4巻の編集参加。この年、サムエル・ベケット、アンドレ・マルロオと共に再びノーベル文学賞候補に上る。 【11月】 対談「文武両道と死の哲学 福田恆存」(「論争ジャーナル」1巻11号)。討論「反ヒューマニズムの心情と論理」(伊藤勝彦編『対話・思想の発生』番町書房)。「熊野」…歌舞伎座初代中村鴈次郎第33回忌追善として、中村歌右衛門らにより公演。近代能楽集「葵上・熊野」…新宿文化劇場でアートシアター第29回公演(堂本正樹演出) 【12月】 航空自衛隊百里基地より、稲葉2佐操縦のF104超音速ジェット戦闘機に、文士として初めて試乗。  ・英訳『宴のあと』『近代能楽集』『午後の曳航』(日・タトル)  ・英訳『宴のあと』(米・エイボンブックス)  ・英訳『仮面の告白』(英・スフィアブックス)  ・英訳『真夏の死』(英・セッカー)  ・独訳『宴のあと』(ハンブルグ 、ローボルト)  ・伊訳『金閣寺』(ミラノ、フェルトウリネリ)  ・伊訳『午後の曳航』(ミラノ、モンダドリ)  ・オランダ訳『仮面の告白』(アムステルダム、ベディゲ)  ・デンマーク訳『潮騒』(コペンハーゲン、ギルデンダル)  ・スウェーデン訳『午後の曳航』(ストックホルム、ボニエ)  3. 高見山、外国人初の関取/4.5 富山県で「イタイイタイ病」  4.15 美濃部東京都知事誕生/10.8 第1次羽田事件(京大生死亡)

◆1968年(昭和43年)43歳 【1月】 「『花ざかりの森』のころ」(「うえの」105号)。随筆「愛国心〜官製のいやな言葉」(「朝日新聞夕刊」8日)。箱根湯本「松乃茶屋」における座談会に出席、テーマは「日本人の再建」。 【2月】 小品「F104」(「文芸」7巻2号)。対談「天皇と現代日本の風土 石原慎太郎」(「論争ジャーナル」2巻2号)。北海道千歳演習場(信濃台)で陸上自衛隊第7師団の61式戦車に試乗。25日より30日まで、祖国防衛隊員と共に陸上自衛隊富士学校滝ヶ原分屯地に半月ほど体験入隊。 【3月】 御殿場市の陸上自衛隊富士学校滝ヶ原分屯地に、学生20名を引率体験入隊。東京の文京公会堂における団伊玖磨ポップス・コンサートに出演、軍艦マーチの指揮をとる。 【4月】 対談「私の文学を語る 秋山駿」(「三田文学 特集・三島由紀夫」55巻4号)。対談「文武の達人 国防を語る 源田実」(「国防」17巻4号)。『対談・人間と文学』(講談社)、中村光夫との対談集。江戸川乱歩原作「黒蜥蜴」…東京渋谷の東横劇場(夜の部)で丸山明宏、天知茂らにより松竹特別公演(松浦竹夫演出)、千秋楽にボディ・ビルスタイルで出演。「聖女」…池袋アートシアターで11人の会公演(鯉淵正光演出) 【5月】 長編「命売ります」(「プレイボーイ」21日〜10月8日)。評論「小説とは何か」(「波」〜45年11月)。評論「野口武彦氏への公開状」(「文学界」)。談話「これでいいのか日本の防衛」(「宝石」)。対談「東と西〜その接触・交流・反発 コラール」(「夕刊読売」13日)、コラールはスペイン文化使節。 長編「午後の曳航」がフォルメントール国際文学賞の第2位に入賞。劇団NLTを脱退し、松浦竹夫、中村伸郎らと共に新たに劇団浪漫劇場を創立、その幹事となる。3日より5日まで、八王子郊外の大学セミナー・ハウス講堂における日本学生同盟セミナー全国合宿研修会(文化フォーラム)に、林房雄、村松剛らと共に講師として出席。 【6月】 評論「若きサムライのための精神講話」(「Pocketパンチ Oh!」〜44年5月)。16日、一橋大学における学生との討論集会に出席、テーマは「国家革新の原理」。東京市ヶ谷の私学会館における全日本学生国防会議結成大会に出席、祝辞を述べる。阿川弘之、井上靖、伊藤整、川端康成、平林たい子らと共に「日本文化会議」に発起人として参加。45年春まで理事を務める。 【7月】 評論「文化防衛論」(「中央公論」83年7号)。評論「五月革命」(「論争ジャーナル」)。評論『三島由紀夫レター教室』(新潮社)。『討論・現代日本人の思想〜国民講座・日本の再建1』(原書房)、会田雄次ほか8氏。バレエ「憂国」…小沢金四郎リサイタル公演(小沢金四郎構成・振付)。「聖女」…東京新宿文化地下のアンダーグラウンド蠍座で、アンダーグラウンド演劇により公演。25日より8月23日まで、御殿場市の陸上自衛隊富士学校滝ヶ原分屯地に学生33名を引率、半月ほど体験入隊。 【8月】 座談会「戦後のデモクラシーと反抗する世代」(「論争ジャーナル」2巻8号)。評論「わが“自主防衛”〜体験からの出発」(「毎日新聞夕刊」22日)。「黒蜥蜴」…松竹で丸山明宏・木村功らの出演で映画化(深作欣二監督)、作者出演 11日、剣道5段(錬士)に昇進。このころ、早大生・森田必勝を知る。 【9月】 長編「暁の寺〜『豊饒の海』第3巻」(「新潮」〜45年4月)。対談「肉体の運動・精神の運動〜芸術におけるモラルと技術 石川淳」(「文学界」)。口述筆記・評論「栄誉の絆でつなげ菊と刀」(「日本及び日本人」)。一橋大学日本文化研究会主催の討論集会に参加。23日より29日まで、京都国際会館におけるユネスコ主催「日本文化研究国際会議」に出席。日本文化会議理事に就任。体験入隊学生グループと共に空手の稽古。「楯の会」の名称が正式に決まる。 【10月】 評論「橋川文三氏への公開状」(「中央公論」83年10号)。評論「私の自主防衛論」(「日経連タイムス」31日)。評論「秩序の方が大切か〜学生問題私見」(「サンケイ新聞夕刊」8日)。座談会「三島由紀夫氏と体験入隊学生は語る」(「論争ジャーナル」2巻10号)。評論『太陽と鉄』(講談社)。バレエ「ミランダ」…日生劇場で文化庁・芸術祭執行委員会主催の明治100年記念公演として、日生劇場その他で牧阿佐美・谷桃子両バレエ団により公演(橘秋子演出)。ジャン・コクトオ原作「双頭の鷲」…渋谷東横劇場で松竹特別公演(松浦竹夫演出)、三島監修3日、早稲田大学大隈講堂における、同大学尚史会主催の全学連学生との討論集会に参加。5日、虎ノ門教育会館で自衛隊入隊学生をもって「楯の会」を正式に結成。制服デザイナーは西武デパート専属の五十嵐九十九。 【11月】 評論「自由と権力の状況」(「自由」10巻11号)。評論「AllJapanese are perverse」、グラビア「男の死」(「血と薔薇」創刊号)。限定版・短編『岬にての物語』(牧羊社)16日、茨城大学茨苑祭実行委員会主催の討論集会に参加、テーマは「日本革新の原理」。11日、東大学園紛争で軟禁状態の林健太郎文学部長に会うべく、阿川弘之と東大駒場教養学部に駆けつける。20日、横須賀小原台の防衛大学に招かれ、「素人防衛論」と題し講演。 【12月】 戯曲「わが友ヒットラー 3幕」(「文学界」22巻12号)。座談会「東大はどこへ行くのか」(「文芸春秋」46巻13号)。戯曲『わが友ヒットラー』(新潮社)。長編『命売ります』(集英社)。東京九段下の千代田公会堂における、日本学生同盟結成2周年記念中央集会に出席し講演。東京赤坂の乃木会館における関東学協結成大会に出席し講演。  ・英訳『禁色』(米・クノップ)(英・セッカー)  ・仏訳『午後の曳航』(ガリマール)  ・デンマーク訳『午後の曳航』(コペンハーゲン、ギルデンダル)  ・アラブ訳『潮騒』(ダル・アルカティブ)  ・韓国訳『金閣寺』(ソウル、新丘文化社)  1.19 エンタープライズ、佐世保入港/1.29 東大紛争始まる  5.27 日大全共闘結成/12.11 川端康成、ノーベル文学賞受賞  12.20 3億円事件発生

◆1969年(昭和44年)44歳 【1月】 カラーグラビア「月々の心」(「婦人画報」〜12月)。対談「安保問題をどう考えたらよいか 猪木正道」(「現代」3巻1号)。座談会「日本を考える」(「経営者」23巻1号)。評論「現代青年論」(「読売新聞」1日)。評論「維新の若者」(「報知新聞」1日)。評論「楯の会の決意」(「楯」創刊号)。評論「沖縄と蝶々夫人の子供 英文」(「The New York Times」)。長編『春の雪』(新潮社)。「わが友ヒットラー」…劇団浪漫劇場により東京新宿紀伊国屋ホールで村上冬樹、中村伸郎らにより旗上げ公演(松浦竹夫演出) 【2月】 評論「反革命宣言」(「論争ジャーナル」)。長編『奔馬』(新潮社)。御殿場市の陸上自衛隊冨士学校教導連隊に、学生45名を引率体験入隊。このころ、西東高靖について居合を習い3カ月後に初段となる。 【3月】 映画評「“総長賭博”と“飛車角と吉良常”のなかの鶴田浩二」(「映画芸術」)。随筆「雪〜うちそと」(「朝日新聞」PR版 2日) 【4月】 口述筆記「自衛隊二分論〜日本の防衛を考える」(「20世紀」)。座談会「暴力・学生・ナショナリズム」(「批評」15号)。座談会「日本の防衛」(「今週の日本」28日)。評論「川端文学の美〜冷艶“生”と“死”が同居する」(「毎日新聞夕刊」24日)。評論集『文化防衛論』(新潮社)。5日、日本武道館における世界剣道選手権大会に出場。12日、東京平河町の日本経営研究所における、日本文化会議特別研究会主催の討論集会に出席。テーマは「日本は国家か」。 【5月】 評論「男らしさの美学」(「男子専科」)。戯曲『サド侯爵夫人』(新潮社)。戯曲『黒蜥蜴』(牧羊社)。「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」…東京大手町の農協ホールで、劇団浪漫劇場により第2回公演(松浦竹夫演出)。12日、東大駒場教養学部における、全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会主催の討論集会に単身参加。 【6月】 対談「サムライ 中山正敏」(「勝利」)。戯曲『癩王のテラス』(中央公論社)。評論集『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』(新潮社)。ソ連機関紙「ソビエッカ・ロシア」が「楯の会」批判。 【7月】 評論「北一輝論〜『日本改造法案大綱』を中心として」(「三田文学」56巻7号)。戯曲「癩王のテラス 3幕7場」(「海」創刊特大号)。評論『若きサムライのために』(日本教文社)。「癩王のテラス」…劇団雲・劇団浪漫劇場提携により北大路欣也、山田五十鈴、岸田今日子らにより帝国劇場で公演(松浦竹夫演出)。10日から12日まで「椿説弓張月」取材のため沖縄へ行く。30日、映画「人斬り」完成試写パーティーに出席。 【8月】 評論「『古事記』と『万葉集』〜“日本文学小史”の内」(「群像」24巻8号)。「人斬り」…大映で映画化(五社英雄監督)、三島出演 【9月】 評論「行動学入門」(「Pocketパンチ Oh!」〜翌年8月)。 座談会「『権力なき国家』の幻想」(読売新聞社『日本は国家か』)。「春の雪」…日比谷芸術座で東宝現代劇特別公演として市川染五郎、佐久間良子、一の宮あつ子らにより公演(菊田一夫脚色・平山一夫演出)、4カ月ロングラン 【10月】 対談「『三島部隊』憂国の真情 村上兵衛」(「読売新聞」21日)。サルドウ原作「皇女フェドラ」…新宿紀伊国屋ホールで劇団浪漫劇場第3回公演(寺崎嘉浩演出)、三島監修。曲亭馬琴原作「椿説弓張月」上の巻(伊豆国大島の場)の台詞を朗読、日本コロンビアLPレコードに吹き込み東京高輪プリンスホテルで発表。21日、国際反戦デーのデモを銀座、新宿で見る。25日、蓮田善明25回忌出席のため荻窪へ行く。 【11月】 短編「蘭陵王」(「群像」24巻11号)。戯曲「椿説弓張月 3幕8場」(「海」1巻6号)。評論「楯の会のこと(英文)」(「QUEEN」)。評論「楯の会のこと」(「楯の会パンフレット」)。対談「大いなる過渡期の論理 高橋和巳」(「潮」)。限定版・戯曲『椿説弓張月』(中央公論社)。曲亭馬琴原作「椿説弓張月」…国立劇場で嵐三右衛門、松本幸四郎、市川猿之助らにより開場3周年記念第28回歌舞伎公演(作者演出) 【12月】 対談「リモコン左翼に誠なし 林房雄」(「流動」創刊号)。8日から4日間、韓国へ旅行。  ・英訳『禁色』(日・タトル)  ・英訳『愛の渇き』(米・クノップ)  ・仏訳『潮騒』(ガリマール)  ・伊訳『仮面の告白』(ミラノ、フェルトウリネリ)  ・オランダ訳『午後の曳航』(アムステルダム、ミューレンホフ)  ・スウェーデン訳『宴のあと』(ストックホルム、ボニエ)  ・ロシア訳『宴のあと』(ターリン、イイスチ・ラマト)  ・ハンガリー訳『近代能楽集』(ブタペスト、ヨーロッパ)  ・韓国訳『金閣寺』『真夏の死』(ソウル、民衆書館)  1.18 東大安田講堂、封鎖解除  6.29 新宿西口地下広場で、反戦フォークソング集会  7.20 米アポロ11号、初の月面着陸に成功

◆1970年(昭和45年)45歳 [当時の写真] 【1月】 評論「同志の心情と非情〜同志感と団結心の最後的表象の考察」(「潮」121号)。対談「剣か花か〜七十年乱世 男の生きる道 野坂昭如」(「宝石」6巻1号)。対談「尚武の心と憤怒の抒情 新春対談 村上一郎」(「日本読書新聞」18日)。対談「二・二六将校と全学連学生との断絶 堤清二」(「財界」)。評論「道理の実現(上中下)〜特集・『変革の思想』とは(7〜9)」(「夕刊読売」19・21・22日)。限定版・戯曲『黒蜥蜴』(牧羊社)。戯曲『弓張月』(中央公論社)。11日、日本文化会議主催「世界ジャーナリスト・シンポジウム」の打ち合わせ会及び歓迎レセプションに出席。 【2月】 評論「『眠れる美女』論」(「国文学・解釈と教材の研究」15巻3号 特集・川端康成 その孤影の文学)。対談「“菊と刀”を論ずる 伊沢甲子麿」(「時の課題」14巻2号)。座談会「ハラを割って世相総まくり」(「インテルサット」15日)。対談「中曽根防衛庁長官と語る 作家三島由紀夫」(「朝雲」12日) 【3月】 評論集『三島由紀夫文学論集』(講談社)。米誌「エスクワイア」の企画“世界の100人”に、芸術家として日本より唯一人選ばれ、日本のヘミングウェイと称される。1日から28日まで、御殿場市の陸上自衛隊富士学校滝ケ原分屯地に、学生30名を引率体験入隊。このころから、楯の会学生長森田必勝との間で決起計画が進められる。 【4月】 対談「自衛力充実の新路線 中曾根康弘」(「国防」19巻4号)。 日本文化会議の理事と、「批評」同人を辞める。「楯の会」学生小賀正義・小川正洋が決起計画に参加。 【5月】 対談「三島文学の背景 三好行雄」(「国文学・解釈と教材の研究」増刊号・三島由紀夫のすべて)。戯曲『春の雪』全5巻(ポニーカセット)。講演集『憂国の論理〜』福田恆存ほか6氏(日本教文社)、講演「日本の歴史と文化の伝統に立って」収録。 【6月】 評論「『懐風藻』と『古今和歌集』〜“日本文学小史”の内」(「群像」25巻6号)。評論「士道について〜石原慎太郎氏への公開状」(「毎日新聞夕刊」12日)。限定版・短編『鍵のかかる部屋』(プレス・ビブリオマーヌ)。詩「楯の会の歌」(「クラウンレコード・パンフレット」)。楯の会の歌「起て! 紅の若き獅子たち」を作詞し、「英霊の声」朗読と共にクラウンレコードに吹き込む(越部信義編曲)。19〜20日、東京九段の日本武道館における第13回全国空手道選手権大会に「楯の会」会員と共に参加。空手初段に合格。このころより、東京市ヶ谷駐屯地のバルコニー前広場で、毎月1回、楯の会の軍事訓練を行う。30日、公正証書による遺言状を作成。長編「仮面の告白」「愛の渇き」の2作の著作権を母に贈る。 【7月】 長編「天人五衰〜『豊饒の海・最終巻』」(「新潮」〜翌年1月 67巻7〜68巻1号)。評論「果たし得ていない約束〜テーマ随想・私の中の二五年(1)」(「サンケイ新聞夕刊」7日)。評論「祖国防衛の構想」(「青雲」5号)。長編『暁の寺』(新潮社)。2日、国立劇場で歌舞伎俳優養成所研究生に特別講義。 22日、奈良の円照寺へ取材旅行。 【8月】 1日、伊豆下田東急ホテルで「天人五衰」最終章を脱稿。 【9月】 評論「革命哲学としての陽明学」(「諸君!」2巻9号)。評論「文化的な概念としての天皇」(「現代のエスプリ」45号)。随筆「独楽」(季刊誌「辺境」2号)。随筆「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」(「たきがはら」創刊号)。評論「訓話・孤立ノススメ」(「青雲」6号)。対談集『尚武のこころ』(日本教文社)。楯の会の最終的パレードを国立劇場屋上で行う。10日から12日まで、御殿場市の滝ヶ原分屯地に学生50名を引率体験入隊。 【10月】 対談「現代歌舞伎への絶縁状 武智鉄二」(「芸術生活」29巻10号)。評論集『行動学入門』(文芸春秋)。評論集『作家論』(中央公論社)。対談集『源泉の感情』(河出書房新社)。「薔薇と海賊」…東京新宿紀伊国屋ホールで、劇団浪漫劇場により第6回公演(松浦竹夫演出)。19日、決起計画参加の4人と、半蔵門の東條会館写真部で最後の記念撮影。 【11月】 対談「文学は空虚か 武田泰淳」(「文芸」9巻11号)。評論「序、書物の河、舞台の河、肉体の河、行動の河」(東京池袋 東武百貨店『三島由紀夫展カタログ』)。3日、自宅で島崎博らと「定本三島由紀夫書誌」の打ち合わせ。4日から3日間、御殿場市の滝ヶ原分屯地に学生45名を引率、最後の体験入隊。12日から1週間にわたり、東京池袋東武百貨店で「書物・舞台・肉体・行動」の4つの流れに区分した「三島由紀夫展」が開催され、連日盛況であった。17日、帝国ホテルにおける「中央公論」刊行1000号記念と、谷崎・吉野両賞贈呈祝賀パーティーに出席。25日、ライフワーク長編『豊饒の海』最終章「天人五衰」完結の日、「楯の会」学生長森田必勝ほか3名の同志と、東京市ヶ谷陸上自衛隊東部方面総監部に至り、自衛隊の覚醒と決起を促すも果たさず、「天皇陛下の万歳」を三唱して古式に習い割腹自決。時に午後零時15分。森田また介錯後これに従い殉じる(25歳)。「檄」「辞世二首」。翌日、自宅で密葬。戒名彰武院文鑑公威居士。 【12月】 対談「破裂のために集中する 石川淳」(「中央公論」85年12号)。対談「いまにわかります 古林尚」(「図書新聞」〜翌年1月)。書簡「三島由紀夫〜最後の手紙」(「朝日新聞」9日)。11日、池袋豊島公会堂で文化人・学生有志による追悼の夕。  ・英訳『仮面の告白』『愛の渇き』(日・タトル)  ・英訳『午後の曳航』(英・セッカー)(英・ペンギンブックス)  ・英訳『愛の渇き』(英・セッカー)(米・バークレイ)  ・英訳『太陽と鐡』(講談社インターナショナル)(米・グローヴプレス)  ・スウェーデン訳『美しい星』(ストックホルム、ボニエ)  ・韓国訳『不道徳教育講座』(ソウル、微文出版社)  ・韓国訳『金閣寺』(同和出版公社)  ・中国訳『金閣寺』『愛の渇き』(台北、志文出版社)  ・中国訳『真夏の死』(台北、皇冠出版社)  ・中国訳『憂国』(台北、巨人出版社)  3.14 大阪万博開幕/3.31 赤軍派よど号事件/7.18 光化学スモッグ発生

◆1971年(昭和46年) 【1月】 評論「『豊饒の海』ノート、小説とは何か」(「新潮」増刊 三島由紀夫読本)。対談「いまにわかります、もうこの気持は抑えようがない 戦後派作家対談7 三島由紀夫編 古林尚」(「図書新聞」1日)。評論「わが同志感」(「潮」136号)。限定版『橋づくし』(牧羊社)。短編集『三島由紀夫十代作品集』(新潮社)。写真集『新輯版 薔薇刑』(集英社)。14日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨埋葬。24日、築地本願寺で葬儀を行う。葬儀委員長は川端康成。 【2月】 評論「祖国防衛隊はなぜ必要か」(「現代」)。評論「我が同志感」(「潮」)。講演「三島事件・二つの記録〜三島由紀夫の講演 中曽根康弘」(「文芸春秋」)。長編『天人五衰』(新潮社)。「サロメ」…紀伊国屋ホールで劇団浪漫劇場により第7回三島由紀夫追悼公演(三島演出)。28日、楯の会解散式が西日暮里の神道禊大教会で三島瑶子出席のもとに行われる。 【3月】 限定版・短編『蘭陵王 自筆復元版』(講談社)。23日、東京地裁で三島事件(楯の会裁判)第1回公判が開かれる。裁判長は櫛淵理。 【4月】 戯曲「附子」(「中央公論」) 【5月】 評論集『蘭陵王』(講談社)。「灯台」…京都くるみ座稽古場で、くるみ座により第37回小さい劇場公演(大浜豊演出) 【6月】 「室町反魂香」…国立劇場で歌舞伎公演(利倉幸一演出)。パリで三島忌。 【8月】 書簡「三島由紀夫が綴る“若き日の苦悩”の手紙」(「女性自身」28日) 【9月】 「朱雀家の滅亡」…朝日生命ホールで劇団浪漫劇場により三島由紀夫追悼公演(松浦竹夫演出)。「潮騒」…東宝で映画化(森谷司郎監督) 【11月】 限定版・長編『仮面の告白』(講談社)。「椿説弓張月」…国立小劇場開場5周年記念により第20回文楽公演(山田庄一演出)。25日、平岡家による三島由紀夫1年祭が皇居前パレスホテルで神式により営まれる。第2回追悼の夕「憂国忌」が、文化人有志と実行委員会により九段会館で催され、以後この日の例年行事となる。 【12月】 評論「内なる日本 英文」(「This is Japan」18号)。「双頭の鷲」…渋谷東横劇場で天の会により公演  ・英訳『サド侯爵夫人』(日・タトル)  ・英訳『真夏の死』(英・ペンギンブックス)  ・英訳『金閣寺』(米・バークレイ)  ・独訳『真夏の死』(ハンブルグ、ローボルト)  ・仏訳『仮面の告白』(ガリマール)  ・伊訳『真夏の死』(ミラノ、ロンガネシ)  ・フィンランド訳『午後の曳航』(ヘルシンキ、オタワ)  ・スロバキア訳『午後の曳航』『宴のあと』(マチカ・スルプスカ)  ・中国訳『美徳のよろめき』(台北、巨人出版社)  ・中国訳『天人五衰』(台北、星鐘出版社)  6.17 沖縄返還協定調印/7.30 自衛隊機と全日空機、雫石で衝突  8.16 ドルショック

◆1972年(昭和47年) 【1月】 島崎博・三島瑶子編『定本三島由紀夫書誌』(薔薇十字社) 【2月】 詩「初等科時代の詩」、小品「江ノ島えん足の時」(「諸君!」) 【3月】 評論『小説とは何か』(新潮社) 【4月】 評論「夭折の資格に生きた男」(小森和子『ジェームズ・ディーン』芳賀書店)。27日、東京地裁で三島事件第18回判決公判が開かれ、3被告に懲役4年の実刑判決。 【5月】 評論「クナアベン・リーベ〈少年愛〉」(「うえの」157号)。『現代の文学11 三島由紀夫集』(講談社) 【6月】 評論「解説」(川端康成作「『禽獣・抒情歌・眠れる美女』」)(「新潮増刊」)。評論「青年と国防」(『神宮の森』明治神宮)。推薦文(ラウシュニング著『永遠なるヒットラー』都市出版社・オビ) 【8月】 評論「谷崎文学の世界」(「別冊新評」)。対談「武器の快楽 三島由紀夫」(大藪春彦著『狼はしなやかに跳ぶ』徳間書店) 【9月】 対談「日本美の再発見 生方たつゑ」(生方たつゑ詩集『私の星は燃える』東京美術社) 【10月】 評論「デカダンスの聖書」(「別冊新評」)。評論「雨月物語について」(「別冊現代詩手帳」1巻3号)。長編『音楽』(講談社・ロマンブックス)。推薦文「讃」(塚本邦雄『ハムレット』深夜叢書社) 【11月】 評論『日本文学小史』(講談社)。「音楽」…ATG・行動社提携で映画化(増村保造監督) 【12月】 評論「軽金属と天使」(「サブ」5号)。 評論「歴史的題材と『鹿鳴館』」(「日生劇場プログラム」)。「鹿鳴館」…日生劇場で松竹・三島由紀夫作品連続公演I(松浦竹夫演出)  ・英訳『春の雪』(日・タトル)(米・クノップ)  ・スペイン訳『春の雪』(バルセロナ、カラルト)  ・ポーランド訳『午後の曳航』(ワルシャワ、パンストボヴィ)  ・韓国訳『金閣寺』(ソウル、同和出版公社)  ・韓国訳『行動学入門』(人文出版社)  ・中国訳『太陽と鉄』(台北、林白出版社)  1.24 横井庄一元軍曹、グアムで発見/2.28 連合赤軍浅間山荘事件  5.15 沖縄の施政権返還/9.29 日中共同声明調印(日中国交回復)  10.28 中国からパンダ到着

◆1973年(昭和48年) 【1月】 評論「昭和四十五年八月十日〜取材ノート」(「波」〜5月)。評論「遠野物語」(「国文学・解釈と教材の研究」)。評論『わが思春期』(集英社)。『日本の文学69 三島由紀夫』(中央公論社・アイボリーブックス)。対談「守るべきものの価値 石原慎太郎」(参玄社『酒盃と真剣』)。随筆「春日井建『未成年』序」(三一書房『現代短歌大系9』)。随筆「序」(宗谷真爾『影の神』野田書房)。「春の雪」…日生劇場で松竹・三島由紀夫作品連続公演II(川口松太郎脚色・戌井市郎演出) 【2月】 評論「二・二六事件と私」(現代思潮社『日本文学に於ける美と情念の流れ・地獄』)。短編「真夏の死」(現代思潮社『日本文学に於ける美と情念の流れ・夭折』) 【4月】 劇評「作者のことば〜『むすめごのみ帯取池』」(「歌舞伎座プログラム」)。『三島由紀夫全集』全35巻・補巻1(新潮社〜51年6月)。限定版『三島由紀夫全集』(新潮社〜51年6月)。「鰯売恋曳網」「むすめごのみ帯取池」「熊野」…歌舞伎座で松竹・三島由紀夫作品連続公演III(久保田万太郎演出) 【6月】 評論「反革命宣言」(「現代のエスプリ」71号)。西伊豆加茂村に父・梓の筆になる「獣の戯れ」の文学碑が建つ。 【7月】 評論『第一の性』(集英社)、「新恋愛講座」収録。 【8月】 評論『文章読本』(中公文庫)。短編「橋づくし」(『日本の短編小説・昭和下』潮文庫) 【9月】 長編「潮騒」(『日本青春文学館6』立風書房) 【11月】 評論「『日本改造法案大綱』を中心として」(「現代のエスプリ」76号)。随筆「紫陽花(あじさい)の母」(潮文社)  ・英訳『春の雪』(英・セッカー)  ・英訳『奔馬』(日・タトル)(英・セッカー)  ・英訳『宴のあと』『午後の曳航』(米・バークレイ)  ・英訳『春の雪』『奔馬』『暁の寺』(米・ポケットブックス)  ・英訳『近代能楽集』(米・ランダムハウス)  ・仏訳『太陽と鉄』(ガリマール)  ・スペイン訳『奔馬』(バルセロナ、カラルト)  ・スペイン訳『近代能楽集』(バルセロナ、バラル)  ・トルコ訳『午後の曳航』(ヒライ)  ・韓国訳『金閣寺』(ソウル、高麗文化社)  5.6 ハイセイコー10連勝/8.8 金大中事件  10.23 江崎玲於奈、ノーベル物理学賞受賞/10.25 石油ショック  10.6 第4次中東戦争勃発

◆1974年(昭和49年) 【1月】 評論「『金閣寺』ノート 創作ノート」(「波」〜3月) 【3月】 「鹿鳴館」…中日劇場で松竹により公演(松浦竹夫演出) 【4月】 劇評「『癩王のテラス』について」(「日生劇場プログラム」)。座談会「小説の表現について」(埴谷雄高『黙示と発端』未来社)。対談「二十世紀の文学」(安部公房対談集『発想の周辺』新潮社)。「癩王のテラス」…日生劇場で松竹・三島由紀夫作品連続公演IV(実相寺昭雄演出) 【5月】 座談会「芥川賞と直木賞の間」(小沢書店『江藤淳全対話I』)。「サド侯爵夫人」…新宿紀伊国屋ホールで松竹・三島由紀夫作品連続公演V(芥川比呂志演出) 【6月】 評論『作家論』(中公文庫)。座談会「新劇の今日と明日」(小沢書店『江藤淳全対話II』)。対談「認識と行動」(三好行雄『現代文学への証言』学燈社) 【9月】 書評「今村靖(おさむ)『マラソン』について〜遺稿」(「海」) 【10月】 評論「どくとるマンボウ結婚記」(「国文学・解釈と鑑賞」)。評論『行動学入門』(文春文庫) 【11月】 「評論『午後の曳航』ノート 創作ノート」(「波」〜12月)  ・英訳『暁の寺』『天人五衰』(日・タトル)(英・セッカー)  ・英訳『天人五衰』(米・クノップ) 『禁色』(米・バークレイ)  ・スペイン訳『愛の渇き』(バルセロナ、カラルト)  ・アイスランド訳『午後の曳航』(レイキャビーク、ボカフェラギッド)  ・タイ訳『潮騒』(バンコック、プラエピタバ)  ・中国訳『春の雪』(台北、青年出版社)  3.12 小野田少尉、ルバング島より帰還  8.8 ニクソン、ウォーターゲート事件で辞任/8.30 三菱重工ビル爆破事件  10.14 長島茂雄引退

◆1975年(昭和50年) 【1月】 作品集『荒野より』(中公文庫) 【4月】 対談「三好行雄との対談」(「八紘」4号)。「潮騒」…東宝・ホリプロ提携で映画化(西河克巳監督) 【5月】 評論「若きサムライのために」(角川書店『日本教養全集8』) 【6月】 劇評「サド侯爵夫人」について(「劇団浪漫劇場プログラム」)。「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」…新宿紀伊国屋ホールで松竹・三島由紀夫作品連続公演完結(芥川比呂志、石沢秀二演出) 【8月】 短編「煙草・サーカス・真夏の死・橋づくし・百万円煎餅・憂国」、戯曲「卒塔婆小町」、評論「重症者の兇器・八月十五日前後・魔・私の遍歴時代・文化防衛論(抄)・檄」、対談「文学は空虚か 武田泰淳」(『文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社・新装版)。戯曲『癩王のテラス』(中公文庫) 【10月】 講演「三島由紀夫『歌舞伎』考」(「未名」創刊号)。「サド侯爵夫人」…欧米各国で公演。「薔薇と海賊」…スカイ劇場で劇団かに座公演 【11月】 書評「『手巾』『南京の基督』ほか」(『文芸読本 芥川龍之介』河出書房新社 ・新装版)。戯曲『椿説弓張月』(中公文庫)  ・英訳『春の雪』『奔馬』『暁の寺』     『天人五衰』(米・ワシントンスクェアプレス)(米・ポケットブックス)  ・ルーマニア訳『潮騒』(ブカレスト、ユニバース)  ・韓国訳『金閣寺』(ソウル、集賢閣)(三中堂文庫)  7.19 沖縄海洋博覧会/9.26 「日刊現代」創刊/9.30 両陛下、初の訪米

◆1976年(昭和51年) 【1月】 評論「獣の戯れ〜わが小説」(雪華社『わが小説』)。評論「林房雄論」(「追悼 林房雄パンフレット」) 【2月】 評論「源氏物語〜日本文学小史の内」(「群像」)。作品集『英霊の声』(河出書房新社・改装版) 【4月】 「卒塔婆小町」…ニューヨークシティ・オペラ劇場で公演 【5月】 戯曲集『近代能楽集』(新潮社・復刊版)。長編『午後の曳航』(講談社・改装版) 【6月】 「金閣寺」…ベルリンのドイツオペラ劇場で公演(G・R・エルナー演出) 【7月】 「金閣寺」…高林プロ・ATG提携で映画化(高林陽一監督) 【8月】 「午後の曳航」…日本ヘラルドの日米合作で映画化(L・J・カルリーノ監督) 【9月】 評論「解説」(神西清『灰色の眼の女』中公文庫)。「サド侯爵夫人」…ルノー・バロー劇団によりベルギーで公演 【12月】 評論「森鴎外」、座談会「森鴎外と現代」(新文芸読本『森鴎外』河出書房新社)。「サド侯爵夫人」…パリのオルセー劇場で公演。16日、父・梓、肝硬変で死去(82歳)。  ・独訳『詩を書く少年』(マルコ)  ・独訳『宴のあと』(フランクフルト、スルカンプ)  ・仏訳『サド侯爵夫人』(ガリマール)  ・伊訳『仮面の告白』(ミラノ、ガルザンティ)  ・ポーランド訳『憂国』(ワルシャワ、パディエルニク)  ・インドネシア訳『潮騒』(ジャカルタ、ロシア・プスタカ)  ・中国訳『春の雪』『奔馬』(台北、星光出版社)  ・中国訳『金閣寺』(台北、大地出版社)  ・韓国訳『金閣寺』(ソウル、主婦生活社)  ・韓国訳『肉体の学校』(ソウル、栄豊文化社)  2.4 ロッキード事件/7.27 田中角栄前首相逮捕/9.9 毛沢東死去

◆1977年(昭和52年) 【2月】 評論「谷崎潤一郎」(「文芸読本 谷崎潤一郎」河出書房新社・新装版) 【5月】 評論「一SFファンのわがままな希望」(講談社『日本SF・原点への招待・』) 【6月】 「序」、評論「春日井建氏の歌」(現代歌人文庫『春日井建歌集』国文社) 【7月】 長編『春の雪』(新潮文庫)。「近代能楽集I 綾の鼓・班女・卒塔婆小町・弱法師」…国立小劇場で公演(石澤秀二、福田恆存、蜷川幸雄演出) 【8月】 長編『奔馬』(新潮文庫) 【10月】 長編『暁の寺』(V潮文庫)。対談「肉体の運動・精神の運動」、対談「破裂のために集中する」(石川淳『夷斎座談』中央公論社) 【11月】 長編『天人五衰』(新潮文庫)。長編『夜会服』(集英社文庫) 【12月】 評論「作家論〜泉鏡花」(「日生劇場プログラム」)  ・英訳『葉隠入門』(米・ベイシックブックス)  ・スイス(仏)訳『午後の曳航』(ローザンヌ、ギルド・リーブル)  ・タイ訳『午後の曳航』(バンコック、ヅアング・カモン)  ・韓国訳『金閣寺』(ソウル、瑞音出版社)  9.3 王貞治、756本の本塁打世界最高記録/9.28 日本赤軍ハイジャック

◆1978年(昭和53年) 【3月】 短編集『女神』(新潮文庫) 【6月】 長編『幸福号出帆』(集英社文庫)。短編「百万円煎餅」(櫻楓社『近代の短編小説』)。「地獄変」…新橋演舞場で松竹公演(中村歌右衛門・戌井市郎演出) 【8月】 評論「武士道と軍国主義・正規軍と不正規軍」(「月刊プレイボーイ」) 【11月】 短編集『岬にての物語』(新潮文庫) 【12月】 戯曲「卒塔婆小町」(笠間書店『日本文学の展開』)。「班女」…日生劇場で公演(福田恆存演出)  ・独訳『サド侯爵夫人』(ハンブルグ、ローボルト)  ・イラク訳『潮騒』(バグダッド、s.n.)  ・マレーシア訳『潮騒』(クアラルンプール、ダワン・ベハサ)  ・インドネシア訳『金閣寺』(ジャカルタ、ヅニア・プスタカ)  3. 竹の子族流行/4.4 キャンディーズ解散/4.20 成田空港開港式  8.12 日中平和友好条約調印

◆1979年(昭和54年) 【1月】 『新潮現代文学32 三島由紀夫集』(新潮社)。新宿伊勢丹百貨店で三島由紀夫展が催され、未発表作品が出品。 【2月】 対談「政治行為の象徴性について」(いいだ・もも『反現代文学』現代書林) 【3月】 評論「昭和廿年八月の記念に」(「新潮」)。長編『肉体の学校』(集英社文庫)。対談「世阿弥の築いた世界」(ドナルド・キーン『日本の魅力』中央公論社)。「春の雪」…京都南座で松竹公演(戌井市郎演出) 【4月】 戯曲集『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(新潮文庫)。短編「月」(『日本名作シリーズ2』集英社文庫) 【5月】 短編「春子」(『日本名作シリーズ4』集英社文庫) 【6月】 「近代能楽集・ 邯鄲・葵上・道成寺」…国立小劇場で公演(串田和美、高橋三千綱、芥川比呂志演出) 【8月】 評論「訓話 孤立ノススメ」(「土とま心」6号)。随筆「序文」(島津書房『蓮田善明とその死』) 【9月】 評論「実感的スポーツ論」(新潮社『楽しみと冒険6』)。「近代能楽集 班女・綾の鼓」…てふの会により公演(長由紀子演出) 【10月】 長編『命売ります』(集英社文庫)。評論「わが室内装飾」(新潮社『楽しみと冒険8』)。「サド侯爵夫人」…赤坂草月ホールで、仏ルノー・バレエ劇団来日公演(A・P・グランヴィル演出) 【11月】 紀行「アポロの杯」(新潮社『楽しみと冒険1』)。長編『命売ります』(集英社文庫) 【12月】 詩「F104」(新潮社『楽しみと冒険7』)  ・スペイン訳『仮面の告白』(バルセロナ、プラネタ)  ・ギリシア訳『仮面の告白』(アテネ、オデッセイ)  ・ルーマニア訳『宴のあと』(ブカレスト、ユニパース)  ・インドネシア訳『邯鄲』『卒塔婆小町』(ジャカルタ、ヅニア・プスタカ)  1.13 初の国公立大学共通1次試験/3. インベーダーゲーム流行  6.28 東京サミット開幕

◆1980年(昭和55年) 【1月】 短編「橋づくし」(『現代短編名作選5』講談社文庫)。短編「憂国」(『現代短編名作選6』講談社文庫)。「鹿鳴館」…明治座で公演(戌井市郎演出) 【2月】 評論「王朝心理文学小史」(「学習院輔仁会雑誌」)。評論『ぼくの映画を見る尺度』(潮出版社)。短編集『鍵のかかる部屋』(新潮文庫)。「熱帯樹」…西武劇場で公演(串田和美演出)。「鹿鳴館」…明治座で新派により公演(戌井市郎演出) 【3月】 短編「橋づくし」(『日本名作シリーズ7』集英社文庫) 【4月】 「火宅・船の挨拶・聖女」…劇団猿楽町空間により公演(中城まさお、中村孝夫演出)。「鹿鳴館」…中日劇場で新派により公演(戌井市郎演出) 【6月】 評論「解説」、対談「鏡花の魅力 澁澤龍彦」(有精堂『泉鏡花』) 【8月】 書簡「K君への遺書」、詩「もはやイロニイはやめよ」(「土とま心」7号) 【11月】 対談「鏡花の魅力 澁澤龍彦」(「サンシャイン劇場プログラム」)。「幸福号出帆」…三宝プロ・東映提携で映画化(斎藤耕一監督)。25日、平岡家主宰により皇居前のパレスホテルで三島由紀夫13回忌が営まれる。 【12月】 短編集『ラディゲの死』(新潮文庫)  ・英訳『宴のあと』『禁色』『午後の曳航』『潮騒』     『金閣寺』(米・ペリギーブックス)  ・仏訳『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』(ガリマール)  ・伊訳『楯の会』(バルバロッサ)  ・スペイン訳『午後の曳航』(バルセロナ、ブルグエラ)  ・スペイン訳『葉隠入門』(パトヴァ)  7.19 日、米などモスクワ・オリンピック不参加/8.19 新宿西口バス放火事件  11.29 金属バット殺人事件

◆1981年(昭和56年) 【2月】 「灯台」「豊饒の海」…劇団猿楽町空間により公演(中城まさお演出) 【4月】 「鹿鳴館」…京都南座で新派により公演(戌井市郎演出) 【6月】 作品集『F104』(河出文庫) 【7月】 短編「死の島」(立風書房『北海道文学全集19』)。「源氏供養・熊野・卒塔婆小町」…国立小劇場で公演(吉田喜重、実相寺昭雄、竹村類演出) 【8月】 「鹿鳴館」…歌舞伎座で新派により公演(戌井市郎演出) 【11月】 評論「泉鏡花」(『文芸読本 泉鏡花』河出書房新社・新装版)  ・マレーシア訳『近代能楽集』(クアラルンプール、デワン・ベハサ)  3.2 中国残留日本人孤児、初の来日/6.15 佐川一政事件  10.19 福井謙一、ノーベル化学賞受賞

◆1982年(昭和57年) 【1月】 評論集『小説家の休暇』(新潮文庫) 【2月】 評論「クナアベン・リーベ〈少年愛〉」(立風書房『椿実全作品』) 【3月】 短編「サーカス」(笠間書院『近代の短編』)。 短編「遠乗会」(市川市教育委員会『市川の文学』) 【4月】 短編集『殉教』(新潮文庫)、「獅子・孔雀」の改題本。「鹿鳴館」…帝国劇場で東宝により公演(石井ふく子演出)。「オルフェ」…国立劇場で公演 【5月】 「黒蜥蜴」…京都南座・新橋演舞場で公演(松浦竹夫演出) 【9月】 評論集『アポロの杯』(新潮文庫)  ・英訳『午後の曳航』(英・キングペンギン)  ・仏訳『愛の渇き』(ガリマール)  ・伊訳『春の雪』(ミラノ、ボンピアニ)  ・伊訳『太陽と鐡』(ローマ、キアラピコ)  ・伊訳『サド侯爵夫人』(ミラノ、グアンダ)  ・スロバキア訳『金閣寺』(ベオグラード、ノリト)  ・韓国訳『宴のあと』(ソウル、中央日報社)  2.8 ホテル・ニュージャパン火災/2.9 日航機、羽田沖墜落  2.23 東北新幹線開通/11.15 上越新幹線開通

◆1983年(昭和58年) 【3月】 評論「髭とロタサン」、対談「缶詰に偶ふ作家達 尾上九朗右衛門」(「すばる」5巻3号) 【4月】 評論『葉隠入門』(新潮文庫) 【7月】 紀行「サン・パウロ」(作品社『日本の随筆〈町〉』) 【9月】 紀行「アテネ」(作品社『日本の随筆〈旅〉』)。評論「解説」、対談「鏡花の魅力 澁澤龍彦」(立風書房『泉鏡花論集成』) 【10月】 短編「孔雀」(「文学界」) 【11月】 母・倭文重が、用賀のマンションで高血圧で倒れ、虎ノ門病院に入院。 【12月】 『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』(新潮社)。評論集『裸体と衣裳』(新潮文庫)。「サド侯爵夫人」…池袋サンシャイン劇場で公演(松浦竹夫演出)  ・仏訳『真夏の死』『鹿鳴館』(ガリマール)  ・伊訳『奔馬』『葉隠入門』(ミラノ、ボンピアニ)  ・伊訳『わが友ヒットラー』(ミラノ、グアンダ)  ・伊訳『獣の戯れ』(ミラノ、フェルトウリネリ)  ・中国訳『金閣寺』(台北、星光出版社)  4.15 東京ディズニーランド開園/5.26 秋田沖で大地震/9.1 大韓航空機事件  10.3 三宅島噴火

◆1984年(昭和59年) 【1月】 随筆「夢野乃鹿」(作品社『日本の随筆〈夢〉』) 【4月】 随筆「こいのぼり」(作品社『日本の随筆〈夏〉』)。短編「復讐」(現代企画社『短編小説名作選』) 【5月】 評論『実感的スポーツ論』(共同通信社) 【6月】 グラビア「特集・薔薇刑」(「PHOTO JAPAN」創刊号) 【7月】 短編「黒島の王の物語の一場面・饗宴魔」(「昭和文学研究」紹介)。随筆「森の遊び」(作品社『日本の随筆〈森〉』) 【8月】 『日本の文学84 金閣寺』(ホルプ出版) 【9月】 写真集『新版・薔薇刑』(集英社) 【10月】 評論集『生きる意味を問う』(大和出版社) 【11月】 「黒蜥蜴」…新橋演舞場で公演(栗山昌良演出) 【12月】 戯曲集『鹿鳴館』(新潮文庫)  ・仏訳『熱帯樹』(ガリマール)  ・伊訳『暁の寺』『近代能楽集』(ミラノ、ボンピアニ)  ・中国訳『潮騒』『天人五衰』(台北、星光出版社)  5.10 グリコ、森永事件/9.26 中・英が97年香港返還仮調印

◆1985年(昭和60年) 【5月】 短編「復讐」(『文豪ミステリー傑作選』河出文庫)。随筆「わが銀座」(銀座百点会『銀座百点選集』)。カンヌ国際映画祭でF・コッポラ制作、P・シュレイダー監督の映画「MISHIMA」(緒方拳主演)が芸術的貢献賞を受賞。 【6月】 F・コッポラ及びG・ルーカス総指揮により「MISHIMA」映画化(P・シュレイダー監督)、国内上映は中止。 【7月】 「近代能楽集 葵上・熊野・班女」…劇団猿楽町空間により公演(中城まさお演出) 【9月】 短編「孔雀」(幻想文学会『日本幻想文学大全』) 【10月】 「潮騒」…東宝で映画化(小谷承靖監督) 【11月】 大映映画「人斬り」…松竹系で再上映 【12月】 評論「日本とは何か」(「文芸春秋」)  ・英訳『豊饒の海』(英・セッカー)(英・ペンギンクラシック)  ・独訳『春の雪』(ミュンヘン、ハンゼル)  ・仏訳『葉隠入門』(ガリマール)  ・スペイン訳『暁の寺』『天人五衰』(バルセロナ、カラルト)  ・ポルトガル訳『金閣寺』『午後の曳航』(リスボン、アシリオ)  ・中国訳『愛の渇き』(台北、星光出版社)(台北、正義出版社)  ・中国訳『午後の曳航』(台北、星光出版社)(台北、正義出版社)  ・中国訳『永すぎた春』(台北、正義出版社)  2.13 新風俗営業法施行/8.12 日航機、御巣鷹山山中に墜落/AIDS世界に広まる

◆1986年(昭和61年) 【2月】 戯曲集『熱帯樹』(新潮文庫) 【3月】 「サド侯爵夫人」…パリのシャイヨー国立劇場で公演(S・ルカチェフスキー演出) 【4月】 「黒蜥蜴」…中日劇場で公演(栗山昌良演出) 【5月】 「鹿鳴館」…新宿紀伊国屋ホールで、劇団テアトロ〈海〉により第34回創立10周年記念総力公演(松浦竹夫演出) 【6月】 対談「剣か花か 野坂昭如」(新潮社『エッセイ・おとなの時間』) 【7月】 紀行「ニューヨーク貧乏」(福武文庫『ニューヨーク読本』) 【8月】 評論「アメリカ映画ノート」(新潮社『エッセイ・おとなの時間』) 【9月】 随筆「いはゆる“よろめき”について(作品社『日本の随筆〈惑〉』)。「鹿鳴館」…東宝で映画化(市川崑監督) 【10月】 短編「真夏の死」(現代思潮社『地獄のメルヘン』)  ・独訳『奔馬』(ミュンヘン、ハンゼル)(ゴルドマン)  ・伊訳『青の時代』(ミラノ、SRE)  ・伊訳『禁色』(ミラノ、ゲオグラフィコ)  ・スペイン訳『サド侯爵夫人』(バルセロナ、マル)  ・スペイン訳『春の雪』(ブラジル、サンパウロ)  ・スペイン訳『宴のあと』(バルセロナ、カラルト)  ・ポルトガル訳『春の雪』(リスボン、プレゼンサ)  ・ポルトガル訳『仮面の告白』(リスボン、リブレイラ)  ・ポルトガル訳『宴のあと』(リスボン、アグア)  ・ポルトガル訳『真夏の死』(リオデジャネイロ)  ・ギリシア訳『宴のあと』(アテネ、テサロニケ)  ・中国訳『太陽と鉄』(台北、星光出版社)  ・中国訳『春の雪』(北京、中国文耿出版公司)  ・韓国訳『金閣寺』『憂国』『宴のあと』(ソウル、学園社)  4.1 男女雇用機会均等法施行/4.26 ソ連チェルノブイリ原発事故  11.15 三原山噴火

◆1987年(昭和62年) 【1月】 評論「わが銀座、花ざかりの森の頃、渋谷」(『東京百話〈地の巻〉』ちくま文庫) 【2月】 評論「夜の占」(『東京百話〈人の巻〉』ちくま文庫)。『日本文学全集15 石川淳・武田泰淳・三島由紀夫・安部公房集』(小学館)。大映映画「炎上」…サンシャイン劇場で上映 【7月】 「潮騒」が日本テレビ「名作の旅・ぶらり日本」で放映。 【9月】 戯曲『朱雀家の滅亡』(河出書房新社・新装版)。長編『絹と明察』(新潮文庫)。「鹿鳴館」…大阪・梅田コマ劇場で公演(戌井市郎演出)。「朱雀家の滅亡」…銀座セゾン劇場で公演(出口典雄演出)。新潮社で三島由紀夫賞が創設される。 【10月】 長編『複雑な彼』(集英社文庫)。21日、母・倭文重、心不全により虎ノ門病院で死去(82歳)。 【11月】 『三島由紀夫短編全集』全2巻(新潮社)。評論『太陽と鉄』(中公文庫)。「椿説弓張月」…国立劇場で公演(三島演出)。「近代能楽集 葵上・班女」…ロンドンのゲイト劇場で公演(R・J・カーソン演出) 【12月】 短編「橋づくし」…日本テレビの名作の旅・ぶらり日本で放映  ・英訳『金閣寺』(英・ペンギンクラシック)  ・英訳『薔薇刑』(米・アパーチュア)  ・独訳『憂国』(ベルリン、アレキサンダー)  ・独訳『暁の寺』『葉隠入門』(ミュンヘン、ハンゼル)  ・伊訳『真夏の死』(ミラノ、グアンダ)  ・中国訳『愛の渇き』(北京、作家出版社)  ・韓国訳『蘭陵王』(ソウル、三星美術文化財団)  4.1 国鉄民営化/10.12 利根川進、ノーベル医学・生理学賞受賞

◆1988年(昭和63年) 【1月】 講演「悪の華〜歌舞伎」(「新潮」)。『サーカス・旅の絵本・インタビュー』(新潮カセットブックス)。長編「潮騒」(講談社『少年少女日本文学館26』) 【2月】 「椿説弓張月」(国立劇場録画)…NHK教育テレビで放映 【4月】 『学生との対話』(新潮カセットブックス)。翻訳・神秘劇『聖セバスチァンの殉教』(国書刊行会) 【5月】 短編「蘭稜王」(「群像」) 【6月】 書簡「『さかしま』とサド〜澁澤龍彦に宛てる」(「ユリイカ」臨時増刊号)。「近代能楽集 葵上・道成寺」…千石の三百人劇場で公演(萩原朔美・村田元史演出) 【7月】 短編「夜の仕度」(郷土出版社『長野県文学全集7』) 【8月】 短編「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」(筑摩書房『ちくま文学の森 悪いやつの物語』) 【10月】 映画評「猫・『ツーレの王』」(ちくま文庫『猫百話』)。「鹿鳴館」…日生劇場で松竹芸能公演(戌井市郎演出)  ・独訳『天人五衰』(ミュンヘン、ハンゼル)  ・仏訳『豊饒の海』(ガリマール)  ・ポルトガル訳『春の雪』(リスボン)  ・レバノン訳『午後の曳航』(ベイルート)  ・レバノン訳『愛の渇き』(ベイルート)  ・クウェート訳『サド侯爵夫人』(情報省)  3.13 青函トンネル開業/3.18 東京ドーム完成/4.10 瀬戸大橋開通  6.18 リクルート事件/7.23 横須賀沖で潜水艦事故

◆1989年(平成元年) 【2月】 短編「頭文字」(「新潮増刊」)。随筆「序」(藤島泰輔『孤独の人』集英社) 【4月】 『三島由紀夫 最後の言葉』(新潮カセットブックス)。「近代能楽集 卒塔婆小町・葵上」…新宿スペース・ゼロで劇団第3エロチカにより公演(川村毅演出)。「サド侯爵夫人」…スウェーデンの王立劇場ドラマーテンで公演(I・ベルイマン演出) 【7月】 『三島由紀夫評論全集』全4巻(新潮社) 【8月】 短編「仲間」(河出文庫『日本怪談集 下』)。「わが友ヒットラー」…新宿シアター・モリエールで劇団テアトロ〈海〉により第42回公演(松浦竹夫演出) 【10月】 劇評「公威劇評集」(「マリ・クレール」〜翌年5月)。「熊野」…国立劇場で公演  ・伊訳『禁色』(ローマ、モンダドリ)  1.7 昭和天皇崩御/1.8 平成と改元/2.24 大喪の礼/3.2 吉野ケ里遺跡発掘  4.1 消費税実施/6. 美空ひばり死去/11.9 ベルリンの壁崩壊

◆1990年(平成2年) 【1月】 「サド侯爵夫人」…新宿グローブ座でスウェーデン王立劇団員により公演(I・ベルイマン演出)。「エクリプス(月蝕)〜近代能楽集より」…グローブ座で続けて公演(竹邑類演出)、制作平岡紀子。「卒塔婆小町・邯鄲」…グローブ座で続けて公演(蜷川幸雄・村井秀安演出) 【3月】 「黒蜥蜴」…新橋演舞場で三島由紀夫20年祭新派特別公演(坂東玉三郎・福田逸演出) 【4月】 随筆「澁澤龍彦氏のこと他」(幻想文学出版局『澁澤龍彦〜回想と批評』)。「恋の帆影」…新橋演舞場で続けて公演(戌井市郎演出) 【5月】 短編「仲間」(幻想文学出版局『血と薔薇のエクスタシー』)。「午後の曳航」…ベルリンのドイツオペラ劇場で公演(G・フリードリッヒ演出) 【6月】 劇評「随想一束」(「マリ・クレール」) 【7月】 短編「仲間」(立風書房『暗黒のメルヘン』) 【8月】 「サド侯爵夫人」…隅田川左岸劇場で松竹・ベニサンピット5周年記念公演(D・ルヴォー演出) 【9月】 長編『潮騒』、長編『金閣寺』、戯曲『近代能楽集』、戯曲『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』、長編『春の雪』、長編『奔馬』、長編『暁の寺』、長編『天人五衰』(新潮社・新装版) 【10月】 作品集『英霊の声』(河出文庫)。インタビュー「三島由紀夫は語る〜最後のインタビュー」(小学館『群像日本の作家18』) 【11月】 随筆「私のペンネーム」(左川章編『作家のペンネーム辞典』創拓社)  ・レバノン訳『春の雪』(ベイルート)  10.3 東西ドイツ統一

◆1991年(平成3年) 【2月】 評論「フシギな男 三島由紀夫、男の美学」(「自由時間」7号)。評論「檄」(「スタジオ ボイス」) 【3月】 作品集『日本幻想文学集成 2 三島由紀夫』(国書刊行会) 【4月】 『近代能楽集(1)』(新潮カセット・ブックス) 【6月】 『近代能楽集(2)』(新潮カセット・ブックス)。評論「解説 雨月物語について」(石川淳『新釈雨月物語』ちくま文庫) 【7月】 劇評『芝居日記』(中央公論社)。『ちくま日本文学全集 三島由紀夫』(筑摩書房)。評論「永遠の旅人」(小学館『群像日本の作家13 川端康成』)。随筆「夭折の資格に生きた男」(作品社『日本の随筆〈映画〉』) 【9月】 評論「谷崎朝時代の終焉」(光文社『友を偲ぶ』) 【11月】 対談「鏡花の魅力 澁澤龍彦」(河出書房『新文芸読本 泉鏡花』) 【12月】 評論『三島由紀夫レター教室』(ちくま文庫)  ・伊訳『真夏の死』(ミラノ、グアンダ)  ・伊訳『青の時代』(ローマ、モンダドリ)  ・伊訳『花盛りの森』(ミラノ、フェルトウリネリ)  ・レバノン訳『奔馬』(ベイルート)  1.17 湾岸戦争勃発/6.4 雲仙・普賢岳噴火

◆1992年(平成4年) 【6月】 長編『肉体の学校』(ちくま文庫)。「跋文」(『横尾忠則 記憶の遠近術』講談社) 【12月】 書簡「三島由紀夫氏より編者宛名のもの」(村松定孝編『近代作家書簡文鑑賞辞典』東京堂)  ・伊訳『翼』(ミレリーレ)  ・中国訳『潮騒』『美徳のよろめき』『愛の渇き』(北京、大衆文芸出版社)  10.8 長嶋茂雄、巨人監督に復帰 ◆1993年(平成5年) 【4月】 短編「怪物」(角川文庫『それぞれの夜』) 【5月】 随筆「序」(河出書房『マルキ・ド・サド選集1』)。「あとがき」(河出書房『マルキ・ド・サド選集3』) 【7月】 短編「橋づくし」(ぎょうせい『ふるさと文学館14 東京・』)。短編「箱根細工」(ぎょうせい『ふるさと文学館18 神奈川・』) 【12月】 評論「近代能と新劇」翻訳(「新潮」)  ・伊訳『奔馬』(ミラノ、ボンピアニ)  ・伊訳『愛の不安』(ミレリーレ)  ・ロシア訳『金閣寺』『真夏の死』『憂国』『わが友ヒットラー』       『サド侯爵夫人』(ペテルブルグ、セーベロザーパド)  ・レバノン訳『暁の寺』(ベイルート)  6.9 皇太子結婚/7.12 北海道南西沖地震/8.6 細川内閣発足

◆1994年(平成6年) 【3月】 長編『愛の疾走』(ちくま文庫) 【8月】 「跋」(坊城俊民『末裔』集英社) 【10月】 評論『反貞女大学』(ちくま文庫)。短編「美神」(筑摩書房『新ちくま文学の森 奇想天外』)  ・伊訳『天人五衰』(ミラノ、ボンピアニ)  ・伊訳『鍵のかかる部屋』(ローマ、モンダドリ)  ・伊訳『暁の寺』(ミラノ、ボンピアニ)  6.30 村山内閣発足/10. 大江健三郎、ノーベル文学賞受賞

◆1995年(平成7年) 【3月】 中編「女神」(文英堂『近代名作小説1』) 【4月】 評論『不道徳教育講座』新装版(角川書店)。評論『私の遍歴時代』(ちくま文庫) 【5月】 評論『新恋愛講座』(ちくま文庫) 【6月】 日記『外遊日記』(ちくま文庫) 【7月】 31日、未亡人・瑶子、急性心不全で死去(58歳)。翌月2日、神式により自宅で葬儀。 【8月】 評論『芸術断想』(ちくま文庫) 【9月】 評論「近代能と新劇」翻訳(「TPT・シアタープロジェクト東京プログラム」)。「近代能楽集 葵上・班女」…隅田川左岸劇場ベニサンピットでTPT(シアタープロジェクト東京)公演(D・ルボー演出)、月末から翌月にかけ大阪の近鉄アート館で公演 【10月】 「金閣寺」…ニューヨーク・シティ・オペラ劇場で初演(ジョン・コラネリ指揮、ジェローム・サーリン演出) 【11月】 評論集『作家の自伝37 三島由紀夫』(日本図書センター)、「小説家の休暇」「私の遍歴時代」「わが思春期」を収録。 篠山紀信写真集『三島由紀夫の家』(美術出版社)。「鹿鳴館」…新橋演舞場で松竹100年記念により新派特別公演(戌井市郎演出)、2代目水谷八重子襲名披露。23〜4日の2日間、夜8時よりNHK教養特集番組「二人のペルソナ・三島由紀夫と平岡公威」が、猪瀬直樹の構成・解説で放映。 【12月】 グラビア「三島由紀夫の世界」(「芸術新潮」没後25年記念特集)、「わが室内装飾」「希臘・羅馬紀行」「青年像」「ワトーの《シテール島への船出》」「薔薇刑写真集」など収録。  ・中国訳『金閣寺』(北京、作家出版社)(三島由紀夫作品系列)  ・中国訳『アポロの杯』(北京、作家出版社)(三島由紀夫作品系列)  ・中国訳『春の雪』(北京、作家出版社)(三島由紀夫作品系列)  ・中国訳『奔 馬』(北京、作家出版社)(三島由紀夫作品系列)  ・中国訳『天人五衰』(北京、作家出版社)(三島由紀夫作品系列)  1.17 阪神大震災/3.20 地下鉄サリン事件

◆1996年(平成8年) 【1月】 9日、弟・千之、肺炎で死去(66歳)。千之は近年はモロッコ大使(1987.4〜1990.5)、ポルトガル大使(1990.2〜1993.5)、赤坂迎賓館館長(1993.5〜1994.5)などを歴任。 【2月】 随筆「著者・澁澤龍彦氏のこと」(文春文庫『快楽主義の哲学』) 【4月】 大田区南馬込の自宅の書庫内で、未発表作品が多数発見される。それらは「仮面の告白」序文や「豊饒の海」創作ノート、未完小説のメモ、川端康成あて書簡のコピーなど貴重な資料であり、今後の公刊が期待される(朝日・毎日・読売ほか各紙及びテレビ放映)。これに対して「週刊文春」(4月25日号)が、『新潮日本文学アルバム 三島由紀夫』(新潮社 昭和58年12月刊)及び『グラフィカ 三島由紀夫』(新潮社 平成2年9月刊)に、「仮面の告白」序文や「豊饒の海」創作ノートなどは既に収録済み、と大新聞の未発表報道に批判的見解を掲載。マスコミの資料取り扱いに問題を残す。山梨県山中湖村では、今回報道された遺作363点の資料購入を三島家より受け、そこに新たに「三島由紀夫記念館」建設構想の予定を立てた。なお、当記念館の建物は大田区南馬込にある三島邸(白亜のコロニアル様式)を模して造られるとのことである。また学芸員を配して、1階を展示室、2階を調査研究室などに充て、財団法人として管理することが検討されている。ちなみに、今回山中湖村が購入した三島資料のリストは、「山梨日々新聞」(4月27日号)に掲載され、その概略を知ることができるが、それらは三島由紀夫初期の習作時代作品、創作ノート、取材ノート、長短編・戯曲・評論などの原稿、その他私的資料を含み、中には本人は発表する意志を持たなかったものもある。 【6月】 「近代能楽集 葵上・卒塔婆小町」…渋谷のパルコ劇場で美輪明宏主演・演出で公演、葵上(宇崎慧)、卒塔婆小町(岸本祐二)(5〜23日)。長編『仮面の告白』(河出書房・復刻版 ハコ)、新しく「作者の言葉」と当時の編集長・坂本一亀あての書簡を収録。 【7月】 短編「百万円煎餅」(「新潮増刊・百年の文学」)。長編『幸福号出帆』(ちくま文庫)。「薔薇と海賊」…演劇集団「円」、高林由紀子、井上倫宏、有川博らにより、東京・新宿の紀伊国屋ホール(3〜8日)と兵庫・尼崎市のピッコロシアター(10日)で公演(大間知靖子演出)。昭和22年の東大生のころ、学習院時代に師事していた詩人川路柳虹にあてた書簡と葉書が、毎日新聞17日付夕刊に掲載(千葉県市原市の農民歌人伊藤登世秋所有)。 【8月】 14日、山梨県山中湖村は、都内のホテルで記者会見の際、三島由紀夫の未定稿作品「青垣山の物語」と「今様方丈記」、長編「潮騒」取材メモ(「神の湾(いりうみ)」)などの資料を公開。 【9月】 22日、山梨県山中湖村の「ホテルマウント富士」で「三島由紀夫シンポジウム」開催。「三島由紀夫という謎」(佐伯彰一)、「三島由紀夫と私」(ドナルド・キーン)、討論「世界の中の三島由紀夫」(芳賀徹・司会)三島由紀夫文学館の完成に先駆け、インターネットに「三島由紀夫 Cyber Museum」を開館。ここには、文学館収蔵目録紹介、三島の生い立ち、関連マップ、質問コーナーなどが入る。