マイケル・ジャクソン


今まで何度か、マイケル・ジャクソンのチャートを見る機会はあったが、最近になって改めて見返してみると、彼のチャートはやはり、スーパースターのものであることがよく分かったのである。

例えば彼は牡牛座ラグナで、ラグナロードの金星が3室に在住している。
3室はダンスパフォーマンスの部屋である。そして、3室の支配星である月は10室に在住して、太陽と正反対に位置し、満月である。
最も光が強く、しかもケンドラ10室で最も注目される大舞台に立ち、力を得た月である。
さらに彼の月はナヴァムシャでもラグナロードで11室で高揚しており、彼ほどの強い月の持ち主は他に見当たらないのである。

月が10室に在住することはスーパースターの配置である。 月は太陽と違って、大衆に親しまれ、大衆から愛着されるのである。
月は女王なのであり、一般に女王は太陽が表す王様よりも人気がある。例えば、チャールズ皇太子よりもダイアナ妃が人気があったように女王は統治しない代わりに大衆の方が女王を求めて、愛着し、接近していくのである。それは母親を求める子供のような感じである。月が強い人は大衆から求められる存在である。

スーパースターの条件として月が強いことは絶対条件である。人々に親しまれ人気がなければスーパースターはつとまらないのである。
そして、彼の場合、更に太陽が4室で自室に在住してムーラトリコーナの強さを得ており、ケンドラ在住で強さを得ている。 獅子座で強い太陽が家を表す4室でムーラトリコーナであるため、彼は王様でもあり、自分の巨大な城に居住する権力者でもある。

彼がアラブの王族と交際できるのは太陽が強いからである。太陽が強いと同じように太陽が強い人との交流が予想される。太陽は権力や統治を表している。 獅子座は王室を表しており、4室の太陽は王族である。彼はアラブの王族に招かれて、王族と同じ扱いを受けているのである。 従って、彼は単に大衆に親しまれ愛されるばかりでなく、権力者と交流できるだけの力を持っている。

4室はプライベートな部屋であり、彼はプライベートでアラブの王族などと交際しているのであるが、それは我々大衆には分からないのである。彼がアラブ王族の誰とどんな場所で過し、どんな生活を送っているのか全く分からない。4室はプライベートな部屋であり、一般の人からは見えないのである。
従って、我々が知っているマイケル・ジャクソンは10室に在住する月で表されている。10室は公的なハウスである。あらゆる人から見られ注目を浴びる大舞台である。 彼の月は満月で強い光を放っており、しかし、月の両側にはケートゥ以外在住しておらず、ケーマドルマヨーガである。

大衆から一人孤立した孤高の存在である。然し、強烈な光を放っていて、見るものを魅了するのである。
最近、日本に来日したそうであるが、彼に会った日本人のファンが失神して倒れたそうである。 ファンを失神させるほどのカリスマ性を備えているのである。

彼のチャート見落とす可能性があるが非常に大事だと思われるのが、5室に在住するラーフである。
ラオ先生によれば5室のラーフは威厳を表すそうである。5室のラーフは5室の支配星のように振舞うのである。
5室は生来的に獅子座の象意を持っており、派手で目立つハウスである。
さらにラーフは水星の星座に在住して自室にいるかのように強く、しかもヴァルゴッタマである。

ラーフの対向にいるケートゥは木星を支配星とする星座に在住し、ウパチャヤの11室に在住してこれも良い配置である。
ケートゥもヴァルゴッタマで強い配置である。

5室は音楽を表しており、5室のラーフはロックミュージックを表している。
彼のロックに合わせた激しいリズムの舞踊やダンスなどの自己表現を表している。

彼のロックはヘヴィメタのような激しく秩序のない感じではなく、非常に洗練されていて、秩序があり、上品で繊細な感じがするので、5室の乙女座に在住するラーフとして理解できる。

彼が何度も整形手術をして、自分の理想の顔に近づこうとしたことは彼が牡牛座ラグナであることで理解できる。
最近は美容整形が流行っており、豊胸手術などをして、物理的な手段によって肉体を改造しようとする人が多いようであるが、おそらく、そうした美容整形する人のほとんどは、牡牛座が強調されている人ではないかと思われる。

牡牛座は美容に最も関心があり、美容を維持するための執念も物凄いものがある。エステサロン、サプリメント、自然食品、運動機材など、物質的手段によって、美容を維持するためのあらゆる努力をする。美容に金銭や時間を多大に費やすのである。

そして、美容への努力の最後の手段が整形手術である。最も物質的発想であり、肉体を変えればそれで美しくなれるという物質主義的な考え方の究極である。そこには両親から与えられた肉体とか、肉体を与えてくれた神への畏敬の念などは微塵もなく、肉体を外科手術という物質的な手段によって、何の努力もしないで、安易に改造しようとする姿勢である。そこには人の顔や魅力というものは、人の生き様や精神性が人格から滲み出たことによって生じるものであり、どんな骨格や形質の持ち主でも、精神性が高くなると、一様に魅力的に見えるという、霊的な考え方が全くないのである。

牡牛座は土の星座で物質的な価値観の持ち主であり、支配星が金星でもっとも快楽主義であり、また美意識の強い星座である。
3室に在住する金星はウパチャヤの吉星であり、努力や忍耐が出来ない配置である。安易な手段や方向に走りやすく、ウパチャヤ凶星が晩年になるほど、徐々に改善していくのに対して、ウパチャヤ在住の吉星であることから、晩年になるほど、悲惨になっていく傾向があると言える。

彼は整形手術という安易な手段を繰り返したことによって、彼の容姿は徐々に崩れており、形状を保つのが難しくなっている。
この辺り、3室ウパチャヤの吉星は段々悪くなっていくということの実例だとすると、3室吉星というのは非常に怖い配置だと思われるのである。12室に在住する牡羊座ムーラトリコーナの火星が3室の金星にアスペクトしており、 この配置が外科手術によって、身体にメスが入ることを示しているのかもしれない。

この火星は性的なハウスである7室を支配して、性生活を表す12室に在住している。
したがって、この配置からすると、 彼のネバーランドでの少年への性的虐待疑惑は実際にあったものと推測される。

この12室の火星はカーマハウスの7室を支配し、寝室やベッド上の生活(性生活)を表す12室に在住しているため、何らかの行為を起こさないはずがないのである。実際にネバーランドには隠し部屋があり、そこには大きな寝室があって、そこで少年たちと共に過していたと疑われている。そして、この火星は7室の支配星でラグナロードにアスペクトしているため、彼自身も何か人から性的な関係を要求された経験があったかもしれない。(ウィキペディアの経歴情報参照)それがトラウマとなって、子供たちに今度は自分が同じような行為を行うことによって、その抑圧された無意識の外傷を歪んだ形で解消しようとしたとも考えられる。

暗い記憶

マイケル自身はさほどひどい目にあわなかったと述べていたが「稽古中、父はいつも椅子にベルトを持ちながら座わっていて、間違えると叩れ、みんないつも緊張しながらレッスンをしていた」「ほかにはアイロンコードとか周りにあるものすべてをつかって、ときには僕らをありったけの力で壁に叩きつけ、母親があなた死んじゃうよ、死んじゃうよ、って叫んで止めたのを覚えている。ぼくは足が速かったから逃げられたけど、捕まえられた時は、本当にひどい目にあった」「父を見るだけで失神して、ボディガードに助け起こされたこともあった。すごく憎んだ。だから自分の子供たちには、絶対に手をあげないんだ」などと語っている。 また、グループの駆け出しの頃、売り出すためとはいえストリッパーがいかがわしい出し物をするナイトクラブで営業しなければならなかったこともある。『マイケル・ジャクソンの真実』の製作者J・ランディ・タラボレッリによれば、兄や父がファンの女の子とセックスをしているときに、弟のマイケルとマーロンは同じ部屋でその行為を見ていたのだという。また、マイケル自身に対してジョーゼフが性的いたずらを行っていたのではないかという疑惑があり記事になりかけたが、これはマイケルの元側近ボブ・ジョーンズがゴシップと判断し圧力をかけもみ消した。ところが、この疑惑がもみ消されたことを知ったマイケルは「ジョーゼフの件が嘘だって、どうして分かる?」とジョーンズに述べ、曖昧な態度を取っていたといわれる。

ウィキペディアより引用抜粋

12室は人から知られない個人のプライベートな活動や深夜のプライベートな空間での出来事を表している。そこは隠されており、通常は人からは知られない秘密のプライバシーである。然し、その知られないはずのプライバシーがどうして暴かれたのかと考えると、6室から火星にアスペクトしている8、11室支配の木星の影響が考えられる。
これは少年の両親が性的虐待疑惑で訴訟を起こしたことで、ネバーランドの隠し部屋が発覚したのである。
従って、12室の火星と木星が相互アスペクトすることによって、12室が6室からのアスペクトを受けることで、12室の中だけで閉じることが出来ずに、外部に暴露されることとなったと考えられる。この少年の両親の訴訟は金銭目当てであると言われているが、実際そうであったと思われる。8、11室支配の木星はお金目当ての苦悩や陰謀を表しており、木星は子供のカラカであるが非常に傷ついている。従って、子供と金銭が絡んだ訴訟事件であり、苦悩をもたらす出来事であったと考えられる。

また資料によれば、彼は非常に多くの金銭目的の訴訟を起こされており、それらは全て、8、11室支配の木星が6室に在住していることが引き起こしていると考えられる。6室は訴訟の部屋であり、金銭目当て(11室)の陰謀(8室)として、訴訟が起こされたと解釈できる。

事実確認の取れない記事・報道の数々 マイケルは金銭目的で訴えられる事が非常に多く、ビートイットは自分の作品だと言う男性に訴えられたり、契約不履行だとして訴えられたりする事が数多い。2003年までに金銭目的で訴えられた回数は1500回に上っていた。2004年には1年だけで約130人訴訟を起こした。1997年には「ウィル・ユー・ビー・ゼアー」はイタリア人歌手の曲の盗作だとして訴えられた。

ウィキペディアより引用抜粋

次に実際のダシャーの流れを見ていくと、幼少期のマハダシャー木星期は8、11室支配の木星が6室に在住しており、木星は機能的凶星で、問題が多かった時期に思われる。

木星は7、12室支配の火星と相互アスペクトしており、木星との間には、ラージャヨーガもダナヨーガも形成していない。 従って、この幼年期はあまり良い時期でなく、8室が表す不自由や束縛を感じやすい時期ではなかったかと思われる。11室の支配星が6室に在住することで兄との関係で悩んだり、金銭的な障害が生じたりした可能性がある。また、火星によって傷つけられており、幼少期に父親が厳しく、暴力を用いることが多かったというのは火星のアスペクトで考えることが出来る。木星が傷ついているため、不道徳なことに染まりやすかった時期である。

このマハダシャー木星期に厳しい父親の元で兄弟バンド・ジャクソン5を結成し、その後のキャリアの始まりとなったのである。 土星期になると、土星はラージャヨーガカラカであり、7室に在住して、ラージャヨーガを形成している。仕事上で対人関係、契約関係を結ぶ時期である。 この頃、彼はソロデビューしており、この後、ずっと活躍、躍進が続いていくのである。『スリラー』などの彼の代表作を生み出したのもこの頃である。 土星は月から見てもラグナロードで10室に在住しており、ナヴァムシャでは月から見て、9、10室支配の土星とラグナロードの金星が接合して強い配置である。 そして、今度、土星期が終わって、水星期になると、水星は獅子座でムーラトリコーナで強い太陽と接合しており、スーパーラージャヨーガを形成している。4室ケンドラで強い配置である。 またナヴァムシャでも水星はラグナ、太陽から見て10室に在住している。 土星期に躍進した後、この水星期には確固たる地位が確立された時期である。 そして、彼がネバーランドでの幼児虐待疑惑などで告訴されたのは1993年頃であり、この頃はサディサティの最も厳しいコアの期間を通過していた。 この頃、ワールドツアーを途中で断念している。(水星/金星)

1987年8月に「BAD」が発売され、その中には反ダブロイドソング、『LEAVE ME ALONE』が収録されており、作品の中に孤独感、疎外感を表現している。 この頃からマイケルジャクソンはマスコミに叩かれ始めたようである。

この時、土星が出生の土星にリターンしており、出生図上の土星の配置が表す試練が起こりやすい時期であったと思われる。 彼の場合、土星は10室の支配星でケンドラの7室に在住し、月からも10室に在住して10室に絡んでいる。

土星はラージャヨーガカラカで吉星化している反面、生来的凶星としても働くため、7室ケンドラで凶意が強まり、ラグナや4室、7室を傷つけている。 10室も7室も公的な社会性のハウスであることから、サターンリターンによって彼に対する世間の批判が厳しくなってきたのではないかと思われる。
また10室が絡む場合、批判は大々的に行われ、10室の土星は悪名を轟かせてしまう配置である。 実際、マスコミから批判を受け初めたマイケル・ジャクソンはスーパースターの扱いから、ほとんど奇人変人として取り上げられ、最終的に逮捕までされたのである。 そして、1990年終り頃からサディサティに突入し、1993年に幼児虐待疑惑が浮上した際には土星は月が在住するハウスと同じハウスを通過して、サディサティの最もコアな期間を経過していたのである。

そして、その後、2003年11月20日に少年への性的虐待容疑で逮捕されるのだが、この時、土星は2室をトランジットし、木星は4室をトランジットしていた。そして、4室と8室に土星と木星のダブルトランジットが成立していた。この時のダシャーは水星/土星期である。 水星も土星もトリコーナの支配星で吉星化しており、土星のトランジットも特に問題はないと思われるので何故、このタイミングで逮捕されたのかはよく分からない。むしろ、機能的凶星のアンタル木星期(水星/木星)の方が6室と8室が絡んで厳しい時期ではないかと思われる。然し、この時、逮捕された1時間後に直ぐに3億円の保釈金で保釈され、その後、TVカメラに向かってピースサインを出しており、この時の逮捕はそれ程、彼にとって厳しい時期ではなかったとも考えられる。

アンタル土星期であったため、身体を拘束(土星)されたとも考えられる。 2001年から2002年の終りまで、水星/木星期であり、その間、ソニーレコードの間で激しい訴訟合戦を繰りひろげており、この時期はアンタル木星期の象意(訴訟)が激しく生じていることが分かる。 そして、ケートゥ期に入ると、彼は日本に訪れる機会も多くなったようである。日本は世界から見れば極東の小さな島国であり、ケートゥの表すような隠遁的な象意があるのかもしれない。マイケル・ジャクソンにとっては来日して、ファンと交流するというのは隠遁的な活動に過ぎないと思われる。実際、先日来日した時には自らは全く踊らずに客席で自分をモノマネするパフォーマンスを見ていたらしく隠遁して静かにしている時期であると言える。 然し、ケートゥは11室に在住しており、またケートゥ/金星期でもあるため、 それでも社交、交友、パフォーマンス、コミュニケーション、芸能界という象意が出てくるのか、日本の芸能人と面会したり、人との交流はこなしていることが経歴情報から分かる。

2007年11月22日頃から木星と土星が4室にダブルトランジットし、その頃、ケートゥ/太陽期であるため、彼は4室の象意において発展する時期である。 4室は家を表し、プライベートな生活を表している。 彼はこの頃には自分の快適な家でのプライベートが中心となると思われる

 

西暦 月日 出来事 Vimshottari Dasa チャラダシャー トランジット
1958年 8月29日 9人兄弟姉妹の7番目として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。ゲイリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。 父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートとして働く事で一家の財政を何とか補おうとしていた。 木星/土星/(木星) 牡牛/牡羊
1962年 1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露する事もしばしばあった。 ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。
当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンドRipples & Waves Plus Michael(のちthe Jackson Brothersと改名)の一員として頭角を現した。 初めてナイトクラブで働いた時のギャラはわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演する事で地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。
木星/金星 牡羊/双子
牡羊/蟹
1962年 幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。 父は昔「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、ミュージシャンの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。

ジャッキー、ティト、ジャーメインと二人の従兄弟(実は他人)が1962年にボーカルグループを結成する。
木星/金星 牡羊/双子
牡羊/蟹
1963年 兄マーロンと二人の従兄弟と入れ替わりにボーカルグループに入る。 木星/金星 牡羊/蟹
牡羊/獅子
1965年 1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。 木星/太陽
木星/月
牡羊/乙女
牡羊/天秤
1966年 1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5(ジャクソンファイブ)」を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。 木星/月
木星/火星
牡羊/天秤
牡羊/蠍
1967年 1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームズ・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。

当初ジャクソン5をインディアナで発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。
木星/火星
木星/ラーフ
牡羊/蠍
牡羊/射手
1968年 1月 地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。 木星/ラーフ 牡羊/射手
1968年 7月 1968年7月にモータウンと正式に契約。 木星/ラーフ 牡羊/射手
1969年 10月 1969年10月シングル「帰ってほしいの(I want you back)」でメジャーデビュー(マイケルは本当は11歳だが当初は8歳の設定だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。その後「小さな経験(The Love You Save)」「I'll Be There」のシングルを4曲連続で全米チャート1位に放り込んだ。 木星/ラーフ 牡羊/水瓶
1971年 10月 1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビューする。 土星/土星 牡羊/牡羊
11月 人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演する。 土星/土星 牡羊/牡羊
1972年 「ベンのテーマ」もヒットする。 土星/土星 牡羊/牡羊
魚/牡羊
1970年代半ば 1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも起こり出した。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、声変わりまで経験し、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなったなー」などと冷やかされる事もしばしばであった。 土星/ケートゥ前後
1975年 結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに新たに加入した。 このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットしその不安を一蹴する。

この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。
土星/水星
土星/ケートゥ
魚/天秤
魚/蠍
1978年 1978年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」がエピックでのデビュー曲であった。 クインシーをプロデューサーに迎え「オフ・ザ・ウォール」を製作。7月先行シングルとして発表された「今夜はドント・ストップ」は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということでさほど放映されなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼び、全米チャートを制覇した。 土星/金星 水瓶/牡羊
水瓶/牡牛
水瓶/双子
1978年 8月 8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は少年ボーカリストからの脱皮を世界中に印象付けることになる。ソウルミュージックを基本にした作品であり、ポップ色の強い後の作品とは異なった意味で高い評価が与えられている。 土星/金星 水瓶/牡牛
1978年 10月 10月には「Rock With You」を発表。この曲では一人多重録音の技術が用いられている。非常に伸びやかな声が聞けるとして今でもこの曲のファンは多い。ビルボードでは4週連続1位を獲得している。 さらに、「Off The Wall」「あの娘が消えた」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。 「あの娘が消えた」のレコーディングでは、何度レコーディングをやっても、マイケルが最後に泣いてしまい、収録し直しを何回もしたが、結局そのままアルバムに収録される事になった。 「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。 土星/金星 水瓶/牡牛
1980年 9月-11月 ザ・ジャクソンズは1980年9月「マイ・ラブリー・ワン(Lovely One)」(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル(This Place Hotel)」(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったのであるが、エルヴィスの曲と同じ名前になってしまう事もあったのか、後に改名している。「ビリー・ジーン」「ダーティ・ダイアナ」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。 土星/太陽 水瓶/天秤
1981年 3月

1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日(One Day In Your Life)」がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。

土星/月 水瓶/蠍
1981年 12月 1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「ガール・フレンド」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組む事になり2曲のデュエットを後に生む事になる。ポールとはプライベートで一緒になる事が多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。 土星/月 水瓶/山羊
1982年 6月 1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。 土星/月 水瓶/水瓶
1982年 8月 1982年8月には、クインシーと2人で完全にロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。 土星/月 水瓶/水瓶
山羊/射手
1983年 1月 1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている。だが、その後この傾向がますます強まったのは誰もが認めるところであり、結果的にこの曲は彼の人生を強く言い表した曲になっている。

(※2005年の無罪判決の時もジャーメイン「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出てしまっている事を念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにもかかわらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品として知られている。 )
土星/火星 山羊/天秤
山羊/乙女
1983年 2月 2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われる作品がこの作品である。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用している。この曲は本人だけではなくMTVの人気まで上げたとされる。 土星/火星 山羊/天秤
山羊/乙女
1983年 5月 1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされる。ムーンウォークを披露した直後、マイケルは自分のダンスに自信が持てず泣いたが、マイケルが敬愛しているフレッド・アステアから電話をもらい、「君のダンスは素晴らしい」と言われ、マイケルは嬉しかったと後に語ってる。また小さな子供から「どうやったらあんなに踊れるの?」とも聞かれ、マイケル自身反響に驚いた。
(※この曲は2004年VH1の人気投票でイマジンを抑え史上最高の曲に選ばれた。また、イギリスの音楽雑誌Qにおいても2006年7月に80年代の最優秀シングルに選ばれた。)
土星/火星 山羊/獅子
1983年 12月

12月には後の多くの調査でプロモーションビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男になったり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。

(※1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。 また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。)

土星/ラーフ 山羊/牡牛
山羊/牡羊
1984年 2月 1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、予想以上に火花が散ってしまい、その中から登場したマイケルは、頭部に大きなヤケドを負ってしまった。皮膚移植手術によって、完治はしている。 土星/ラーフ 山羊/牡羊
山羊/魚
1984年 5月 1984年5月、飲酒運転防止キャンペーンに協力した功績を讃えられ、時の大統領ロナルド・レーガンより感謝状が贈呈される。 世界各地で子どもたちのための慈善活動を行っている。 土星/ラーフ 山羊/水瓶
「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。
1985年 ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年)1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We are the world」をライオネル・リッチーと共作した。しかし、その姿勢は評価されたが「バンド・エイド」の模倣であるとも揶揄され、アメリカ人しか集まらなかったため、結局はアメリカ中心主義ではないかとも批判され賛否両論の結果となった。しかし、楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から受賞された時、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評をかってしまった。 土星/ラーフ 射手/蠍
射手/天秤
1985年 8月 同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット(「The Girl Is Mine(1982)」、「Say,Say,Say(1983)」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をポールが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルは断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルにビートルズの版権を買うよう勧めたのはポールであった。 土星/ラーフ 射手/天秤
1986年 5月 1986年5月ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や講演も受け持つ事になったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。 土星/ラーフ 射手/乙女
1986年 8月 8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの製作(「BAD」)に取り掛かった。 土星/ラーフ
土星/木星
射手/乙女
1987年 8月 完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。現在までにこの偉業を達成したのはマイケル1人だけである。表題曲「BAD」のショートフィルムは非常に奥深いヴィデオであり、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になったことから、マイケルの孤独感や疎外感を表してるのではという一説がある。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露し、人々を圧巻した。なお監督はマーティン・スコセッシである。 土星/木星 射手/獅子
1988年

マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの息子ショーンと1988年の「ムーンウォーカー」で競演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。

(※なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を未だ所有している。 )

土星/木星 射手/蟹
射手/双子
1988年 1月 1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版された。 土星/木星 射手/蟹
1988年 4月 4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストでは初登場1位を獲得した。 この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演した事で話題となった。 また、この頃マイケルはビートルズの版権の大量購入など、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。 土星/木星 射手/蟹
1988年 7月 この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。また、この曲はダイアナ妃のお気に入りの曲で、1988年7月のウェンブリー・スタジアムでダイアナ妃の前でライブを行おうとした際は、ダイアナ妃がマイケル本人に歌って欲しいと頼んだ事もある 7月発売のシングル「Another Part Of Me」は1位記録とトップ10記録を同時に途切れさせてはしまったが、クインシーの手があまりつけられていない作品であったためマイケルが新しい方向性を探しているのではという印象も与えた。 土星/木星 射手/蟹
1988年(1987年) 9月 カハラ・ヒルトン・ホテルにて(1988年)1987年9月から世界ツアーを行い、日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もう1つのMはマドンナである。 土星/木星 射手/蟹
1989年 1989年、マイケルがBREアワードでポップ・ロック・ソウルの三部門を制したため、エリザベス・テイラーはマイケルを評して「the true king of pop, rock and soul」と呼んだ。 土星/木星
水星/水星
射手/双子
射手/牡牛
1991年 11月 世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し1991年11月に「Dangerous」を発表。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消したが、発売後6週間において1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。 11月発売のシングル「Black or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。アメリカにおいても最大級のヒットとなり、全米チャートで7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の技術であるモーフィングという技術を用い、5億人の人がこのショートフィルムを見たとされる。だが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのヴァージョンのショートフィルムはその部分の映像によってパンサー・ヴァージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことであるが、映像では黒豹が登場する)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一般放映が許可されており、マイケルのビデオ作品では普通に見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれたKKKなどいくつか修正されていて、今ではそれらの文字は消されている。 水星/ケートゥ 射手/魚
1992年 1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立。
1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。
水星/ケートゥ
水星/金星
射手/魚
射手/水瓶
1992年 1月 1992年1月には「Remember The Time」を発売。 水星/ケートゥ
射手/魚
1992年 2月 翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと競演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。この曲を1990年代最高のマイケルの曲に推す向きも多く、テディ・ライリーも2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。だが、訪れたコートジアポールでは「サン族の王冠」の名称を授与されている。 水星/ケートゥ 射手/魚
射手/水瓶
1992年 4月 4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。 水星/ケートゥ 射手/水瓶
1992年 7月 7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で競演する「JAM」が発表された。この作品ではHeavy D、ノーティー・バイ・ネーチャーなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。 水星/ケートゥ 射手/水瓶
1992年 11月 11月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリスマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑などの影響で活動に支障が出たともいわれる。 水星/金星 射手/水瓶
1993年 1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ時期がある。 モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行っている。 水星/金星 射手/山羊
射手/射手
1993年 1月

1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Goon Too Soon」「Heal The World」を披露した。

水星/金星 射手/山羊
1993年 2月 2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショウ」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する"事件"が起きた)。 水星/金星 射手/山羊
1993年 1993年マイケルは少年に性的虐待を行った疑惑のマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。 水星/金星 射手/山羊
射手/射手

1993/3/5より土星が水瓶座に入室(サディサティのコアの期間)

木星:乙女座

1994年 1994年にはMJJプロダクションズを設立した。 水星/金星 蠍/天秤
蠍/乙女
1994年 5月26日 1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。この結婚騒動の最中、一部で父ジョーゼフが幼少期のマイケルに対し性的虐待を行った疑惑が浮上する。 水星/金星 射手/射手

7室支配の火星に土星と木星がダブルトランジット

土星:水瓶
木星:天秤

1995年 6月 1994年10月のベストアルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは"history"と"his story"を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベストアルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。二枚組としては世界で5番目に売れた二枚組アルバムとなった。 アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹ジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであり、一部からマイケルを超えたとも評されるほどであった。同ショートフィルムは当時最先端のCG技術を駆使しており、莫大な費用がかかったが同時に非常に凝った作品であったため多くの人たちから評価され、様々な賞を受けている。 水星/太陽 蠍/獅子
1995年 8月 8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。アメリカだけで100万枚以上の売り上げを記録した。このショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとの競演が話題となった。 水星/太陽 蠍/獅子
蠍/蟹
1995年 12月 12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。 水星/太陽 蠍/蟹
1996年 1月18日 リサ・マリー・プレスリーと離婚。 水星/太陽 蠍/双子

4室と12室、月から見て7室と3室にDT成立

土星:水瓶
木星:蠍

1996年 9月 1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。中国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。 水星/月 蠍/牡羊
1996年 11月14日 1996年11月14日、デビー・ロウと結婚。デビー・ロウはビバリーヒルズの皮膚科医のアシスタントとして働き、マイケルはその皮膚科医師の患者だった。彼女との間には長男プリンスと長女パリスが誕生した。 水星/月 蠍/牡羊
1997年 ジャクソン5として1997年ロックの殿堂入りをする。 水星/月 蠍/魚
蠍/水瓶
1997年 1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。突然の発表であった上、変則的な曲目のアルバムであったが、600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年(1990年死去)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。 この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていたヒストリーからの第7段シングル「スマイル」が販売停止となった。 水星/月
(水星/火星)
蠍/魚
蠍/水瓶
蠍/山羊
1998年 1998年にはノーベル平和賞にノミネートされた。来日し世界空手道連盟から名誉五段を授与される。

水星/火星、水星/ラーフ

 

蠍/射手
蠍/蠍
天秤/蠍
1999年 6月 1999年6月にはマイケルと有志の友人達が2つのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。 この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、全て実現しなかった。 水星/ラーフ 天秤/射手
1999年 10月8日 1999年10月8日デビー・ロウと離婚。マイケルによると「彼女は私のために子供を作りました。彼女は『あなたは父親になる必要がある』と言いました…そして彼女は私への贈物として子供を作ってくれました」と、バシールの番組で発言していた。 水星/ラーフ 天秤/射手
2001年 2001年には「Off The Wall」「Thriller」「BAD」「Dangerous」の再発売が行われ、再編された「Greatest Hits - HIStory Volume I」も発売され各国のアルバムチャートにマイケルのアルバムが複数並んだ。 水星/ラーフ、水星/木星 天秤/水瓶
天秤/魚
2001年 3月 2000年12月12日に、第16回ロックの殿堂入りが決定していたが、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。

(※なお、マイケルはジャクソン5としても1997年殿堂入りしている。)
水星/木星
2001年 8月 8月「Invincible」の先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。 「Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。マイケルの近年最高の曲との意見も少なくない。 水星/木星
2001年 10月

2001年10月最新オリジナルアルバム「Invincible」を発表。タイトルは無敵でいつまでも成長し続けることで人々のために貢献するという意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げる事になる。(後述#ソニーウォーズ)

「Invincible」は当時の最先端の音楽を取り入れており、マイケルの音楽が21世紀であっても通じる事を多くの人に印象づけた。このアルバムはビルボード誌の2002年度人気アルバム投票では、投票された29,705票中の79パーセントを集め、R&B・ヒップホップアルバムチャートで1位に選ばれている。

水星/木星
2001年 9月7日、10日 2001年には「Off The Wall」「Thriller」「BAD」「Dangerous」の再発売も行われ、再編された「Greatest Hits - HIStory Volume I」も発売され各国のアルバムチャートにマイケルのアルバムが複数並んだ。 同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャーとクリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わったが、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More I Can Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセ、リッキー・マーティンらスターを集めてコンサートを開催した。 水星/木星
2001年 10月 しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる。 水星/木星
2002年 代理母により次男が誕生。 水星/木星?
2002年 4月 なお、マイケルはブッシュ大統領の政治方針の反対派で民主党を支持し、資金集めに協力しようと2002年4月にはアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。 水星/木星
2002年 11月19日 2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。だが、マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「はしゃぎすぎてしまったのではないだろうか」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していた事も一部で話題となったが、これはパパラッチから子供達を守るために顔を隠していると言われている。 水星/木星
2003年 6月24日 2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの芸能界の師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。 同時多発テロの支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売する事が決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。 水星/土星
2003年 11月 11月、マイケルのエピックにおける集大成とも言うべき「Number Ones」を発表。各国のチャートや、様々な角度からのナンバーワンソングを集めたベストアルバムであり、「HIStory」とは違い時系列順に曲目が並んでいる。このベストアルバムの新曲「One More Chance」にもCBSの特番用に作られた映像は存在していたが、マイケルがマイケル・ジャクソン裁判で自らの無罪を証明しなければならない事になったため発表が見送られてしまった。 水星/土星
2004年 2月 2004年2月、妹ジャネットが国民的ショーであるスーパーボウルのハーフタイムショーでジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸を露出する事件を起こし、激しい非難を浴びた。この後ジャネットは「自分が非難されるようになって、初めて兄の気持ちが分かった」と語る。 水星/土星
2004年 12月15日 2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。世界への苛立ちがストレートに表現された曲調、歌詞共に激しい曲である。 水星/土星
2005年 6月13日 2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関し冤罪であったとして無罪判決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。最新のベスト盤は2枚組アルバム「The Essential Michael Jackson」。裁判の影響もあってかアメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)などヨーロッパにおける人気の高さが伺える。 水星/土星
2005年 2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。だが、この製作時にはウィキペディアが早まった不正確な速報を流したとして問題になってしまった(後述)。 水星/土星
2006- 2006年 2006- 2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(ヴィジョナリー)として再販され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。 水星/土星、ケートゥ/ケートゥ
2006年 4月 2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラ・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。 ケートゥ/ケートゥ
5月26日 同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。 ケートゥ/ケートゥ
5月27日 27日、日本でMTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。 ケートゥ/ケートゥ
5月28日 28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。 ケートゥ/ケートゥ
5月29日 29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKIや叶姉妹らと対面した。 ケートゥ/ケートゥ
5月31日 また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りで出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2260万円)。 ケートゥ/ケートゥ
6月17、18日 パリのディズニーランドで娘パリスと供に(2006年6月18日)6月17、18日にはドイツの首都ベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム「Voices」に参加し「アース・ソング」を収録している。 音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。 ケートゥ/ケートゥ
6月

2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。

ケートゥ/ケートゥ
8月25日 8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。 ケートゥ/金星
9月 9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。 ケートゥ/金星
12月14日 12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。 ケートゥ/金星
12月25日 12月25日、ジェームズ・ブラウンが死去。ジェームズは生前自分がマイケルに対し好意を持っていた事を述べ、「アメリカへ戻って来る事については心配するなと伝えてくれ」と語っていた。そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。 ケートゥ/金星
12月27日 マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。 ケートゥ/金星
12月30日 12月30日にはジェームス・ブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。 ケートゥ/金星
2007年 3月4日 2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。 ケートゥ/金星
3月5日 3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を貸し切っておもちゃなどを購入。 ケートゥ/金星
3月7日 3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。 ケートゥ/金星
3月8日、9日 3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。 ケートゥ/金星
3月10日 3月10日午後2時過ぎ、マイケルは神奈川県の米軍基地、キャンプ座間のヤノ・フィットネス・センターでおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。 ケートゥ/金星
3月14日 3月14日に離日。 2007年後半にニューアルバムを発表予定。ウィル・アイ・アム等が参加するとの事。 ケートゥ/金星
ウィキペディアより引用抜粋、一部編集

 

 

(資料-wikipediaより引用抜粋、一部編集)

マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - )は、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー市出身の男性ミュージシャン・歌手。身長178cm、体重55kg。エリザベス・テイラーがthe true king of pop, rock and soulと称し、一般的には短くKing of Popのニックネームで呼ばれている。イギリスのゴシップ誌からはGod of Popというニックネームをつけられている。 ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。エルヴィス・プレスリーやビートルズなどと同様に、音楽界における歴史上の天才の一人。ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイヴ当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」の記録を保有。アルバム"Thriller"に関する記録は「[1億400万枚]の世界最高枚数の売り上げ」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」というギネス記録を保有している。 兄弟と結成したジャクソン5のボーカルとしてデビュー。

1980年代にはそのダンスやヴォーカルの実力で、全世界をそのエンターテインメント性で魅了した。「ムーンウォーク」は、彼の代表的なブレイクダンスのひとつ。

ゴシップキングとしても知られ、整形と病気による尋常性白斑の影響によるマイケル・ジャクソンの外観の変化のためよくタブロイドのネタにされる。

1993年、マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑が発生。13歳の少年が自分の父親(ビバリーヒルズの歯科医)によってマイケルを告発させられる。だが、本人は現在はマイケルに虐待されたとは思っておらず麻酔を用いた虚偽記憶であったと考えられている。また、2003年にはマーティン・バシールによるマイケルジャクソンの真実の報道の結果、マイケル・ジャクソンは児童性的虐待疑惑で逮捕されたが、マイケル・ジャクソン裁判の結果、全ての件に関し無罪となった。歌手ジャネット・ジャクソンは実妹。

 

来歴

1958-1970

9人兄弟姉妹の7番目として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。ゲイリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。 父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートとして働く事で一家の財政を何とか補おうとしていた。 幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。 父は昔「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、ミュージシャンの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。

1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露する事もしばしばあった。 ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと二人の従兄弟(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。 翌年、兄マーロンと二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンドRipples & Waves Plus Michael(のちthe Jackson Brothersと改名)の一員として頭角を現した。 初めてナイトクラブで働いた時のギャラはわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演する事で地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。

1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。 1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5(ジャクソンファイブ)」を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。

1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームズ・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。 地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。 当初ジャクソン5をインディアナで発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。1968年7月にモータウンと正式に契約。

1969年10月シングル「帰ってほしいの(I want you back)」でメジャーデビュー(マイケルは本当は11歳だが当初は8歳の設定だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。その後「小さな経験(The Love You Save)」「I'll Be There」のシングルを4曲連続で全米チャート1位に放り込んだ。

 

1971-1980

マイケルは1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には「ベンのテーマ」もヒットした。

1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも起こり出した。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、声変わりまで経験し、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなったなー」などと冷やかされる事もしばしばであった。 結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに新たに加入した。 このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットしその不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。

1978年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」がエピックでのデビュー曲であった。 クインシーをプロデューサーに迎え「オフ・ザ・ウォール」を製作。7月先行シングルとして発表された「今夜はドント・ストップ」は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということでさほど放映されなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼び、全米チャートを制覇した。 8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は少年ボーカリストからの脱皮を世界中に印象付けることになる。ソウルミュージックを基本にした作品であり、ポップ色の強い後の作品とは異なった意味で高い評価が与えられている。 10月には「Rock With You」を発表。この曲では一人多重録音の技術が用いられている。非常に伸びやかな声が聞けるとして今でもこの曲のファンは多い。ビルボードでは4週連続1位を獲得している。 さらに、「Off The Wall」「あの娘が消えた」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。 「あの娘が消えた」のレコーディングでは、何度レコーディングをやっても、マイケルが最後に泣いてしまい、収録し直しを何回もしたが、結局そのままアルバムに収録される事になった。 「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。 ザ・ジャクソンズは1980年9月「マイ・ラブリー・ワン(Lovely One)」(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル(This Place Hotel)」(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったのであるが、エルヴィスの曲と同じ名前になってしまう事もあったのか、後に改名している。「ビリー・ジーン」「ダーティ・ダイアナ」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。

 

1981-1990

1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日(One Day In Your Life)」がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。

1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「ガール・フレンド」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組む事になり2曲のデュエットを後に生む事になる。ポールとはプライベートで一緒になる事が多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。 1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。 1982年8月には、クインシーと2人で完全にロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。

1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている。だが、その後この傾向がますます強まったのは誰もが認めるところであり、結果的にこの曲は彼の人生を強く言い表した曲になっている。

2005年の無罪判決の時もジャーメイン「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出てしまっている事を念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにもかかわらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品として知られている。

1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされる。ムーンウォークを披露した直後、マイケルは自分のダンスに自信が持てず泣いたが、マイケルが敬愛しているフレッド・アステアから電話をもらい、「君のダンスは素晴らしい」と言われ、マイケルは嬉しかったと後に語ってる。また小さな子供から「どうやったらあんなに踊れるの?」とも聞かれ、マイケル自身反響に驚いた。この曲は2004年VH1の人気投票でイマジンを抑え史上最高の曲に選ばれた。また、イギリスの音楽雑誌Qにおいても2006年7月に80年代の最優秀シングルに選ばれた。 2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われる作品がこの作品である。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用している。この曲は本人だけではなくMTVの人気まで上げたとされる。 そして、12月には後の多くの調査でプロモーションビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男になったり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。

1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。 また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。
1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、予想以上に火花が散ってしまい、その中から登場したマイケルは、頭部に大きなヤケドを負ってしまった。皮膚移植手術によって、完治はしている。

「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。 ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年)1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We are the world」をライオネル・リッチーと共作した。しかし、その姿勢は評価されたが「バンド・エイド」の模倣であるとも揶揄され、アメリカ人しか集まらなかったため、結局はアメリカ中心主義ではないかとも批判され賛否両論の結果となった。しかし、楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から受賞された時、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評をかってしまった。 同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット(「The Girl Is Mine(1982)」、「Say,Say,Say(1983)」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をポールが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルは断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルにビートルズの版権を買うよう勧めたのはポールであった。

マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの息子ショーンと1988年の「ムーンウォーカー」で競演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を未だ所有している。 1986年5月ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や講演も受け持つ事になったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。 8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの製作に取り掛かった。完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。現在までにこの偉業を達成したのはマイケル1人だけである。表題曲「BAD」のショートフィルムは非常に奥深いヴィデオであり、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になったことから、マイケルの孤独感や疎外感を表してるのではという一説がある。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露し、人々を圧巻した。なお監督はマーティン・スコセッシである。

1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版された。4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストでは初登場1位を獲得した。 この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演した事で話題となった。 また、この頃マイケルはビートルズの版権の大量購入など、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。また、この曲はダイアナ妃のお気に入りの曲で、1988年7月のウェンブリー・スタジアムでダイアナ妃の前でライブを行おうとした際は、ダイアナ妃がマイケル本人に歌って欲しいと頼んだ事もある 7月発売のシングル「Another Part Of Me」は1位記録とトップ10記録を同時に途切れさせてはしまったが、クインシーの手があまりつけられていない作品であったためマイケルが新しい方向性を探しているのではという印象も与えた。 カハラ・ヒルトン・ホテルにて(1988年)1987年9月から世界ツアーを行い、日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もう1つのMはマドンナである。 1989年、マイケルがBREアワードでポップ・ロック・ソウルの三部門を制したため、エリザベス・テイラーはマイケルを評して「the true king of pop, rock and soul」と呼んだ。

 

1991-2000

世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し1991年11月に「Dangerous」を発表。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消したが、発売後6週間において1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。 11月発売のシングル「Black or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。アメリカにおいても最大級のヒットとなり、全米チャートで7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の技術であるモーフィングという技術を用い、5億人の人がこのショートフィルムを見たとされる。だが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのヴァージョンのショートフィルムはその部分の映像によってパンサー・ヴァージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことであるが、映像では黒豹が登場する)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一般放映が許可されており、マイケルのビデオ作品では普通に見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれたKKKなどいくつか修正されていて、今ではそれらの文字は消されている。

1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと競演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。この曲を1990年代最高のマイケルの曲に推す向きも多く、テディ・ライリーも2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。だが、訪れたコートジアポールでは「サン族の王冠」の名称を授与されている。 4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で競演する「JAM」が発表された。この作品ではHeavy D、ノーティー・バイ・ネーチャーなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。 1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。

1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Goon Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショウ」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する"事件"が起きた)。

1993年マイケルは少年に性的虐待を行った疑惑のマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。 1994年にはMJJプロダクションズを設立した。

1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。この結婚騒動の最中、一部で父ジョーゼフが幼少期のマイケルに対し性的虐待を行った疑惑が浮上する。

1994年10月のベストアルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは"history"と"his story"を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベストアルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。二枚組としては世界で5番目に売れた二枚組アルバムとなった。 アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹ジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであり、一部からマイケルを超えたとも評されるほどであった。同ショートフィルムは当時最先端のCG技術を駆使しており、莫大な費用がかかったが同時に非常に凝った作品であったため多くの人たちから評価され、様々な賞を受けている。 8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。アメリカだけで100万枚以上の売り上げを記録した。このショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとの競演が話題となった。 12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。

1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。中国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日デビー・ロウと二度目の結婚。

1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。突然の発表であった上、変則的な曲目のアルバムであったが、600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年(1990年死去)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。 この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていたヒストリーからの第7段シングル「スマイル」が販売停止となった。

1998年にはノーベル平和賞にノミネートされた。来日し世界空手道連盟から名誉五段を授与される。
1999年6月にはマイケルと有志の友人達が2つのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。 この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、全て実現しなかった。

2001-2005

2000年12月12日に、第16回ロックの殿堂入りが決定していたが、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年殿堂入りしている。

2001年10月最新オリジナルアルバム「Invincible」を発表。タイトルは無敵でいつまでも成長し続けることで人々のために貢献するという意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げる事になる。(後述#ソニーウォーズ) 8月先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。 「Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。マイケルの近年最高の曲との意見も少なくない。 「Invincible」は当時の最先端の音楽を取り入れており、マイケルの音楽が21世紀であっても通じる事を多くの人に印象づけた。このアルバムはビルボード誌の2002年度人気アルバム投票では、投票された29,705票中の79パーセントを集め、R&B・ヒップホップアルバムチャートで1位に選ばれている。

2001年には「Off The Wall」「Thriller」「BAD」「Dangerous」の再発売も行われ、再編された「Greatest Hits - HIStory Volume I」も発売され各国のアルバムチャートにマイケルのアルバムが複数並んだ。 同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャーとクリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わったが、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More I Can Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセ、リッキー・マーティンらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる。 なお、マイケルはブッシュ大統領の政治方針の反対派で民主党を支持し、資金集めに協力しようと2002年4月にはアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。 2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。だが、マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「はしゃぎすぎてしまったのではないだろうか」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していた事も一部で話題となったが、これはパパラッチから子供達を守るために顔を隠していると言われている。

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの芸能界の師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。 同時多発テロの支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売する事が決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。 11月、マイケルのエピックにおける集大成とも言うべき「Number Ones」を発表。各国のチャートや、様々な角度からのナンバーワンソングを集めたベストアルバムであり、「HIStory」とは違い時系列順に曲目が並んでいる。このベストアルバムの新曲「One More Chance」にもCBSの特番用に作られた映像は存在していたが、マイケルがマイケル・ジャクソン裁判で自らの無罪を証明しなければならない事になったため発表が見送られてしまった。

2004年2月、妹ジャネットが国民的ショーであるスーパーボウルのハーフタイムショーでジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸を露出する事件を起こし、激しい非難を浴びた。この後ジャネットは「自分が非難されるようになって、初めて兄の気持ちが分かった」と語る。 2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。世界への苛立ちがストレートに表現された曲調、歌詞共に激しい曲である。

2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関し冤罪であったとして無罪判決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。 最新のベスト盤は2枚組アルバム「The Essential Michael Jackson」。裁判の影響もあってかアメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)などヨーロッパにおける人気の高さが伺える。

2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。だが、この製作時にはウィキペディアが早まった不正確な速報を流したとして問題になってしまった(後述)。

2006- 2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(ヴィジョナリー)として再販され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。

2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラ・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本でMTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKIや叶姉妹らと対面した。 また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りで出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2260万円)。 パリのディズニーランドで娘パリスと供に(2006年6月18日)6月17、18日にはドイツの首都ベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム「Voices」に参加し「アース・ソング」を収録している。 音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。

2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。 8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。 9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。4月にガット・レコード会長のガイ・ホームズがトゥー・シーズの代表取締役に就任するという報道があったが、ホームズによると正式な契約は交わしていなかったのだという。そのため、6月に設立が発表されたマイケル・ジャクソン・カンパニーがレコード会社としての役割を担うこととなる。 12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。 12月25日、ジェームズ・ブラウンが死去。ジェームズは生前自分がマイケルに対し好意を持っていた事を述べ、「アメリカへ戻って来る事については心配するなと伝えてくれ」と語っていた。そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。12月30日にはジェームス・ブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。 2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を貸し切っておもちゃなどを購入。3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。3月10日午後2時過ぎ、マイケルは神奈川県の米軍基地、キャンプ座間のヤノ・フィットネス・センターでおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。3月14日に離日。 2007年後半にニューアルバムを発表予定。ウィル・アイ・アム等が参加するとの事。

音楽性

ジャクソン・ファイブはソウルミュージックの中でも非常にポップで白人にも受けるものだったため、人気の一方で黒人層からの批判もあった。 クィンシー・ジョーンズと出会ってからはソウル・R&B、ポップなどを融合させた極めてクオリティの高い作品を発表。ポール・マッカートニーとのデュエットや「Beat It」でハードロックのギタリストを起用するなど、ジャンルや黒人・白人の垣根を超越した存在となった。 1987年の「BAD」、1991年の「Dangerous」ではニュー・ジャック・スウィングと呼ばれるサウンドを多用し、流行を牽引した。 1990年代後半になっても、マイケルは流行に安易に迎合する事を嫌いこのスタイルを保ったが、2001年の「Invincible」では同時代性を意識した曲を多く収録した。 ハードロックにも関心を示し、「Beat It」では、ヴァン・ヘイレンのエディー・ヴァン・ヘイレン、「Dirty Diana」ではスティーヴ・スティーヴンス、「Black Or White」ではガンズ・アンド・ローゼズ(当時)のスラッシュを起用している。近年はギター・ヒーローが少ないせいもありなりを潜めているが、「Whatever Happens」ではカルロス・サンタナを起用している。 パンチの効いたボーカルを聴かせるアップチューンとは対照的に、繊細なハイトーンの美声で歌い上げるバラードにも定評がある。「She's Out of My Life」「Heal The World」「You Are Not Alone」他。 また、社会問題や地球環境といった問題を扱い、広く平和を訴える曲も多い。「Man in the Mirror」「Heal The World」「Earth Song」などがある。

ダンス・パフォーマンス マイケルのダンスは彼の最大の魅力の一つであると語る人は多い。1歳半の時には、洗濯機の鳴る音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていたと母のキャサリンは語っている。練習の際は「フレッド・アステアやジーン・ケリーを手本にしていた」と本人が語っている。「踊るときは何を考えているのでしょうか」という質問には、「踊る時に考えるのは最大のミス。感じることが大切なんだよ」と答えている。 「ムーンウォーク」は「ゲットーで踊る黒人の子供たちから」学んだものだと本人が語っている。また、初期のころから膝を曲げつま先で立つ独特なポーズを見せており、アルバムのフォトやムーンウォークの締めなどによく用いられる。帽子を投げるパフォーマンスでも知られる。 「オフ・ザ・ウォール」の頃はただ曲に合わせて踊るだけであったが、「スリラー」の頃には縦と横の激しい動きが出始めプロのダンサー達との競演も始まった。この頃はマイケルは技術的に様々なものを習得しており、フィギュアスケートのようなスピードのある回転技術も習得した。 さらに「バッド」の頃になると体の様々な動きをダンスに取り入れる事で、非常に完成されたダンスを披露できるようになった。この時期に同アルバムの楽曲smooth criminalのショートフィルム(マイケルにおけるPVの総称)で披露した斜め立ちはムーンウォークに次いで有名。このセンセーショナルな動きはアキレス健や背筋などを鍛えることで可能になるが、より大きく傾けてみせるためには靴の裏にフックをかける必要がある。このsmooth criminalは、ムーンウォークのBillie Jeanと並んでライブツアーでは必ず行われる内の最も人気なライブパフォーマンスの一つとなっている。このようにして、マイケルは歌手としてだけではなくダンサーとしても不動の地位を手にすることになる。 「デンジャラス」の頃には非常に速いダンスも出来るようになり、「Black Or White」ではその部分が放映禁止にこそなったが見事なソロ・ダンスを披露している。その後もラテン系のダンスなど様々なジャンルのダンスを取り入れることによって、年齢による体力の衰えを感じさせないパフォーマンスをしている。 2005年には裁判の精神的ショックから著しい衰弱が伝えられファンから心配されたが、2006年3月に兄のジャーメインが「毎日300回の腕立て伏せと腹筋をやっている」事を伝え、精神的なタフさとその自分に対する厳しさで皆を驚かせた。そして、2006年5月には回復した姿を日本で披露した。

慈善活動

1984年5月、飲酒運転防止キャンペーンに協力した功績を讃えられ、時の大統領ロナルド・レーガンより感謝状が贈呈される。 世界各地で子どもたちのための慈善活動を行っている。

1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立。11月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリスマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑などの影響で活動に支障が出たともいわれる。

1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ時期がある。 モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行っている。

事業

1985年のATV買収に代表されるように実業家としても知られる。1990年代には韓国で子供向けのテーマパークを建設する計画を発表したこともあるが、実現しなかった。近年はCD売上の落ち込みもあって財政難が度々報じられ、金銭に関する裁判も複数抱えている。これに対し、マイケルは「僕が破産寸前などという話はまったくのデマ」とはっきり語っている。実際、マイケルは現在でも昔の曲の印税だけで年間推定約20億円は収入がある。

プロデューサー業

1990年代、ソニーレコード傘下に自身のレコードレーベルMJJ Recordsを設立。女性グループBrownstoneや、甥3人によるユニット3Tなどをデビューさせた。 日本のジャニーズ事務所との繋がりもあり、1990年代後半にはTOKIOの長瀬智也を3Tと共演させたTomoya with 3T による楽曲『ETERNAL FLAME』(1997/8/13)やJ-FRIENDSのチャリティシングル『Children's Holiday』(1998/1/21)をプロデュース・作詞・作曲した。

エピソード

ショートフィルム 最も有名なミュージックビデオと形容されているThrillerの制作費はその当時の金額で80万ドル。マイケルが自分の映像作品の事をショートフィルムと正式に呼ぶようになったのはBlack or Whiteの製作後である。マイケルとジャネット共演のScream(1995)では700万ドルの巨費が投じられ、最も費用のかかったミュージックビデオということになっている。アメリカのホラー作家スティーヴン・キングが制作に参加していることでも知られるGhosts(1996)は35分の最長ミュージックビデオでもある。余談だが、この作品でマイケルは一人5役を演じている。Captain EOでは映画の長さ17分に対して制作費1700〜3000万ドルと見積もられており、当時としては一分あたりに直して最も費用がかけられた映画だった。なお「Smooth Criminal」のショートフィルムの真のフルサイズヴァージョンは「ムーンウォーカー」であり、こちらは42分ある。映画であるためミュージックビデオではないが、もしミュージックビデオとして扱われたならこちらの方が長かった。

マイケル曰く、『ぼくはお金に固執はしない。たとえば、その辺の子どもが、ダイヤを見て「これきれい」と言ったら、「いいよ、持って行きな」と言っちゃうだろうし』。また、マイケルが子どもの時、彼が泣きながら帰ってきたので、父親が聞いてみたところ、マイケルは自分のお小遣いを全部つかって、まわりの子どもたちに色々なものを買ってあげたそうである。

結婚歴

1994年5月26日、エルヴィス・プレスリーの娘のリサ・マリー・プレスリーと結婚し「世紀の結婚」と言われたが1996年1月18日離婚。

1999年には「エルヴィスだって鼻の整形をした」とマイケルが発言したため、怒って電話にも出なくなった。リサ・マリーは、マイケルの児童虐待の裁判の苦境中にも、結婚中のネガティブな事をメディアにまくしたて今は絶縁関係にある。

1996年11月14日、デビー・ロウと結婚。ビバリーヒルズの皮膚科医のアシスタントとして働き、マイケルはその皮膚科医師の患者だった。彼女との間には長男プリンスと長女パリスが誕生した。1999年10月8日には離婚した。マイケルによると「彼女は私のために子供を作りました。彼女は『あなたは父親になる必要がある』と言いました…そして彼女は私への贈物として子供を作ってくれました」と、バシールの番組で発言していた。2002年にはさらに代理母により次男が誕生した。

ネバーランド

自宅は遊園地が併設されており、ネバーランドと呼ばれる。敷地面積は2万6000エーカー。ネバーランドの名は「ピーターパン」に登場する大人にならない島に由来している。「ピーターパンは僕が心の中に持っている特別な象徴なんだ。ピーターパンからイメージするのは若さ、子供時代、大人にならないこととか、Magicとか、空を飛ぶこととか、僕はそういったものにずっと魅力を感じ続けていて、そして何よりも大切なものだと感じ続けているんだ」と語っている。ラマ、ゾウ、マッスルズという名のニシキヘビなど様々な動物も暮らしている。 マイケルはセガのゲームがお気に入りで、来日の際に何度かセガ社を来訪している。セガではマイケルに「ギャラクシー・フォース」を筐体ごとプレゼントするなど歓待している。 少年時代、クリスマスも誕生日もなく、休み返上で働いていて、レッスンにいく途中、子供たちが楽しそうに外で遊んでいる姿を見ては、泣いていた。と本人が語っている。 バブルス君とはマイケルと行動をともにしていた当時世界一有名なチンパンジーで、1987年9月の初来日の際も共に来日し一躍有名になった。「マイケル・ジャクソンの真実」のアウトテイクにも登場しており、マイケルは「彼らはとても頭が切れる」と述べた。現在は行動は共にしていないが、きちんとカリフォルニアの牧場にいる。 ダイアナ・ロスの事を尊敬している事は有名であるが、本人は中学生時代に彼女に告白して失恋している。その時は「もう絶対結婚はしない」とまで言ったそうである。

1970年代はテータム・オニールとの交際話もあった。 「スリラー」のヒットと同時期に交際していたのはブルック・シールズ。 初来日の際は「日本では静かな声でおだやかに話す人のほうが価値があると思われているんだ!」と驚いたという。 マイケルとマドンナとプリンセス・テンコーが、ブルネイのハサナル・ボルキア国王(スルタン)一人のためだけにショーをしたとき、テンコーは油田、マドンナがダイヤモンド、マイケルは鉱山か炭鉱をもらった(テンコー談)。 日本のアニメーションのマニアでも知られていて、『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』『新バビル二世』『赤い光弾ジリオン』などを好んでいる。実際に映画『ムーンウォーカー』では変形ロボット、『MTV』では映像を使用した。イラストレーターのいのまたむつみを呼んで自分のキャラクターを描かせたこともある。 自伝では「最も優れたエンターテインメントはストーリーテラー(語り部)である」と書いている。酒どころかコーラも飲まない。ペプシのCMに出演した際も一滴も飲まなかった。木登りが好き。木の上で、Black Or White、Heal The Worldを書いた。 家族との確執も噂されるが、父親の誕生パーティーもきちんと行っている。 マイケルの楽曲は今もなお数多くの若いアーティストによってカバーされている。(Alian Ant Farmのsmooth criminalは同グループの人気を押し上げた) 2003年10月1日にロンドンで開かれたクリスティーズのポップス記念品オークションでは、マイケルが1976年に描いたチャップリンの鉛筆画が4112ポンドで落札された。 中東に滞在中(2005年)、女子トイレでメイク直しをしてしまった事がある。広報担当によると「アラビア語が読めず間違えてしまった」とのこと。 変装をしてお忍びで外出する事も多いが、子供連れのため発覚し騒ぎになってしまうこともしばしば。 食の細さで知られる。母キャサリンやエリザベス・テイラーはいつも心配しており、エリザベス・テイラーは無理に食べさせた事もある。 ベジタリアンである。 ロックンローラーの一般調査で上位に上る。(大抵の1位はエルヴィス) 99年の6月に「風と共に去りぬ」の作品賞のオスカー像を150万ドル(約1億5750万円)で落札した。ジャクソン曰く、「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。

主な事件

事実確認の取れない記事・報道の数々 マイケルは金銭目的で訴えられる事が非常に多く、ビートイットは自分の作品だと言う男性に訴えられたり、契約不履行だとして訴えられたりする事が数多い。

2003年までに金銭目的で訴えられた回数は1500回に上っていた。2004年には1年だけで約130人訴訟を起こした。1997年には「ウィル・ユー・ビー・ゼアー」はイタリア人歌手の曲の盗作だとして訴えられた。マイケルは「何か似た部分はあるけど全くの偶然だね。だって僕、イタリア語ができないんだから」と一蹴した。 マイケルは「裏切られたマイケル・ジャクソン」で子供たちは「セックスしてできた子供」と言い、ロウも同様に証言していた。

2005年4月の裁判の証言ではマイケルを「子供たちにとって良き父親」と称賛し「裏切られたマイケル・ジャクソン」もマイケルに言わされたものではないと証言している。デビー・ロウは親権に関する裁判も起こしている。離婚後、ロウは子供たちと45日おきに1度、8時間の面会を許可されていたが、マイケルが常に子供たちを連れて旅に出ていたため彼女はすべての親権を2001年に放棄していた。

2006年まで行われた裁判は、この面会に関する親権を取り戻すべく行われた。なお、この裁判は2006年9月に「デビー・ロウと和解することで決着」したという。 ゴシップ記事も多く、マイケルとジャネットは同一人物であるという説(1995年ごろ)もあった。子供に関するゴシップは「マイケルには隠し子の長男がいる」というものもあり、その子供はマイケル・ジョセフ・ジャクソンJr.といい、BADの発売の頃に生まれた子供で彼の母親はスイスに住んでいるのだという。全てマイケル側は否定しており実際にはマイケルの「名付け子」だった。 知名度を利用する人間も多く、2004年にはマイケルと少年の映像を提供するというコンピュータウイルスが出現。2005年には「マイケルが自殺未遂」、さらに「マイケルが死亡」という情報を組み込んだコンピュータウイルスが出現。Panda Softwareが2005年6月13日発表した「セレブウイルス・ランキング」では、2004年にはウイルスやスパムに6番目に悪用される存在となった。 また、ハイドロキノンの美白効果とかで「マイケルも使っている美白化粧品」というものもあったが根拠不明。 ネット上では真偽不明の噂が流れるというのは日本の俗説であるが、ジャクソンの場合はテレビや新聞のニュースにおいても信用できる情報は少なく、事実上それらもゴシップ化している。 事実確認のされない報道は多く、「マイケル・ジャクソンがネバーランドを売却」という報道は数回伝えられた。だが、これらは実際には「ネバーランドを売却しなくては財政的にきついのではないか」とか「マイケルが国外に移った」とかいった事から事実確認が為されず勝手に作り出された報道であった。無罪判決が出された時も、ドイツ公共テレビARDのニュースキャスターが「陪審団は昨夜、ジャクソン被告が10の罪状すべてで有罪であるとの評決を下した」と速報を読み上げ騒動になった。しかも、この誤りはライバル局の人気コメディアンが「マイケル有罪」と伝えた映像のビデオを使って指摘するまで関係者達は誰も気づかないという事態になった。性的虐待裁判の際には模倣犯が出現し、1984年5月に性的虐待をされたことを「思い出した」男がいたが、彼の民事訴訟は2006年4月18日に裁判官によって却下された。 ウィキペディアも問題を起こさなかったわけではない。2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してチャリティシングルをマイケルが企画した際に、ウィキペディアが「チャリティーソングは12月20日にリリースされる」「タイトルは『I Have A Dream』」といった早まった情報を流した。これらは事実確認の取れない、いわゆる「噂の集約」といったものであった。そのため、12月15日レイモン・ベインが「ジャクソン氏のハリケーン救済ソングの名前を含め、ウィキペディアで伝えられている情報は事実に反しており不正確なものです」と報道する事態となった。 名称に関してはレコーディングに参加したシアラやディニッシュが語った事であり全く根拠のない事ではなく、後に公式の発表もなされている。しかし、結果的にこのような事態になったには事実である。標準時間2005年12月12日7時45分には英語版Wikipediaで「I Have This Dream」の項目が事実確認の為されないまま作られてしまっている。 「薬物を乱用」「バーレーンで職探し」といった嘘情報が流された時、レイモン・ベインは「読んだ内容の90%は信じないでください。大半は嘘ですから」と2006年1月20日語っている。

暗い記憶

マイケル自身はさほどひどい目にあわなかったと述べていたが「稽古中、父はいつも椅子にベルトを持ちながら座わっていて、間違えると叩れ、みんないつも緊張しながらレッスンをしていた」「ほかにはアイロンコードとか周りにあるものすべてをつかって、ときには僕らをありったけの力で壁に叩きつけ、母親があなた死んじゃうよ、死んじゃうよ、って叫んで止めたのを覚えている。ぼくは足が速かったから逃げられたけど、捕まえられた時は、本当にひどい目にあった」「父を見るだけで失神して、ボディガードに助け起こされたこともあった。すごく憎んだ。だから自分の子供たちには、絶対に手をあげないんだ」などと語っている。 また、グループの駆け出しの頃、売り出すためとはいえストリッパーがいかがわしい出し物をするナイトクラブで営業しなければならなかったこともある。『マイケル・ジャクソンの真実』の製作者J・ランディ・タラボレッリによれば、兄や父がファンの女の子とセックスをしているときに、弟のマイケルとマーロンは同じ部屋でその行為を見ていたのだという。また、マイケル自身に対してジョーゼフが性的いたずらを行っていたのではないかという疑惑があり記事になりかけたが、これはマイケルの元側近ボブ・ジョーンズがゴシップと判断し圧力をかけもみ消した。ところが、この疑惑がもみ消されたことを知ったマイケルは「ジョーゼフの件が嘘だって、どうして分かる?」とジョーンズに述べ、曖昧な態度を取っていたといわれる。

ソニーウォーズ

1990年代後半頃からマイケルとレコード会社側の仲は非常に険悪なものとなっていった。レコード会社側は圧力をかけ、マイケルはそれに反抗するというような状態が続き、2001年の「Invincible」の発売直前にこれが最後のアルバムとモトーラに通知した。 実はこのアルバムでは当初、1997年5月に射殺されてもはやこの世にいないビギー・スモールズことザ・ノトーリアスB.I.Gの声を収録した「Unbreakable」に20分のショートフィルムを付けて先行シングルとして発売したいというのがマイケルの意向であった。ところが、レコード会社は時間をかけたくないという理由を挙げて、「Unbreakable」を「You Rock My World」に差し替えてしまった。そのため、このアルバムではマイケルが自らの意向通りにリカットシングルを発表する事ができなかったのである。 その「Invincible」がUSで200万枚の売上しかでなかったとソニーが報告した事に関し「曲が売れなかったのはソニーの宣伝が足りなかったからだ」「会長は人種差別の塊だ」としソニーを提訴。これに関し会社側はプロモーションビデオや宣伝に以前と同等の予算を使ったと反論。だが、2003年1月10日、トミー・モットーラは会長を退き、様々な批判があったがマイケルは勝利し、最終的に5月にはマイケル側の意向をほぼ全面的に呑むことで合意した。 2003年11月ソニーから発売したベスト盤には新曲「One More Chance」が収録された。ただし、この楽曲の広告にはソニーはほとんど関与しなかった。 この問題はマイケルの勝利が決定した時点で幕を下ろすかと思われたが、この問題はさらに尾を引く。マイケルとソニーによる合弁会社、ソニーATV音楽出版は30万曲以上の著作権を管理・運用しており、これによる年間収益はおよそ8千万ドル(ビートルズの楽曲だけでも3千万から4千5百万ドル)に上り、これらのカタログの価値は6億から10億ドルとも言われていた。ソニー・ミュージック幹部からの情報によると、ソニーと対立していたマイケルがソニーから離れた場合、その版権カタログの権利に関して激しい損失が起こるため、版権カタログを奪うべく、シャフェル、コニッツァー、財政相談役のアル・マルニックらがマイケルの周囲で対立していたという。元マイケルの広報担当、アン・マリー・カイトによると彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服し、陰謀を企てていたという。 このことはマイケル・ジャクソン裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルの事を「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。結果的にマイケルは無罪になったが、カタログはその価値のために様々な事件を今まで巻き起こしてきたものであることは否めない。マイケル側に動きがあったとき、ソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測も2006年4月に出たが、すぐにマイケル側はそれは「新たな融資が組みあがった事」であると言いカタログは売っていないと語っている。 結果的に、2006年6月には資産・経営管理を担っていた人物達との関係を解消し、広報担当のレイモン・K.ベインをゼネラル・マネージャーに指名した。8月にはレイモン・ベインが前民事弁護士やアドバイザーなどによるマイケルの破産を狙ったとされる文章が存在する事を公表した。ソニーの不正改正も認定され、2006年11月にはスリラーの真の売り上げ枚数1億400万枚がギネスに認定された。2006年12月23日には、マイケル側は年に250万ドルの詐取があったとして前会計担当士(社)らを相手取り訴訟提起した。

 

(資料-マイケルジャクソン逮捕時の記事)

マイケル 有罪なら10年の禁固刑も  子供に対する性的虐待事件で米ポップス界のスーパースター、マイケル・ジャクソン容疑者(45)が20日午後(日本時間21日早朝)米カリフォルニア州サンタバーバラ郡保安官事務所に逮捕された。保釈金300万ドル(約3億3000万円)を払い、わずか1時間で釈放されると報道陣に向かってVサインをするなど徹底抗戦の姿勢を示した。来年1月9日に罪状認否手続きが行われ、本裁判は来年秋以降。結審に7、8年はかかる見込み。仮に有罪判決を受ければ、10年以上の禁固刑を課せられる可能性もある。 深い闇に包まれたスーパースターの素顔がついに明かされるのか――。起訴への自信をみせる捜査当局と全面的に争う構えのマイケル容疑者。世界中が注目する「世紀の裁判」の開廷は来年秋以降になる。 マイケル容疑者が容疑を認めるかどうかの罪状認否手続きが来年1月9日に開かれることが決まった。この日、同容疑者の弁護士は「疑惑に真っ向から対決するために出頭した。逮捕に彼は激しく憤っている」とし、全面否認するのは確実。予備審問に入り、裁判官が本裁判を行うかの判断を下すが、現地の法曹関係者によると「本裁判開廷は1年後ぐらいになる」という。 捜査当局では「被害件数は複数だ」としている。これに対して弁護側は少年の証言の信頼性を攻防戦の大きなカギにする戦略。10年前から子供への性的いたずら行為疑惑を指摘されていたマイケル容疑者のもとに、あえて少年の保護者が行かせた理由など不可解な部分を徹底的に突いていくもようだ。激しい法廷闘争になるのは必至で「判決確定まで7、8年の長期になるだろう」と関係者。カリフォルニア州法では、裁判官の判断でテレビが法廷に入ることができるため「世紀の裁判」が全世界に向けてテレビ公開される可能性は高い。 そして、同州法ではもし有罪となれば、1件で3〜8年の禁固刑が科せられる。有罪の案件に関してはすべて合算されることから、10年以上のかなり重い量刑になることも予想される。 そんな「世紀の裁判」への序章は、この日正午すぎの逮捕劇から始まった。マイケル容疑者が滞在中のラスベガスから自家用ジェット機でサンタバーバラに到着すると、空港内の格納庫で身柄を拘束。その後保安官事務所の拘置所に連行される際には、後ろ手に手錠をかけられた哀れな姿がメディアに報じられた。 写真撮影、指紋採取などの手続きに加え、パスポートも取り上げられたが、わずか1時間でのスピード保釈。報道カメラに向かってVサインをし、投げキッスまでするパフォーマンスで全面対決の姿勢をアピールした。(スポーツニッポン) [11月22日6時11分更新]  

マイケル元警備員が異常性愛を証言  マイケル・ジャクソン容疑者(45)の少年への性的虐待がついに事件として立件された。カリフォルニア州サンタバーバラの自宅兼遊戯施設「ネバーランド」に、好みの少年を招いて常習的に虐待していたとみられる。20日(日本時間21日)、ネバーランドの元警備員という男性が米テレビ局の取材に応じ「100人以上の男の子がマイケルと寝室で一緒に寝た」などと証言した。 衝撃の事実を証言したのは、90年から3年間にわたり、ネバーランドの警備員を務めたロバート・ワグナー氏。カリフォルニアのテレビ局の取材を受けた同氏は「私が警備をしていた間で100人以上の男の子たちがマイケルと一緒に寝ていた」と話した。さらに「マイケルが少年たちの体を触り、ジャグジーに一緒に入っているところも見た」という。そのジャグジーでは「新婚カップルが初夜にするような性的な行為も行われていた」という。そして「寝室のベッドの下に、少年の下着が落ちていたこともあった」という生々しい証言も付け加えた。 同氏は「息子のように知っている」というほど身近でマイケルを見つめ続けた人物。今回の逮捕劇については「深刻な問題だが、特に驚いていない」という。 少年への性的虐待疑惑は10年以上前からささやかれていた。93年8月、当時13歳だった少年の母親が児童福祉局に対して「4カ月間にわたって性的な関係が続いた」と告発した。ロス市警が捜査に乗り出し、少年の全裸写真を押収したとも伝えられた。地元紙は「キス、自慰行為やオーラルセックスを強要された」とも伝えた。 同年9月に少年側が5億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。係争中も、マイケルの姉ラトーヤ・ジャクソン(47)が「虐待は本当」と爆弾発言し、元家政婦が、少年たちを「ラブ(RUB=マッサージすること)」と呼び、自分を「ダディ」と呼ばせ、性的虐待をしていたと暴露した。訴訟は94年、マイケルが10億円以上の和解金を支払うことで決着したが、この日、米コート・テレビは、この少年が当時の出来事を法廷で証言する可能性があると報じた。 この10年間でも、別荘へ14歳と12歳の少年を連れ込む姿が目撃され、リサ・マリー・プレスリーさんとの新婚旅行に少年16人を同行させたと報じられるなど「少年愛」への疑惑は深まるばかりだった。(日刊スポーツ) [11月22日10時5分更新]

マイケル逮捕で米メディア過熱  CNNなどの米テレビ各局は、マイケル・ジャクソン容疑者(45)逮捕を、特別番組で生中継した。刑務所周辺には20日未明から1000人を超える取材陣が殺到し、サンタバーバラ空港から刑務所に向かうマイケルの車を各局がヘリコプターで空撮した。米国では94年、前妻ら2人を殺害した罪に問われた元アメリカンフットボールのスター選手O・J・シンプソン事件以来の報道フィーバーとなった。 米テレビ各局は20日早朝から、通常番組をすべてキャンセルして、マイケル逮捕特番を組んだ。空港到着から出頭、逮捕までの模様をCM抜きで全米に生中継した。20日付朝刊も、マイケルの事件が各紙の1面に掲載された。 刑務所周辺には19日夜から1000人を超える取材陣が集まり、マイケルの出頭を徹夜で待った。マイケルの自家用ジェット機が到着したサンタバーバラ空港やネバーランド周辺にも数百人の取材陣が集まった。各メディアは多数のヘリコプターを投入し、空港から刑務所までマイケルの車を追い続けた。マイケルは保釈後、ラスベガスに戻ったが、ラスベガスの空港やホテルの前にも取材陣が殺到した。 テレビの特番には、ネバーランドの元警備員などマイケルを知る人々がゲスト出演。この騒ぎにマイケルの兄で歌手のジャーメイン・ジャクソンは電話インタビューで「あなた方は、我々家族のことを何も知らない人間を引っ張り出しては、弟をいじくり回している」と批判し「もう、うんざりだ」と叫んで電話を切った。 トルコでのテロ、バグダッドのホテルにロケット弾が打ち込まれるなどのイラク関連ニュース、ブッシュ大統領の英訪問など大きなニュースが多かったにもかかわらず、米メディアはマイケル一色。音楽界のスーパースターが起こした事件の注目度は高かった。 米国では94年6月、前妻ら2人の殺人罪に問われたO・J・シンプソン氏が警察とカーチェイスを繰り広げた模様を各局が生中継で放送した。NBCでは人気のNBAファイナルを中断してまで放送するなど、全米を巻き込んだ騒動となった。今回のマイケル逮捕報道は、シンプソン事件以来の過熱ぶりを見せている。(日刊スポーツ) [11月22日10時5分更新]

マイケル容疑者、手錠直後Vサイン  【ロサンゼルス=千歳香奈子通信員】米歌手マイケル・ジャクソン容疑者(45)が20日昼(日本時間21日早朝)、少年への性的虐待容疑でカリフォルニア州サンタバーバラ郡保安官事務所に逮捕された。マイケルは仕事先のラスベガスから自家用機で同郡の空港に到着し、直後に身柄を拘束され、手錠をかけられた。300万 ドル (約3億3000万円)を払い、約1時間で保釈された。マイケルの弁護士は「法廷で全面的に闘う」と語ったが、法曹専門家は短時間での保釈は検察側の意図的な“戦略”だったと指摘する。 マイケルが手錠をかけられた衝撃的な姿で、報道陣の前に現れた。マイケルは番組収録のため滞在していたラスベガスから、3人の子供、ボディーガードとともに自家用ジェット機で移動し、20日午後0時20分(日本時間21日午前5時20分)、カリフォルニア州のサンタバーバラ郡刑務所に到着した。乗用車から降りたマイケルは白いシャツに黒いスーツ姿、後ろ手に手錠をはめられていた。 サンタバーバラには、1000人を超える報道陣が詰め掛け、刑務所上空には6機のヘリが飛び交った。逮捕の映像はリアルタイムで全世界に中継された。マイケルは落ち着いた足取りで、マーク・ゲラゴス弁護士に付き添われて刑務所に入った。 刑務所でマイケルは、指紋採取、顔写真撮影に応じた。海外逃亡を防ぐため、パスポートの提出も求められたという。その後、300万ドルを支払い、わずか1時間で保釈。刑務所に入る際はうつむき、無言を貫いたが、釈放後の口元は緩んでいた。報道陣に投げキス、Vサインをするパフォーマンスまで見せた。その後、サンタバーバラ空港からラスベガスに戻り、子供たちとともに終日ホテルにこもった。 サンタバーバラ郡保安官事務所は、18日に同郡内の「ネバーランド」と呼ばれるマイケルの自宅兼遊戯施設を約14時間にわたって家宅捜索。12歳の少年への性的虐待の証拠品としてビデオテープや手紙、写真を押収し逮捕状を取った。少年は2カ月前に「ネバーランド」を訪れた際に性的いたずらをされ、その後少年が通ったカウンセリングでマイケルの容疑が明らかになった。 マイケルは、釈放後にスポークスマンを通じて声明を発表。「うそは短距離を走るが、真実はマラソンを走る。真実は法廷でのマラソンで勝利する」と容疑を全面的に否定した。またゲラゴス弁護士も「容疑は全くのうそ。彼はこれらの告発と直面するため、法廷に出る日を楽しみにしている」と話した。 カリフォルニア州法で14歳未満の少年への性的虐待は、1件につき3年から8年の禁固刑が科せられる。容疑の詳細は明らかにされていないが、地検は容疑件数を「複数」としている。公判に向けた罪状認否手続きは来年1月9日に郡の裁判所で行われ、本格的な裁判は来年春ごろに始まりそうだ。(日刊スポーツ) [11月22日10時5分更新]

華やか弁護団vs執念の地方検事  マイケル・ジャクソン容疑者(45)逮捕の陣頭指揮を執ったのは、10年前に少年への性的虐待容疑で同容疑者を追い詰めながらも起訴できなかったトム・スネッドン検事。「マッド・ドッグ」と恐れられる地方検事が、米国のセレブ御用達のマーク・ゲラゴス弁護士ら「ドリームチーム」といわれる強力弁護団と対決する。 マイケル容疑者の逮捕後、会見したスネッドン検事は「あの時は証言させることができなかった。だが今回は違う。既に少年には証言する意思があり、母親も出廷する意向だ」と自信たっぷりに語った。 「あの時」とは93年。マイケル容疑者が13歳の少年への性的虐待容疑で訴えられた時のことで、約16億円の和解金で民事訴訟の和解が成立。少年が刑事裁判での証言を拒否したため、証拠不十分で不起訴になった。これを機に法改正され、少年の証言を強制できるようになったのだ。 大学時代にボクシング部で活躍し、ニックネームは「マッド・ドッグ」。米TVプロデューサーのデーブ・スペクター氏によると「36年のキャリアがあり、現在のポジションでも21年のベテラン」という。 今年初め、マイケル容疑者がテレビの特別番組で「たくさんの子供たちと寝たことがあるよ。何がおかしいの?」と言ってのけたことが、検事の怒りに火をつけた。この日も逮捕の姿を事実上メディアに公開し、10年間追い続けた執念深さをにじませた。 こうした検事の執念をマイケル容疑者は95年の発表曲「D・S・」で歌ったほど。名前を変えて――オレを捕まえるなら手段を選ばないらしい ドム・シェルドンは冷淡な男 冷血漢さ――と歌っている。 対する弁護団の中心人物はハリウッド女優ら米国セレブ御用達のマーク・ゲラゴス弁護士。二人の直接対決は既に始まっており、スネッドン検事と保安官による取り調べに同席。マイケル容疑者は一言も発せず、すべてゲラゴス氏が回答。今後も同容疑者の供述はほとんどないまま進行し、検事は押収したビデオなど物的証拠で牙城を崩していくことになる。デーブ氏は「華やかな弁護士と目立った経歴のない地方検事の戦いは注目。裁判ではどんな証人が飛び出してくるのか。友人のエリザベス・テイラーでは説得力に欠けるが、有名アーティストの証人が出てきたら大注目です」と大物証人の召喚も示唆した。(スポーツニッポン) [11月22日6時9分更新]

マイケル・ジャクソンが出頭へ 児童性的虐待容疑  米人気歌手のマイケル・ジャクソン容疑者(45)の子供に対する性的虐待容疑で米カリフォルニア州サンタバーバラ郡の保安官事務所と州地検は19日(日本時間20日早朝)、マイケル容疑者に逮捕状を出したと発表した。ラスベガスに滞在中のマイケル容疑者の代理人は「全く事実無根」と容疑を否定する声明を発表。保釈金は300万ドル(約3億3000万円)に設定されており、20日早朝にも出頭、保釈金を支払うと見られている。 有罪なら1件で3〜8年の禁固刑に  「キング・オブ・ポップス」が、ついに容疑者となった。19日朝、サンタバーバラ郡の捜査当局は、14歳未満の少年に対する性的虐待容疑でマイケル容疑者に逮捕状を出したことを発表。「一定期間内に出頭する機会が与えられており、協力を信じる」と話した。 マイケル容疑者は約半月前から新作のミュージックビデオの撮影のためラスベガスに滞在中。代理人は「全くの事実無根。マイケルは子供を傷つけることはしない」と強く容疑を否定する声明を発表。法廷で虚偽を証明するとする一方で、「すでに地検と話がついている」と話し、20日早朝にも同郡当局に出頭することを明らかにした。保釈金は300万ドル(約3億3000万円)に設定されており、出頭時には海外逃亡を防ぐためのパスポートの提出とともに保釈金の支払いを済ませると見られている。 捜査当局は18日からマイケル容疑者の自宅「ネバーランド」に約70人の捜査員を投入。他の2か所の捜索令状も出されており、約14時間にわたった捜索では容疑を固める物的証拠を押収している可能性もある。 カリフォルニア州法では14歳未満の子供に対する「わいせつな行為」を禁じており、有罪となれば1件で3年から8年の禁固刑となる。捜査当局は被害者や容疑の詳細に関する情報を明らかにしていないが、容疑件数は「複数」としており、10年以上の禁固刑となることもある。地元メディアは12歳の少年に対する性的虐待容疑だと報道している。 マイケル容疑者は93年にも13歳の少年に対する同様の容疑で捜査を受けたが、被害者と16億円とも48億円とも言われる巨額の示談金で和解。被害者が証言を拒否したため、捜査が打ち切られた。 しかしその後、被害者は証言を拒否できない法改正が行われている。今回は被害者の少年が捜査に協力的で、マイケル容疑者が有罪になる可能性もある。

M・ジャクソン、逮捕後45分で“3億円保釈”  【サンタバーバラ(カリフォルニア州)20日=夕刊フジ特電】米ポップス界のスーパースター、マイケル・ジャクソン容疑者(45)が20日午後(日本時間21日朝)、少年への性的虐待容疑で、ついに逮捕された。身柄拘束後、300万ドル(約3億2800万円)の債券を払い、わずか45分で保釈されたが、今回の逮捕劇は世界中に大きな波紋を広げている。大人になりきれないマイケルの素顔は、法廷で明らかにされるのか。マイケル側は強力な弁護団を結成し、全面的に争う構えだ。 【大捕物劇】  軽くほほ笑み、ピースサインと投げキッス−。20日午後1時半(同21日午前6時半)過ぎ、45分足らずの手続きで保釈され、カリフォルニア州サンタバーバラ郡当局の建物から出てきたマイケルは黒いスーツに白シャツ姿で、カメラに向かってポーズを取ってみせた。 ロサンゼルス北西部に位置する同郡。その中に広大な面積を持つマイケルの自宅兼遊戯施設「ネバーランド」はある。  「ピーターパン」に出てくる夢の島と同じ名前を冠したネバーランドを18日から19日にかけて、70人近い捜査員が何度も往来した。 少年への虐待容疑は複数に及び、それを裏付けるための捜索だったが、マイケル側のスポークスマンは「断じて子供への虐待などない。容疑が虚偽であることは法廷で証明される」。 20日、保安官事務所周辺は多数のメディアが詰めかけ、空撮も行われるなど、スーパースター逮捕を報じようと騒然とした雰囲気に包まれた。  結局、マイケルは撮影のため訪れていたラスベガスからサンタバーバラ郡内にある空港に自家用小型ジェット機で戻ってきた際、当局の求めに応じる形で出頭。後ろ手に手錠をかけられ、身柄を拘置所に連行された。 だが、まもなく保釈。冒頭のシーンは自分に罪はないという自信の表れなのか、それとも精神的に子供のままなのか。  【被虐待経験】  マイケルは孤児院などの子供をたびたび、ネバーランドに招待する一方で、自分の寝室でベッドをともにしていたとされ、93年には14歳の少年に対する性的虐待容疑が浮上。この際は1500万ドル(約16億円)とされる和解金で示談が成立。訴えが取り下げられている。 その根底には、90年にマイケルを「ゲイボーイ」となじった父親の存在があるともいわれる。  マイケル自身、父親との確執が強く、父はマイケルの幼少時代、「鞭やベルトで叩いたが、バットで殴ったわけではない」と、英放送局に明かしている。関係者も「この幼児体験がマイケルのトラウマになったのではないか」と指摘する。 【弁護団はドリームチーム】  今後、舞台は法廷に移るが、マイケルを弁護するのが、米国でもセレブ御用達といわれる超敏腕のマーク・ゲラゴス弁護士を主任とした超強力ドリームチーム弁護士軍団だ。 ゲラゴス弁護士は、米俳優のロバート・ダウニーJr.(38)や女優ウィノナ・ライダー(32)らの弁護も務め、その報酬も高額とされる。  ゲラゴス弁護士は、今回の逮捕に「大きなうそであり、彼は非常に怒っている」と対決姿勢を強めている。 検察側も、93年には同様の事件が示談に持ち込まれ、被害者の証言を得られず立件できなかったが、今回は州法改正で証言がなくても立件できる態勢が整えられており、雪辱を期している。 くしくも、今回の捜査を担当するスネドン検事は93年の虐待疑惑当時の捜査にもかかわった。その後、マイケルは同検事を痛烈に批判した「D.S.」という歌まで作っている。今回の事件は、2人の「10年越しの対決」という意味でも“世紀の大裁判”として注目されている。 有罪になれば、各容疑について3〜8年の禁固が科され、容疑の数だけそれぞれが加えられることになる。  来年1月9日から同郡地裁で始まる裁判で、マイケルにどんな審判が下されるのか。(夕刊フジ) [11月21日18時0分更新]

マイケルにセレブ御用達最強弁護団  マイケル容疑者は米国のセレブご用達のマーク・ゲラゴス弁護士を主任とする強力弁護団を編成することが20日、分かった。 関係者によると、ゲラゴス弁護士は00年に違法薬物使用で起訴された米俳優のロバート・ダウニーJr(38)や、昨年の米女優ウィノナ・ライダー(32)の窃盗事件の弁護を務めた著名な敏腕弁護士。弁護費用は1時間当たり400〜700ドル(4万3200〜7万5600円)と高額。実際の法廷だけでなく、準備に要した時間も同様の金額が請求されるという。 衣料品を万引したとして窃盗罪などで有罪判決を受けたライダーの裁判では、ゲラゴス弁護士はライダーが鎮痛剤を所持していたことを強調。裁判所はライダーが薬物依存症で正常な精神状態ではなかったことを認め、実際の収監を免れる「保護観察処分3年と480時間の社会奉仕」を命じる判決を下していた。 また昨年暮れから今春にかけて、米国中をにぎわせた「レイシー・ピーターソンさん失跡殺人事件」のスコット・ピーターソン被告の弁護も担当。この事件は、妻の捜索のために多額の懸賞金をかけて悲嘆にくれていた夫スコット被告に、さまざまな疑惑とスキャンダルが発覚し話題となった。メディアを利用した大々的なキャンペーンを打ち、無罪を主張していくやり方が米国中の目を引いた。 マイケル容疑者もライダーと同じ種類の鎮痛剤の常用が指摘される中、ゲラゴス弁護士は果たしてどのような戦術で裁判を戦うのか。早くも現地ではO・J・シンプソン事件以来の“世紀の大裁判”として注目が集まっている。(スポーツニッポン) [11月21日6時14分更新]

 

<経歴>

1958年8月29日 アメリカのインディアナゲイリー州で、9人兄弟7番目に誕生。 まだ小さい時、歌の才能を父親に認められ、 兄たちが結成していたバンド、ジャクソン5 のメインボーカルとなった。 オリコンチャートで一位をとるなど、この頃から、すでにマイコウは有名人だった。 契約していたモータウンレコードからエピックに移籍し、グループ名を「ジャクソンズ」と改名した。

1979年 アルバム「Off The Wall」をリリース。 売り上げ1500万枚の快挙を成し遂げた。

1982年 アルバム「Thriller」をリリース。 「ムーンウォーク」「スリラーのSF」の伝説を作り上げ、 売り上げ5600万枚という、世界記録 を作り上げた。

1985年 マイコウを含む全米のポップスター達が、 「U.S.A for Africa」を結成し、 全世界へ向けて募金を呼びかける際に「We Are The World」という曲を作った。 このなかでマイコウは最年少。 曲作りも担当した。

1987年 アルバム、「BAD」をリリース。 「Thriller」を越えるアルバムを作ろうと大変力を入れたそうだが、 売り上げは2800万枚にとどまった。(それでもすごいけど。) 初めての、「反タブロイドソング」、Leave Me Aloneが収録されているのを見ると、この頃からマスコミはマイコウに対して攻撃し始めた様子。

1991年 アルバム「Dangerous」をリリース 先行シングル、「Black Or White」は、衝撃的なSFも手伝ってか、7週間連続No.1という大ヒット。

1993年 児童虐待疑惑浮上。 この事件で、マイコウのイメージは、「スーパースター」から「奇人・変人」に変わってしまう。

1995年 ベスト+新曲15曲の、2枚組アルバム、「HIStory」をリリース。 「世界で一番売れた2枚組アルバム」の他に、「世界で一番 宣伝費のかかったアルバム」という肩書きを持つ、ある意味最強な作品。 虐待訴訟の時は鎮痛剤中毒にかかり入院するなどごちゃごちゃあった(適当ですみません。)が、このアルバムからは強気なマイコウが伺える。 マッチョだし。

1997年 新曲+ヒストリーのリミックスの、アルバム、「Blood On The Dance Floor」をリリース。 しかし、欧米では発売されなかったため、 売り上げも数百万枚。

2001年 アルバム、「Invinceble」をリリース。

2003年 新曲1曲+ヒット曲のベストアルバム、「NUMBER ONES」をリリース。 これを機に、マイコウはソニーを離れた。