レーニン(Wladimir Iljitsch Lenin)
1870年4月22日 18:28 GMT
Simbirsk, Russia (54N20 48E24)
チャートの持ち主は、ロシアの革命家であり、少数精鋭で暴力により革命を実現しようとするボリシェビキの指導者で、ソビエトを樹立した人物として非常に有名である。
資料を見れば分かるように、彼が非常に闘争的な人物であることが分かる。
社会主義体制を維持する為に人々の恐怖心を煽り、相互の信頼を失わせ、互いに監視させるような体制の構築などに見られる狡猾で、猜疑心が強く、計算高い手法。
チェーカー(反革 命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会)と呼ばれる(後のKGB−ソビエト連邦秘密政治警察−)組織によって、行った党員への監視、取締り。
敵に対する容赦ない弾圧(処刑)。
ラグナが蠍座アヌラーダであるが、蠍座は目的に対する非常に執念深く、根気強い努力ができ、決して諦めないという粘着質の性質を持つ星座である。革命家として、長い闘争のうえで最終的に目的を達成するというしつこさは蠍座の象意が絡んでいると考えることができる。
ラグナロードの火星は6室に在住しており、しかも戦闘的な牡羊座であるため、彼の生涯が闘争の日々であったことを表しているが、その火星がムーラトリコーナで、高揚する太陽とコンジャンクトして強いことは、彼が闘争において、決して負けないという勝負強さを表している。彼が紆余曲折を経て、最終的に武力闘争に勝利し、一党独裁体制を築いたのは、この非常に強い6室が関係している。太陽は、10室の支配星で、行為、仕事を表している為、まさに彼の生涯、そして、仕事は闘争(6室)であったということになる。太陽は高揚の度数10’を21”越えているだけで、高揚の中でも強い高揚である。
そして、その6室には8、11室支配の機能的凶星化した水星が在住して、コンジャンクトしており、冥王星も同室している。この水星はドシュタナとウパチャヤの組み合わせであり、大凶星である。彼が非常に狡猾で、策略的で、農民から穀物を徴収する為に人質を取ったり、チェーカーを最大限に活用して党員を監視したり、また非常に猜疑心が強く、反革命分子に対し、徹底的な処刑を行ったりしたのは、この凶星化した水星の象意であると考えられる。
8室は陰謀、悪意を表し、11室は名誉欲、地位への欲望などを表す。この水星は冥王星とコンジャンクトしているが、冥王星は同室する惑星の象意を極限まで引き出す「徹底性」という象意があり、そうした凶星化した水星の狡猾さ、陰謀、野心、猜疑心(人々の秘密を監視する)などを非常に強化している。
繰り返せば、冥王星が在住することで、同室する全ての惑星の象意は極限的に引き出されたのであり、闘争における、暴力(火星)、暴力の正当化、自らの理論と実践は正しく絶対だとする肥大化した自己(太陽)、狡猾さ、策略、陰謀、猜疑心(水星)などの象意を徹底的に現象化させている。
また水星のナクシャトラは、バラニーである。バラニーは以下にあるように厳正な裁判官で、気性が烈しく、このバラニーの水星と外部からの強制的な意志を表す冥王星とが結びついて、革命の理想に協力しない民衆には容赦なく死という裁きを与えるという行為に結びついたと考えられます。
『バラニー <正義の心を授けられた裁判官> この人は意志が固く誠実で、秩序正しいことを良しとします。いい加減なことや、だらだらした人に憤りをおぼえます。気性が烈しく、また決断力もあります。歯に衣着せず話すので、時には人の弱みをついて傷つけてしまうこともあります。とても純粋な心の持ち主で、また自分を律する強さももっています。「水清ければ魚住まず」の例え通り、もう少し柔軟性をもつことも必要です。 』(http://www.so-net.ne.jp/veda/guide/27kaisetsu.html より)
(※シャドバラでも非常に水星が弱くなっているのが分かり、吉星として働きにくいことを示している。)
因みに火星は、ラシチャートばかりでなく、ナヴァムシャやそれ以外の5つの分割図で、全て牡羊座でムーラトリコーナの配置で非常に強力である。牡羊座の火星は元々戦闘の象意がある牡羊座に在住していることもあり、非常に強く、血気盛んである。(度数も1'33"と非常に若く、未熟で血気盛んである印象)
こうした強い火星が6室に在住することが、チャートの持ち主を革命に暴力が必要不可欠であるという考えを隠そうともしない性格にしている。
更に見ていくと、9室支配の月は3室の山羊座で、ケートゥとコンジャンクトしており、逆行する土星から3室目のアスペクトを受けている。
月が土星や火星の支配する星座に在住すると、その配置の持ち主を厭世的な性格にするとされており、精神性、瞑想、禁欲主義、修行僧を表すケートゥとコンジャンクトすることで、更にこの傾向を強めている。またナクシャトラはシュラバナであり、抑制された刺のある性格をしている。また家父長的で、上下関係、上司と部下の関係などに非常にこだわる性質をもつ。
7室支配の金星は土星からアスペクトされてはいるが、ケンドラ4室に在住しており、また2、5室支配の木星が7室に在住している為、配偶者を通じ、ある程度、家庭的幸福を得られる配置をしている。また母親が美しい人物であったことが考えられる。一方で、父親を表す9室にはラーフが在住し、父親が貪欲であり、また父親との不仲が考えられる。
次にナヴァムシャを見ると、ラグナロード太陽が12室蟹座でラーフとコンジャンクトしているが、この配置がレーニンの本質を表していると考えることができる。彼がロシア革命によって、ソビエトを樹立したことが実際は一党独裁の自らにとって快適な城を作ってしまったというのは、この蟹座でラーフとコンジャンクトする太陽が示していると考えることができる。またナヴァムシャのアセンダントも獅子座であり(出生時間が18:28であることからナヴァムシャのラグナも機能していると思われる)、最も、平等という概念に近い水瓶座とは、正反対の星座にあり、孤高の存在として、人々の上に君臨するという王族の象意である。また月も牡羊座でムーラトリコーナの火星とコンジャンクトし、非常に好戦的で手段を選ばない配置であり、水星と相互アスペクトして、逆行の土星の影響も見られる。非常に闘争心が強く、思考傾向も攻撃的であり、また性格的に先頭にたって、リーダーとして君臨する配置である。
そして、10室には定座の金星と7室支配の土星がコンジャンクトし、カリスマ的リーダーシップを表し、5室支配の木星が7室に在住している為、配偶者や仕事上のパートナーに恵まれている配置をしている。
西暦 | 出来事 | ヴィムショッタリ・ダシャー | チャラダシャー |
1870年 4月22日 |
ヴォルガ河畔シンプリスク生まれ。ロシア人の父と カルムイク人の母の間に生まれる。 |
月−火星 | |
1898年 | ロシア社会民主労働党をプレハーノフらと結 成。弾圧される。 | ラーフ−金星 | |
1903年 | ロンドンでの党大会でプレハーノフらと分裂 。ボリシェビキ形成。 | ラーフ−火星、木星−木星期の直前 | 双子座−双子座と牡牛座−牡牛座の境目 |
1917年 | 11月革命で労働者を煽動し、権力を握った 。 | 木星−火星 | 牡羊座−乙女座 |
1918年 | 1月第3回ソビエト大会でソヴィエト国家宣言 。 | 木星−ラーフ、土星−土星期の直前 | 牡羊座−乙女座 |
1922年 | 3月19日ロシア正教会弾圧を指示。 | 土星−土星 |
次にダシャーを見てみると、1903年に「ロンドンでの党大会でプレハーノフらと分裂。ボリシェビキ形成。」とあるが、この時期を境にマハダシャー木星期に入っていくのであるが、木星をラグナとすると、12室で、2、5室支配の水星、4室支配の太陽、7、12室支配の火星がコンジャンクトし、彼が潜伏活動に入ったことを示している。実際、ボリシェビキを形成してからは地下活動が主になっていったのではないかと思われる。
チャラダシャーでもボリシェビキを形成した1903年頃から牡牛座期にシフトしたのが分かる。牡牛座にはグナティカラカの木星が在住しており、この時期は少数派のボリシェビキの中で、地下に潜伏していることを余儀なくされた非常に困難な時期であったことが分かる。
そして、1918年に「1月第3回ソビエト大会でソヴィエト国家宣言 」を行い、ロシア革命を成就させるが、この頃は木星−ラーフ期であり、直ぐにこの時期を境に土星−土星期にシフトしていく。土星をラグナとすると、9室支配の太陽と、5、12室支配の火星、7、10室支配の水星が5室でコンジャンクトしている。ロシア革命を成就させてからは、この時期は新経済政策(ネップ)を立ち上げたり、5室の象意である文化的発達、創造の時期であったと考えることが出来る。政権を獲得してからの動きは新しい共産主義の文化を発達させることであったと思われる。
(検証追加)彼は、皇帝暗殺の謀略加担で、兄が絞首刑になったとあるが、兄を表す11室に2、3室支配の逆行の土星がアスペクトし、11室支配の水星は同時に8室を支配し、10室支配の太陽、6室支配の火星とコンジャンクトして、水星を傷つけている。
また国家検定試験を受け最高の成績で合格したとあり、6室が強い人は試験や闘争などに強いことを検証している。
(資料)
※テロリズム (テロ から転送) テロリズム(テロ、テロル)とは、ある政治体制の維持や、政治的主張や理想の実現のために、暴力的手段を用いること、また、その手段を指す。例えば、権力による粛正や、衆人環境で爆発物を爆発させるなどの無差別殺戮、要人暗殺など。 その後次第にテロは反体制側の暴力的手段を指すように変化していった。これはテロに対する非難が高まるにつれ権力を持つ側が武装抵抗をテロと呼ぶようにしていった為である。なお現在では権力側によるテロを特に白色テロ(白色テロル)と呼称している。 或はレーニンは赤色テロと称して、意図的にテロを煽動した。
レーニン: 皇帝暗殺の謀略加担で、兄が絞首刑になり、7カ月後本人も学生デモで逮捕される。国家検定試験を受け最高の成績で合格、弁護士となったが、革命運動に走る。1895年の投獄以後22年間、ボルシェビキ派を指揮。その間、シベリア、ドイツ、フランス、イギリスポーランドを転々とする。シベリアで女性革命家クループスカヤと結婚。農民がロマノフ王朝に対して立ち上がると、絶好の機会が訪れたことを確信、ロシア統治の全権を治める。旧制度の破壊、新社会主義国家機関の創設、大土地所有の没収、土地・銀行・大企業の国有化、赤軍の編成などをすすめ、ドイツと講話を結び内外からの干渉からも革命を防衛した。 ソビエト連邦の建設に努力した革命家。20世紀最大の政治的影響を及ぼした人物。 スターリンに毒殺されたとも言われる。(Nicholai Lenin)
Wladimir Iljitsch Lenin 4/22/1870 6:28 PM GMT, Simbirsk, Russia: 54N20 48E24, see XIV: 3 レーニン
ウラジミール・レーニン (Владимир Ле нин) 1870年4月22日 - 1924年1月21日)は、ロ シア革命をおこした、ロシアのボリシェビキの指導 者。
本名はウラジミール・イリイチ・ウリャーノフ (В ладимир Ильич Ульянов) ヴォルガ河畔シンプリスク生まれ。ロシア人の父と カルムイク人の母の間に生まれる。 1898年ロシア社会民主労働党をプレハーノフらと結 成。弾圧される。
1903年ロンドンでの党大会でプレハーノフらと分裂 。ボリシェビキ形成。
1917年の11月革命で労働者を煽動し、権力を握った 。
1918年1月第3回ソビエト大会でソヴィエト国家宣言 。
1922年3月19日ロシア正教会弾圧を指示。
レーニン (1870-1924) ロシアの革命家。ボルシェビキを率い てソビエトを樹立した。 彼の思想はマルクス・レーニン主義と呼ばれる。
テロルという名のギロチン ドミートリー・ヴォルコゴーノフ (注)、これは、ヴォルコゴーノフ著『レーニンの 秘密・上』(NHK出版、1995年)の第4章「粛清の司祭たち」5節を全文引用・転載したものです 。『上下』全体で779ページの大著ですが、その うちの19ページは“「引用」範囲内”という了解 で、このHPに載せます。本文中の傍点個所は、黒太字にしました。
山内昌之教授の文は、『下』巻末 にあります。それは、私(宮地)が別個に、山内氏に HP転載のご了解をいただいて、全文を載せたもの で、(別ファイル)になっています。
〔目次〕 1、紹介・解説(宮地) ヴォルコゴーノフ経歴 と『レーニンの秘密』
2、第4章5節、テロルという名のギロチン (全文、『上』P.373〜391)
3、山内昌之『政治家と革命家との間---レー ニンの死によせて』 (全文、『下』) (関連ファイル)健一MENUに 戻る
「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺し た「自国民」の推計 (宮地作成)
「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレ ーニン「プロレタリア独裁」論の虚構
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス 使用』指令と「労農同盟」論の虚実
「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命 倫理」 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』と レーニンの党派性 (宮地作成)
スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルと ジェルジンスキー』(4人の写真)
1、紹介・解説(宮地) ヴォルコゴーノフ経歴と『 レーニンの秘密』 ヴォルコゴーノフの経歴 ヴォルコゴーノフは、陸軍大将の軍籍を持ち、軍 事史研究所所長です。それとともに、極秘文書保管 所に最初に閲覧を許され、自由に出入りできた最初 の研究者でした。
しかも、1991年クーデター未 遂事件後、エリツィン政権下で、「党と国家の文書 保管所の管理と機密扱い解除」を担当することにな り、ロシア共和国最高会議歴史文書委員長も務めま した。その公表・研究の一端が、この著書です。彼 と出版当時のエリツィン政権との関係や「レーニン 未公開資料」公表の意図には、いろいろ問題点もあ ります。
しかし、この著書で使用されているのは、 その著述内容から見ても、レーニン第1次資料であ り、その正確な引用です。
彼の「指導者3部作」は、『勝利と悲劇、スター リンの政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1992年 )、『トロツキー、その政治的肖像・上下』(朝日新 聞社、1994年)、『レーニンの秘密・上下』(N HK出版、1995年)です。
『レーニンの秘密・上下』 (NHK出版)の表紙カバー これは、779ページの大著で、「レーニン秘密 ・未公開資料」に基づく出版物です。
その「はじめ に」によれば、モスクワのソ連共産党中央委員会ビ ル内に「レーニン関連文書保管所」があり、そこに はレーニンの未公開資料が3724点と、そのほか にレーニン署名入り未公開文書が3000点近くも あることが、1991年ソ連崩壊後、明らかになり ました。本書の内容は、そのほとんどがその672 4点に基づく分析です。
ヴォルコゴーノフは、そこで、『なぜこれらは隠 されていたのか?
レーニンは、制裁や「100〜 1000人の役人と金持ちどもを吊るせ・・・」と いった指示をだしているが、こういうものを公開す ると彼の栄光に傷がつく可能性があったのだろうか ?』としています。
レーニンにたいする著者の最終的評価は、「はじ めに」に書かれています。その一部だけ引用します 。
『レーニン主義は、旧世界を革命によってぶち壊 し、その瓦礫の上に、やがて新しく、輝かしい文明 をつくりあげることを可能にするのだと、われわれ は教えられた。どうやって? どんな手段を使って ? その答えは、「無制限の権力をもつ独裁によっ て」であった。
レーニン版マルクス主義の原罪の発 端はここにあったのであって、公平に見て、独裁と いう理念にかなり拘泥していたマルクスにあったの ではなかった。
だが、レーニンは、この独裁の理念 を、マルクスの国家問題にたいする最大の貢献とみなした。「闘争および戦争によってしか」、「人類 の重要な問題」は解決できないという彼の主張は、 破壊的志向を優先させたのである。
こうして武装したレーニンとその後継者たちは、 未来世代の幸福という名のもとに、革命の輸出、内 戦、果てしない暴力、社会主義の実験など、すべてが許され、道徳的であると決め込んだ。そのヴァイタリティ、否定されることもないままに盛んになったレーニン主義のアピールは、もとをただせば、完 全で公正な世界を求める永年の人類の切なる願いから生まれたものである。
レーニンを含めたロシアの 革命家たちが、人間存在にとって昔からの諸悪の根 源である搾取、不平等、自由が欠如している実態を 暴いたことは正しい。だが、レーニン主義者たちは 、こうした諸悪の根源を一掃する機会を獲得したあ と、新たな、少々形を変えた国家による搾取形態を つくりあげたのである。
社会的・人種的不平等の代 わりに、官僚主義的不平等が生まれた。階級的隷属 状態の代わりに、総体的隷属状態が起こった。マル クス主義のレーニン版は、この広大な国で具体化さ れ、その過程で、一種の世俗宗教のようなものにな っていった』(P.9)。
『レーニンは不寛容という全体主義的イデオロギ ーの生みの親だった。独裁政権の懲罰機関で、彼の お気に入りの創案であるチェーカー(KGBの前身 の反革命・サボタージュ取締非常委員会)の創設に よって、レーニンは、共産主義者の思考方法に大き な影響を与えた。彼らはまもなく、党の利益になる ならば、道徳意識をもたないことが道義に適うと信 ずるようになった。党統制委員会メンバーのS・T・ グセフは、一九二五年十二月の第一四回党大会の演 説で、次のように主張した。「レーニンはかつて、 それぞれの党員はチェーカーの代行者でなければな らないとわれわれに教えました。つまり、われわれ には監視と通報の義務があるのです……各党員は情 報を提供すべきだと思います。もしもわれわれに悩 みがあるとしたら、それは公然たる非難から起こる ものではなくて、公然たる非難の欠如から起こるの であります。われわれは、たとえ最良の友であって も、一度政治的見解が異なりはじめれば、友情を断切らなければならないばかりでなく、さらに進んで密告をしなければなりません」。
レーニン主義の 教えは、警察のスパイの仮面を着けていたのである 』(P.20)。
『レーニンは、肉体的暴力を行使することによっ てしか新しい世界の建設はできないという信念を隠 そうともしなかった。一九二二年、彼はカーメネフ にこう書いている。「ネップがテロルに終止符を打 つと考えるのは最大のあやまちである。われわれは 必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」。
そ して実際に、そうしたテロルはやがて、うんざりす るほど起こった。何十年も経ってから、私たちロシア人はそれに有罪の判決を下した。テロルをはじめ たのはだれだったのか、それを革命家の行動様式の 神聖な目的にしたのはだれだったのかという問いに は、恥ずかしさのあまり、答えるのを拒否した。
私 はレーニンが、国民の幸福、少なくとも彼が「プロ レタリアート」と呼んだ人たちの現世的幸福を求めていたことは疑わない。だが、彼は、その「幸福」 を血と、強制と、自由の否定の上に築くのを当たり前だと思っていたのだ』(P.21)。
「指導者3部作」のうち、『勝利と悲劇、スター リンの政治的肖像・上下』『トロツキー、その政治 的肖像・上下』(朝日新聞社)には、引用文献の「文 書保管所名、フォンドno.目録no.資料no.ファイル no.」からなる膨大な「原注」も翻訳・添付されてい ます。
しかし、この『レーニンの秘密・上下』(NH K出版)は、「原注」を省略した英訳本を日本語に訳 したもので、出典が載っていません。
ロシア語原本 には、他2冊と同じく、詳細な引用文献「原注」が ありますので、上記、および『テロルという名のギ ロチン』のレーニン発言、他の発言などは、すべて 出典が明確なデータです。
2、第4章5節、テロルという名のギロチン (全 文、『上』P.373〜391)
レーニンの暗殺未遂事件を境に、個人テロルが国 家政策の重要な要素として大規模テロルに取って代 わることになった。レーニンはそのために長い間奮 闘した。トロツキーの回想によれば、レーニンの「 社会主義の祖国は危険にさらされている」という布 告の草案について討論していた時、左翼エスエルの シュティンベルグが、敵に加担した人間はその場で 射殺するという考え方に断固反対した。
するとレー ニンは、「それどころか、そうした中にこそ、本当 の革命家の悲痛な思いがあるんだ」と叫んだ。彼は さらに、皮肉っぽい効果を狙って、「もっとも冷厳 な革命的テロルを利用せずに勝者になれるとは、あ んたもまさか思っていないだろう」と声高にいった 。
レーニンは決して機会を逃さなかった。革命や独 裁について議論をしている時、「それでは、われわ れの独裁はどんな独裁なんだ? いってくれ! そ んな煮え切らない態度は独裁なんかじゃない」と評 した。
トロツキーはさらに、レーニンは次のように いったと書いている。「白衛軍の破壊活動家を撃つ ことができないようでは、どこが大革命なんだ? ただの空論で、煮え切らない態度にすぎないではな いか」。
小冊子「ソヴィエト権力の当面の任務」の 中でレーニンは、「わが政権は信じられないほど穏 健で、すべての点で鉄というよりミルク・プディン グみたいだ」と書いている。ミヘリソン工場での暗殺未遂事件以前に、チェー カーによるテロルはすでに心に寒気をもよおさせる 現象になっていた。
射撃の時のボルト・アクション の二音に似た「チェー・カー」と聞いただけで、会 話はぴたりと止んだ。反革命・サボタージュ取締全 ロシア非常委員会を指す「チェーカー」が、フェリ ックス・ジェルジンスキーを議長として設立された のは一九一七年十二月だった。彼は異端分子のきび しい取り調べ、冷酷無情、執念深さで“鉄のフェリ ックス”の異名があった。
レーニンの暗殺未遂事件 は、ちょうどいい時に起こった。体制側は兵士を戦 わせたり、確実に穀物を供出させるには、テロルを 使うしかなかった。暗殺未遂事件から一週間後の一 九一八年九月五日、レーニンの欠席でスヴェルドロ フが議長を務めた人民委員会議(ソヴナルコム)の会 合で、ジェルジンスキーとスヴェルドロフが大規模 テロルの問題を提起し、ジェルジンスキーが短い報 告書を読み上げた。ブルジョア階級とその提携者た ちが台頭しつつある、と彼はいった。ヒュドラー〔 ヘラクレスに殺された九頭のヘビで、一頭を切ると 二頭が生えてくるという〕の頭は切り落とさなけれ ばならない。暗殺未遂事件と、こうした敵対行為は 実力行使によって阻止せよという労働者からのたく さんの要求になおも突き上げられていた人民委員た ちは、人々をちぢみ上がらせるようなものであれば どんな命令でも積極的に承認するつもりでいた。い つもの「煮え切らない態度」とは打って変わった「 赤色テロルについて」彼らが承認した布告を見て、 レーニンはたいへん満足した。ここにその全文を引 用する価値があると思われる。
全ロシア[チェーカー]の議長の報告を聞いた 人民委員会議は、現状においてはテロルを使った銃 後の保安は絶対に必要であることがわかった。[チ ェーカーの]活動を強化し、これにいっそう徹底し た性格を導入するために、できるだけ多くの党の同 志にそこで働いてもらうようにすることが何よりも 大事である。ソヴィエト共和国を階級の敵から守る には、敵の強制収容所への隔離、白衛軍の組織・陰 謀・反乱に関与した者の射殺は当然である。これら の処刑された者の名前、およびこうした措置を適用 した根拠についても、当然公表することとする。 レーニンは欠席したので、司法人民委員クルスキ ー、内務人民委員ペトロフスキー、総務部長のポン チ--ブルーエヴィチがこの布告に署名した。
亡命し た歴史家のセルゲイ・メルグノフは、「テロルの精 神的恐怖、それが人間の心理に与える衝撃的な影響 は、個々の殺人や、その数でさえなくて、そうした 制度そのものにある」といっている。フランス革命の間はギロチンの刃が革命の悲しい産物を絶えまな く刈り取ったが、今やチェーカーが住民の間を、銃を撃ちまくりながら突進していた。
ボリシェヴィキ体制は、不安と隷従を“組織的に ”醸成しはじめた。一九一八年十一月、ペテルスは ある会見で、「ウリッキー[北部地区内務人民委員 兼ペテルブルグ・チェーカー議長]がペテルブルグで殺されるまで、処刑はなかった。だが、そのあと 、あまりにもたくさんの処刑が、しばしば見境もなく行われた。
ところが、モスクワでは、レーニンの 暗殺未遂事件にたいする体制側の措置として、わず か数人の帝政時代の閣僚しか処刑していない」と主 張した。実際は、チェーカー出身の司法人民委員部 の高官ペテルスはよく知っていたように、何百人もの人が銃殺されていた。彼はこの会見を利用して、「ロシアのブルジョア階級が再び台頭しようとすれ ば、このような形の阻止や、罰を受けるにちがいないと、赤色テロルの意味を知った人はみな青ざめるだろう」と警告したわけだ。
ロシア国民を敵に回した戦争は、ボリシェヴィキ の最大の罪だった。テロルは反体制的行為で有罪と なった者にたいしてのみ適用されたという反論があ るかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テ ロルについての命令が立法化される一カ月前、レー ニンは食糧生産人民委員のA・D・ツュルーパに、「 すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出 しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである」という命令を出すように勧告 している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天 し、人質問題については返事をしなかった。すると 、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問 題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄っ た。
ツュルーパは、人質をとるという発想そのもの があまりにも奇想天外だったため、どういう段取り でそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明 した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レ ーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の 意図を明確にした。「私は人質を実際にとれといっ ているのではない。各地区で人質に相当する人間を 指名してはどうかと提案しているのである。そうし た人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら 、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の 即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないも のと思わせるためである」
そのような措置は差しせまった状況があったから で、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八 年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこ う書いている。
「この地域での富農(クラーク)と白 衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打 たねばならない。一分もむだにするな。この地区の 貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物 、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせ よ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、 これを軟禁せよ」
矯正労働収容所国家管理本部(グラーグ)による強制的な収容所送りというシステムや、一九三〇年代 のぞっとするような粛清といえば、すぐにスターリ ンの名が連想されるが、ボリシェヴィキの強制収容所、処刑、大規模テロル国家の上に立つ“機関(オル ガン)”の生みの親はレーニンだった。
レーニンのテロルを背景にして見れば、ただ疑わしいというだけでその人間を処刑できるスターリンの中世の異端審問風の措置もわからなくはない。レーニンはただ単 に革命的テロルを示唆しただけではない。彼はそれをはじめて国家的制度にしたのである。
一九一八年 にペトログラードで、新聞・宣伝・扇動人民委員のM ・M・ヴォロダルスキーが暗殺された時、レーニンは この地区のボリシェヴィキ当局がきびしい措置をと るものと予想した。ところが、彼らの措置は手ぬる く、いい加減だったので、レーニンは苛立ちの手紙 をジノヴィエフへ送った。「本日、中央委員会は[ ペトログラードの]労働者たちがヴォロダルスキー の殺害に大規模テロルで報復しようとしたところ、 諸君(きみ個人ではなく、地元[党リーダーたち] )はそれを阻止したと聞いた。私は断固これに抗議 する! これではわれわれの信用を落とすだけだ。 われわれの決議の中でさえ、大規模テロルで脅しているのに、いざ実行という段になって、大衆のまっ たく正当な革命的イニシアティヴにブレーキをかけているのだ。これは許すべからざることだ! テロ リストたちはわれわれを腰抜けだと思うだろう。わ れわれは極限的戦争状態にあるのだ。われわれは反 革命派にたいし、全力をふりしぼって大規模テロル を行使しなければならない。
とくに[ペトログラー ドの]模範が決め手になる」 大規模テロル命令は、体制が依って立つ土台とな り、レーニンの後継者たちによってその規模が広げ られ、ジェルジンスキーとウンシュリフトがこれを 受け継いだ。ベートーヴェンやスピノザを愛し、カ ントを読み、ボリシェヴィキはどれだけ知識人を高 く評価しているかをゴーリキーやルナチャルスキーに好んで語る人間が、どうして警察支配の浸透する 体制に甘んじていられたのか、推し量るのはむずか しい。
新しい世界のリーダーを宣言したレーニンが 、自ら絞首刑や銃殺、人質、強制収容所への収監命令が、単なる言葉で終わらないことを知りながら、 どうしてこれを制定することができたのであろうか ? ボリシェヴィキが最初にテロルを用いた時、彼ら は“革命家意識”を引き合いに出してこれを正当化 し、人民委員会議は矢継ぎ早に命令を出してそれを 促進した。だが、テロルが日常茶飯事になり、時に は大々的に行われるようになると、レーニンはこれ に論理的根拠を与える必要性を感じた。テロルにつ いて説明した論文はたくさんある。一九二〇年十一 月、『コムニスチーチェスキー・インテルナツィオ ナール(共産主義インターナショナル)』は、「独裁の問題の歴史によせて」という一文を載せている。 「どの革命的階級でも勝利をえるためには独裁が必 要であるということを理解できなかった者は、革命 の歴史を少しも理解しなかった人である」というお決まりの書き出しで、革命的テロルを正当化し、う まくいい繕うためのたくさんの主張を片っ端から挙 げている。
「独裁とは---これを機に永久に参考にし てもらいたいが---法律に依拠するものではなく、暴 力に依拠する無制限の権力を意味する」。レーニン はゴーリキーの「斧の論理」という言葉を何度か繰 り返し、「無制限の、法律外の、もっとも直接的な 意味での力を依りどころにした権力、これが独裁で ある」ことを発見して、得意になっているように見 えた。
そして彼は独裁を定義する。「独裁とは、何 ものにも制限されない、どんな法律によっても、絶 対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力 に依拠する権力以外の何ものでもない」。
「革命的人民は、自ら裁判と制裁を行い、権力を用い、新しい革命的法律をつくり出す」。レーニンによれば、 プロレタリアート独裁の名において行使される暴力 は、「革命的正義」なのだった。
革命前のレーニンが、概して、死刑執行人的方法である「斧の論理」に屈従していなかったことは注目に値する。ところが、権力奪取後の彼は、社会民主主義者の外着を脱ぎ捨て、ジャコバン派の外套を 着込んだ。
彼のこうした態度すべてを決定づけたの は、どんな犠牲を払ってでも権力にしがみつきたか ったからだとしか考えられない。だが、彼は国家方針としてテロルの理論的基盤を確立するだけにとどまらず、その行使にも直接関与した。司法人民委員D ・T・クルスキーとの手紙のやりとりは、それを雄 弁に物語る。レーニンは、司法機関が蔓延しつつあ る途方もない官僚主義を簡略化するのに役立つだろ うと、単純素朴に期待していた。彼はクルスキーに 、「何が何でも一九二一年秋から二二年の冬までに 、モスクワのいわゆるお役所仕事の中から四〜六件 の“典型的な”事件を選んで、それぞれを政治的大義名分により裁判にかける」ように指示した。この司法人民委員が泥沼にはまり込んだ官僚主義に何らかの「革命的秩序」を与えてくれることを期待して 、レーニンは次のように書いている。「われわれの 国家的事業計画はお粗末な状態にある。そしてその 最悪の犯人、最たるなまけ者は“善意の”コミュニ ストたちである。彼らは命じられるままに動くことに甘んじている。[司法人民委員ならびに革命法廷 は]こうしたなまけ者や彼らをもてあそんでいる白 衛軍に断固とした措置をとる大きな責任がある」。
彼はさらに、なまけ者の中にはたくさんの聡明な人 間がいると述べ、クルスキーに、「こうした“学識 者”の泥沼を揺すぶるような政治的訴訟を起こすよ うに」命じている。 いずれの場合にも、レーニンの法的基盤を無視し た抑圧機構の設定を阻止するものは何もなかった。
レーニンの考える合法的という概念は正義とはあま り関係がなかった。一九二二年、クルスキーはロシア連邦共和国の刑法の制定に着手した。一九二二年 にソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)が形成されると、それぞれの憲法をもった共和国が独自の刑法を制定した。これは理論的には各国別々のものであるが、実際にはソヴィエト連邦共産党が制定した規則に準拠していた。レーニンはそのモデルとなる ロシア連邦共和国の刑法の制定に積極的に口出しを した。彼はクルスキーに、「私の意見としては、強制執行処分の通用範囲を(国外追放などに減刑して )広げるべきだと考える」と書いている。二日後、 さらにこう追加した。「この法律はテロルを廃止すべきではない。自己幻惑、もしくは自己欺瞞を生み 出すのに有効だからだ。抜け道や粉飾なしに、原則 としてはっきりこれを具体化し、法制化すべきであ る」。
彼は率直この上ない形で、テロルは原則とし て法制化すべきであり、その適用範囲はできるだけ 広くすべきであるといっている。
それだけではない 。「強制執行処分の適用範囲をどのように広げるか 」について、ふたつの異なった形がありうるとして いる。このふたつの相違はそれほど重要ではないの で、そのうちのひとつだけを記そう。
「資本主義に 代わる共産主義体制の所有権を認めず、実力行使、 干渉、妨害、スパイ行為、新聞の財政援助や、これに似た手段により体制打破を謀る、国際的ブルジョ ア階級の一部を助ける組織への参加、もしくは協力 、プロパガンダ、扇動は‥刑罰[死刑]の宣告を受けるか、情状酌量によっては自由の剥奪もしくは国外追放に減刑することとする」。
これがあらゆる点 でかの悪名高いソヴィエト刑法第五八条の基礎とな ったことは、一九七〇年に出版されたレーニン全集 第四五巻の中に、「レーニンの提案は刑法の---反革 命的犯罪に関する条項に取り入れられた」と記され ていることからもわかる。
ソヴィエト社会が懲罰機関を設置し、それに特殊 な役割をもたせることができたのは、レーニンのお かげである。
彼はマルクスやエンゲルスの教えにし たがってこれを行ったのではない。
ふたりともその ような機関をいかに創設し、機能させるかというこ とについては何の指示も残さなかった。
チェーカー の守護聖人はレーニン自身だった。一九一七年十二 月に設立されたチェーカーは、まもなく、レーニン の強い要請により、非合法な対処姿勢が認められた 。全能のチェーカーには、逮捕、捜査、刑の宣告と それを実施する権力があった。
何万もの人たちがチ ェーカーの地下室で裁判もなしに銃殺された。それでもまだ足りないかのように、一九二一年五月十四 日、レーニンを議長とする政治局(ポリトビューロー )は、「[死刑の]適用に関する[チェーカーの]権利拡大についての動議を可決し、それに関する法律を成立させた。チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動して いた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択される三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつかの法令が可決された。
「君主主義者---カデット、右派 エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導者 たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名簿 をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮官 ……から目を離さないこと。目立った、明らかに有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺するこ と」などである。
たとえば、「バスマチ運動〔革命 期にロシア帝国の旧植民地トルキスタンにおいて新 生のソヴィエト政権にたいして行われた現地イスラ ム教徒の反革命運動〕指導者は決して見逃すことな く、ただちに革命裁判にかけ、死刑の適用を考える こと」と中央アジア局に命令している。
チェーカーの問題についてのレーニンの肩入れは 、「監禁、監視などは徹底的に行うこと(特設仕切り 壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁 にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した、二重、三重のチェック・システムなど」、 ごく基本的な技術面にまで及んでいる。
こうした言 葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門家のものである。彼はジェルジンスキーに、「逮捕するなら夜が好都合」とまで書いている。
レーニンは“秘密”の漏洩、ボリシェヴィキの計画の発覚、外国の陰謀の不安にとりつかれた。アメ リカの食糧庁長官ハーバート・フーヴァーが、一九 二一年七月、食糧の配布とロシアでの飢饉と闘うた めの救済計画に乗り出した時でさえ、これを行う人 たちの大半が若いアメリカ入学生だと聞いてレーニ ンは危険を感じた。彼はモロトフにこっそりとこう書いている。
「アメリカのフーヴァーとの合意によ り、大勢のアメリカ人がどっとやってくるはずであ る。われわれは監視の目を光らせ、情報収集に努め ねばならない。チェーカーその他の機関を通じてこれらの外国人にたいして徹底的監視と情報収集を行 う準備と、作業手順、作戦を担当する委員会を創設 するよう、政治局命令を出してはどうか。委員会に はモロトフ、ウンシュリフト、チチェーリンを入れ ること。委員を交替する場合には、モロトフの承認 をえて、党員でしかも高位にある者にかぎって入れ 替えてもよい」
何十年もの間、ソヴィエト国民はレーニンの“美点”の神話を聞かされて育ち、数え切れないほどの 書物が彼の同胞にたいする配慮について同じ物語を 反芻した。彼の“美点”は特殊な、つまり“革命家 ならでは”の美点だった。たとえば、ツァリーツイ ンでヴァレンチナ・ペルシコーヴァという人物が警 戒中のチェキストからレーニンの肖像画に落書きを したという理由で逮捕されたと聞いた時、「肖像画 に落書きをしたくらいで逮捕する必要はない。ヴァ レンチナ・ペルシコーヴァはすぐに釈放せよ。ただ し、彼女が反革命派なら、目を離さないこと」と書 き送った。
レーニンはチェーカーを個人的にかばっていた。 革命後、懲罰機関の管理は政治局が単独で行ってい たが、のちには政府の長と党とが行うようになった 。チェーカーと他の国家機関との間に軋轢が生じる と、レーニンは必ずチェーカーの肩をもった。一九 一七年十二月下旬、司法人民委員部の高官M・コズロ フスキーは、チェーカーの“根拠のない処刑”につ いてレーニンに抗議を申し入れた。
「私がいつでも うかがいますとスターリンに知らせてからすでに数 日が経ちました。だが、彼はぐずぐずしています。 私がチェーカーにした抗議に関係のある八つの事件 を添付しました……村の巡査や警察官にはじまる警 察の役人すべての処刑の見直しを提案しました…… “銃殺”の決定は、しばしば捜査や根拠もなしに行 われています(……単に君主主義者であるというだ けのこともあります)」。
レーニンはスターリンに 手紙を書き、ジェルジンスキー〔チェーカー議長〕 から聞いたところによれば、チェーカーはレーニン がコズロフスキーに会うことに反対したのだと知ら せた。これでこの問題は落着した。
チェーカーはたちまち事実上の国家の中心的存在となり、一般国民ばかりでなくボリシェヴィキ自身の間にも不安を巻き起こした。N・X・クルイレンコ は、チェーカーがまもなく人民委員部のひとつのようなものになり、「その冷酷無情な弾圧と、奥深いところで何が行われているのかだれにもまったく知 りようがないことで、恐怖を掻き立てていた」と書 いている。
チェーカーにたいする暗黙の敵意が高まりつつあるのを察したジェルジンスキーは、レーニンの同意 をえて、モスクワでの---チェーカーによる---宣告 にたいする承認なしに、地方で死刑を執行すること を止めるよう提案した。同時に彼は、死刑は経済戦線における腐敗した役人にたいしていっそう徹底的 に適用することも提案している。
チェーカーの弾圧活動を司法人民委員部の管轄へ 移そうという企てがあった時、ジェルジンスキーは抗議した。「それではわれわれの威信に傷がつき、 犯罪との闘いにおいてわれわれの権限が小さくなり 、われわれの“非合法行為”にたいする白衛軍の誹謗を認めることになる……これは監督行為ではなく て、チェーカーとその機関への不信任行為である… …チェーカーは党の監督下にあるのだ」。
ジェルジ ンスキーの言葉は正しくない。チェーカーはすでに 党の手に負えなくなっていた。それは党の最高責任者にのみ従属していたのである。そしてそれは党の不吉な伝統になった。着々と、しかも急速に、チェ ーカーは国家の中の国家になり、その裁量次第で国民のだれをも刑に処する権力をもつようになった。チェーカーと並行して革命法廷もあった。この名前はフランス革命を真似て付けられたものである。
革命法廷の弁護士だったセルゲイ・コビヤコフの回想によれば、「法廷が下した宣告に上訴する者はいなかった。宣告はだれの追認も受けず、二十四時間 以内に執行された」という。革命法廷はその影響力 、あるいは活動規模においてチェーカーとはくらべ ものにはならなかったが、それでも多くの場合、単 に“搾取”階級に属していたというだけで、何千も の人が始末された。全体的な数はつかめていないが、個々の出来事に ついては明らかになりつつある。一九二一年三月、 第一〇回ボリシェヴィキ党大会がモスクワで開かれ ている間に、ペトログラードから三〇キロあまりの ところにあるクロンシュタットというバルト海艦隊 の要塞島で、兵士と水兵がボリシェヴィキ支配にた いして反乱を起こし、本来の社会主義諸政党ソヴィ エトを基盤にした政府を要求した。
レーニンは五万人の赤軍を派遣してこの暴動を鎮圧した。死者の正 確な数はわからないが、戦艦「ペトロパヴロフスク 」号だけでも一六七人の水兵が三月二十日に死刑を 宣告され、同じような裁判は三月から四月までつづ いた。 一九二一年、内戦は沈静化しつつあったが、軍事 法廷は以前と同じように開かれていた。軍人の処刑 は一九一八年や一九年よりは少なくなっていたが、 軍部内の革命的テロルは驚くべき規模で拡大してい た。
最高裁判所軍事法廷の副裁判長N・ソローキンと 革命法廷の統計課長M・ストロゴヴィチは、一九二一 年に四三三七人の赤軍兵士および指揮官が処刑され たとトロツキーに報告している。これは勝利の風が 赤軍の帆にはらみ、彼らの軍事的敗北は過去のもの になっていた年の話である。
時によっては、レーニン自身が事件の処理に口を出すことがあった。一九二一年八月二十七日、トロ ツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、モロトフ、ス ターリンから成る政治局の小集会で、白衛軍のウン ゲルン--シュテルンベルク将を裁判にかける問題が討議されたことがある。「われわれは徹底的な告発を目指すべきである。十分な証拠があり、それが疑 いようのないものなら、公開裁判の段取りを整え、 手っ取りばやくこれを行い、彼を銃殺に処すべきだ 」というレーニンの提案は、その場で承認された。
この場合の問題は、ウンゲルンを裁判にかけるべき か否かではなく---東シベリアの内戦の指揮官として の彼の行為は残虐そのものだった---なぜ政治局がこ れに介入したかである。レーニンの提案は、実質上 、法廷にたいする政治的命令に等しい。彼はまるで 捜査官兼検事兼裁判官であるかのように振る舞って いる。弁護士は不要だった。チェーカーが行う処刑は、ブルジョア階級、労働 者、農民、赤軍にとどまらなかった。怪しいと思え ば自分たちの仲間をも銃殺に処することがあった。
一九二一年三月、トルキスタン前線のあるチェキス ト・グループから中央委員会に、チェーカー内部での処刑が増えていることに抗議する手紙が届いた。 「[チェキストが]さまざまな罪で銃殺されてます 。こうしたプロレタリア懲罰機関で働いている共産主義者は、だれひとりとして、何らかの名目で明日にも銃殺されないという保障はありません」。手紙はさらにつづく。「共産主義者はこの懲罰機関で働 きだすと、たちまち人間ではなくなり、ロボットに なってしまいます……常に処刑の恐怖があるので、 自分の意見をいったり、要求を口に出すことができないのです」。
彼らの仕事ぶりや、そして絶え間な い懲罰への恐怖を与えることにより、チェキストは 「横柄、虚飾、残酷、無慈悲なエゴイズムなどの悪 しき傾向を助長し、彼らは次第に特殊な階級(カース ト)になっていった」 レーニンの特別な関心を引いたのは、この「特殊なカースト」だった。彼にしてみれば、チェーカー にはある特質、つまり忠誠がなければならなかった 。彼にたいし、党にたいし、革命にたいしての忠誠である。
ボリシェヴィキはこれを察知して、いろい ろな提案を行ってこれを促進しようとした。たとえ ば、ガネッキーはレーニンに、チェーカーと党との 間の団結をいっそう強めなくてはならないと進言し た。
彼はこう書いている。「党組織と[チェーカー ]との間にできるだけ緊密な絆を確立することが重要です……責任ある地位にある党員はみな、自分がえた情報は私的あるいは公的ルートのいかんを問わず、すべてをチェーカーに報告させる必要があります。反革命派と闘うにはそれが役に立つと思われま す」。
レーニンはこれに答えて、ガネッキーにこの 問題をジェルジンスキーと話し合ったかどうかを尋 ね、彼に電話をするように命じた。
レーニンのチェ ーカーにたいする思いは、「よきコミュニストはよ きチェキストでもある」という有名な言葉によく表 われている。 レーニン主義テロル集団のやり方は、人質をとる 、国外追放にする、市民権を剥奪する、つまらない 理由で処刑する、罠にかけるなどさまざまだった。
後年、メンジンスキー、ヤーゴダ、エジョーフ、ベ リヤらが、すでに効果のほどがわかっていたレーニ ン主義者の経験をもとに、さらに新しい方法を発明 したり、改良を加えたりした。その一例を挙げると 、一九四一年四月、内務人民委員代理のT・セロフ は次のようなスカウト・“プログラム”を認可した 。“風車作戦”という暗号名(コードネーム)のもと に、極東のハバロフスク地方にソヴィエトと日本の偽の国境地帯を設定し、ソヴィエト市民に特殊“任 務”と称してこの“国境線”を越えさせる。すると そこで、彼らは日本軍警備隊の制服を着たチェキス トに逮捕され、残忍やり方で尋問され、“日本軍” に工作員としてスカウトされる。そして今度は、ソ ヴィエトの国境の向こうへ送り返される。するとた だちに“本物の”チェキストの手に捕らえられると いう仕組みになっていた。“日本軍”の拷問によっ て、彼らが内務人民委員部(NKVD)との関連を自白 していたことがわかると、死刑を宣告された。運悪 くこの方式に引っかかった人は数百人にのぼる。“ 風車作戦”は、六月にソヴィエトが戦争に突入した ために、ようやく中止された。
国中が経済的困窮に苦しんでいたにもかかわらず 、レーニンがチェーカーへの財政援助を拒否したこ とがないという資料がたくさんある。ひとつだけそ の例を引き合いに出すと、一九二一年十一月、労働 ・国防会議議長としてのレーニンは、臨時費として チェーカーに七九万二〇〇〇ルーブリの追加予算支出をする命令書に署名した。政治局は十一月二十四 日この決定を承認した。
レーニンはチェーカーから目を離さなかった。こ の組織は自分が生み出した体制に大きな貢献をして いるもののひとつだと彼は考えていた。一九二二年 の第九回ソヴィエト大会で、「このような組織がな ければ労働者政権は存続することができない」と彼 はいっている。だが、十月革命のわずか数週間前、 レーニンは『国家と革命』の中で、プロレタリアー トが権力を奪取した暁には、国家機構は粉砕され、 国家は消滅しはじめるといっていたのである。レーニンは社会の進歩の彼方にある地平線が見えていな かった。彼の視線はいつも、自分の足元や毎日の出 来事、大国ロシアを強制収容所の生みの親にする実験にだけ注がれた。
ロシア革命のギロチンは銃だった。内戦の勝利が 明らかになった時、銃殺隊の一斉射撃は次第に止み 、代わって拳銃の発砲音が時折り響くようになった 。だが、反革命派やテロリスト、破壊行為者との闘 いは、チェキストの拳銃だけで片付けられていたわ けではなかった。すでに一九一八年の時点で、ボリ シェヴィキは強制収容所の組織化に着手し、弾丸を 免れた人たちがぞくぞくと送られるようになった。 一九二一年四月二十日、レーニンを議長とする政治 局は、極北のヴフタ地方に一万から二万人を入れる 収容所の建設を承認している。一週間後ジェルジン スキーは、一九二一年三月にソヴィエト政権にたい して反乱を起こし、赤軍の攻撃にたいし二週間の抵 抗を示したクロンシュタットの兵士と水兵--- 一九 一七年にはボリシェヴィキ支持の先鋭だった---を「ウフタの犯罪者植民地に入植させる」べきだと提案 した。当時、チェーカーはやはり北部のホルモゴル イに新しい入植地の建設を提案していた。計画は続 行された。まもなく、この国の大きな秘密地図には 忌まわしい収容所の所在地を示すマークが点々と散 らばるようになる。
そこにはレーニン主義体制下の 七十年間に数百万の人が送られることになった。
収容所への最初の追放が行われたのは内戦の最中 だった。コサックにたいする残酷な報復行為のあと 、とりわけ大勢の婦人と子供が、ドン川とクバン川 流域から“再移住”させられた。収容所内またはそ こに着くまでに数千人が死んだ。トロツキーはスタ ーリンのシベリア“行進”を先取りして、一九二〇 年八月にモスクワにこう報告している。「クバンで は、政府の名において、ウランゲリ[白衛軍の将軍 ]に協力した廉で有罪とされた家族は、日本軍その 他に占領されているバイカル湖以遠に追放すると宣 告することを提案する。異議があれば知らせよ」。 異議申し立てはなかったが、輸送手段がなかった。
元の党文書保管所やKGB・NKVDの倉庫には、数知れ ない収容所の見捨てられた囚人たちからきた手紙が たくさんしまい込まれていた。その大部分は当局が 要処分にしてしまったが、残っているものもある。レーニンの“協同組合計画”が実現されつつあった 一九三〇年代はじめの集団農場時代のものはとくに 多い。手当たり次第に選んだ次のような手紙は、当 時の風潮がどのようなものであったかを物語ってく れるであろう。セヴェロドヴィンスク地方、コトラス地区の流 刑者による要求。マカリハ収容所の大勢の人たちよ り。われわれのケースを取り上げてください。なぜ われわれがここで拷問を受けたり、ばかにされたり するのか[教えていただきたい]。どうしてわれわ れはたくさんの穀物を収穫し、国を助け、その上、 役立たずといわれなければならないのですか?わ れわれが役立たずなら、外国へやってください。こ こでは飢えに怯え、毎日拳銃を胸に突きつけられ、 撃つぞと脅かされているのですから。ある女性は銃 剣で刺し殺され、男性ふたりが銃殺されました。六週間で一六〇〇人が姿を消しました。
多数の者が、われわれを視察し当地の生活状況 を調べてくれる委員会の派遣を求めています。よい 農場主は自分の家畜によい場所をあてがうものです 。ところがここでは地面はぬかるみ、砂が上から降 ってきて目に入り、衣類や靴は着たきりすずめです 。パンは不足がちで、われわれがもらえるのは三〇 〇グラムずつです。お湯はまったく出ません。この ままの状態があと一月つづけば、ほとんど何もなく なるでしょう。 われわれがたくさんの穀物を植えたのですから 、ロシアは困っているはずはありません。その反対 だと思います。穀物がなくなったことき、これまで ありませんでした。それなのに今では何ひとつなく なり、われわれはていねいな扱いも受けず、まるで ばか者扱いです。いったいどうなっているのかご存 じないのでしょうか? われわれは何もかもとられ たあげくに、強制的に移住させられました。幸せな人はだれもいません。ロシアは滅びかけています。 中央執行委員合に、マカリハの富農の現状を見ていただきたい。われわれの小屋は倒れかけていて、こ こに住みつづけるのは非常に危険です。小屋の中に は糞便が溢れています。人々はどんどん死んでいき 、一日に担ぎ出す柩は三〇にもなります。われわれ には何もありません。小屋には薪もなければ、お湯 も出ません。食糧の配給もないのです。体を清潔に するための風呂もありません。たったの三〇〇グラ ムのパンだけです。ひとつの小屋に二五〇人もいる ので、息をするだけでも気分が悪くなります。とく に赤ん坊はそうです。何の罪もない人間をあなた方 がこんなふうに苦しめているのです。 流刑者たちを助けようとした人たちもまだたくさ んいた。わざわざ北部へ彼らを探しに出かけた勇敢 な人たちもいる。ここに一九三〇年代はじめに“当 局宛てに”書かれた匿名の手紙がある。この手紙にあるようなことを、ぜひ信じていただきたくて一筆啓上いたします。これは北部ツンド ラ地帯からの悲痛な涙というより暗澹たる血を振り 絞っての呻き声なのです。私たちは何の罪もないの に追放された人間を探しに出かけて、ナンドムスク の北部ツンドラ地帯のある場所に着きました……彼 らはただ単に他のところへいけといって放り出され たのではなく、生きながらにしてとても人間の住む べき場所ではない悲惨な場所へ追いやられたのです 。私たちはここで、一日最高九二人もの人が死んで いくのを目撃しました。子供たちは私たち自身で埋 葬してやらなければならなかったほどで、埋葬はひ っきりなしにつづいてます。この手紙はほんの短い ものです。しかし、私たちがしたように、一週間で もここで過ごしてみれば、大地が海に沈み、まるご と宇宙に消えて、この世はなくなり、そこに住む生 物すべてがいなくなるほうがましだと思われるでし ょう。レーニンが断言していたように、革命の鋤は「ロシアを掘り返した」。記名、無記名を含むたくさん の手紙の差出人、詩人までもが助けを求めてむなし い叫び声をあげていたのに、体制側は彼らがまるで 声なき人であるかのように注意を払わなかった。レ ーニンにいわせれば、彼らはプチ・ブルで、革命の 大きな敵だった。彼らを殺さずにおくなら、どんな 犠牲を払ってでも再教育を施し、“社会主義を教え ”なければならなかった。社会主義を目指すこのよ うな運動は、ギロチンなしには実行できないとボリ シェヴィキは思い込んでいた。
目的は手段を正当化 した。「ブルジョア社会の愛玩犬は……われわれが古い大きな森の伐採をしている間、要らない子犬よろしくキャンキャン鳴かせておけ」とレーニンは書 いている。 以上
山内昌之『政治家と革命家との間』に行く 健一MENUに戻る (関連ファイル) 「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺し た「自国民」の推計 (宮地作成) 「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレ ーニン「プロレタリア独裁」論の虚構 「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス 使用』指令と「労農同盟」論の虚実 「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命 倫理」 (宮地作成) 「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』と レーニンの党派性 (宮地作成) スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルと ジェルジンスキー』(4人の写真) 1、「1917年〜21年のレーニンと労働者」の データと文献 このファイルは、レーニンの「プロレタリア独裁 」理論が、実は虚構(フィクション)であり、その実 態、本質は「党独裁」であったことを分析します。 その期間は、3年4カ月間です。1917年11月 7日ボリシェヴィキ単独武装蜂起・権力奪取から、 1921年2月下旬のペトログラード労働者による 反ボリシェヴィキ・大ストライキとレーニン、ジノ ヴィエフ、ペトログラード・チェーカーによる「ス トライキ」労働者の大量逮捕・殺害までです。21 年2月までとしたのは、それ以後の労働者ストライ キのデータが、ソ連崩壊後まだ未公開、不明だから です。 以下の「労働者」ファイル内容は、「逆説のロシ ア革命史(3)」になります。「聖職者」ファイル の文末に「逆説(1)、レーニンによるソヴィエト権 力の簒奪」を書きました。「農民」ファイルが「逆 説のロシア革命史(2)、労農同盟論の虚実」です 。これは、「赤色テロル」「知識人」問題ファイル と合わせて、5つ目の「レーニンの粛清シリーズ」 です。 「農民」ファイルでは、白衛軍との内戦における 一定地域の一定の占領期間を除いて、「労働者と農 民の政治的軍事的同盟」が存在していなかったこと を分析しました。また、ソ連が崩壊するまで、世界 中の共産党員、支持者、左翼勢力が、ソ連を「プロ レタリア独裁が成立した国家」であると、“信じて ”きました。このファイル内容は、レーニンが何十 回となく演説し、書いてきた「プロレタリア独裁理 論、国家の成立」「労農同盟論、その成立」という “神話化”されてきた体制イメージとまるで異なる “逆説”としての「プロレタリア独裁体制の存否論 」です。 よって、このテーマに関しても、ここで使用して いる、主な6文献、データの信憑性が問題になりま す。本文に入る前に、それらの文献と私(宮地)の 判断をのべます。 ただ、このファイル全体において、ソ連崩壊後に 判明・発掘された労働者ストライキのデータは、下 記(1)の『共産主義黒書』にある分だけです。他 の5つの文献は、ソ連崩壊以前のデータです。また 、6文献のいずれにも、「ストライキ」労働者の大 量逮捕・殺害についての「レーニンの直接的指令」 がありません。「反乱」農民の大量殺人に関するレ ーニンの「殺人思想用語や殺人指令用語」は、「農 民」「赤色テロル」ファイルで載せたように、多数 “発掘”されています。「ストライキ」労働者の「 大量殺人指令用語」は、まだ、「レーニン秘密資料 」6000点の中に、“隠蔽・埋蔵”されているの でしょう。 (1)、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪 ・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』(恵雅堂出版、200 1年)。これは、1997年にフランスで出版され、 大反響を起しました。全体は、6人の共著で、5部 構成になっています。第1部ソ連、第2部コミンテ ルン、第3部東・中欧、第4部アジア、第5部第三 世界です。本書は、その内、ステファヌ・クルトワ の「序」と、ニコラ・ヴェルトの「ソ連篇」の全訳 で、334ページあります。 このファイルでは、ソ連崩壊後に発掘された膨大 な資料の中から、1917年12月から1920年 までの労働者ストライキとレーニンによる流血の鎮 圧データだけを使いました。そのデータのすべてに 正確な「原典注」が添付されています。ただ、(注) の原典はロシア語で、それをフランス語に直してあ り、それらは邦訳出版されていません。よって、こ のファイルでは、「出典」を『共産主義黒書』(以下 『黒書』とします)のページ数にします。 ニコラ・ヴェルトは、フランスの歴史学教授資格 者、現代史研究所所員で、ソ連史を専攻しています 。彼の論文の一つ『ソ連における弾圧体制の犠牲者 』を、このHPに載せてあります。また、中野徹三 『「共産主義黒書」を読む』は、5部全体の紹介を しています。 (2)、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想 社、1973年)。これは、「二月革命」から「十月 革命」までのロシア全土における各党派、階級の動 向を描き、なかでも「労兵ソヴィエト」の約10カ 月間の状況を驚くべき詳細な数字データを含めて、 分析した画期的な研究書です。その間の変動をリア ルに捉え、データに基づく説得力を持っています。 このファイルでは、その内、「ペトログラード・ ソヴィエト」部分のデータを使いました。以下『研 究』とします。著書には、多数の「ロシア語(注) 」がありますが、「出典」としては、著書ページ数 だけにします。長尾氏は、執筆当時、日本女子大、 中央大学、法政大学等の講師で、ロシア革命に関す る多くの論文、著書を出版しています。 (3)、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1、2 、3』(みすず書房、1999年新装版)。これは、 1950年執筆ですので、ソ連崩壊後の資料を含ん でいません。しかし、彼は、それまでのデータに基 づいて、「十月革命」から1921年にかけての、レ ーニン・ボリシェヴィキによる産業政策、労働者政 策、労働組合・工場委員会にたいする対応、その変 化について、綿密な分析をしています。このファイ ルでは、『ボリシェヴィキ革命2』「第4篇、経済 秩序」の「(b)工業、(c)労働と労働組合」(P.44 〜88、P.131〜171)の資料を使いました。以 下、引用個所を『ボ革命2』とします。 (4)、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921 』(現代思潮社、1977年)。これは、1921年 の危機=農民・労働者・兵士の総反乱とボリシェヴ ィキ一党独裁政権崩壊の危機に関する最高の研究書 です。中心テーマは、クロンシュタット反乱です。 ただ、その前段をなし、その反乱と一体のペトログ ラード労働者の大ストライキについても、具体的な 経過資料を載せています。このファイルでは、「第 2章、ペトログラードとクロンシュタット」(P.39 〜100)のデータを使いました。著書の詳細な「原 典(注)」は、すべてロシア語ですので、引用個所 は、著書ページ数だけにしました。 著書の一部をHPに『クロンシュタット1921』 として転載してあります。 (5)、ヴォーリン『知られざる革命−クロンシュ タット反乱とマフノ運動』(現代思潮社、1966年 )。ヴォーリンは、ウクライナにおける「マフノ農民 運動」の中心的指導者の一人です。彼は、この著書 で、「知られざる革命」として、「公認ロシア革命 史」で完全に抹殺・隠蔽されてきた、2つの反乱・ 運動の背景・経過を当事者として、具体的な記録で 残しました。このファイルでは、クロンシュタット 反乱と一体のものである「6、ペトログラード労働 者の決起」(P.34〜60)の経過資料を引用しまし た。 (6)、イダ・メット『クロンシュタット叛乱』(鹿 砦社、1991年新装版)。これもクロンシュタット 反乱のすぐれた研究書です。著者は、「労働者民主 主義」の立場から、ペトログラード労働者ストライ キとクロンシュタット反乱にたいして行使された弾 圧を、克明な経過分析で告発しています。このHP に『クロンシュタット前夜のペトログラード』を転 載してあります。 (注)、このファイルでは、引用文献も含めて、 (1)ボリシェビキを「ボリシェヴィキ」に、(2 )ソヴェトを「ソヴィエト」に用語統一しました。 2、存否論(1)、ソ連人口におけるプロレタリア 比率とボリシェヴィキ支持率(表1〜5) 〔小目次〕 1、ソ連人口統計(表1) 2、工業労働者数とその減少経過の統計(表2 、3) 3、労働者、ソヴィエトにおけるボリシェヴ ィキ支持率の急上昇と急落(表4) 4、存否論(1)の結論(表5) 1、ソ連人口統計 1917年11月「十月革命」から1922年1 2月レーニン第2回発作までの間のソ連人口を、約 1億4000万人と推定します。その根拠は下記( 表1)です。 (表1) ソ連人口の推移 年 人口 内容 出典 1913 1917.11 1917.11 1億5900万人 1億4500万人 1億4000万人 都市人口17.9% ソ連領土2117ku 『ロシア・ソ連を知る事典』 E・H・カー『ロシア革命の考察』 帝政期人口センサス 『事典』P.282 『考察』P.103 1914〜17 1918〜20 1918〜22 −400万人 −300万人 −1650万人 −1500万人 −1400万人 −512.7万人 第一次世界大戦中の戦死者 第一次世界大戦中の戦死者 内戦戦死、伝染病、飢饉1500万、亡命150万人 内戦の結果1300万人、国外追放200万人 内戦死者700万人、飢饉500万人、亡命200万人 赤軍100万人、白衛軍12.7万人、伝染病200万人、亡 命150〜200万人 『ソ連邦の歴史1』 川端『ロシア』P.239 『ソヴィエトの悲劇』 『7人の首領』P.157 川端『ロシア』P.239 『ロシア革命史』P.280 1926 1億4703万人 (1920・11内戦終了、1921・3〜ネップ) ソ連人口センサス 1917〜22 1億4000万人 私(宮地)の推計 『ソヴィエトの悲劇』はマーティン・メイリア著( 草思社、1997年)、『7人の首領』はヴォルコゴ ーノフ著(朝日新聞社、1997年)、『ロシア革命 史』はリチャード・パイプス著(成文社、2000年 )で、いずれもソ連崩壊後の資料に基づいた研究書で す。『ソ連邦の歴史1』は、ダンコース著(新評論、 1985年)です。 1917年前後におけるソ連人口の正確な統計は 、1913年と1926年の2つの「人口センサス 」だけです。1918年から22年の間におけるマ イナス人口を組み込めば、その間は、1億3000 万人以下となっています。しかし、一応1億400 0万人として、以下の%計算をします。 農民の人口比率が80%ということは、すべての 文献で一致しています。となると、1億4000万 人×80%=1億1200万農民になります。エス エルは、9000万農民としています。私(宮地)は 、『農民』ファイルで、80%・9000万農民と してきました。ソ連崩壊後も、当時の農民人口数が はっきりしていません。よって、数値的には合わな いのですが、統計として明確になるまで、このファ イルでも、「80%・9000万農民」とします。 2、工業労働者数とその減少経過の統計 プロレタリアートとは、工業・産業・工場労働者 のことです。その労働者数を、1917年11月「 十月革命」時点で、約300万人と推定します。そ れは、内戦と飢饉により、1920年から22年に 約220万人に減少しました。その根拠は、下記( 表2)(表3)です。 (表2) 1917年のプロレタリアート数 年 労働者数 内容 出典 1905 1913 169万人 260万人 金属25.2万人、繊維70.8万人、印刷・木材・皮革・ 化学27.7万人、鉱石・食料品45.4万人 工業労働者 ロシア商工省『ロシアにおけるストライキ統計』 『ボ革命2』P.147 1917 271.5万人 300万人 300万人 建設労働者から赤十字職員まで含む 労働組合員150万人 労働者 『1917年のロシア革命』P.28 『ボ革命2』P.147 『ソ連邦の歴史1』P.157 1917 300万人 私(宮地)の推計 ロシア商工省『ロシアにおけるストライキ統計』 とは、帝政ロシア商工省が、1895年〜1904 年の10年間、および、1905年〜1908年の 4年間の『工場・製作所における労働者ストライキ 統計』のことです。この有名な出版物について、レ ーニンは、1910・11年、雑誌「ムイスリ」に、 論文『第一革命時代におけるロシアの労働者運動− ロシアにおけるストライキ統計について』を発表し ました。彼は、そこで、1905年革命から4年間 の労働者の状態とストライキを、「19の商工省(表 )」を引用し、分析しています。そして帝政ロシア権 力・工場主にたいするストライキの革命的・前衛的 役割を高く評価し、ストライキ労働者を激励してい ます。レーニンは、当時のプロレタリアート数が1 69万人であったことを認めています。 (表3) プロレタリアート数の減少 1918年 〜1922年 年 労働者数 内容 出典 1918 1918 250万人 (?) →1920年220万人→1922年124万人 31県の労働者125.4万人→1920年6月1日86.7万人に減 少→その後も減り続けた 『ボ革命2』P.147 『ソ連邦の歴史1』P.157 1920 1922 220万人 200万人 国有化企業労働者141万人 20年11月国有化工業3.7万で雇用労働者161.5万人 工業労働者 『社会主義像の転回』P.34 『ボ革命2』P.133 『ソ連の階級闘争』P.134 1920 220万人 私(宮地)の推計。1917年から80万人減少 『社会主義像の転回』は、中野徹三著(三一書房、 1995年)、『ソ連の階級闘争1917〜1923』は 、シャルル・ベトレーム著(第三書館、1987年)です 。 プロレタリアート数減少、都市人口流出の原因 ソ連崩壊前・後の多くの文献が、共通して指摘し ている原因は、次の5点です。これらの詳しい内容 は、『農民』ファイルに書いてあります。 (1)、大多数は、都市の飢餓による農村への脱出 です。1921・22年の飢饉により、500万人 が死亡しました。それは、『農民』ファイルのよう に、レーニンの根本的に誤った「食糧独裁令」=マル クスの誤った「市場経済廃絶」路線を強行した結果 でした。なかでも、都市の住民・労働者・兵士は、 悲惨でした。 (2)、農村の「土地革命」による総割替え=地主 から没収した土地分割を求めての帰村です。工業プ ロレタリアートは、農村、農民階級といまだ密接な 関係を保っていました。「世襲的な」プロレタリア ート=都市に生まれ、彼らにとって、他の道があり えないという労働者階級の存在は、多くありません でした。1917年5月以降、80%・9000万 農民は、左派エスエルの暗黙の支持以外、ボリシェ ヴィキを含むすべての政党と臨時政府の反対に逆ら って、「土地革命」を自力で成し遂げました。その 農民革命成果としての土地分割の分け前をもらいに 、プロレタリアートの多くが都市を離れて、村に帰 ったのは、当然でした。 (3)、工業の混乱と、燃料・衣料の欠乏です。「 共産党員にたいしてだけ、靴の秘密配給がされた」 という噂で、プロレタリアートが激昂するような欠 乏状況でした。レーニン・スヴェルドロフは、権力 奪取の7カ月後、80%・9000万農民にたいす る内戦を自ら仕掛けました。1918年5月、『「 食糧独裁令」の貧農委員会方式によって、ボリシェ ヴィキ側から、農村に内戦の火をつける』作戦を発 動しました。レーニン・政治局は、都市に続いて、 農村でも、「貧農委員会」を組織して、「富農」に たいする階級闘争という内戦を勃発させ、「農村の 社会主義革命」をやろうという“空想的な暴挙”を 実行に移しました。レーニンは、結果として、1)、 激発した農民「反乱」との戦闘と、2)、白衛軍との 内戦という“二正面作戦”に追いこまれました。さ らに、3)、「世界革命戦争、まず対ポーランド戦争 ・侵攻」のために、レーニン・トロツキーは、赤軍 の正規軍化と徴兵による500万人拡大路線を採り ました。レーニンらは、その非生産者500万人を 養う「兵糧確保」政策にまったくの無知でした。と どのつまり貧農委員会方式が、わずか7カ月間で行 き詰まり、転換した政策は、農民の生産意欲を無視 し、踏みにじった「軍事=割当徴発」制という「食 糧収奪」路線でした。この“三正面作戦”という無 謀な戦闘・戦争遂行のために、ボリシェヴィキの産 業政策が武器・軍需生産強化に集中し、国民・農民 向けの消費財・生活用品生産を後回しにしたのです 。レーニンの政策は、食糧だけでなく、燃料・衣料 ・靴などを極度に欠乏させたのです。 メドヴェージェフは、従来の1)、外国干渉軍、2 )、白衛軍という内戦の主要原因説を否定し、この「 食糧独裁令」こそが、内戦の地域・期間の拡大とそ の大惨禍の主要原因の一つと規定しました。 なぜ、レーニン・トロツキーは、そのような無謀 な作戦を採ったのでしょうか。その背景には、『ド イツ革命の勃発と成功近し』という、彼らの国際情 勢認識と、それへの“熱烈な願望”がありました。 それは、ドイツにおける労働者ストライキなどの高 揚を『革命成功の可能性が確実』と“判断”したこ とによるものでした。そこから、先進資本主義国ド イツにおける「プロレタリア革命」の勃発を“絶対的 前提”とし、かつ、それが成功するものと“仮定” し、そのためには、後進国ロシアの“ボリシェヴィ キだけによる抜け駆け的な単独権力奪取クーデター ”を「世界革命」の導火線とするという、20世紀 革命史上最大の“カケ”作戦に打って出たのです。 レーニンの単独武装蜂起・権力奪取クーデターに 反対したボリシェヴィキ指導者のジノヴィエフ、カ ーメネフや、ソヴィエト内社会主義政党のメンシェ ビキ、エスエルは、『ドイツ革命の成功』というレ ーニンの情勢判断は、まったくの誤りだとしていた のです。ドイツ革命は失敗し、カール・リープクネ ヒトとローザ・ルクセンブルグは、惨殺されました 。ハンガリー革命も鎮圧されました。ポーランドに たいする「プロレタリア革命の“輸出”戦争」も、 ポーランド軍によって撃退され、赤軍は惨敗しまし た。 (4)、白衛軍との戦争、農民「反乱」との戦闘に よる赤軍兵士、その中のプロレタリアート出身兵士 の死亡です。赤軍500万人中、農民出身の80% ・400万人を除いて、「徴兵された」プロレタリ アート出身兵士は、数十万人いました。メドヴェー ジェフは、『1917年のロシア革命』において、 農民「反乱」との戦闘で、1)、赤軍兵士171185 人が死亡、2)、「食糧人民委員部」10万人が死亡 とのソ連崩壊後のデータを明らかにしました。リチ ャード・パイプスは、『ロシア革命史』(P.280) で、ソ連崩壊後のデータに基づいて、赤軍の死者を 100万人とし、それは『農民との戦いのなかで主 に蒙った』と推定しています。 (5)、国家・党機関へのプロレタリアートの吸収 です。レーニン『国家と革命』によれば、成立した 「プロレタリア独裁国家」とは、まず、プロレタリ アートが、国家暴力装置を完全に掌握することでし た。それは、国家行政機構、食糧人民委員部、革命 裁判所裁判官、赤軍全部隊のコミッサール(政治委員 )、秘密政治警察チェーカーなどです。「赤色テロル 」オルガンであるチェーカーの指令体系実態は、レ ーニン・ジェルジンスキーの直系でした。ニコラ・ ヴェルトは、『共産主義黒書』(P.77)において 、チェーカー・メンバー数が、1918年末約4万 人、1921年初め28万人以上になった、とのデ ータを示しています。チェーカーは、レーニンと政 治局に“絶対忠誠を誓い”、かつ、その「赤色テロ ル」指令を“無条件で執行する”プロレタリアート 出身の党員で主に構成されていました。 これら5つの原因によって、プロレタリアートは 、1917年300万人から1920年220万人 に減少しました。 3、労働者、ソヴィエトにおけるボリシェヴィキ 支持率の急上昇と急落 プロレタリアート数が、300万人(1917年) から220万人(1920年)に減った中での、ボリ シェヴィキ支持率とその激変経過を見ます。政党支 持率の急上昇・下落の現象は、世界や日本でも何度 も見受けます。政党、もしくは政権党が、国民・有 権者の期待を裏切ったとき、その支持率は急落しま す。 ボリシェヴィキ支持率の激変には、3段階があり ます。それを3つの(表)で検討します。ただ、初め に、明らかにしておくことがあります。それは、ボ リシェヴィキ支持内容は、「プロレタリア独裁」理 論、その体制実現への賛否ではない、ということで す。その理論を理解し、支持したのは、ボリシェヴ ィキ党員だけでした。 ボリシェヴィキ支持労働者・兵士の権力・政治要 求は、『すべての権力を、(臨時政府ではなく)、労 働者兵士ソヴィエトへ』でした。その内容は、「プロ レタリア独裁」でもなく、ましてや「(各労兵ソヴィ エトから権力を簒奪していく)中央集権型権力」や「 ボリシェヴィキ一党独裁権力」でもありませんでし た。1億4000万国民共通の経済要求は、『平和 ・土地・パン』でした。労働者・兵士・農民は、彼 らの政治・経済要求をボリシェヴィキが実行すると 約束したかぎりにおいてのみ、ボリシェヴィキ支持 に回ったにすぎません。レーニンは、それらの政治 ・経済要求の全面実施の公約を掲げて、単独権力奪 取に全力をあげました。しかし、それにたいするレ ーニンの本心は、「ボリシェヴィキ一党独裁権力」 「市場経済廃絶の経済路線とその具体化としての食 糧独裁令」「世界革命」でした。この食い違いが、 支持率の急上昇・急下落の原因を説明するキーポイ ントになります。 (表4−1) 第1段階、まだ低いボリシェヴィキ 支持率 1917年2月「二月革命」〜6月 年月 支持率 内容 出典 1917.2 ボリシェヴィキ党員全国で24000人、ペトログラー ド2000人、モスクワ600人 『10月革命』P.79 1917.5 1.3% 5月4日〜28日第1回農民大会、代議員1115人中、エ スエル537人、ボリシェヴィキ14人 『階級闘争』P.64 1917.6 9.6% 第1回全ロシア・ソヴィエト大会、代議員1090人中、エ スエル285人、メンシェビキ245人、ボリシェヴィキ 105人 『階級闘争』P.63、『ロシア史』P.442 ボリシェヴィキは、「二月革命」において、なん ら積極的役割を果していません。それどころか、労 働者グループが呼びかけた「国会請願行進」に反対 し、それを失敗に終らせました。 (表4−2) 第2段階、ボリシェヴィキ支持率の 急上昇 1917年7月〜1918年3月 年月 支持率 内容 出典 1917.10 57.5% 全ロシア工場委員会評議会代議員167人中、ボリシェヴ ィキ96人、エスエル24人、アナキスト13人、メンシ ェビキ7人 『階級闘争』P.63 1917.11 (2万人) 11月7日武装蜂起当日、ペトログラードのプロレタ リアートと市守備隊の大半は「中立」を守った。冬 宮襲撃参加者は、(1)ペトログラード゙守備軍兵士7 〜8千人、(2)クロンシュタット水兵6〜7千人、(3) 労働者「赤衛隊」5千人の計2万人によるボリシェヴ ィキ単独権力奪取 『悲劇』P.69、長尾『研究』P.376 1917.11 44.8% 第2回全国労兵ソヴィエト大会の大会アンケート委 員会集計、代議員670人中、ボリシェヴィキ300人、 エスエル193人、メンシェビキ63人。エスエル(右派) とメンシェビキは、「ボリシェヴィキによる単独権 力奪取」に抗議して退場 『研究』P.377 1917.11 24% 40.7% 36.5% 11月12日から憲法制定議会選挙施行。エスエル40.7 %・410議席(うち左派エスエル40議席)、ボリシェヴ ィキ24%・175議席、カデット4.7%・17議席、メン シェビキ2.7%・16議席 兵士・水兵のボリシェヴィキ支持率 都市のボリシェヴィキ支持率 『ロシア史』P.461 1917.11 45.3% 79.2% 48.7% 57.7% 50.1% 79.5% 55.8% 憲法制定議会選挙の地域別得票率 ペトログラード市 エスエル16.7、メンシェ ビキ3.1 ペトログラード守備軍 エスエル12.0、メンシェビ キ1.1 ペトログラード県 エスエル25.4、メンシェ ビキ1.3 バルト海艦隊 エスエル38.8、メンシェ ビキ/ モスクワ市 エスエル 8.5、メンシ ェビキ2.9 モスクワ守備隊 エスエル 6.2、メンシェ ビキ0.9 モスクワ県 エスエル26.2、メンシ ェビキ4.2 『研究』P.403 1918.1 46.0% クロンシュタットのソヴィエト選挙 1918.3 66.0% 3月14日、100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエ ル18.9%、右翼エスエル1.2%、メンシェビキ3.3% 、無党派9.3% 『10月革命』P.212 ペトログラードの労働者38万人・兵士47万人 は、「二月革命」で、ツアーリ帝政を倒しました。彼 らの要求は「平和・パン・土地」でした。ところが 、臨時政府は、それらを何一つ解決できません。「 平和」要求を、ケレンスキーは拒否し、ドイツとの 戦争を継続しました。「パン」要求では、飢餓が進 行するばかりでした。「土地」要求では、臨時政府 は、9000万農民による5月以降の「土地革命」 の激発に反対し、鎮圧部隊を派遣しました。途中か ら閣僚に参加したメンシェビキ、エスエルも同じ政 策でした。12月に分裂・結党する前の左派エスエ ルだけが、「土地革命」を支持していました。 よって、ソヴィエト内の3大社会主義政党とアナ キストの中で、メンシェビキ、エスエルの支持率は 急落しました。1917年4月ドイツ軍部が仕立て た「封印列車」で、フィンランド駅に着いたレーニ ンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と公約しま した。7月以降、レーニンは、臨時政府やメンシェ ビキ、エスエル閣僚が解決できない「平和・パン・ 土地」要求の全面解決・実施の公約を高く掲げ、国 民に約束しました。労働者・兵士・農民の政党支持 は、一挙にボリシェヴィキに向かいました。ボリシ ェヴィキ支持率は、その政権構想要求・経済要求へ の公約項目によってのみ、急上昇しました。国民が ボリシェヴィキ支持にまわった政治要求内容は、「 プロレタリア独裁」体制ではなく、ましてや、「ボ リシェヴィキ一党独裁による中央集権制国家」でも ありませんでした。国民の政権構想要求は、ボリシ ェヴィキの指導とは関係なく、労働者・兵士・農民 が自力で、“自然発生的”に創り出した「すべての 権力を労兵農ソヴィエトに移す地方分権型ソヴィエ ト国家」「ソヴィエト内3大社会主義政党による連 立政権の樹立」でした。 (表4−3) 第3段階、ボリシェヴィキ支持率の 急落 『大衆がボリシェヴィキから顔をそむける』 1918年4月〜、とくに5月「食糧独裁令」以降 年月 支持率 内容 出典 1918.4〜8 44.8% 100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエル23.1% 、右翼エスエル2.7%、メンシェビキ1.3%、無党派 27.1% 『10月革命』P.212 1918.4 28.9% クロンシュタットのソヴィエト選挙、エスエル最左 翼のマクシマリスト22.4%、左翼エスエル21.3%、 メンシェビキ国際派7.6%、アナキスト5.4%、無党 派13.1% I・ゲッツラー『クロンシュタット1917〜21』 『大衆がボリシェヴィキから顔をそむける』とい う見出しは、メドヴェージェフ『10月革命』(未来 社、1989年)の「第4部、1918年の困難な春 、第12章」(P.208)のものです。彼は、そ こで支持率激落データとその原因を分析しています 。国民が目にしたものは、上記の政治・経済要求を 全面実施するという公約にたいするボリシェヴィキ 政権の不実行でした。それどころか、判明したのは 、要求とは正反対の「赤色テロル」「食糧独裁令」 型社会主義政策転換という“レーニンの公約違反の 裏切り”でした。それを、国民が悟ったことによっ て、権力奪取クーデターのわずか6カ月後から、国 民のボリシェヴィキ支持率が、急落したのは当然で した。 ボリシェヴィキ支持率急落原因としての“レーニ ンの公約違反の裏切り” レーニンは、権力奪取後の6カ月間における政策 実践で、それらの公約を守りませんでした。それど ころか、むしろ、公約したこととは逆の路線・政策 を選択しました。 (公約1)『すべての権力を、(臨時政府ではなく )、労働者兵士ソヴィエトへ』という政権構想要求へ の裏切りです。 なかでも、クロンシュタット・ソヴィエトや、そ れを含むバルト艦隊ソヴィエトでは、1905年革 命や「二月革命」における中心的ソヴィエトであっ た伝統に基づき、その政治要求がもっとも強烈でし た。それを実行すると公約した政党としてのみ、メ ンシェビキ、エスエルという社会主義政党よりも、 ボリシェヴィキを支持し、「十月革命」の“栄光拠 点ソヴィエト”となったのです。それだけに、彼ら は、“レーニンの公約違反の裏切り”をもっとも早 く悟りました。上記(表)のように、ボリシェヴィ キ支持率は、1917年11月バルト海艦隊の憲法 制定議会選挙57.7%→1918年1月クロンシ ュタット・ソヴィエト選挙46.0%→1918年 4月クロンシュタット・ソヴィエト選挙28.9% と激減しました。 なぜなら、その6カ月間で『レーニンのしたこと 』は、「労働者兵士ソヴィエトが自分たちで勝ち取 った権力を、法令と暴力・赤色テロルで簒奪(さんだ つ)し、ボリシェヴィキ一党独裁政権への国家権力の 絶対的中央集権化を強化していったこと」だったか らです。 労働者のボリシェヴィキ支持率は、単独では不明 です。ただ、クロンシュタット・ソヴィエトのボリ シェヴィキ支持率が、38.8%も下落して、28 .9%になったと同じ程度に、ペトログラード労働 者の支持率も、20%以上の下落をしたと推定でき ます。次にのべる労働者ストライキのデータから見 ると、1920年における220万人労働者のボリ シェヴィキ支持率は、30%をはるかに割って、1 0%台になった推定します。 (公約2)『パン=飢餓の解決』という生活・経済 要求への裏切りです。 飢餓は、ツアーリ帝政、臨時政府時点から受け継 いだ「負の遺産」です。第一次世界大戦が継続した 1914年から1918年3月ブレスト講和条約に よるロシアだけの戦争単独離脱までの期間は、戦争 中という理由での「国家権力による食糧専売・配給 制」でした。1917年5月以降、9000万農民 は、ボリシェヴィキを含むすべての政党の反対に逆 らって、自力で第1要求の「土地革命」を成し遂げ ました。戦争離脱後の農民、国民、ボリシェヴィキ 以外のすべての政党が求めた『パン=飢餓の解決』 政策は、農民の第2要求「穀物・家畜の自由商処分 権=自由商業の回復」でした。1921年「ネップ 」で証明されたように、1918年3月以降の政策 は、「食糧専売・配給制」という戦時統制経済を廃 止して、「資本主義的自由商業=市場経済の承認・ 奨励」しかありませんでした。 ところが、レーニンらボリシェヴィキにとって、 その政策は、クーデター的に奪い取ったボリシェヴ ィキ一党独裁社会主義政権が、マルクス「社会主義 青写真」の「市場経済廃絶、貨幣経済も廃絶」路線 に背き、資本主義経済に逆戻りすることになる“社 会主義経済への裏切り”政策でした。レーニンは、 国民の飢餓解決よりも、マルクス主義理論の教条的 施行を選択したのです。それにより、飢餓は、さら に激化しました。このマルクス理論が、根本的な誤 りであったことは、1989年から1991年にお ける10の前衛党一党独裁型「市場経済廃絶」路線 の実験国がいっせい崩壊したことによって証明され ました。 (公約3)『土地』という80%農民の要求にたい する実質的な裏切りです。 「土地革命」を自力で成し遂げた農民は、「穀物 ・家畜の自由処分権=自由商業」を求めました。レ ーニンは、1921年3月の「ネップ」まで、その 要求を一貫して拒絶し続けました。それどころか、 彼は、飢餓が激化するのにたいして、1918年5 月、「食糧独裁令」を発令し、農民からの食糧収奪 路線の泥沼に踏み込みました。これは、9000万 農民の労働・生産意欲にまったくの無知な政策であ り、ロシア農業を破壊する「マルクスの市場経済廃 絶」理論の具体化でした。 権力奪取時点に、レーニンは、それに先行してい た9000万農民の「土地革命」を否定するわけに もいかず、やむなく、土地の「共同体(ミール)所有 」を認めていました。そのかぎりにおいてのみ、農 民は、「土地革命」を否定し、鎮圧しようとした臨時 政府よりも、ボリシェヴィキ支持に回っていたので す。しかし、この「食糧独裁令」は、農民が生産し た穀物・家畜を「軍事=割当徴発」制の暴力で一方 的に収奪するものでした。それは、まさに「土地」 要求にたいするレーニンの実質的な裏切りでした。 むしろ、それ以上に、農民にとって、レーニンとボ リシェヴィキは「土地革命」にたいする“反革命指 導者と反革命政権”となったのです。自力「土地革 命」に成功した農民たちが、その“反革命政策”に たいして、ソ連全土での農民「反乱」に決起したの は、必然でした。 (公約4)『平和=戦争終結』という全国民的要求 にたいする犯罪的な裏切りです。 レーニンは、権力奪取前、『平和=戦争離脱・終 結』を力説しました。それにより、ドイツとの戦争 をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィ キ支持率が急上昇しました。1918年3月3日ブ レスト講和条約によって、第一次世界大戦からロシ アだけが単独離脱しました。それは、ロシア国民に 「平和」と息継ぎをもたらしました。 ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13 日に、「食糧独裁令」を発令しました。レーニン・ 政治局の目的は、2つありました。第1は、食糧人 民委員部を中央集権化し、食糧の「武装徴発隊」を 十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力 手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓 状態を克服することでした。第2は、農村において 、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階 級闘争を起すことでした。それは、『ボリシェヴィ キ側が、農村に内戦の火をつけることによって、8 0%・9000万農民を社会主義化する』という、 レーニンの、自国民にたいする犯罪的な“戦争再開 ”政策でした。 レーニン・政治局にとって、「プロレタリア独裁 国家」の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を 確保することが死活問題となっていました。彼らに は2つの選択肢がありました。1)、崩壊した経済の 中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、 2)、強制を用いるかです。彼らは「ツアーリ体制」 打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの 論拠から第2の方策を選びました。この驚くべき幼 稚、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の 社会主義構想であったことについては、「ロシア革 命史」のほとんどの文献が一致しています。その証 拠をいくつか挙げます。 (1)、スヴェルドロフの発言。『一九一八年五 月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会 において、次のように述べている。「われわれは、 村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵 対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向 けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に 割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけ ることができるならば、その時にはわれわれは、都 市と同じ革命に、村において成功することになるで あろう」』(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論 、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的 なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致し ていた“共同意思”でした。 (2)、レーニンの発言。『一九一八年四月二十九 日、全露中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直 入に言った。「我々プロレタリアが地主と資本家を 打倒することが問題になった時、小地主と小有産階 級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の 道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている 。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、 断固たる戦いの時がきたのだ。」』(『黒書』(P.7 4))。レーニンのいう「小地主」とは、「土地革命」 をした80%・9000万農民のことです。それは 、権力奪取6カ月後に、レーニンが農民に仕掛けた “宣戦布告”でした。 (3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。『わたし は断言する。ここで問題になっているのは戦争なの だ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ』( 全露中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』(P.74 )) (4)、トロツキーの発言。『我々の党は内戦のた めにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内 戦万歳!』(全露中央執行委員会第4回議事録)(『黒 書』(P.74))。 (5)、カール・ラデックが1921年に書いた文 。『彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、す なわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白 軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前 の政策について、次のように解明している。「一九 一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要 なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させ ることだった。国家は自らの必要のために穀物の一 部に対して権利があるということ、そしてその権利 を行使するための武力を持っているということであ る!」』(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』 (P.74)) レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、政治局 全員が、『村に内戦の火をつける』ための「食糧独裁 令」を仕掛けたのは、どういう性質を持つのでしょう か。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員40万 人という「市場経済廃絶」軍と、9000万農民・ 全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦でし た。「市場経済廃絶」軍は、党員だけでなく、チェ ーカー28万人、赤軍550万(1920年)という 国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、 「赤色テロル」を行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を 先に展開しました。「市場経済回復・実現」軍は、 「土地革命」を自力で成し遂げた農民とともに、エ スエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト という全他党派が参加しました。それは、労働者と 農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びま した。それは、他党派にとって、レーニンの『第4 回目クーデター』でした。 しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する 重大な問題があります。メドヴェージェフは、ソ連 崩壊後の資料に基づいて、『内戦の基本原因』を、 ボリシェヴィキの「食糧独裁令」にあったとの新説を 発表しました。いわゆる「内戦」の勃発期日は、5 月25日の「チェコ軍団の反乱」開始日です。それ を導火線として、「コルチャークなど白衛軍との内 戦」「外国干渉軍との戦争」が広がりました。 ところが、上記5人の『農民との内戦開始』演説 ・発言時期は、4月29日から数日間の「第4回全 露中央執行委員会」です。それは、内戦勃発の26 日も前でした。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒 書』において、4月29日「議事録」を発掘し、メ ドヴェージェフの新説を追認・証明しました。内戦 を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実とな りました。それこそ、レーニンの、自国民にたいす る犯罪的な“戦争再開”政策でした。レーニン・ス ヴェルドロフ、トロツキーこそが、5月13日、「 食糧独裁令」発令によって、80%・9000万農 民にたいする“穀物・家畜収奪の内戦”を開始した のです。「食糧独裁令」内容とその後の詳細は、『 農民』ファイルで書きました。 こうして、レーニンは、(公約1〜4)を実行せず 、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択し たことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待 を裏切ったのです。ボリシェヴィキ支持率が急落し たのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅 と怒りに転化したからです。 なぜ、レーニンは、このような公約違反をしたの でしょうか。 「同床異夢」という言葉があります。要求を一つ も解決できないケレンスキー臨時政府を倒して、ソ ヴィエト革命を成功させるという点では「同床」で あっても、政権構想要求・経済要求をどう実現する かという手法・方向では「異夢」であったと、解釈 することができます。「十月革命」は、最初から、 レーニンと労兵ソヴィエト・国民の要求内容・方向 に、根本的な“食い違い”を含んでいたとする私(宮 地)の見解です。これも、「逆説のロシア革命史(2) 」の内容の一つです。 第1、労兵ソヴィエト・農民の要求内容・方向=「 十月・ソヴィエトによる連立・地方分権型政府樹立革 命」「市場経済回復型の民主主義革命」 彼らが、臨時政府を倒す「十月革命」に参加して 、望んだのは、「プロレタリア独裁国家」ではなく 、ましてや、「ボリシェヴィキ一党独裁・中央集権 型政府樹立」でもありませんでした。それは、要求 どおりの「自主的に形成された労働者・兵士・農民 ソヴィエトが権力を掌握する、地方分権型政府樹立 」でした。飢餓の解決のために、農民の第2要求「 穀物・家畜の自由処分権=市場経済の回復」を実現 することでした。レーニンが仕掛けた「市場経済廃 絶」路線と、それに基づく「食糧独裁令」による“ 9000万農民との内戦”を望んだ国民は、ボリシ ェヴィキ党員以外一人もいませんでした。 第2、レーニンの基本目標と手段=「十月・ボリ シェヴィキ一党独裁・中央集権型政府樹立革命」「 市場経済廃絶型の社会主義革命」 レーニンの目的は、最初から死ぬまで『権力、ま た権力』であった、とするものです。『絶対的真理 としてのマルクス主義「青写真」を実行するには、 連立権力では不可能である。そのためには、単独で 権力奪取をし、すべての他党派を排除・殲滅しなけ ればならない。一党独裁権力の維持と「赤色テロル 」オルガンの不断の強化こそすべてである』とする レーニンの心理・思想評価です。『その目的実現の ためには、いかなる手段の使用も、マルクス主義真 理の認識者・体現者たる私(レーニン)には許され ている』『権力奪取のためには、国民の政治・経済 要求を全面的に実施するとウソをついて、それを“ 戦術的に利用”してもよい』という“ごうまんなエ リート思想”です。追放された哲学者ベルジャーエ フを初め、多くのレーニン批判者や、ソ連崩壊後の 「ロシア革命史」研究者が、このような見解を持っ てきています。ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」や 大量のアルヒーフ(公文書)が明らかになるにつれて 、レーニンという人物の評価が、180度逆転しつ つあります。この見解については、ファイルの最後 でも、考察します。 4、存否論(1)の結論 「プロレタリア独裁」体制は、「十月革命」の最初か ら存在していませんでした。当時のソ連人口が、1 億4000万人だったとして、この結論をのべます 。 (表5) ボリシェヴィキ支持労働者数とその人口比 率 年月 労働者数 ボリシェヴィキ支持率 支持労働者数 支持労働者の人口比率 1917.11.7 300万人 50〜60% 150〜180万人 1.1〜1.3% 1918.4〜8 250万人 40% 120万人 0.9% 1920 220万人 (30%以下) 66万人 0.5% この「労働者」ファイルの検討期間は、1917 年11月7日から1921年2月末「ペトログラー ド労働者の大ストライキ」までです。その3年4カ 月間において、存在した体制は、「プロレタリア独 裁」の虚構(フィクション)看板を掲げた「党独裁」 でした。これについては、ファイル末でのべます。 「プロレタリア独裁」概念の理論的内容について は、大藪龍介氏が『マルクスカテゴリー事典』(青木 書店、1998)において、担当執筆した「プロレタリア ート独裁」項目があります。正確な解説は、そちら をご覧下さい。または「google検索・『プロレタリ アート独裁』関連HP」があります。 そもそも、この概念に基づく国家体制は、人口の 多数を占めるようになった、発達した資本主義国の プロレタリアートが、小ブルジョアとしての農民と 同盟し、圧倒的な多数者となり、人口の絶対的少数 者であるブルジョアジーにたいして「独裁」を執行 するものです。「独裁」の具体的形態は、絶対的少 数者ブルジョアジーから、言論出版の自由権を奪い 、場合によってはその生存権も否定することです。 レーニンが実際に行った「独裁」は、資本家・白衛 軍だけでなく、ボリシェヴィキ一党独裁体制に反対 ・抵抗・反乱・批判する農民・労働者・兵士・聖職 者・知識人など数十万人を殺すことが「プロレタリ アート」には許されている、という「赤色テロル」 でした。 ところが、これら(表1〜5)のデータが、ソ連崩 壊後に明らかになりました。そこでは、ソ連プロレ タリアートの60%から30%以下だけが、ボリシ ェヴィキ支持労働者であり、その人口比率が1%前 後しかなかったことも判明してきたのです。しかも 、その人口の1%前後は、ボリシェヴィキを支持し ていたとしても、その全員がレーニンの「プロレタ リア独裁」理論の支持者とはかぎりません。その理 論と体制を支持したのは、約40万人・人口の0. 3%であるボリシェヴィキ党員だけでした。しかも 、『農民』ファイルで分析したように、レーニンの 『「労農同盟」が存在している』という何度もの発 言・論文は、虚構(フィクション)看板でした。『プ ロレタリアートと80%農民との政治的軍事的同盟 』は、一定地域・一定期間以外、基本的に存在して いませんでした。 となると、人口の1%前後のボリシェヴィキ支持 プロレタリアートが、国家暴力装置を独占しただけ の国家体制を、はたして「プロレタリア独裁国家」 だったと規定できるのかという、根本的疑惑が浮上 します。 私(宮地)は、ソ連崩壊後のこれらデータから、 この3年4カ月間の国家を「プロレタリア独裁国家 」と規定することを、本質的な誤りであると考えま す。ソ連崩壊後11年経って、「レーニン秘密資料 」や大量のアルヒーフ(公文書)に基づいて、様々な 「ロシア革命史」研究が出版されてきました。ただ 、その中で、私のように、ソ連人口・労働者数・ボ リシェヴィキ支持率、ボリシェヴィキ支持労働者の 人口比率などを確定し、その数字的データによって 、『「プロレタリア独裁」体制の存否論』を検討す る研究は、まだ出ていません。 1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアート が国家権力を独占し、「労農同盟」も存在しなかっ た国家体制でも、彼らが国家暴力装置を完璧に握っ ていれば、その国家を「プロレタリア独裁国家」と 規定できるのでしょうか。そのような歴史認識が成 立し得る歴史学があるのでしょうか。それが、マル クス主義国家論なのでしょうか。 以上が、人口・労働者数・ボリシェヴィキ支持率 から見た「存否論(1)」です。次は、1917年か ら1920年末までに発生した、「プロレタリア独 裁」と名乗る体制にたいするプロレタリアートのス トライキ頻発状況と、それにたいする「プロレタリ ア独裁国家」側からの弾圧の具体例から、「存否論( 2)」を検討します。 以上 次の『存否論(2)』に行く 健一MENUに 戻る (関連ファイル) 「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺 した「自国民」の推計(宮地作成) 「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガ ス使用』指令と「労農同盟」論の虚実(1) 聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革 命倫理 (宮地作成) 「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』 とレーニンの党派性 (宮地作成) レーニン「分派禁止規定」の見直し逆説・ 1921年の危機 (宮地作成) ザミャーチン『われら』と1920、21 年のレーニン (宮地作成) ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロ シア革命』食糧独裁の誤り 梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と 農民』 1918年 梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農 民』 戦時共産主義 食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タ ムボフ農民反乱を分析し、 レーニンの「労農同盟」論を否定、「 ロシア革命」の根本的再検討 中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会 解散論理、1918年 山内昌之『革命家と政治家との間−レーニ ンの死によせて』 アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検 討』 ソルジェニーツィン『収容所群島』 第2 章、わが下水道の歴史 P・アヴリッチ『クロンシュタット192 1』 クロンシュタット綱領、他 イダ・メット『クロンシュタット・コミュ ーン』 クロンシュタット綱領、他 ダンコース『奪われた権力』第1章 大藪龍介『国家と民主主義』 1921年 ネップ導入と政治の逆改革 1、「1917年〜22年のレーニンと赤色テロル 」のデータと文献 このファイルは、「自国民大量殺人型社会主義者 レーニン」を分析します。その期間は、約5年間で す。1917年12月20日秘密政治警察チェーカ ー創設から、1922年12月16日第2回発作に よる最高権力者活動の事実上の停止までです。以下 の内容は、「農民」「聖職者」「知識人」問題ファ イルとの姉妹編になります。「レーニンの粛清」シ リーズの一つですが、〔目次〕構成を変え、(表1、 2)は最後にしました。従来の「偉大な革命家」「愛 情あふれる、人間味豊かなレーニン」とは、まるで 異なる「自国民大量殺人指令者レーニン」の分析で す。よって、このテーマに関しても、ここで使用し ている主な5文献・データの信憑性が問題になりま す。本文に入る前に、それらの文献と私(宮地)の 判断をのべます。 (1)、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1、2 、3』(みすず書房、1999年新装版)。これは、 1950年執筆で、日本での初版は1967年です 。よって、ここには、ソ連崩壊後のデータは入って いません。しかし、「十月革命」から「ネップ」ま での膨大な資料を駆使した本格的研究です。3部作 で1085ページの大著です。彼は、イギリスの歴 史・政治学者であり、説明の必要がないほどの有名 なロシア革命研究者です。ウェールズ大学、オクス フォード大学で政治学を講じ、多数の著書を出版し ています。このファイルでは、『ボリシェヴィキ革 命1』の第2篇「7、独裁の強化」(P.128〜 152)におけるデータを使いました。 (2)、ジャック・ロッシ『ラーゲリ・強制収容所 注解事典』(恵雅堂出版、1996年)。彼は、16 歳で非合法のポーランド共産党に入党し、1929 年オクスフォード大学から入ソしました。コミンテ ルンは、10カ国語を操る語学の才能を見込んで、 しばしば彼を国外に派遣しました。1937年、コ ミンテルンの指令により、スペイン内乱に秘密送信 機を持って送り込まれました。しかし、スターリン 命令により、他のスペイン派遣党員と同じく、モス クワに召還され、そのまま監獄に収監されました。 スターリンは、他のほとんどを、外国スパイとして 銃殺しました。ロッシは、銃殺を免れたものの、そ の後24年間ラーゲリに収容されました。1961 年釈放・サマルカンド流刑、1964年ハンガース トライキによって、ようやくポーランド帰国を勝ち 取りました。その間、秘密裏に『グラーグ便覧』(原 著名)を執筆しました。強制収容所囚人たちと討論・ 推敲し、数千枚のカードを作り、そのうち2千枚を この『事典』に収めました。ラーゲリ・強制収容所 に関するこれほどの膨大な、かつ正確なデータ事典 は、これ以外にはないでしょう。ソルジェニーツィ ン『収容所群島』、全小説の「事典版」ともいえる 貴重な文献です。 (3)(4)、ヴォルコゴーノフ『トロツキー、 その政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1994年) 、『レーニンの秘密・上下』(NHK出版、1995 年)。このファイルでは、新たに『トロツキー』も使 いました。これは、『上下』2冊で、1052ペー ジの大著です。ここには、引用文献の「文書保管所 名、フォンドno.目録no.資料no.ファイルno.」から なる膨大な「原注」も翻訳・添付されています。ト ロツキーの第一次資料です。使用した章は、『上』 の「第3章」の一節「独裁とテロ」(P.394〜4 14)、「第4章」全体(P.441〜525)とそ の一節「テロリズムと共産主義」です。トロツキー の評価については、いろいろあります。レーニンと トロツキーとの関係だけを考えます。トロツキーは 、革命前の亡命中において、レーニンとの意見の対 立がありました。しかし、武装蜂起からレーニン第 2回発作までの5年2カ月間、トロツキーとレーニ ンとの関係で、意見の相違はあっても、路線・基本 政策上での意見の根本的対立はありませんでした。 武装蜂起の是非をめぐるレーニンとジノヴィエフ、 カーメネフとの対立、ブレスト講和条約締結の是非 をめぐるレーニンとブハーリンらとの対立のような 問題は、起きていません。よって、このファイルで 引用する「トロツキーの命令・発言」は、レーニン の意思とほぼ同一である、という観点で、私(宮地 )は使っています。 (5)、スタインベルグ『左翼社会主義革命党19 17〜1921』(鹿砦社、1972年)。彼は、エ スエル、および1917年12月に分裂・独立した 左派エスエル党の指導者です。左派エスエルは、独 立と同時にボリシェヴィキと連立政権を組みました 。人民委員はボリシェヴィキ11人と左派エスエル 7人でした。しかし、1918年3月のブレスト講 和条約で決裂し、連立は3カ月間で終りました。そ の間、彼は、左派エスエルの代表として「司法人民 委員」を務めました。左派エスエルによるドイツ大 使暗殺事件を契機に、レーニンは、左派エスエルを 「反革命」政党として、非合法化しました。スタイ ンベルグと有名な指導者マリア・スピリドーノワも 逮捕され、他の党員200人以上とともに、モスク ワのブトゥイルキ刑務所に投獄されました。その経 歴から、この著書内容は、きわめてリアルで、ボリ シェヴィキ批判の内容も具体的です。このファイル では、「第11章、ボリシェヴィキのテロル」「第 12章、ボリシェヴィキ・テロル発動す」(P.12 2〜142)のデータを使いました。 (注)、引用文献の関係で、言葉の混在があります 。(1)テロルとテロ、(2)チェーカー、チェカ、チ ェカー、(3)左派エスエル、左翼エスエル、左翼 社会主義革命党です。用語を統一せず、混在のまま にしてあります。 このファイルは、「自国民大量殺人型社会主義者 レーニン」の分析というテーマだけに、その論証方 法として、「レーニン秘密資料」、トロツキー第一 次資料、アルヒーフ(公文書)や「非常委員会(チェ ーカー)週報」、その他の原資料を何重にも積み重ね る記述スタイルにしました。それだけに全体が長く なり、印刷すると34ページになります。『6、レ ーニンが「殺した」自国民の推計(表1、2)』だけ の印刷なら、27ページから34ページまでです。 2、フランス革命の「テロル」と「十月革命」への 持ち込み 〔小目次〕 1、「テロル」の定義と3つの形態 2、レーニンが抽出した「フランス革命の教 訓」と実行 3、レーニン、トロツキーの「テロル」観 1、「テロル」の定義と3つの形態 まず、「テロル」の定義と形態を確認します。「 テロル」の定義として、「広辞苑」は、『テロル (terror)(恐怖の意)。あらゆる暴力手段に訴えて敵 対者を威嚇すること、テロ』『テロリズム (terrorism)。(1)暴力あるいはその脅威に訴える傾 向。暴力主義。テロ、(2)恐怖政治』としています 。 「テロ」の形態には、3つがあります。 第1は、「国家テロ」です。国家による国家暴力 装置=警察、秘密政治警察、検察、裁判、軍隊を使 っての反国家組織、反乱グループや敵対国家にたい する「国家テロ、反体制・反乱指導者への国家テロ 」があります。それは、「国家の敵・人民の敵と、 国家指導者が認定した階級・グループにたいする民 主主義的権利剥奪テロ」も含みます。 第2に、「反国家テロ」です。国家以外の組織・ 個人による「反国家テロ、国家指導者へのテロ、国 際的な反帝国主義国家テロ」です。 第3は、敵対する非国家グループ間や宗教団体・ 民族団体間の「組織間テロ、内ゲバ」です。 この3つの因果関係となると、錯綜していて複雑 です。「鶏と卵のどちらが先か」の問答になります 。このファイルにおける私(宮地)の立場は、「テロ 」の主因は、第1「国家テロ」である、とするもの です。ただ、「国家テロ」の抑止力は、第2「反国 家テロ」でなく、「非暴力の政治・文化・道徳活動 」の権威を高めることだと考えます。《殺すな!》 です。 これら3つの形態の具体例は、世界史上で、無数 にあります。現在でも、3つともが異常増殖してい ます。そのデータから、「人間とは、互いに殺しあ う動物である」「この水の惑星上で、60数億個体 という異常繁殖した人間社会において、殺人・テロ を根絶することは不可能である」「殺人、国家テロ 、反国家テロのグローバル化現象は、今後ますます 顕著になるであろう」という定理が導き出されるほ どです。私(宮地)は、このファイルにおいて、そ の中でも、「社会変革を目指す革命運動におけるテ ロ、テロリズム」、さらに具体的には「1917年 から1922年12月・レーニン第2回発作までの ロシア革命史におけるテロ」に限定して考察します 。 1917年「二月革命」以前のロシアにおいて、 ナロードニキ、アナキスト、エスエルが、皇帝暗殺 、政府高官暗殺という「第2・反国家テロ」を実行 しました。「十月革命」後のソ連では、「第1・国 家テロ」としての「赤色テロル」と、「第2・反ボ リシェヴィキ指導者テロ」としての「白色テロル」 が発生しました。このファイルは、「赤色テロル」 と「白色テロル」との関係、その評価と位置づけ、 およびテロルの結果の分析です。 「テロル(terror)(恐怖の意)」の名称は、フラン ス革命期のジャコバン派の恐怖政治(terrorism)に由 来するものです。それは、反対派・個人にたいする 「第1・国家テロ」でした。その「国家テロ特別組 織」が、ジャコバン派の「公安委員会」「治安委員 会」という秘密政治警察でした。マルクスは、フラ ンス革命の研究において、その秘密政治警察機構に ついて、あまり言及していません。エンゲルスは、 「公安委員会」のテロ機能をかなり高く評価しまし た。レーニンは、亡命地スイスで、『フランスの内 乱』やフランス革命史を繰り返し研究したことが知 られています。 2、レーニンが抽出した「フランス革命の教訓」 と実行 そこでのレーニンの研究視点は、ユニークな側面 を持っていました。いろいろありますが、ここでは 、このファイル・テーマとの関連で、2点だけのべ ます。 第1点は、「蜂起の技術」です。 ソ連崩壊後に明らかになった「レーニン秘密資料 」において、レーニンは、極秘の手紙で、(1)蜂起 のための司令部の設置、(2)軍隊の配備、(3)臨 時政府閣僚の逮捕、(4)カフカスの「野蛮軍団」 の制圧などを指示しています。これらは、1871 年のパリ・コミューンにおいて、陰謀を図るような やり方で、蜂起を組織したブランキストの戦術に類 似しています。 第2点は、「蜂起による権力奪取成功後の少数派 権力維持機構」です。 レーニンは、マルクスの「パリ・コミューンの機 構分析」という視点だけでなく、フランス革命が「 なぜ敗北したのか」という原因を探求しました。そ の結論の一つが、「ジャコバン公安委員会」「治安 委員会」のような秘密政治警察機構とその強化、暴 力行使なしには、少数派の暴力革命政権を維持でき ないとするものでした。「公安委員会」は、9人で 構成され、ロベスピエールは、1793年7月に公 安委員会に入りました。それ以後、その機関は、革 命政治の軸になりました。公安委員会は、戦争指導 だけでなく、行政権を握り、警察権を治安委員会に ゆだねる以外は、行政権限を一手に収めました。 レーニンは、「十月革命」において、「フランス 革命の教訓」を厳密に実行しました。1917年1 1月7日、ジノヴィエフ、カーメネフの反対を押切 って、ペトログラード・ソヴェト議長トロツキーと ともに「蜂起の技術」者としての、指揮をとりまし た。翌8日、ブルジョア政党カデット機関紙『レー チ』とブルジョア新聞閉鎖措置により、瞬時にブル ジョアジーから「言論・出版の自由権」を剥奪しま した。この措置にたいして、左派エスエルをはじめ 全他党派が強烈に反対しました。レーニンは、ブル ジョアジー弾圧、その権利剥奪こそ「プロレタリア 独裁=プロレタリア民主主義」であるとして、強行 しました。これは、レーニンによる最初の「第1・ 国家テロ」でした。 武装蜂起政権は、同じく翌8日、直ちに内務人民 委員部(NKVD)を創設しました。それだけでなく 、レーニンは、12月20日、「ジャコバン独裁の 公安委員会」「治安委員会」を見習った「秘密政治 警察チェーカー」を創立しました。これは、「社会 主義政権が保有した世界初の国家テロ・オルガン(機 関)」でした。チェーカーの機構、活動については、 下記でのべます。 3、レーニン、トロツキーの「テロル」観 レーニンの「テロル」観は、「ジャコバン派公安 委員会」「治安委員会」の思想、形態を「十月革命 」に導入し、発展させたものです。このデータを、 主に、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1』から 引用します。『しかしながら、勝利した革命を守る ため結局は採用された弾圧方策は、ボリシェヴィキ の指導者たちにとっては、彼らの日頃の信念にそむ いて不本意ながら余儀なくされたものであるとの説 をなすならば、それはまた別種の誤りを冒すことに なろう。テロの原理は革命の伝統のうちに深く蔵さ れている。』(P.130) ロベスピエール 『ロベスピエールは、レーニン もそれに共鳴したであろうような言葉でもって、通 常の法律手続きは、革命を守るためには不十分であ るとして退けた。「ほかならぬ法律の無力というそ のことによって生ずる危機の時代に、公けの安全の ために必要とされる有益な予防手段を判断しなけれ ばならない者が、刑法典を手にしていることでよい であろうか」。また言う。「平時の人民政府の特性 が徳であるならば、革命時の人民政府の特性は同時 に徳とテロの両者である。徳なきテロは破滅であり 、テロなき徳は無力である。テロとは正義、敏速、 峻厳、不屈の謂に外ならず、かくてそれは徳の発露 である。」』(P.130) 『恐怖政治は革命的テロリズムである。九三年十 月〜九四年五月の間、革命裁判所の処刑は一万件に 達した。それまでにマリー=アントアネットは処刑 されていた。九四年九月に至る一年間一万六千件の うち、西部ヴァンデー・ローヌ渓谷七四%、パリ一 六%で、叛乱罪が七八%をしめていた。九四年六月 、民衆の敵に対しては弁護手段をうばい、死刑のみ をもって応じるというプレリアル法が発布された。 テロリズムに裏づけられたモンタニャールの強力支 配は、小ブルジョアジーの近代的生産力解放の革命 を反革命から防衛する段階にほかならず、単なる逸 脱エピソードではない。』(『フランス史・第5章』 、井上幸治、山川出版、P.180) 『ヴアントーズ二三日(一七九四年三月一三日) 、公安委員会は、これに対してサン=ジュストを立 て、外国の手先となる諸党派に対する提案を行なわ せ、「陰謀者、革命の敵に対する新手段を規定する 法令」を通過させた。これがヴアントーズ三法のう ち最後のものであった。(1)公会の諸権能を奪うも のは死刑……(2)政府に・抵抗するものは死刑… …(3)食糧危機を助長するものは革命の敵……』( 『ロベスピエールとフランス革命』、井上幸治、誠 文堂新光社、1981年、P.203) 『それでは、革命テロルの処刑者数はどのくらい であろうか。ドナルド・ダリアは、統計的方法をも って、この実数を測定し、いままでではもっとも精 密な数字を出している。それまで反革命容疑者とし てとらえられたものは、全国で一〇〜三〇万名ぐら いといわれ、処刑者数は三・五〜四万名ぐらいに評 価されていた。ダリアは革命裁判所処刑者実数を一 六、五九四名とし、パリ革命裁判所はこの一六パー セントを処刑したという。時期的に見ると、一六、 五九四名は、九三年三〜九月、五一八名、一一月〜 九四年五月、一〇、八一五名、六〜七月、これが大 恐怖政治と呼ばれる時期であるが、二、五五四名、 八月、八六名と分かれている。』(『ロベスピエール とフランス革命』、P.236) マルクス 『一八四八年の秋にマルクスは、「反 革命の残忍な行為」の後には、旧い社会の血の断末 魔と新しい社会の血の陣痛とを短縮し、簡単にし、 局部的にするには唯一の方法――「革命的テロ」が あるだけであると宣言した。そしてその後、彼はハ ンガリーを「反革命の卑劣な暴威に対するに革命的 情熱をもって、白色テロに対するに赤色テロをもっ て」勇敢に立ち向った一七九三年以来最初の国家で あると称讃した。ブルジョア社会は、「今でこそ殆 んど英雄的には見えないにせよ」、当時は「自らこ の世に生れ出るために英雄心、自己犠牲、テロ、内 乱、血なまぐさい戦場を必要とした」のであった。 』(『ボリシェヴィキ革命1』、P.131) 『白色テロに対するに赤色テロ』という用語を“ 発明”し、称賛したのは、マルクスです。彼は、『 赤色テロル』思想開発の先駆者です。ボリシェヴィ キは、1918年9月から、マルクスの“偉大な示 唆”を掘り起こして、『赤色テロル』政令を発令し 、言葉だけでなく、実際に殺人テロを大展開しまし た。 エンゲルス 『カウツキーの「恐怖政治と共産主 義。革命の自然史への一寄与」(一九一九年)はボ リシェヴィキのテロに対する痛烈な攻撃であった。 カウツキーは後期のエンゲルスからいくつかの章句 を引用したが、しかしエンゲルスが「プロレタリア ートが山岳党の支配のもとに政権を握っていたフラ ンス革命の短い期間に、彼らは、ブドウ弾やギロチ ンを含む利用しうるあらゆる手段を用いて、その政 策を実行した」(『カール・マルクス=フリードリ ッヒ・エンゲルス、歴史的批判的全集』第一部、第 六巻、三四八頁)と得心をもってのべている初期の 章句を見落している。』(P.131) レーニン 『レーニンは一九二〇年にフランスの 共産主義者フロッサールに、「フランス人にはロシ ア革命において否認すべきものは何もない、という のはロシア革命はその方法その手順においてフラン ス革命を再開するものだからである。」といってい る〔『ユマニテ』(一九二○年九月十日)〕(P. 130)。 『レーニンは、すべてのマルクス主義者と同様に 孤立的なテロリストの行為は無益なものと非難した けれども、ジャコバンおよびマルクス派の革命理論 に立って、原則的にテロを受入れた。「原則として( 一九〇一年に彼は書いている)、われわれは決してテ ロを放棄しなかったし、また放棄することはできな い。テロは、軍隊の一定の局面および一定の状況の もとでの戦闘のある瞬間においては、完全に有利な 必須でさえある一つの軍事行動である。」』(P.13 2) 『十月革命の二カ月前、レーニンは「いかなる種 類の革命政府も搾取階級(すなわち地主と資本家) に対して用いられるものとしての死刑をなしですま すことは殆んど不可能であった」ことを部下たちに 警告し、さらに「百二十五年前フランスのブルジョ ア大革命家たちが彼らの革命を偉大ならしめたのは テロによってであった」ことを彼らに想起させた。 』(レーニン「全集」第四巻、一〇八頁) (P.132) 『(1921年3月、クロンシュタット反乱鎮圧開 始時点)トゥハチェフスキーは最後の攻撃を準備して いた。レーニンはこのような暗黒の時にあたって、 「これはテルミドールだ。しかしわれわれはギロチ ンにかけられたりはしないだろう。われわれはわれ われ自身の手でテルミドールを成就するのだ」とわ たしの友人の一人に話したのだった。』(V・セルジ ュ『一革命家の回想・上』、現代思潮社、1970年、 P.180) トロツキー 『「われわれはみがかれた床の上を 白手袋をはめて社会主義王国に入って行くのではな い。」と彼は全ロシア農民代表者大会で述べた。ま た、立憲民主党(カデット)を非合法化するに際して は、次のようなもう一つの警告を発した。「フラン ス革命の際には、立憲民主党員よりもっと正直な人 々が、人民に反対したために、ジャコバンによって ギロチンにかけられた。われわれはまだ誰をも処刑 したことはないし、またしようとも思わないが、し かし人民の憤激が統御し難くなる瞬間はある。」』 (『ボリシェヴィキ革命1』、P.133)。 『新体制が行った捜索および逮捕に関して全ロシ ア中央執行委員会で難詰されたのに対し、トロッキ ーは「内乱のさいに一切の弾圧の放棄を求めること は、内乱の放棄を求めることである」とやりかえし た。立憲民主党(カデット)弾圧の後で、彼はさらに 一層不吉な言葉を附け加えた。「諸君は、われわれ が階級の敵に対して行っている控えめなテロに反対 している。けれども、諸君は今から一ヵ月もたたな いうちに、テロは、フランス大革命家たちの例にな らって極めて暴力的な形となるであろうことを知ら ねばならない。われわれの敵に対しては牢獄のみな らず、ギロチンが用意されるであろう」』(P.1 33)。 フランス革命の「テロル」を「十月革命」に持ち 込むことにたいして、当時も強烈な批判がありまし た。 ローザ・ルクセンブルク 『一九一八年十二月に ローザ・ルクセンブルクが起草したドイツ共産党の 綱領は特にテロを否認していた。「ブルジョア革命 においては、殺戮・テロ・政治的暗殺は勃興階級の 不可欠な武器であった。プロレタリア革命はその目 的のためにテロを必要とせず、殺害を憎悪するもの である。」(『ドイツ共産党(スパルタクスブント)創 立党大会報告』、1919年)(P.131)。 メンシェビキ 『メンシェビキは、一部はプロレ タリア革命の直接の実行可能性を信じないことのた めに、また一部は西欧の社会民主主義者と密接な連 繋をもっていたことのために、おそらくボリシェヴ ィキよりはテロを用いる傾向が少なかったであろう 。一九一八年後に、ボリシェヴィキがはじめてこの 武器を他の社会主義政党に対して用い始めたとき、 メンシェビキは西欧の社会民主主義政党と伍して、 それに対する最も激烈な容赦なき批判者に加わって いた。』(『ボリシェヴィキ革命1』、P.131 )。 1914年、第一次世界大戦前後で、世界の社会 主義運動は、第2インター・社会民主主義政党系と 第3インター・コミンテルン型共産党系の2潮流に 大分裂しました。1917年ロシア革命以後は、コ ミンテルン系が世界の主流となりました。しかし、 1989年東欧革命と1991年のソ連崩壊によっ て、14の一党独裁国とその前衛党のうち、10カ 国とその前衛党が一挙に崩壊しました。10カ国の 前衛党は、すべて第2インター・社会民主主義政党 系に戻りました。資本主義国前衛党においても、一 定の政治的影響力を持ち、かつレーニン主義諸原則 をなお保持しているコミンテルン型政党としては、 世界で日本共産党とポルトガル共産党の2党が残存 しているだけとなりました。これは、20世紀社会 主義運動を見ると、レーニン型社会主義運動の方が 、「短い20世紀」における“分裂組織”であって 、“誤った、かつ敗北した社会主義路線”であった ことを、歴史的現実として証明したことになります 。 そこで、その大分裂の原因をいま一度見直す必要 が生じます。コミンテルン系が世界の主流の時期に は、帝国主義戦争反対・世界革命戦争に転化・自国 の戦争予算反対という路線か、それとも、各国の戦 争予算賛成の路線か、という選択肢で分裂したとさ れました。議会主義の是非もありました。それらは 、歴史の事実です。しかし、隠蔽されてきた、もう 一つの中心テーマがありました。それは、「赤色テ ロル」是認型社会主義か、それとも「テロル」絶対 否認型社会主義か、というテーマです。“革命とい う目的のためには、革命権力最高指導者レーニンが 「人民の敵」「反革命」と認定した自国民を数十万 人も殺すことが許される。それを認めるのかどうか ”というテーマです。このファイルは、このテーマ を探求するのが基本です。 3、ロシア的伝統を受け継いだテロリズム 政治闘争の手段として、皇帝・政府高官個人を暗 殺する「反国家テロ」を系統的に実施したのは、ロ シアの革命運動の伝統です。それを行ったのは、ナ ロードニキ、アナキストでした。1901年結成の エスエルも、「反国家テロ」を闘争手段の柱の一つ にしました。エスエルは、テロを実行する「戦闘団 」という「特別組織」を作りました。 1979年以降の主な「反国家テロ」を挙げます 。 1979年4月2日、ナロードニキは、アレクサ ンドル2世への狙撃を行いました。これを契機に、 ナロードニキから「人民の意志」派が成立し、皇帝 列車、宮殿の爆破を実行しました。 1881年3月1日、ナロードニキの一つ「人民 の意志」派が、皇帝アレクサンドル2世を、ペテル ブルグのエカチェリニンスキー運河岸で爆殺しまし た。 ペテルブルグのエカチェリニンスキー運河岸におけ る皇帝爆殺 これは、『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の 探求』 に載せた3DCG6枚のうち、文末にあるものです 。 1887年5月20日、レーニンが17歳のとき 、学生たちが、アレクサンドル3世暗殺未遂事件を 起しました。レーニンの兄アレクサンドルらグルー プ全員が逮捕され、兄を含め5人が絞首刑になりま した。 1904年7月15日、エスエルが、ヴェチェス ラフ・プレーヴェ内務相を、ペテルブルグの路上で 爆弾を投げ、暗殺しました。これは「特別組織」の 「戦闘団」メンバーのエゴール・サゾーノフが実行 したものです。プレーヴェ内務相は、ツアーリの政 治警察『第3課(第3部)』を使って、ロシア全土に おける解放運動を根こそぎ的に弾圧した中心人物で した。 1905年2月4日、エスエル党員イワン・カリ ャーエフが、ツアーリ一族のセルゲイ大公を、モス クワで、馬車に爆弾を投げ、暗殺しました。セルゲ イ大公は、モスクワの小専制主として反動的政策を 強行していました。 1906年1月16日、エスエル党員マリア・ス ピリドーノワが、タンボフ県での農民運動を弾圧し ていたルジェノフスキー将軍を、ボリソグレーブス ク駅で拳銃で暗殺しました。彼女は、その時21歳 でした。彼女は、「二月革命」で解放され、「十月 革命」では、エスエル、左派エスエル指導者として ボリシェヴィキと共闘しました。ブレスト講和条約 に反対して、連立政権離脱後、「反革命」として、 スタインベルグらと同じく、ボリシェヴィキに逮捕 ・投獄されました。 これら以外にも、各党派やアナキストがいくつか の「反国家テロ」の暗殺をしています。 レーニンにとって、兄アレクサンドルの皇帝暗殺 計画加担と絞首刑は衝撃でした。「レーニン神話」 では、兄処刑の報が届いたとき、当時17歳のレー ニンが、9歳の妹マリアに『いや、われわれはああ いう道には進まない。あれは間違った道だ』と言っ たことになっています。そのエピソードによって、 レーニンが「個人的な反国家テロ」だけでなく、「 テロル」そのものをもきっぱりと否定し、革命家意 識を持ったことが証明できるとしています。しかし 、そのエピソードは、妹マリアが数十年も経ってか ら、初めて話したということです。そこには「神話 」特有のねつ造の可能性があります。 レーニンは、たしかに、陰謀型秘密結社・個人に よる「反国家テロ・暗殺」を支持、指令したことが ありません。しかし、彼は、「テロル」そのものを 否定したこともありません。むしろ、上記のように 、テロル、暴力肯定を基本思想にまで高めました。 そして、現実に、革命政権最高権力者となってから 、彼は、いち早く、1917年12月に「国家テロ 」オルガン(機関)としてのチェーカーを創設し、ボ リシェヴィキ党員・資金を豊富に注ぎ込み、大々的 な「国家テロル」を指令し、下記(表)や他ファイルの データのように、レーニン・ボリシェヴィキ批判者 、異論者、「反乱」者・政党を数十万人も殺害した のです。 ジャコバン派の「公安委員会」「治安委員会」、 エスエルの「戦闘団」、ボリシェヴィキの「チェー カー」は、条件、実態、性質の違いがあります。し かし、それぞれの革命党派が作った「テロル実行の 特別機関」という面で共通性を持っています。 チェーカーは、これらフランス革命とロシア的テ ロリズムという2つの伝統を受け継ぎつつ、その旧 形態をとどめないほどの大変身・発展をとげました 。 レーニンは、権力奪取と同時にチェーカーを創出 し、それを20世紀社会主義一党独裁体制の本質的 な国家暴力装置の一つとしました。レーニンが“製 造”したチェーカーは、GPU(OGPU)、KGB と変身、変質を続けました。それらは、ついには、 国家の根幹機構を内部から食い尽くし、秘密政治警 察国家という巨大な怪物(リヴァイアサン)自身とな りました。 4、「赤色テロル」オルガンとしてのチェーカー 〔小目次〕 1、「下水道」創設者レーニンとそのオルガ ン 2、チェーカー創設とその組織、チェキスト 3、チェーカーの活動と発展 4、『人民の敵』レッテルと銃殺のやり方 5、強制収容所・ラーゲリの創設経過 6、チェーカーへの批判意見とその抑圧手口 1、「下水道」創設者レーニンとそのオルガン 「下水道」という言葉は、ソルジェニーツィンが 使いました。「オルガン」は、チェーカー自身が自 ら使っていました。『収容所群島』「第2章、わが 下水道の歴史」の冒頭を引用します。 『周知のように、どんな器官(オルガン)も活動し ていなければ衰えるものである。それゆえ、生きと し生けるものの上に君臨し、歌にもたたえられた機 関(オルガン)(連中は自分自身を呼ぶのにこの胸く そ悪い言葉を使った)が、触手一本失うどころか逆 にどんどんふやし、筋肉組織を強めていったことを 私たらが知っているならば、機関が絶え間なく活動 していたことは容易に推察できるわけである。 下水管には脈動があった。水圧は予定したものよ り時には高く時には低かったが、しかし牢獄の下水 道が空っぽだったためしは一度としてなかった。私 たちの体から搾りとられた血と汗と尿が絶え間なく 管を叩いていた。この下水道の歴史は呑み込んでは 流すという過程の絶え間ない繰り返しの歴史である 。ただ満水の状態が渇水の状態にかわったり、また 再び満水の状態に戻ったりということはあったが、 とにかく大小さまざまの流れが集まり、さらに四方 八方から、河、小川、どぶ川、さらに囚人の一滴一 滴が流れ集まってきたのであった。』(P.38) 「オルガン」創設と「赤色テロル」強化・拡大路線 におけるレーニンの強固な立場を、スタインベルグ が『左翼社会主義革命党』(鹿砦社、P.132)で証 言しています。彼とトロツキーとレーニンの発言で す。彼は、左派エスエルとして連立政権(3カ月間で 崩壊)に参加し、その人民委員でした。以下の内容は 、トロツキーも証言しています。 『1918年2月21日の政府宣言「社会主義祖 国は危機に瀕している!」の起草者はトロツキーで あった。彼は、ロシア人民のヒロイズムに訴えかけ るこの文書に、政府の命令に反対する者すべては「 即座に処断される」という脅しを盛り込むよう提案 した。人民委員たちがこの文案を検討した際、私は 、この残酷な脅しは宣言全体のパトスを殺してしま うとして反対した。レーニンは嘲り(あざけり)をも って答えた、「それどころか、ここにこそ真の革命 的パトスがあるのだ。君は、我々が残酷そのもので ある革命的テロルなしに勝利できるなどと本気で信 じているのか?」 この点については、レーニンと議論することさえ 困難なことであり、我々はすぐに行詰ってしまった 。我々は、広範囲のテロル能力をもつ厳格な警察的 手段について議論していた。私が革命的正義の名に おいてそれに反対したことがレーニンを立腹させた 。そこで私も憤慨して叫んだ、「それでは何故わざ わざ司法人民委員部などという名称にかかずらうの だ。いっそのこと直截(ちょくさい)に、社会敵撲滅 人民委員部と改称し、そこにまかせれはいいじゃな いか!」。レーニンは突然顔を輝かして答えた、「 そう……まさにそうすべきなのだが……でもそう呼 ぶ訳にもいくまい」』 2、チェーカー創設とその組織、チェキスト チェーカーとは、十月革命後の1917年12月 20日に設立された(反革命・サボタージュ取締り全 ロシア非常委員会)のことです。それは、最初のソビ エト政治警察で、1923年にGPUになり、19 54年からKGBになりました。のち投機の取締り が加えられるなど、名称には異同があります。革命 直後の反革命派の動きや革命に反対する公務員のサ ボタージュを取り締まり、革命法廷へ引き渡すこと などを任務とし、人民委員会議(内閣)に直属する 機関として発足しました。議長はジェルジンスキー で、委員会メンバーは8人です。中央機関の設立に 引き続き、18年には地方、運輸部門、軍隊内など にもチェーカーが創設されました。当初この委員会 は直接懲罰行動はとらず調査活動を主とするものと されましたが、内戦と干渉戦争が本格化する中で、 裁判所の決定なしに逮捕・投獄・処刑などを行いう るようになりました。 この設立決定の内容は、一度も公表されませんで した。ただ、メンバーの一人ラツィスが、1922 年2月10日「イズベスチヤ紙」で引用し、判明し ました。その内容は、ジャック・ロッシ『ラーゲリ ・強制収容所注解事典』(P.41)にあります。 『同委員会を反革命運動・怠業取締人民委員会議 付属全露非常委員会と命名し、ここにそれを承認す る。委員会の任務は: 1)、誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反 革命運動と怠業の企てと行動を監視し、これを撲滅 すること。 2)、全ての怠業者と反革命分子を革命裁判にかけ、 またその撲滅対策を作成すること。 3)、委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみ を行う。委員会は以下の三部に分かれる:1)情報部 ,2)組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織 のため)と支局部、3)取締部。委員会は明日正式に 発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が 活動する。委員会は印刷物、怠業(サボタージュ) その他、右翼エスエル、怠業者(サボタージュ参加 者)、ストライキ参加者に注意する。必要措置とし て、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、 人民の敵のリスト公表などが講じられる。 全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民 委員会議により任命される。』 人民委員会議は、議長にジェルジンスキーを任命 しました。『人民の敵』というレッテルは、スター リンからではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半 後から、正式に使い始めたのです。 チェーカー創設について、ニコラ・ヴェルトが『 共産主義黒書』第2章(P.65)でさらに詳細にのべ ています。長くなりますが、そのまま引用します。 『このような散発的な混乱に加えて、ボリシェヴ ィキ政府は十月二十五日(十一月七日)のクーデタ ーの翌日から続いていた官吏の事実上のストライキ が拡大することを恐れた。十二月七日(二十日)に 「反革命、投機およびサボタージュと闘う全ロシア 非常委員会」というその後の歴史においてヴェーチ ェーカーあるいは略してチェーカーと呼ばれるよう になる委員会がつくられたのは、まさにこの恐怖か らであった。 チェーカー創設の数日前に、政府はためらいがち にではあったが、軍事革命委員会の解体を決めた。 蜂起の前夜、現場での作戦を指導するためにつくら れた臨時作戦機構としてのこの委員会は、自らに委 ねられた使命を果たしていた。これは新しい体制が 自分自身の国家装置をつくるまで権力を獲得し、自 衛することを可能ならしめた。それ以後この委員会 は、諸権力が混乱をきたしたり、その権限が重なる のを防ぐために、人民委員会議という合法的政府に 自らの特権を委譲しなければならなかった。 しかしボリシェヴィキ指導部にとって危機的とみ なされる時期に、「プロレタリア独裁の武装せる腕 」なしですますことがどうしてできようか? 十二 月六日の閣議で政府は「同志ジェルジンスキーが革 命的全精力を注入して官吏のゼネストと闘う手段を 検討し、サボタージュを止めさせる方法を決定する べく、特別委員会を創設する」ことを彼に委ねた。 同志ジェルジンスキーの選択はいかなる討論も呼び 起こすことなく、当然のことと受け取られた。それ より数日前、いつもフランス大革命と一九一七年の ロシア革命の歴史的比較がお好みだったレーニンは 、自分の秘書のボンチ=ブルエーヴィッチに「反革 命のくずどもを抑圧するフーキエ‐タンヴィル〔フ ランスの革命裁判所の検察官〕」を急ぎ見いだす必 要性を告げていた。十二月二日、レーニンのもうひ とつの決まり文句を繰り返すなら「断固たるプロレ タリア的ジャコバン」を誰にするかの選択は、一致 してフェリクス・ジェルジンスキーに決まった。彼 は軍事革命委員会における大活躍によって、数週間 のうちに治安問題の大スペシャリストになっていた 。たしかにレーニンはボンチ=ブルエーヴィッチに こう説明している。「我々の仲間ではフェリクスが いちばん長くツァーリの牢獄で過ごしたから、いち ばんオフラナ(帝政時代の秘密警察)と関係が深か ったわけだ。やつは自分の仕事を知っている!」 十二月七日(二十日)の政府の会議の前に、レーニ ンはジェルジンスキーに以下のようなメモを送った 。 「本日の君の報告に関していうなら、次のような 類いの前文をもった政令を作成することができない だろうか。ブルジョワジーは暴動を起こさんとして 社会のあらゆるくずをかき集めて、このうえなくお ぞましい犯罪を準備している。ブルジョワジーの共 犯者、とりわけ高級官僚、銀行の幹部などは、社会 主義に向けて変革しようとしている政府の施策を内 部から破壊するために妨害活動を行い、ストライキ を組織している。ブルジョワジーはたじろぐことな く調達の妨害活動を行なっている。かくて何百万も の人が飢えにさらされているのだ。サボタージュと 反革命と闘うためには、例外的な手段がとられなけ ればならない。それゆえに人民委員会議は以下のよ うに布告する……」 十二月七日(二十日)、ジェルジンスキーは人民 委員会議にその草案を提出した。彼は「国内の戦線 」で革命を危うくせんとしている危険についての説 明から発言を始めた。 「我々はこの最も危険で、最も厳しい前線へ、革 命を確保するため犠牲を厭わず、断固とした、堅い 意志の、たじろぐことなく、迷いなき同志を送るべ きである。同志諸君、どうかわたしが革命的正義の 形態を捜しているとは思わないでもらいたい。『正 義』を行なうことなど、我々には用がないのである ! 我々は戦争をしているのだ。最も激しい前線に いるのだ。覆面をつけた敵が進んできているのだ。 これは生きるか死ぬかの戦いなのだ! わたしは提 案する。真にボリシェヴィキ的なやり方で、革命的 方法で、反革命分子を片付ける機関を創設すること を要求する!」 ついでジェルジンスキーはその発言の核心部に入 るが、それがどんなものだったか会議の議事録から 書き写してみよう。 「本委員会は以下の使命を果たす。 (一)いかなる階層であれ、ロシアの全領域内に おいて反革命とサボタージュを企て、実行する者は すべてこれを抹殺し、処分する。 (二)サボタージュおよび反革命を行なう者は、 すべてこれを革命裁判所に移送する。 (三)本委員会は自らの使命を果たすために予審 証人尋問が必要な時にかぎり、これを行なう。 本委員会は以下の部門に分かれる。 (一) 情報部 (二) 組織部 (三) 作戦部 本委員会は新聞・雑誌、サボタージュ、立憲 民主党員、右派社会革命党員、破壊工作者およびス トライキ参加者に対しとくに注意を払う。 本委員会に属する抑圧的措置は以下のごとくで ある。財産没収、住居からの強制退去、配給券の取 り上げ、人民の敵のリストの公表等。 決議 本案を承認する。本委員会を、反革命、 投機およびサボタージュと闘う全ロシア非常委員会 と称する。公布」』 「チェキスト」とは、チェーカー要員のことです 。 1919年5月15日、労農国防会議の決定によ り、チェキストには最上級の配給食糧である赤軍軍 人配給食が割り当てられるようになりました。それ 以後、国家保安機関職員の特典は絶えず増大し、1 930年代にはもはや軍人の特典を上回りました。 異例の特典とほとんど無制限の権限は、国家保安機 関に札つきの無頼漢を引きつけていきます。ジェル ジンスキーは『聖人または卑劣漢だけが国家保安機 関で働くことができる。しかし聖人は私を見捨て、 卑劣漢だけが残っている』と言っています(lsaak Deutscher,The Prophet Unarmed, Oxford, 1959, p.109) チェキストは、横柄、虚飾、残酷、無慈悲なエゴ イズムなどの悪しき傾向を助長し、彼らは次第に特 殊な階級(カースト)になっていきました。レーニン の特別の関心を引いたのは、この「特殊なカースト 」でした。彼にしてみればチェーカーには、ある特 質=忠誠心がなければならなかったのです。彼にた いし、党にたいし、革命にたいしての忠誠です。 ヴォルコゴーノフは『レーニンの秘密・上』(P.3 86)で次の「レーニン秘密資料」を挙げています。 『ガネッキーはレーニンに、チェーカーと党との間 の団結をいっそう強めなくてはならないと進言した 。彼はこう書いている。「党組織とチェーカーとの 間にできるだけ緊密な絆を確立することが重要です ……責任ある地位にある党員はみな、自分がえた情 報は私的あるいは公的ルートのいかんを問わず、す べてをチェーカーに報告させる必要があります。反 革命派と闘うにはそれが役に立つと思われます」。 レーニンはこれに答えて、ガネッキーにこの問題を ジェルジンスキーと話し合ったかどうかを尋ね、彼 に電話をするように命じた。レーニンのチェーカー にたいする思いは、「よきコミュニストはよきチェ キストでもある」という有名な言葉によく表われて いる。 レーニン主義テロル集団のやり方は、人質をとる 、国外追放にする、市民権を剥奪する、つまらない 理由で処刑する、罠にかけるなどさまざまだった』 。 3、チェーカーの活動と発展 1918年2月22日、チェーカーの命令と当時 の規模 E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命1』(P .135)で次の資料を載せています。 『「社会主義の祖国危機に瀕す」と叫んだ一九一八 年二月二十二日の有名な宣言につづいて、チェカか ら全地方ソヴェトに対して、敵の密偵、反革命煽動 家、投機者のすべてを「探し出し、逮捕し、即座に 射殺せよ」との命令が発せられた(「プラウダ一九一 八年二月二十三日号」)。当時チェカ本部の職員の総 員は百二十名を超えていなかった。一九二○年にチ ェカの副委員長がイギリス労働代表派遣団に語った ところによれば、チェカは当時、「全国で四千五百 人の労働者からなるスタッフを持ち、これらのスタ ッフは政府に有事ないかなる行為についても委員会 に知らせることを義務と心得ている全党員によって 助けられていた。」(一九二○年イギリス労働代表 ロシア派遣団、報告書(一九二〇年、五五頁))』 。 1918年4月11日、チェーカーの最初の計画 的活動 これも、『ボリシェヴィキ革命1』(P.136 )の資料です。 『チェカの最初の計画的活動は無政府主義者に対 して行われた。一九一八年四月十一日から十二日に かけての夜に、モスクワの有名な無政府主義者の集 会所がチェカ員とソヴェト軍とによって包囲され、 所持する武器の引渡しを要求された。反抗が数箇所 で起ったが、実力で粉砕された。約六百人が逮捕さ れたが、その四分の一は直ちに釈放された。逆らう 者は無政府主義者としてではなく、「犯罪分子」と しての極印を押された』。 1918年7月29日、集団テロ決議とチェーカ ーの役割 『ボリシェヴィキ革命1』(P.140)は、2 つの資料を載せています。 『一九一八年七月二十九日、レーニンおよびトロ ツキーの演説のあとで、全ロシア中央執行委員会が 採択した決議案には次のように述べられている。「 ソヴェト権力は、ブルジョアジーを監督下におき、 彼らに対しで集団テロを行うことによって、自らの 背後を保証しなければならない」(「第四次全ロシア 中央執行委員会会議議事録(一九二〇年、八三頁) 』。 この時、ジェルジンスキーは記者会見で次のよう に言った。「チェカは裁判所ではない。チェカは赤 軍と同様に、革命のとりでである。内乱のさい赤軍 が、特定の個人を殺害してよいかどうかを立ちどま って考えているわけにはいかず、唯一つのことだけ を、すなわちブルジョアジーに対する革命の勝利だ けを考えなければならないのと同様に、チェカも、 たまたまその剣が罪のない者の頭上におちようとも 、革命を防衛し、敵を征服しなければならないので ある」(E・ラデック「肖像とパンフレット」一九三 三年、第一巻.五〇頁に引用されているもの)』。 1918年11月7日、チェーカー勤務者集会で のレーニン演説 ヴォルコゴーノフは、『トロツキー・上』(P. 400)で、レーニン演説を載せています。 『レーニンは一九一八年十一月七日、全ロシア非 常委員会(チェーカー)勤務者の演奏集会で演説し、 こう表明した。「人びとがわれわれを冷酷だといっ て非難するとき、われわれは、彼らがごく初歩のマ ルクス主義を忘れているのを不思議に思う」。レー ニンはこう続けている。「われわれにとって重要な ことは、チェー・カーこそが直接に(強調は著者) プロレタリアートの独裁を実現していることであり 、そしてこの点で彼らの役割は計り知れないほど大 きい。暴力で搾取者を押さえつける以外に、大衆を 解放する道はない」』(「レーニン全集」第28巻、 「全ロシア非常委員会勤務者の演奏会での演説」)。 1921年11月24日、レーニンのチェーカー への財政支出命令と演説 ヴォルコゴーノフは、『レーニンの秘密・上』( P.387)で次の「レーニン秘密資料」を書いて います。これは、500万人の飢饉死亡者が出てい る時期でした。 『国中が経済的困窮に苦しんでいたにもかかわら ず、レーニンはチェーカーへの財政援助を拒否した こことはないという証拠資料がたくさんある。ひと つだけその例を引き合いに出すと、一九二一年十一 月、労働・国防会議議長としてのレーニンは、臨時 費としてチェーカーに七九万二〇〇〇ルーブリの追 加予算支出をする命令書に署名した。政治局は十一 月二十四日この決定を承認した。 レーニンはチェーカーから目を離さなかった。こ の組織は自分が生み出した体制に大きな貢献をして いるもののひとつだと彼は考えていた。一九二二年 の第九回ソヴィエト大会で、「このような組織がな ければ労働者政権は存続することができない」と彼 はいっている』。 4、『人民の敵』レッテルと銃殺のやり方 『人民の敵』というレッテル このレッテルは、ジャコバン党が初めて使いまし た。レーニンは、1917年12月20日に設立さ れた「反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委 員会」(チェーカー)の設立決定(3)において、『人 民の敵のリスト公表などが講じられる』としました 。『人民の敵』というレッテルは、スターリンから ではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半後から、 正式に使い始めたのです。 ジャック・ロッシは『ラーゲリ事典』(P.86) で、レーニンの1917年からの使用を明記しつつ 、このレッテルの使用経過をのべています。 『1918年《食糧国家調達》に関する全露中央 執行委員会布告は,強情な農民を《人民の敵と宣言 して…刑期10年以上の監獄刑が宣告されるよう》 提議している(ロシア連邦共和国法律集35:468第3 条)。1922年に制定された刑法典およびそれに 続く法典には《人民の敵》という用語は引用されず 使用されなくなったが,1927年にスターリンは これを復活させ,トロツキーに対し,また本物又は でっち上げのすべてのトロツキストたちおよび自己 の独裁の敵に対して適用した。エジョフ大量逮捕時 代に、遂に《人民の敵》は公式的な法律用語となっ た』。 革命裁判 これを、E・H・カーが書いています。ただ、以 下は、『ラーゲリ事典』(P.29)のものです。 『《反革命勢力に対する闘争,また戦場での掠奪 行為,略奪,サボタージュその他と商人,製造業者 ,官吏その他による越権との闘争のための》労農革 命裁判は,裁判に関する訓令No.1(ロシア連邦共 和国法律集45:50)に基づき1917年11月24 日制定された。革命裁判に関する規定には,裁判官 は《無制限の抑圧権》を持ち,革命裁判は《事件の 情況と革命の良心の命ずるところだけに》従う,と 規定されている(ロシア連邦共和国法律集13:132, 第25条,1919年4月12日付《イズベスチヤ》 紙)。国内戦争の終結に伴い,革命裁判は1922 年に廃止された』。 銃殺者の数 これは、『ラーゲリ事典』(P.87)のデータで す。 『大量銃殺の犠牲者の数を憶測するのは難しい。 というのは銃殺を実行した者や目撃者その他がふつ うは銃殺されてしまうからだ。死刑に関してツアー 時代の記録があるが,それを見ると帝政の最後の9 2年間に,6,321人が死刑となっている(S.ウ シェロヴイチ,帝政ロシアにおける死刑,ハリコフ ,1931)。大まかな資料によれば,国内戦の時に全 露非常委員会により約5万人が銃殺されたという。 一方全露非常委員会の参与会の委員ラツィスは,1 918年と1919年の6カ月間でチェカーにより 銃殺されたのは8,393人だけだと言っている( ラツィス,国内戦線における2年間の闘い、モスクワ ,1920)』。 もう一つ、ギネス・ヒューズは『赤い帝国』(時事 通信社、1993年)で次のデータを書いています。 『フェリクス・ジェルジンスキーは、1918年か ら21年の間に、1万2733人を処刑した』(P. 58)。 銃殺のやり方 『全露非常委員会,オゲペウは通常夜間,機関の 建物の中庭で,トラックのエンジンが響く中で銃殺 を行う。地下から連れ出された逮捕者はトラックの ヘッドライトで目が眩む。エンジンの回る騒音で発 射音は聞こえない。30年代の半ばから銃殺は特別 な設備を持った監獄で行われる』(『ラーゲリ事典』 P64.)。 『1人の老チェキストが1918〜24年の時期 を回想して筆者に次のように語った:≪銃殺されに 行く者の両手は必ず後ろ手に針金で縛る。彼に前に 進めと命じ,自分は拳銃を片手に後から行く。必要 に応じて《右へ》,《左へ》と命じながら,おが屑 か砂の撒いてある場所まで連れてゆく。そこで彼の 後頭部に銃口を当て,バーンと一発!同時に尻を強 く蹴とばす…≫−なぜ?−≪おれの軍服に返り血を 浴びないようにして,女房が何度もそれを洗濯しな いですむようにするのさ≫』。 これは、『オーウェルにおける革命権力と共産党 』の3DCG7枚のうち、文末に載せた画像です。 『1984年』 「ウィンストンは公開裁判の被告 席に立ち、 一切を自供し、見境もなく他人を告発していた」 「自分の 後ろには一人の武装看守が従っていた。長い間、待 ち侘び ていた弾丸が、自分の頭蓋骨を貫いて行くところで あった」 5、強制収容所・ラーゲリの創設経過 以下は、『ラーゲリ事典』が明記した、レーニン による「強制収容所」創設経過のデータです。 『レーニンは強制労働で《階級の敵》を脅す演説 を一度ならず行い,1918年5月8日《最も重い ,不快な強制作業》によって収賄者を処罰する訓令 に署名する(ロシア連邦共和国法律集35:468.5月 12日付《イズベスチヤ》紙)。1918年7月22 日、レーニンは闇商人を最も厳重な強制作業を伴う 自由剥奪によって処罰する新しい訓令に署名した( ソ連邦政府法律集54:605.7月25目付≪イズベスチ ヤ)紙)。1919年4月15日,ついに全露中央執 行委員会は《強制作業ラーゲリに関する》訓令(ロ シア連邦共和国法律集12:124)を出し,その目的と 組織を1919年5月17日付《イズベスチヤ》紙発表の全 露中央執行委員会訓令で説明した(ロシア連邦共和 国政府法律集20:235)』(P.65) 『強制労働ラーゲリをぬきにしてソビエト政権は 考えられない。1918年に始まり,以来約35年の 長きにわたりソビエト政権はこれらを創設,改組を くり返し,その度にこれらは様々な名称で呼ばれた が,そのなかからグラーグだけが世界中の言語に定 着した。 政権はこれらをあからさまに強制収容所又は強制 労働ラーゲリと呼ぶ。これらラーゲリは都市近郊, 特に修道士や修道女たちを追い出した修道院に一時 的に創られることが多かった。しかしやがてソビエ ト政権にとっては,さらに広汎な住民層が危険なも のだと感じられるようになる。ラーゲリ解体などは 論外で,逆に≪すべての県の都市におのおの300 名以上収容の強制労働ラーゲリを開設すべきである ≫(ロシア連邦共和国法律集1919,20:235,3条) という事態となる。三つの役所−全露非常委員会, NKVD,司法人民委員部−はそれぞれ自らの個別のラ ーゲリ・システムを管理する』(P.143) 『1918年9月15日付《赤色テロに関する》政令 により人民委員会議が全露非常委員会に課した任務 は,《階級の敵を強制収容所に隔離することにより ソビエト共和国を彼らから守ること》である(ロシ ア連邦共和国法律集65:710)。強制収容所はまず全 露非常委員会の管轄下,その後ゲペウ−オゲペウの 管轄下に属した。最初に出来た強制収容所の中には アルハンゲリスク,ホルモゴールイ,ペルトミンス クの強制収容所があり,そこにはロシア共和国全域 から連行されて来た人々が収容されていた。全露中 央執行委員会の1919年2月17日付≪全露非常 委員会に関する』決定は全露非常委員会の《強制収 容所へ収容する》権限を確認している(ロシア連邦 共和国法律集12:130,8条)』(P.147) 『収容所群島』は、まさにレーニンの指令によっ て“建設”が始まったのです。その結果、『192 0年には、強制収容所がすでに84カ所存在し、内 戦による捕虜24000人以外に、「収容者」25 000人がいたという統計がある』と『ロシア・ソ 連を知る事典』が明記しています。 その後も、レーニンはラーゲリ・システムの拡大 ・強化を続けました。以下は『レーニンの秘密・上 』にあります。 『一九二一年四月二十日、レーニンを議長とする 政治局は、極北のウフタ地方に一万から二万人を入 れる収容所の建設を承認している。一週間後ジェル ジンスキーは、一九二一年三月にソヴィエト政権に たいして反乱を起こし、赤軍の攻撃にたいし二週間 の抵抗を示したタロンシュタットの兵士と水兵―― 一九一七年にはボリシェヴィキ支持の先鋭だった― ―を「ウフタの犯罪者植民地に入植させる」べきだ と提案した。当時、チェーカーはやはり北部のホル モゴルイに新しい入植地の建設を提案していた。計 画は続行された。まもなく、この国の大きな秘密地 図には忌まわしい収容所の所在地を示すマークが点 々と散らばるようになる。そこにはレーニン主義体 制下の七十年間に数百万の人が送られることになっ た。 収容所への最初の追放が行われたのは内戦の最中 だった。コサックにたいする残酷な報復行為のあと 、とりわけ大勢の婦人と子供が、ドン川とクバン川 流域から“再移住”させられた。収容所内またそこ に着くまでに数千人が死んだ。トロツキーはスター リンのシベリア“行進”を先取りして、一九二〇年 八月にモスクワにこう報告している。「クバンでは 、政府の名において、ウランゲリ[白衛軍の将軍] に協力した廉で有罪とされた家族は、日本軍その他 に占領されているバイカル湖以遠に追放すると宣告 することを提案する。異議があれば知らせよ」。異 議申し立てはなかったが、輸送手段がなかった』( P.388)。 6、チェーカーへの批判意見とその抑圧手口 これも、『ラーゲリ事典』にあります。 『《おい,リンゴちゃん,/どこへ転がっていく のさ?/ヴェチェカのところへさ/二度と戻れやし ないぞ!》(ロシアの俗謡)』(P.43) 『全露非常委員会の活動にボリシェビキの中でさ えも困惑する者が出始めた。集会や新聞・雑誌で批 判的な声が聞かれるようになった。これに関連して 中央委員会は,非常委員会が党の直属機関であり, 党の指令にしたがって活動していることをあわてて 強調した(《イズベスチヤ》紙,1918年2月8 日)。それ以後,ソビエト国家保安機関に対するあ らゆる批判がぴたりと止む』(P.43)。 5、「赤色テロル」3段階と「白色テロル」との 関係 〔小目次〕 1、「赤色テロル」の形態、範囲、理念 2、第1段階 「事実上の赤色テロル」展開 1917年11月〜1918年8月30日 3、「ボリシェヴィキのテロル」への報復とし ての「白色テロル」 1918年8月30日 4、第2段階 「公式の赤色テロル」政令と実 施 1918年9月5日〜1922年6月 5、第3段階 「ソ連刑法制定による銃殺対象 拡大の赤色テロル」 1922年6月〜 1、「赤色テロル」の形態、範囲、理念 「白色テロル」と「赤色テロル」との関係の真実 は、どうなのでしょうか。公認「ロシア革命史」で は、『「白色テロル」が1918年夏に始まった。 それへの返答として、1918年9月5日付「赤色 テロル(CHK)」政令が発令された』としています 。 梶川氏は『飢餓の革命』(P.32)で、ロシアにお ける次の見解を紹介しています。『近年の論文では 、西側の研究や亡命者の論を引いて、「テロはソヴ ェト体制の本質をなし、18年8月までは事実上、 18年9月5日からは公式に実施された。この結論 が真実に近い」(Литвин А.Л.Указ.ст атвя.с.49)と従来の見解が完全に転倒されてい る』。 具体的事例に入る前に、「テロル」「赤色テロル 」の定義をしておく必要があります。「テロル」は 、フランス革命時の用語で、「赤色テロル」はロシ ア革命時の言葉です。いずれも「国家権力が行うテ ロ」のことです。「赤色テロル」は、個人的殺人、 個々の拷問と異なります。それは、威嚇し、恐怖さ せることを通じて、国民を服従させようとする計画 的な「暴力の体系」です。多数者の支配体制であれ ば「赤色テロル」など必要としません。レーニンの 権力奪取のやり方は、「二月革命」の社会主義政党 を出し抜いてのクーデター的武装蜂起であり、19 18年1月の憲法制定議会選挙でも得票率・獲得議 席とも約24%の少数派権力でした。その合法的な 憲法制定議会を一日目で武力解散させた「違法な少 数派政権」は、スタート時点から権力維持のために 『人民の敵』のねつ造と拡大と、その絶えざる排除 を余儀なくされました。 もちろん、上記資料のように、レーニン、トロツ キーらは、暴力革命の少数派権力は、フランス革命 型「テロル」発動を最初から当然視していました。 (1)「テロル」の形態は、銃殺を先端とします が無限です。 肉体的テロだけでなく精神的テロがあります。言 論出版の自由抑圧、政党・組織解散、幹部の逮捕を 含めた脅しと懲罰のあらゆるシステムです。文末デ ータ(表)のように、レーニンは、肉体的殺人、政治 的殺人、飢餓による殺人という3種類の「テロル」 を指令し、数十万人にたいして「赤色テロル」を執 行しました。 (2)「テロル」の対象範囲も広がります。 「疑わしい者」「革命の支持をしない者、団体」 は、『人民の敵』と認定されます。“袋をかついだ 男(闇商人)”、穀物・家畜の割当徴発に抵抗する農 民はすべて『敵』になります。「反乱」農民、スト ライキ労働者、クロンシュタット・ソヴェト水兵ら は、憎むべき「反革命」であり、『人民の敵』とし て、皆殺しにしなければなりません。聖職者・信徒 、「反ソヴェト」知識人らは、今後の「反革命」の 危険因子として、“予防的殺人”“予防的肉体的排 除”をしておく必要があります。 (3)「テロル」の指導理念がその根底にありま す。 『誰が人民の敵であるか、ないか』という判定権 限は、レーニン、政治局員、チェーカー、ボリシェ ヴィキ党員である革命裁判所裁判官だけが占有して います。その上に、『革命のためには、あるいは、 革命の敵にたいしては、すべてが許される』『社会 主義権力維持の「人類の理想」実現のためなら、「 人を殺すこと」は許されている』という“革命道徳 の免罪符”が結合されます。それは、ドストエフス キーが『罪と罰』において、ラスコーリニコフの「 思想」として洞察したロシア革命の倫理が、レーニ ンによって現実化されたものでした。その指導理念 は、『革命の名において、人類解放という理想の名 において』あらゆる「赤色テロル」執行に貫かれま す。レーニンは権力者として、文末データのように 、数十万人に『人民の敵』のレッテルを貼り、「殺 し」ました。スターリンは、ソ連国民1億4千万人 中、メドヴェージェフの推計によれば、4千万人、 国民の29%を『人民の敵』と認定し、粛清しまし た。 2、第1段階 「事実上の赤色テロル」展開 19 17年11月〜1918年8月30日 1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ 」、ブルジョア新聞閉鎖措置 革命政府(人民委員会 議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニン の強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ 」、その他のブルジョア新聞を『反革命活動』の理 由で閉鎖しました。さらにその翌日、『出版にかん する布告』を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じまし た。 『布告』発令前の全ロシア中央執行委員会では、 左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も 、それに猛反対しました。武装蜂起による死者は、 双方合わせて10数人だけでした。レーニンも『テ ロルなど問題にならなかった』と認めています。た しかに、臨時政府内のカデット閣僚5人が、コルニ ーロフの反乱を契機に辞任したのは事実です。しか し、ソ連崩壊後の資料によっても、レーニンのレッ テル『コルニーロフの反乱にカデット党が加担した から』という事実はありません。それは、レーニン のウソです。それは、レーニンによる“権力奪取と 同時の先制攻撃”としての「ブルジョア階級からの 言論出版の権利剥奪」政策でした。すべての他党派 、知識人が、それを言論・出版の自由への弾圧とし て、強烈に反対、批判しました。この問題について は、大藪龍介『国家と民主主義』が、詳しい分析を しています 1917年11月28日、カデット(立憲民主党) 党員の逮捕の布告 レーニンは、カデットを「ブル ジョア自由主義」として、法律の保護外としました 。「反革命」行為がなくても、ブルジョア階級とブ ルジョア政党のあらゆる人権剥奪を当然としました 。その全文をスタインベルグが『左翼社会主義革命 党』(P.54)に載せています。 『我々左翼社会革命党は、その布告の中に、一般 情勢によっては正当化されえない政治的ヒステリー 症状の現れを見てとった。略式の大量逮捕令は、革 命の日常的な煽動と混乱の中では、特に罪を犯さず ともカデットであるという単にそれだけの理由で、 国中の誰もがカデット党員を迫害し逮捕し危害を加 えることができる、ということを意味していた。次 に、この命令の全文を掲げよう。 革命に対する内乱の指導者たちの逮捕に関する布 告 「カデット党の執行機関のメンバーたちは、人民 の敵として逮捕され、革命法廷で裁判に付されるこ とになる。カデット党が革命に敵対する内乱と繋り を有していることに鑑み、彼らを特別監視の下に置 くべき義務を、地方の各ソヴェトは負う。この布告 は、即刻実施に移されるものとする」 ペトログラ ード、一九一七年一一月二八日、午後一〇時三〇分 。この布告は、レーニン、トロツキー、アヴィロフ 、メンジンスキー、ジュガシヴィリ・スターリン、 ドゥイベンコその他により署名された』。 1918年1月7日、10日、レーニン論文『競 争をどう組織するか』 ソルジェニーツィンの『収 容所群島』(P.39)を引用します。『V・T・レー ニンは論文の中で「ロシアの土地からあらゆる種類 の害虫を駆除」するという全国的な共通目標を提唱 した。そして害虫という言葉で彼が理解していたの は単に労働者階級に無縁のすべての人間ばかりでは なく、《仕事をさぼる労働者》たとえばペトログラ ードの党印刷所の植字工たち、といった連中までが その中に含まれていたのだった。実際、レーニンが この論文の中で予見した害虫駆除の形は多種多様で あった。ある場合には投獄する、ある場合には便所 掃除をやらせる、ある場合には「独房拘禁の終った あと黄色の鑑札を交付する」、ある場合には寄食者 を射殺する、またある場合には牢獄か最も重い種類 の強制労働罰かを選択させる』(「レーニン全集第2 6巻、423頁」)。 1918年1月〜4月、レーニン論文 E・H・カー『 ボリシェヴィキ革命1』(P.134)にあります。 『彼は、一九一八年一月に書かれ、後に彼の書類の 中から発見された一論文を発表しないでいたが、そ の中では彼は他の手段と一緒に「十人の金持と十二 人の詐欺師と仕事をしないでいる六人の労働者とを 投獄すること」および「怠惰の罪の判明したものは 十人の中一人はその場で射殺すること」(「レーニ ン全集第22巻、166頁」)を主張していたのであ る。しかしその後間もなく、食物の退蔵に対する闘 争において彼は「投機者にテロ――その場で射殺」 を適用しない限り、全然目的を達することはできな い』(「レーニン全集第22巻、243頁」)と宣言 した。その三カ月後にもさらに、「収賄者、詐欺師 、等々の逮捕と射殺」を要求し、もしストックが統 制され、「定められた規則のいかなる違反にも極刑 が伴う」ならば、ロシアに飢饉はないであろうと論 じた(「レーニン全集第22巻、449、493頁 」)』 1918年2月22日、レーニンの『革命的テロ』発 言 ヴォルコゴーノフは、『トロツキー・上』(P. 252)で、レーニンの発言を挙げています。これ は、上記のスタインベルグ本人の記述と完全に一致 しています。 「トロツキーは、レーニンの指示にしたがい、『 社会主義の祖国は危機に瀕している』と題する人民 委員会議アピールを書きあげた。アピールは二月二 十二日、人民委員会議議長の署名人りで「イズベス チヤ」紙に発表された。トロツキーはのちに、この ときのことを次のように書いている。 アピールの文案は左派社会革命党(エスエル)と共 同作業によるものだった。社会革命党は表題に難色 を示したが、レーニンは逆に、大いに買ってくれた 。『これで祖国防衛にたいする政府の態度が一八〇 度転換したことが一目瞭然だ。これでいいんだよ』 アピール実の最後のところには、利敵行為をおこ なった者はその場で処分するという一項目があった 。なんの成り行きか、革命に加わり、あまつさえ人 民委員会議にまでのぼりつめることになった左派社 会革命党のシュティンベルグ〔司法人民委員〕は、 この規定は『蜂起の情熱』を損なわせる脅迫だとし て、反対の立場をとった。 『そんなことはない!』レーニンは大声をあげた 。『ここにこそ真の革命的情熱(レーニンは皮肉た っぷりにアクセントを変えて発音した)があるんじ ゃないか。もっとも仮借なき革命的テロをおこなわ ずして、勝者になれると、君は本気で考えているの かね?』」(「トロツキー著作集第17巻」第1部、 P.103)。 1918年6月、チェキストの党集会での法令可決とレ ーニンの指示 これは、『レーニンの秘密・上』(P. 381)にあります。これは、9000万農民と全他 党派の強烈な反対を押切って、レーニンが1918 年5月「食糧独裁令」による穀物・家畜収奪路線に 転換した時期です。その『農村に内戦の火をつける 』というレーニン、スヴェルドロフの「貧農委員会 」方式にたいして、ロシア全土で農民「反乱」が勃 発し始めました。それがいかに誤った政策だったか の詳細は、『農民「反乱」』ファイルで書きました 。 『チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動し ていた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択さ れる三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつか の法令が可決された。「君主主義者−カデット、右 派エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導 者たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名 簿をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮 官……から目を離さないこと。目立った、明らかに 有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺する こと」などである。たとえば、「バスマチ運動指導 者は決して見逃すことなく、ただちに革命裁判にか け、死刑の適用を考えること」と中央アジア局に命 令している。 チェーカーの問題についてレーニンの肩入れは、 「監禁、監視などは徹底的に行なうこと(特設仕切り 壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁 にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆 使した、二重、三重のチェック・システムなど」、 ごく基本的な技術面にまで及んでいる。こうした言 葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門 家のものである。彼はジェルジンスキーに、「逮捕 するなら夜が好都合」とまで書いている。』 1918年7月、スヴェルドロフの第五回全ロシ ア・ソヴェト大会報告 これは、『ボリシェヴィキ 革命1』(P.137)のデータです。 『「社会主義祖国」の危機が宣言された二月以来 、何らの正式の、あるいは公式の裁判手続をとらず にチェカの手で処刑が実施された。その数は確かめ えない。右派社会革命党とメンシェヴィキの両者は 常にこの処刑に反対してきた。スヴェルドロフは一 九一八年七月に「何十人もの死刑が、ペトログラー ド、モスクワおよび地方都市など、あらゆる都市で われわれの手によって行われた」と述べている(「 第五回全ロシア・ソヴェト大会」(一九一八年)、 四九頁)』。 1918年夏、「反乱」農民にたいするチェーカ ーの銃殺 これも『同上』(P.139)にあります 。 『チェカのとった刑罰の方法に関する記事は、殆 んど常に断片的で当てにならないものであった。し かし、一九一八年の真に広く各地方に起った反乱の 鎮圧につづいて行われた報復手段については、信頼 すべき情報が若干ある。ヤロスラフの暴徒は二週間 もちこたえ、この市が最終的に占拠されたときには 、三百五十人が銃殺された(『プラウダ』一九一八年 七月二十三日号、七月二十六日号)。 ムロムの隣りの町では、反乱は直ちに鎮圧された が、十人の指導者が銃殺されて、百万ルーブルの賦 課金がブルジョアジーに課せられた(「非常委員会週 報」第二号、一九一八年、三〇頁)。 1918年7月16日、17日、前ツァーとその 家族射殺、「反革命の陰謀」射殺 これも『同上』 (P.140)データです。 『一九一八年七月十六日から十七日にかけての夜 、前ツァーとその家族はウラル地区ソヴェトの命に より、エカテリンブルグで射殺された。チェコ軍が 十日後にその市を占領したさい、ウラル地区チェカ はヴィヤトカに移り、そこで、「反革命の陰謀に巻 き込まれた」四百人以上を捕え、三十五人を射殺し た』(「同上書」第一号、一九一八年、一八頁)。 1918年8月4日、トロツキーの「強制収容所 送りと銃殺の指令」 『トロツキー・上』(P.47 5)にあります。 『トロツキーは、テロリズムが実践ではどんなこ とを意味するのかをしばしば誇示している。「ヴォ ログダ 県軍事委員会へ……反革命者たちを容赦な く撲滅し、疑わしき者を強制収容所に送りこまなけ ればならない。これは成功をおさめるうえでの不可 欠の条件である。略奪者どもは、過去の功績に関係 なく銃殺されるべきである……。とられた措置につ いて報告せよ。 一九一八年八月四日 軍事人民 委員 トロッキー」(「ソ連軍中央国立文書保管 所、フォンド1、目録1、資料142、ファイル2 0」) 疑いをかけられただけで、強制収容所送り――。 このような措置を必要とする社会主義とはいったい 何なのか。いや、そういう時代だったのだ、との反 論もあろう。しかし、こうしたことがシステムとな ったとき、カウツキーの明快な警告が思い起こされ よう。すなわち、暴力に頼ろうとすることは、もは や社会主義ではない! ここに、マルクス主義の歴 史的大崩壊をもたらした、マルクス主義そのものの 原罪のひとつが秘められているのではなかろうか。 トロツキーやほかの指導者たちは、何百万人とい う人たちの運命を決める「革命的権利」を持ってい ると本気で考えていた。もっとも、この「権利」な るものは、多くの人たちが疑問に思ってはいたのだ が。暴力を賛美していたサヴインコフでさえ、こう 書いている。 「ロシアの国民は、レーニン、トロッキー、ジェ ルジンスキーを望んでいない――彼らが望んでいな いのは、共産主義者たちが動員し、銃殺し、穀物を 徴発し、ロシアを荒廃させているからだけではない 。ロシア国民が望んでいないのは、レーニン、トロ ツキー、ジェルジンスキーが、人民の意志と希望に 反して現れてきたという、もっとも単純で明快な原 因による。誰も彼らを選んでいないのである」(69 ) トロツキーは、共産党員だけが勤労者の利益を体 現することができる、という考えではレーニンと一 致していた。ここから、共産党員はあらゆることに たいして特権を持つのは当然とされた。トロツキー は一九二一年十二月十日、軍事大学の党細胞会議で こう演説している。 「赤軍の兵士、新兵は誰でも将軍になれるチャン スを持っている、とわれわれはナポレオンのように 語っているが、このチャンスは共産党員にだけあた えられている」(70) 国民が指導者を選ばなかったにもかかわらず、た ちまち彼らは国民の利益や要求を自分たちに都合の いいように解釈していった。また、ツアー時代の顕 官たちが享受していたさまざまな特権を批判してき たのに、その特権を利用することができる、とみな した。指導者はそれぞれ郊外の別荘、ときには宮殿 さえ使用し(トロツキーはモスクワから車で三〇分 ほどのアルハンゲリスコエにあるユスポフ公爵の壮 大な館に住んでいた)、お抱え医師、数多くのサー ビス要員、美味しい食べ物、ツァーリの自動車など を持つことは当然のこととみなされた。』 1918年8月9日、レーニンの「銃殺と追放」 指令 『トロツキー・上』(P.516)のデータで す。 『「ニージニ=ノヴゴロド・ソビエトヘ ニー ジニでは明らかに白衛派が反乱を準備中である。全 力をあげて、独裁権を持つ三人委員会をつくり、た だちに大衆的テロを加え、兵士を泥酔させる数百人 もの売春婦や、旧帝政将官などを銃殺するか、町か ら追い出すべきである……。一刻も猶予してはなら ない……。全力をあげて行動し、大がかりな家宅捜 索をせよ。武器保有の罪は銃殺にすべし。メンシェ ヴィキや動揺分子はどしどし追放せよ‥…・。 一八年八月九日 あなたのレーニン」 恐ろしい言葉である。民主主義、ヒューマニズム 、正義を守るとした革命前の約束はどこへいってし まったのか? こうした電報は沢山ある。』 1918年8月18日、「蜂起のクラーク」にた いするレーニンの「大量テロ」指令 これも『同上 』(P.140)データです。 『一九一八年八月に「富農の蜂起」がペンザで起 ったときにはレーニン自身、「富農、牧師、白衛軍 に対して、容赦なき大量テロを実施するように、そ して容疑者は市外のキャンプに監禁するように」と の指令を打電し、かつ、収穫物の敏速.確実な引渡 を「命に代えて保証する」ような人質をとっておく ことを奨めた』(レーニン「全集し第二九巻、四八九 頁」。 この指令の全内容は、『「反乱」農民』ファイル おけるレーニンの「極秘指令(1)」にも載せまし た。 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』( 講談社、1996年、P.307)のデータです。彼の 直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「 レーニン秘密資料」です。それは、レーニンの手書 きの手紙でした。同一指令内容が、梶川『飢餓の革 命』(P.547)にもあります。ただ、その日付は「 8月11日」になっていますが、岩上著の日付にし ました。 『ロシア連邦ソビエト共和国 人民委員評議会議 長 モスクワ・クレムリン 一九一八年八月十八日 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン 同志他のペンザ市の共産党員達へ 同志諸君! 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借な き鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の 決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなって いる。あなた方は模範を示さなければならない。 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人 は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように 、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。 二、彼らの名前をすべて発表すること。 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の 富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民す べてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声 をあげるようにしなければならない。(私の)電報 の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさ い。 あなたのレーニンより 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しな さい。』 1918年8月20日、「富農の人質」指令 2 つのデータを載せます。まず、梶川『飢餓の革命』 (P.548)の資料です。 『戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対し て頻繁に人質(заложник)が利用された。八 月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物が あるのに、搬送することができないのは最低の不面 目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命 を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(Г АР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。そ れに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではな く、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的 は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つよう に、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張 ることである。そのような指令(「人質」を指名す ること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出 されている」(Ленинский сборник .xviii.c.145−146.)と述べている。』 『レーニンの秘密・上』(P.376)に詳しく書 かれています。。 『テロルは反体制的行為で有罪となった者にたい してのみ適用されたという反論があるかもしれない 。だが、そうではなかった。赤色テロルについての 命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産 人民委員のA・D・ツュルーパに、「すべての穀物生 産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで 抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきで ある」という命令を出すように勧告している。ツュ ルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題に ついては返事をしなかった。すると、次の人民委員 会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事 をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパ は、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇 想天外だったため、どういう段取りでそれを行った らいいかわからなかったのだと弁明した。これはな かなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらに もう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にし た。「私は人質を実際にとれといっているのではな い。各地区で人質に相当する人間を指名してはどう かと提案しているのである。そうした人たちを指名 する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献す る義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み 出しに協力しなければ生命はないものと思わせるた めである」。 そのような措置は差しせまった状況があったから で、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるの はまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型 的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八 年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内 戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこ う書いている。「この地域での富農(クラーク)と白 衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打 たねばならない。一分もむだにするな。この地区の 貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物 、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせ よ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人 を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、 これを軟禁せよ」。』 1918年8月22日、レーニンのパイケス宛の 『銃殺指令』の電報 『トロツキー・上』(P.517 )のデータです。 『無制限の暴力。たとえば、一九一八年八月二十 二日レーニンがサラトフのパイケスに宛てた電報が ある。「誰にも相談せずに、くだらない手続きなし で、陰謀分子や動揺分子を銃殺せよ」。((「レーニ ン全集第44巻」「ア・カ・パイケスへの手紙」)) 考えてもみていただきたい。「陰謀分子」だけでな く、「動揺分子」までも銃殺することを。しかも、 みせかけの法的根拠すらあたえずに。ぐずぐずせず 、急いでやれ……。党の指導者たちによって、党内 に持ちこまれたボリシェヴィキのスタイルとはこう いうものだった。いつでも暴力に訴える姿勢、暴力 は当然で、しかも不可欠なものだという認知は、徐 々に全国民の社会的意識の要素となっていった。』 1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措 置の報告」督促電報 梶川『飢餓の革命』(P.547)に、この「電報」 が載っています。 『「手本」を示さないペンザ県執行委にレーニン は八月二九日に繰り返し打電した。「五郷のクラー クの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、 深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかにつ いて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはき わめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である 。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰 を一掃する必要がある」(Ленинский сб орник.xviii.c.209.)』 1918年8月30日、トロツキーの「銃殺」命 令 これは、『トロツキー・上』(P.402)の文 書です。 『プロレタリアート独裁にたいする確信は、トロ ツキーをして国内戦時代における軍事テロの主要な 推進者のひとりとした。手元に、一九一八年八月三 十日にトロツキーが署名した命令がある。 「命令第三一号 赤軍および海軍へ 反逆者 および裏切り者が労農赤軍にもぐり込み、人民の敵 に勝利をもたらそうとしている。その次が、略奪兵 と脱走兵である……。昨日、東部戦線第五軍野戦軍 法会議の判決により二〇人の脱走兵が銃殺された。 真っ先に銃殺に処せられたのは、その任せられた部 署を放棄した指揮官やコミッサールであった。つい で負傷兵のふりをした臆病な嘘つきが銃殺された。 最後にこれからの戦闘で自分の犯罪的行為を償うこ とを拒否した脱走兵が何人か銃殺された。労農赤軍 の勇敢なる兵士諸君万歳! 略奪兵に破滅を。裏切 り者の脱走兵に死を。 軍事人民委員 トロツ キー」(「マルクス・レーニン主義研究所党中央文 書保管所、フォンド325、目録1、資料40、フ ァイル27」)』。 兵役忌避と脱走兵の問題は、『農民「反乱」』フ ァイルで書きました。その大量発生の基本原因は、 1918年5月からのレーニンの誤った「食糧独裁 令」と、それにたいする農民「反乱」勃発、赤軍兵 士家族にたいしても無差別の穀物・家畜の収奪政策 にありました。兵役忌避とは、徴兵逃れと脱走兵と を含みます。19年中の兵役忌避者は、徴兵逃れ 91.7万人と脱走兵176.1万人。合計267.8万人。20年 も同じとして計算すると、2年間で535万人。脱走兵 には、捕獲作戦と処罰通告・家族人質政策による脱 走後の帰還兵も含みます。 1921年兵役忌避・脱走兵の銃殺刑。1月360、2月 375、3月794、4月740、5月419、6月365、7月393、8 月295、9月176、10月122、11月111、12月187、1921 年計4337人銃殺。ヴォルコゴーノフは『国内戦の初 期(18、19年)には銃殺者がはるかに多かった』『革 命裁判で控訴権なし、判決は24時間以内に執行』と しています。 トロツキーは、レーニンと同じく、「食糧独裁令 」執行側で、それがマルクスの「市場経済廃絶」路 線に基づく、根本的に誤った政策であり、農民「反 乱」や脱走兵の行為側の方が正当な抵抗行動だった とは、考えもしませんでした。 3、「ボリシェヴィキのテロル」への報復としての「 白色テロル」 1918年8月30日 「ボリシェヴィキのテロル」は、上記のように、権 力奪取当初からソ連全土で展開されました。それら は、まさに「事実上の赤色テロル」でした。ただ、 ボリシェヴィキは、1918年8月30日以前に、 「赤色テロル」と名付けていません。テロの対象は 、ボリシェヴィキの路線・政策に抵抗したり、「反 乱」するすべての階級、階層、政党、個人です。 「白色テロル」は、広範な「ボリシェヴィキのテロ ル」にたいする「カウンター・テロ(報復テロ)」です 。それは、「ボリシェヴィキの国家テロ」に対抗する 「反国家テロ、ボリシェヴィキ指導者にたいするテ ロ」です。「白色テロル」の遂行者は、ボリシェヴ ィキによって政党としての言論出版の自由権、政党 活動の権利などの民主的権利を不当に剥奪され、逮 捕された社会主義政党党員です。それは、左派エス エル、エスエル、メンシェビキでした。ただ、ロシ アにおけるテロリズムの伝統を実践してきたのは、 エスエルやアナキストです。 「二月革命」の中心勢力であったメンシェビキ、 エスエル、アナキストにとって、レーニンが強行し た1917年10月武装蜂起・権力奪取から191 8年5月「食糧独裁令」までの路線・政策は、『5 連続クーデター』そのものでした。(1)11月7 日他の「二月革命」社会主義政党を出し抜いての武 装蜂起・単独権力奪取、(2)11月8日カデット機 関紙、ブルジョア新聞閉鎖という言論出版の自由権 剥奪の措置、(3)1月18日憲法制定議会武力解 散、(4)3月3日ブレスト講和条約締結・ウクラ イナのドイツへの屈辱的な割譲、(5)5月13日「 食糧独裁令」です。もちろん政党によって、個々へ の対応に差があります。 「白色テロル」発生の前に、1918年7月6日 、左派エスエルが、ドイツ大使ミルバッハを暗殺し ました。左派エスエルは、1917年12月にエス エルから分裂・独立して、直ちにボリシェヴィキと の連立政権に入りました。しかし、彼らは、(4) 3月3日ブレスト講和条約締結・ウクライナのドイ ツへの屈辱的な割譲に猛反対し、連立を離脱しまし た。その反対理由は、レーニンが以前から唱えてい た『ドイツとの戦争を世界革命戦争に転化せよ』方 針を堅持し、『革命戦争を継続すべき』という内容 でした。連立離脱後、ボリシェヴィキは、他の社会 主義政党と同じく、左派エスエルも「反革命」と見 なします。エスエル、左派エスエルとも農民・農村 を基盤とした社会主義を目指していました。彼らに とって、(5)5月13日「食糧独裁令」こそ、ボリ シェヴィキによる「農民からの穀物・家畜収奪」路 線への転換にほかなりません。この2つによって、 ボリシェヴィキと左派エスエルとの対立は、決定的 になりました。農民「反乱」が勃発しました。その 上での「ドイツ大使暗殺」でした。ただ、これは、 「ボリシェヴィキ指導者にたいするテロ」としての 「白色テロル」とは異なります。 レーニンは、左派エスエルの鎮圧を指令しました 。左派エスエル党員を大量逮捕し、13人を銃殺し 、ソヴェト大会から追放しました。連立時の「司法 人民委員」だったスタインベルグは『左翼社会主義 革命党』(P.143)で次のように書いています。 『モスクワにあるプトゥイルキ刑務所は、かつての ツァーリ体制に奉仕したのと同じように、ボリシェ ヴィキにも奉仕していた。一九一九年二月にはあふ れんばかりに超満員となった。当時ボリシェヴィズ ムに抗して闘いつつあったすべてのロシア社会主義 者およびアナキスト・グループのメンバーがいた。 その中には、少なくとも二〇〇人以上の左翼社会革 命党員も含まれていた。私も、その一人であった。 革命の牢獄に投げ込まれた革命家の悲惨な気持ちを 、どう表現すればよいのだろうか?』 「白色テロル」の主な具体的事例は、次の3件で す。 (1)、1918年6月20日、ペトログラード の党指導者の一人V・ボロダルスキーが暗殺されま した。 レーニンは、これにたいして直ちに『大規模テロ ル』指令をしました。『レーニンの秘密・上』(P. 297)にあります。『レーニンは恐怖を武器とし て利用しようとした。テロルは何百万という人たち に抵抗する意志を萎えさせた。新聞・宣伝・扇動担 当人民委員のX・ヴォログルスキーが一九一八年に ペトログラードで暗殺された時、レーニンはジノヴ ィエフに次のような電報を打った。「これは許すべ からざることだ! テロリストたちはわれわれを腰 抜けだと思うだろう。われわれは極限的戦争状態に ある。われわれは反革命派にたいして全精力を奮い 起こし、大規模なテロルを行使しなければならない 。とくに[ペトログラードの]模範が事を決する」 』。 この指令は即座に実行され、ペトログラードで、 それまでにもまして、大々的な「ボリシェヴィキ側 からのカウンター・テロル」が展開されました。 (2)、1918年8月30日、レーニンが、モ スクワのミヘリソン工場で、エスエル党員F・カプ ランによって銃撃され、重傷を負いました。チェー カーは、彼女の背後関係が分からないままで、裁判 にもかけずに銃殺しました。 この暗殺現場の様子と「裁判なしの銃殺」にかん する疑惑については、ヴォルコゴーノフが『レーニ ンの秘密・上』(P.354)に「ファニヤ・カプラ ンの発砲」として「レーニン秘密資料」に基づいて 書いています。 (3)、1918年8月30日、ペトログラード ・チェーカー議長M・S・ウリッキーが暗殺されま した。 8月30日の2件は、ペトログラードにおける大 々的な「ボリシェヴィキ側からのカウンター・テロ ル」にたいする「エスエル側からの再カウンター・ テロル」でした。 他には、各県レベルのコミッサール(政治委員)暗 殺・処刑が3件報告されています。 4、第2段階 「公式の赤色テロル」政令と実施 1918年9月5日〜1922年6月 〔小目次〕 1、それ以前の「事実上の赤色テロル」段階 における4つのシステム 2、「公式の赤色テロル」に転化する口実 3、「白色テロル」にたいする「報復テロル 」決議・命令・布告 4、「大量赤色テロ」決議の即時執行状況 5、「公式の赤色テロル」の大展開 1、それ以前の「事実上の赤色テロル」段階にお ける4つのシステム 「公式の赤色テロル」発令は、レーニン暗殺未遂 の6日後です。それ以前の「事実上の赤色テロル」 状況はどうだったのでしょう。日付順のデータは上 記に書きました。ここでは、その「赤色テロル」組 織の形成過程を検討します。 1918年5月、レーニンは、「食糧独裁令」を 、9000万農民と全他政党の反対を押切り、かつ 「現物税、自由商業(「ネップ」)」要求を拒絶して強 行しました。その誤った農業政策にたいしてロシア 全土で、農民の抵抗と農民「反乱」が激発しました。 飢餓が一層進行しました。レーニンが採った手段は 、力づくの穀物・家畜の収奪と徹底した弾圧でした 。その組織システムとして4つを整備・強化してい きました。 (1)、中央食糧人民委員部の中央集権体制を確立 をしました。「懲罰および徴発分遣隊」を組織して 、農村に派遣し、残虐な強制手段で、穀物・家畜の 徴発をしました。「分遣隊」や「貧農委員会」は、 農家の片隅で、抵抗する農民を射殺しました。 (2)、革命裁判所に「死刑廃止の取り消し」を指 令しました。ソ連刑法はまだできていません。19 17年11月24日に制定された革命裁判に関する 規定には、裁判官は《無制限の抑圧権》を持ち、革 命裁判は《事件の情況と革命の良心の命ずるところ だけに》従う、と規定されていました(ロシア連邦 共和国法律集13:132,第25条)。レーニンは、19 18年6月16日、その革命法廷に、さらに「死刑 宣告の権限」も公式に与えました。 (3)、チェーカーは、従来どおり、レーニンの 何度もの指令に基づいて「超合法的」処刑としての 無制限の逮捕、裁判なしの現場射殺を遂行できまし た。 (4)、赤軍を、農民「反乱」の県・郷・村に投 入し、「反乱」農民指導者たちを皆殺しにしました 。赤軍の軍事力でないと、大規模な農民「反乱」を 鎮圧できない状況になっていました。 これら4つの組織を次第に結び合わせて、「事実 上の赤色テロル」段階におけるシステムをレーニン が構築していったのです。 2、「公式の赤色テロル」に転化する口実 「事実上の赤色テロル」とは、法的な裏付けのな い「非合法な、または超法規的な国家テロル」です 。それにたいする他党派と国民の批判が高まってい ました。それに対応するには、「合法的国家テロル の口実」が必要な時期に来ていました。 8月30日の「レーニンへのカウンター・テロ」= 「事実上の大規模な国家テロルにたいするエスエル 側の反国家テロ」は、ボリシェヴィキにとって、そ の転化の絶好のチャンスとなりました。 その判断を3人がしています。 1)、ヴォルコゴーノフは『レーニンの秘密・上』 (P.364)で次のように書きました。『「カプラ ンによる暗殺未遂事件」はボリシェヴィキに、大々 的かつ徹底的国家規模のテロルに乗り出す口実を与 えた。これでようやく、つい最近まで味方だったが 、今では邪魔者に感じられる左翼エスエルを始末す ることが可能になった。テロルは彼らに、一党独裁 政権を可能にする最後のチャンスを提供した。それ ゆえ、カプランを殺すためには捜査も裁判も要らな かった。この事件の関連資料はすべて、それから何 十年も人目に触れることのないチェーカー・KGB の文書保管所にしまい込まれた。』 2)、スタインベルグも『左翼社会主義革命党』( P.133)で書いています。『事実上の赤色テロル 状態を恒久的体制へ転じるには、ほんの何ほどかの きっかけとなる口実があればよかったのだ。ボリシ ェヴィキは、一九一八年八月の末に恰好の口実を見 つけた。ペトログラード・チェー・カー長官ウリッ キーがペトログラードで暗殺され、モスクワでは、 著名な革命家ドーラ・カプランによるレーニンの暗 殺が企てられたのである。全ボリシェヴィキの憤激 と報復衝動とが解き放たれた。今や政府の新聞が口 やかましく叫び始めた。「何千人という敵が我々の 同志の死に対して償いをせねばならぬ」とペトログ ラードの『クラースナヤ・ガジェータ』は書いた』 。 3)、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1』(P.14 1)でのべています。『一七九三年九月二日のパリ のテロが、日附の一致以上のものをもって、思いお こされる。その日、外国の干渉と革命の冷酷な鎮圧 とをもって威嚇したブランスヴィック公爵の宣言に つづいて、大量報復がパリではじまり、三千人の貴 族が死んだといわれている。二つの革命において、 この九月二日という日は、それまで散発的で組織的 でなかったテロが、政策の計画的な手段となった転 換点を示している』。 3、「白色テロル」にたいする「報復テロル」決 議・命令・布告 以下の決議・命令・布告の性格をどう見たらよい のでしょう。それらは、大々的な「ボリシェヴィキ 側からの事実上の赤色テロル」にたいする「エスエ ル側からのカウンター・テロル(対抗テロ)」直後 からの「ボリシェヴィキ側からの再カウンター・赤 色テロル(再対抗テロ)」決議・命令にほかなりま せん。 1918年9月2日、全ロシア中央執行委員会の 「大量赤色テロ」決議 これは、『ボリシェヴィキ 革命1』(P.141)にあります。 『一九一八年九月二日、全ロシア中央執行委員会 は、ウリッキーの殺害およびレーニンに加えられた 暴行に関する一決議案を採択したが、それは次のよ うに結論していた。「反革命主義者およびその鼓吹 者はすべて、ソヴェト政府の労働者ならびに社会主 義革命思想の支持者に対するあらゆる企てについて 責任を取らされるであろう。労農政府の敵による白 色テロに対しては、労働者農民は、ブルジョアジー およびその手先きに対する大量赤色テロをもって答 えるであろう」』(第五次全ロシア中央執行委員会、 P.11) 1918年9月3日、内務人民委員ペトロフスキ ーの電報命令 これは、スタインベルグ『左翼社会 主義革命党』(P.133)にあります。 『翌九月三日の朝、内務人民委員ペトロフスキー は、次のような電報による命令をすべての地方ソヴ ェトに発した――。「感傷と逡巡には直ちに終止符 が打たれねばならぬ。地方ソヴェトに判明している 限りの反革命的社会革命党員は即刻逮捕すること。 資本家と将校団から多数の人質を確保せよ。白衛集 団に於いて僅かな抵抗もしくは動きが見受けられた 際には略式大量銃殺刑で直ちに鎮圧せよ。地方執行 委員会は率先して事に当るべし……大衆的テロルの 発動に際しては躊躇、懐疑は無用である」。政府の 最高機関がこのような言葉で語っているとすれば、 その執行機関、その地方機関の行動は推して知るべ しであろう。そして事実、中央執行委員会の布告が 未だ「警告」にとどまっているのに、地方では既に 復讐が開始されつつあったのである。』 1918年9月5日、人民委員会議の「赤色テロ ルについて」布告 これは、『レーニンの秘密・上 』(P.375)のデータです。 『一九一八年九月五日、レーニンの欠席でスヴェ ルドロフが議長を務めた人民委員会議(ソヴナルコム )の会合で、ジェルジンスキーとスヴェルドロフが大 規模テロルの問題を提起し、ジェルジンスキーが短 い報告書を読み上げた。いつもの「煮え切らない態 度」とは打って変わった「赤色テロルについて」彼 らが承認した布告を見て、レーニンはたいへん満足 した。ここにその全文を引用する価値があると思わ れる。 「全ロシア[チェーカー]の議長の報告を聞いた 人民委員会議は、現状においてはテロルを使った銃 後の保安は絶対に必要であることがわかった。[チ ェーカーの]活動を強化し、これにいっそう徹底し た性格を導入するために、できるだけ多くの党の同 志にそこで働いてもらうようにすることが何よりも 大事である。ソヴィエト共和国を階級の敵から守る には、敵の強制収容所への隔離、白衛軍の組織・陰 謀・反乱に関与した者の射殺は当然である。これら の処刑された者の名前、およびこうした措置を適用 した根拠についても、当然公表することとする。」 』 4、「大量赤色テロ」決議の即時執行状況 (1)、山川出版『ロシア史』(P.474)。『い ま一つの対抗策は、テロの強化であった。レーニン は八月中、穀物徴発に反対する“富農”の反乱に大 量テロを指示していたが、八月三〇日ウリッキーが 殺され、レーニンもエスエルの女テロリスト、カプ ランに撃たれて重傷を負うと、政府は九月二日大量 赤色テロにより報復すると宣言した。ペトログラー ドではただちに“反革命派および白衛派”五一二人 が射殺された。』 (2)、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』 (P.371)。『大量処刑は、ソヴィエト中央執 行委員会が大量テロルについての布告を出す前から 実行されていた。カプラン事件のすぐあと、大勢の 臨時政府の元閣僚の公開処刑が行われた。その中に は、シチェグロヴィトフ(司法相)、フヴォストフ およびプロトポポフ(両方とも内務相)、ベレツキ ー(警察庁長官)、司祭長ヴォストロゴフらもいた 。ベレツキーは最後の土壇場で逃走を試みたが、銃 殺された。銃殺隊はペトロフスキー公園で仕事が終 わると、死骸をきれいにもち去った』。 (3)、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命1』( P.141)。『一九一八年の秋の「赤色テロ」の犠 牲者の総数については、信頼するに足る推定をくだ すことはできない。一時に一箇所で記録された処刑 の最大数は、テロ宣言の直後ペトログラードで射殺 された「反革命家および白衛軍」(さもなければ「 人質」と記されている)の五一二人であった。モス クワで射殺されたものの中には、「多数のツァーの 大臣、ならびに貴族の全名簿」が含まれている。地 方からの無数の報告の中で、恐らく最も真相を示し ているのはカザンからのものである。それは、「処 刑遠征隊が各郡に送られた」ことを述べたのち、次 のようにつづけている。カザン市だけでは、僅か七 人か八人が革命裁判所によって銃殺されたにすぎな い。このことは、全ブルジョアジーが市から逃亡し たという事実によって説明される。「非常委員会週 報」第6号(一九一八年、一九頁)では、テロ期間 中にペトログラードで処刑された総数を八百として いる』。 (4)、スタインベルグ『左翼社会主義革命党』(P. 136)。『ウリッキーとレーニンへの襲撃は八月三 〇日に起ったが、九月一日までには、ニジニー・ノ ヴゴロドの《対反革命闘争中央委員会》は、既に四 六人を銃殺していたのである。ニジニー・ノヴゴロ ド『労働者農民ブレチン』はこう報じていた、「共 産主義者の暗殺あるいはその企ての各々に対して、 我々はブルジョアジーの人質の銃殺をもって報いる であろう。殺され傷ついた我々の同志たちの血潮が 、復讐を求めているからである」 ペトログラードのチェー・カーは、直ちに拘留し ていた人質の中から五一八人を処刑した。この途方 もない数は幾人かのボリシェヴィキを驚愕させたが 、それとともに他の者たちの下衆(げす)根性を鼓舞 することともなった。《狂気と怯儒》へのこのよう な大量の生贄は、赤色テロルの信奉者たちの間にお いてすら、いくらかの反撥をひき起したが、同時に ロシア全土に人質という方式を定着させる道を開い たのである。 「同志ウリッキーおよび世界プロレタリアートの 指導者、同志レーニンに対する襲撃の報復として全 露チエー・カーはモスクワで一五人を、さらに後に は追加として九〇人を銃殺した」『チエ−・カー週 報』第六号。 「ウリッキーの暗殺およびレーニンの暗殺未遂の 報復として、アルハンゲリスク・チェー・カーは九 人、キムルイ・チェー・カーは一二人、ヴィテフス クでは二人、セべシでは一七人、ヴェリシでは二人 、ヴォログダでは一四人、ヴェリスタでは四人、北 ドヴィンスクでは五人、クルスクでは九人を処刑し た」。同時にポチェホーニ・チェー・カーは三一人 を処刑、ペンザでは八人、チョールニイでは横領罪 でたまたま入獄していた三人の男、ヴァラノフスク では八人、ノヴゴロドでは八人が処刑された。同様 の事件は、ムスチスラフ、リヤザン、タムボフ、リ ベックの各県でも起った。スモレンスクではチェー ・カーは、刑事犯、前地主、将校、警察官を含む三 四人を銃殺し、また取調べに際して、ここのチェー ・カーは肉体的拷問を行なった。しかもこうしたこ とが、際限もなく続いたのである』。 5、「公式の赤色テロル」の大展開 1918年9月2日決議、3日命令、5日布告は 、略式の銃殺刑を正当化し、「公式の赤色テロル」 を社会主義国家が扇動する内容のものでした。それ らは、チェーカー、食糧人民委員部、革命裁判所、 赤軍という4つのシステムによる「赤色テロル」へ の道を掃き清めました。『プラウダ』、ペトログラ ードの『クラースナヤ・ガジェータ』などの政府の 新聞も、大々的な「赤色テロル」キャンペーンを展 開しました。 レーニンは、『人民の敵』『反革命分子』という レッテルを自国民の数十、数百万人に貼りつけまし た。それらたいする大量逮捕、銃殺、裁判なし射殺 、拷問死、強制収容所送りなどの残忍さには、いか なる制限も課せられなくなりました。その自国民と は、(1)左派エスエル、エスエル、メンシェビキ などの社会主義政党、アナキスト、(2)「反乱」農 民、(3)ペトログラード・ストライキ労働者、(4 )クロンシュタット「反乱」水兵、(5)聖職者・信 徒、(6)コサック農民などでした。それらの階級 ・階層の抵抗・「反乱」は、レーニンの根本的に誤 った路線・政策にたいする正当なものでした。しか し、レーニン・政治局は、マルクスの「社会主義青 写真」を80%農民国家において強行する路線を「 真理」であると確信していました。よって、その「 偉大な理想」に抵抗・「反乱」する者は、すべて『 人民の敵』なのであり、それら全員を「殺し」「強 制収容所送り」にすることは、まったく正しいと心 から信じていたのです。レーニンにおいて、マルク ス主義型社会主義をロシアにおいて実験することと 、その理想への抵抗・「反乱」者を“肉体的・政治 的に排除し、殺す”こととは、完全に一体のもので した。ゲバルトの行使は、権力奪取の時点だけでな く、クーデター的に奪取した少数派権力の維持・強 化の全過程を通じて貫徹されるべきだったのです。 『鉄の手によって社会主義を建設しよう!』という レーニンのスローガンは、まさに、「赤色テロル」 型社会主義の本質を明示しています。 「公式の赤色テロル」展開の事例は、他のファイ ルで書きました。 「反乱」農民にたいする「赤色テロル」 この詳細は、『農民』ファイルにあります。レー ニンのテロ指令の月日と項目だけここに載せます。 1919年1月21日、「コサックへの赤色テロ ル」指令 1919年2月15日、「鉄道除雪作業農民の人 質」指令 1920年10月19日、「タンボフ県の農民反 乱への鎮圧」指令 1921年6月11日、「タンボフ農民への『裁 判なし射殺』」指令 1921年6月12日、「『毒ガス使用』による タンボフ農民の絶滅」命令 ペトログラードのストライキ参加労働者にたいす る「赤色テロル」 1921年2月、労働者たちとメンシェビキ系知 識人は、飢餓状態改善、そのための「食糧独裁令」 撤廃を求めました。さらに、「労働の軍事化」「工 場経営における個人独裁の承認と導入」方針に反対 して、モスクワでの労働者ストライキに続いて、大 規模なストライキを行いました。なぜなら、レーニ ン、トロツキーの方針は、労働者ソヴェトから工場 内自主管理経営権力を奪っていく過程そのものだっ たからです。まず、最大の金属工場トルーボチヌイ 工場の労働者がデモをし、ストライキを呼びかけま した。瞬く間に、全市にストライキが広がりました 。2月28日には、革命拠点のプチロフ工場600 0人もストライキに立ち上がりました。チェーカー による逮捕を免れていたメンシェビキ知識人も多数 参加しました。 レーニンとペトログラード党議長兼ソヴェト議長 のジノヴィエフは、武装した士官学校生徒の一中隊 を急派しました。さらに、防衛委員会という特別参 謀本部を設置し、ペトログラード包囲状態宣言を発 しました。夜間通行、集会を全面禁止し、党員にた いする総動員令を出し、ストライキ鎮圧の特別部隊 も編成しました。ストライキ参加工場を赤軍とチェ ーカーでロックアウトしました。レーニンとジノヴ ィエフは、ペトログラードの軍事的包囲と工場ロッ クアウトの下で、ペトログラード・チェーカーに指 令して、メンシェビキ系知識人と労働者5000人 を逮捕し、そのうちの多数を拷問死させ、銃殺しま した。メンシェビキ指導者ダンの計算では、2月の 最後の数日間だけで、逮捕された500人の「反抗 的」労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てました。 クロンシュタット・ソヴェトの「反乱」水兵にた いする「赤色テロル」 1921年3月、ペトログラードのすぐ沖にある コトリン島要塞全体が、クロンシュタット・ソヴェ トで、1905年革命、1917年二月革命以来の “革命の栄光拠点”でした。ボリシェヴィキが一党 独裁を強化し、他党派を逮捕し、農民への食糧独裁 令による過酷な収奪を行い、反乱を武力鎮圧するこ とに、農民出身の兵士たちは、“ボリシェヴィキの 裏切り、反革命”と実感していきました。2月のペ トログラード労働者ストライキに関心を寄せていた クロンシュタット・ソヴェトは、ストライキの真相 を知るために、ペトログラードに代表団を派遣しま した。 そこにボリシェヴィキによる「赤軍内における階 級制持ち込み」の方針にたいする批判が高まり、つ いに「15項目のクロンシュタット綱領」を掲げて 、ボリシェヴィキ一党独裁反対の武装要求に立ちあ がりました。「綱領」の内容は、軍隊内階級制を廃 止した兵士ソヴェトから、軍隊運営決定権を剥奪す るレーニン、トロツキーの方針に反対し、『すべて の権力をすべてのソヴェトへ戻す』ことを求めるも のでした。即ち、ボリシェヴィキ一党独裁権力でな く労働者・農民・兵士ソヴェトに権力を戻せ、とい う“革命の原点”に立ち返るものでした。その本質 は、レーニン、ボリシェヴィキ一党独裁政権にとっ て、“全ソヴェトが彼らに死を宣告し、政権からの 転落を告げる、恐怖の要求”でした。ただ、この性 質は、「反革命反乱」ではなく、「ソヴェト革命」 内部での権力問題要求でした。 レーニンと軍事人民委員トロツキーは、トハチェ フスキーを鎮圧司令官に任命し、クロンシュタット ・ソヴェト水兵1万人、アナキスト、労働者400 0人を含む住民55000人を殺戮、死刑、拷問死 、強制収容所送りで殲滅しました。鎮圧後、レーニ ンは、コトリン島での「ソヴェト再建」を許しませ んでした。ここでは、アナキスト系知識人が、ウク ライナのマフノ軍内と同じく、大きな思想的影響力 を持っていました。この反乱については、P・アヴ リッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メ ット『クロンシュタット・コミューン』の詳細な研 究があります。 聖職者・信徒にたいする「赤色テロル」 1917年から1922年におけるレーニンの「 聖職者全員銃殺」型社会主義の詳細については、『 聖職者』ファイルで書きました。そのうちの(表)の 一つだけを載せます。 時期 規模 出典 1917〜18 キエフ府主教1人、主教20人、聖職者数百人暗殺。 殺害前に手足を切り刻み、生きながら火で焼いた。 市民の宗教行進に銃撃。尼僧を暴行 W・ストローイェン『共産主義ロシアとロシア正教 会』 1918・6〜19・1 (ソ連一部地域) 処刑‥府主教1人、主教18人、司祭102・輔祭154人 、修道士と修道女94人 投獄‥主教4人、司祭(妻帯司祭および修道司祭) 211人 不動産の没収‥教区718、修道院18 閉鎖‥聖堂94、修道院26、非宗教的目的に使用され た教会14、礼拝堂9 レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公 式資料) 1918〜20 主教28人銃殺。聖職者数千人の殺害あるいは投獄。 信徒ほぼ12000人が宗教活動名目で処刑、数千人が労 働キャンプか流刑 『ロシア正教の千年』 1921〜23 司祭2691人、修道士1962人、尼僧3447人の計8100人 銃殺。その他多数の信徒殺害。1414件の死傷事件発 生 『ロシア正教の千年』 1922・4〜5 有力聖職者「54人裁判」。モスクワ最高裁判所は、 11人に死刑宣告。処刑5人 『ソヴィエト政治と宗教』 1922・6 ペトログラードのヴェニアミン府主教の裁判。教会 財産没収の妨害名目による逮捕。10人に死刑宣告。 処刑4人、他に禁固刑22人 『ロシア正教の千年』 1922 聖職者、熱心な信徒14000人から2万人射殺 『レーニンの秘密・下』 1921〜23 特別法廷における反革命罪死刑宣告(ソ連全体の公 的公表数字) 1921年、有罪者総数35829人、うち死 刑9701人、1922年、6003人と1962人。1923年、4794 人と414人。(注)、特別法廷裁判によらない銃殺・ 殺害は上記データ 塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』 5、第3段階 「ソ連刑法制定による銃殺対象拡大 の赤色テロル」 1922年6月〜 ソ連刑法は、権力奪取後の4年半ありませんでし た。その間、内戦による戦闘死を別として、チェー カーと革命裁判所は、無数の銃殺刑を執行しました 。そこには、なんの法的根拠もありません。192 2年6月にようやく「刑法」を制定することになり ました。その内容にたいするレーニンの指導は、『 銃殺刑の対象範囲の拡大』でした。 1922年5月15日、17日、レーニンの「銃 殺刑の範囲拡大とテロル」指令 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P.3 42)にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第 42巻、P.586)に載っています。5月17日「手 紙」は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)に あります。 『五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会 会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっ ていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキ にいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出され たばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑 を規定していた。これは満足すべきものではなかっ た。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、 同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた (その中には、第六九条による宣伝および煽動…特 に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義 務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは 主要な結論を司法人民委員にこう説明した。 「同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外 追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメ ンシェビキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活 動に対してひろげねばならないと思う。これらの活 動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つ けねばならないと思う」(傍点はレーニン) 銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ )これにすぎるものはない!(国外に追放された者は 多かったろうか?) テロとは説得の手段である。 このことも明白だろう! だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解す ることができなかった。彼にはおそらく、この定式 をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのよ うにとらえたらいいかわからなかったにちがいない 。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会 議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る 由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけ るようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。 「同志クルスキー! われわれの会談を補うもの として、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおく る……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基 本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおも う。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、 その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい (狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命 題を公然とかかげるということがそれである。 法廷はテロを排除してはならない。そういうこと を約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であ ろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、 粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。 できるだけ広く定式化しなければならない。なぜな らば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを 実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を 与えるだろうからである。 共産主義者のあいさつをおくる レーニン」 私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことに する。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわ しい。 この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンの この世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺 言の重要部分であるという点で特に貴重である。こ の手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒 中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの 病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の 手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さ な書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨 終の床となった場所であった。』 (1922年5月26日、レーニン第1回脳卒中発 作。5月30日、「12×7」の計算ができない症 状になる。この分析は、『「反ソヴェト」知識人の 大量追放作戦とレーニンの党派性』にあります。) (レーニンは、5月「銃殺刑の範囲拡大とテロル」 指令の2カ月前の3月に『聖職者全員銃殺』を指令 し、聖職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害をしま した。脳卒中病み上がりの6月に『「反ソヴェト」 知識人の大量追放作戦』を指令し、知識人数万人を 3方針で“肉体的排除”しました。) (レーニンは、3回の発作を経て、死去しました。 第2回、1922年12月16日。12月23日〜 26日、『党大会への手紙』口述。第3回、192 3年3月10日、以後、口述も不可能。死去、19 24年1月21日。) 1922年の「ソ連刑法典」の「国事犯罪」にお ける「銃殺」条文数 これは、『ラーゲリ・強制収容所注解事典』(P.3 3)のデータです。 刑法典 国事犯罪(刑法典条文数) 政治犯罪 重刑事犯罪 総条文数 うち銃殺条文 総条文数 うち銃殺条文 1922年 15 12 38 6 1926年 17 12 17 10 1960年 10 7 18 4 レーニンの細部にわたる「銃殺刑の対象範囲拡大 」指令によって、政治局は、12/15条文を「銃 殺条文」としました。12条項のうち、その半分に あたる6条項は、レーニンが『五月十五日、イリイ ッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする 六力条をさらにつけ加えた』ものです。 この法典制定により、「広範な銃殺」は、第3段 階としての「刑法体系による赤色テロル」となりま した。革命裁判所は、刑法制定によってなくなりま した。「赤色テロル」型社会主義の法体系が、レー ニンの直接指導によって完成しました。 1922年以後の「反革命罪による逮捕、処刑数 」は、塩川伸明ファイルのデータにあります。 6、レーニンが「殺した」自国民の推計(表1、2 ) 〔小目次〕 1、「粛清」と「殺した、殺人」という日本 語の語感の違い 2、(表1、2) レーニンが「殺した」自国民 の推計 3、レーニンの「大量殺人」推計の根拠 4、レーニンの人間性 1、「粛清」と「殺した、殺人」という日本語の 語感の違い 「スターリンの粛清分野と人数」については、多 数の推計が出ています。それは、最低2000万人 から5000万人までの大きな巾があります。その 中では、メドヴェージェフの時期別・事項別分類に 基づく、犠牲者4000万人という推計が、現在ま での資料では、一番具体的です。このHPでは、(1 )塩川伸明、(2)ニコラ・ヴェルト、(3)ブレジン スキーの3つのデータを載せています。 しかし、「レーニンが殺し、粛清した分野と人数 」のトータルな推計は、まるでありません。ソ連崩 壊後10年も経っているのに、いまだに「レーニン 神話」が根強く残っているせいなのでしょうか。そ こで、私(宮地)の推計をソ連崩壊以降に判明して いる分に限って、時期別・階級階層別の(表)にし 、その根拠をのべます。 推計に入る前に、私は、「粛清」と「殺した、殺 人」という日本語の語感の違いにこだわります。「 粛清」という日本語は、一般的ケースでも使います 。おおむね、「現存した社会主義国」における“肉 体的抹殺や政治的排除”にたいして用います。ただ 、他のファイルやこのファイルに載せた「レーニン 秘密資料」「命令、布告」には、レーニン自身のも っと生々しい感情がにじみ出ています。 それは、「反乱」農民や、異端の聖職者、「反ソ ヴェト」知識人にたいする『殺意』です。剥き出し の『憎悪の哲学』です。最高権力者である自分が『 人民の敵』『反革命分子』と判定した自国民にたい し、『邪魔者は殺せ!』という感情をさらけ出した 『殺人指令』です。 レーニン・政治局メンバーは、主観的には、マル クス「社会主義青写真」を、農民80%国家におい て、武装蜂起によって権力奪取をし、権力維持・強 化手段として一貫した「ゲバルト行使」=『鉄の手 』によって、実現しようという“善意の願望”を持 っていました。工業労働者は、1億4千万国民のう ち、300万人、2%だけでした。レーニンは、国 民の2%の労働者しかいない国家を『プロレタリア 独裁国家』と名付けました。 マルクスの「市場経済廃絶(貨幣経済も廃止)」理 論を、そのロシアにおいて強行しようとする熱望が 、9000万農民の第2要求「穀物・家畜の自由処 分権」=「市場経済実現」願望と、真正面から激突 したのが、1918年5月からの3年間にわたる「 食糧独裁令」と、それにたいする農民・労働者・兵 士の「総反乱」でした。 亡命知識人レーニンは、自分の労働で収入を得た ことがほとんどありません。唯一のマルクス主義真 理の認識者・体現者・無謬者と“うぬぼれていた” 革命家は、突如、強大な権力を手に入れた政治家に なっていました。彼は、ソ連全土での農民「反乱」 とその心情、餓死の恐怖を理解できませんでした。 山内昌之『革命家と政治家との間−レーニンの死に よせて』は、レーニンの人生激変によるストレスと その死に関して、鋭い洞察をしています。 亡命革命家が生まれて初めて出くわした、その「 総反乱」に直面して芽生えたのは、抵抗・「反乱」 農民・労働者・兵士、異端の聖職者、「反ソヴェト 」知識人にたいする明白な『憎悪』と『殺意』でし た。レーニンは、その『殺意』を示す言葉を頻発し ています。 「殺人思想用語」は、1918年『害虫駆除』、 1919年『恐怖におののかせよ』、1922年5 月『銃殺刑の適用範囲拡大』、1922年秋『浄化 』です。 その「具体的な殺人指令用語」も多数あります。 以下の(番号)ピックアップ個所の全文とその年月日 は、『農民』ファイルにあります。 (1)、レーニン『正真正銘の富農、金持ち、吸血 鬼を最低百人は絞首刑にすること。昨日の電報通り に人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し 、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて 、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにし なければならない』。 (2)、レーニン『反抗的な富農たちのすべての穀 物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑に せよ。金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ 』。 (5)、レーニン・政治局『コサック上層部全員を 根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認め ねばならない。一、裕福なコサックに対して大量テ ロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにする こと。二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所 へ運び、引き渡させること。五、完全武装解除をお こない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した 者は、すべて銃殺すること』。 (7)、レーニン『叛徒の猖獗(しょうけつ)を「醜 悪の極み」として、タムボフ県のぼんくらなチェー ・カー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司 令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じた』。 (8)、レーニン・政治局『(タンボフ県農民「反乱 」にたいして)全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会 は次のように命令する。1)自分の名前をいうのを 拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺するこ と。2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武 器を手渡さなかった場合は射殺すること。3)武器 を隠しもっていることが発見された時、一家の最年 長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。4 )ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し 、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判 なしに射殺すること。5)ゲリラの家族や財産をかく まった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場 で射殺すること』。 (9)レーニン・政治局・トゥハチェフスキー『( タンボフ県)敗北集団や単独行動の盗賊の生き残りな どが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲って いる。1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼ら を一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさ せ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅さ せるように綿密な計画を立てること。2)小火器監察 官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必 要な専門技術者をただちに現場に派遣すること』。 このような『レーニンの殺人思想用語や殺人指令 用語』を見るかぎり、私にとって、『粛清』という 日本語は、抽象的すぎます。よって、このファイル では、『レーニンが殺した、レーニンの殺人』とい う日本語を使います。 「レーニン全集」において、これらの用語は、ほ とんど隠蔽され、カットされています。それらは、 ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」などで初めて明 らかになりました。その用語の根底に潜むレーニン の「革命思想殺人」観を考察します。そこにあるの は、「同盟者か敵か」「われらか敵か」という二項 対立観とその二者択一を迫る、単純な「自国民の分 別思考」です。 レーニンの思想には、ドストエフスキーが『罪と 罰』において洞察したラスコーリニコフ的“殺人是 認思想”が顕在化しています。それは、「革命とい う目的遂行過程にかぎってのみ、それへの反乱・異 論・異端者などの凡人すべてを殺害するという手段 の行使は、マルクス主義真理の唯一の認識者・体現 者たる非凡人の私(レーニン)には、許されている」 という「赤色テロル」思想です。 2、(表1、2) レーニンが「殺した」自国民の推 計 レーニン・政治局が、抵抗・反乱・異端の自国民 を「殺した」テロルの手口は、3種類あり、それぞ れはさらに細分化されています。レーニンが「殺し た」自国民の推計と合わせて、2つの(表)にします 。 (表1) 自国民を「殺した」テロルの手口 性質 細目 肉体的殺人 絞首刑、裁判なしの射殺、逮捕時点の拷問死、革命 裁判所による48時間以内の銃殺刑、反乱の武力鎮 圧時の殺戮、毒ガスによる殺戮、 強制収容所移送中の殺害、強制収容所内での拷問死 ・銃殺、強制労働死 「緑の銃殺」(伐採作業の疲労による意図的殺人)、「 乾いた銃殺」(殺人的作業による殺人) 政治的殺人 抵抗農民の大量人質、「反乱」した農民・労働者・兵 士の強制収容所送り、コサック農民の強制移住、左 派エスエル・エスエル・メンシェビキ党員のほぼ全 員の逮捕・投獄 「反ソヴェト」知識人の国外追放または辺地流刑 飢餓の殺人 「軍事=割当徴発」結果としての飢饉死亡者500 万人。3大農民「反乱」地方や、戦争状態になった 36県の、または118件、数百件の「反乱」郷・ 村にたいする報復的な穀物・家畜の完全没収による 意図的な「飢餓発生殺人」。マフノ農民軍「反乱」 で、赤軍側が数万人の死者を出したことへの報復措 置とウクライナ100万人餓死との直接的関係(?) (表2) レーニンが「殺した」自国民の推計 階級階層 時期 レッテル 人数 (1)「反乱」農民 (2)脱走兵・徴兵逃れ (3)コサック身分農民 (4)ペトログラード労働者 (5)クロンシュタット水兵と住民 (6)聖職者・信徒 (7)「反ソヴェト」知識人 (8)カデット、エスエル、左派エスエル、メンシェ ビキ、アナキスト 1918.5〜21.6 1918夏〜21末 1919.1〜 1921.2 1921.3 1922.2〜 1922.6〜 1918〜22 クラーク反乱 犯罪、腰抜け 白衛軍加担 反革命ストライキ 白衛軍、反革命の豚 黒百人組 反ソヴェト 反革命、武装反革命 数十万人 数十万人 30〜50万人 5000人 55000人 各々数万人 数万人 (数十万人) (9)亡命者 (10)内戦犠牲者 (11)飢饉死亡者 1917〜22 1918夏〜20.11 1921〜22 / / / (200万人) (700万人) (500万人) (12)総計(最低で見た数字) / 数十万人 (+250万人) (注)、この人数は、肉体的殺人と政治的殺人とを 合計したものです。 3、レーニンの「大量殺人」推計の根拠 (1)「反乱」農民の数十万人殺害 タンボフ、西シベリア、マフノの3大「反乱」だ けでも、「反乱」農民の部隊は14万人います。と くに内戦が基本的に終了した1920年夏から19 21年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家 畜の収奪による餓死の恐怖とも合わさって、「反乱 」が激化し、36県が戦争状態になりました。11 8件または数百件を合計すれば、「反乱」参加者は 、百数十万人から数百万人になります。レーニンは 、その内、数十万人を『裁判なし射殺』『革命裁判 所による48時間以内の死刑』『毒ガス使用による 殺戮』『人質』『強制収容所送り』で「殺し」まし た。 「反乱」農民数十万人殺害の別の根拠を挙げます 。メドヴェージェフが公表したデータによるボリシ ェヴィキ側の死者からの逆算です。農民「反乱」の 武力鎮圧過程において、食糧人民委員部10万人以 上が死亡し、赤軍兵士171185人が死亡しまし た。合わせて27万人以上が死にました。正規の武 装をした権力側がそれだけ死んだのです。「反乱」 農民側の殺害・人質・強制収容所送りの人数がそれ より少ないことはありえません。この逆算式から見 ても、レーニンが、9000万農民のうちで、27 万人をはるかに超える数十万人を「殺し」たことは 明白です。 これらの細目データは『農民』ファイルで書きま した。 (2)兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ十数万人から数 十万人を銃殺・殺害・人質 1919年の公式統計だけで、脱走兵17610 00人と徴兵逃れ917000人がいます。その合 計は2668000人です。他年度の統計は出てい ません。1918年5月の「食糧独裁令」以後に、 徴兵制と内戦が始まりました。1920年11月に 内戦は終結しました。その3年間を単純計算すれば 、266.8×3年=800.4万人になります。 赤軍の正規軍化による最大規模は500万人でした 。80%農民国家において、徴兵者の80%も農民 兵でした。 レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方 では白衛軍との戦争に当て、(2)他地方では、「軍 事=割当徴発」制の穀物・家畜収奪政策と「反乱」農 民鎮圧作戦に使いました。1920年夏以降のタン ボフ県、西シベリア、ウクライナにおける3大農民 「反乱」や36県での農民との「戦争状態」にたい する武力鎮圧に、全面的に赤軍を使い、『裁判なし 射殺』や『毒ガス使用』による「反乱」農民の殲滅 、殺戮作戦に使いました。 徴兵後の、働き手を奪われた家族も穀物・家畜を等 しく収奪され、餓死の危険が迫りました。レーニン ・トロツキーは、農民出身の兵士にたいして、「反 乱」農民を殺す任務を負わせました。白衛軍とたた かうのならともかく、同じ農民を殺す軍隊は、彼ら 農民兵士にとって、犯罪的存在でしかありません。 脱走兵と徴兵逃れが大量に出るのは当然だったので す。トロツキーは、彼らにたいして『犯罪、腰抜け 』とのレッテルを貼りつけました。1921年の公 式統計での赤軍兵士銃殺は4337人です。433 7×3年=銃殺した兵士13011人になります。 レーニンは、徴兵逃れの農民狩りを指令し、チェ ーカーと赤軍に大々的に行わせました。彼は、それ を『捕獲』と名付けて、『捕獲』数を報告させてい ます。その『捕獲』作戦に抵抗する農民を大量に「 殺し」、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を「人質」 に捕りました。彼らが『出頭』しなければ、“見せ しめに”「人質」を殺害しました。その殺人と人質 、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴 兵逃れのうちで、最低でも十数万人になります。 別の算出根拠もあります。『飢餓の革命』(P.16 )にある1920年8月のチェリャビンスク県だけの 『報告』です。『兵役忌避者7340人のうち10 6人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強 制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金 、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もち ろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲』という公式 統計です。 赤太字4項目452人÷7340人=6.15% です。脱走兵・徴兵逃れ800.4万人×6.15 %=約49万人になります。機械的な計算式ですが 、約49万人を監獄、矯正収容所、強制労働、銃殺 にしたことになります。 (3)コサック身分農民30〜50万人殺戮、政策 的餓死 コサック身分農民は、440万人いました。彼ら は、帝政時代から軍事的義務とひきかえに、土地利 用で一般農民より優遇されていました。内戦中は、 「白いコサック(白衛軍側)」と「赤いコサック(赤軍 側)」に分かれ、それぞれが流動的に入れ替わりまし た。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は 、ショーロホフが『静かなドン』において、農民兵 士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、 リアルに描いています。 9000万農民の「土地革命」によって、コサッ ク優遇措置は、一般農民と同じになりました。コサ ック騎兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性 を持っていました。それにたいして、レーニンと政 治局は、コサックにたいしてだけ「土地革命」農民 なみの権利・権限を剥奪し、『農民』ファイルの『 極秘指令(5)』の「赤色テロル」を“先制的に”仕 掛けました。これは、メドヴェージェフの言うよう に『極めてひどい誤りであるだけでなく、ロシア革 命にたいする犯罪行為』でした。レーニンとスヴェ ルドローフは、「未来の反革命因子を排除するため の一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人」を したのです。 レーニンの一方的な「コサック抹殺の先制テロル 」にたいして、コサック騎兵集団が総反発して、対 赤軍の「反乱」を起したのは当然でした。レーニン とコサック反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼは、3 0〜50万人のコサックを戦闘、虐殺、餓死で殺し 、あるいは強制収容所送りにしました。トロツキー は、反乱したコサック村の家族をシベリアに徒歩で 強制移住させ、その「穀物没収した上での死の行進 」手法により、数千人を餓死させました。 1920年10月、生き残ったコサック騎兵3万 人は亡命しました。政治局は、自分の馬と別れ難い ので亡命を断ったコサックを、すべて銃殺するか、 強制収容所送りにしました。これにより、ソ連各地 のコサック領地に住むコサック身分440万農民は 離散しました。亡命者たちの一部は、有名な「コサ ック合唱団」を作り、コサックの歌と踊りを世界に 広めました。 スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠 実に継承しました。それにより、440万人の70 %、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺され ました。これらの詳細を、植村樹・元NHKモスク ワ特派員が『ロシアのコサック』(中央公論社、20 00年)で書いています。 (4)ペトログラードのストライキ労働者逮捕50 00人、即時殺害500人 ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペ トログラード・チェーカーが、1921年2月、全 市を赤軍で包囲し、ストライキ工場をロックアウト した上で、5000人のストライキ指導労働者とメ ンシェビキ党員を逮捕しました。そのうち、500 人を拷問死、銃殺で即座に殺しました。これは、V ・セルジュとメンシェビキ指導者ダンの証言です。 残りの4500人にたいする措置のデータはありま せん。チェーカーは、残りの全員も銃殺する方針で したが、ゴーリキーとセルジュが、銃殺だけは止め ました。 この直前にも、モスクワでの大ストライキがあり 、それも鎮圧されましたが、そのデータは現時点で 分かりません。 (5)クロンシュタット水兵と住民55000人を 殺戮、銃殺、強制収容所送りで殲滅 クロンシュタット・ソヴェトは、1905年革命 、1917年「二月革命」、「十月革命」において、 もっとも先進的役割を果しました。トロツキーが称 賛したように『革命の栄光拠点』でした。そこが、 なぜボリシェヴィキ一党独裁政権にたいして、武装 要求を突きつけたのでしょうか。「15項目綱領」 の要求内容と鎮圧経過については、P・アヴリッチ『 クロンシュタット1921』と、イダ・メット『ク ロンシュタット・コミューン』、および私(宮地) の『ザミャーチン「われら」と1920、21年の レーニン』が分析しています。 水兵10000人と労働者4000人のほとんど が殺されました。判明しているのは、『共産主義黒 書』にある『四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判 決を受け、六四五九名が投獄された』ことです。8 000人が氷結したフィンランド湾を渡って、フィ ンランドに逃げました。レーニンは、『恩赦する』 と騙して、彼らを帰国させました。そして、全員を 逮捕し、強制収容所送りにしました。しかし、彼ら は『すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツ キー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その 大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投 ぜられた』のでした。 生き残ってソロフキ収容所に送られた者も、収容 所内の処刑システムで殺されました。内田義雄・元 NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版 、2001年、P.55)で次の事実を記しています。 『一九二一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮 圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られ てきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残 党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろ いろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、 ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはし けに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。その なかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何 とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦な く撃たれた。それが何回も繰り返された』。 レーニンは、クロンシュタットの「武装要求」に たいして、『白衛軍の将軍の役割』と、真っ赤なウ ソをつきました。農民・労働者・兵士の「総反乱」 による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニ ン・政治局は、それだけでなく『反革命の豚』とい うレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフス キーに“皆殺し”を指令しました。『反革命の豚』 の「殺し方」が上記のようになるのは必然でした。 (6)聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害 この経過、内容とデータは、『聖職者』ファイル で分析しました。彼らは、精神的にはともかく、具 体的な「反革命」運動に加担していませんでした。 この大量殺人指令と殺戮は、「コサック農民への赤 色テロル」に次いで、レーニンが、第2回目の「未 来の反革命因子を排除するための一つの階層まるご とを抹殺する大量予防殺人」をしたものでした。 (7)「反ソヴェト」知識人の“肉体的排除”数万 人 これも『知識人』ファイルで書きました。これは 、レーニン第1回発作による「12×7」の計算が できなかった直後からの、レーニン直接指令による 「ボリシェヴィキとその同盟者」以外の知識人解体 措置でした。それまでのロシア文化の破壊行為でし た。これは、レーニンの第3回目の「大量予防殺人 =“肉体的排除”」でした。この「大量予防殺人」 を細かく、個々の知識人名までリストアップし、“ 肉体的排除”遂行をしている最中の1922年12 月に第2回発作が起き、彼の政治活動が終りました 。 (8)カデット、エスエル、左派エスエル、メンシ ェビキ、アナキスト 1917年7月時点で、エスエル党員100万人 、メンシェビキ党員20万人がいました。この粛清 人数を(カッコ)つきにしたのは、他の階級、階層の 殺人数と重複しており、独自の数値を推計できない からです。ただ、「スターリンの粛清」により、こ れら百数十万人の全員が、亡命した者以外、一人残 らず殺されました。 (9)飢饉死亡者500万人 これを(カッコ)つきにしたのは、レーニン・政治 局の(1)意図的政策による餓死者数と、(2)天災要 因が基本の飢饉死亡者数との区別が、現時点での研 究では不明確だからです。飢饉死亡者500万人と ウクライナの死者100万人は、ほぼ定説になって います。ランメルは、そのうち、(1)意図的政策 による餓死者数を250万人としています。 これらには、天災の要因が当然あります。しかし 、レーニンは、1918年5月から1921年3月 までの2年10カ月間にわたる過酷な「食糧独裁令 」を強行しました。とくに1918年11月からの 「軍事=割当徴発」制による一方的な穀物・家畜収 奪路線は、全農民と国民を餓死寸前に追い込みまし た。一方、それは、ソ連全土で、9000万農民の 農業経営意欲を喪失させ、農業経営を縮小・崩壊さ せるました。これは、まさに、レーニンの「マルク ス社会主義青写真」に基づく、根本的に誤った「市 場経済廃絶」路線でした。その誤りを主要な原因と し、餓死寸前の状況に、天災が重なって、500万 人が「飢え死に」したのです。 レーニンが、コサックや「存在しない富農=余剰 穀物のある農民」にたいして、『穀物をのこらず没 収せよ!』と指令したように、3大農民「反乱」地 方、36県の「農民との戦争状態」地方、数百件の 「反乱」地域にたいして、その武力鎮圧・殺戮、『 毒ガス使用』だけでなく、それらの鎮圧後、報復と して『穀物の完全没収』をさせて、意図的に餓死さ せるという「飢餓の殺人」政策を採ったことが考え られます。しかし、それは、「レーニン秘密資料」 6000点の完全公開と「飢饉史」の研究が進まな いと分かりません。 (12)総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人 レーニンが「殺した」自国民の数は、これらのデ ータを単純合計すれば、百数十万人になります。こ れは、白衛軍との戦争における死者700万人を除 いた数です。意図的な「飢餓の殺人」を合わせれば 、数百万人を「殺し」ました。しかし、最低値とし て「数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口 で殺した」ことは間違いありません。「レーニン秘 密資料」6000点が全面公開されれば、この推計 もさらに正確になります。以上のデータは、200 2年時点における公表資料範囲内での近似値です。 私(宮地)の判断では、ソ連崩壊後に公開された 「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)を見る かぎり、『農民』『聖職者』『知識人』ファイルで 分析したように、その「大量テロル」において、レ ーニンの側に正当性がまったくありません。レーニ ン路線への抵抗・「反乱」・異論は、レーニンの「 食糧独裁令」による収奪とその根底にある根本的に 誤った「マルクス社会主義青写真の市場経済廃絶」 理論にたいする正当なものでした。個々の具体的な 「指令・命令・布告」を見ても、それらがいかに誤 りであったのかは、3つのファイルで論証しました 。ましてや、上記3件の『予防的大量殺人』にいた っては、完全な「犯罪」です。よって、(表)の数 字の性格は、「レーニンの大量殺人」「レーニンが 殺した」という日本語以外に適切な言葉がありませ ん。この推計が事実となると、別の疑問が生まれま す。 『数十万人を「殺し」たレーニン』とは、一体何 者であったのか。『このような大量殺人を指令した 人間は、はたして社会主義者を“自称”できるのか 』という根源的な疑問です。 4、レーニンの人間性 このファイル全体は、亡命革命家から、『クーデ ター』手法によって世界近代政党史上最大の権力を つかみ、一党独裁政治家となったレーニンの5年2 カ月間の一側面=「大量殺人をした国家テロ指令者 」のデータです。その期間は、1917年11月か ら1922年12月の第2回発作までです。それ以 降は、「党大会への遺書」と「5つの短い文書」を 、一日数十分の口述筆記で残しただけです。 (1)このデータと、(2)「レーニン全集」の5 年2カ月間分とを統合し、さらに、(3)「レーニ ン秘密資料」6000点を付け加えれば、『マルク ス主義者、社会主義者であり、かつ、近代政党史上 初の数十万人を殺した「赤色テロル」指令者』とし てのレーニン像が形成されます。それについては、 山内昌之『革命家と政治家との間』が、鋭い洞察を しています。 そして、「マルクス主義型社会主義青写真の市場 経済廃絶理論実験者レーニン」と「数十万人殺人の 国家テロ指令者レーニン」とが結合した人物とは、 何であったのかという“思想・人格解剖”に進みま す。それでも、レーニンは正しかったのか、それと も、今や、レーニンを“廃棄”すべきなのか、とい うテーマが待っています。その先には、レーニンの 「殺人是認の社会主義思想、殺人指令」の理論的根 拠となった「マルクス理論」のどこまでが正しく、 どの部分を誤りとして“廃棄”すべきなのか、とい うテーマも待ち構えています。 『理想のために数十万人の自国民を殺すことが許 される社会主義』、および、『あのような殺人思想 用語や殺人指令用語を発するレーニンの人間性』を 正しいものと認めることができるのかどうか、とい う問題です。 1、「1918年〜21年のレーニンと農民」のデー タと文献 このファイルは、「反乱農民大量射殺型社会主義 者レーニン」を分析します。その期間は、約3年間 です。1918年5月「食糧独裁令」発令から、1 921年6月タンボフ「反乱」農民への『裁判なし 射殺』『毒ガス使用』指令による農民大量殺戮まで です。以下の内容は、1922年の「聖職者全員銃 殺指令」「知識人大量追放指令」ファイルとの姉妹 編になります。「レーニンの粛清」シリーズの一つ として、全体の〔目次〕構成のしかたもほぼ同じに しました。従来の「労農同盟」論とはまるで異なる 「農民大量殺人者レーニン」の分析です。よって、 このテーマに関しても、ここで使用している7つの 文献・データの信憑性が問題になります。本文に入 る前に、それらの文献と私(宮地)の判断をのべま す。 (1)(2)、梶川伸一名城大学助教授『飢餓の革命 』(名古屋大学出版会、1997年)、『ボリシェヴ ィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、1998 年)。この2冊は、連作形式になっています。いずれ も、ソ連崩壊後に公開された膨大な量のアルヒーフ( 公文書)に基づく実証的な研究です。1冊目は、「ロ シア十月革命と農民」のテーマで、十月革命、19 18年5月の食糧独裁令強行、農村における階級闘 争を引起すための貧農委員会とその失敗、解散まで を分析しています。579ページの大著です。 2冊目は、その続編となる631ページの大著で す。これは、食糧独裁令の第2過程「軍事=割当徴 発」制を、1918年11月から1920、21年 の大規模な農民「反乱」までの研究です。溪内謙『 スターリン政治体制の成立』(岩波書店、1970年 )は、スターリン時代における農村危機を研究したも ので、レーニン時代には触れていません。よって、 この2冊は、ソ連崩壊後に初めて発表された、レー ニン・ボリシェヴィキ権力と農民・農村問題にかん する本格的な文献です。 (3)(4)、ロイ・メドヴェージェフ『10月革命 』(未来社、1989年)、『1917年のロシア革 命』(現代思潮社、1998年)。これらは、ロシア 革命全体の分析で、農民問題が中心ではありません 。しかし、ボリシェヴィキ権力と80%、9000 万人農民との関係は、ロシア革命史において決定的 な意味を持ちました。よって、農民・農村問題は、 著書で大きな位置を占めています。1冊目は、19 17年「二月革命」から、1918年の「困難な春 」までにおける選択肢を研究しています。2冊目は 、ソ連崩壊後の新資料も取り入れて、1921年「 ネップ」までの期間を分析しました。そして、ソ連 崩壊を、「急進主義的誤りの歴史的敗北」と規定し 、かなり突っ込んだレーニン批判をしています。研 究のしかたとして、それぞれの時期に、いくつかの 他の選択肢が存在した、かつ、そちらを選択できた という立場と論証に基づく「選択肢的歴史研究方法 」を駆使しています。私(宮地)も彼から学んで、 このファイルも同じ方法で書いています。 (5)、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(NH K出版、1995年)。このファイルで使用している のは、『下』第6章の一節「農民を食いものにする 連中」(P.150〜175)と、『上』第4章の一 節「テロルという名のギロチン」(P.373〜391 )です。このデータも、「レーニン文書保管所」にあ る「レーニン秘密資料」約6000点の内容で、レ ーニン第一次資料です。彼は、陸軍大将、歴史家で 、ソ連国防省歴史研究所所長でした。その立場から 「秘密資料」の自由な閲覧を許された最初の研究者 でした。「極秘文書」を駆使して書いた『勝利と悲 劇、スターリンの政治的肖像・上下』(朝日新聞社、 1992年)が、当時の保守派からの批判にさらされ 、所長を辞任させられました。『トロツキー、その 政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1994年)と合 わせて、「指導者3部作」を執筆しました。スター リン、トロツキーの2冊については、ロシア語原本 からの翻訳で、「文書保管所名、フォンドno、目録 no、資料no、ファイルno」の膨大な(注)も訳されて います。『レーニンの秘密』は、それらの「ファイル no」などを省略した英訳本からの日本語訳です。残念 ながら、本来の(注)がカットされています。しかし 、このファイルで引用する「レーニン秘密資料」の 典拠は、ロシア語原本にあります。 (6)、P・アヴリッチ『クロンシュタット19 21』(現代思潮社、1977年)。これは、192 1年3月に起きたクロンシュタット・ソヴェト水兵 反乱の本格的研究書です。この兵士反乱は、192 0・21年の大規模な農民反乱、1921年2月の ペトログラード労働者ストライキと密接な相互関連 を持っています。それらは、「食糧独裁令」撤廃を 要求し、かつ、ボリシェヴィキ一党独裁に反対する 農民・労働者・兵士ソヴェトによる同時多発蜂起で した。アヴリッチは、その視点で、農民「反乱」、 労働者ストライキの分析も正確にしています。 (7)、ソルジェニーツィン『収容所群島』(新潮社 、1974年)。彼は、6部構成中、第1部において 、「レーニンの粛清」を具体的に描いています。私 は、『収容所群島』第1部2カ所の抜粋を、私のH Pに転載しました。彼がなぜ西側に追放されたのか 。それは、彼が「レーニンの前衛党犯罪」をこれに よって、ソ連で初めて克明に暴露したからである、 というのが、私(宮地)の見解です。 2、レーニン・政治局による「反乱」農民射殺・ 人質指令の『極秘』資料 以下、10の指令・命令、布告を載せます。期間 は、1918年8月から、1922年5月、「銃殺 刑の範囲拡大とテロル」指令までです。 〔小目次〕 (1)、1918年8月18日、「暴動」農民 の絞首刑指令 (2)、1918年8月20日、「富農の人質 」指令 (3)、1918年夏、「テロル」指令 (4)、1918年9月5日、「赤色テロルに ついての布告」 (5)、1919年1月21日、「コサックへ の赤色テロル」指令 (6)、1919年2月15日、「鉄道除雪作 業農民の人質」指令 (7)、1920年10月19日、「タンボフ 県の農民反乱への鎮圧」指令 (8)、1921年6月11日、「タンボフ農 民への『裁判なし射殺』」指令 (9)、1921年6月12日、「『毒ガス使 用』によるタンボフ農民の絶滅」命令 (10)、1922年5月15日、17日、「銃 殺刑の範囲拡大とテロル」指令 (1)、1918年8月18日、「暴動」農民の絞 首刑指令 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』( 講談社、1996年、P.307)のデータです。彼の 直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「 レーニン秘密資料」です。それは、レーニンの手書 きの手紙でした。同一指令内容が、梶川『飢餓の革 命』(P.547)にもあります。ただ、その日付は「 8月11日」になっていますが、岩上著の日付にし ました。 『ロシア連邦ソビエト共和国 人民委員評議会議 長 モスクワ・クレムリン 一九一八年八月十八日 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン 同志他のペンザ市の共産党員達へ 同志諸君! 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借な き鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の 決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなって いる。あなた方は模範を示さなければならない。 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人 は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように 、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。 二、彼らの名前をすべて発表すること。 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の 富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民す べてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声 をあげるようにしなければならない。(私の)電報 の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさ い。 あなたのレーニンより 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しな さい。』 1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措 置の報告」督促電報 梶川『飢餓の革命』(P.547)に、この「電報」 が載っています。 『「手本」を示さないペンザ県執行委にレーニン は八月二九日に繰り返し打電した。「五郷のクラー クの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、 深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかにつ いて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはき わめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である 。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰 を一掃する必要がある」(Ленинский сб орник.xviii.c.209.)』 (2)、1918年8月20日、「富農の人質」 指令 2つのデータを載せます。まず、梶川『飢餓の革 命』(P.548)の資料です。 『戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対し て頻繁に人質(заложник)が利用された。八 月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物が あるのに、搬送することができないのは最低の不面 目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命 を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(Г АР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。そ れに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではな く、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的 は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つよう に、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張 ることである。そのような指令(「人質」を指名す ること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出 されている」(Ленинский сборник .xviii.c.145−146.)と述べている。』 『レーニンの秘密・上』(P.376)に詳しく書 かれています。。 『テロルは反体制的行為で有罪となった者にたい してのみ適用されたという反論があるかもしれない 。だが、そうではなかった。赤色テロルについての 命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産 人民委員のA・D・ツュルーパに、「すべての穀物生 産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで 抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきで ある」という命令を出すように勧告している。ツュ ルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題に ついては返事をしなかった。すると、次の人民委員 会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事 をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパ は、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇 想天外だったため、どういう段取りでそれを行った らいいかわからなかったのだと弁明した。これはな かなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらに もう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にし た。「私は人質を実際にとれといっているのではな い。各地区で人質に相当する人間を指名してはどう かと提案しているのである。そうした人たちを指名 する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献す る義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み 出しに協力しなければ生命はないものと思わせるた めである」。 そのような措置は差しせまった状況があったから で、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるの はまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型 的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八 年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内 戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこ う書いている。「この地域での富農(クラーク)と自 衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打 たねばならない。一分もむだにするな。この地区の 貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物 、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせ よ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人 を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、 これを軟禁せよ」。』 (3)、1918年夏、「テロル」指令 これは、『レーニンの秘密・上』(P.326)の 内容です。そのまま引用します。 『レーニンの口調は、だんだん尋問官、検事、死 刑執行人に近くなっていった。一九一八年夏、彼は ペンザの指揮官に、「富農、聖職者、自衛軍には容 赦なくテロルを実行せよ。信用できない人間は町の 外の強制収容所に入れよ」と命じた。八月にはトロ ツキーヘ、「今後、われわれはフランス革命をモデ ルとし、[陸軍司令官および]上級指揮官が軍事行 動をためらったり、失敗したりした場合は、裁判に かけ、処刑することさえあると[司令官たちに]伝 えるべきではないか?」と打電した。翌月、彼は再 度トロツキーへ電報を打ち、「カザンへの作戦の遅 れに驚きあわてている。この町を惜しいとは思うな 。これ以上の遅延は許すな。必要なのは容赦なき破 壊だからだ」。一九一八年六月三日付けの宛名不明 の電報はこうだ。「もし攻撃があれば、バクーの町 を徹底的に焼き尽くすあらゆる準備を整えておくよ うに、テル[ザック・テル−ガブリエリャーン、バ クーのカスピ海石油センターのコミッサールで地元 のチェーカーのボス]に命令できるはずだ。バクー ではこれを文書で通達せよ」。 内戦期間中にレーニンは、陰謀加担者、逮捕に抵 抗した者、武器の隠匿、不服従、尻込み、不注意、 偽報告などの広範囲にわたる違反行為を行った異端 者を、射殺するよう指揮官たちに命じている。自ら は、戦争の恐ろしさを目の当たりにすることのない クレムリンや、モスクワ郊外の快適な別荘にとどま っていることを望んでおきながら、レーニンの発す る命令や指示はますます残酷さをつのらせていった 。そうした殺戮を自分の眼で見ていたなら、彼がど う対処したかは想像することができない。たしかに 、この時期に彼が発表したたくさんの論文や公的な 場での演説では、反革命派や裏切者を射殺せよとは ほとんどいっていない。冷酷な指示は暗号化された 電報や秘密文書、人民委員会議の名で出した無記名 の布告によって行うようにしていた。彼は自分の評 判を気にしていた。死刑執行人の汚名を着せられた くなかったのだ。この点ではまずは成功だった。歴 史はこの点について彼を、全般的に悪人として裁い てはいないからである』。 (4)、1918年9月5日、「赤色テロルについ ての布告」 「赤色テロル」は、「白色テロル」にたいする『 報復テロル』である、というのが、従来の「レーニ ン神話」です。しかし、ソ連崩壊後の研究では、現 ロシア内外で、それと異なる見解が増えています。 テロルはソヴェト体制の本質をなしている。191 8年8月までは事実上、9月5日からは公式に実施 された、とする内容です。 「布告」内容は、『レーニンの秘密・上』(P.3 75)にあります。レーニンが、エスエル党員カプ ランによって、モスクワのミヘリソン工場で狙撃さ れたのは、8月30日でした。 『ミヘリソン工場での暗殺未遂事件以前に、チェ ーカーによるテロルはすでに心に寒気をもよおさせ る現象になっていた。射撃の時のボルト・アクショ ンの二音に似た「チェー・カー」と聞いただけで、 会話はぴたりと止んだ。反革命・サボタージュ取締 全ロシア非常委員会を指す「チェーカー」が、フェ リックス・ジェルジンスキーを議長として設立され たのは一九一七年十二月だった。彼は異端分子のき びしい取り調べ、冷酷無情、執念深さで“鉄のフェ リックス”の異名があった。レーニンの暗殺未遂事 件は、ちょうどいい時に起こった。体制側は兵士を 戦わせたり、確実に穀物を供出させるには、テロル を使うしかなかった。暗殺未遂事件から一週間後の 一九一八年九月五日、レーニンの欠席でスヴェルド ロフが議長を務めた人民委員会議(ソヴナルコム)の 会合で、ジェルジンスキーとスヴェルドロフが大規 模テロルの問題を提起し、ジェルジンスキーが短い 報告書を読み上げた。いつもの「煮え切らない態度 」とは打って変わった「赤色テロルについて」彼ら が承認した布告を見て、レーニンはたいへん満足し た。ここにその全文を引用する価値があると思われ る。 「全ロシア[チェーカー]の議長の報告を聞いた 人民委員会議は、現状においてはテロルを使った銃 後の保安は絶対に必要であることがわかった。[チ ェーカーの]活動を強化し、これにいっそう徹底し た性格を導入するために、できるだけ多くの党の同 志にそこで働いてもらうようにすることが何よりも 大事である。ソヴィエト共和国を階級の敵から守る には、敵の強制収容所への隔離、白衛軍の組織・陰 謀・反乱に関与した者の射殺は当然である。これら の処刑された者の名前、およびこうした措置を適用 した根拠についても、当然公表することとする。」 レーニンは欠席したので、司法人民委員クルスキ ー、内務人民委員ペトロフスキー、総務部長のポン チ・ブルーエヴィチがこの布告に署名した。亡命し た歴史家のセルゲイ・メルグノフは、「テロルの精 神的恐怖、それが人間の心理に与える衝撃的な影響 は、個々の殺人や、その数でさえなくて、そうした 制度そのものにある」といっている。フランス革命 の間はギロチンの刃が革命の悲しい産物を絶え間な く刈り取ったが、今やチェーカーが住民の間を、銃 を撃ちまくりながら突進していた。』 (5)、1919年1月21日、「コサックへの赤 色テロル」指令 この日付は、中野徹三『共産主義黒書を読む』の ものです。そこでは、「赤色テロル」司令官オルジ ョニキッゼは、ドンとクバンのコサック30万人か ら50万人を殺戮、粛清したとしています。コサッ クは、農民で、440万人いました。ただ、帝政時 代から兵役義務と引き換えに、入植地の土地利用で 一般農民より優遇されていました。レーニンは、農 民「土地革命」と同じように、土地優遇措置を追認 していました。内戦中は、「赤いコサック」と「白 いコサック」に分かれ、それも流動的に入れ替わり ました。内戦に翻弄されるありさまは、ショーロホ フが『静かなドン』で、農民兵士クリゴリー・メレ ホフの流転の生涯を通じて、生々しく描いています 。レーニン・政治局は、当時のコサック側に何の原 因もないのに、コサック優遇措置を一方的に破棄し た上で、下記の「赤色テロル」を先制的に仕掛けま した。メドヴェージェフ『1917年のロシア革命 』は、「2月」となっています。メドヴェージェフ の文(P.121)をそのまま引用します。 『一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、そ の兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分 が急変し、三百万人にまで増員することが決定され ていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋ま でに内戦を成功裡に終結させることができるだろう との確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、 赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるので ある。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村 を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の 火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であ った。反乱の原因はドン上流地域のコサック村でお こなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。この テロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司 令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼 らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近 開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を 全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから 入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委 員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議 長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組 織局決定であった。指令は次のようなものであった 。 「各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、 コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック 部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に 対し、上記地区での仕事の性格について指示を与え ねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ 、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、 彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいもので あると認めねばならない。 一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこな い、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴイ エト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの 参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロル をおこなうこと。中間コサックに対してはソヴイエ ト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかな る試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること 。 二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運 び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あ らゆる農産物に適用される。 三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる 措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。 四、土地関係やその他すべての関係において、他 都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること 。 五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降 に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること 。 六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々 にのみ武器を渡すこと。 七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村 には武装した部隊を駐留させること。 八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミ ッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して 本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコ サックの土地へ大量に移住できるように実際的措置 を早急に準備すること。 ロシア共産党中央委員会」(党中央アルヒーフ、Ц ПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216) 二月にドン上流地域のコサック村で実施され始め た恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコ メントするつもりはない。これは極めてひどい誤り であるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行 為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果 については言うまでもない。二月のスヴエルドロー フ指令が実施されたのはコサックの州なのである。 この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いに たけており、大、小の村落で動員を短時間におこな い、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することが できるのである。この状況で「非コサック化」と大 量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招 き、南部戦線の安定だけでなく、革命の運命をも脅 威にさらすことになるのである。現にドン上流地域 で始まった反乱を鎮圧することは出来なかった。ド ン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し 、対コサックのために投入され、たいていは大急ぎ で編成された兵団をことごとく打ち破った。このお かげでデニーキン軍は十分に態勢を整え、一九一九 年五月、強力な攻撃を開始することができたのであ る。六月末までにデニーキン軍はウクライナのほぼ 全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの 部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコフを 、六月三十日にはツァーリンを放棄した。』 (6)、1919年2月15日、「鉄道除雪作業農民 の人質」指令 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P. 42)にあり、この指令は『ソヴェト政権の法令』( 第4巻、モスクワ、1968年、P.627)に載って います。 『一九年二月十五日付の国防会議(おそらくレーニ ンを議長として行われたにちがいない)の決定で、鉄 道の除雪作業が「あまり十分に行われていない」地 方の農民を人質にとることが、「もし除雪が行われ ない場合には農民たちは射殺される」という付帯事 項付きで非常委員会と内務人氏委員部に命ぜられて いる』 (7)、1920年10月19日、「タンボフ県 の農民反乱への鎮圧」指令 1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時 に、タンボフ県の農民「反乱」始まりました。「反 乱」農民は、最大時5万人になり、300組織に広 がりました。梶川氏は、『ボリシェヴィキ権力とロ シア農民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大 なアルヒーフ(公文書)を使って、「反乱」原因・経 過を詳細に分析しています。そこでのレーニンの指 令(P.604)を引用します。 『九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代 理から次の文書が送られた。「わが状態は悪化して いる(わが二個中隊が武装解除され、そのようにし て四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、 全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物 を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二 二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇 〇しかない」。この恐ろしい現実を知悉したレーニ ンは、直ちにチェー・カー議長ジェルジーンスキィ に「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態 はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事 は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフ の事件もこのことに集約された。二七日にブリュハ ーノフ宛てに次のように書き送った。「タムボフ県 について。注意を払うように。一一〇〇万プードの 割当徴発は確実だろうか」。これとの関連でさらに 一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーン スキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行 委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のた めの必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同 時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖 獗を「醜悪の極み」として、タムボフ県のぼんくら なチェー・カー員と執行委員を裁判にかけ、国内保 安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命 じたのは、依然として根絶されない反革命的行為へ の彼の焦燥感の表現であったろう。二月になると抑 圧的措置が強化され、「匪賊的村」が焼き討ちされ た。』 (8)、1921年6月11日、「タンボフ農民 への『裁判なし射殺』」指令 「指令」内容を書く前に、なぜ、レーニンは、こ のような指令を出したのかについての背景説明をす る必要があります。1921年2、3月とは、どう いう時期だったのでしょう。それは、(1)内戦終結 の20年秋以降に勃発し、続いている3大農民「反 乱」、(2)モスクワ・ペトログラードの全市的労働 者ストライキ、(3)クロンシュタット・ソヴェト 水兵反乱という、同時多発「反乱」が激発した時期 でした。即ち、レーニン・ボリシェヴィキ政権の3 年余の誤り・武力支配にたいする武力要求行動が、 全分野で集約的に表面化した最大の危機の時期でし た。。各階級・兵士の個別要求とともに、そこに共 通してあるのは、「食糧独裁令」撤廃・「穀物自由 商業」承認の要求とボリシェヴィキ一党独裁反対の 要求でした。政権崩壊の危機に直面して、レーニン は、あくまで一党独裁システムに固執するための二 面作戦を採りました。一方は、「食糧独裁令」を“ やむなく”撤回して、「一時的戦術的後退」として の「自由商業=資本主義」を承認する「ネップ」を 、3月のロシア共産党(ボ)第10回大会で発令しま した。他方は、すべての「反乱」を『反革命』『武装 反革命』とすりかえる詭弁を使って、「反乱」農民 ・労働者・兵士を“皆殺しにする報復作戦”でした 。 3つの同時多発「反乱」分子への“皆殺し・報復 「赤色テロル=国家権力テロル」”として、レーニ ンは、3方面体制を採りました。ペトログラード・ ストライキ参加労働者・メンシェビキ党員にたいし ては、ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフ とペトログラード・チェーカーによって、5000 人を逮捕し、そのうち、500人を即座に、拷問死 、銃殺しました。その数日後に、クロンシュタット ・ソヴェト水兵反乱が勃発しました。赤軍内にも動 揺が広がりました。農民「反乱」と兵士反乱を同時 に“皆殺し「赤色テロル」”で鎮圧をするには、そ の自国民大量殺戮行為、しかも同じ赤軍仲間の殺戮 を忠実に執行する赤軍兵力が足りませんでした。や むなく、レーニンは、二段階作戦を採らざるをえま せんでした。 第1段階、クロンシュタット水兵反乱を、まず先 に殲滅する。なぜなら、クロンシュタット・ソヴェ ト水兵は、国家暴力装置の根幹であり、ソ連海軍バ ルチック艦隊の中心であり、「革命の栄光拠点」だ ったからです。その鎮圧が遅れれば、チェーカーと 赤軍に依存した「暴力革命・支配体制」の一方であ る赤軍自体が内部崩壊してしまうからです。という のも、1919年の赤軍兵役忌避者が、徴兵逃れ9 1.7万人と脱走兵176.1万人を合わせて、合 計267.8万人も出ました。20年も同じと計算 すると、2年間で535万人が、徴兵逃れ・脱走を していることになるからです。 レーニンは、トハチェフスキーを鎮圧司令官とし 、赤軍5万人を急派しました。水兵・住民5500 0人を、戦闘による殺戮、鎮圧後の銃殺、拷問死、 強制収容所送り、その途中での殺害、強制収容所に おける銃殺などで“皆殺し”にしました。それは、 赤軍同士がたたかうという「ロシア革命史」上、も っとも凄惨な殺し合いになりました。レーニン、軍 事人民委員トロツキーと司令官トハチェフスキーは 、鎮圧部隊5万人に、クロンシュタット側の「15 項目の綱領」要求を秘匿したままで、突撃を命令し ました。氷結したフィンランド湾上を、コトリン島 要塞目指して進む鎮圧側赤軍部隊のいくつかは、ク ロンシュタット側に、寝返えろうと行動しました。 トロツキーとトハチェフスキーは、その寝返り赤軍 部隊を、背後から機関銃で射殺させました。鎮圧後 、レーニンとトロツキーは、赤軍内部崩壊を食い止 めるために、赤軍内粛清とともに、ソ連全土での赤 軍部隊編成変えを実施しました。 第2段階、水兵“皆殺し”後の4月、レーニンは 、ただちに、タンボフ県に、トハチェフスキーを農 民「反乱」鎮圧司令官とし、赤軍5万人を、クロン シュタットから転進・急派しました。 以下は、『レーニンの秘密・下』(P.160)に ある「アントーノフの反乱」鎮圧経過です。 『一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキ ー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲 列車三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数 隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個 があった。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ご と焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜は とらないことになっていた。反乱の指導者アントー ノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度 抵抗を試みようとしており、ボリシエヴィキを数カ 月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月 、彼はチェーカーに密告され、一カ月後、彼の兄弟 とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時 間あまりそこにこもっていたが、軍隊が小屋に火を 放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺さ れた。引きつづいて軍隊が、アントーノフを助けた と見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑し た。』 その鎮圧前に、レーニンは、この農民「反乱」に たいして、大量の「人質」政策をとり、モスクワに 送らせました。そのデータも、『レーニンの秘密・ 下』(P.158)にあります。 『一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長の ヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこ う書いている。「現在、モスクワの拘置所には、タ ンボフ県からの大勢の農民が入れられています。ア ントーノフの一団が一掃される前に、身内のために 人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収 容所には五六人、セミョーノフには一三人、コジュ ホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が 二九人、十七歳以下の若い人が一五八人、十歳以下 が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼ ろをまとい、身体の半分は裸という惨めな状態でモ スクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子 供たちはごみの山をあさって食物を探しています… …政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼 らの故郷の村への送還を請願いたします。」 政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を 貸さなかった。』 6月11日、レーニンは次のような命令を、政治 局の承認をえて、発令しました。これは、『レーニ ンの秘密・下』(P.158)の「レーニン秘密・未 公開資料」によるものです。その文をそのまま引用 します。 『「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボ フ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって 撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこち で少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリ ラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシ ア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令す る。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁 判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質を とった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなか った場合は射殺すること。(3)武器を隠しもって いることが発見された時、一家の最年長の働き手を 裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラを かくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は 没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺 すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家 では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺す ること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合に は、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たち に分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこ と。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行するこ と。この命令は村の集会で読み上げること」。政治 局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認め ていた。』 (9)、1921年6月12日、「『毒ガス使用 』によるタンボフ農民の絶滅」命令 メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命 』(P.125)で、次のように認めています。 『ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二 一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だ が今度は国が「土台まで」破壊されていた。工場は 操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去 っていった。農業生産は半減した。だが農民は、た だぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再 び武器を取って立ち上がり始めた。ロシア中央部で はエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率 いられたタンボフの反乱、すなわち「アントーノフ の」反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初 めて軍は兵器庫から化学兵器を取り出し、使用した 。』 ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘 密・下』(P.135)で公表しました。 『一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政 治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令 官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧 すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告す るように命じられた。トゥハチェフスキーはその期 限を守ることはできなかったが、要求の達成には全 力を尽くした。 六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような 命令を出した。 敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが 森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている 。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを 一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ 、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させ るように綿密な計画を立てること。 (2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、そ の取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派 遣すること。 体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階 級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、 似たような措置は他のところでもとられ、政治局は それを承知し、認めていた。』 (10)、1922年5月15日、17日、「銃殺 刑の範囲拡大とテロル」指令 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P. 342)にあり、15日の指令は『レーニン全集』( 第42巻、P.586)に載っています。5月17日「 手紙」は、『レーニン全集』(第33巻、P.371) にあります。 『五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会 会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっ ていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキ にいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出され たばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑 を規定していた。これは満足すべきものではなかっ た。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、 同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた (その中には、第六九条による宣伝および煽動…特 に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義 務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは 主要な結論を司法人民委員にこう説明した。 「同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外 追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメ ンシェビキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活 動に対してひろげねばならないと思う。これらの活 動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つ けねばならないと思う」(傍点はレーニン) 銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ )これにすぎるものはない!(国外に追放された者は 多かったろうか?) テロとは説得の手段である。 このことも明白だろう! だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解す ることができなかった。彼にはおそらく、この定式 をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのよ うにとらえたらいいかわからなかったにちがいない 。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会 議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る 由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけ るようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。 「同志クルスキー! われわれの会談を補うもの として、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおく る……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基 本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおも う。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、 その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい (狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命 題を公然とかかげるということがそれである。 法廷はテロを排除してはならない。そういうこと を約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であ ろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、 粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。 できるだけ広く定式化しなければならない。なぜな らば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを 実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を 与えるだろうからである。 共産主義者のあいさつをおくる レーニン」 私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことに する。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわ しい。 この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンの この世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺 言の重要部分であるという点で特に貴重である。こ の手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒 中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの 病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の 手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さ な書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨 終の床となった場所であった。』 (1922年5月26日、レーニン第1回脳卒中発 作。5月30日、「12×7」の計算ができない症 状になる。この分析は、『「反ソヴェト」知識人の 大量追放作戦とレーニンの党派性』にあります。) (レーニンは、5月「銃殺刑の範囲拡大とテロル」 指令の2カ月前の3月に『聖職者全員銃殺』を指令 し、聖職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害をしま した。脳卒中病み上がりの6月に『「反ソヴェト」 知識人の大量追放作戦』を指令し、知識人数万人を 3方針で“肉体的排除”しました。) (レーニンは、3回の発作を経て、死去しました。 第2回、1922年12月16日。12月23日〜 26日、『党大会への手紙』口述。第3回、192 3年3月10日、以後、口述も不可能。死去、19 24年1月21日。) 3、農民「反乱」規模と射殺・人質数データ(表1 、2、3、4) 〔小目次〕 (表1) 1918年5月から20年までの農 民「反乱」、兵役忌避 (表2) 1920、21年の農民「反乱」と規 模 (表3) 1920、21年の「反乱」農民の射 殺・人質数 (表4) 「反乱」農民、その他の銃殺・死者 の総計 (表1) 1918年5月から20年までの農民「反乱 」、兵役忌避 期間 項目 地域と規模 出典 1918〜20 1918 1918・6 「ソヴェト政権転覆の陰謀」 農民射殺 有名な暴動 農民銃殺 各県で続々と発覚したソビエト政権転覆の陰謀、リ ャザンで2件、コストロマー、ヴイシニイ・ヴォロ チョク、ヴェリジで各1件、キエフ、モスクワで各 数件、サラトフ、チェルニゴフ、アストラハン、セ リゲル、スモレンスク、ボブルイスク、タンボフ、 カヴァレリイスク、チェムバルスク、ヴェリーキエ ・ルーキ、ムスチスラーヴリで各1件など 貧農委員会が村ソビエトの入口階段の陰や裏庭で片 づけた人びとはどの欄に入れたらよいのか? ヤロスラフ、ムーロム、ルイビンスク、アルザマス の暴動 コルピノでの銃殺だが、これはどんな事件なのか? どんな人びとが殺されたのか? 『収容所群島』 (P.41) 1918 農民蜂起 17年の農民運動の先頭に立っていたトゥーラ、ヤロ スラヴリ、タムボフ、オリョール、ニジェゴロド、 リャザニ、クルスク、ペンザ、ヴィヤトカ諸県をは じめとする18年の大規模な農民蜂起 それらの県で54件の農民反乱 長尾久『ロシア十月革命の研究』、『飢餓の革命』 所収 1918夏 1921・3〜 徴兵制 動員解除 18年夏に徴兵制。赤軍は4月15万人、9月55万人、20 年末550万人。21年3月ブレスト条約後の動員解除で 250万人が帰村 『ロシア・ソ連を知る事典』 1919・3 コサック反乱 「コサック絶滅赤色テロル」指令への反乱。メドヴ ェージェフ『この指令は、極めてひどい誤りである ばかりではなく、ロシアと革命にたいする犯罪行為 であった』 ドン・コサック15000人、クバンとテレク・コサック 35000人が決起。「赤いコサック(革命派)」も、全員 が「反赤軍」に転化、白衛軍と連携。 『1917年のロシア革命』(P.121) 植田樹『コサックのロシア』(P.188) 1919前半 農民反乱 クルスク県で106件、ヴォロネジ県で101件、オリョ ール県で31件の農民反乱を確認。報告では、反革命 的原因が72件、動員が51件、兵役忌避が35件、徴発 が34件 『飢餓の革命』 (P.31) 1919 兵役忌避 兵役忌避とは、徴兵逃れと脱走兵とを含む。19年中 の兵役忌避者は、徴兵逃れ91.7万人と脱走兵176.1万 人。合計267.8万人。20年も同じとして計算すると、 2年間で535万人。脱走兵には、捕獲作戦と処罰通告 ・家族人質政策による脱走後の帰還兵も含む 『飢餓の革命』 (P.14)、『レーニンの秘密』 1920 兵役忌避 20年3月、クルスク県チェー・カーは、兵役忌避は 増加している、現在まで約6000人を捕獲したが、県 にはまだ約1万から15000人が捕獲されずにいる、そ れとの闘争はまったく不可能であると報告 チェリャビンスク県の20年末までの活動総括。19年 11〜12月で2242人、20年4月に4230人、9月に1692人 が捕獲された。この闘争で次第に抑圧的措置が頻繁 に適用されるようになり、20年8月までは財産没収は 60件。それ以後の3カ月間で404件の没収が行われた 。 『飢餓の革命』 (P.14) 『飢餓の革命』 (P.16) (注)、これらは内戦期間中のデータです。その 期間には、「白衛軍と赤軍との戦争」と「農民反乱 とチェーカー・赤軍との戦闘」とが混在しています 。その分別が難しいのですが、上記データは、内戦 から区別して、農民「反乱」だけを取り出したもの です。 (表2) 1920、21年の農民「反乱」と規模 期間 名称 地域 規模と内容 出典 1920〜21.8 マフノー農民軍 ウクライナからドン川流域 5万人。ドイツ占領軍や白衛軍と戦闘。デニーキン 軍の後方部隊を殲滅。赤軍と「政治・軍事協定」を 結び、赤軍を助けてウランゲリ将軍を壊滅させた。 その後、「食糧独裁令」撤廃を要求。レーニン指令 により司令官フルンゼは、農民軍を「ソヴェト共和 国と革命の敵」と宣言し、武装解除を命令。農民軍 はそれを拒否して赤軍と戦闘。対マフノー鎮圧部隊 の歩兵・騎兵数万人を派遣。双方に数万人ずつの死 者を出す激戦で武力鎮圧 『1917年のロシア革命』(P.126) 『ロシア・ソ連を知る事典』 『ロシア史(新版)』 1920〜21・2 西シベリアの反乱 西シベリアの5地方、8県、14郡 4万人〜6万人、数百の組織。20.10、ウファー県ウ イスコエ地区1000人集結、うち800人が武装し、執行 委議長、民警隊長、地区食糧全権を殺害。オレンブ ルグ県24000人の反乱で「コムニスト打倒」「憲法議 会万歳」のスローガン。21.2の反乱、シベリア鉄道 の主要な駅すべてを占拠、3週間にわたり鉄道交通 麻痺、8県14郡でボリシェヴィキ権力麻痺 『クロンシュタット1921』 『1917年のロシア革命』(P.121) 1920・8〜21・6 アントーノフの反乱(タンボフの反乱) タンボフ県と他4県 5万人。300の「反乱」農民組織。8月決起、10月「反 乱」農民3000人、21年2月5万人。20.9、「反乱」農民 は、戦闘で赤軍2個中隊を武装解除し、ライフル銃 400丁、機関銃4丁を奪う。21.1、タンボフ連隊は、 赤軍から武器を奪い、各連隊がそれぞれ機関銃12丁 を持つ。100人から150人からなる6個の騎兵中隊。パ ルチザンは、ライフル銃で武装し、各人45発の実弾 を携行。21.2までに、キルサノフ郡では、党員の約 半分がアントーノフ側に寝返り 『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 1920・2 人民農民軍 ウファー、カザン、サマラ県の6郡 「軍事=割当徴発」への不満による反乱。当初4000 人。参加者40万人。西部方面軍を派遣し、戒厳令を ひき、武力鎮圧。3.30、ウファー県での戒厳令解除 『同上』 1920・10 凶作下での徴発への反乱 ヴォロネジ県 凶作に直面し、それでも「軍事=割当徴発」強行へ の不満が爆発。騎兵5000人からなる農民部隊の決起 『同上』 1920・11〜21・3 1920秋〜21春 総計 総計 全土 全土 チェーカーは、118件の農民一揆を報告 反乱数は数百件。鉄道にたいする攻撃と事故数千件 『クロンシュタット1921』(P.14) 『1917年のロシア革命』(P.126) (注)、この時期の農民「反乱」は、すべて、白 衛軍との関係を持ちません。内戦の基本的終結を待 って、「軍事=割当徴発」制への不満、反対が爆発 したものです。かつ、その撤回と「穀物の自由処分 =自由商業」を求めた、チェーカー・赤軍の穀物徴 発暴力にたいする“武装要求行動”でした。過酷な 「軍事=割当徴発」により、餓死寸前に追いこまれ た段階での、死に物狂いの決起でした。21・22 年における500万人の飢饉死亡者がその極限状況 を証明しています。 (表3) 1920、21年の「反乱」農民の射殺・人 質数 期間 地域 内容と規模 赤軍 出典 1920、21 ウクライナからドン川流域 マフノー農民軍5万人中、ドイツ占領軍、デニーキ ン、ウランゲリ白衛軍との戦争における死傷以外で 、赤軍との戦闘で数万人死傷。1921・22年飢饉死亡者 はウクライナだけで100万人(コサック絶滅指令のよ うに、報復的穀物没収が原因かは不明。1919年コサ ックへの「赤色テロル」指令による殺戮、穀物完全 没収でコサック身分農民440万人中、30万人から50万 人が戦闘、殺戮、餓死により死亡) 対マフノー鎮圧部隊の歩兵・騎兵中、数万人死傷 『ロシア・ソ連を知る事典』 中野徹三『共産主義黒書を読む』 1920〜21・2 西シベリア5地方、8県、14郡 20・5、「反乱」農民5000人殺害、42人銃殺 20・7、「反乱」農民42人銃殺 21・1、アルタイ県で郷・村執行部1494人逮捕、市民 5494人逮捕、家畜14000頭以上没収。 4万人の「反乱」農民中で、射殺・人質総計は不明 コムニスト80人殺害 『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 1920・8 チェリャビンスク県 兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正 収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067 人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。も ちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲。 『飢餓の革命』 (P.16) 1920・11 各地 反ユダヤ主義ポグロム(虐殺)、4村で58人。他地域 でも多数 『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 1920・8〜21・6 タンボフ県と他4県 20・9、戦闘で600人犠牲者 21・3、20・10の党員・候補11521人が、6158人に 半減 21・6、タンボフ「反乱」農民5万人中、『裁判なし射 殺』『毒ガス使用』指令による殺害数は不明 21・9、モスクワの3収容所のタンボフ農民人質364人 チフス、戦闘で毎週300人死亡。 『同上』 『レーニンの秘密・下』(P.158) 1920〜21・6 全土 36県が「反乱」農民と赤軍・チェーカー・食糧人民委 員部との戦争状態になった 食糧人民委員部10万人以上死亡 『1917年のロシア革命』 1921年だけ 全土 1921年兵役忌避・脱走兵の銃殺刑。1月360、2月375 、3月794、4月740、5月419、6月365、7月393、8月 295、9月176、10月122、11月111、12月187、1921年 計4337人銃殺。ヴォルコゴーノフ『国内戦の初期(18 、19年)には銃殺者がはるかに多かった』『革命裁判 で控訴権なし、判決は24時間以内に執行』 赤軍兵士171185人が、農民「反乱」との戦闘で死亡 ヴォルコゴーノフ 『トロツキー・上』(P.409) (赤軍死亡)『1917年のロシア革命』 (表4) 「反乱」農民、その他の銃殺・死者の総計 期間 地域 内容と規模 出典 1917〜22 ソ連全土 R・J・ランメルによる『民衆殺害推計』の「1、 内戦期1917〜22」。原因別、テロル75万人、収容所 3.4万人、飢え250万人、死者数計328万人。中野徹三 『意図的な政策の結果でない餓死死などは除外され ている』 『社会主義像の転回』(P.234) 1918〜22 ソ連全土 人質または裁判なしの獄囚数万人の銃殺。反乱を起 した労働者と農民数十万人の虐殺。『アステイオン 51』(1999、TBSブリタニカ)に掲載 『共産主義黒書序文』(P.18) 1917〜22 ソ連全土 飢饉死亡500万人、亡命200万人、内戦犠牲者700万 人の計1400万人 一方、レーニン・政治局は、飢饉中にもかかわらず 、100万トン近い穀物の輸出を決定。「飢饉救済」名 目の没収教会財産も、一部しか救済に使わず。 川端『ロシア』 『レーニンの秘密』 1921・22 ソ連全土 (農民以外) 21・2、ペトログラードのストライキ参加労働者、メ ンシェビキ党員5000人逮捕。うち大部分を拷問死、 銃殺、強制収容所送り 21・3、クロンシュタット・ソヴェト水兵と住民55000 人を戦闘による殺戮、死刑、強制収容所送り、強制 移住、収容所での拷問死・銃殺などで殲滅 22・2、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害 22・6、「反ソヴェト」知識人数万人を3方針で“肉体 的排除” 『クロンシュタット1921』 『クロンシュタット・コミューン』、他 『レーニンの秘密』 『同上』 1918〜19前半 20県のみの部分計 チェーカーによる逮捕87000人、うち『裁判なし銃 殺』8339人。チェーカー、M・I・ラツィスによる 「チェーカー活動の概況」『国内戦線における闘争 の2年間』(1920年) 『収容所群島』 (P.290) 1918・6〜19・10 ロシア中央部20県のみの部分計 革命裁判所による「新しい時代の死刑」としての銃 殺。16カ月間で16000人以上銃殺。1カ月間にすれば 、1000人以上の銃殺刑執行。「ソ連刑法」は、資料 (10)の1922年6月1日から施行。それ以前は、「明文 化された刑法」なしで「革命裁判所」が死刑判決を 出し、24時間以内に銃殺刑執行 『収容所群島』 (P.418) 1920 ソ連全土 強制収容所が、すでに84カ所に存在。内戦による捕 虜24000人以外に、「収容者」25000人という統計 『ロシア・ソ連を知る事典』 1、「1922年のレーニン」に関するデータと文 献 このファイルは、「聖職者全員銃殺型社会主義者 レーニン」を分析するものです。それは、従来から 公表・宣伝されてきた「レーニン神話像」とは、ま るで異なっています。よって、ここで使っているデ ータ、文献の信憑性が問題になります。文末ではな く、本文の前に、7つの文献の説明と私(宮地)の 判断をのべます。 (1)、岩上安身著『あらかじめ裏切られた革命 』(講談社、1996年、P.287)に、レーニン の1922年3月19日付「教会財産没収、聖職者銃 殺指令」極秘「手紙」全文が載っています。これは、1 990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表 されました。その抜粋が、下記のドミートリー・ヴ ォルコゴーノフ著『レーニンの秘密・下』(P.20 9) 、内田義雄著『聖地ソロフキの悲劇』(P.43 )に、同一内容で載っていますので、「手紙」の存在 、内容は真実です。 (2)(3)(4)、廣岡正久京都産業大学教授 著『ソヴィエト政治と宗教−呪縛された社会主義』( 未来社、1988年)、『ロシア正教の千年』(NH Kブックス、1993年)、『ロシアを読み解く』( 講談社現代新書、1995年)の3冊におけるロシア 正教問題、レーニンの「戦闘的無神論」の内容や宗 教根絶路線の研究内容はきわめて貴重なものです。 本文で、かなり参考にし、その私なりの要約を書き ました。そこでの宗教弾圧データも信憑性があり、 データ(表)でもかなり使用しました。 (5)、ドミートリー・ヴォルコゴーノフ著『レー ニンの秘密・上下』(NHK出版、1995年)は、 「レーニン秘密・未公開資料」に基づく出版物です 。その「はじめに」によれば、モスクワのソ連共産 党中央委員会ビル内に「レーニン関連文書保管所」 があり、そこにはレーニンの未公開資料が3724 点と、そのほかにレーニン署名入り未公開文書が3 000点近くもあることが、1991年ソ連崩壊後 、明らかになりました。このファイルでは、『上下 』779ページ中、『下』「第6章、一元的社会」 の1節「レーニンと教会」(P.203〜224) における「レーニン秘密・未公開資料」宗教弾圧デ ータを使いました。とくに、「教会財産没収、聖職者 銃殺指令」極秘「手紙」を理解する上で、レーニンがそ の“口実”とした「シューヤ事件」の全体像、前後 経過は、この著書で初めて暴露されたのです。そこ での没収財産データは、正確な数字で、信用できま す。ヴォルコゴーノフは、ソ連軍事史研究所所長で 大将の軍籍をもっています。彼と出版当時のエリツ ィン政権との関係や「レーニン未公開資料」公表の 意図には、いろいろ問題点もあります。しかし、こ の著書で使用されているのは、その著述内容から見 ても、レーニン第1次資料であり、その正確な引用 です。 (6)、内田義雄著『聖地ソロフキの悲劇−ラー ゲリの知られざる歴史をたどる』(NHK出版、20 01年)は、1923年、ソ連で初めての公式ラーゲ リ(強制労働収容所)が置かれたソロフキ修道院に関 する綿密な取材ルポルタージュです。宗教根絶第3 段階内容と、聖職者一人一人の経過とその遺族の真 相究明の過程が、生々しく描かれています。ソロフ キ収容所の実態も、2001年、本書で、初めて公 表されました。 (7)、ソルジェニーツィン『収容所群島』の「第 2章、わが下水道の歴史」における宗教根絶過程の 「文学的考察」は、総計227人の回想、手紙に基 づく証言で、これも真実です。 (注)、このファイル全体に言葉の混在がありま す。ロシヤ、ソヴィエトとロシア、ソヴェトです。 使用文献によって、廣岡氏は両者を使い、他の人と 私は後者を使っています。直接引用文の関係もあり 、いずれかに用語統一せず、混在のままにしました 。 2、レーニンの「教会財産没収、聖職者銃殺指令」 極秘手紙 1922年3月19日付「手紙」全文 199 0年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表 ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員政治局 員のためのX・M・モロトフヘの手紙 一九二二年三月十九日 極秘 写しは絶対にとらないこと。政治局員各 自(カリーニンも同様)意見は直接、文書に書きこ むこと。 レーニン シューヤ(訳者注=イワノヴォ州にある市)で起 こった事件は、すでに政治局の審議に附されてはい ますが、事件が全国的な闘争計画に沿ったものであ る以上、断固たる処置をとる必要があると思われま す。三月二十日の政治局会議に自ら出席できるかど うかわかりませんので、手紙で自分の考えを述べま す。シューヤの事件は、最近ロスト通信が各新聞社 宛に掲載を目的とせずに流した、例のペトログラー ドにおいて、極右が教会財宝没収令に対し抵抗の構 えをみせているとするニュースと関連づけてとらえ るべきです。 今度の件と、新聞が書いている宗教界の教会財産 没収令に対する態度や我々が知っているチーホン総 主教の非合法なアピールを比べると、極右聖職者達 がこの時期を狙って我々に戦いを挑むことが、きわ めてよく練られた計画であることが判明します。極 右聖職者の主要メンバーで構成する秘密会議で、こ の計画が練られ、決定されたに違いありません。シ ューヤの事件は、この全体計画の単なる一片にすぎ ません。 思うに、我々に対し、勝ち目のない徹底抗戦で向 かってくるとは、敵の大きな戦略的誤りです。むし ろ我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一 のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十 年にわたって地盤を確保することができます。まさ に今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でな ければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、 教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ず くで、容赦なく没収できる(それ故、しなければな らない)のです。今こそ、農民のほとんどは我々に 味方するか、そうでないとしても、ソビエトの法令 に力ずくの抵抗を試みるひと握りの極右聖職者と反 動小市民を支持できる状況にはないでしょう。 我々はいかなることがあっても、教会財産を断固 、早急に没収しなければなりません。それによって 数億ルーブル金貨の資金が確保できるのです(修道 院や大寺院の莫大な財産を思い出して下さい)。こ の資金がなくては経済建設をはじめとする、いかな る国家的事業も、またジェノアで自己の見解を貫き 通すこともありえません。ルーブル金貨数億(もし くは数十億)の資金を手に入れることは是が非でも 必要なのです。それが首尾よくできるのは今だけで す。状況を見てみると、後からでは成功しません。 絶望的な飢餓のときを除いては、農民大衆が、たと え教会財産没収闘争で当方の完全勝利が自明だとし ても、我々に好意的態度を示したり、せめて中立で いてくれるという保証はないのです。 ある賢明な作家が国家的問題に関して、「一定の 政治目的を達成するために残酷な手段を必要とする 場合は、思いきった方法で、きわめて短時間に行な わなければならない。残酷な手段を長期にわたって 用いれば大衆が耐えられないだろう」と述べていま すが、まったくそのとおりです。さらにこの考えは 、反動宗教界に残酷な手段でのぞむとなると、ロシ アの国際的立場が、とりわけジェノア以後、政治的 に不合理かつ危険の多いものとなるだろうというこ とで裏づけされます。今、反動宗教界に対する我々 の勝利は完全に約束されています。また国外のエス ・エルやミリュコフ派など主要な敵も、我々が今こ の時期、飢餓に際して迅速かつ容赦なく反動宗教界 を弾圧するなら、もはや我々に抗することはできな いでしょう。 それゆえ、私は、今こそ極右聖職者達に徹底的か つ容赦ない戦闘を挑み、彼らが今後、数十年にわた って忘れることのできないような残忍な手段で抵抗 を鎮圧すべきだという、疑う余地のない結論に達し ました。この計画を実施に移すための作戦を私は次 のように考えています。 いかなる措置を採るときも公的には同志カリーニ ンのみが登場し、同志トロツキーは印刷物にしろ公 衆の前にしろいかなる形であれ姿を現わしてはなら ない。政治局の名ですでに出された没収の一時停止 に関する電報は変更しない。この電報は、敵にあた かもわれわれが逡巡しており、威嚇に成功したと思 わせるので好都合である。 シューヤには全ロシア中央執行委員会、もしくは 他の中央政府機関から最も精力的で、分別のある敏 腕な者を一人(数人より一人がよい)、政治局員の 一人が口頭で指示を与えて派遣する。そして、この 指示は、それによって彼がシューヤで、現地の聖職 者、小市民、ブルジョアを全ロシア中央執行委員会 の教会財産没収令に反対する実力抵抗に直接または 間接にかかわったかどで、できるだけ多く、少なく とも数十人以上逮捕するものとする。 任務終了後、彼はただちにモスクワに来て、自ら 、政治局全体会議か、それを代表する二名の政治局 員に報告を行なう。この報告にもとづいて政治局は 司法当局に細かい、これも口頭の指令を出す。それ は飢餓救援に抵抗するシューヤの暴徒に対する裁判 が迅速に行なわれ、シューヤと、できればそれ以外 にもモスクワや他の教会都市の最も影響力ある危険 な極右を非常に多数、必ず銃殺刑にして終わるよう にするためである。 チーホン総主教自身には、明らかに、この奴隷所 有者どもの暴動の頭目ではあるが、手を出さないほ うが、賢明だと思う。彼に関してはGPU(ゲーペーウ ー)に秘密指令を出して、この時の対外関係をすべて 、できるだけ正確かつ詳細に洗い出させること。そ して、それをジェルジンスキーとウンシュリフト自 らが毎週、政治局に報告するようにすること。 党大会において、この問題にかかわるすべてない しは、ほとんどすべての代議員とGPU、司法人民委員 部の主要職員からなる秘密会議を設けること。富豪 の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことが あっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれ るべしとする大会秘密決議はこの会議で行なう。こ れを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョア は多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十 年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ 不可能であると教えてやらねばならない。 この措置が迅速かつ滞りなく実行されることを監 視するため、当の大会すなわち秘密会議で特別委員 会を指名し、そこに同志トロツキーとカリーニンを 必ず加えること、そしてこの委員会の存在は絶対公 表せず、委員会指導下の作戦はすべて委員会の名に よらず、全ソビエトと全党の名において行なわれる こと。富豪の大寺院、修道院、教会でこの措置を実 行するときは特に責任感の強い優秀な職員を配する こと。 一九二二年三月十九日 レーニン 同志モロトフヘの依頼、この手紙を各政治局員か ら今日中に回覧し(写しはとらず)、読了後、手紙 の主旨に同意か反対かを書き込んで、ただちに秘書 に戻すよう、とりはからって下さい。 一九二二年三月十九日 レーニン ―――――――――――――――――― *(岩上・注)、レーニンがここで引用している 「ある賢明な作家」とは誰のことか、私には特定で きない。ただ、ここで述べられていることと、きわ めてよく似た一説をマキャヴェリの著書に見出すこ とは可能である。「加害行為は、一気にやってしま わなくてはいけない。そうすることで、人にそれほ ど苦汁をなめさせなければ、それぞれ人の憾み(うら み)も買わずにすむ」『君主論』中公文庫、池田廉訳 )。 3、宗教弾圧・根絶路線の3段階 〔小目次〕 ロシア正教と革命権力との関係 第1段階 政教分離と聖職者差別路線 第2段階 教会財産没収、聖職者銃殺路線へ の大転換 第3段階 強制収容所送りと銃殺、拷問死に よる聖職者・信者根絶路線 ロシア正教と革命権力との関係 廣岡正久京都産業大学教授は、著書『ソヴィエト 政治と宗教−呪縛された社会主義』において、この 関係を克明に分析しています。以下は、その一節(P .60)を私(宮地)が要約したものです。 1917年2月、帝制の崩壊からソヴェト体制の 成立に至る一連の革命は、ロシヤの国民生活に根底 的な政治、経済的変革をもたらしました。そればか りでなく、新たに深刻な精神的亀裂と葛藤をも惹起 しました。なぜなら、ロシヤは、900年間にわた って、ロシヤ正教が国民統合の精神的原理をなし、 民族的、文化的伝統を育んできた国であったからで す。革命前夜に当たる1914年当時、ロシヤ正教 徒が実に総人口の70%(約1億人)、ロシヤ人中 ではほぼ100%を占めていたという事実は、ロシ ヤ正教会が国民生活の全領域にまたがって、いかに 巨大な影響力を有していたかをしめしています。そ の結果、「戦闘的無神論」を掲げるボリシェヴィキ の勝利はただちにロシヤ正教会との熾烈な対立抗争 を生み出しました。宗教、とくに旧体制のもっとも 枢要な支柱の一つであったロシヤ正教会は、可及的 速やかに破壊し、根絶されなければならない――こ れが、新たにロシヤの支配者として登場したレーニ ンたちが一致して抱いた確信でした。生まれたばか りのボリシェヴィキ政権にとって、反革命の悪夢を 払拭するためにも、旧体制の徹底的破壊は至上命令 でなければならなかったからです。 第1段階 政教分離と聖職者差別路線 (1)、1917年から1921年までの3つの方 策 第一は、土地、施設そして聖器物をも含む教会資 産の国有化の断行です。宗教儀式に不可欠な教会施 設は、司法行政機関の管理下におき、その使用につ いては監督官庁の許可を得なければならないとしま した。この結果、ロシヤ正教会をはじめとする諸教 会は、経済的基盤を奪われただけでなく、施設の使 用を制限されることによって、その宗教活動にも重 大な支障をきたしました。さらにこの政策の一環と して、修道院の徹底的な破壊も企てられ、1920 年までに、670のロシヤ正教修道院が閉鎖された といわれています。 第二は、聖職者に加えられた身分上ならびに権利 上の差別政策です。彼らを旧資本家階級や犯罪者な どとともに最下等身分に定め、公民権を剥奪しまし た。そのうえ、この非労働者階級には食料配給カー ドが支給せず、また就労に欠かせない労働組合への 加入も認めませんでした。 第三の方策は、宗教の社会的影響力、とりわけ教 育にたいする影響力の排除でした。教育人民委員会 は、教会と学校との分離に関する布告を着実に履行 し、その結果、教会が設立した学校を、閉鎖もしく は国・公立学校へ移管し、宗教教育も、少数の神学 校を除いて全面的に禁止しました。 この間、教会は、信者による一定の抵抗があった ものの、ボリシェヴィキ政権にたいして、低姿勢を 続けていました。レーニンも、内戦終了、食糧独裁 令の誤りにたいする農民反乱武力鎮圧、戦時共産主 義を終えるまで、この路線にとどめ、教会にたいし て致命的な打撃を加えませんでした。 (2)1921年の大飢饉にたいするロシア正教の 対応とレーニンの対応 1921年、22年には、約2500万人が飢え ていました。それは、ロイ・メドヴェージェフ『1 917年のロシア革命』、梶川伸一『ボリシェヴィ キ権力とロシア農民』が論証したように、1918 年5月以来のレーニンの「食糧独裁令」の誤り、暴 力的な軍事=徴発遂行の誤りを基本原因とする飢饉 でした。 ロシア正教のチーホン総主教は、飢えた人たちの ために教会内の財産を使用することを提案しました 。21年8月にも、再度信者に呼びかけ、全ロシア 教会委員会を結成しました。他の救済委員会も、自 由主義者を中心に作られました。 1921年7月7日、政治局は、その申し出を討 議し、彼の呼びかけをラジオで放送することで一致 しました。トロツキーは、ボリシェヴィキの新聞に もそれを載せたがりました。しかし、レーニンは、 教会の富を没収し、彼らの勢力を弱めるためにこの 飢饉を利用することを模索し、新聞掲載を拒否しま した。 1921年8月27日、レーニンは、救済委員会 メンバー全員を、「エスエル党員とのつながりがあ り、反ソヴェト宣伝をしている」とでっち上げて、 ただちに逮捕するよう命令しました。彼は、教会や 西側慈善団体からの援助は、反革命の温床になると 警戒したのです。 第2段階 教会財産没収、聖職者銃殺路線への大 転換 1922年2月23日、ソヴェト中央執行委員会 は、大飢饉に見舞われた東部ロシアの飢餓住民の救 済を名目として、「教会の聖器物ならびに貴金属・ 宝石類の没収を命じる布告」を発令し、新聞に発表 しました。この布告発令経過は、レーニンが、教会 側の資金提供を拒絶したうえで、レーニンが単独で 発令し、政治局があとから追認したものでした。 3月11日、レーニンはトロツキーにたいし、政 治局が“浄化済み”、つまり財宝没収済みの教会の 数について、集計を出すよう指示したかどうかを確 かめよと手紙に書きました。同時に、逮捕および処 刑された聖職者の数についても定期的に報告するよ うに要請しました。GPUは、三月中旬から下旬に かけて、「聖職者および宗教関係職員の革命的弾圧 」について数通の報告書をレーニンへ送りました。 党組織、国家保安部(GPU)、特別結成隊が教会 に突入しはじめました。彼らは政府の布告を読み上 げ、自発的にすべての財宝を引き渡すように要求し ました。司祭たちは、聖体礼儀に必要なもの以外は すべて、進んで引き渡しました。地方の無神論者た ちは、司祭を押し退けたり、逮捕したりしたあげく 、自分たちで勝手に没収していきました。これは大 勢の前科者を掻き集めて行った組織的強奪でした。 トロツキーは後年、自伝のなかで次のように書い ています。「……目立たぬように非公式なやり方で 果たした、十指に余る仕事のなかに、反宗教宣伝が あったが、レーニンはこれにとりわけ興味を抱いて いた。彼は度々、しつこいほど、私がこの分野から 目を離さないように、と依頼した」と(レオン・トロ ツキー、栗田勇訳『わが生涯』下巻、現代思潮社、 854ぺージ)。 3月中旬、「シューヤ事件」が、あちこちで信者 たちが抵抗した中で発生しました。レーニンは、イ ヴァノヴォの近くのシューヤという小さな町で騒動 が起こったという報告書をGPUから受け取りまし た。民警を引き連れた地方党委員会のメンバーが3 つの小さな教会をからっぽにし、シューヤのユダヤ 教の会堂にあった財宝を倉庫から奪ったあと、その 教会に到着しました。大勢の群衆が集まっていて、 争いになり、だれかが教会の鐘を鳴らしはじめまし た。第146歩兵連隊の半分が出動を命じられまし た。機関銃が発射され、血が流され、死者が出まし た。その晩、教会の信者たちが約100ポンドの銀 製品を地方党委員会に持参しました。徴発委員会は これに満足せず、さらに360ポンドの銀製品と大 量の金製品、宝石類を奪い取りました。GPUは、 妨害行為は“黒百人組司祭”によって組織されたも のだと報告しました。だが、どこでも抵抗は自発的 に行われたのは明らかでした。レーニンはかんかん に怒りました。彼も、この時ばかりは怒鳴りちらし 、罵言雑言を吐きました。彼はついに、聖職者、と くにチーホン総主教を、一挙に抹殺してしまうまた とない機会が到来したと感じました。「シューヤ事 件」とその裁判の内容は、ドミートリー・ヴォルコ ゴーノフが、「レーニン秘密・未公開資料」に基づ いて、『レーニンの秘密・下』(P.207)で初め て公表しました。 3月19日、上記レーニンの「教会財産没収、聖 職者銃殺指令」極秘手紙。レーニンが「シューヤ事 件」をきっかけとして中央委員兼書記のモロトフと 、政治局員向けに詳しく書いた6頁にわたる手紙の 内容は、他のレーニン主義者たちの目にさえ触れな いようにしまい込まれました。この秘密資料が公表 されたのは、68年後の1990年でした。 内田義雄氏は『聖地ソロフキの悲劇−ラーゲリの 知られざる歴史をたどる』において、この「手紙」 抜粋を載せています。その「手紙」の注釈として、 次のように書いています。『そのなかでレーニンが 書いている「黒百人組」とは、革命前の帝政時代に 、活動が活発になってきた革命派や自由主義者に対 抗して反動的な地主や聖職者が組織した右翼団体の 名称であるが、ここでは革命政権に抵抗する人たち をすべて反動派の「黒百人組」と決めつけるレーニ ンお得意のレトリックの用語として使われている。 』(P.43) レーニンによる「黒百人組」というウソのレッテ ル貼りは、前年1921年3月クロンシュタット・ ソヴェト水兵反乱における「白衛軍の将軍との連携 」という真っ赤なウソ、1920、21年のタンボ フ農民反乱における「エスエルに指導された反革命 」としたウソと、まったく共通する詭弁です。クロ ンシュタット反乱における「白衛軍将軍どもの役割 」というレーニン演説がなんの根拠もなく、鎮圧・ 粛清のためのウソであったことについては、アイザ ック・ドイッチャーが『武装せる予言者』で明言し 、P・アヴリッチが『クロンシュタット1921』 で完璧に論証しています。「エスエルに指導された 反革命運動」としたレーニン、ボリシェヴィキの宣 伝も、反乱指導者アントーノフは、たしかにエスエ ル党員でしたが、エスエル方針と関係はなく、レー ニンらの根本的に誤った軍事=食糧徴発体制、食糧 強奪にたいする農民の正当な抵抗運動であったこと を、梶川伸一氏は『ボリシェヴィキ権力とロシア農 民』で膨大なアルヒーフ(公文書)を使って証明しま した。 3月22日、政治局の会合は、レーニンの「極秘 指令」に基づいて、「シューヤ事件」裁判の方針を 、電光石火のスピードで決定しました。その内容は 、「シューヤ事件」を口実として、聖職者全員銃殺 ・教会財産没収路線への大転換を図るものでした。 方針は「宗務院(ロシア正教会の最高統治機関)のメ ンバーと総主教の逮捕が必要であること。15〜2 5日以内に行うと発表すべきである。シューヤで起 こったことは公表し、告発されたシューヤの司祭や 信者は1週間以内に裁判にかけること。反抗の首謀 者は銃殺刑に処すること」などでした。ウンシュリ フトは総主教を今すぐ逮捕すべきだと主張しました 。政治局に提出されたGPUの覚え書にはこう書か れていました。「チーホン総主教とその一味は…… 教会の財宝の没収に反対して公然と運動を展開しつ つある……チーホンおよびもっとも反動的な宗務院 メンバーの逮捕に踏み切る証拠は十分にある。GP Uは、(1)潮時を見て宗務院総監と総主教を逮捕 する。(2)新しい宗務院メンバーの選出は進めるべ きではない。(3)財宝の没収に反対した司祭は全員 、人民の敵として、ヴォルガ川流域のもっとも飢饉 のひどい地域へ追放すべきである」と提案しました 。 3月30日、シューヤの事件について、レーニン は政治局に、勧告の手紙を出しました。レーニンは 政治局の会合が開かれる日に、自分は出席しない予 定だったので、この手紙の下書きを電話で秘書のリ ージャ・フォティエヴァに口述筆記させました。「 飢饉救済に反対したシューヤの謀反人たちの裁判は 、できるかぎり速やかに行うこと、シューヤの黒百 人組のうちもっとも影響力のある大勢の危険な人間 は銃殺するしかないこと、できれば、この町ばかり でなく、モスクワその他の信者の多い地域でもこれ を適用する」。 教会の問題は重要だったので、政治局は数回の会 合を開いてこの手紙について討議しました。カーメ ネフ、スターリン、トロツキー、モロトフは、革命 軍事会議議長のトロツキーが書いた命令書草案につ いて検討し、いくつかの修正条項付きの17項目の 命令書が承認しました。ヤコヴレフ、サブロノフ、 ウンシュリフト、タラシコフ、ヴィノタロフ、バジ レヴィチらによる中心となる委員会が結成されまし た。監督役はトロツキーでした。同じような委員会 が地方にもつくられました。 チーホン総主教の飢饉救済のための財宝供出拒否 に反対する“生きている教会派”と呼ばれるいわゆ る“教会刷新派”を支持することによって、教会を 分裂させるために、できるだけ広範囲に扇動を行う ことが決定されました。この運動はできるだけ短期 間に実行されることになり、著名な聖職者の逮捕が つづきました。財宝の没収が行われる時には、軍隊 、共産党員、特殊部隊などが、所定の教会の周辺を 固めました。略奪がはじまってまもなく、トロツキ ーはレーニンにこう知らせています。「今日までの 主だった没収は、明け渡された修道院、博物館、倉 庫などで行われています。戦利品は莫大な量にのぼ っていますが、この仕事はまだまだ終わっていませ ん」。 教会財産没収率を上げるために、政治局はさらな る“技術的援助”をえるための費用として、500 万ルーブリを計上しました。この委員会の新しい助 人の大半は、武装強盗で捕まったことのある前科者 たちでした。国中で、教会や聖職者にたいする軍隊 式の遠征が開始されました。ユダヤ教の礼拝堂、イ スラム教のモスク、ローマカトリック教会も例外で はありませんでした。夜中に、チエーカーの地下室 や、近所の森の中で、いやな拳銃の発射音が聞こえ ました。処刑された司祭や信者の死体は、溝や谷間 に折り重なって放り込まれました。国中から教会の 鐘の音が聞こえなくなりました。地方の党指導者、 チェキスト、委員会のメンバーらは金や財宝を大急 ぎで数えては箱に詰め込みました。 5月4日、政治局は、レーニンの提案にしたがっ て、「反抗的な聖職者による企てについての情報を 提供し、首謀者を射殺」し、「聖職者に死刑」を命 じる布告を正式に承認しました。 5月8日、シューヤの司祭と信者の裁判は終了し 、11人が死刑、残りの被告には期間はまちまちの 禁固刑が宣告されました。政治局に恩赦を嘆願した 者のうち、6人が認められたが5人は拒否され、す でに裁判なしに処刑された数千人のリストに仲間入 りしました。 5月初旬、その間も、レーニンは高位聖職者の裁 判を急がせていました。政治局はモスクワ裁判所に 、(1)チーホンの裁判をすぐに開くこと、(2) 司祭たちに死刑を宣告することを命じました。 裁 判は早急に行うのが望ましかったが、世界各地から 抗議の声が上がりました。ローマ教皇、ドイツ社会 民主主義者、スウェーデンの平和主義者、当時、国 際連盟の難民高等弁務官だったノルウェーの探検家 ・政治家のフリジョフ・ナンセンらからも電報が届 きました。政治局はチーホフ裁判を延期し、この間 題をさらに慎重に検討することに決めました。 第3段階 強制収容所送りと銃殺、拷問死による 聖職者・信者根絶路線 内田義雄氏は、『聖地ソロフキの悲劇−ラーゲリ の知られざる歴史をたどる』において、聖職者・信 者たちの強制収容所送りと銃殺、拷問をさまざまな 個々人のケースで追跡し、この第3段階を解明しま した。以下は、その一部を要約、紹介したものです 。 1923年5月、極秘命令『ソロフキ修道院を反 革命分子の特別収容所にせよ!』 アルハンゲリスクからケードロフを団長とするゲ ペウ(GPU、国家政治保安部)の一団が乗り込んでき ました。それはモスクワの中央政府が、「ソロヴェ ツキー群島及びその修道院の全施設をゲペウの直接 管理下に置き、反革命的分子のための特別な収容所 を設置せよ」との極秘命令を下したからです。やっ て来たゲペウの担当官たちは、ソホーズを解散させ るとともに、修道院の施設を接収しました。そして まずソロフキに残存する宗教的なものの根絶に着手 しました。 レーニンは「宗教は人民の阿片である」として、 宗教の弾圧を命じ、すでにロシア各地で教会や修道 院の閉鎖を行い、聖職者の逮捕や処刑が始めていま した。遠い白海のソロフキにもその手がのびてきた のでした。ゲペウ担当官たちはまず教会の尖塔の十 字架を引きずり下ろし聖堂の聖壇を取り壊し、イコ ンをすべてはがしました。修道院の貴重な財産は破 壊または掠奪し、数世紀にわたって集められた図書 や古文書を焼きました。教会の鐘楼からは、すべて の鐘を取り払いました。楼上の鐘は、尖塔の頂に立 つ十字架と並んで、ロシア正教の象徴でした。ゲペ ウは、引きずり下ろした教会の鐘をいつぶしました 。 1923年夏、ソロフキの島々にさまざまな分野 の人たちが囚人として続々と送りこまれてきました 。革命政権に抵抗した貴族や白軍の将校たちとその 家族、レーニンのボリシェヴィキ派に反対したメン シェヴィキ派やエスエル党などの党員たち……。ソ ロフキ修道院は監獄になりました。そのなかにはロ シア正教の高位の主教たちが大勢いました。当時、 ソロフキに来れば著名な各管区の主教のほとんどに 会える、といわれたほどでした。この人たちのほと んどは、その後銃殺または過酷な労働で命を失った と推定されます。 ソロフキの宗教的なものの根絶に片を付けながら ゲペウの担当官たちは、ソ連共産党中央部の極秘命 令に基づく「特別な収容所」の管理・運営に忠実に 、そして厳格に取りかかっていきました。ソロフキ 収容所の正式名称は「ソロフキ特命ラーゲリ」(略 称「スロン」SLON)でした。1923年5月に開設 されたソロフキ収容所には、2、3年後には1万人 近い囚人たちが収容されていました。島の囚人たち は、劣悪な生活条件の下で森林の伐採、島の土(質 の良い肥えた土であった)を本土に送るための鉄道 の建設、レンガ造りなど、過酷な労役にかりだされ ました。1929年まではソ連で唯一公式の「ラー ゲリ(強制労働収容所)」でした。それは、192 3年から39年まで存続しました。 ソルジェニーツィン『収容所群島』における「ソ ロフキ下水道の歴史」 ソルジェニーツィンは、その第2章「わが下水道 の歴史」(新潮社、1974年、P.47)で、聖職 者・信者根絶路線を次のように描いています。その 個所を、そのまま転載します。 『一九二二年の春、国家保安部と改称されたばか りの反革命および投機取締非常委員会は教会のこと にも容喙(ようかい)することを決めた。《教会革命 》をも行うこと、つまり、幹部を入れかえ、天のほ うに片耳だけ向け、もう一方の耳はルビャンカのほ うに向けるような人びとを新しい幹部に据えること が必要だったのだ。そういう要請に添うことを約束 したのは《生きている教会》派の人びとであったが 、彼らは外からの援助なしでは教会機関を手中に収 めることができなかった。チホン総主教が逮捕され 、銃殺刑の宣告をともなった二つの有名な裁判―― モスクワでは総主教を中心に暴動を起す計画を推進 しようとしていた人びとの裁判、ペトログラードで は教会の権力が《生きている教会》派に移るのを阻 止しようとしたヴェニアミン府主教の裁判が行われ たのもそのためであった。県や郡でもあちこちで府 主教や主教が逮捕され、こうした大物逮捕の後には 例によって例のごとく雑魚の、つまり、主祭長や修 道僧や補祭などの逮捕が続いたが、これは新聞紙上 に報道されなかった。教会改革を唱える《生きてい る教会》派の圧力に屈しようとしなかった人びとも ぶち込まれていった。 聖職者は毎日の水揚げ量の必ずある一部を占めて おり、ソロフキ島のどの囚人護送団宿泊地でも彼ら の銀髪が目についた。 二〇年代初期から、神智学者、神秘論者、降神術 者(バレン伯爵のグループは霊魂との会話の記録を とっていた)などのグループ、宗教団体、ベルジャ ーエフ=サークルの哲学者たちなども逮捕の憂き目 にあった。ついでに《東方カトリック教徒》(ウラ ジーミル・一ソロヴィヨフの信奉者たち)やA・I・ アプリコソワのグループも殄滅され、ぶち込まれた 。何か当然の成行きといった形で、普通のカトリッ ク教徒ポーランドのクションズ(カトリック僧)た ちも監獄入りしていった。 しかしながら、二〇年代、三〇年代にずっと国家 保安部(ゲーペーウー)−内務人民委員部(エヌカーヴ ェーデー)の重要目標の一つであったこの国における 宗教の根絶は、信仰心のあつい正教徒たち自体を大 量に投獄することによってはじめて達成できること であった。以前のロシアの生活を黒く染めていた修 道僧や修道尼たちが徹底的に消されたり、ぶち込ま れたり、流刑地へ送られていったりした。教会活動 に熱心な人びとは逮捕され、裁判にかけられた。そ の範囲はどんどん広がっていき、やがて普通の平信 徒たち、老人たち、特に女たちがごっそりつかまっ ていった。女たちの信仰心はなかなか固く、中継監 獄や収容所では長年にわたってこうした女たちにも 尼さんの綽名(あだな)がたてまつられた。 もっとも、こうした人びとが逮捕され、裁判にか けられるのは信仰そのもののためではなく、自分の 信念を声に出して述べたり、子供たちをそんな気持 で教育したりしたためであるかのように一般には考 えられていた。ターニャ・ホドケヴィチが書いたよ うに、「お祈りするのは自由だけれど でも……神 さまにしか聞えないように」といった具合であった (この詩のためにターニャは十年の刑をくらった) 。精神的真理をわが物にしていると信じている人間 が、それをこともあろうに自分の子供たちに対して 隠さねばならないのだ! 子供の宗教教育は二〇年 代には第五八条一〇項によって政治的犯罪、すなわ ち、反革命的煽動と見なされるようになった! た しかに法廷ではまだ宗教を棄てるチャンスは与えら れていた。父親は宗教を棄てて子供を育てつづけ、 母親はソロフキ島へ行く、といったケースもたまに ではあったがあることはあった(この数十年間、こ と信仰に関しては女性のほうがずっとしっかりした 態度を見せてきた)。宗教犯は全員、当時最高の刑 期だった十年を申し渡された。』 4、銃殺・殺害された聖職者・信徒数データ (表1) レーニン路線による銃殺・殺害数 時期 規模 出典 1917〜18 キエフ府主教1人、主教20人、聖職者数百人暗殺。 殺害前に手足を切り刻み、生きながら火で焼いた。 市民の宗教行進に銃撃。尼僧を暴行 W・ストローイェン『共産主義ロシアとロシア正教 会』(『ロシア正教の千年』に引用) 1918・6〜19・1 (ソ連一部地域) 処刑‥府主教1人、主教18人、司祭102人、輔祭154 人、修道士と修道女94人 投獄‥主教4人、司祭(妻帯司祭および修道司祭) 211人 不動産の没収‥教区718、修道院18 閉鎖‥聖堂94、修道院26、ほかに非宗教的目的に使 用された教会14、礼拝堂9 レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公 式資料) (『ロシア正教の千年』に引用) 1918〜20 主教28人銃殺。聖職者数千人の殺害あるいは投獄。 信徒ほぼ12000人が宗教活動名目で処刑、数千人が労 働キャンプか流刑 『ロシア正教の千年』 1921〜23 司祭2691人、修道士1962人、尼僧3447人の計8100人 銃殺。その他多数の信徒殺害。1414件の死傷事件発 生 『ロシア正教の千年』 1922・4〜5 有力聖職者「54人裁判」。モスクワ最高裁判所は、 11人に死刑宣告。処刑5人 『ソヴィエト政治と宗教』 1922・6 ペトログラードのヴェニアミン府主教の裁判。教会 財産没収の妨害名目による逮捕。10人に死刑宣告。 処刑4人、他に禁固刑22人 『ロシア正教の千年』 1922 聖職者、熱心な信徒14000人から2万人射殺 『レーニンの秘密・下』 1921〜23 特別法廷における反革命罪死刑宣告(ソ連全体の公 的公表数字) 1921年、有罪者総数35829人、うち死 刑9701人、1922年、6003人と1962人。1923年、4794 人と414人。(注)、特別法廷裁判によらない銃殺・ 殺害は上記データ 塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』 (表2) 教会破壊、没収財産、使途と飢饉死亡者 時期 規模 出典 1905〜1950 革命前〜1939 教会破壊 1905年に教会8万、1950年までに11525に 激減 革命前、教会54174、修道院1025。1939年開いている 教会500、修道院は数カ所を残して、破壊または閉鎖 『レーニンの秘密・下』 『ソヴィエト政治と宗教』 1922.11.1まで 1922 没収財産 金1220ポンド、銀828275ポンド、ダイヤ モンド35670個、高価値1762品、宝石用原石536ポン ド、金貨3115ルーブリ、銀貨19155ルーブリ 金442キロ、銀236227キロ、ダイヤモンドを含む膨大 な資産 『レーニンの秘密・下』 『ソヴィエト政治と宗教』 1922 その使途 コミンテルンの資金、GPUおよび政治 局の当座の入用、党エリート個人に割当する分配。 飢饉救済名目の没収だが、飢饉のための食糧購入配 分はわずか 『レーニンの秘密・下』 1921〜1922 飢饉死亡者 飢饉は3回あるが、第1回目の1921、22 年飢饉の飢饉死亡者は500万人 食糧の軍事徴発を原因として、ウクライナだけで100 万人の飢饉死亡者 『ソ連における弾圧体制犠牲者』 『ロシア・ソ連を知る事典』 (表3) スターリンによる銃殺・殺害レーニン路線 の継承 時期 規模 出典 1924 府主教セラフィム逮捕、ソロヴェツキー強制収容所 送り。裁判なしに、ロストフ・ナ・ドンで司祭、修 道士122人とともに射殺 クロンシュタット反乱水兵で処刑を免れた2000 人がソロフキ収容所に送られてきた。囚人を川に浮 かぶはしけに乗せ、沈めて溺死させた。岸に向かっ てくる者は機関銃で射殺。それが何回も繰り返され た 『ロシア正教の千年』 『聖地ソロフキの悲劇』 1925〜27 主教160人中、逮捕117人。全員を処刑、強制収容所 送り、流刑。1930年代末、収監・流刑の主教150人を 超えた 『ロシア正教の千年』 1928〜29 ソロヴェツキー強制収容所の全収容者の20%がロシ ア正教会関係 『聖地ソロフキの悲劇』 1932〜33 レニングラードの修道士、修道女318人を強制収容 所送り。聖堂22閉鎖。モスクワで聖堂と修道院400以 上爆破。活動している教会は革命前の15〜25%に減 少 『ロシア正教の千年』 1933夏 シベリア。神の存在を否定すれば生きのびるチャン スがあると、聖職者に告げられた。しかし、いずれ の答えも『神は存在する!』だった。静寂が戻るま で、ピストルの発射音が60回鳴り響いた D・ポロピエロフスキー『ソヴィエト無神論の歴史 』(『ロシア正教の千年』に引用) 1932以降 1932年以降の主教の逮捕者数は、1936年20人、翌37 年50人、全部で100人。1930年に府主教セルギーが挙 げた主教163人中、主教86人が7年後に収容所の奥に 姿を消した。同時期に主教29人死亡し、“引退強要 ”27人。結局、1930年代と40年代に総主教教会と革 新教会派とを合わせて、主教約600人殉教。 迫害の犠牲が主教などの高位聖職者に限らず、教 区司祭にも及んだ。レニングラードでは、1935年当 時に教区司祭100人中、1940年生存7人だけ。革新教 会派の場合、1935年司祭50人中、1941年生存8人だけ 。 レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公 式資料) 1937 教会破壊の実態と“成果”発表 都市、地区 革命前 1934〜37 ベルゴロド市と同地区 聖堂47、修道院3 教会4 ノヴゴロド市 聖堂42、修道院3 教会15 クイブィシェフ市とその管区 聖堂、モスク、その他の寺院2200 325 ソロフキ収容所所長・次長は、反革命的プロパガン ダを行っている囚人1900人銃殺の「許可申請」 提出。最終銃殺リスト1820人。そのうち、50 9人はレニングラード郊外で銃殺、200人は島内 で銃殺。最大の1111人はサンダルモフの森で4 日間にわたり銃殺、「1111人の処刑執行完了」 報告書をKGBファイルから発見 『イズヴェスチャ』紙(1936・8・12)、『プラウ ダ』紙(1937・4・15) 『聖地ソロフキの悲劇』 1930〜39 1930年代の10年間、ロシア正教会聖職者3〜4万人が 銃殺、もしくは収監。修道院から追い出された修道 士、尼僧も流刑、収監、あるいは射殺 レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇』(教会公 式資料) 5、ロシアとレーニンの「戦闘的無神論」 〔小目次〕 1、西ヨーロッパにおけるマルクス・エンゲル スの宗教批判 2、ロシアにおける「戦闘的無神論」の伝統 3、レーニンの「戦闘的無神論」 1、西ヨーロッパにおけるマルクス・エンゲルスの 宗教批判 廣岡正久教授は、著書『ソヴィエト政治と宗教− 呪縛された社会主義』(P.43)において、要約 すると、このテーマを次のように3点に規定してい ます。マルクスが宗教に浴びせる批判は、もっぱら 宗教の社会的側面、すなわち宗教の社会的起源と社 会的役割を暴露することに集中しています。 第一に、宗教とは、なによりもまず道徳と芸術、 哲学などといった他のすべての社会意識形態と同様 、経済的「土台」にたいする「上部構造」、すなわ ち、生産過程に対応する一定の社会関係の反映にほ かならない。したがって宗教は自立性を有するもの ではなく、前社会主義的な社会発展段階にあっては 階級搾取を本質とする社会関係の幻想的表現にすぎ ない。 第二、宗教の社会的、イデオロギー的機能です。 それが資本主義社会の内部矛盾を隠蔽するばかりか 、さらにはその社会・経済体制を擁護し、正当化す る役割を果たす。宗教は、被搾取者にたいして搾取 の現実から目をそらせ、その苦しみを忘れさせる麻 薬として作用する。 第三、階級社会のもとで真の現実性をもたない人 間の幻想的表現である宗教は、真の人間解放をめざ すプロレタリアートの革命闘争の結果として、早晩 、枯死するに至る。なぜなら、人間の「現実的な生 活過程」の変革は、不可避的に、「この生活過程の イデオロギー的反射と反響」をも変化させずにはお かないからです。資本主義的な社会・経済関係の崩 壊は、その幻想的、イデオロギー的表現である宗教 をも崩壊へと導くからです。イデオロギー的上部構 造である宗教は、経済的土台の変革にともなって、 自然死を遂げる。 2、ロシアにおける「戦闘的無神論」の伝統 廣岡氏は、『ロシアを読み解く』(P.101) で、その系譜を次のようにのべています。 『ロシア正教の強固な宗教的伝統は、他方で宗教 を根底から否定し、神と教会を徹底的に拒否する過 激な反動を呼び起こした。それは単に宗教を否定す るだけでなく、神や教会を弾劾し、断罪するといっ た激しい反動であった。その“無神論”は、逆説的 に、むしろロシア人に特有の熱狂的な“信仰”と呼 ぶにふさわしいものであった。実際、ロシア人の無 神論は単に神の存在を否定するのではない。それは 神を、神の観念を全面的に否定し、拒否するのだ』 。『ロシア人の無神論の本質はその“戦闘的”性格 にある。彼らは神に戦いを挑む戦士を自負している 。その意味で、彼らは無神論の熱烈な信仰者なのだ 。“無神論的”社会主義を信奉する革命家たちの登 場を目撃したドストエフスキーは、その社会主義を 「新しい宗教」と呼んだ。ロシア革命の悲劇を知る われわれには、ドストエフスキーの予言は不気味な 響きをもって迫ってくる。彼は書いている。「今や 、新しい宗教が古いものに取って代わろうとしてい るのだ。だからこんなに戦士が現れてくるのだ」と 』。 『政治の実践的な課題としてのロシア的無神論を 明確に打ち出したのは、暴力主義的なアナーキズム 運動の創始者ミハイル・バクーニンであった。バク ーニンにとって、神とは「人間的自由と尊厳の最も 完全な否定」にほかならない。バクーニンは、人間 の名において“神の殺害”をさえ主張する。「神が 存在するならば、彼は不可避的に永遠の、至高の、 絶対的な支配者である。したがって、そのような支 配者が存在するならば、人間は奴隷である。……私 はいう、神が実際に存在するとしても、神を廃止し なければならない」(勝田吉太郎訳『鞭のドイツ帝 国と社会革命』)。 過激な“戦闘的”無神論の信条は、ロシア革命に も受け継がれた。事実、一九一七年の革命から七四 年間におよんだソヴィエト体制がロシア正教会をは じめとする諸宗教に対して、かつてのいかなる革命 政権にも見られなかったほど激しく、かつ執拗な敵 意を示したことは記憶に新しい。この体制は、近代 の多くの革命が追求した「権力の神聖の剥奪」に満 足することなく、およそ神の観念と宗教のいっさい を社会から根絶するばかりか、人間の意識からも一 掃しようと企てたのであった』。 3、レーニンの「戦闘的無神論」 以下も、廣岡著書の私(宮地)なりの要約です。 レーニンは、マルクスの3つの仮説のうち、第一 、二を共通の命題としています。しかし、顕著な違 いは、レーニンが、第三の「宗教の自然死」を信じ ないことでした。革命運動の「自然発生性」を否定 したレーニンは、西ヨーロッパとロシアの条件の相 違もあって、「戦闘的無神論」の立場に基づいて、 「宗教の根絶を目指す激烈かつ攻撃的な反宗教闘争 」を訴えました。 第一、レーニンは、宗教が「市民の私事」「個人 の良心」の問題であるとは断じて認めませんでした 。ロシア革命にとって、宗教は、最重要な社会・政 治的な課題であるとしました。論文や書簡等に見ら れる、レーニンの宗教にたいする敵意や反感は、あ まりにも激烈で、偏執狂的です。ゴーリキーの宗教 的偏向をとがめた書簡のなかでレーニンは、宗教信 仰を抱く者すべてを口汚くののしって「法衣を着け ていない坊主、粗雑な宗教をもっていない坊主を暴 露し、非難し、放逐すべきである」と述べました。 さらに第二の書簡では「神の観念はいつでも奴隷制 (最悪の出口のない奴隷制)の観念である」と、バ クーニンに劣らない激しさで宗教に非難を投げつけ ています。この「攻撃的無神論」こそが、1922 年の血なまぐさい宗教弾圧を招来する要因の一つで した。 第二、レーニンのいう政教分離の原則は、自由主 義的な信仰の自由や良心の自由の原則を意味するも のでありません。レーニンの関心は、ただ一点、革 命闘争の勝利に注がれているのであって、その目的 は、宗教と国家権力との結びつきを断ち切り、宗教 を無力化するとともに、併せて既存権力の「神聖の 剥奪」と弱体化を促すことでした。したがってそれ は、宗教根絶の闘争の第一歩であり、その有利な条 件をつくり出すための革命戦略の一環にほかならな いのです。 第三、1919年のロシヤ共産党(ボ)第8回大 会で、レーニンは、プロレタリアート独裁の任務は 宗教の根絶であるとはっきりと指摘しています。「 宗教政策の分野では、プロレタリアートの独裁の任 務は、すでに法制化されている教会と国家との分離 および学校と教会との分離に満足しないことにある 。プロレタリアートの独裁は、搾取階級すなわち地 主および資本家と、大衆の無知をささえるものとし ての宗教宣伝団体との結びつきの破壊を、徹底的に おしすすめなければならない。」と。しかし、ここ までくると、「戦闘的無神論」それ自体が「擬似宗 教的信仰の対象」となり、いっさいの宗教の存在も 、また他のいかなる信仰をも容認せず、ついには血 なまぐさい宗教弾圧に狂奔するに至ったのでした。 したがって、レーニンの「戦闘的無神論」は、マ ルクス・エンゲルスの宗教批判との共通点を持ちつ つも、その本質はロシアにおける「戦闘的無神論」 の伝統を受け継いだものです。レーニンの「聖職者 全員銃殺型社会主義」とは、マルクスや西ヨーロッ パの社会主義理論、思想と根本的に異質な、かつ、 「人道にたいする犯罪」を是認し、異端者大量殺人 を正当化した異様なロシア特殊的社会主義でした。 廣岡氏が引用しているニコライ・ベルジャーエフ の2節を転記します。 『マルクス主義はあらゆる第一義的な問題に解答 を用意し、生に意味を与える普遍的な、完成した一 つの思想であると自負している。それは政治学であ り、倫理学であり、科学であり、哲学でもある。そ れはキリスト教にとって代わろうとする新しい一つ の宗教である』(P.40)。 ベルジャーエフは、苛烈な宗教弾圧を招いた共産 主義体制の疑似宗教的性格を指摘して、次のように 論じている。『共産主義は、神の選民としてのプロ レタリアートにたいする宗教的崇拝を要求する。そ れは神と人間にとって代わるために招かれた社会的 集合体を神化する。社会的集合体こそ、道徳的判断 と行為の唯一の基準である。それはいっさいの正義 と真理とを包摂し、表現する。それは自己の正統神 学を有し、自己の祭祀を創始する。それは他のすべ てにたいして強制的な、自己の教義体系と自己のカ テキズムとを準備する。それは異端を剔抉し、異端 者を破門する』(P.55) 6、レーニンにおける「大量銃殺是認」革命の倫 理 亡命革命家から一党独裁最高権力者へ レーニンは、スイスでの亡命革命家である間、プ ロレタリア民主主義を強調し、当然のことながら、 「反革命分子、聖職者の銃殺」などは一度も主張し ませんでした。ただ、フランス革命挫折の教訓から 、権力奪取した小数派の権力維持体制の必須条件に なるシステムとして、ジャコバン「公安委員会」方 式については、突っ込んだ研究をしていました。 彼が、銃殺、逮捕、抵抗者「人質」方針を大々的 に主張するようになるのは、1917年10月ボリ シェヴィキ単独武装蜂起により一党独裁最高権力者 になるのと同時ではありません。それは、1918 年5月、飢餓対策としての「食糧独裁令」の発令以 降でした。彼が、その誤った路線に抵抗する大多数 の中農にたいして、恣意的に『富農、クラーク』の レッテルを貼りつけて、軍事=食糧徴発を遂行して からでした。この「食糧独裁令」は1918年5月 から1921年3月までの2年10カ月間『戦時共 産主義』として継続されました。この路線がいかに 誤ったロシア農民からの食糧収奪政策であり、かつ 、内戦の基本原因になったかについては、ロイ・メ ドヴェージェフ『1917年のロシア革命』と、梶 川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』が、ソ 連崩壊後の未公開資料、アルヒーフ(公文書)で論証 しました。 「1922年のレーニン」の背景 レーニンの根本的誤りのもう一つは、1918年 1月の「憲法制定議会武力解散」問題でした。19 17年11月ボリシェヴィキ単独政権が行った選挙 で、ボリシェヴィキは25%の議席しか獲得できま せんでした。その小数派ボリシェヴィキ政権が、4 0%の議席を獲得したエスエルにたいして政権を譲 る、または連立を組むどころか、『左派エスエルが( 12月に)分裂したのに、統一名簿のままで行われた (11月)選挙だから無効』と、レーニン式詭弁を使 って武力解散したのです。これには、他の社会主義 政党、75%の他党派支持者が猛反発し、これも内 戦発生の第2原因になりました。ロイ・メドヴェー ジェフは、内戦発生主要原因としての従来の外国軍 事干渉説、白衛軍説を否定し、レーニンの2大誤り を、その主要原因と規定しました。 2大誤りとその強行からくる矛盾が約2年間、次 第に蓄積していき、1920年白衛軍との内戦終了 とともに、ボリシェヴィキ一党独裁の誤りにたいし て爆発したのが、1920、21年の危機でした。 社会主義的政策を遂行する条件が存在しないのにも かかわらず、社会主義的農業、自由商業廃止・取締 り、労働の軍事化方針などにたいして、5つの全分 野で反乱が勃発しました。(1)シベリア・タンボフ を最大とするロシア全土での農民反乱、(2)ペトロ グラードの労働者ストライキ、(3)クロンシュタ ット・ソヴェト水兵55000人の反乱、(4)チ ェーカーによる逮捕・粛清から逃れていた他社会主 義党派、アナキストの参加、(5)ボリシェヴィキ党 内3分派の活発化などです。レーニンは、それらに たいして「大量銃殺是認指令」による全面弾圧とい う最悪の選択肢を選びました。その弾圧内容は、『 逆説1921年の危機』で分析しました。一方、世 界プロレタリア革命が勃発するまでは、ボリシェヴ ィキ一党独裁権力をなにがなんでも維持する方策と して、レーニンは、(2)80%を占める農民にた いしてだけ、食糧独裁令を撤回し、「ネップ」によ る現物税体制、自由商業容認という“一時的後退戦 術” を採りました。一党独裁体制を守り抜く上で、 5つの全分野武力弾圧戦略と1分野一時的後退戦術 を採るという点を見ると、レーニンはまさに激動す る革命期に現われた天才的なプラグマティストでし た。 この戦略・戦術強行の延長として、「1922年 の聖職者全員銃殺型社会主義者レーニン」が登場し ます。 タンボフのアントーノフ反乱にたいする「大量射 殺指令」の倫理 1921年3月、レーニンは、農民反乱と兵士反 乱の同時勃発に直面して、まず先に、クロンシュタ ット・ソヴェト水兵55000人反乱を武力鎮圧し、 その多数を虐殺しました。4〜6月の間、2103 名に死刑判決を執行し、6459名を投獄しました 。フィンランドに逃れた数千名は、いつわりの恩赦 の約束でロシアに帰りました。しかし、すでに出来 ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハ ンゲリスクの収容所に送り、その大多数は手を縛ら れ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられました。5 5000人の完全粛清後、今度は、農民反乱鎮圧に 向かいました。このデータは、中野徹三『共産主義 黒書を読む』によるものです。 梶川氏は『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』で 、ソ連崩壊後公表された膨大な公文書を解析し、レ ーニンらの食糧独裁令、軍事=食糧徴発はまったく 誤った政策であること、シベリア・タンボフの農民 反乱はそれにたいする正当な抵抗であることを論証 しました。その誤った政策と過酷な食糧収奪を基本 原因として、1921、22年に500万人もの飢 饉死亡者が出たのです。飢饉には天災的要因が一部 あったにしても、その500万人は、レーニン、ボ リシェヴィキ、チェーカーと赤軍とによって、“結 果”的に殺されたのです。 農民反乱にたいして、レーニンは、チェーカーと 赤軍5万人、装甲列車3輌、機関銃数百丁で武力鎮 圧しました。 1921年6月11日、レーニンは次のような命 令を、政治局の承認をえて、発令しました。これは 、『レーニンの秘密・下』(P.158)の「レーニ ン秘密・未公開資料」によるものです。 『反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ 県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃 破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで 少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラ のみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア ・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する 。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判 にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をと った場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかっ た場合は射殺すること。(3)武器を隠しもってい ることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁 判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをか くまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没 収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺す ること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家で は、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺する こと。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には 、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに 分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと 。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること 。この命令は村の集会で読み上げること』。政治局 は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めて いました。 ただし、『裁判なしにその場で射殺』というレー ニンの命令に基づいて、射殺された農民犠牲者数の 統計は、不明です。レーニンの「未公開秘密資料」 3742点、それ以外の「レーニン署名入り秘密資 料」約3000点のいずれかにあるのでしょう。1 921年、(1)2月、ストライキをしたペトログ ラード労働者・メンシェビキ党員5000人の逮捕 、そのうち多数の拷問死・銃殺、(2)3月以降、 クロンシュタット・ソヴェト55000人の虐殺・ 完全粛清、(3)6月、農民反乱の武力鎮圧、抵抗 者の大量射殺後、(4)21、22年にわたり、人 肉を食うような飢饉死亡者が500万人も発生して いる最中に、(5)1922年2月からレーニンは、 「聖職者全員銃殺型社会主義」建設者に一段と変質 していきました。これらの「大量殺人指令」に現わ れているレーニンの革命倫理、人間性をどう考えた らいいのでしょう。1991年のソ連崩壊後、この ような「レーニン未公開秘密資料」やアルヒーフ(公 文書)が一部公開されるまでの74年間、私たちは、 レーニンのこのような「人道にたいする犯罪」を指 令する一党独裁最高権力者の素顔をまるで知りませ んでした。「粛清者レーニン」の素顔を知らされず 、「レーニン神話」の革命観、ロシア革命像を信仰 してきたのです。 レーニンにおける革命目的と手段の関係 ソ連崩壊前74年間における公表・宣伝上の「革 命英雄レーニン像」と、未公開・隠蔽されてきた「 クロンシュタット水兵殺戮・死刑、抵抗農民射殺、 聖職者銃殺指令者レーニン像」という表裏両面から 、レーニンの革命観、人間性を再構築するとどうな るのでしょうか。 どのような社会主義権力・国家を作るのかという 目的とその社会主義建設手段との関係について検討 します。 目的と手段に関する一般論として、2つの考え方 があります。(1)、現実に使用された手段は、必 ず目的に従属している。その手段が、犯罪的・非人 道的であるとき、その目的自体が非人道的内容を本 質的に包摂している。(2)、目的と手段とは、往 々にして乖離(かいり)する。目的は正しくても、や むをえず犯罪的手段が採られるという乖離が発生す ることもある。たまたま非人道的手段が採られたと しても、その時点の社会的・歴史的条件を考慮すべ きであり、そのことだけで目的の正当性・正義性ま でも否定することは誤りである。 1991年ソ連崩壊後、レーニン「未公開秘密資 料」、アルヒーフで暴露されたレーニンの「殺戮・ 死刑、射殺、銃殺」手段は、1921、22年にお けるロシアの条件、内外情勢をいくら考慮しても、 その本質は「人道にたいする前衛党犯罪」です。そ の手段を正当化し、弁解するような共産党員、マル クス主義者はいないでしょう。それとも、次のよう に主張するレーニン弁護人がいるのでしょうか。『 レーニンの手段が犯罪的であったことは認める。し かし、当時の特殊条件・情勢に基づく、社会主義擁 護のやむをえない非常措置であって、レーニンの社 会主義像・目的はあくまで正しい。たまたま目的と 手段とが一時的に乖離したにすぎない。また、その 粛清データそのものが本当に信用できるのか疑問で ある』。 私(宮地)の見解は以下です。レーニンの「人道 にたいする前衛党犯罪」である兵士・農民・聖職者 大量殺人手段は、彼の社会主義権力・国家像の目的 に従属し、その目的から必然的に発生したものです 。彼の権力・国家目的自体が、驚くべき選民主義、 独善、自然発生性を一面的に否定した、上からのレ ーニン型イデオロギー注入型社会主義でした。内田 義雄著『聖地ソロフキの悲劇』(P.166)は、こ のように言っています。『ソ連のドキュメンタリー 映画「ソロフキの暴力」の冒頭で、1918年につ くられた革命政権のポスターに掲げられたレーニン の言葉が引用されている。「鉄の手で、人類を幸福 へ導こう!」』。ザミャーチンは、SF小説『われ ら』において、最高権力者「恩人」をレーニンそっ くりに描写した上で、その「恩人」が「鉄の手」を もち、異端者処刑のレバーを押す情景を描きました 。ボリシェヴィキのザミャーチンは、それにより逮 捕されました。 「再構築したレーニン像」 上記「手紙」、宗教弾圧・根絶3段階路線、19 21・22年の粛清全データから、一党独裁最高権 力者レーニンの異質な社会主義像、革命倫理、人間 性に関する、私(宮地)の「再構築」結論は、以下 です。それをレーニンの「一人称」スタイルで書き ます。 『私(レーニン)は、マルクス・エンゲルスの社 会主義理論、革命理論の唯一最高の継承者である。 ただし、ロシアは西ヨーロッパと異なり、ブルジョ ア革命を経ていず、900年間におよぶツアーリ支 配下にあった。そこから、マルクスや、第2インタ ー系社会主義政党と根本的に異なる社会主義像、異 質な権力奪取・維持過程が生まれるのは当然である 。ロシア革命を契機として、世界革命が勃発するま で、ボリシェヴィキだけでなんとか革命権力をもち こたえなければならない。 ロシアと人類を解放できるのは、自分の「鉄の手 」しかない。議席獲得率25%の小数派が一党独裁 権力を維持するには、ジャコバン「公安委員会」の ような暴力組織が必要である。ロシアにおいては、 チェーカーと赤軍の暴力機構と抵抗者銃殺・殺害シ ステムは絶対必要条件である。よって、自分とボリ シェヴィキ一党独裁権力の社会主義理論・路線・政 策に反対、抵抗したペトログラード労働者・メンシ ェビキ、シベリア・タンボフ農民、クロンシュタッ ト・ソヴェト水兵、他社会主義党派・アナキストは 殺してもよい。また、ロシアの特殊条件においては 、マルクスの「宗教批判」レベルでは反革命に対応 することができない。自分の「戦闘的無神論」こそ が、絶対正しい理論と方策であ。その宗教根絶理論 に反する聖職者・信者たちは、その「存在」自体が 反革命であり、たとえ無抵抗であろうとも全員銃殺 することは、許されている。「シューヤ事件」は聖 職者・信者根絶方針執行の絶好の口実を与えてくれ た。むしろ、自分とボリシェヴィキ一党独裁に抵抗 する階層、グループ、個人、および聖職者のような 本質的異端者は、積極的に銃殺、あるいは強制収容 所送りで隔離、強制労働死・拷問死させるべきであ る。 その「抵抗者・異端者“肉体的”排除の論理、革 命倫理」は、ロシア革命の基本目的の本質的構成要 素である。それを全ロシア、国家的規模で貫徹させ ることによってこそ、マルクス主義をロシアの特殊 環境に適応させ、発展させた「異端者のいない純粋 、かつ理想的な社会主義国家権力」が作られる。そ の権力維持を突破口として、西ヨーロッパ、その他 での世界革命を勃発させることができる。それまで は、引き続き、反乱兵士死刑・農民反乱抵抗者の裁 判なし射殺・聖職者全員銃殺型社会主義システムを 一段と強化しなければならない。一党独裁権力の維 持・強化こそが最大の目的とならなければならない 。ただ、そのためには、農民反乱があまりにも激し くなり、これ以上「軍事=食糧徴発体制」を続けれ ば、一党独裁が崩壊してしまう危険が高まってきた 。よって、農民反乱武力鎮圧、抵抗農民の裁判なし 射殺を完遂する一方で、「軍事徴発」を撤回し、現 物税10%制度、自由商業容認という「戦術的・一 時的後退」手段としての「ネップ(新経済政策)」も “やむをえず”採用する。』 私(宮地)の結論として、レーニンの本質的な革命 目的は、1917年10月ボリシェヴィキ単独武装 蜂起・権力奪取の瞬間から、1カ月後の11月憲法 制定議会選挙結果がどう出ようとも、「真理の唯一 の認識者、体現者」であるボリシェヴィキ一党独裁 権力の維持・強化だった、ということです。選挙は 、11月から、ボリシェヴィキ単独権力下で行なわ れました。左派エスエルが分裂して、ボリシェヴィ キと連立政権を組んだのは、12月からの3カ月間 だけでした。11月選挙は、エスエルの分裂前「統 一名簿」で行なわれ、農民を基盤とした社会主義政 党エスエルは40%の議席を獲得し、第1党になり ました。ボリシェヴィキ政権が選挙を施行した以上 、25%ボリシェヴィキは、40%エスエルに政権 を明渡すか、連立を組むべきでした。それをするど ころか、レーニンは、『左派エスエルが(12月に) 分裂したので、分裂前「統一名簿」による選挙結果 は無効』というレーニン式詭弁で、“革命の栄光拠 点”クロンシュタット・ソヴェト水兵を使って、議 会武力解散の暴挙を強行しました。メドヴェージェ フが規定したように、これが内戦の第1主要原因に なったのは、当然でした。オーウェルは、『198 4年』において、党内思想警察オブライエンの口を 借りて、スターリン体制、その目的を『権力のため の権力』と結論づけしました。その権力体質は、ス ターリンからではなく、まさにレーニンからだった のです。 ソ連共産党中央委員会ビルの「レーニン関連文書 保管所」で、74年間にわたり隠蔽されてきた「レ ーニン未公開秘密資料3724点」「レーニン署名 入り秘密文書約3000点」のごく一部が、199 1年ソ連崩壊後公表されました。その一部資料によ り暴露された「粛清者レーニン」「人道にたいする 前衛党犯罪指令者レーニン」の側面がどのように形 成されたかということには、2つの仮説が成り立ち ます。 第1仮説、レーニンは、マルクスや第2インター 系ヨーロッパ社会主義政党と根本的に異なる異質な 、非人道的社会主義像・目的を、ロシアの条件のな かで育ててきた。なぜなら、兄アレクサンドルが、 ツアーリ暗殺計画で処刑されたとき、レーニンは1 7歳であった。その後、マルクス主義に行きつくま でに、3つのナロードニキ・サークルに参加したこ とが確認されている。ナロードニキの思想家チェル ヌイシェフスキーを尊敬し、彼の革命小説『何をな すべきか』を愛読し、自分の前衛党組織論に、『な にをなすべきか』と同じ題名をつけた。ドストエフ スキーが『悪霊』で、ナロードニキ革命組織内の裏 切り者殺人をしたネチャーエフ事件を、徹底して批 判的に描いたのにたいして、レーニンは、ネチャー エフを全面擁護し、ドストエフスキー作品を『反動 的』ときめつけた。それらの本質が、1921年の ボリシェヴィキ権力最大の危機、および1922年 に表面化したのである。 第2仮説、『絶対的権力は絶対的に腐敗する』と いうテーゼどおりに、なんの労働体験もなく、長期 の亡命革命家から、一転、一党独裁最高権力者にな ったレーニンの人間性が、1917年10月ボリシ ェヴィキ単独武装蜂起・権力奪取から1920年の 間に麻痺し、オーウェルのいう『権力のための権力 者』に変質した。上記「手紙」を含め、他の公開さ れた秘密資料においても、レーニンは、『極秘』『 写しをとらないこと』というメモを多数残している 。「人道にたいする犯罪」指令を自ら隠蔽し、「非 公開秘密資料」にしようとする表裏を持つ人格とな った。ただ、レーニンは、これだけの虐殺・射殺・ 銃殺・人質指令を頻発しながらも、その大量殺人指 令そのものには、なんの動揺も見せていない。それ が、ロシアの特殊条件における社会主義権力維持シ ステムだという絶対的確信を持っていた。レーニン 路線とその銃殺・殺害データは、『絶対的権力者』 レーニンの人間性、革命倫理観が、1921年危機 を契機として『絶対的に腐敗した』ことを証明する ものとなっている。となると、「1921、22年 に“裏側のレーニン”がしたこと」から、どのよう な「レーニン像の再構築」ができるのか。そもそも 、これほどの抵抗者・異端者銃殺・殺害指令者を『 それでも社会主義者だった』と規定することはでき ない。「1922年のレーニン」は、『“表側の” 自称・社会主義者』ではあっても、そのしたことを 見る限り、『通常の社会主義理念、倫理から逸脱し た、たんなる一党独裁権力者』に変質したのである 。 従来の「レーニン神話」説、10月革命は、あく まで「社会主義」革命である。そこでは「革命か反 革命か」という激烈な階級闘争が何年間も続く。革 命路線にたいする抵抗者、本質的な異端者、武装反 革命政党は、すべて『人民の敵』である。レーニン は、『人民の敵』という用語を初めて規定・使用し 、1918年5月「食糧独裁令」発令以降、『敵』 の逮捕、人質、銃殺を繰り返し指令した。彼らを、 チェーカーと赤軍の暴力を使って、銃殺・殺害・強 制収容所送りなどの“肉体的”排除するのは、世界 初の社会主義政権を擁護・維持するための絶対必要 条件である。『敵は殺せ』『反革命と疑われる者、 グループ、政党党員はすべて殺せ』というのは、国 際的包囲下の社会主義権力が持つべき正当な革命倫 理である。 内戦の主要原因は、あくまで外国軍事干渉とその 支援を受けた白衛軍である。ロイ・メドヴェージェ フ、梶川伸一とP・アヴリッチの研究内容は、小数 意見にすぎず、かつ、誤りである。1918年から 20年の内戦とは、反革命軍との戦争である。白衛 軍に直接加担した農民、クロンシュタット・ソヴェ ト水兵や間接加担した聖職者たちを『敵軍の一部と して殺す』のは、戦争である以上、正当な戦闘行為 である。1920年内戦終了後の、1921、22 年に、それらの白衛軍加担者たちを『銃殺・殺害し 、強制収容所送りし、強制労働死・拷問死させた』 ことも、「国家反逆罪」追及、反革命の再発防止措 置として、まったく正しかった。 レーニンは、ペトログラードのストライキ参加労 働者・メンシェビキ党員5000人、クロンシュタ ット・ソヴェト反乱水兵と住民55000人、シベ リア・タンボフ反乱農民数万人、本質的異端者であ る聖職者3〜4万人、信徒数万人などの『反革命分 子』十数万人を殺して、社会主義を守り抜いた、偉 大な革命英雄、マルクス主義者である。十数万人を 銃殺・殺害したからといって、そのことだけでレー ニンの人間性、革命倫理を疑う者は、社会主義革命 の何たるかを知らない「空想的社会主義者」である 。 レーニンの人間性に関する私の判断は、2つの仮 説のいずれかということではなく、それらの要素が 融合したものであるということです。 1、「1922年のレーニン、知識人追放『作戦』 」のデータと文献 このファイルは、「知識人大量追放型社会主義者 レーニン」を分析するものです。この『作戦』は、 「レーニンが1922年にしたこと」のなかで、『 聖職者全員銃殺指令』と並ぶ二大粛清事件の一つで す。以下の内容は、それを分析したファイルとの「 姉妹編」になります。そこから、全体の〔目次〕構 成のしかたも、ほぼ同じにしました。従来の「レー ニン神話像」とはまるで異なる「粛清指令者レーニ ン」の素顔を解明します。よって、このテーマに関 しても、ここで使用している7つの文献、データの 信憑性が問題になります。本文に入る前に、それら 文献の説明と私(宮地)の判断をのべます。 (1)(2)(3)、ロイ・メドヴェージェフ『191 7年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)、『 共産主義とは何か』(三一書房、1973年)、『「 スターリニズムの犠牲」の推計』(塩川伸明「終焉の 中のソ連史」朝日選書、1993年に所収)。彼は、 旧ソ連時代から数多くの研究を「サムイズダート(地 下出版)」で発表してきました。『共産主義とは何か 』は、スターリン批判の古典的名著で、その膨大な データと論証には圧倒されます。『推計』は、その 粛清数字だけの表で、著書から導き出されたので、 現在でもその信憑性は高いと評価できます。『19 17年のロシア革命』は、ソ連崩壊後の新資料、秘 密資料に基づく分析で、かなり突っ込んだレーニン 批判になっています。彼の経歴は、HPファイル『 1917年のロシア革命』に書きました。 (4)、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上下 』(NHK出版、1995年)。このファイルで使用 しているのは、『下』第6章の一節「知識人の悲劇 」(P.176〜203)です。このデータも、「 レーニン文書保管所」にある「レーニン秘密資料」 による内容で、レーニン第一次資料です。彼は、大 将の軍籍を持ち、軍事史研究所所長であるとともに 、極秘文書保管所に最初に閲覧を許され、自由に出 入りできた最初の研究者でした。しかも、1991 年クーデター未遂事件後、エリツィン政権下で、「 党と国家の文書保管所の管理と機密扱い解除」を担 当することになり、ロシア共和国最高会議歴史文書 委員長も務めました。その公表・研究の一端が、こ の著書です。 (5)(6)(7)、川端香男里東大教授・中部大 学教授『ザミャーチン「われら」翻訳・解説』(講談 社文庫、1975年)、『ロシア・ソ連を知る事典』 (平凡社、1989年)の「文学」項目執筆、『ロシ ア』(講談社学術文庫、1998年)。川端氏は、著 名なロシア・ソ連文学、歴史研究者です。『事典』 の監修者であり、『われら』翻訳をするなど、多面 的な活躍をし、多くの著書、論文を発表しています 。そこでの分析、データは正確です。 (注)、ファイル中に、引用文献の関係で、ソヴィ エトとソヴェトという用語混在があります。 2、知識人追放『作戦』規模・体制とレーニンの 極秘「指令」 1、レーニンの1922年5月19日付「知識人 追放指令の秘密・手紙」 ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・ 第10章「法は成熟する」(新潮社、P.360) の冒頭で、次の「レーニン全集」に掲載されている 「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せまし た。よって、これは「レーニン秘密資料」ではあり ません。その個所をそのまま引用します。 『銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みら れた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、 ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ) いたた思いつきをただちに五月十九日付の手紙の中 に結実させた。 「同志ジェルジンスキー! 反革命を援助してい る作家や教授たちを国外へ追放する問題について。 このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備 がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろ う……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶 えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置 しなければならない。これのコピーをとらずに、政 治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする 」(「レーニン全集」第45巻、P.721) この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的な ことから当然である。ソビエト・ロシアにおける切 り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧 ロシアのブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判 然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破 られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオ ロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていた のであり――彼らに対する最善の処置はその腐った 思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出す こと以外にはなかった。 同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治 局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキー が八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三 百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に 詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされ た』。 手紙の「5月19日」という日付には、3つの意 味があります。(1)、『知識人の大量追放作戦』 の準備指令をレーニンが最初に発したことです。(2 )、レーニンは、後述のように、5月26日に第1回 目の脳卒中発作を起こし、5月30日には「12× 7」の計算もできない症状になりました。その第1 回発作の8日前に、『作戦』指令を出していたこと です。(3)、彼は、『教会財産没収・聖職者全員 銃殺指令』の「極秘手紙」を3月19日に出しまし た。5月時点は、その指令が大々的に執行され、聖 職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害がソ連全土で 行なわれていました。よって、「レーニンが192 2年に行った2大粛清事件」は、2カ月違いで、ほ ぼ同時にスタートしたのです。一方は大量銃殺・殺 害で、他方は追放をする形態でした。2つの“肉体 的排除”形態に違いを持たせました。その点では、 “高度な政治的配慮を込めた、いかにもレーニンら しい粛清=「ごみ分別」スタイル”でした。 2、ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令 。極秘 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシ ア革命』(P.134)で、次の「レーニン秘密資料 」を公開しました。これは、L・コーガン「精神的 エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題 』(8号、1993年)で最初に掲載されたものです。 『一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴ ィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢 の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスク ワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペト ログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向 かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者 、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大 規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけ でなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、 オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラト フ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書 ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、 その実施指導のために、L・カーメネフを議長とする ロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置さ れた。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨ シフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部 部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバー とゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジ ンスキーの「指令」メモの一つにはこう書かれてい た。 ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令 。極秘。 積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(ま ずはメンシェヴイキ)の国外追放を、たゆまず継続 する。入念にリストを作成し、それらをチェックし われわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部 彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活 動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体 」の論集参加者のチェックをする。草々。 F・ジェルジンスキー』 この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書 いていません。しかし、期日を推測させる文言があ ります。それは。『(まずはメンシェヴイキ)の国 外追放を、たゆまず継続する』です。この文言は、 5月26日第1回目発作以後の『追放の督促・継続 指令』です。 3、「反ソヴェト」知識人の大量“肉体的排除” 4方針 〔小目次〕 第1方針 逮捕・国外強制追放 第2方針 逮捕・出国不許可、辺境地強制移 住(=流刑) 第3方針 出国許可(=自主的亡命許可) 第4方針 国外に出た亡命者グループ内での スパイ活動、分裂工作 以下の内容は、ヴォルコゴーノフが公表した「レ ーニン秘密資料」に基づく要約です。それを、私( 宮地)が4方針に分類し、かつレーニン指令を時系 列順に並べ直しました。 第1方針 逮捕・国外強制追放 1922年6月8日、政治局(ポリトビューロー) は、レーニンが決定し、ジェルジンスキーの最高補 佐官ヨシフ・ウンシュリフトが作成した、党と異な った考え方をする人たちを国外へ追放することを提 案した「反ソヴィエト・グループ分布」に関する報 告を承認しました。この報告書は、内務人民委員部 (NKVD)と司法人民委員部の代表から成る特別委員 会を形成し、国内で強行措置の適用が限界に達した 時、国外もしくはロシア連邦内の特定地域へ追放す る権利をもたせてはどうかと提案していました。絶 大な権限をもつ国家保安部(GPU)は、革命にとって 危険であるとみなされる人物の選り分けを開始しま した。危険人物とは、事実上、ロシア社会のエリー トたちでした。 7月31日、第一団のリスト人数は120人でし た。彼らの追放命令書は、カーメネフ、クルスキー 、ウンシュリフトが署名しました。著名人の名がず らりと並んだ名簿のあとには、「政治局の決定によ り、同志ジェルジンスキーを議長とする本委員会は 、それぞれの分野でかけがえのない人材と考えられ 、所属機関から彼らを現在の地位に残す許可願が出 ていた人物について、追放命令取り消しの嘆願書を 検討した」というヤーゴダのコメントが付いていま した。哲学者ニコライ・ベルジャーエフの項には、 こうしたGPUの典型的なコメントが付けられてい ました。「彼はベーレグ出版社と関係があり、戦術 センター、君主主義者、右翼立憲民主党、黒百人組 〔20世紀帝政ロシアに存在した右翼反動団体の総 称〕、宗教関係、反革命的教会との関連も調査済み 。追放」。 8月2日、ウンシュリフトはすでに、スターリン に「モスクワ……およびペトログラードの反ソヴィ エト知識人」のリストを付けて、こう報告すること ができました。「要注意人物全員を逮捕し、自費で 国外へ退去する機会を与える。もし彼らが拒否すれ ば、GPUが旅費を出してはどうか」。同時に、「反革 命的新開『農業ニュース』と、『思想と経済再生』 は、反ソヴィエト的、理想主義的見解を広めつつあ るので、廃刊にする」。 GPUはさすがにその道の専門家でした。彼らが 選び出した名前のリストには、ロシアの最高の知識 人エリートたちがきら星のごとく並んでいました。 だが、その選択にはレーニンも個人的にいろいろ干 渉しました。最高の知的人材を社会から流出させる 政策は、もとはといえば彼がいい出したものだった からです。その名簿は、GPUに渡されて、最終的 にジェルジンスキー、スターリン、ウンシュリフト によって完全なものにされる前に、レーニンのとこ ろへ何度も回され、修正、追加、但し書き、疑問符 が付けられました。最初の一団が追放される寸前の 1922年秋には、レーニンは病気で静養中だった にもかかわらず、今後の同様の措置について、彼は あれこれ心配しました。 8月、政治局は、レーニンの指示にしたがい、「 学生の中の反革命分子を国外へ追放する」、および 「カーメネフ、ウンシュリフト、プレオブラジェン スキーから成る委員会をつくる」というウンシュリ フトの提案を承認しました。ボリシェヴィキは先を 読んでいたのです。次世代の知識人の芽を、若葉の うちに摘み取ったのです。 9月17日、レーニンは、ウンシュリフトにこう 書いています。「だれが追放され、だれが留置所に おり、だれがどんな理由で追放を免れたかについて コメントを付けた上、すべての関連書類を私に送り 返してくれるように手配してください。この手紙に ついても短いコメントをお願いします」。翌日の夜 、ウンシュリフトは不在だったので、彼の代理のヤ ーゴダがこう返事しました。「ご指示にしたがって 、彼らについてのコメントを付けた名簿を同封いた します。(別に挙げてある)名前の人たちは、何ら かの理由があってモスクワ[またはペトログラード ]に残っています」。さらにそれには、「最初の一 団は、9月22日金曜日にモスクワを発つことにな っています」と付け加えられていました。 レーニンのリストには大勢の名前が並んでいまし た。その見出しを見ただけでも、最高学府のモスク ワ大学教授、ペトロフスキー=ラズモフスキー農林 学アカデミー教授、鉄道技師養成大学教授、自由経 済協会事件に連座した人たち、考古学研究所反ソヴ ィエト教授、ベーレグ出版社とかかわりのある反ソ ヴィエト人物、第812事件関連者(アプリコーソ フ・グループ)、反ソヴィエト農業経済学者および 協同組合主義者、医師、反ソヴィエト・エンジニア 、作家、ペトログラード著述家、ペトログラード反 ソヴィエト知識人の特別リストなどが並んでいまし た。 9月22日、最初の一団120人を、モスクワか ら出発させました。 1922年秋、スターリンに宛てた長い覚え書の 中で、レーニンは、反ボリシェヴィキ出版物にかか わりをもった人物や、自分の政権にとってとくに鋭 い反対派とみなされる人物を槍玉に挙げていました 。この覚え書には、そういう人たちとは緑を切りた いというレーニンの異常なまでの不安がうかがわれ ます。 『メンシェヴィキ、人民社会主義者党、カデット などの追放の問題について、いくつかうかがいたい 。この問題は、私が休暇に出かける前から着手して いたのに、いまだに落着していない。人民社会主義 者全員を“根絶する”ことは決定されたのか? ペ シュホーノフ、ミャコーチン、ゴーンフェルトはど うなったのか? ペトリシュチェフその他の連中は ? 私は彼ら全員が追放されるべきであると考える 。彼らはエスエル党員のだれよりも危険である。な ぜなら、彼らのほうが抜け目がないからだ。A・N・ ポトレソフ、イズゴーエフらの『エコノミスト』[ 雑誌]の関係者全員、(オゼロフやほかにももっと もっと大勢)。メンシェヴィキのローザノフ(医師 、抜け目がない)、ヴィグドールチク(ミグロとか いう名)、リューボフ・ニコラエヴナ・ラドチェン コとその若い娘(ボリシェヴィズムにとってもっと も有害な敵と思われる)、N・A・ロジコフ(手に負 えない奴なので、追放すべきだ)、S・L・フランク (『方法論』の著者)、マンツェフ=メッシング委 員会は、こうしたリストをつくり上げ、そのような 紳士数百人を容赦なく国外へ追放すべきである。そ うすれば、われわれはロシアを一度に浄化すること になる。 レジェネフに関しては……われわれはこれについ て考えるべきである。彼を追放すべきではないのか ? 彼の論文から判断するかぎり、この男はいつも 非常にずる賢い。『エコノミスト』関係者全員と同 じように、オゼロフはもっとも冷酷無情な敵である 。彼ら全員をロシアから追放しなくてはならない。 何が何でも、今すぐ行うべきだ。エスエル党員の裁 判が終わるまでにはやるべきで、それより遅くなっ てはいけない。追放の動機については説明無用。諸 君、腰を上げよー! 「作家の家」および『ムイスリ(思想)』[ペト ログラード]関係の執筆者全員、ハリコフは絶対捜 し出さねばならない。われわれはそこで何が起こっ ているのかまったくわからない。われわれにとって 、まったく“外国”同然だ。これを速やかに浄化す る必要がある。エスエル党員の裁判の終了より前に 。[ペトログラードの]作家たちに注目せよ(彼ら の住所は、『ノーヴァヤ・ルースカヤ・クニーガ( 新しいロシアの書籍)』一九二二年、第四号、三七 頁)および民間出版社の名簿(二九頁)を参照せよ 』。 レーニンの指示は、支離滅裂だが消えない鉛筆で 一息に書かれたかのように、無慈悲、冷酷なもので した。スターリンの手書きのメモによれば、それら はただちに、指導者の命令としてジェルジンスキー へ送られました。 1922年末、レーニンは、秘密警察署長よろし く、チェキストたちに、ないがしろにされていた党 の指令の処理方法について模範を示しました。年末 には、追放の問題に戻り、もうひとりの自由思想家N ・A・ロジュコフについて、自分の主任秘書のリージ ャ・フォティエヴァを通じて、スターリンに電話で 命令しました。『第一に、ロジュコフを外国へ追放 することを提案する。第二に、これが実現できなけ れば(たとえば、彼の高齢を理由に)ブスコフへ送 り、何とか耐えられる環境に置き、暮らせる程度の 金と仕事を与えよ。だが、監視は厳重にしなければ ならない。なぜなら、彼は現在も、これからも、最 後までわれわれの敵でありつづけることは間違いな いからである』。 こうして、レーニンは知識人追放方針を常套手段 として現実化し、自ら率先して追放者リストづくり に手を染めていきました。『われわれはこれから長 期間にわたって、ロシアを浄化していく予定だ』。 浄化とは、つまり、知識人の良心をロシアから一掃 することでした。その犠牲者の大半を彼は個人的に 知っていたにもかかわらず、そういう人たちを槍玉 に挙げることにためらいを感じることはありません でした。後でのべる彼のゴーリキーへの手紙が、レ ーニンの知識人にたいする態度を表わしていたとす れば、スターリンへのメモはその具体的リスト指示 でした。 1919年、ただし、この第1方針は、すでに、 「戦時共産主義」時期において、カデット系知識人 にたいして、大量に行なわれていました。カデット =立憲民主党は、1905年、モスクワで結成され た自由主義政党です。自由主義地主とブルジョアジ ー、大学教授、弁護士や医師などの自由業インテリ が中心でした。 ソルジェニーツィンは、『収容所群島』「下水道 の歴史」(P.43)で、その大量逮捕の事実を暴 露しています。『一九一九年、ソビエト政権に対す る真偽とりまぜての陰謀(《ナツィオナリヌイ・ツ ェントル》、軍の陰謀)をめぐって、モスクワ、ペ トログラードその他の都市で名簿順の銃殺(という のはつまり、自由の身の人間をつかまえて即座に銃 殺することだが)が大々的に行われ、またいわゆる 立憲民主党周辺のインテリゲンチャがごっそり牢獄 に放り込まれていった。《立憲民主党周辺》とはど ういう意味か? 君主制主義者でもなく、また社会 主義者でもない、つまり、すべての学者、すべての 大学人、すべての芸術家、すべての文学者、それに すべての技師たちである。極端な思想を持った作家 、神学者、社会主義の理論家を除いて残りのインテ リゲンチャ全部、すなわち、インテリゲンチャの八 割までが《立憲民主党周辺》であった。レーニンの 考えによれば、たとえば「ブルジョア的偏見の囚と なった哀れなプチブル」コロレンコもその一人であ り、こういう『才子ども』は数週間監獄に入ってい るのも悪くはあるまい」ということだった。逮捕さ れた人びとの個々のグループについては、私たちは ゴーリキーの抗議文から知ることができる。一九年 九月十五日、レーニンは抗議に答えて、「……ここ にも間違いのあったことはわれわれには明らかだ」 が、しかし「まったくなんという不幸だろう! な んという不公平だろう!」と慨嘆し、「腐りきった インテリどもの泣言に自分の力を消耗する」ような 真似はしないようゴーリキーに忠告している』。 第2方針 逮捕・出国不許可、辺境地強制移住(= 流刑) 1923年1月11日、政治局は、GPUにたい して『自由主義的な職業をもつ個人の監視を強化す ると同時に、ソヴィエト政権の敵が害を及ぼさない ようにする措置をとれ』という命令をだしました。 国外追放だけでなく、辺地への強制移住も徹底して 行なわれました。 相当な人数にのぼる作家、学者、技術者らが窮地 に追い込まれて、自力で国を出ようとしました。だ が、政治局とGPUはすばやく対応しました。ヤーゴダ は中央委員会にたいし、自分の担当するNKVDが 、「著名人としてはジナイーダ・ヴェンゲ一ロヴァ 、アレクサンドル・ブローク、フョードル・ソログ ーブら多数の作家の出国声明書」を受け取っている と報告しています。「出国する作家たちは反ソヴィ エト・ロシア運動をもっとも積極的に行っており、 中でもコンスタンチン・バリモーント、アレクサン ドル・クプリーン、イヴァン・ブーニンらは、きわ めて恥ずべきことを率先して行う傾向があるため、 チェーカーとしては彼らの出国申請を認めるのは妥 当ではないと考える」と提案しました。ただ、19 20年代はじめのソヴィエト連邦は、外国から外交 面で認められ、受け入れられたいと願っており、世 論も気になっていたので、世界的に名を知られた芸 術家やインテリの扱いにはたいへん神経をとがらせ ていました。それゆえ、先に挙げたような人たちの 大半は、やがて出国を許可されました。しかし、ウ クライナの知識人の処遇はちがっていました。政治 局は、「彼らを国外へ追い出す代わりに、ロシア連 邦共和国内の辺境地へ追放すべきである」というウ ンシュリフトの提案を認めました。 第3方針 出国許可(=自主的亡命許可) 出国希望者はたくさんいました。とくにソヴィエ ト・ロシアにいては創造的な仕事をつづけられる見 通しはないと思った人たちは国を出たがりました。 集団で国外脱出を試みた人たちもいました。192 1年5月、政治局は、モスクワ芸術座第一スタジオ から提出された出国申請について審議し、ルナチャ ルスキーから、これまでに出国した学者、芸術家の 中で、何人が実際に帰国したかについて報告書が届 くまで、決定を延期することにしました。出入国の 実態はまったくの一方通行で、行き先は西側でした 。当初は、革命を創造的自由のユニークな契機と歓 迎していた芸術家たちも、多くの場合、パリやベル リンなど、もっと寛大な環境を求めて国を出る準備 をしていました。この分野でもまた、シャガール、 カンディンスキー、ステイーンらの画家や、ディア ギレフと彼の率いるロシア・バレエ、作曲家のプロ コフィエフやストラヴィンスキーなど、ロシア芸術 界の著名人の名が見られます。一流のソヴィエト市 民が大勢亡命したということは、この国の制度に決 定的な欠陥があったという紛れもない証拠でした。 第4方針 国外に出た亡命者グループ内でのスパ イ活動、分裂工作 1923年、政治局はOGPUに、「国外にいる 白衛軍の武装解除を徹底的に行い、彼らの一部をソ ヴィエト体制の利益のために利用する」ように指示 しました。その結果、OGPUに特殊任務のための 外国課が設置され、ロシア人亡命者の間で徹底的な スパイ活動が展開されました。その中には、「ソヴ ィエト政権にとってとくに危険な敵の一掃」も含ま れていました。西側諸都市の工作員から送られた山 のような報告書のファイルを見ると、当局がまず大 勢の知識人を国外へ追放しておいて、今度は彼らを 、スキャンダルや贈収賄を利用したり、グループ同 士を対立させたりして、彼らを“分離させる”こと に全力を挙げていたことがわかります。公開された ファイルには、『ロシア出国者』という大きな見出 しのもとに、著名な学者、著述家、政治家が集めら れ、亡命者の一挙一動が記録されています。 興味深いのは、ソヴィエト諜報部が反動思想の持 ち主として追放した哲学者ベルジャーエフに巧みに 取り入って信頼を獲得し、彼の名前と影響力を利用 しようとしていたことです。だが、工作員カルによ れば、彼は役に立ちそうもないと報告されています 。なぜなら、「彼は共産主義の批判者で、唯物論的 哲学の明確な敵であり、目的論しか論じたがらない 」人物だったからでした。外国課のベルジャーエフ ・ファイルには『表信者〔殉教はしないが迫害や拷 問に屈せず、キリスト教への信仰を宣言し、それを 守った男の意味〕』という見出しが付けられていま した。OGPUの工作員たちは何度か取り入ろうと したがやがてあきらめました。 4、肉体的排除データ(表1、2、3) (表1) レーニン指令による“肉体的排除”数 方針 規模 出典 逮捕・国外追放 1922年9月22日、第一次追放120人 1922年秋、160人 1922年末、300人の人道主義者が、汽船に詰め込まれ てヨーロッパのごみ捨て場へ送り出された。全体の 人数は不明 『レーニンの秘密』 『われら』解説 『収容所群島』 逮捕・出国不許可、辺地強制移住 ウクライナの知識人 『われら』作者ザミャーチンは逮捕・出国不許可 『レーニンの秘密』 『われら』解説 出国許可 コサック約3万人、ドンコサック合唱団亡命。亡命 者200万人+内戦犠牲者700万人、飢饉死亡者500万人 川端『ロシア』 総計 知識人“肉体的排除”3方針の総計数万人 具体的数字は不明。しかし、レーニンは「排除人数 」報告を要求しているので、そのデータは「レーニ ン秘密資料」6000点の中にある筈 『レーニンの秘密』 (表2) スターリンによるレーニン路線継承の知識 人大量逮捕と死亡数 分野 逮捕・銃殺・拷問死・強制労働死の規模 1930年代 後半 出典 文学 作家同盟にいる作家、詩人、劇作家、評論家などの 1/3の600人逮捕。ほとんどが拘禁中に死亡、銃殺、 強制収容所で餓死 各共和国の作家組織も大きな損害 ウクライナ、グ ルージァ、アゼルバイジャン、カザフスタン、タタ ールなど パステルナーク、レオーノフ、エーレンブルグを「 形式主義的偏向」の罪があると批判 『共産主義とは何か・上』(P.376) 芸術 多数の有名俳優、芸術家、映画人、音楽家、建築家 、画家逮捕。 舞台監督メイエルホリド狩り、「形式主義」と批判 、メイエルホリド劇場閉鎖。彼は、「逮捕され、と くに苦しく手のこんだ責苦をうけたのち、肉体的に ほろぼされた」 映画監督ドブジェンコ、エイゼンシュタインにも批 判 『同』(P.381) 学問 何千人という学者がほろびた。学術雑誌で始まった 論争と討論は、内務人民委員部の拷問部屋での拷問 と銃殺に終わった。逮捕・銃殺の範囲は、歴史学、 哲学、教育学、言語学・文献学、数学、生物学と農 業、医学に及んだ。 農学者ルイセンコは、逮捕開始を利用して、多くの 著名な生物学者と農学者への誹謗カンパニアを展開 した。彼らへの逮捕、弾圧は異常に広まった。遺伝 学、品種改良学、農芸化学、微生物学、植物学のあ らゆる分野の学者が、逮捕され、拷問死・獄死し、 強制収容所で死んだ 『同』(P.365) 技術 技術インテリゲンツィア、有名な学者、発明家と設 計者、何百何千の企業の企業長、技師長、職場長に も大弾圧がふりかかった。航空機製造技師、兵器関 係設計者・技師、水力発電・製鉄・自動車製造、鉄 道関係の工場長、技師、幹部が逮捕され、死んだ。 ベロルシア鉄道長は、代理の逮捕を知って、妻と息 子を射殺したうえ自殺した 『同』(P.373) 総計 『共産主義とは何か』は、被粛清者のうち、有名な 百数十人の名前を記載。ただし、その総計は不明。 メドヴェージェフは、下記データで、スターリン大 テロル時期に、共産党員100万人、元共産党員100万 人が、銃殺・拷問死・強制労働死したと推計してい る (表3) メドヴェージェフによる「スターリニズム の犠牲」の推計 時期 事項 逮捕・流刑・強制移住にあった者の数 うち死亡 1920年代末 1920年代末〜30年代初 1929〜32年 1933年 1935年 党内反対派 ブルジョア民族主義者、ブルジョア専門家、ネップ マンなど 富農撲滅 飢饉 キーロフ暗殺後の旧分子摘発 数万 [100万] 数十万 1000万 ――― 100万 ?(多く一旦許されるが後処刑) ?(スターリン後の釈放まで生きのびたのは数万か ) ?(苛酷な生活条件下ではあるが、多くが生きのび た) 600万[600〜700万] ? ここまでの犠牲者小計 1700〜1800万 1) 1000万 1937〜38年 1939〜40年 1941年 1942〜43年 戦中〜46年 1947〜53年 大テロル 西ウクライナ西白ロシア、バルト3国、ベッサラビア 、ブコヴィナ併合 ドイツ人の追放 カルムィク人、チェチェン人、イングーシ人、クリ ミア、タタール追放 ドイツ占領時の占領軍協力 レニングラード事件、コスモポリタン狩り、その他 500〜700万 2) 200万 ?[200万弱] 300万 500万 1100万[100〜150万] 死刑100万+獄死? ? ? 100万以上 ? ? 総計 ?[4000万] ? 1)飢饉の死者を含む。 2)うち党員約100万,除名されていた元党員約 100万,非党員300〜500万 出典《Московские новости 》,1988、No.48 表の訳出と解説 塩川伸明「終焉の中のソ連史 」(P.340)朝日選書、1993年に所収 5、1922年5月第1回発作・症状と『作戦』 遂行時期 3回の発作と死去 レーニンは、3回の発作を経て、死去しました。 第1回、1922年5月26日、最初の脳卒中発 作。夏、ゴールキで静養。 第2回、1922年12月16日。12月23日 〜26日、『党大会への手紙』口述。 第3回、1923年3月10日、以後、口述も不 可能。 死去、 1924年1月21日。 第1回発作後の症状、知能状態 1922年6月 〜7月 この症状、知能状態も、ヴォルコゴーノフが「レ ーニン秘密資料」により初めて明らかにしました。 その個所(P.259〜261)をそのまま引用し ます。 『ボリシェヴィキ政権獲得後の数年間とそれに伴 う重圧で、レーニンの神経の傷つきやすさが表面化 した。それは一九二二年五月に最初の脳卒中の発作 を起こしたあと、目立つようになった。発作を起こ した時、クレメル教授は次のように記している。「 彼の病気の原因は頭の使いすぎばかりではなく、脳 血管の重大な変調によるものであった」。脳への血 液供給の異常は精神機能障害と密接に関連しており 、一九二二〜二三年にレーニンを治療した医師の大 半が精神科医と、神経専門医であったのはそのため だった。医学文献によれば、脳動脈の劣化による精 神疾患は、徴候として、持続性の頭痛、いらだち、 不安、鬱病、固着観念などの形で表われるという。 レーニンはこれらの症状のすべてを示した。 レーニンの病気が、政権の座にあった彼の行為に どのような影響を及ぼしたのか、明確に証明するこ とはむずかしい。レーニンは病気になる前から苛酷 な命令をどんどん出していた。とりわけ一九一八年 にはそれが目立つ。だが、そうした決定もまた、神 経の緊張が高まった時になされていた。ストレスが 高ければ高いほど、これらの決定はより極端で苛酷 なものになった。強大で、監視機構のない、無制限 の権力が、彼の心の病的傾向を悪化させたことは明 らかのように思われる。 すでに述べたように、レーニンがロシアの知識人 の追放をはじめたのは一九二二年八月〜九月であっ た。ロシア文化の花を追放する――実際は根絶する ――という発想は、病気か、あるいはよほど頭の硬 化した人間でもなければ思い浮かぶはずがなかった 。だが、この事件のわずか一〜二カ月前には、病床 のレーニンはクループスカヤの助けを借りて、文字 の書き方を練習したり、小学生程度の計算問題を解 こうとしたり、ごく簡単な聞き書きの練習をしてい たのである。彼はかろうじて読める、ぎこちない字 を何頁も書いた。その年の五月の卒中発作のあと、 彼にはひどい記憶ちがいが起こるようになり、物事 にたいする反応が緩慢になった。彼はぼうっとして いた。クレメル教授は次のように記している。「彼 はもっとも初歩的な計算を行うことができず、ごく 短い語句さえ思い出せなかったが、理解力、思考力 は完全だった」 彼の理解力、思考力は完全だったという神経専門 医の断言を疑いたくなる根拠はたしかにあった。彼 の妹マリヤの回想によれば、五月三十日に、「医師 たちから12×7の計算をするようにいわれて、それが できなかった彼はひどく落ち込んだ。だが、彼は持 ち前の意固地さを発揮した。医師たちが帰ったあと 、この間題を解こうと三時間にわたって苦闘し、足 し算でこれを解決した(12+12=24、24+12=36、 など)」。そんな状態から一カ月もしないうちに、 レーニンは、知識人の追放、「処刑を含む秘密警察 GPUの法的に正当と認められない措置」の承認、 コミンテルンの戦術と戦略の決定というようなきわ めて重大な決断をしていた』。 知識人の大量追放『作戦』時期 1922年6月 〜年末 ソルジェニーツィンは、『収容所群島』で、5月 19日付の『秘密・手紙』を載せました。それによ って、レーニンが、第1回発作の5月26日前から 、すでに『知識人の大量追放に関する準備指令』を 出していたことが立証されました。 「12×7」の計算ができなかった、5月30日 の病状から、1カ月しか経っていない「精神・神経 病患者」が、この『作戦』を指令、督促し、追放リ ストを点検したのでした。そして、知識人数万人の “肉体的排除”を強行したのです。 1922年8月のレーニン(『レーニンの秘密』(P .183)写真) 6、レーニンの『党派性』 知識人の3分類法 〔小目次〕 第1分類、ボリシェヴィキ党員知識人 第2分類、「同盟者」知識人、同伴者文学の 作家・詩人 第3分類、「反ソヴェト」「非ソヴェト」知 識人 ソ連憲法は、知識人を「階層」と規定しています 。労働者、農民と知識人です。ソ連の統計は、労働 者、農民、職員と知識人に分けています。その知識 人「階層」を、さらに3分類するのが、レーニン、 ボリシェヴィキの基本観点です。それは、知識人を ふるいにかける“党派的・階級的逆差別”分類法で す。以下は、文学を中心にのべます。 第1分類、ボリシェヴィキ党員知識人 党員知識人によるプロレトクリト(=プロレタリア 文化)が、1917年に結成されました。文学分野で は、ワップ(=全ロシア・プロレタリア作家協会)が 作られました。1925年に、それはラップ(=全ロ シア・プロレタリア作家協会)になりました。 革命前の1905年、レーニンは、『党組織と党 文献』において、「プロレタリアートと公然と結び ついた文学」を強調しました。ブルジョア文学に対 抗するものとして、プロレタリアート自身による階 級的芸術の必要性を訴えました。ソヴェト文学の創 作・批評の基本的方法は、社会主義リアリズムです 。そこには、思想性(イディノスチ)と党派性(パルテ ィイノスチ)が要求されます。『党派性』は、レーニ ンの用語で、文学における共産主義精神の発揚を目 指さなければならないとするものです。 レーニンの基本方針は、知識人を党の管理下に置 き、彼らを革命のために働かせることでした。政治 局が「プロレトクリト(プロレタリア文化の略)」 大会の問題を討議した時、レーニン、スターリン、 カーメネフ、クレスチンスキー、ブハーリンらは、 全員一致で「プロレトクリトの党への従属」を擁護 しました。 トロツキーは、1925年にモスクワの作家と詩 人たちにこういっています。「われわれは新しいプ ロレタリア詩人や芸術家たちを生み出す工場をもっ ている。だが、それはMAPP(モスクワ・プロレタリ ア作家協会)や、VAPP(全ロシア・プロレタリア作 家協会)といったものではなく、RKP(ロシア共産党 )である。同志たちは党にきて勉強すべきだ。党は プロレタリア詩人に教育し、純粋な芸術的作家をつ くり出す。それゆえ、共産主義作家は、党員として 、党内での創作活動に注意を集中しなければならな い」。 ロシアの文化と知識人の悲劇は進行しつつありま した。党への忠誠心は彼らの創造的自由を奪うこと になります。初歩的な社会主義思想が理解できる国 民をつくるため、ボリシェヴィキは素朴な知的文献 を国民に与えました。その一方、読むのを禁じられ た文学の分野は、その後70年間に常識を超えた範 囲にまで広がりました。ソヴィエト知識人の教育は 、『党組織と党文献』の中に編み出されています。 これによれば、文学は党の仕事であり、新聞は党組 織の管理下に置き、作家は党員でなければならない と明示されています。いったんレーニンが政権の座 についてからは、こうした考え方がひとつの政策に なりました。 そこから、まず第一に、知識人はふるいにかけな ければならない。革命が要求するものに応じられな い人たちを排除しなければならない、という発想に つながります。 第2分類、「同盟者」知識人、同伴者文学の作家 ・詩人 これは、プロレタリア作家ではないが、十月革命 への同調を示した作家たちとその作品をいいます。 レオーノフ、エセーニン、A・N・トルストイ、エ レンブルグ、マヤコフスキー、パステルナークら、 旧知識人系、農民系、都市小市民系、帰国者や芸術 左派戦線所属者などがこの名前で呼ばれました。 しかし、ワップの後を引き継いだラップは、共産 主義世界観に偏った創作方法を掲げ、非プロレタリ ア系作家への攻撃を強めました。ラップは、同伴者 文学擁護派との激しい論争を繰り返し、創作・批評 における政治主義的傾向を強め、ゴーリキーやショ ーロホフを含む非プロレタリア系作家に、「卑属社 会学的、世界観偏重」の非難を浴びせ、その批評は “ラップの棍棒”と怖れられました。 プロレタリア派が力を得るにつれて、非共産党員 作家にたいする論難はきびしくなりました。ついに は、『同盟者か敵か』『われらか敵か』として、圧 力が加えられました。ザミャーチンは、1905年 以来のボリシェヴィキ党員で、ゴーリキーとともに ロシア文学の中心で活動していました。彼のSF小 説『われら』や短編にたいしても、強烈な攻撃が始 まりました。彼だけでなく、ゴーリキー、エレンブ ルグ、マヤコフスキー、エセーニン、《セラピオン 兄弟》グループも激しい攻撃にさらされました。1 925年エセーニン自殺、1930年マヤコフスキ ーが自殺します。ザミャーチン『われら』の一節は 、この状況をもっとも先鋭的に浮き彫りにしました 。『われら』では、主人公D-503号は「覚え書」を4 0まで書きますが、すでにこれは反逆行動で、I-33 0号との恋愛もそうです。彼は「覚え書」にこう書き ました。「私でなく<われら>です。<われら>は神に、 <われ>は悪魔に由来する。すべての人も私も単一の< われら>なのであるから」。 第3分類、「反ソヴェト」「非ソヴェト」知識人 これには、第1、第2分類以外の知識人全員が入 ります。それは膨大な数になります。レーニンは、 それらに「反ソヴェト」知識人レッテルを貼りつけ 、その“肉体的排除”4方針を指令し、第1回発作 の病み上がり状態で、強制執行しました。 レーニンの「ブルジョア」知識人にたいする『党 派的』見方のいくつかを、明らかにしておきます。 1908年、レーニンは、レフ・トルストイを分 析して、創造的芸術家への自分の見解を詳しく論じ ています。「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルス トイ」という題のこの論文は、レーニンがこの作家 を革命という観点からのみ見ていたことがわかりま す。レーニンにとってトルストイは必要でした。な ぜなら、トルストイはロシアの知識人の無力さ、無 意味さを彼に示してくれた“鏡”だからです。 『(トルストイは)、一方では、ロシアの生活の比 類のない画像を提供したばかりでなく、世界文学の 第一級の作品を提供した天才的な芸術家。他方では 、キリストをばかみたいに信じている地主。一方で は、社会的な虚偽と偽りにたいするすばらしく力強 い、直接的で心からの抗議、他方では、「トルスト イ主義者」、すなわち、公衆の面前で自分の胸をた たきながら、「私は醜悪だ、私はけがらわしい、し かし私は道徳的自己完成を求めている。私はもはや 肉を食わず、今は揚餅を食べている」という、ロシ アの知識人と呼ばれる生活に疲れた、ヒステリック な意気地なし』。 ナロードニキの哲学者・作家チェルヌイシェフス キーの革命小説『何をなすべきか』を愛読したレー ニンは、自分の著作に同じ題名『なにをなすべきか 』を付けただけでなく、その一方で、ドストエフス キーの『悪霊』について次のように発言しました。 ネチャーエフは、ナロードニキ革命組織内での裏切 り者を殺害した指導者で、その事件をドストエフス キーは『悪霊』で、その殺人心理と革命家の倫理を 鋭く批判的に探求しました。「『悪霊』のような反 動的な小説を読む時間は私にはない。この小説によ ってネチャーエフのような人の存在がおとしめられ ている。ネチャーエフのような人はわれわれにとっ て必要だったんだ」(1943年、雑誌「三十日間」 に掲載)。 1919年9月15日、レーニンはゴーリキーに 長い手紙を書きました。その頃ドイツにいたゴーリ キーは知識人たちの逮捕を案じる手紙をレーニンに 送ってきていました。レーニンに抗議し、知識人の 保護を要請するゴーリキーの手紙は、自由を求める 彼の最後のあがきのように見えます。レーニンの返 事には、彼の知識人にたいする基本姿勢が表明され ています。それは、教条的で、怒りに満ち、命令調 の冷酷なものでした。彼は逮捕に『間違いがあった 』ことを認めつつも、『たしかに立憲民主党員(カデ ット)およびそのシンパの逮捕は、当然であり正しか った』と結論していました。 『国民の知的エネルギーと、ブルジョア知識人の 影響力とを混同するのは間違っています。作家のヴ ラジーミル・コロレンコを例にとってみましょう。 私は最近彼の小冊子「戦争、祖国、人類」を読みま した。彼がこれを書いたのは一九一七年八月でした 。彼はおそらく“カデット・シンパ”で、事実上は 、メンシェヴィキだったと思われます。それにして も、この小冊子は、まことに恥ずべき、卑劣な、不 愉快きわまりない帝国主義戦争の弁護であり、感傷 的な言葉で大げさに語られています! 彼はブルジ ョア的偏見にとらわれた、哀れな俗物です! こう いう紳士たちにとっては、帝国主義戦争における数 百万の死者は援助する価値があるが……地主や資本 家にたいする正義の戦争における数十万人の死は、 「おおー・ああ!」というため息とヒステリーを起 こさせるのです』。 レーニンはさらにこう続けました。『労働者や農 民の知的エネルギーは、自分たちこそこの国の頭脳 であると思い込んでいるブルジョアやその仲間、知 識人、資本主義のお先棒かつぎたちを打倒する闘い においてますます強化されつつあります。実際、彼 らはこの国の頭脳どころか、ただのくそったれなの です』。 このレーニンによる知識人「党派的」分類法から すれば、第3分類知識人は、聖職者・信徒と同じく 、その存在自体が「反革命」「反革命の火種という 危険階層」となります。そこから、彼ら全員を4方 針で“肉体的排除”しつくす『作戦』の発想が、必 然的に生じたのです。 マルクスは、権力を取っていない知識人社会主義 者でした。それにたいして、レーニンは、ボリシェ ヴィキ単独武装蜂起によって権力奪取したが、労働 経験のない知識人マルクス主義者でした。知識人特 有の“うぬぼれた”エリート思想から、科学的社会 主義理論は上から=知識人から注入されなければな らないという「注入理論」を創作しました。それは 、知識人が遅れた大衆を啓蒙するという「ヨーロッ パ啓蒙思想」の系譜につながるものでした。同時に 、それは、国外追放された哲学者ベルジャーエフが 指摘したように、ヨーロッパ・キリスト教の「一神 教」=異端教義排除の「攻撃的排他宗教」の本質を も具有していたのです。 その系譜と教義を信奉する第1分類知識人たる亡 命革命家レーニンが、一党独裁最高権力者となった とき、同じ階層である第3分類知識人にたいして、 どういう態度をとるかは自明のことでした。それは 、聖職者にたいする『戦闘的無神論』の知識人版と いえるものとなりました。彼は、3分類逆差別でふ るいわけるだけでなく、同一階層である異端教義知 識人の「ソ連国内存在の危険性」を、だれよりも、 恐怖をもって洞察することができました。そこでの レーニンの心理は、『浄化』という言葉に集約的に 表されています。『浄化』とは、彼にとって、第3 分類知識人にたいして、『われらか敵か』の踏絵を 踏ませ、従わない知識人に『人民の敵』レッテルを 貼りつけ、『反革命活動に加担』とでっちあげ、チ ェーカーの暴力を使用し、4方針で“肉体的排除” を完遂することでした。 従来から、マルクス主義者は、アクトンの『すべ ての権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗す る』というテーゼを普遍的真理と認め、資本主義体 制権力者にたいしてそのテーゼを適用し批判してき ました。しかし、「在権マルクス主義者」(=国家権 力奪取に成功したマルクス主義革命家)は、このテー ゼを自らに適用することには、拒絶反応を示しまし た。資本主義国のマルクス主義者たちも、それをレ ーニンにたいして適用しようという発想を抱きませ んでした。ところが、1989年から1991年に かけて、10の一党独裁国家とその前衛党が一挙に 崩壊し、その「秘密資料」の一部が公表されるに及 んで、スターリンだけでなく、レーニン、チャウシ ェスク、ホーネッカーなど、すべての一党独裁国前 衛党最高指導者にも、そのテーゼが当てはまること が証明されたのです。もし、レーニンの6000点 以上の「秘密資料」が完全公開されれば、その証明 度は、さらに高まるでしょう。 7、「反ソヴェト」知識人というレッテルの検討 〔小目次〕 1、第3分類知識人の党派支持有無関係によ る分析 2、他党派系・無党派系知識人の『レーニン がしたこと』にたいする批判事項 3、逆説のロシア革命史=レーニンこそ「反 ソヴェト」知識人 レーニン、政治局、チェーカーは、「反ソヴェト 」知識人、または「積極的な反ソヴェト」知識人と いうレッテルを貼りつけて、数万人の“肉体的排除 ”『作戦』を完遂しました。その「反ソヴェト」と いうレッテルに、根拠があるのかどうかを検討しま す。問題は、第3分類知識人が、実際の「反革命活 動に加担」したかどうかです。その根拠は一切明示 されていません。 1、第3分類知識人の党派支持有無関係による分 析 (1)、カデット(立憲民主党)系知識人 保守だ が、自由主義者です。1905年に結成され、ツア ーリ帝政に批判的であるとともに、ボリシェヴィキ 一党独裁にも批判的立場です。自由主義的地主とブ ルジョアジー、大学教授、弁護士、医師などの自由 業インテリが中心でした。この政党・党員や周辺知 識人たちが、「レーニン批判」をしたとしても、党 全体の方針として、白衛軍に加担したり、反革命活 動に参加した証拠はありません。しかし、レーニン は、『浄化』の第1対象として、はやくも、191 9年に彼らを大量逮捕し、“肉体的排除”4方針を 執行しました。これは、「反革命」の恐怖におのの く25%少数派レーニンらによる“予防拘禁”“予 防追放”措置でした。ソルジェニーツィンは、上記 引用のように『インテリゲンチャの8割までが《立 憲民主党周辺》』としています。ゴーリキーが抗議 した手紙内容とレーニンの返事は、この逮捕・追放 に関するものです。 (2)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党)系知 識人 プレハーノフ創立の伝統を受け継ぐロシアの マルクス主義政党です。二月革命以降、レーニンの 2段階プロレタリア革命路線とマルトフらのブルジ ョア革命路線とに分離しました。労働運動、二月革 命で中心的役割を果しました。7月には、党員が2 0万人になりました。レーニンの10月単独武装蜂 起以降、その対立は決定的になりました。その路線 から、レーニン・ボリシェヴィキ批判は一貫してい ましたが、白衛軍に加担した事実はありません。レ ーニンとチェーカーは、彼らを監視、逮捕し、非合 法化と合法化を繰り返し、意図的に弾圧しました。 1921年2月、ペトログラードの労働者大規模ス トライキに逮捕を免れていた党員たちが参加しまし た。しかし、ペトログラード・チェーカーにより、 その労働者・党員たち5000人が逮捕され、拷問 死、銃殺、強制収容所送りされ、党組織はほぼ壊滅 させられました。 (3)、エスエル(社会主義者・革命家党)、左派エ スエル系知識人 革命的ナロードニキ運動の伝統に 立つロシアの革命政党です。「土地社会化」綱領を 掲げ、国民の8割を占める農民の大きな支持を受け ました。二月革命後、党員は100万人を越えまし た。1917年11月のボリシェヴィキ単独政権が 行った憲法制定議会選挙で、707議席中、438 、得票率40.3%を得て、第一党になりました。 しかし、12月に、ボリシェヴィキ支持の左派エス エルが分裂します。レーニンは、「分裂前のエスエ ル統一名簿だから選挙は無効」といいがかりをつけ て、憲法制定議会武力解散の暴挙をしました。25 %ボリシェヴィキの『クーデター』にたいして左派 エスエル以外の全党派がこれに猛反発しました。メ ドヴェージェフは、ソ連崩壊後の新資料に基づき、 この武力解散を内戦の第1原因と規定しました。左 派エスエルは、ボリシェヴィキと連立政権を組みま したが、1918年3月のブレスト講和条約に反対 して、3カ月間だけで連立を離脱しました。 二月革命以降の農民ソヴェトによる自力の土地革 命を指導し、一貫して、最初から現物税、自由商業 を主張し、1921年のレーニン「新経済政策」内 容を先取り提案していました。よって、レーニンの 1918年5月からの「食糧独裁令」に反発し、ボ リシェヴィキへの批判を強め、レーニンのチェーカ ー・赤軍暴力支配体制、軍事=食糧割当徴発にたい して、武装抵抗もしました。ただ、タンボフで農民 反乱を起すことに、党は反対でした。しかし、エス エル党員である反乱指導者アントーノフが、党の方 針に逆らって、レーニンによる過酷な「軍事=食糧 割当徴発」にたいして、武装抵抗をしたのです。レ ーニンは、その真相をタンボフ県チェーカーからの 報告によって承知した上で、それを『エスエルの武 装反乱、陰謀』とでっち上げました。1921年4 月タンボフの森に逃げ込んだ「反乱」農民にたいす る『毒ガスの使用』をも指令しました。1921年 6月『裁判なし射殺』指令を発して、数万人の農民 とともに、エスエル・左派エスエルとその知識人を 大量虐殺、殲滅しました。これらが、レーニン生存 中における意図的な他党派殲滅=一党独裁政治体制 完成の真因です。 (4)、アナキスト系知識人 ロシアのアナキズ ムは、民衆と知識人の側の組織されない分散した点 の抵抗として、世界でも例をみないほどの広がりを 持ちました。バクーニン、クロポトキンらの思想的 影響と伝統は根強いものがありました。ナロードニ キ運動と一体化したときのアナキズムは、テロリズ ムを前面に押し出しました。ウクライナのマフノ軍 は、農民の強い支持を受け、最盛期には5万人以上 の勢力を持ち、ボリシェヴィキと協力して、ドイツ 占領軍や白衛軍とたたかいました。しかし、レーニ ンの食糧独裁令に反対し、1920年〜21年、赤 軍との戦闘で、敗れ、双方に数万人の犠牲者を出し ました。1921年3月、“革命の栄光拠点”クロ ンシュタット・ソヴェトの反乱では、アナキストが 大きな役割を果しました。そのアナキズム思想から 、ボリシェヴィキの中央集権強化路線・一党独裁シ ステムには、強烈な批判を持ちました。 (5)、無党派系知識人 特定の党派に属さず、「 非ソヴェト」無党派系の知識人も多数いました。し かし、レーニン式の『われらか敵か』という知識人 ふるいわけ法からみれば、彼らも「反ソヴェト」知 識人=『人民の敵』に自動的に入れられます。 これら5つの第3分類知識人階層は、ロシア社会 において、帝政時代や、1917年二月革命時期も 、数万人の聖職者と並んで、大きな思想的・精神的 影響力を持っていました。彼らは、『レーニンのし たこと』にたいするもっとも強固な批判勢力を形成 していたのです。 2、他党派系・無党派系知識人の『レーニンがし たこと』にたいする批判事項 「反ソヴェト」「積極的な反ソヴェト」の内容は 何でしょう。知識人たちが、国家権力に批判的見解 を持ち、それを言動に表すのは、当然のことです。 第3分類知識人たちの、レーニン・ボリシェヴィキ 一党独裁権力にたいする批判事項は、多々あります 。ここでは、その項目と簡単な説明にとどめます。 日付は新暦にしました。 1917年11月7日、ボリシェヴィキ単独武装 蜂起・権力奪取 第2回全ロシア・ソヴェト大会が 翌日予定されていました。また、11月に憲法制定 議会選挙を施行することにボリシェヴィキも賛成し 、その打ち合わせ会議にも参加していました。その 時点で、なぜ武装蜂起をする必要があったのでしょ うか。ツアーリ帝政を倒した二月革命では、労働者 ・兵士ソヴェトとメンシェビキ、エスエル党が中心 勢力でした。ボリシェヴィキはその時点では、党員 数24000人の弱小政党で、基本的役割を果して いません。7月を境目として、「土地、平和、パン 」「戦争を内乱に転化せよ!」を掲げるボリシェヴ ィキ勢力が、ペトログラード、モスクワの2大首都 、および陸海軍内で急伸張しただけでした。7月の 党員数は、エスエル100万人、ボリシェヴィキ2 4万人、メンシェビキ20万人でした。たしかに、 臨時政府に入っていたメンシェビキ、エスエル党は 、「土地、平和」問題解決に及び腰でした。メンシ ェビキ、エスエル党は、ケレンスキー内閣に閣僚を 出していましたが、同時に、ボリシェヴィキと並ん で、全ロシア・ソヴェト大会の中心となる革命政党 でした。 その状況・経過から見ると、ボリシェヴィキ武装 蜂起・権力奪取は、12月に分裂する前の左派エス エル以外の他党派、知識人にとって、『レーニンと ペトログラード・ソヴェト議長トロツキーのクーデ ター』そのものでした。それは、従来からの「レー ニン神話」通説のように、「二重権力」の一方とし ての臨時政府にたいする武装蜂起という側面があり ます。しかし、“ひた隠しにされてきた”別の側面 は、『革命勢力内の「ぬけがけ」的クーデター』と いう本質を持つものでした。ツアーリ帝政を打倒し た二月革命および全ロシア・ソヴェト大会の中心で あり、かつ憲法制定議会選挙施行で一致していた2 大社会主義政党とアナキストたちは、“レーニンの 「ぬけがけ」的権力奪取” に強烈な怒りを抱き、そ の“暴挙”を告発しました。左派エスエル系知識人 以外の全政党と知識人が、それに猛反発したのは当 然です。党内でも、ジノヴィエフとカーメネフが、 この武装蜂起に反対し、レーニンが2人に『反革命 分子』のレッテルを貼りつけて、罵倒したことは、 有名な話です。この問題のボリシェヴィキ党内論争 については、R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘 争史』(蜂起、連立か独裁か)が豊富な資料で解析し ています。 1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ 」、ブルジョア新聞閉鎖措置 革命政府(人民委員会 議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニン の強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ 」、その他のブルジョア新聞を『反革命活動』の理 由で閉鎖しました。さらにその翌日、『出版にかん する布告』を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じまし た。 『布告』発令前の全ロシア中央執行委員会では、 左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も 、それに猛反対しました。その会議で、左派エスエ ルは、「出版にかんする布告」の廃止を求め、次の ようにその理由を明かにしました。「われわれは、 社会主義を暴力的というべき方法をもって導入しよ うと考える世界観を厳しく拒否する。われわれが勝 利をおさめるのは、われわれがブルジョア新聞を閉 鎖するからではなく、われわれの綱領と戦術が広範 な勤労大衆の利益を表現し、兵士、労働者、農民の 強固な団結をつくりだしているからである。ブルジ ョア新聞および黄色新聞のおびただしい虚報にたい して、われわれは、革命家の、社会主義者の真実を もってこたえた。勤労大衆には、大衆闘争という信 頼すべさ羅針盤がある」。ブルジョア新聞にたいし ては、それを暴力的に閉鎖することによってではな く、真実の訴えをもって思想闘争により勤労人民大 衆の団結を組織することによって勝利すべきだし、 勝利できる、というのでした。他にも、出版の自由 の規制は、自由な出版を不可欠とする大衆運動を害 することになりかねない、のみならず政治的テロル や国内戦争に火をつける、として廃止を訴えました 。 武装蜂起による死者は、双方合わせて10数人だ けでした。レーニンも『テロルなど問題にならなか った』と認めています。たしかに、臨時政府内のカ デット閣僚5人が、コルニーロフの反乱を契機に辞 任したのは事実です。しかし、ソ連崩壊後の資料に よっても、レーニンのレッテル『コルニーロフの反 乱にカデット党が加担したから』という事実はあり ません。それは、レーニンのウソです。それは、レ ーニンによる“権力奪取と同時の先制攻撃”として の「ブルジョア階級からの言論出版の権利剥奪」政 策でした。すべての他党派、知識人が、それを言論 ・出版の自由への弾圧として、強烈に反対、批判し ました。この問題については、大藪龍介『国家と民 主主義』が、詳しい分析をしています。 1918年1月18日、憲法制定議会武力解散 この選挙は、1917年11月25日開始で、ボリ シェヴィキ政権が執行したものです。投票率は50 %弱で、選挙結果の得票率は、エスエル40.4% 、ボリシェヴィキ24%、カデット4.7%、メン シェビキ2.6%でした。レーニンは、憲法制定議 会に、ボリシェヴィキ権力とその諸政策を承認する よう要求しました。上記の反発の蓄積から、他党派 は、その要求を拒否しました。すると、レーニンは 『左派エスエルが12月に分裂しており、選挙結果 は、分裂前のエスエル統一名簿で行なわれたから無 効』と、いいがかりをつけて、クロンシュタット水 兵の暴力を使って、議会武力解散を強行しました。 レーニンのこれら3連続『クーデター』の暴挙にた いして、左派エスエル以外の他党派、知識人は、怒 りを込めて、レーニン批判、ボリシェヴィキ批判を しました。ロイ・メドヴェージェフが規定したよう に、これへのすざまじい怒り・反発が、1918年 から20年内戦の第1原因になりました。この問題 は、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア 革命』、中野徹三『社会主義像の転回』(制憲議会解 散論理)が研究しています。 1918年3月3日、ブレスト・リトフスク講和 条約 「戦争を内乱に転化せよ」と、「土地、平和 、パン」のスローガンで、レーニンの権力奪取戦術 は成功しました。しかし、ボリシェヴィキ政権によ るドイツなどとの講和条約は、領土一部放棄などの 屈辱的条件を含むものでした。左派エスエルは、そ れを批判し、連立を離脱しました。 1918年5月〜21年3月、農民への食糧独裁 令 戦争中からの飢餓状態を克服できないので、レ ーニンは、中央集権的食糧政策をとり、食糧独裁令 を発令しました。1918年秋からは、食糧調達を 強化するために、チェーカーと赤軍を使った「軍事 =食糧割当徴発」体制に移行しました。この実態は 、農民からの過酷な食糧収奪そのもので、各地で農 民の抵抗・反乱が発生しました。1920年、21 年には、シベリア、タンボフで大規模な農民反乱が 起こり、レーニンは、5万人の赤軍、チェーカーに よりそれを武力鎮圧し、反乱参加農民の大量「裁判 なし射殺」を指令しました。タンボフの森に逃げ込 んだ農民たちにたいして、鎮圧司令官トハチェフス キーは、レーニンの指令に基づいて、1921年4 月、毒ガスまでをも使用して、大殺戮をしました。 エスエル、左派エスエルとも、1918年の最初か ら、食糧政策として、現物税・自由商業を提案して いました。そこから、エスエル系知識人らは、レー ニンの食糧独裁令に強く反対し、批判していました 。レーニンの「ネップ」内容は、エスエル政策を3 年遅れで、採用したものです。これは、内戦の第2 原因となりました。3年間に及ぶレーニン、ボリシ ェヴィキの誤りの継続は、数万人の農民を射殺・人 質・強制収容所送りにしただけでなく、ロシア農業 経営そのものを破壊しました。この全経過は、レー ニンが、農村ソヴェトから地方分権権力を奪ってい く過程でした。この問題は、梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』と、『ボリシェヴィキ権 力とロシア農民』(戦時共産主義)の2冊が、膨大な ソ連公文書を使って、解明しています。梶川氏は、 これらによって、レーニンの「労農同盟論」の欺瞞 を暴き、労農同盟の存在を否定しました。 1921年2月、ペトログラードの労働者ストラ イキ 労働者たちとメンシェビキ系知識人は、飢餓 状態改善、そのための「食糧独裁令」撤廃を求めま した。さらに、「労働の軍事化」「工場経営におけ る個人独裁の承認と導入」方針に反対して、モスク ワでの労働者ストライキに続いて、大規模なストラ イキを行いました。なぜなら、レーニン、トロツキ ーの方針は、労働者ソヴェトから工場内自主管理経 営権力を奪っていく過程そのものだったからです。 まず、最大の金属工場トルーボチヌイ工場の労働者 がデモをし、ストライキを呼びかけました。瞬く間 に、全市にストライキが広がりました。2月28日 には、革命拠点のプチロフ工場6000人もストラ イキに立ち上がりました。チェーカーによる逮捕を 免れていたメンシェビキ知識人も多数参加しました 。 レーニンとペトログラード党議長兼ソヴェト議長 のジノヴィエフは、武装した士官学校生徒の一中隊 を急派しました。さらに、防衛委員会という特別参 謀本部を設置し、ペトログラード包囲状態宣言を発 しました。夜間通行、集会を全面禁止し、党員にた いする総動員令を出し、ストライキ鎮圧の特別部隊 も編成しました。ストライキ参加工場を赤軍とチェ ーカーでロックアウトしました。レーニンとジノヴ ィエフは、ペトログラードの軍事的包囲と工場ロッ クアウトの下で、ペトログラード・チェーカーに指 令して、メンシェビキ系知識人と労働者5000人 を逮捕し、そのうちの多数を拷問死させ、銃殺しま した。メンシェビキ指導者ダンの計算では、2月の 最後の数日間だけで、逮捕された500人の「反抗 的」労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てました。 (注)、地図の□印は、クロンシュタット側の海上砦 1921年3月、クロンシュタット・ソヴェト水 兵の反乱 ペトログラードのすぐ沖にあるコトリン 島要塞全体が、クロンシュタット・ソヴェトで、1 905年革命、1917年二月革命以来の“革命の 栄光拠点”でした。ボリシェヴィキが一党独裁を強 化し、他党派を逮捕し、農民への食糧独裁令による 過酷な収奪を行い、反乱を武力鎮圧することに、農 民出身の兵士たちは、“ボリシェヴィキの裏切り、 反革命”と実感していきました。2月のペトログラ ード労働者ストライキに関心を寄せていたクロンシ ュタット・ソヴェトは、ストライキの真相を知るた めに、ペトログラードに代表団を派遣しました。 そこにボリシェヴィキによる「赤軍内における階 級制持ち込み」の方針にたいする批判が高まり、つ いに「15項目のクロンシュタット綱領」を掲げて 、ボリシェヴィキ一党独裁反対の武装要求に立ちあ がりました。「綱領」の内容は、軍隊内階級制を廃 止した兵士ソヴェトから、軍隊運営決定権を剥奪す るレーニン、トロツキーの方針に反対し、『すべて の権力をすべてのソヴェトへ戻す』ことを求めるも のでした。即ち、ボリシェヴィキ一党独裁権力でな く労働者・農民・兵士ソヴェトに権力を戻せ、とい う“革命の原点”に立ち返るものでした。その本質 は、レーニン、ボリシェヴィキ一党独裁政権にとっ て、“全ソヴェトが彼らに死を宣告し、政権からの 転落を告げる、恐怖の要求”でした。ただ、この性 質は、「反革命反乱」ではなく、「ソヴェト革命」 内部での権力問題要求でした。レーニンは、トハチ ェフスキーを鎮圧司令官に任命し、クロンシュタッ ト・ソヴェト水兵、アナキスト、住民55000人 を殺戮、死刑、拷問死、強制収容所送りで殲滅しま した。鎮圧後、レーニンは、コトリン島での「ソヴ ェト再建」を許しませんでした。ここでは、アナキ スト系知識人が、ウクライナのマフノ軍内と同じく 、大きな思想的影響力を持っていました。この反乱 については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1 921』と、イダ・メット『クロンシュタット・コ ミューン』の詳細な研究があります。 1922年2月、教会財産没収、聖職者全員銃殺 指令 これには、すべての党派系、無党派系知識人 が猛反発をし、レーニンの聖職者銃殺政策を批判し ました。このテーマについては、私(宮地)が、『 聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』 で分析しました。 私(宮地)は、ブレスト条約については、領土一 部放棄などの屈辱的内容があるにしても、「土地、 平和、パン」スローガンにおける「平和」を回復す る手段として、やむをえない、正当な選択だったと 判断しています。しかし、上記他の路線、政策は、 ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」「アルヒーフ(公 文書)」が一部公開されてきた2001年の現時点で 見ると、すべてレーニンの重大な誤り、誤った大量 殺人=「人道にたいする前衛党犯罪」だと考えてい ます。 第3分類(1)〜(5)の知識人たちが、その当時 、これらに批判的見解を持ち、その批判を言動に表 したのは当然で、かつ、正当な言論の自由権に基づ く行為です。たしかに、その批判内容は、「レーニ ン批判」「ボリシェヴィキ批判」であっても、それ は「反革命」活動でも「反ソヴェト」行為でもあり ません。ところが、レーニン・政治局・チェーカー は、「レーニン批判」を口にする知識人に、すべて 「反ソヴェト」知識人というウソのレッテルを貼り つけ、『反ソヴェト・グループ分布』表を作り、か つ、「12×7」の計算ができなかった“精神・神 経症病み上がり”のレーニンがその追放リストを繰 り返しチェック・指令し、数万人の“肉体的排除” を遂行したのです。 その行為こそ、レーニンの『浄化』という言葉の 本質です。あらゆる批判者・抵抗者・「存在するこ と自体が異端」である聖職者を、銃殺、裁判なし射 殺、強制収容所送り、拷問死、強制労働死、国外強 制追放、辺境地移住などの“肉体的排除”手段によ って、ボリシェヴィキ一党独裁国家を『浄化』しぬ くことが、レーニンの権力目的だったのです。レー ニンは、まさに、『権力のための権力者』として、 『「国家と革命」の浄化』目的のために手段を選ば ないという、強靭な信念をもつ、異様な天才でした 。通常の「在権マルクス主義者」レベルでは、この ような『浄化作戦』には、とてもその神経が耐えら れないでしょう。ただ、これらの大量殺人指令とそ れによるストレスが、第1回発作の引き金になった かどうかは分かりません。 一方、レーニンは、その「人道にたいする前衛党 犯罪」指令の手紙・メモなど多数に、『極秘』『絶 対に写しをとらないこと』とわざわざ書いて、60 00点もを「秘密資料」として、隠蔽しつくしまし た。彼は、その“気配り”の面でも、もっとも『党 派性』の高い政治家でした。その面でのレーニンの 天才性は、1991年ソ連崩壊により、「秘密資料 」のごく一部が公開されるまで、世界と日本の全左 翼に、「レーニン神話」を74年間も信じさせ続け てきたことからも証明できます。 もっとも、レーニン死後、ドイツ、イタリア、日 本のファシズムが世界を覆いかくすように広がりま した。それに対抗できる唯一の「労働者の楽園」「 世界初の社会主義国家、ソ同盟を守れ」というスロ ーガンへの信仰が湧き上がってきました。そこから 、レーニンの欠陥や粛清事実から目をそむけ、仮に それを聞いたとしても、「『レーニンのしたこと』 は、反革命分子にたいする大量殺人・国外追放措置 で、すべて当然であり、正しい」となりました。そ の信頼が、スターリンの意図的情報操作とあいまっ て、「レーニン神話」をより強固で、永続的なもの にしていたことは事実です。 かくいう私(宮地)も、「1977年、40歳で除 名」になるまで、日本共産党専従として活動し、そ の間、マルクス・レーニンの文献だけでなく、ロシ ア革命史、ロシア・ソ連文学を、百数十冊夢中にな って読みまくり、「レーニン神話」の世界にどっぷ りつかっていました。よって、他人のことを単純に は批判できません。 3、逆説のロシア革命史=レーニンこそ「反ソヴ ェト」知識人 このテーマは、ここで書くには、大きすぎ、複雑 すぎます。ただ、私(宮地)は、(関連ファイル)のす べてで、このテーマを書き、あるいは転載していま す。説明不足による誤解を承知で、「反ソヴェト」 知識人問題との関係で、簡潔に『逆説のロシア革命 史』の一端をのべます。 レーニン・政治局とは、武装蜂起・権力奪取・憲 法制定議会武力解散をした、得票率24%、議席獲 得率25%という少数派による一党独裁政党の最高 指導部でした。通常の議会制度では、瞬時に政権転 落する支持率の政党でした。その少数派『クーデタ ー』権力を維持するには、赤軍・チェーカーという 中央集権的国家暴力装置に依存するしかありません でした。権力奪取3年余後の1921年には、農民 ・労働者・兵士ソヴェトの「反ボリシェヴィキ一党 独裁」全面反乱により完全に孤立した危機的状況に 追いこまれていました。農民・労働者・兵士ソヴェ トが反乱を起したという事実は、何を意味するので しょうか。それは、レーニンとボリシェヴィキの方 こそが、「反ソヴェト政党」「二月革命の成果にた いする裏切りの反革命政党」であることを、それら の農民・労働者・兵士ソヴェトによって宣告された ことになるのです。レーニンが、彼らの系統に属す る知識人の存在自体を、“恐怖の存在”=『反革命 の温床』『人民の敵』と思ったのは、一党独裁政権 崩壊の危機に直面した少数派独裁権力者の当然の心 理だったのです。 「ソヴェト」「反ソヴェト」という言葉は二面性 を持っています。 (1)、「ソヴェト」=「ソヴェト社会主義共和 国連邦」と規定する国家システムそのものを意味し ます。「反ソヴェト」=ソ連刑法の国家反逆罪に相 当する政治犯罪概念です。レーニンは、この概念を 当てはめて、「反ソヴェト」知識人のレッテルを貼 り、数万人の“肉体的排除”をしました。 (2)、「ソヴェト」=二月革命から10月にか けて、ロシア全土に作られた、まったく新しい自然 発生的権力機構である労働者・農民・兵士ソヴェト のことです。そこから、「反ソヴェト」=その自治 的権力機構から、その実権を奪って、従来型の中央 集権制国家機構に作り変えていこうとする動向です 。1921年、各階級ソヴェトの反乱は、レーニン ・ボリシェヴィキによる各階級向け政策・方針への 反対というだけではありません。その根底には、そ の動向と結果にたいして、「奪われた権力」と受け 止め、それに抵抗する思想がありました。私(宮地) がのべる『逆説のロシア革命史』の観点は、(2) の立場に立つものです。 レーニンは、1917年二月革命ツアーリ帝政打 倒後、4月に、ドイツ軍部が仕立てた「封印列車」 で、フィンランド駅に到着しました。そこで、『す べての権力をソヴェトへ』との「4月テーゼ」を訴 え、大歓迎を受けました。その後、そのスローガン を一時、引っ込めます。7月以降、臨時政府参加の メンシェビキ、エスエルの政策に各ソヴェトの不満 が高まりました。10月が近づくと、レーニンは、 再び『すべての権力をソヴェトへ』と『土地、平和 、パン』の政策を掲げ、それへの支持が、農民ソヴ ェトとペトログラード、モスクワ大都市ソヴェトで 、高まりました。農民ソヴェトは、二月革命以来、 地主から土地を取り上げ、農村共同体内で再分配す る「農民革命」を自力で遂行していました。「10 月革命」とは、都市プロレタリアート、兵士ソヴェ トおよびボリシェヴィキによる都市における権力奪 取と、土地再分配の「農民革命」との“複合革命” でした。レーニンが、すでに行なわれていた、既成 の土地再分配結果と農村自治権力を『土地にかんす る布告』で認めたかぎりにおいてのみ、農民ソヴェ トはボリシェヴィキ一党独裁政権を支持しました。 また、白衛軍の「反革命」に反対しました。なぜな ら、白衛軍・地主部隊が勝てば、再び地主に土地を 取り上げられてしまうからです。労働者・兵士ソヴ ェトも、レーニンのスローガンが、勝ち取った「地 方分権的自治的ソヴェト権力機構」を承認したと受 け止めて、熱烈に「10月革命」を支持したのです 。これが、各ソヴェトによるボリシェヴィキ25% 少数派政権への支持関係の実態です。 ところが、『すべての権力をソヴェトへ』スロー ガン・公約によって支持を得たレーニンが、一党独 裁権力を手にして以降は、その公約を裏切ったので す。彼は、一貫して、各ソヴェトの地方分権・自治 権をたくみに奪いつつ、「強固な中央集権的ボリシ ェヴィキ独裁権力の樹立」を目指し、10月のスロ ーガンを自ら裏切っていく路線・政策過程を歩んだ のでした。そして、「ソヴェト社会主義共和国連邦 」の国家システムのあり方をめぐって、激烈な闘争 が、ロシア全土の各ソヴェトとレーニン・ボリシェ ヴィキとの間でたたかわれました。その争点は、従 来のどの国家もなしえなかったような(2)「各階 級・地方ソヴェトの連合による地方分権的国家権力 制度」を基軸に据えるのか、それとも、そこから権 力を奪って、従来型の(1)「ボリシェヴィキ一党 だけによる中央集権的国家権力システム」に、強引 に持っていくのか、というテーマでした。 レーニンは、武装蜂起2カ月後の12月に、はや くも秘密政治警察チェーカーを、1918年1月に 赤軍を創設しました。勝利したのは、チェーカーと 赤軍という暴力機構を作り、『国家と革命』理論に 基づく中央集権型国家暴力装置を強化し続けたレー ニンでした。それは、各ソヴェト側から見れば『奪 われた権力』という結果になりました。ダンコース は『奪われた権力』(ソ連における統治者と被統治者 、新評論、1982年)で、その経過を解明していま す。各ソヴェトは、1918年5月「食糧独裁令」 による農民からの食糧収奪開始から1921年初め までの2年8カ月間、ボリシェヴィキ路線とその方 向を体験しました。それによる結論は、レーニンこ そ、『すべての権力をソヴェトへ』の公約を裏切っ て、チェーカー・赤軍暴力に依存して、各ソヴェト から実権を奪っていった「反ソヴェト」知識人であ るとなったのです。レーニンこそ、二月革命から1 0月にかけて自治権力を勝ち取った各ソヴェトにた いする「反革命分子」であるとなったのです。 1920年秋までに、内戦は終了しました。その 間、各ソヴェトは、『「反ソヴェト」知識人レーニ ンがすること』に我慢していました。なぜなら、白 衛軍・地主部隊が勝てば、ボリシェヴィキによる自 分たちの自治権力剥奪どころか、帝政時代の支配体 制に戻ってしまうことが明らかだったからです。内 戦終了と同時に、農民・労働者・兵士ソヴェトが、 『奪われた権力』の奪還を求めて、農民反乱・労働 者ストライキ・水兵反乱という武力要求・実力行使 要求行動に決起したのです。チェーカー・赤軍とい う中央集権的国家暴力装置を日常的に行使する「ソ ヴェト権力簒奪者」レーニンにたいする要求の形態 は、武装抵抗、ストライキ、街頭デモという「実力 をバックにした要求行動」にならざるをえませんで した。これが、“武装蜂起3年余後の1921年に 勃発したボリシェヴィキ政権最大の危機”の性質で す。「反ソヴェト」知識人レーニンには、各ソヴェ トの要求に応える選択肢がありました。しかし、彼 は、それを拒絶し、要求行動にたいして全面武力鎮 圧・大量殺人という選択肢を採りました。 ただ、武力鎮圧後も、農民にたいして「軍事=割 当徴発」を続ければ、その「悪政」によってすでに 農業経営が破綻した極限状態を原因として、政権が 崩壊してしまう危険が明らかでした。「軍事=割当 徴発」路線を廃止し、10%の現物税、禁止してい た自由商業承認などを内容とする「ネップ=新経済 政策」は、たしかに正しい農民・農業政策でした。 しかし、それは、レーニンが、政権転落を避けるた めの『一時的後退戦術』として、3年前からエスエ ルが提案していた政策を、“そっくりそのまま”“ やむをえず”採用したもの、というのが真相です。 従来の「レーニン神話」説では、これらの背景・ 前後経過をすべて捨象して、「ネップ」路線採用を “レーニンの偉大な業績”として、レーニン讃美を する内容になっています。その「レーニン神話」説 は、歴史の真実なのでしょうか。「ネップ」発令3 カ月後の1921年6月、「反乱農民にたいする『 裁判なし射殺指令』」に基づき、数万人の「反乱」 レッテル農民・エスエル党員大虐殺が、5万人の赤 軍とチェーカーとによって、ソ連全土で展開されま した。さらに、1922年の「2大粛清事件」は、 1921年3月「ネップ」発令後に、レーニンが直 接指令・督促して、大々的に行ったものです。その 「農民裁判なし射殺・聖職者全員銃殺・知識人追放 の3連続大量殺人・“肉体的排除”」指令と「ネッ プ」との関係をどう見るべきでしょうか。レーニン が、「ネップ」によって、各ソヴェトの要求をのむ という路線に全面転換をする戦略など採用していな いことは明白です。レーニンは、1924年1月死 去まで、文字通り『一党独裁権力を維持・強化する ことだけを目的とした絶対的権力者』として“絶対 的に腐敗”していったのです。 もっとも、ここには、革命権力の国家システムの あり方に関する“永遠のテーマ”が潜んでいます。 それは、まったく新しい型の地方分権ソヴェト形式 政治制度のままで、統一国家が維持できるのか、そ れとも、いかなる革命も、内外情勢の圧力によって 、権力奪取後は、中央集権国家機構にならざるをえ ないのか、という問題です。それらの両極端は、現 実の国家システムとして、存在できません。となる と、両者の「政略的妥協ライン」を、どちら側に傾 けて設定するかという「統治と被統治」関係の綱引 きになります。『レーニンのしたこと』は、プロレ タリアート独裁型=実態は一党独裁型中央集権制国 家機構を強化していくものでした。レーニンは、「 暴力革命権力が、自らの国家を死滅させることがで きる」とする『国家と革命』という題名の“革命ユ ートピア小説”を書きました。しかし、その作者の 「現存した社会主義国家」は、権力中枢部において 、秘密政治警察と赤軍という暴力装置が自己増殖・ 肥大化を続け、「死滅ではなく崩壊」しました。 『レーニンのしたこと』が、「革命」なのか、そ れとも、実は「反ソヴェトの反革命」だったのかと いう判定は、ツアーリ帝政打倒後、上記どちらの国 家システムを支持、正当とするかによって、正反対 になります。74年間で、レーニン式暴力依存型国 家システムは、数千万人のソ連国民の犠牲を伴って 崩壊しました。それは、彼の一党独裁・中央集権型 国家制度実験が失敗したことを証明しています。だ からといって、二月革命以降、各ソヴェト型地方分 権国家制度なら成功したかといえば、それも「歴史 のIf」となり、即断できません。従来の「レーニ ン神話」から言えば、当時の状況、内外情勢から見 ると、あの選択しかなかった、ということになるで しょう。この私(宮地)のファイル、および、(関連 ファイル)は、それでも、別の選択肢があったし、当 時においてもそちらを採りえたとする「選択肢的歴 史分析方法」によるものです。 レーニン(ウラジミール=イリイッチ=) (1870〜1924)世界初の社会主義国家をた てた,ロシア革命*の指導者。▽学生時代から革命 運動に参加してシベリアへ流刑され,その後も国外 への亡命をくりかえした。1917年の三月革命後 帰国,ボルシェビキをひきいて武力で臨時政府をた おし,ソビエト政権を誕生させ(十一月革命),そ の首班となった。対ソ干渉戦争とたたかい,新経済 政策(ネップ)で経済的な基礎をかためるとともに ,国際革命運動を指導した。