川端康成


川端康成チャート

川端康成の出生データ(1899年6月14日21:00大阪府大阪市)が2チャンネルにあるため、このデータが正しいかどうかを検証してみた。


種々検討した結果、ラグナはこの出生情報で作成した射手座ラグナで正しいようである。

この出生時間でチャートを作成すると、ラグナが射手座のウッタラアシャダーになり、ラグナロードの木星が11室(評価、称号)に在住して5室(創作)にアスペクトしている。




・強い11室

このラグナロードが11室に在住している配置は、世間から高い評価を受けて、受賞や称号を得る人の典型的な配置である。

月から見てもラグナロードが11室に在住し、11室支配で自室に在住する強い水星と接合している。

従って、1室と11室の絡みが生じている。

ラグナロードが11室に絡んでいる配置は、その人の人生の基本的な活動領域が11室であることを表している。

川端康成は、1924年10月の25歳の頃に同人雑誌『文藝時代』を創刊したが、その後も多くの文人仲間と交流し、そして多くの新人を発掘して世に出した人物としても知られている。

従って、文士のサークルで指導的立場を担い、そうしたサークルを運営する立場にあったということができる。

こうした多くの同業仲間に恵まれているというのも11室が強い人物の特徴である。




・ノーベル賞の受賞

川端康成は、『雪国』や『伊豆の踊子』などの代表作で知られているが、1968年10月17日、 「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」(wikipedia)という理由で、ノーベル文学賞を受賞した。

このノーベル文学賞を受賞した時のダシャーは、木星/水星期である。

上述したように木星はラグナから11室に在住しており、水星は月から11室の支配星で11室に在住している。

これらの11室に絡む惑星のマハダシャー、アンタルダシャーの時期にノーベル文学賞を受賞したのである。


また木星/水星期は、ナヴァムシャにおいてもその強さが顕著に表れている。

川端康成D9チャート

木星は1、4室支配でラグナに在住して、パンチャマハープルシャ・ハンサヨーガを形成し、水星は10室支配で、9室支配の太陽と11室に在住し、ダルマカルマラージャヨーガを受賞、称号の11室で形成している。

これは社会に貢献する大きな影響力のある仕事をして、それが高く評価される配置である。

因みに太陽は減衰しているが、ディスポジターの金星は月からみてトリコーナに在住している。減衰する惑星のディスポジターがラグナや月からみてケンドラに在住していたらニーチャバンガであるが、トリコーナに在住してもニーチャバンガであると主張している人もいるため、要チェックである。

月からみても木星は10室支配で7室でハンサヨーガを形成し、水星は1、4室支配で5室で3室支配の太陽と接合し、11室にアスペクトしている。

5室(創作)と3室(文筆)の絡みは作家や文筆家の絡みである。

月から見た場合、太陽は3室支配で減衰しているため、パラシャラの例外則(特別な法則)が働き、ラージャヨーガ的に機能している。


更にダシャムシャを見ると、木星と水星は異常な強さを発揮している。

川端康成D10チャート

木星は4、7室支配で4室で、ハンサヨーガを形成し、水星は1、10室支配で10室でバドラヨーガを形成している。

そして、木星と水星は相互にアスペクトして、1−4、1−7、1−10のラージャヨーガを形成している。

また月から見た場合に木星は5室支配で水星は11室の支配星であり、5室と11室でダナヨーガを形成している。

創作(5室)が高く評価(11室)を受ける配置である。また水星は11室支配で8室で自室に在住しているため、権威ある機関(11室)からの贈与、不労所得(8室)を表している。

従って、木星/水星期にノーベル文学賞を受賞したことが説明できる。


因みに川端康成のチャートを作成した直後にこのチャートが直感的に作家のチャートであると理解するのは困難であった。

知識の表示体である木星、知性の表示体である水星、また文筆の表示体である水星が強いだけでは、作家であると断定できない。

何故なら、水星が強い配置は、税理士とか公認会計士などにも多い配置であり、また木星はオールラウンドに博識であることを表しているため、どのような学問分野においても応用可能である。

従って、作家にとって大事なことは創作の5室や文筆の3室が強いかどうかである。

それらの支配星が強く、それらのハウスへの在住星なども強く、またそれは生来的凶星ではなく、生来的吉星である必要がある。

生来的凶星が絡めば理系とか技術系の才能に流れてしまうからである。

従って、文学の研究(文芸批評)や創作に関しては、木星、水星、金星、月と3室や5室の絡みなどが重要である。

川端康成チャート

川端康成の場合、5室(創作)支配の火星が9室に在住して、月と接合し、3室にアスペクトバックしている配置も作家としての活動において重要な配置である。

水星と木星のそれぞれの位置関係も重要であり、木星から見ると水星は9室支配で文筆の3室にアスペクトしている。

また水星から見ると木星は10室支配で文筆の3室に在住している。

また月から見ると、木星は5室支配で3室に在住している。

更に太陽から見ても木星は10室支配で文筆の3室に在住し、文筆の表示体である水星から見ても9室支配の水星が文筆の3室にアスペクトしている。

従って、ラグナ、月、太陽、水星から見て、3室の強さが何重にも表れている。

これらのハウスに9室や5室などのトリコーナが絡むため、才能や前世の徳、奉仕の潜在力などが、創作(5室:3室から3室目のハウス)や文筆(3室)の分野で働くということである。


川端康成の場合、3室や5室への在住星というものが強調されておらず、強い11室の支配星の5室へのアスペクトという形で表れている。

従って、一瞥による評価では、それらの絡みを全部網羅できない場合も出てくる。

強い吉星が11室から5室にアスペクトする配置の中で創作の才能が表れていると考えることができる。

これはよく受賞する人のチャートではそのようになっている。

例えば、北野武のチャートもそうである。

北野武のチャートでは11室から木星、月、金星が5室にアスペクトしている。

従って、創作の5室が強調されている。映画監督として、イタリアやフランスで高い評価を得ているのはそのためである。




・結婚



因みに川端康成のチャートが正しいかどうかは結婚したタイミングなどによっても検証した。


川端康成が、川端秀子夫人(松林秀子)と出会ったのが、1925年5月で、太陽/水星期である。

太陽は9室支配で7室(パートナー)に在住し、水星は7室支配で7室に在住している。

この時、木星は1室射手座をトランジットし、土星は11室天秤座で逆行して、1室、5室、7室にダブルトランジットを形成している。

チャラダシャーは、乙女座/牡牛座であり、乙女座にはDKがアスペクトし、牡牛座にはDKNがアスペクトしている。


正式な結婚をしたのは、1931年12月2日である。

ヴィムショッタリダシャーは、月/土星期で、月は8室の支配星で、土星は2室の支配星である。

2室も8室も結婚生活のハウスである。

この時、木星は8室をトランジットし、土星は1室をトランジットしていたが、1か月後、土星は2室の山羊座に入室するため、既にこの時点で、山羊座入室の効果が生じていたと考えられる。

従って、2室、8室、4室にダブルトランジットが生じている。


チャラダシャーは、蟹座/魚座で、蟹座はラグナからみた8室で、魚座にはDKがアスペクトしている。

また魚座からみた8室にDKNが在住している。




・国際的な名声の高まり



川端康成がその知名度を国際的に広げていくのは、マハダシャーラーフ期からである。

ラーフ/木星期に『雪国』の執筆が完成し、そして、作品が海外に翻訳されて紹介されていった。

この時期がラーフ期であるのは、ラーフは外国を表す表示体だからである。

またラーフ期はラーフのディスポジターが結果を与えるため、木星の配置を見る必要がある。

木星は、1、4室支配で11室(高い評価、称号、受賞)に在住しているため、ラーフ期から高い評価を受け始めたのである。

またマハダシャーロードのラーフをラグナとしても、木星は1、4室支配で、11室に在住している。


またラーフ/金星期に体調を壊しているのは、金星が6、11室支配の機能的凶星で、マラカの土星からアスペクトされるマラカだからである。

これはこのマラカの金星は次で説明する自殺にもつながってくる原因ともなっている。


そして、ラーフ期が終わって、木星期になると、木星は、1、4室支配で11室に在住しているため、木星期には、やはりノーベル賞の受賞という最高の称号を与えられることになった。

この流れの中には、ディスポジターのつながりと思われるものも確認できる。

例えば、ラーフはディスポジターの木星がその結果を与えるが、木星期になった時には、そのディスポジターのマラカの金星が、自殺を準備したのである。

11室の天秤座に在住する木星は、ディスポジターの金星が、6、11室支配の機能的凶星で、マラカでもあり、更にマラカの土星からアスペクトされていることによって傷ついていたことが分かる。


・自殺


川端康成はノーベル賞を受賞した後の1971年4月16日に逗子マリーナ本館の部屋でガス管を咥え絶命しているところを発見された。

その突然の死は国内外に衝撃を与えたという。

川端康成チャート

この時、ヴィムショッタリダシャーは、木星/金星期である。

射手座ラグナにとって、 金星は6、11室支配の強力な機能的凶星であり、また死を誘発するマラカである。

またそのマラカの金星に2、3室支配のマラカの土星が12室からアスペクトしている。


川端康成は、この木星/金星期になって、明らかにその後の死につながっていくような不吉な経過を辿っている。


1970年6月、川端康成は、中華民国の台北でのアジア作家会議に出席して講演を行ない、続いて、韓国の京城での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なったが、この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正熙の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会している。

つまり、同僚の文士たちがペンクラブを退会するという批判的表明に遭遇している。

そして、11月5日からそれ以前に知り合っていた鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来たが、その話が穂高町に広まった時、縫子に関し、「生みの親も知らぬ孤児」、「養家は部落の家系」などという110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んでいる。

つまり、川端家が迎えたお手伝いの所に中傷の投書が殺到し、川端康成を大変困惑させている。

これは川端康成への批判のように体験されたことが推察される。

そして、11月25日には、自分が親しくして育て、また頼りにもしていた三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。

川端康成と三島由紀夫とは実は深い関係がある。

例えば、川端康成は、三島由紀夫の作品の機会を与え、三島由紀夫が世に出るきっかけを与えた。

三島由紀夫は、川端康成の紹介で文壇に登場し、「盗賊」を出版したときに川端康成から序文を書いて貰ったが、この序文を保管しておく封筒に、「川端康成氏から賜はりたる序文」と律儀に記して大切に保管してあったそうである。

そして、川端康成のことをあえて先生とは呼ばなかったが、「川端さん」と呼び、一定の敬意を表していた。

川端康成と三島由紀夫

相性を確認すると、川端康成の9室獅子座には5室支配の火星と8室支配の月が在住していたが、ノーベル賞を受賞した時、川端康成は、報道陣のインタビューに対して『三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです』(wikipedia)と謙遜して答えている。

川端康成のチャートから見ると、三島由紀夫のラグナや月は師匠の9室に在住しており、また8室支配の月も在住していることから、深いカルマ的関係を表し、自分が頼りにし、依存しなければならなかった相手である。

例えば、川端康成は、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼している。

そして、三島由紀夫にとっては川端康成は、自分を文壇に出してくれた恩人であるが、一方で、川端康成の射手座ラグナは、三島由紀夫の5室に在住する木星、水星、金星の表示体でもあり、あたかも自分の先輩である川端康成を自分の弟子のように感じたかもしれない。

従って、三島由紀夫はあえて、川端康成を先生と呼ばずに「川端さん」と呼んだのは、そのような理由からである。

自分を川端康成と対等かそれ以上に意識していたことを示している。


実際、川端康成と三島由紀夫のエピソードは、wikipedia 三島由紀夫には以下のように記されている。

川端康成との出会い

戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一、林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。

戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪問した。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。

三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の『花ざかりの森』や『中世』にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。

同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と、「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し没となった。がっかりした三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。

一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、以後、川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりが形づくられた。三島は、川端を「先生」とは呼ばず、一人の尊敬する近しい人間として、あえて「川端さん」と呼んだ。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生の三島を助けた。

臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。

しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。

ある日、木村徳三は、三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を、好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。

同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に、清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。

戦後彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。

敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスにより講談社の『群像』に持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。

当時の三島は両親と同居はしていたものの、親から生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかどうかを模索するためのものだったと見られている。

川端と出会ったことで、三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生れる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。

(wikipedia 三島由紀夫より引用抜粋)

従って、川端康成と三島由紀夫は、切っても切れない縁があることが分かる。

その弟子でもあり、師匠でもあった三島由紀夫が、割腹自殺をしたことは、川端康成に衝撃を与えたに違いないのである。

また川端康成の出生図を見ると、8室支配の月は9室で、5室支配の火星と接合し、マラカの土星からアスペクトされている。

月は、ケーマドルマヨーガであり、また凶星から激しく傷つけられており、 この親しかった三島由紀夫の死は川端康成に現世に対する厭離を呼び起こしたに違いないのである。

1971年の年末にかけて、川端康成は、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害している。

この肉体の健康を害したことは明らかに気力を弱め、厭離を強化したに違いないのである。

そして、wikipediaによれば、孫の秋成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたそうである。

そして、1971年3月7日に川端は、急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院している。

3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わり、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。(wikipedia)

4月12日に歌人・書家の吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけている。

この文壇仲間の長男のガス自殺が、川端康成のガス自殺という手段を誘発したことが推測されるのである。


そして、この直後の4月16日に川端康成の自殺の状況は以下のように記されている。

4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。

2時頃、川端と秀子夫人は、お手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は、「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った。

2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。

夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。川端はマンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。川端の死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。

洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。

枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。


この川端康成が、自殺に至るまでに経験した主観的、客観的状況は、明らかに前兆学的に不吉な出来事の連鎖として現れている。

現象的にはお互いに全く関係していないように見えながら、6室、11室支配でマラカの土星からアスペクトされるマラカの金星期として、前兆学的に同じ原因を持ち、一連の出来事によって、川端康成が、徐々に自殺を決意するにまで導いたのである。

その木星/金星期の細かいエピソードの一つ一つを辿っていくと、それが克明に浮かび上がるのである。



・川端康成の作風について


因みに川端康成の作風について検討してみたいが、wikipediaには以下のように記されている。

西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。

その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。


ノーベル文学賞の審査対象となった『雪国』は、温泉町の駒子という芸者の女性の愛情や怒りや嫉妬、喜び、悲しみといったひたむきな姿を主人公の知性(見る力)が克明に把握し、映し出すのである。

女性は真剣に生に没入し、感情を正直に露わに示す純粋な存在である。然し、一方で、男の方は生に没入せず、自らの感情は恐ろしく静まって制御されている存在で、女性の真剣な生からは感情的に距離を置き、ただ知性のみが遠くから女性を見つめている。

この主人公の知性は、明らかに定座で強い水星の持つ知的な客観性である。

そして、その水星にケートゥが接合することによって、女性とのやり取りにおける微細な変化を敏感にとらえながら、それを克明に記録していくのである。

これは明らかに強い水星が持つ見る力である。

また双子座の水星は決して感情におぼれない。

双子座は生に没入することが出来ないのである。

だから、双子座は恋愛が出来ない星座である。

例えば、ウォーレン・バフェットは5室支配の木星が8室双子座に在住している。

双子座は投資家の星座である。

そして、投資家が行うことは特定の企業に投資しつつも、それに完全に感情的に没入しないで距離を置き、別の企業にも投資を行う。

双子座の得意とするものは計算と両建てである。

従って、盲目に我を忘れて愛することが出来ない。

愛情や感情と一体となって、一つの対象に没入できない。

従って、生や現実に対して距離を置き、自らは非常に情緒的には離れた距離から相手のことを鋭敏な知性によって見続けるのである。

その見る力は研ぎ澄まされている。

ウォーレン・バフェットは、1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、「婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈った」というが、非常にグロテスクである。

婚約時に総資産の6%の価値の婚約指輪を贈ろうと考えている知性などはあまりにも冷静過ぎるのである。

それは計算であり、ポートフォリオである。

そこには対象への感情的没入はなく、パートナーへの魚座的な盲目的な理想化や崇拝、賛美などはない。つまり恋愛はしないということである。

このような知性が双子座の水星の知性である。

※因みに魚座が恋愛感情とか男女の恋愛という理想主義をこの世界にもたらした星座である。

つまり、魚座では水星が減衰する訳であるが、あまりにも水星が強い場合、対象と分離する客観的な知性が生じるのである。

その知性の見る力は強すぎて対象への盲目的な没入といったことは起こらない。

福田和也という評論家が、『雪国』のことを「ヨーロッパの世紀末文学の理想、ボードレールやワイルド、リラダンが求めて果たさなかったデカダンの理想を実現してしまった作品」と批評したようだが、
デカダンス(※既成のキリスト教的価値観に懐疑的、退廃的な芸術至上主義)というものは、このような強い水星の見る力によって生じるのである。

この強い水星が盲目的なキリスト教的な道徳を超越し、現世のはかなさや、存在の意味の無さという見解に到達し、但し、鋭敏な知性が、この世の変化する諸相を正確に記録していくのである。

強い水星は現世の自然や人間の諸相をとらえて、その美を明らかにするのである。


私はこの『雪国』に見られる川端文学の生の諸相を鏡のように映し出すこの作風は、ケートゥと接合する強い双子座の水星がもたらしたものであると分かったのである。

そして、川端康成の場合、月がケーマドゥルマヨーガで土星と火星によって傷つけられて、現世への深い厭離が生じていることも影響していると考えられる。

この配置があるために現世の対象に対する没入はますます希薄になっていくのである。

川端康成は、あたかも現世に全く執着のないヨガ行者がサマーディーの中で、現世での人間たちの様々な諸相を見るかのような感覚なのである。

然し、例えば、ニーチェの場合は、水星が高揚していて強いので、やはり、哲学的に追求していった結果、キリスト教の道徳の否定や現世のはかなさといった仏教的な思想に行きつくのである。

然し、ニーチェは5室に木星が定座で在住しており、この強い木星がキリスト教に変わる新しい超人の思想を生み出したようである。

通常は水星だけが強い人は、デカダンスに陥る人が多いのである。

例えば、日本で言えば、宮台真司などがそうではないかと思われる。

川端康成はこのように東洋のヨガ行者のような厭離を持っていたがために日本人の死生観や美意識を世界に紹介することが出来たのである。

 

因みに私が今回、非常に興味深く思ったのが、私自身の水星も双子座に在住しており、ケートゥが接合している。

従って、この川端康成の鏡のような冷静な知性のことがよく理解できるのである。

それは例えば占星術のコンサルテーションの際などに発揮されるのだが、その60分かそこらの短い時間の中でも、クライアントとの間の真剣なやり取りが展開され、クライアントには過去の経験の追体験による喜び、怒り、不安、希望、期待など様々な感情的な諸相が生じてくる。

その中で、それらの感情的な諸相を克明に記録し、冷静に見ているのが、カウンセラーであり、また占星術師である。

そして、クライアントとの間にある一定の距離を保ち、決して、クライアントに感情的に没入することはない。

然し、それは決して冷酷な訳でもない。それはただクライアントの諸相を写し返す純粋な鏡なのである。

従って、私は川端康成の『雪国』の主人公である島村は、あたかもクライアントの心の動きなどを克明に把握して記録する精神分析医のように感じたのである。

主人公である島村の退廃ぶりというのは目立つのであるが、然し、それは強い現世への厭離から生じているのである。

それを生み出したのは、完全に川端康成のケーマドゥルマヨーガと月の傷つき、そして、水星のケートゥとの絡みである。

然し、自然の美を発見するには、このような知性が必要なのである。

 

 

西暦 年月 出来事 ヴィムショッタリダシャー チャラダシャー トランジット
1899年 6月14日 大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生。4歳上には姉・芳子がいた。 ケートゥ/土星  
1921年 11月8日 川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、カフェ・パリや浅草のカフェ・アメリカの女給をする。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大美人」がいると噂されるほどになり、「赤いコール天の足袋をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと今日出海は述懐している。


〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・パリ、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった。初代はカフェ・アメリカの支配人の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や掌の小説などに描かれることになる。

太陽/月    
1922年 1月 「創作月評」を『時事新報』に発表し、川端は先ず文芸批評家として文壇に登場した。2月には月評「今月の創作界」を載せ、翌年まで度々作品批評を書いた。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる。 太陽/月    
1924年 3月 東京帝国大学国文学科を卒業。 太陽/木星    
  10月 横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった。 太陽/土星    
1925年 5月 5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(菅虎雄の息子。雑誌『オール讀物』の編集長)の家(新宿区市ヶ谷左内町26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に逗子の海に誘った。 太陽/水星 乙女座/牡牛座 木星:射手座
土星:天秤座逆行
ラーフ:蟹座
ケートゥ:山羊座
DT:1室、7室、5室
1926年 4月 1926年1月と2月に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は麻布区宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、喘息で胸を悪くした菅忠雄が静養のために鎌倉郡鎌倉町(現・鎌倉市)由比ヶ浜へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)。 太陽/ケートゥ  
1927年 12月 家賃は月120円と高かったが、海も見え内湯もある熱海小沢の島尾子爵の別荘を借りて移り住んだ。

林房雄によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている。この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった。
月/月    
1928年 1月3日 熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた。川端は当初、襖を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した。 月/月    
  5月 3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため、5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)。馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎、宇野千代、子母沢寛、萩原朔太郎、室生犀星、岡田三郎のほか、川端龍子、小林古径、伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという。 月/火星    
  妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した。 月/火星    
1929年 9月17日 浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した。この頃から何種類もの多くの小鳥や犬を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。
月/ラーフ
   
1931年 12月2日 松林秀子と入籍 月/土星 蟹座/魚座 木星:蟹座
土星:射手座
(1か月後、山羊座)

ラーフ:魚座
ケートゥ:乙女座
DT:2室、4室、8室
1937年 5月 1937年5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人・蒲原有明)。 月/太陽  
  6月 6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。 火星/火星  
1938年 4月 『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。 火星/ラーフ    
1943年 4月 「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞した。 火星/金星    
1946年 1月 木村徳三を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『人間』を創刊した。同月27日に大学生の三島由紀夫の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『中世』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが、それ以前の学習院時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『花ざかりの森』にも注目し才能を見出していた。 ラーフ/ラーフ    
1947年 10月 『雪国』完成 ラーフ/木星    
1949年 1月〜5月 1949年1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『千羽鶴』の各章の断続的発表が各誌で開始された。 ラーフ/木星
   
  9月 9月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた。同月、イタリアのベニスでの国際ペンクラブ第21回大会に寄せて、日本会長として、〈平和は国境線にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、朝鮮動乱直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。 ラーフ/土星    
  11月 この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した。 ラーフ/土星    
1950年 2月 養女・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。 ラーフ/土星    
1955年 1月

「ある人に生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。

ラーフ/ケートゥ    
1956年 1月 『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている。 ラーフ/金星    
1957年 3月22日 松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアック、エリオット、シローネらと会った。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。 ラーフ/金星    
  9月2日 9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った。 ラーフ/金星    
1958年 2月〜6月 1958年2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄県に赴いた。 ラーフ/金星    
  8月〜11月 体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した。翌1959年4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツのフランクフルトでの第30回国際ペンクラブ大会に出席した。7月に、同市から文化功労者としてゲーテ・メダル(ドイツ語版)を贈られた。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった。 ラーフ/金星    
1960年 1月 「眠れる美女」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「魔界」をより明確に展開させたものとして、以前の『みづうみ』や、その後の『片腕』の世界観に繋がり、老年にしてなお新しい創造に向かう芸術家としての川端の精進の姿勢がうかがわれるものとなった。 ラーフ/月    
  5月 5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にはブラジルのサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――ニューヨークで」を『朝日新聞』に発表した。この年、フランス政府からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られた。 ラーフ/月    
1961年 1月〜11月 執筆取材のため数度、京都に旅行し、左京区下鴨泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「美しさと哀しみと」を『婦人公論』に連載開始する。 ラーフ/月    
    5月には、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼した。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に双子の姉妹の数奇な運命を描いた「古都」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統林業の北山杉が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に睡眠薬を常用することが多かった。11月には第21回文化勲章を受章した。 ラーフ/火星    
1962年 2月 睡眠薬の禁断症状により、2月に東大冲中内科に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという。入院中に、東山魁夷から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた。 ラーフ/火星    
  10月 10月には、世界平和アピール七人委員会に参加し、湯川秀樹、茅誠司らとベトナム戦争でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回毎日出版文化賞を受賞した。同月には、掌の小説「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。 木星/木星    
1963年 4月 財団法人日本近代文学館が発足し、監事に就任した。さらに、近代文学博物館委員長となった。5月1日には、大ファンであった吉永小百合主演の『伊豆の踊子』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという。川端はその後、吉永の20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「片腕」を『新潮』に連載開始した。 木星/木星    
1966年 1月〜3月 1966年1月から3月まで肝臓炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・高田博厚)が贈られた。 木星/土星    
1967年 2月28日 1967年2月28日、三島由紀夫、安部公房、石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命は学問芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。 木星/水星    
  4月 日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。 木星/水星    
  5月 随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。 木星/水星    
  7月 養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという。 木星/水星    
  8月 日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。 木星/水星    
  12月 政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した。 木星/水星  
1968年 2月 「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。 木星/水星    
  6月 6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。 木星/水星    
  10月17日 10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アムルクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」であった。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)。1964年まで毎年候補者となっていたことが、2015年時点の情報開示で判明されている。川端は報道陣のインタビューに、〈運がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた。


翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビ、NHKラジオで放送された。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという。
木星/水星    
  11月8日 11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「鈴」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している。 木星/水星    
1969年 1月27日 国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪、福岡、名古屋でも開催)。
木星/水星    
  6月〜11月 6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった。 木星/ケートゥ    
1970年 5月 1970年5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖、東山魁夷と共にその地を訪れ、国道糸魚川線(旧糸魚川街道)の脇にある植木屋の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った。植木屋は川端家に盆栽を贈り、それを縫子が車で配達していた。 木星/金星    
  6月 6月には、中華民国の台北でのアジア作家会議に出席して講演を行なった。続いて、京城(韓国のソウル。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正熙の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。 木星/金星    
  11月 11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た。その話が穂高町に広まった時、縫子に関し、「生みの親も知らぬ孤児」、「養家は部落の家系」などという110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ。同月25日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。細川護立の葬儀のため上京中だった川端はすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった。 木星/金星    
1971年 1月〜12月 1971年1月24日、築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交正常化の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・秋成(男児)が誕生した。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲『隅田川』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している。同月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。孫の秋成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたという。 木星/金星    
1971年 1月〜4月

1972年1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵、飛鳥田一雄、山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市を保田与重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和の国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた。

4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人は、お手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は、「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。川端はマンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。川端の死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。

木星/金星    
wikipedia 川端康成 より引用抜粋、一部編集